萩原朔太郞詩集「蝶を夢む」正規表現版 商業
商 業
商業は旗のやうなものである
貿易の海をこえて遠く外國からくる船舶よ
あひは綿や瑪瑙をのせ
南洋 亞細亞の島々をめぐりあるく異國のまどろすよ。
商業の旗は地球の國々にひるがへり
自由の領土のいたるところに吹かれてゐる。
商人よ
港に君の荷物は積まれ
さうして運命は出帆の汽笛を鳴らした。
荷主よ
水先案内(ぱいろつと)よ
いまおそろしい嵐のまへに むくむくと盛りあがる雲を見ないか
妖魔のあれ狂ふすがたを見ないか
たちまち帆柱は裂きくだかれ
するどく笛のさけばれ
さうして船腹の浮きあがる靑じろい死魚を見る。
ああ日はしづみゆき
かなしく沖合にさまよふ不吉の鷗はなにを歌ふぞ。
商人よ
ふたたび椰子の葉の茂る港にかへり
君のあたらしい綿と瑪瑙を積みかへせ
亞細亞のふしぎなる港々にさまよひ來り
靑空高くひるがへる商業の旗の上に
ああかのさびしげなる幽靈船のうかぶをみる。
商人よ! 君は冒險にして自由の人
君は白い雲のやうに、この解きがたくふしぎなる愁ひをしる。
商業は旗のやうなものである。
[やぶちゃん注:三行目「あひは」はママ。後発の二詩集への再録から、「あるひは」(ママ。歴史的仮名遣は「あるいは」でよい)の恐らくは植字の脱字である。初出未詳。]
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