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2021/12/03

伽婢子卷之十一 七步虵の妖

 

[やぶちゃん注:挿絵は、今回は岩波文庫高田衛編・校注「江戸怪談集(中)」(一九八九年刊)の鮮明なものをトリミング補正して冒頭に挿入した。

 さて、「七步虵」の読みであるが、底本には「虵」に「じや」ルビするのみで、元禄版を見たところ、標題には「步虵」に「ぶじや」の読みが振られてあったのだが、その元禄版の最後の方では「ふじや」と振ってあった。「新日本古典文学大系」版でも「七」に振らず、「ふじや」とルビしてある。「ぶ」は、少なくとも本邦では、長さの短い単位を想起させてしまい、咬まれたら、七歩(しちほ)歩くうちに必ず死ぬ猛毒の蛇の意に、如何にも相応しくない。因みに、古典籍の版本や近代の出版物では、所謂、「総ルビ」を謳っていても、数字には読みを振らないのが常識である(知らなかった人が多いかと思うが、現代の出版物でも、その仕来たりは意外に生き残っている)。しかし「七」は実は厄介で、現代の有意に多くの人は「ひち」と発音し、実際に発音通り、「ひち」と表記する傾向が若い人に多い。しかし、「七」の音は「シチ」(呉音。漢音は「シツ」であるが、これは「七珍」(しっちん)や「七宝」(しっぽう)等で、使用例はそう多くない)であって、「ヒチ」ではない。則ち、「ひち」は「しち」の発音上の転訛であり、表記はあくまで「しち」である(若い人の中には意外に思う人がいるはずである)。

 されば、校合の結果でも、本篇では「《しち》ふじや」と振らざるを得なかったが、個人的には一貫して私は「しちほだ」と読みたい。

 さて、当該の蛇の正体だが、当該ウィキでは、愚かにも冒頭から、『浅井了意の怪異小説集』「伽婢子」『の中で、京都東山に出現したとされる奇怪な蛇の一種』などと、まことしやかに、了意のオリジナル妖蛇のように記しているが、大嘘である(因みに私はつい先日、ウィキペデイアの記者をやめた。それは、幾つかの記載で致命的な誤りをいくら指摘しても、それを原記者や他のウィキペデイアンが放置し続け、直そうともせず、それどころか、面倒になって誰かが私の指摘した誤りの部分をごっそり削除して知らんふりしているのを見出し、完全にキレたからである。永久に記者に戻ることは、ない。但し、まず正しいと判断されるものは向後も引用はする)

 まず、最も古い記載は多くの仏典であるが、「新日本古典文学大系」版脚注も引いているその中の一つである「阿毘達磨大毘婆沙論」(あびだつまだいびばしゃろん:全二百巻。五百大阿羅漢らの原作を玄奘が訳したもの)の「四十六」の一節を引くと(比喩部分)、

   *

如人爲七步蛇所螫。大種力故能行七歩。毒勢力故不至第八。

(人の、七步蛇(しちほだ)に螫(さ)されたるがごとし。大種力(だいしゆりき)の故(ゆゑ)、能く行くこと、七步せるも、毒の勢力の故、第八には至らず。)

   *

などである。因みに、私は「和漢三才圖會卷第五十二 蟲部 赤翅蜂」の注で、この「七歩蛇」を以下のように現存するモデル種としては「ヒャッポダ」(百歩蛇)に同定している(但し、以下に記す通り、本邦には棲息せず、毒自体は猛毒ではない)。「褰鼻蛇〔(けんびだ)〕」の注である。

   *

東洋文庫版では『白花蛇。中国南方山中にいる』と割注するが、これは有鱗目ヘビ亜目ナミヘビ上科クサリヘビ科マムシ亜科ヒャッポダ属ヒャッポダ Deinagkistrodon acutus のことである。「百歩蛇」でこれは、咬まれると百歩歩くうちに死ぬとされる伝説的な実在する毒蛇である(但し、後で引用するが、毒性そのものは強くはない)。ウィキの「ヒャッポダ」によれば、特に台湾で「百歩蛇」と呼ばれ、『日本名、英名もこれに準ずる。中国では』「白花蛇」「百花蛇」「五歩蛇」「七歩蛇」』(☜)『とも、また、その独特の頭部の形状から「尖吻蝮」(音なら「センフンフク」)とも呼ぶ。分布は『中国(南東部、海南島)、台湾、ベトナム』で全長は八〇~一二〇センチメートル、『ニホンマムシと同じく、全長に比して胴が太く体形は太短い。体色は濃褐色で、暗褐色の三角形に縁取られた明色の斑紋が入る。この斑紋は落ち葉の中では保護色になる。鱗には隆起(キール)が入る』。『頭部は三角形で吻端は尖り、上方に反り返っている。目は金色で細い縦長の瞳を持つ』。『毒自体の強さは高くないが、毒の量が多く』、咬まれた場合は危険である。『山地の森林に住み、特に水辺を好む。動きは緩怠』。『食性は動物食で、ネズミ、鳥類、カエル等を食べ』、『繁殖形態は卵生で』、一回で二十~三十個を産卵する。『数が少なく、蛇取りもなかなかお目に掛かることがないため、幻の蛇と呼ばれている』。

   *

ヒャッポダは個人的に面構えと模様が好きな蛇である。学名のグーグル画像検索をリンクさせておく。私は蛇好きである。練馬の大泉学園にいた幼稚園児の頃は、弁天池の周辺の水田で、友だちとアオダイショウを捕まえては、首に巻いて「僕の方が長い」などと競い合ったものだった。懐かしい遠い思い出だ……]

 

   ○七步虵(《しちほ》じや)の妖(えう)

 

Hitihoda

 

 京の東山の西の麓、岡崎より南の方、いにしへ、岡崎中納言の山庄(さんさう)あり。久しく荒れはてゝ、すむ人もなく、草のみ、生茂りて、茫々たる地なりけるを、浦井なにがし、此地を買ひ求めて、家を作る。

 或人、いふよう、

「此地は、本より、妖虵(えうじや)の怪しみ有りて、人、更に住む事、かなはず。」

といふ。

 浦井、是を信ぜず、家たち[やぶちゃん注:「家建ち」。新築。]、をはりければ、始《はじめ》て、移り入《いり》たりければ、虵(くちなは)の、三、四尺ばかりなる、五つ、六つ出《いで》て、天井の間に這ひめぐる。

 則ち、下部に仰せて、取り捨てんとするに、此へびども、鱗(うろこ)だち、頭(かしら)をそばだて、眼(まなこ)きらめきければ、僕共、すさまじく思ひて、退(しりぞ)く。

 浦井、大に怪しみて、杖をとり、突き落とし、桶に入て、賀茂川に流す。

 次の日、又、虵、十四、五、出たり。

 又、皆、取りすてければ、其の次の日は、三十あまり、出たり。

 取捨つるに隨ひて、益(ますます)、多く出《いで》て、後には、二、三百に及ぶ。

 其大さ、五、七尺あまり、白き、黑き、或は、靑(あお)き、斑なる、兩の耳、そばたち、口は紅(くれなゐ)の如く、間(まゝ)、又、足ある虵(へび)、其の形(かたち)、龍の如くなるもの、日每に倍々して、取れ共、捨れども、更に絕ゆる事、なし。

 浦井、不思議の事に思ひ、自(みづか)ら、香を焚き、幣(へい)を立てゝ、地祭(《ぢ》まつり)をいたす。

「某(それがし)、此の地を求め、金、若干(そこばく)兩を出して、買ひ得たり。是れより、此地は、某が、すむべき所なり。虵(へび)、何(なに)によりて障(さはり)をなし、恠(あや)しみを現はすや。凡《およそ》、地の神には、五帝龍王あり。其の司どる所、各(おのおの)、職、あり。如何でか、其の地に有りて、濫(みだ)りに、地の主《あるじ》を苦しましむる。龍王、物知る事あらば、此の虵(じや)の恠異(けい)を、はやく禳(はら)ひ給へ。然(しか)らずば、神職(しんしよく)の不敏(ふびん)[やぶちゃん注:「不憫」に同じ。]ならん。然らば、天帝の戒め、のがるゝに、道、あるべからず。」

と、書きて、讀み上げたり。

 其の夜、地の底に、物の騷ぐ音して、凄(すさ)まじき事、限りなし。

 夜あけて、みれば、草むら、悉く、一夜の程に枯れはてて、大なる石、ありて、碎け、傾ふきたり。

 家人等《けにんら》、怪しみて、靑草の枯れとまり、石の傾ふきたる所を、掘り返し、石を取り退(の)けしかば、長、四、五寸許の虵、はしり出《いで》て行く。

 其行く所の靑草、目の前に、枯れ焦(こが)るゝ。

 家人等、追ひ詰めて、打ち殺しければ、虵のたけ、僅かに四寸、色は紅(べに)の如く、兩の耳、四《よつ》の足、あり、鱗の間(あひだ)は金色(こんじき)にして、小龍の形に似たり。

 人に見するに、

「更にかゝる虵(へび)は聞及ばず。」

といふに、南禪寺の僧、來りて、曰はく、

「是れは『七步虵(《しち》ふじや)』と名づく。もし、人、是れにさゝるれば、其儘、死す。毒力(どくりき)、烈しくて、七(なな)足、步む。此事は佛經に見えたり。」

とぞ、語られける。

 是れより、後は、虵(へび)、再び來らず。

「案ずるに、多く沸き出たる虵共(へびども)は、是れ、『七步虵』の精(せい)なるべし。」と、いへり。

[やぶちゃん注:「岡崎」京都市左京区岡崎附近(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。「新日本古典文学大系」版脚注によれば、ここの『南側は東山区粟田口』に当たり(ここ)、『古来、貴族の別業地であった。』とある。

「岡崎中納言」「新日本古典文学大系」版脚注は『未詳』とするが、越後国国府(現在の新潟県上越市)に流罪になっていた親鸞に赦免状を齎した(但し、当時は既に出家しており、実際の赦免官は藤原光親であった)公卿藤原範光(仁平四(一一五四)年~建暦三(一二一三)年)は権中納言で「岡崎中納言」と呼ばれた。但し、本書の時代設定からは、平安末期から鎌倉初期の彼の山荘を云々言い出すのは、いささか不自然であるから、不詳でよかろうか。

「地祭(《ぢ》まつり)をいたす」彼は崇敬が薄いのか(以下の台詞で何より金のことを言い出している辺りはそれらしい現実主義者である)、地鎮祭を行わずに家を建てたのかも知れない。

「五帝龍王」ウィキの「龍王」によれば、本邦の陰陽道の書「簠簋内伝金烏玉兎集」(さんごくそうでんいんようかんかつほきないでんきんうぎょくとしゅう:かの安倍晴明が編纂したと伝承される占術の専門・実用書。実際は晴明死後の仮託作)の『巻二は、中国の盤古神話や仏教の教義を借りて、宇宙開闢の巨人神である盤牛王から十干十二支といった暦世界の構成要素が展開していくという創世神話を説いている』。『この中に五行神として登場するのが五帝五龍王で』盤牛王なる神が五人の『妻に』、『それぞれ』、『青帝青龍王、赤帝赤龍王、白帝白龍王、黒帝黒龍王、黄帝黄龍王を生ませ、その五帝五龍王の各々が十干・十二支といった王子をもうけたと物語っている』。『版本によっては黄帝黄龍王に異説』が『あり、それによると』、『盤牛王の』五『人目の子である天門玉女妃は』四十八『人の王子を生んだ後、男子に変じて黄帝黄龍王となり、王子たちとともに四龍王に戦いを挑んだ結果、四季土用の』七十二『日を領することになったという』とある。単にこの如何にも怪しげなそれを手軽に口に出しただけの話のようだ。「新日本古典文学大系」版脚注も以上と同じ内容を示しつつも、冒頭から『未詳』とする。

「南禪寺」岡崎の東直近。ここ。]

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