萩原朔太郞詩集「蝶を夢む」正規表現版 夜の酒場
夜の酒場
夜の酒場の
暗綠の壁に
穴がある。
かなしい聖母の額(がく)
額の裏(うら)に
穴がある。
ちつぽけな
黃金蟲のやうな
祕密の
魔術のぼたんだ。
眼(め)をあてて
そこから覗く
遠くの異樣な世界は
妙なわけだが
だれも知らない。
よしんば
醉つぱらつても
靑白い妖怪の酒盃(さかづき)は、
「未知」を語らない。
夜の酒場の壁に
穴がある。
[やぶちゃん注:初出は大正三(一九一四)年十二月号『地上巡禮』。殆んどが表記違いに過ぎないが、全体の及んでいるので、言葉で示すより、そのまま出した方が楽なので、以下に示す。五行目の「頭」はママ。「額」の誤植の可能性が強い。
*
夜の酒場
夜の酒場の、
暗綠の壁に、
穴がある、
哀しい聖母の額、
頭の裏に、
穴がある、
ちつぽけな、
黃金蟲(こがねむし)のやうな、
秘密の、
魔術のボタンだ、
眼をあてて、
そこからのぞく、
遠くの異樣な世界は、
妙なわけだが、
だれも知らない、
よしんば、
醉つぱらつても、
靑白い妖怪の酒盃(さかづき)は、
未知(みち)を語らない、
夜の酒場の壁に、
穴がある。
*
筑摩版全集の「草稿詩篇 蝶を夢む」に『夜の酒場(本篇原稿一種一枚)』として以下が出る。明らかに二篇が載るが、同一原稿用用紙に纏めて載るから一種としているようだが、これは普通なら、二種扱いとしか思われない。不審。以下に示す。太字は底本では傍点「ヽ」。誤字(「つる」)と思しいものはママ。
*
酒場の壁穴
ちよつと御覽
穴のむかふに
夜の酒場の
壁に穴がある額がつる
裏の世界に
酒場の壁から
額の裏に穴がある
ちつぽけな
祕密な
魔術のボタンだ
いつも行くわたしのバアは
祕密な穴の
穴から さきの みえるその遠くの異樣な世界は
へんなわけだが
だれも知らない
ょしんば
お前が酒に醉はうとも
薄黑い靑白い妖怪の盃は
祕密あの「未知」をかたらない
わたしの夜の酒揚の
壁に穴がある。
酒場の壁穴
夜の洒場の、暗綠の壁に
壁に穴がある、
哀しい聖母の、
額の裏に、
穴がある、
ちつぽけな、
黃金蟲のやうな、
祕密な、
魔術のぼたんだ、
眼をあてゝ、
そこからのぞく、
遠くの異樣な世界は、
妙なわけだが、
だれも知らない、
よしんば、
酒に醉つぱらつても、
靑白い妖怪の洒盃(さかづき)は。
*
最後に編者注があり、『本稿の餘白に「折返し御返稿を願ます、編輯大急ぎの躰十九日か二十日には活字ニ組みかけさします」と北原白秋の筆蹟で書かれている。』とある。こんなものを添えられても、草稿は二種とする私の考えは変わらない。二番目は決定稿とは違うじゃないか!]

