萩原朔太郞詩集「蝶を夢む」正規表現版 散文詩(パート標題)・添え書き・「吠える犬」
散 文 詩 四 篇
[やぶちゃん注:パート標題。その裏に以下の添え書き。]
「月に吠える」前派の作品
吠 え る 犬
月夜の晚に、犬が墓地をうろついてゐる。
この遠い、地球の中心に向つて吠えるところの犬だ。
犬は透視すべからざる地下に於て、深くかくされたるところの金庫を感知することにより。
金庫には翡翠および夜光石をもつて充たされたることを感應せることにより。
吠えるところの犬は、その心靈に於てあきらかに白熱され、その心臟からは螢光線の放射のごときものを透影する。
この靑白い犬は、前足をもつて堅い地面を掘らんとして焦心する。
遠い、遠い、地下の世界において微動するものを感應することにより。
吠えるところの犬は哀傷し、狂號し、その明らかに直視するものを掘らんとして、かなしい月夜の墓地に焦心する。
吠えるところの犬は人である。
なんぢ、忠實なる、敏感なる、しかれどもまつたく孤獨なる犬よ。
汝が吠えることにより、病兒をもつた隣人のために銃をもつて擊たれるまで。
吠えるところの犬は、靑白き月夜においての人である。
[やぶちゃん注:太字は底本では傍点「ヽ」。初出は大正四(一九一五)年二月号『詩歌』。以下に示す。誤字或いは誤植と思われるものは総てママである。
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吠える犬
月夜の晚に、犬が墓地を墓標をめぐつて居る。
この遠い地球の核心に向つて吠えるところの犬だ。
犬は透視すべからざる地下に於て深くかくされたるところの金庫を感知することにより、金庫には斐翠及び夜光石を以て充たされたることを感能せることにより。
吠えるところの犬は、その心靈に於て明らかに白熱され、その心臟に於て螢光線の放射の如きものを肉身に透影する。
この靑白い犬は前足を以て固き地面を堀らんとして焦心する。遠い、遠い地下の世界に於て微動せるところのものを感得することにより。
吠えるところの犬は哀傷し、疾患し、しかもその明らかに直視するところのものを堀らんとして月夜の墓地に焦心する。
吠えるところの言葉は『詩』である。
汝、忠實なる、敏感なる、然れども全く孤獨なる犬よ。汝が吠えることにより、洞察なき隣人のために銃をもつて擊たるるまで、名字が餓死するに及ぶまで、汝が『謎』を語ることを止めざる最後にまで。
吠えるところの犬は、靑白き月夜に於ての『詩人』である。
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初出では最後の第二連が本篇の核心である象徴の謎の解き明かしのようになっていて、面白くない。決定稿の方が遙かに詩となっている。しかし、この詩篇こそが、近代詩に突如出現した「月に吠える犬」であり、そうした意味で本邦の近代詩史に於ける重大な「疾患」のメルクマールなのである。本篇には、草稿が二種あり、その一つが筑摩版全集の「草稿詩篇 蝶を夢む」に載る。標題は「犬」である。以下に示す。歴史的仮名遣の誤りや誤字・衍字と思しいものはママ。
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犬
月夜の晚の
犬が*柳の木を//墓場の墓標を*めぐつて居る
[やぶちゃん注:「*」「//」は私が附したもので、「柳の木を」と「墓場の墓標を」が並置残存していることを示す。]
この犬の心靈は柳の葉にふれて
この遠い地球の核心に向つて吠えるところの犬だ
犬の心靈はあきらかに飢えかがやいて居る。 そは 犬の心靈は靑く犬の述走神經はあるたしかな
彼は透視徹すべからざる地下に於て深く匿かれたるところの主人の金銀貴金屬の金庫がある、祕密のを感知することにより、
而て金庫には斐翠及び晶夜光石を以てみたされてゐる
彼は吠えるところの犬はその心靈に於てあきらかに白熱され
その心臟に於て螢光線の放射の如きものを肉身に透影する、
この靑白き犬に於ては前足に於て固き地を掘らんとして居るして焦心する、
遠い遠い地下の世界に於ては何人も知らないところの靈がくされたる微動するところのものを明確に感知したるものは地上に於て一疋の蓄生である、ところの犬である、
犬は感傷し犬は疾患し而してその知る直視するところのものを掘らんとして月夜の晚に焦心する、
うゑたる犬は吠える、
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最後に編者注があり、『本稿の冒頭欄外に「龜について、」とある。』とある。詩集「月に吠える」に載せた「龜」を想起し、そのイメージとの関連性を自身のメモランダとしたものか。]

