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2021/12/12

曲亭馬琴「兎園小説外集」第二 峨嵋山下橋 南無仏庵 / 「兎園小説外集」~了

 

   ○峨嵋山下橋

 

Kitainaryuboku

 

[やぶちゃん注:底本の国立国会図書館デジタルコレクションの「新燕石十種」第四よりトリミング補正した。キャプションは、右に(吉川弘文館随筆大成版では上部に右から左へ書かれており、これが原本としては正しいようである)、

長さ一丈二尺餘[やぶちゃん注:約三メートル六十四センチメートル。]

丸み四尺餘[やぶちゃん注:円周か。約一メートル二十二センチメートル。]

左に(吉川弘文館随筆大成版では下部に同前)、

木の根の方に倒

にほり有ㇾ之

とある。ちょっと意味が分からぬが、図からは、「木の根の方(かた)に」向って「倒」(さかしま)「に」、「ほり」(彫)込まれた文字列が、「之れ、有り。」の謂いであろうか。

図のその本体には、

峨嵋下※

と彫られており、「※」は(上に「木」+下に「喬」)で、「橋」の異体字であろう。しかし、さらによく図を見て戴きたい。実は左下方に異形の顔のようなものが「彫り」込まれているのである。前のキャプションのそれは、この顔のような彫り物を指していると採るのが自然なようだ。

 

文政十丁亥春三月、堀近江守殿領分、越後椎谷の磯へ、右の木、流來りしを、漁獵のもの、薪の用にせん爲に揚げ置しを、宿の大庄屋、右の文字の形の奇なるを見て、郡代豐島某へ、申出、夫より、豐島氏、信州高井郡六川村陣屋へ、人足にて運び來り、夫より、江戶、堀候の邸へ出せしよし也。

 外に書解あり。略ㇾ之。

    六月十二日 下野佐野  靑山百太郞所持

        佛庵老先生 格下

右、六川村陣屋に有ㇾ之候節摺せ候。

[やぶちゃん注:以下、底本では全体が一字下げ。]

解云、この摺本を見ておもふに、こは朝鮮人歟。さらずば、淸人の好事のものゝ、假山(つきやま)の下なる池邊などへ立し、榜示などにて、打水に、おしながされしものなるべし。さらねば、「峨嵋山下の橋」といふこと、あるベくも、あらずかし。

 

 

兎園小說外集第二

[やぶちゃん注:発表者の南仏庵は書家の中村仏庵(宝暦元(一七五一)年~天保五(一八三四)年)であろう。名は蓮・連。号に南無仏庵がある。参照した国文学研究資料館の「電子資料館」内の「蔵書印データベース」のこちらによれば、『身分は町人だったが』、『旗本格の待遇を受け、昌平坂学問所で学んだ。書に堪能で、特に梵字に才能を発揮し、仏教学の見識』で『広く知られていた。菊池五山・大窪詩仏など』、『当代一流の文人たちと交流があった。著書に』「崑岡炎余」・「仏庵雑記」・「梵天考証」『などがある』とある。

「文政十丁亥」一八二七年。

「越後椎谷の磯」現在の新潟県柏崎市椎谷(しいや:グーグル・マップ・データ。以下同じ)。越後椎谷藩が陣屋を構え、周辺を領有していた。当時は第十一代藩主堀近江守直哉(なおちか 寛政一〇(一七九八)年~文政一三(一八三〇)年)の治世。元は肥前唐津藩主水野忠光の五男で、かの水野忠邦は異母兄である。

「薪」「たきぎ」と訓じておく。後掲する「北越雪譜」を参照。

「信州高井郡六川村陣屋」「六川」は「ろくがは」と読むらしい。現在の長野県上高井郡小布施町(おぶせまち)都住(つすみ)に椎谷藩六川(ろくがわ)陣屋跡がある。椎谷藩は高井郡に七村の飛地を領有していた。

「書解」「しよげ(しょげ)」と読むか。書きつけた解説附文のことであろう。

「摺せ」「すらせ」。「拓本をとらせ」たの意。

「立し」「たてし」。

「榜示」(ばうじ)で、「牓示」「牓爾」とも書く。ものを書きつけて示す札。目印として書き記した札。立て札。馬琴はあくまで、朝鮮か中国の沿海に住む趣味人が川流れを庭園に引き、そこに作った築山の流れに人口の橋を拵え、洒落て、かく名づけた記銘の杭であると考えている。

   *

 さて。この木杭――ネットで調べて見たら――何んと!

――現存する!

――しかも! それに讃したかの良寛さんの漢詩(「題蛾眉山下橋杭」)もあるのだ! これだ。

   *

  題蛾眉山下橋杭

 不知落成何年代

 書法遒美且淸新

 分明我眉山下橋

 流寄日本宮川濱

       沙門良寬

   *

  「蛾眉山下の橋杭」に題す

 知らず 落成 何れの年代ぞ

 書法 遒美(しうび) 且つ 淸新

 分明なり 我眉山下の橋

 流れ寄る 日本宮川の濱

       沙門(しやもん)良寬

   *

 サイト「按針亭」の「蛾眉山下橋杭に題す」を見られたい。現物の画像もある。

 但し、そこでは漂着(漁師が発見して引き揚げた日であろう)年月を文政八年十二月(一八二六年一月)とし、場所も、現在の新潟県柏崎市宮川浜(ここ。但し、椎谷の南方直近である)とする。

 しかし、以下で、『拾った漁民が乾かして薪にしようとしました。偶々、文字が読める好事家が通りかかって、この木柱を見ると』、『大きな五文字「娥眉山下橋」が刻まれていたので、漁民に薪を与え』、『木柱を譲り受けました』。これは『良寛の晩年で』、『乙子』(おとご)『神社草庵』(新潟県燕市国上のここ)『居住末期に当たる頃です』。『刻された字の「橋」は、「木偏」が「冠」となった通常使われない異体字で、「峨」は「女偏」に「我」の字体でした。(左の「北越雪譜」に載る「橋杭図」を参照)』(見られたい)。『この木柱は椎谷藩主に献上されましたが、明治以降は現在の柏崎市高柳町にある村山家・貞観園が所蔵するところとなり、今日に至っています』とあることから、本篇のそれと全くの同一物である。しかも! かの異形の顔が、はっきり確認出来るのである!

 ここで、以上の引用に出る偏愛(私は夏のスペインのコスタ・デ・ソルの灼熱の砂浜で本書を黙々と読み続けた程度にフリークである)する作品、鈴木牧之(ぼくし 明和七(一七七〇)年~天保一三(一八四二)年:現在の新潟県南魚沼市塩沢で縮仲買商・質屋を営んだ町人で随筆家)が越後魚沼の生活を詳細に綴った博物誌的民俗誌「北越雪譜」(天保八(一八三七)年秋頃に初編各巻が江戸で発行され、天保十二年十一月に二編四巻が出た)の当該部を以下に電子化する。幼底本は早稲田大学図書館「古典総合データベース」のこちらの、「二編 冬」PDF)の当該部、11コマ目からを使用した。表記はそれに従ったが、正字か略字か判読できなかった箇所は正字で示した。読みは必要と思われる一部に限った。読み易くするために句読点を私が振った。踊り字「〱」「〲」は正字化した。読み易さを考えて、段落を成形した。疑問箇所は、所持する岩波文庫版(一九七八年改版)及び野島出版の優れた平成五(一九九三)年改版「校注 北越雪譜」(監修・宮栄二/校註・井上慶隆・高橋実)を用い、挿絵は後者からトリミング補正した。【 】は二行割注。歴史的仮名遣の誤りや不審な表記は総てママである。尊敬のための字空けが二箇所にあるが、詰めた。注を中に入れたが、多くは後者「校注 北越雪譜」を参考にさせて貰った。

   *

       ○蛾眉山下橋柱(がびさんかのはしばしら)

 文政八年乙酉十二月、苅羽郡(かりはこほり)【越後。】椎谷(しひや)の漁人(ぎよじん)【椎谷は堀侯の御封内なり。】、ある日、椎谷の海上に漁(すなどり)して、一木の、流れ漂ふを見て、

「薪にせばや。」[やぶちゃん注:「薪」はここにルビはないが、後で「たきゞ」と振ってある。]

とて、拾ひ取て、家にかへり、

「水を乾(かはか)さん。」

とて、庇(ひさし)に立寄おきしを、椎谷の好事家、通りかゝり、是を見て、

『たゞならぬ木。』

と、おもひ、熟視(よくよくみる)に、

「蛾眉山下※」[やぶちゃん注:「※」=(上)「木」+(下)「喬」。]

といふ五大字、刻しありしをもつて、

『かの國の物。』

と、おもひ、漁人には薪(たきゞ)を与へて、乞ひうけける、とぞ。

 さて、余が舊友觀勵(くわんれい)上人は【椎谷ざい。田澤村、淨土宗祐光寺。】、强學(きやうがく)の聞えあり、甞て好事の癖(へき)あるを以て、かの橋柱(はしばしら)の文字を、双鈎刊刻(さうこうかんこく/カゴジホル[やぶちゃん注:右/左(意味)ルビ。以下同じ。])して、同好におくり、且、橋柱に題する吟詠を、こひ、是も又、梓(あづさ)にして、世に布(し)かんとせられしが、故ありて、いまだ不果(はたさず)。

[やぶちゃん注:「觀勵上人」現在の新潟県新潟市秋葉(あきは)区小戸(こと)の出身の浄土真宗(百樹の割注は誤り)の僧。「椎谷ざい」(在)とあるのは、彼が継いだ「祐光寺」がここで、椎谷の東の内陸の領内であったからである(観励は安政二(一八五五)年に六十二で示寂している)。まさに、ここにある通り、彼がこの「橋柱に題する吟詠を」乞うた一人が、彼と交友のあった曹洞宗の僧で文人として知られた良寛(宝暦八(一七五八)年~天保二(一八三一)年)であったのである。]

 かの橋柱は、後(のち)に御領主の御藏(ごぞう)となりしとぞ。

 椎谷は、余が同国(どうこく)なれども、幾里を隔(へだて)たれば、其眞物(しんぶつ)を不見(みず)、今に遺憾とす。姑(しばらく)、傳寫の圖を以て、こゝに載(のせ)つ。【百樹曰、「牧之翁が此草稿にのせたる圖を見るに、少しく、おもふ所、有しゆゑ、其實說を詳究せし事、左の如し。】

[やぶちゃん注:「余」作者鈴木牧之。

「同国(どうこく)なれども、幾里を隔(へだて)たれば、其眞物(しんぶつ)を不見(みず)、今に遺憾とす」地図上で見ると、そんなに行くのが困難な地でもなさそうに見える。実は本書の初編刊行の天保八(一八三六)年に中風を患って体が不自由になっていたのであった。

「百樹」「ももき」で本書の校訂を請け負った京山人百樹、則ち、戯作者山東京山の別号(というか、岩瀬百樹が本名であった)である。

 以下、底本では「稀世(きせい)の珍物(ちんぶつ)なり。」(図の前まで)が、全体が二字下げ。]

 百樹(もゝき)曰、了阿(れうあ)上人が和哥の友相場氏は椎谷侯の殿人(とのびと)ときゝて、上人の紹介をもつて、相場氏に對面して件(くだん)の橋柱の事を尋ねしに、余に謂(いはれ)しは、

「橋柱には、あらず、標準(みちしるべ)なり。」

とて、俗に書翰帋(しよかんぶくろ)といふ物に作りたるを出して、其圖を示さる。余が友の畫人、千春(ちはる)子が眞物を傍(かたはら)におきて、縮圖なし、「蛾眉山下」といふ五字は、相場氏、みづから、心を深めて、うつされしとぞ。【下に圖する、これなり。】

「彫(きざみ)たる人の頭(かしら)を左りに顧(むか)せ、その下(しも)に五字を彫(ほり)つけしは、『是より、左り、蛾眉山下橋なり。』と、人に、をしゆる標準(みちしるべ)なり。」

と、かたられき。

 是にて、義理、渙然(くわんぜん/ワカル)たり。

 今、俗に、指(ゆびさす)を、ゑがきて、そのしたに、をしゆる所を記(しる)したるを、間(まゝ)みる事、あり。和漢の俗情、おなじ事なり。

○[やぶちゃん注:記号「○」はママ。改行はない。]さて、此標準(へうじゆん)を得たる實事をきゝしに、

「北海は、いづれの所も、冬にいたれば、常に、北風、烈しく礒(いそ)へ物をうちよする、椎谷は、たきものにとぼしき所ゆゑ、貧民、拾ひ取りて薪となす事、常なり。しかるに、文政八酉の十二月、例の如く、薪を拾ひに出しに、物ありて、柱のごとく、浪に漂ふをみれば、人の頭(かしら)と、みゆる物にて、甚、兇惡なり。貧民等(ら)、惧れて、たちさり、ものゝかげより、見居たるに、此もの、竟に礒にうちあげられしを見て、人々、立より、みたるに、文字はあれども、讀者(よむもの)なく、

『是は、何ものならん。』

と、さまざま評し居(ゐ)たる、をりしも、こゝに近き西禪院(さいぜんゐん)の童僧(どうそう)、通りかゝり、「唐詩選」にて、おぼえたる「蛾眉山」の文字を讀(よみ)、

『これは、唐土(から)の物なり。』

と、きゝて、貧民、拾ひて持かへり、さすがに、「唐土の物」ときゝて、薪にもせざりしに、此事、閧傳(こうでん/マチノウハサ)して、竟に主君の藏(ざう)となりし。」

と、語られき。

○[やぶちゃん注:同前。]按ずるに、蛾眉山は、唐土の北に在ある峻嶽(じゆんがく[やぶちゃん注:ママ。])にて、冨士にも、くらぶべき髙山なり。絕頂の峯、双立(ならびたち)て、八字をなすゆゑ、「蛾眉山」といふなり。此山の標準(みちしるべ)、日本(ひのもと)の北海へ、ながれきたりたる、其水路を詳究(しやうきゆう/ツマヒラカニキハムル)せんとて、「唐土(もろこし)歷代州郡沿革地圖」に據(より)て清国國(いまのから)の道程(みちのり)、圖中を撿(けん/アラタムル)するに、蛾眉山は清朝(いまのから)の都(みやこ)を距つこと、日本道四百里許(ばかり)の北に在り。此山に、遠からずして、一條(ひとすぢ)の大河、東に流(ながる)。蛾眉山の麓の河々、皆、此大河に入る。此大河、瀘州(ろじう[やぶちゃん注:ママ。])を流れ、三峽(けふ)のふもとを過ぎ、江漢に至り、荊州(けいじう)に入り、◦[やぶちゃん注:「◦」の記号は以下総てママ。]洞庭湖(とうていこ)◦赤壁◦潯陽江(じんやうこう)◦楊子江の四大江(こう)に通じて、江南を流*(ながれめぐ)りて[やぶちゃん注:「*」=「氵」+「靣」。]、東海に入る。是(この)水路、日本道五百里ばかりなり。さて、件の標準(みちしるべ)、洪水にてや、水に入りけん、◦洞庭(とうてい)◦赤壁◦潯陽◦楊子(やうし)の、海の如き四大江(だいこう)を、蕩漾周流(たうやうしうりう/ナガレシダイ メグリナガレ)して、朽沈(くちしづま)ず、滔々たる水路、五百餘里よりを、流れて、東海に入り、巨濤(こたう/オホナミ)に千倒(たう)し、風波に万顛(てん)すれども、断折碎粉(だんせつさいふん/ヲレル クダケル)せず、直身挺然(ちよくしんていぜん/ソノミ ソノマヽ)として、我國の洋中(おきなか)に漂ひ、北海の地方に近より、椎谷の貧民に拾(ひろは)れて、始(はじめ)て、水を辭(はな)れ、既に一燼の薪となるべきを、幸に、字(じ)を識る者に遇ひて、死灰(しくわい)をのがれ、韻客(ゐんかく)の爲に題詠の美言をうけたるのみならず、竟には、椎谷侯の愛を奉じて、身を寶庫に安んじ、万古(ばんこ)不朽の洪福(こうふく)を保つ叓[やぶちゃん注:「こと」の異体字。]、奇妙不思議の天幸なれば、實(じつ)に稀世(きせい)の珍物(ちんぶつ)なり。

[やぶちゃん注:ここまでが百樹のかなりディグした考証部。

「了阿(れうあ)上人」村田了阿。煙管商人であったが、和漢の学や仏典に通じ、江戸浅草寺の地内に隠棲した。天保一四(一八四二)年没。享年七十二。

「相場氏」椎谷藩勘定奉行であった相場長昭。

「書翰帋(しよかんぶくろ)」「帋」は「紙」の異体字。書簡用紙用の裁断していないものを指すか。

「千春(ちはる)子」高島千春。土佐派の絵師。安政六(一八五九)年没。享年八十三。

「渙然」氷のとけるように、疑惑や迷いがなくなる様子。杜預の「春秋左氏伝序」が元。

「西禪院」「校注 北越雪譜」には、『椎谷の真言宗西禅寺』とあるが、見当たらない。

『「唐詩選」にて、おぼえたる「蛾眉山」の文字』私の好きな李白の「峨眉山月歌」。

   *

  峨眉山月歌

 峨眉山月半輪秋

 影入平羌江水流

 夜發淸溪向三峽

 思君不見下渝州

   *

  峨眉山月の歌

 峨眉山月 半輪の秋

 影は 平羌江(へいきやうかう)の水に入りて 流る

 夜 淸溪を發して 三峽に向ふ

 君を思へども 見えず 渝州(ゆしふ)に下る

   *

「閧傳(こうでん/マチノウハサ)」「閧」は「村里の路」「巷」の意。本字は「鬨」(「ときを挙げる」の「とき」)と誤用された。

「唐土(もろこし)歷代州郡沿革地圖」通常は頭は「たうど」と読む。長久保赤水の手になる寛政元(一七八九)年序の着彩歴史地図帖。中国の歴代地図十二葉に「亞細亞小東洋圖」を添える。このシリーズは人気を博した。

「清朝(いまのから)の都(みやこ)」北京。

「北に在り」峨眉山からの北京の位置と勘違いしたか。北京からは南西に当たる。

「瀘州(ろじう)」四川省瀘州(ろしゅう)市。同省楽山市の峨眉山の東南奥直線で約二百キロメートル位置。以下の地名は注さない。

「蕩漾」「ナガレシダイ」の左ルビは、よく意味が判らない。「次第次第に流れ流れて」か。しかし、この熟語(たうやう(とうよう))は「漂い動くこと・静かに揺れ動くさま」の意である。「流れに任せてそれに勝手次第に漂って」の謂いか。

 以下の一行は行頭から。]

縮圖、左のごとし。

[やぶちゃん注:以下にキャプションの附いた図。キャプションは「縮圖、左のごとし。」の少し下方に縦に並んでいるが、引き上げて個別に電子化する。]

 

Kabisan

 

[やぶちゃん注:キャプション。

丈、一丈餘。

周(めぐり)、二尺五寸餘。

木(きは)、質弁名(なにともなづく)べからず。

という漢文に変な和訓をしたものである。柱に、大きく、

娥眉山下※

(「※」=(上)「木」+(下)「喬」。以下も同じ)とある。先の実際の杭の画像の載るページを見ても、確かに上部の二字は「峨嵋」でも「峨眉」でもなく、「娥眉」であることが確認出来る。

  以下、最後まで全体が二字下げ。底本PDFでは、別な無関係の後の条の挿絵が挟まって15コマ目になるので、注意されたい。]

按ずるに、「蛾」・「蛾」、同韻【「五」・「何」、反。】)なれば、相通じて、往々、書見(しよけん)す。橋(きやう)を「※(きやう)」に作る、頗る異体(ゐてい)なり。依(よつ)て、明人(みんひと)黃元立(くわうげんりつ)が「字考正誤」、淸人(せいひと)顧炎武が「亭林遺書」中に在る金石文字記」、あるひは、「碑文摘奇(ひぶんさくき)」【「藤花亭十種」之一。】、あるひは、楊霖竹菴(やうりんちくあん)が「古今釋疑」中の「字躰(じてい)の部」など、通卷一遍、搜索(さうさく/サガス)したれども、「※(きやう)」の字、なし。蛾眉山のある蜀の地は、都を去る事、遠き僻境なり。推量するに、田舍の標準(みちしるべ)なれば、學者の書(かき)しにも、あるべからず、俗子(ぞくし)の筆なるべし。されば、我(わが)今の俗(ぞく)、竹を「#」[やぶちゃん注:「竹」の(へん)を「亻」にした字体。]と「亻(にんべん)」に誤(あやまる)の類(るゐ)か。猶、博識の說を俟つ。

[やぶちゃん注:以上の段落の書名その他の前には書名や記事名を示すための、縦書では下が開いた括弧が示されてあるが、鍵括弧で示したので、除去した。書名注も附さない。要は中国の複数の字書にも、この奇体な「※」の字は見当たらないことが判ればよいからである。]

   *

 さて。最後に――では、これは一体――どこから来た――何ものであるのだろうか?

 私は先の画像で実際の頭部を見、「北越雪譜」の挿絵を見た時、嘗て、朝鮮民族の民俗誌関連の古い写真を見た際、村落の入り口に辟邪のための人面を彫った「天下大將軍」「地下女將軍」と記したかなり高いポール状の呪具を見た記憶があって、直ちにそれを想起した。大体、実測で六千キロメートルは離れた中国内陸部四川省の山深い高山峨眉山から、これほどの大きさの木製道標が損壊も汚損もせずに流れ下って、東シナ海を渡り、日本海へ流れ込み、遂には越後の海岸に流れ着くというのは、これ、尋常に考えても、あり得ないことのように感じられたのである。

 而して、調べたところ、真相を真摯に探った論文が存在した。

韓泰植(普光)氏の論文「娥眉山下橋木柱と韓国の長栍について」PDF・『印度學佛教學研究』第四十四巻第一号・平成七(一九九五)年十二月発行)

である。詳しくは本文を読まれたいが、まず、韓氏は中国に人面・神面を彫り込んだ道標があるかどうかを調べ、そうしたものが見当たらなかったことを挙げ、次に朝鮮に古くから見られる辟邪のポール状の呪具や、人面様の神面を彫ったものなどが、複数、異なった目的や様態を持ったものとして存在したことを示されておられる。その中で、ある時期、朝鮮で「峨眉山」という名前が山名として画期的に増えた時期存在する事実を掲げ、それが疱瘡(天然痘)の流行期とリンクすることが提起され、それに中国の峨眉山の神人が疱瘡から人々を守ったという伝承を明示されているのである。則ち、この漂着した奇体な木杭はそうした、天然痘などの辟邪を目的とした朝鮮半島で成された呪的な銘文杭であったものと推定されておられるのである。そうして、流出した場所として江原道(カンウォンド:大韓民国実効統治範囲の北東部にある行政区画で日本海に面している。ここは軍事境界線を挟んで、北の朝鮮民主主義人民共和国側にも同名の行政区画が存在する。ここは真東に約八百六十キロメートル位置に本杭の漂着地があるのである)を有力候補地として挙げてもおられる。これはもう、要保存必読である。

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