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2021/12/02

曲亭馬琴「兎園小説外集」第二 尾藩秦鼎手筒 輪池堂

 

[やぶちゃん注:「尾藩秦鼎手筒」は尾張藩秦鼎(はたかなえ)からの書簡の意。今までの「兎園小説」に何度も登場し、注記もしたが、再掲すると、秦鼎は儒者で尾張名古屋藩に仕えた秦滄浪(そうろう 宝暦一一(一七六一)年~天保二(一八三一)年)。美濃出身。鼎は名。寛政二(一七九〇)年に同藩に入り、翌年、藩校「明倫堂」典籍となり、後に教授となったが、驕慢で失脚したという。古書の校定を好み、「国語定本」・「春秋左氏伝校本」などをものしており、また三巻三冊から成る随筆「一宵話」(ひとよはなし)がよく知られる。本文でも言及されている通り、この直前の「唐船漂着の記 輪池堂」にも書簡を寄せている。謂わば、これは、まさに、その書簡に関わって、当該書簡を改めて全文で示した、書簡送付証明を期した追記増補記事の趣きを持つものである。後半は、文政八年十二月(グレゴリオ暦では既に一八二六年一月)に信濃国松本藩で発生した世直し一揆(打ちこわし)「赤蓑騒動」の記事である。当該ウィキによれば、「赤蓑」とは、『一揆勢がシナノキ』(アオイ目アオイ科 Tilioideae 亜科シナノキ属シナノキ Tilia japonica )『の皮の赤蓑を着ていたことに由来する。また発生地から』、「四ヶ庄(しかじょう)騒動」(佐野村・沢度村の広域通称。現在の白馬村神城(かみしろ)附近(グーグル・マップ・データ))とも『呼称される。一連の騒動は大町に滞在していた諏訪藩士の六角鬼洞により』、「赤蓑談」として纏められた。文政八年十二月十四日(一八二六年一月二十一日)、『信濃国安曇郡大町組に属する四ヶ庄地方』『から発生し』、十二月十七日の『朝にかけて、千国街道(糸魚川街道)沿道の村々の大半を巻き込んで、大町宿(大町市)、池田宿(池田町)、穂高宿・成相新田宿(安曇野市)の宿場の特権的問屋や、各組の大庄屋や在郷商人など』、約八十七軒を、約三万人もの『農民が打ちこわしした事件である。成相新田宿で松本藩兵に鎮圧され、城下への侵入は阻止された』。『この年は凶作であったが、四ヶ庄地方には米穀商がなく、農民たちは貯蔵米のある上層農民に借用・売却を申し入れたが』、『拒絶され、宿場町の米穀商は』、『米の買占めと』、『売り惜しみに走り、米不足にも関わらず』、『酒屋が酒造を始めたことが、一揆の発端となった』とある大規模な一揆である。]

 

   ○尾藩秦鼎手筒

   鈴木右平樣         秦 鼎

百一歲老人へ御傳言。此も正月廿一日に來遊。明五日、歸鄕申候。步行も二里は樂に出來、目がね、なし。小茶碗に、飯も、四、五盃づゝ、學堂[やぶちゃん注:底本では右にママ注記があるが、藩校明倫堂のことであろう。]にて、田樂豆腐、拙生は七本、百歲老人は十五本、たべ申候。誰か作工にや、今度、堀川傳馬橋[やぶちゃん注:現在の愛知県名古屋市中村区名駅にある古くより物流の重要な橋であった伝馬橋(てんまはし)。]、新規に御懸替、新造なれば、先例により、老人渡り初[やぶちゃん注:「わたりぞめ」。]、可ㇾ被仰付候處、御家中にも、名子屋[やぶちゃん注:ママ。]にも、其人なく、御手支御吟味の處、幸、美濃高田にて、百一歲老人、來合たれば、「此翁を。」といふに、「世に、事かいた樣似に、他國人をやとひ上げは、苦々し、これは、尾張には智多郡に萬歲あれば、これをよびよせ可ㇾ然。」との評定になりし所、「萬歲位の小兒輩を召るゝ事かは。我等が鄰には、「七億【質置。】親仁」[やぶちゃん注:「質置」は質屋のこと。「しちおく」で言祝ぎに「七億」の漢字を当てたものであろう。]あり。扨、遠州へ唐船漂着大騷動、遠州は稻佐風の海賊日本一の名所、大晦日夜、海中幽靈の出現日、殊に薄暮より風雨つよきに、丑滿比、漂流破船、押來りし樣子にて、海賊ども、「天のあたへ、よい正月せん。」と、我一に小舟こぎ出し、仰上れば[やぶちゃん注:「あふぎあぐれば」。]、船の異體なるに驚き、しばしためらふほどに、松明・燈火の光に、鬚の長き、異類異形の物、見ゆれば、「ヤレ、幽靈よ。」と、にげ歸る。曉天になれば、金鼓にて、大船、こぎ來る【これは元朝の祝の樂なり。】。これにて、遠州諸候大騷動、これから御察しあㇾば、相分るゝ事なり。此圖書ども、はや、御通覽かは難ㇾ測候得共、齋藤泰正、櫻井へ被ㇾ遣可ㇾ被ㇾ下候。櫻井介三郞子は、塙次郞へ被ㇾ參候故、塙へ送り度く、善、御取計可ㇾ被ㇾ下候。例の筆屋、玄書堂、御連可ㇾ被ㇾ下候。

舊臘[やぶちゃん注:底本は「舊獵」であるが、前年十二月の意であるから、吉川弘文館随筆大成版で訂した。]十二、三日比より、信州松本、民亂、此は加賀・越後界[やぶちゃん注:「さかひ」。「境」に同じ。]なり。四ケ庄などゝ言、北方深山僻地の山民、蜂起し、南へ南へ、と、村々の富民の居宅を打崩して、城下近く攻來り、小廿里計の間にて、七十五、六軒も潰し、信濃川の新橋にて防れ[やぶちゃん注:「ふせがれ」。]、同心・足輕の輩、亂民と同じ形になり、交り入、頭取たる者を、生捕中に[やぶちゃん注:「いけどるうちに」。]、亂民中に、馬上にて進退指揮する者を、大番頭の稻村小源太、「あれぞ、くせ者。」と、小筒[やぶちゃん注:「こづつ」。小筒鉄砲。]を以、此も、馬上にて馳向ふに、此前に、てつぽう百挺、虛空に向て、亂放する高聲に、亂民ども、恐愕せしや、小源太に恐れ、にげ走るを、逐かけ[やぶちゃん注:「おひかけ」。「追ひ驅け」。]、逐かけ、石路・溪間を、二里計も、逐かけ、逐かく、遂に、「小筒、放たん。」とせしに、「此こそ、生捕にすべき者なれ。」と心付、遂に、生捕しは、大功、「頭立し[やぶちゃん注:「かしらだてし」と訓じておく。]惡黨は、大略[やぶちゃん注:「おほよそ」]、越後高田の者なり。」と聞ゆ。ナタリ邑[やぶちゃん注:白馬村東北に接する長野県北安曇郡小谷村(おたにむら)のことか? 訛りかも知れない。]より、城下迄は、小廿里、其間の、富民も、田地も、踏潰されし大亂は、聞も苦々しき事、去年は、越前の勝山と松本の二侯、國、騷々敷[やぶちゃん注:「さうざうしく」。]候ひき。百歲老人、餞宴にて、今日は多忙、草々頓首。

 文政九年二月四日

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