萩原朔太郎詩集 遺珠 小學館刊 散文詩 鼠と病人の巢
鼠と病人の巢 密 房 通 信
しだいに春がなやましくなり、病人の息づかひが苦しくなり、そうしてこの密房の天井はいちめんに鼠の巢となつてしまつた。
鼠、巢をかけ、鼠、巢をかけ。
うすぐらい天井の裏には、あの灰色の家鼠がいつぱいになつて巢をかけてしまつた。
巢がかかる、巢がかかる、ああ、天井板をはがして見れば、どこもかしこも鼠の巢にてべたいちめんである。
みよ、ひねもす、この重たい密房の扉から、私の靑白い病氣の肉體が、影のやうに出入し、幽靈のやうに消滅する。
祈りをあげ、祈りをあげ、さくらはな咲けども終日いのりて出でず。
ときに私の心靈のうへを、血まみれになつた生物の尻尾が、かすめて行く。それだけをみとめる。しんに奇蹟とは一刹那の光である。
いよいよ微かになり、いよいよ細くなり、いよいよ鋭くなり、いよいよ哀しみふかくなりゆくものを、いまこそ私はしんじつ接吻する。指にふれ得ずして、指さきの纎毛に觸れうるものの感覺に、私の心靈は光をとぎ、私のせんちめんたるは錐のごとくなる。
ああ、しかし、いまは一本のかみの毛にさへ、全身の重量をささえうることの出來るまでに、あはれな病人の身體は憔悴してしまつた。
私はいまそれを知らない。
何故にこの部屋の天井が、いちめんにねずみの巢となつたかを知らない。
ただ、私は私の左の手の食指から、絹絲のやうなものが、いつもたれさがつて居るのをいつしんふらんにみつめて居る。
いちにち、瓦斯すとほぶの火は靑ざめて燃えあがり、密房の壁には、しだいしだいに怖ろしいものの形容を加へてくる。
今こそ、私は祈らねばならぬ。
齒をくひしめ、くちびるを紫にしていのらねばならぬ。
ああ、ねずみ巢をかけ。密房の家根裏はまつくらになつてしまつた。
私の病氣はますます靑くなり。おとろへ。
海のあなたを夢みるやうに、うらうら櫻の花が咲きそめ。
[やぶちゃん注:太字は底本では傍点「ヽ」。歴史的仮名遣の誤りはママ。本書「詩作品發表年譜」及び筑摩版全集の「拾遺詩篇」にある通り、本篇は大正四(一九一五)年五月発行の『卓上噴水』に発表された詩篇であるが、初出とは五点の表記上の問題がある。
・第二連冒頭の一行目「巢をかけ、」は読点ではなく、句点であること。
・第二連冒頭の三行目にある「べた」にある傍点「ヽ」がないこと。
・底本では「私はいまそれを知らない。」で始まる第六連が、「219」ページへの改ページになっているが、右の版組み上の空きは、物理的に一行分を空けていないと思われること(これは次の空行脱落と考え合わせると、ページ数を節約するために、小学館編者が不当にも詰めた可能性が濃厚である。但し、ここの箇所は改ページであり、それで読者の多くはブレイクが起こって一行空けと同じ効果は示したとは思うが。こうした不当な仕儀は嘗ての多くの出版物でしばしば行われた、哀しく、さもしい仕儀である(或いは現在でも))。
・独立している最終連(「ああ、ねずみ巢をかけ。密房の家根裏はまつくらになつてしまつた。」以下の三行)が連とならず、第六連に続いてしまっていること。
・末尾にあるべき「―四月三日―」のクレジットがないこと。まあ、これは編集上の確信犯ではあろうが。
である。一見、大した違い(詩想上での)ではないと思われるかも知れぬが、これはやはり正当な正規詩篇とは、到底、言えない。煩を厭わず、以下に示す。太字は底本では傍点「ヽ」。表記字や歴史的仮名遣の誤りは総てママ。
*
鼠と病人の巢
密房通信
しだいに春がなやましくなり、病人の息づかひが苦しくなり、そうしてこの密房の天井はいちめんに鼠の巢となつてしまつた。
鼠、巢をかけ。鼠、巢をかけ。
うすぐらい天井の裏には、あの灰色の家鼠がいつぱいになつて巢をかけてしまつた。
巢がかかる、巢がかかる、ああ、天井板をはがして見れば、どこもかしこも鼠の巢にてべたいちめんである。
みよ、ひねもす、この重たい密房の扉から、私の靑白い病氣の肉體が、影のやうに出入し、幽靈のやうに消滅する。
祈りをあげ、祈りをあげ、さくらはな咲けども終日いのりて出でず。
ときに私の心靈のうへを、血まみれになつた生物の尻尾が、かすめて行く。それだけをみとめる。しんに奇蹟とは一刹那の光である。
いよいよ微かになり、いよいよ細くなり、いよいよ鋭くなり、いよいよ哀しみふかくなりゆくものを、いまこそ私はしんじつ接吻する。指にふれ得ずして、指さきの纎毛に觸れうるものの感覺に、私の心靈は光をとぎ、私のせんちめんたるは錐のごとくなる。
ああ、しかし、いまは一本のかみの毛にさへ、全身の重量をささえうることの出來るまでに、あはれな病人の身體は憔悴してしまつた。
私はいまそれを知らない。
何故にこの部屋の天井が、いちめんにねずみの巢となつたかを知らない。
ただ、私は私の左の手の食指から、絹絲のやうなものが、いつもたれさがつて居るのをいつしんふらんにみつめて居る。
いちにち、瓦斯すとほぶの火は靑ざめて燃えあがり、密房の壁には、しだいしだいに怖ろしいものの形容を加へてくる。
今こそ、私は祈らねばならぬ。
齒をくひしめ、くちびるを紫にしていのらねばならぬ。
ああ、ねずみ巢をかけ。密房の家根裏はまつくらになつてしまつた。
私の病氣はますます靑くなり。おとろへ。
海のあなたを夢みるやうに、うらうら櫻の花が咲きそめ。
―四月三日―
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なお、筑摩版全集の『草稿詩篇「拾遺詩篇」』には、本篇の草稿(無題)が載るので、以下に示しておく。表記・誤字・脱字その他は同前である。
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○
むらさきふかくなりゆ
だんしだいに春がなやましくなり、病人の呼吸づかくがくるしくなり、そうして私のこの密房の天井はいちめんに鼠の巣となつてしまつた、
ああなんといふ重くるしい密房の扉だ、 朝の一時に 朝はやくそこから私が這入り、夜おそくそこから病人の私が出る、そうして
一つの長い祈禱が始まるあひだ、
ああひねもす、このおぐらき一室密房の扉より私の青い肉體は影のやうに出入し、幽靈のやうに消滅する、
祈るとき私の心靈の上にを、血まみれになつた生物の尻尾がかすめて行く、それだけであるを認める。しんに奇蹟とは一切刹の光である。
いよいよ徴かになり、いよいよ細くなり、いよいよ細くなり、いよいよ哀しみふかくなりゆくものを、いまこそ私をはしんじつ接吻する、指にふれえずして指先の纖毛にふれうるものを感覺に、私の心靈は光りをとぎ、私のせんちめんたるは錐のごとくなる、
ああ思ふしかし私自身いまは一本の髮の毛にでさへ、身體のその人の全重心を耐ささえることができるまでに哀れな病人の私五體は憔悴してしまつた、
私はいまそれを知らない
何故にこの部屋の天井がいちめんの鼠の巢となつたかを知らない
ただ私は私の指先左の手の食指から、絹糸のやうなものがいつもたれさがつて居るのを一心不亂に凝めて見る、
瓦斯ストーブの火は尙靑ざめるつつもえて居るあがり春密房の壁をにはしだいしだいに怖ろしいものゝ形容を加へてくる、
私は祈らねばならぬ
齒をくひしめ、くちびるをむらさきにして祈らねばならぬ、
今こそ……私のものある
しんに「力」は私自身のものである、
*
決定稿で比喩を頭敍式に変えた結果、本篇にホラー的イメージは格段に上がっている。但し、その好き嫌いは恐らく極めて個人的な趣味の問題と拘わり、一定量の相似対象を与えられると、そこで厭になる人間も多いであろう。幸いにして私はそうではなかったが。この年になって(六十四歳)こうした詩篇推敲の比較をすると、ふと、そんなことを考えたのであった。詩には読者の側の賞味期限があるということである。]
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