萩原朔太郎詩集 遺珠 小學館刊 散文詩 手の幻影
手 の 幻 影
白晝或は夜間に於て幻現するところの手は必ず一個である。左である。
而してそは何ぴとにも語ることを禁ぜられるところのあるものの手である。
手は突如として空間に現出する。
時として壁或は樹木の幹にためいきの如き姿を幻影する。
手は歷歷として發光する。
手はしんしんとして疾患する。
手は酸蝕されたる石英の如くにして傷みもつとも烈しくなる。
手は白き金屬のごときものを以て製造され透明性を有す。
われの手より來るところの恐怖は、しばしばその手の背後に於て幽靈をさへ感知する。
微笑したるところの幻影であり、沈默せる遠きけちえんの顏面であることを明らかに知覺するとき我は卒倒せんとする。
我はつねに『先祖』を怖る。
編註 本篇は、本卷「蝶を夢む」拾遺中の「手」の原型である。
[やぶちゃん注:下線「左」は底本では右傍点「◦」、太字「あるもの」「ためいき」「けちえん」は傍点「ヽ」。「編註」にあるそれは、これを指す。そちらの注を参照されたい。そちらで電子化したものと比べると、「左」の傍点が「◎」であったり、「手は突如として空間に現出する。時として壁或は樹木の幹にためいきの如き姿を幻影する。」と、改行されていなかったりする異同があるが、これは原稿の判読の誤りととれば、納得出来る。]
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