萩原朔太郞詩集「蝶を夢む」正規表現版 石竹と靑猫 (ちょっと筑摩版全集を批判した)
石竹と靑猫
みどりの石竹の花のかげに ひとつの幻の屍體は眠る
その黑髮は床にながれて
手足は力なく投げだされ 寢臺の上にあほむいてゐる。
この密室の幕のかげを。
ひそかに音もなくしのんでくる ひとつの靑ざめたふしぎの情慾
そはむしかへす麝香になやみ
くるしく はづかしく なまめかしき思ひのかぎりをしる。
ああいま春の夜の灯かげにちかく
うれしくも死蠟のからだを嗅ぎてもてあそぶ
やさしいくちびるに油をぬりつけ すべすべとした白い肢體をもてあそぶ。
そはひとつのさびしい靑猫
君よ夢魔におびえて このかなしい戯れをとがめたまふな。
[やぶちゃん注:三行目「あほむいて」はママ。無論、筑摩版全集本文は「あふむいて」と消毒している。後の「底本 靑猫」でも「あほむいて」は頑固にママであるが、行末句点は除去している(これは再録に際して確認した朔太郎が除去したのだとすれば、偏執的な彼はあくまで「あふむいて」という自己だけの慣用表現に拘ったということを意味していると断言してよい)。
四行目末の句点は、同本文では除去されている。同全集の「校異 蝶を夢む」を見ると、清書原稿に句点がないとあるので、こちらの方は、まず、詩篇の流れからも、その校訂本文に於いては正当な校訂行為と言えるとは言えるであろう。以下に示す初出でも句点はない。
最終行「戯」の字体はママ。筑摩版全集は「戲」とする。「戯」は「戲」の略字であるから仕方ないと言えばそれまでだが、著者自身の編集になる「萩原朔太郞詩集」(昭和三(一九二八)年第一書房刊)及び「現代詩人全集」第九巻(昭和四年新潮社刊)では「戲」であるものの、萩原朔太郎が完全決定版と述べた「底本 靑猫」(昭和十一年版畫社刊)では、「戯」なのである。ご存知の通り、「底本 靑猫」には最後に囲み記事で「卷尾に」として、萩原朔太郎自身が(早稲田大学図書館「古典総合データベース」の初版原本の当該ページに拠った。冒頭の「二つの書の」は現在、筑摩版全集では『この書の』に書き換えられている)、
*
卷 尾 に
二つの書の中にある詩篇は、初版「靑猫」を始め、新潮社版の「蝶を夢む」第一書房版の「萩原朔太郞詩集」その他既刊の詩集中にも散在し、夫々少し宛詩句や組方を異にしてゐるが、この「定本」のものが本當であり、流布本に於ける誤植一切を訂正し、併せてその未熟個所を定則に改定した。よつて此等の詩篇によつて、私を批判しようとする人々や、他の選集に拔粹しようとする人々は、今後すべて必ずこの「定本」によつてもらひたい。
著 者
*
と述べているのを、萩原朔太郎という沃野に「テツテ」的に強力な殺菌・殺ウイルス剤を散布して平然としている筑摩版全集の編者らは、一体全体、どう考えているのであろうと、ふと、私は思うのである。
「石竹」ナデシコ目ナデシコ科ナデシコ属セキチク Dianthus chinensis 。初夏に紅・白色などの五弁花を咲かせる。葉が竹に似ていることが名の由来とされる。中国原産。
「麝香」私の「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 麝(じやかう) (ジャコウジカ)」を参照されたい。
「死蠟」adipocere(アディパウスィア)であるが、正しくは「屍蠟」である(筑摩版全集校訂本文では「屍蠟」に強制消毒されている)。死体が水中や湿潤な土中に置かれた場合、空気が遮断された状態に於いて諸条件が揃うと生ずる異常死体現象。死蠟の内、軟らかいものは、腐ったチーズ様を、硬いものは脆い石膏様を呈し、孰れも腐敗臭ではなく、黴臭いとされる。完全に十全に変質した死蠟は、水に浮き、水に不溶で、大部分はエーテルやアルコールに溶け、加熱すると、溶解して蠟のような性状をとるため、この名称が付けられてある。通常、皮下脂肪は二、三ヶ月で死蠟化し、深部組織は四、五ヶ月、全身の死蠟化には二、三年を要する(以上は平凡社「世界大百科事典」に拠った)。
初出は大正一一(一九二二)年七月号『日本詩人』であるが、標題は「屍蠟と靑猫」である。以下に示す。九行目「屍臘」はママ。
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屍蠟と靑猫
みどりの石竹の花のかげに ひとつの幻の屍體は眠る
その黑髮は床にながれて
手足は力なく投げだされ 寢臺の上にあほむいてゐる。
この密室の幕のかげを
ひそかに音もなくしのんでくる ひとつの靑ざめたふしぎな情慾
そはむしかへす麝香になやみ
くるしく はづかしく なまめかしき思ひのかぎりをしる。
ああ いま春の夜の灯かげにちかく
うれしくも屍臘のからだを嗅ぎてもてあそぶ
やさしいくちびるに油をぬりつけ すべすべとした白い肢體をもてあそぶ。
そはひとつのさびしい靑猫。
君よ夢魔におびえて このかなしい戯むれをとがめたまふな。
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筑摩書房編者よ、「この」苛立たしい「かなしい戯むれを」……「とがめたまふな」……。]
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