萩原朔太郞詩集「蝶を夢む」正規表現版 かつて信仰は地上にあつた
かつて信仰は地上にあつた
でうすはいすらええるの野にござつて
惡しき大天狗小天狗を退治なされた。
「人は麥餠(むぎもち)だけでは生きないのぢや」
初手の天狗が出たとき
泥薄(でうす)如來の言はれた言葉ぢや
これぢやで皆樣
ひとはたましひが大事でござらう。
たましひの罪を洗ひ淨めて
よくよく昇天の仕度をなされよ。
この世の說敎も今日かぎりぢや
明日(あす)はくるすでお目にかからう。
南無童貞麻利亞(まりや)聖天 保亞羅(ぽうろ)大師
さんたまりや さんたまりや。
信仰のあつい人々は
いるまんの眼にうかぶ淚をかんじた
悅びの、また悲しみの、ふしぎな情感のかげをかんじた。
ひとびとは天を仰いだ
天の高いところに、かれらの眞神(しんしん)の像(かたち)を眺めた。
さんたまりや さんたまりや。
奇異なるひとつのいめえぢは
私の思ひをわびしくする
かつて信仰は地上にあつた。
宇宙の 無限の 悠悠とした空の下で
はるかに永生の奇蹟をのぞむ 熱したひとびとの群があつた。
ああいま群集はどこへ行つたか
かれらの幻想はどこへ散つたか。
わびしい追憶の心像(いめえぢ)は、蒼空にうかぶ雲のやうだ。
[やぶちゃん注:太字は底本では傍点「ヽ」。冒頭、「いすらええる」の表記はママで、かの絶対消毒敢行主義の筑摩版全集校訂本文でもママである。しかし、「イスラエル」(ヘブライ語で「神が支配する」の意)の音写を「イスラエエル」としたものを見たことは、私は、ない。日本語の外来語音写は近代以降、掟破りに個人が勝手にいろいろな音写をしてきたから、取り立てて奇異とは言うまい。そもそも、イスラエルの公用語のヘブライ語の「アレフベート」は二十二文字であるが、元来、これらは総て子音で、伝統的に、当該語句を発音する際には、特定の決められた母音を当該子音に附帯させて発音することで、特定単語を表現するという。参照したイスラエル・ユダヤ専門の出版社「ミルトス」の「ヘブライ語 ― ヘブライ語ってどんな言葉?」によれば、七世紀頃、『聖書ヘブライ語の発音を伝えるために母音記号(ニクダー)が工夫され』たが、現在の『イスラエルでは一般にニクダーがついていない文で書かれて』おり、『これを読むときは、カンを働かせて』(!?!)『頭の中で母音をつけ』て『発音する』というちょっとびっくりすることが書かれている。しかも古代イスラエルのヘブライ語の発音は現在は既に不明となっている。されば、「いすらええる」と聴こえないでもなかったとは言い得るかも知れぬ。禁教の切支丹の内部でこの表記(口伝による変形)が生きていたかどうかは知らぬが、あっても全くおかしくはなかろうとも思う。しかし、この詩篇を書くに際して、そうした切支丹関連文書を萩原朔太郎が参考にしたとなら、研究者はそれを調べ、発見し、指示する必要があろう。私にそんな義務はない。そもそも、ここでは、隠れ切支丹が隠蔽防御のために行ったような、イエス・キリストが「でうす」(Deus:ラテン語で「神」を表わす)や「如來」に、マリアが「聖天」、パウロが「大師」の姿になって登場し、サタン・ルシファーや、その眷属諸々は「雨月物語」の「白峯」の如く「大天狗子天狗」へと自由自在に勝手に習合・混淆されている。何をかいわんや、遂にそのブッ飛んだ世界に筑摩版全集の編集者が消毒器具のバルブをさえ開くことが出来なかったのであったことが小気味が良い。
「いるまん」(ポルトガル語:irmão:一般には「兄弟」、宗教的には「法兄弟」の意)十六~十七世紀頃に日本に渡来したキリスト教の宣教師の一階級。司祭職パードレ(padre=伴天連(バテレン))の下にある助修士(平修士)のこと。
初出は大正一一(一九二二)年五月号『秦皮』(聴いたことのない雑誌だ。調べたが、判らなかった)。以下に初出形を示す。第一連一行目「は」の太字及び「ごさつて」、五行目「でいす」、十一行目「かからう」の「かか」太字(これは十字架に「架かる」に掛けた洒落か?)、第二連四行目「おほいだ」は総てママである。
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かつて信仰は地上にあつた
でうすはいすらええるの野にごさつて
惡しき大天狗小天狗を退治なされた。
「人は麥餠(むぎもち)だけでは生きないのぢや」
初手の天狗が出たとき
でいす如來の言はれた言葉ぢや。
これぢやて皆樣
人はたましひが大事でござる
たましひの罪を洗ひきよめて
よくよく昇天の仕度をなされよ。
この世の說敎も今日限りぢや
くるすで明日はお目にかからう。
南無まりや聖天 ぽをろ大師
さんたまりや さんたまりや。
信仰のあつい人々は
いるまんの眼にうかぶ淚をかんじた
悅びのまた悲しみの ふしぎな情感の影をかんじた。
人々は天をあほいだ
天の高い所に かれらの眞神の像(かたち)を眺めた。
はれるや はれるや はれるや はれるや。
奇異なるひとつの心像(いめえぢ)は
私の想ひをわびしくする
かつて「信仰」は地上にあつた。
宇宙の 無限の 悠悠とした空の下で
はるかに永生の奇蹟をのぞむ 熱した人々の群があつた
ああ今 群集はどこへ散つたか
かれらの幻想はどこへ行つたか
私のわびしい心像(いめえぢ)は、蒼空にうかぶ雲のやうだ。
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