萩原朔太郎詩集 遺珠 小學館刊 散文詩 ADVENTURE OF THE MYSTERY
ADVENTURE OF THE MYSTERY
巧みな演奏者によつて奏された美しい音樂をきくとき、その旋律の高潮に達したとき、私共のしばしば味ふことのできるあの一種の快よい感覺と、その瞬間の誘惑にみちた世界の敍景に就いて。
凡そ音樂の展開する世界の眺望はたぐひなきものである。それは現實の世界では到底想像することもできない、一種の異樣な香氣とかがやきに充ちた世界である。
そこではあるひとつの不思議な情緖が、魔術のやうな魅惑を以て、私共の精神の全面を支配するやうに思はれる。
そのむず痒いやうな感覺。何ともいへない樂しい世界へ、今少しのことで手が屆きさうに思はれるときの快よい焦燥と、そのぞくぞくするやうな心臟のよろこび、そのほつとする心もち、甘つたるい悲しさ、しぜんと淚ぐむやうになる情緖の昂進。
凡そ音樂の見せてくれる世界ほど、不可思議な誘惑と魅力に富んだものはない。かうした世界のよろこびを傳へるためには「搔きむしられる樂しさ」といふ言葉より外の言葉はないのである。何となればそれは人間の常住する世界ではない。そこには何かしら、人間以外のある限りなく美しい者が住んでゐる祕密の世界である。この世界の實景實情を語るためには、人閒の言葉はあまりに粗野であまりに感情に缺けすぎてゐる。
音樂をきくとき、私は時々考へる。
一體そこには何物が居るのか。何物がどんな魔術を使つて、かうまでに私共の心を誘惑するのか。
實際それは恐ろしい誘惑である。
昔は多くの夢みる詩人が居た。
ある時、彼等の中でも最も勇敢な騎士たちが、この祕密の世界へ向つて探險旅行を試みた。
彼等は美しい月夜に船の帆を張りあげて進んだ。この不可思議な「見えない島」と「見えない魔術師」の正體を發見するために。彼等の船は長いあひだ月光の下をただよつた。そしてしまいにたうとうあるひとつの怪しげな島を發見した。その島の上には、一人の言ひやうもない美しい魔女が立つてゐるやうに思はれた。しかも花のやうな裸體のままで、琴を手にかかへて。
夢みる勇敢な騎士たちが、よろこび叫んで突進した。彼等は皆若くそして健康で美しかつた。彼等の生活は酒と戀と音樂であつた。就中その切に求めて居るものは戀と冒險であつた。
まもなく、島が彼等のすぐ眼の前に現れた、そして不思議な音樂のメロヂイが、手にとるやうにはつきりと聞えはじめた。
騎士たちの心は希望と幸福に充ちあふれた。長い長い年月のあひだ、彼等の求めてゐたその夢の中の不思議な世界、その空想で描いた妖魔の女性。かつてそれらのものは、手にも取られぬ幻影の幸福であつた。
然るに今は、夢でもなく空想でもない。事實は彼等のすぐ眼の前に裸體で突つ立つて居る。しかもいま一分閒の後には、凡てそれらの謎の祕密と幸福の實體とは、疑ひもなく彼等自身の手の中に握ることができるのである。永久に、しかも確實な事實として。僅か一分間の後に。
「ああ、何といふ仕合せのよいことだ。」
さう言つて彼等は樂しさに身を悶えた。實際それは彼等にとつては、信ずることもできないほどの幸福であつたにちがひない。
けれども、ここにひとつの不思議な事實があつた。しかも悅びで有頂天になつてゐる騎士たちは、だれ一人としてその事實に氣のついた者はなかつた。
島が目的物が、彼等のすぐ近くに見えはじめてから、少なくとも彼等は數時間以上も船を漕いで居た。しかも彼等が最初に島を發見したのは、ものの半時間とはかからない近距離に於てであつた。
實際、島は最初から彼等の頭のまん上に見えて居た。そして船は矢のやうな速さで突き進んだ。
「もう一息、もう一分間。」さつきから彼等は、何度心の中でそう繰返したか分らない。
あまつさへ、船は次第に速力を增してきた。始は數學的の加速度で、併しいつのまにか魔術めいた運動律となつて、遂には眩惑するやうな勢でまつしぐらに島の方へ飛び込んだ。それは丁度大きな磁石が鐵の碎片を吸ひつける作用のやうに思はれた。
この思ひがけない幸運に氣のついたとき、船の人々は思つた。疑ひもなくそれは、島が自分たちを牽きつけるのである。一秒間の後に、我我はそこの岸に打ちあげられてゐるに違ひないと。人々の心臟は熱し、その眼は希望にくらめいた。
一秒間は過ぎた。けれども、そこには何事も起らなかつた。
舟は相變らずの速力で疾風のやうに走りつづけて居た。そして夢みるやうな月光の海に、眞黑の島は音もなく眠つて居た。ただ高潮に達した音樂のメロヂイばかりが、あたりの靜寂を破つて手にとるやうに聞えた。
「まてよ。」
しばらくして乘組員の一人が、心の中で思ひ惑つた。
實際、彼等はさつきから數時間漕いだ。そして今、船は狂氣のやうに疾走して居る。それにもかかはらず、彼等は最初の位置から、一尺でも島に近づいては居なかつたのである。島と船との間には、いつも氣味の惡い、同じ距離の間隔が保たれて居た。
「まてよ。」
殆んど同時に、他の二、三人の男がつぶやいた。
「どうしたといふのだ、おれたちは。」
彼等はぼんやりして顏を見合せた。そして手から櫓をはなした。
「氣をつけろ。」
その時、だしぬけに仲間の一人が叫んだ。その聲は不安と恐怖にみちて、鋭どく甲ばしつて居た。
「みんな氣をつけろ。おれたちは何か恐ろしい間違へをしてゐるのかも知れない。さもなければ……。」
その言葉の終らない中に、人々は不意に足の裏から、大きな棒で突きあげられるやうな氣持がした。
ちよつとの間、どこかで烈しく布を引きさくやうな音が聞えた。
そして、一人殘らず、まつくらな海の底へたたき込まれた。
かうして、不幸な騎士たちの計畫は、見事に破壞されてしまつた。彼等の美しいロマンチツクの船と一所に。とこしなへに歸らぬ海の底に。
ほんとに彼等は氣の毒な人たちであつた。
何故かといふに、彼等が今少しの間この恐ろしい事實、卽ち彼等の船が「うづまき」の中に卷き込まれて居たことに氣が付かずに居たならば、彼等はその幸福を夢みて居る狀態に於て、やすらかに眠ることができたかも知れなかつたのである。
私が音樂を聽くとき、わけてもその高潮に達した一刹那の悅びを味ふとき、いつも思ひ出すのはこのあはれに悲しげな昔の騎士の夢物語である。
手にとられぬ「神祕の島へ」の、悲しくやるせない冒險の夢物語である。
[やぶちゃん注:標題「ADVENTURE OF THE MYSTERY」は詩篇の内容から、私は「神秘の冒険」或いは「秘蹟の冒険」とでも訳したい。「秘法」「奥義」でも構わないだろう。「しまいに」はママ。「まん上」は「まんまへ」「まんなか」と同じく「まんうへ」と読むしかないか。「併し」は「しかし」と読む。本書「詩作品發表年譜」及び筑摩版全集の「拾遺詩篇」にある通り、本篇は大正六(一九一五)年七月号『感情』に発表された詩篇である。その初出とは表記上の違いが幾つかあるが、初出自体に歴史的仮名遣の誤りが複数あり、漢字表記の異体字も多い。比較したところでは、句読点の一部脱落や、「々」を用いないなどの相違もあるが、私には躓くところも特にない(「まん上」の読み以外は、である)。ただ、本書の本篇には四箇所の看過出来ない誤りがある。
・初出にはある標題の添え辞『(散文詩)』がない。
・「實際、島は最初から彼等の頭のまん上に見えて居た。そして船は矢のやうな速さで突き進んだ。」の「まん上」に初出では傍点「ヽ」が打たれている。
・「舟は相變らずの速力で疾風のやうに走りつづけて居た。そして夢みるやうな月光の海に、眞黑の島は音もなく眠つて居た。ただ高潮に達した音樂のメロヂイばかりが、あたりの靜寂を破つて手にとるやうに聞えた。」の末尾で、これは初出では、「手にとるやうに聞えて居た。」となっている。
・コーダ部分の「そして、一人殘らず、まつくらな海の底へたたき込まれた。」と「かうして、不幸な騎士たちの計畫は、見事に破壞されてしまつた。彼等の美しいロマンチツクの船と一所に。とこしなへに歸らぬ海の底に。」の間に初出にはある行空けがない。ここは丁度、見開きの改ページに当たっている。しかし、行数を数えると、最終ページには余裕があり、一行空けをすることは出来たことが判る。ミスの可能性が高い。この行空けはコーダの肝になるもので、かなり痛い誤りである。
しかし、この前の三箇所は、全体や部分の詩想に影響を与えるような誤りではないからして、長詩であることもあり、かく指摘するに留め、初出形は示さない。
最後に一言言うならば、この萩原朔太郎の音楽的幻覚の背後には、ギリシャ神話のセイレーン(半身が女性で、半身が鳥(後に魚とされた)の三人の姉妹。鳥の翼を持ち、美しい歌声で船乗りたちを魅了するが、その歌声を聞いた者は、彼女たちに食い殺されるか、海の藻屑となるとされた)や、ファタ・モルガナ(Fata Morgana。イタリアのシャルルマーニュの伝説の妖精・女神。フランス語はモルガン・ル・フェイ(Morgan Le Fay)。英語「ファタ」「ル・フェイ」は英語の「フェアリー」の意。シチリア島とイタリア本土(カラブリア州)の間にあるメッシーナ海峡(Stretto di Messina)に出現する蜃気楼を彼女が魔法で出現させたものとする、幻想の島の名でもある(一説には、真に絶望した人間にのみ見ることが出来るともされているようである。少なくとも偏愛する漫画家星野之宣の名作シリーズ「妖女伝説」中の「蜃気楼――ファタ・モルガーナ――」ではそうした設定になっていた)があるように思われる。無論、私の愛する梶井基次郎の「器樂的幻覺」(昭和三(一九二八)年五月・『近代風景』発表)も強い親和性を持つ名品である。常々、私は梶井基次郎の多くの作品は、一種の散文詩だと思っている人種である。]
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