甲子夜話卷之二十三 11 安滿岳の烏 + 甲子夜話卷之八十七 2 安滿岳の鴉【再補】 (ともにフライング)
[やぶちゃん注:本二件は、現在、ブログ・カテゴリ「南方熊楠」で進行中の『「南方隨筆」版 南方熊楠「牛王の名義と烏の俗信」』の中の『「一」の(4)』の注に必要となったために、同対象であるので二記事をセットで、急遽、フライングして電子化する。]
23―11 安滿岳の烏
封内平戶の中に安滿嶽と云る森山あり。山上に神祠あり久く靈場と稱す。又寺院あり頗大宇なり。密樹屋を繞る後山に雙鴉棲めり。予も登山のときこれを視るに、翅下に一圓白あり。又寺前に一盤を設け、日々神供の食を盤上に置けば、鴉食して殘すことなし。從來この如しと云。この鴉たゞ一双にして餘鴉と混ぜず。又蕃生せずして年々產するもの雌雄のみにして其餘あることなし。年每に父鳥雛の成長を待て十月廿日を以て必ず去る。その夜月出の前に悲鳴良久く、別を惜むの狀あり而遠く飛去る。歲日違ふことなし。父鴉これよりして黑髮山に往て棲むと云。靈奇とも云べきことなり。
■やぶちゃんの呟き
「安滿岳」「安滿嶽」長崎県平戸市の平戸島北西部にある標高五百三十メートルの安満岳(やすまんだけ)(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。平戸市及び平戸島の最高峰。当該ウィキによれば、『安満岳は古代より島南部の志々伎山と並び平戸地域における山岳信仰の中心として崇敬を受けた』。『山頂近くには社伝によれば』養老二(七一八)年に『加賀国より分霊されたとされる白山神社が鎮座するほか、明治初期に廃寺となるまで』、『在地仏教勢力の中心的存在として』、『キリスト教布教を図る宣教師』ら『と対抗する』など『した西禅寺があった』(ここで静山が言っている「大宇」の「寺院」というのはそれだが、恐らくは廃仏毀釈によって、現存しない)。『江戸時代に入り』、『キリスト教が日本国内で禁教政策により地下潜伏(隠れキリシタン)する中、安満岳の山頂にある石塔(「薩摩塔」)と自然石による石祠が「安満岳の奥の院様」と呼ばれ』て、秘かに「隠れキリシタン」の『信仰対象とされた』とある。二〇一八年に「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」として世界遺産登録されている。
「頗」「すこぶる」。
「密樹屋を繞る」「みつじゆ、をくをめぐる」。
「雙鴉」「さうあ」。番いのカラス。
「翅下に一圓白あり」「はねしたに、いちゑんぱく、あり」。二羽ともに主翼の下方に白い円紋がある。
「この鴉たゞ一双にして餘鴉と混ぜず。又蕃生せずして年々產するもの雌雄のみにして其餘あることなし。年每に父鳥雛の成長を待て十月廿日を以て必ず去る」日付は別として、これは隠岐の西ノ島にある焼火山の焼火神社の神使とする番いの鴉の伝承と合致する。詳しくは、後に上げる『「南方隨筆」版 南方熊楠「牛王の名義と烏の俗信」 オリジナル注附 「一」の(4)』の私の注を参照。
「黑髮山」安満岳の南東約四十二・五キロメートルの佐賀県西松浦郡有田町広瀬山甲にある黒髪山であろう。
87-2 安滿岳の鴉【再補】
第廿三卷に、領内安漫岳双鴉のことを記せり。後「寬政東行筆記」【予作。】を見れば小異あり。廼擧ぐ。
この雙鴉、生來を知る者なし。山の住持憲明曰。反哺の頃に及べば、必ず神祠の前、石華表の邊に集り相啼。その聲別を惜が如し。𩚵を與るに神佛供の餕、若くは鬼に薦めし者を雜れば、喰はずして去る。登山の人これを呼に、小石を取て叩けば必ず飛來て樹間に鳴く。又「市井雜談集」を見るに、紀州高野奧院に御供の餘を與る一双の鴉あり。もし一山に凶事あれば來らず。寬永元年この鴉來らざることあり。其とき來迎院の良昌法印。
蔭ふかきねぐらにかへれ山鴉
聲をしるべの朝な夕ばみ
この詠に依て鴉飛歸て𩚵を喰しより、今も鴉來らざるときは、この詠を誦すれば須臾にして來ると。
迫記す。この歌少く解しがたし。何にして感能ありしや。
■やぶちゃんの呟き
「寬政東行筆記【予作。】」静山自身の作とするのだが、詳細不詳。
「廼」「すなはち」。
「生來」「しやうらい」。生まれ来たる様態。
「山の住持」先の注に示した西禅寺。
「反哺」「はんぽ」。ここは単に成体の雌雄となること。鴉は、成長の後、自分がそうされたように、親鳥の口に餌を含ませて養育の恩に報いるという。宋代の「事文類聚」などの故事によるが、無論、こんな習性はない。
「石華表」「いしとりゐ」と訓じておく。石の鳥居。
「相啼」「あいなく」。
「別を惜が如し」「わかれををしむがごとし」。
「𩚵」「餌」に同じ。「ゑさ」と訓じておく。
「與るに」「あたふるに」。
「餕」神饌や仏菩薩への供物の残り物。
「鬼」単なる「死者」の意。人間の死者への供物。
「雜れば」「まづれば」。
「市井雜談集」林自見(元禄九(一六九六)年頃~天明七(一七八七)年:現在の愛知県豊橋市吉田呉服町の町人の長男。名は正森、自見(じけん)は号。二十五歳の時、吉田町年寄役並びに利(とぎ)町・世古町庄屋を兼ねた。元文二(一七三七)年、吉田宿問屋役となり、宝暦五(一七五五)年まで務めた。この間、杉江常翁に師事して和漢の学を修めた)の随筆。宝暦一四(一七六四)年刊。著書に「三州吉田記」・「雑説彙話」・「三河刪補松」・「世諺弁略」・「戯言胡蘆集」・「技術蠡海録」・「雑戯栄」などがある。「市井雜談集」は翻刻されていない模様。
「寬永元年」一六四二年。
「來迎院」不詳。現在の高野山にはない。
「良昌法印」権大僧都法印威盛院良昌(りょうしょう)。
« 萩原朔太郎詩集 遺珠 小學館刊 斷片 病氣した魚介 / 筑摩版全集の「病氣した海底」或いは「病氣した魚介」(標題並存)の筑摩版が決定稿とするものの失われた別稿 | トップページ | 「南方隨筆」版 南方熊楠「牛王の名義と烏の俗信」 オリジナル注附 「一」の(4) /「一」~了 »

