伽婢子卷之十一 魂蛻吟
[やぶちゃん注:挿絵は二枚あるが、一枚目は底本の昭和二(一九二七)年刊の日本名著全集刊行會編になる同全集第一期「江戶文藝之部」第十巻「怪談名作集」のものを、二枚目は岩波文庫高田衛編・校注「江戸怪談集(中)」(一九八九年刊)の鮮明なものを、それぞれトリミング補正して適切と思われる箇所に挿入した。後者には一枚目の挿絵が所収されていないためである。]
○魂蛻吟(たましひ、もぬけて、さまよふ)
河内の國弓削(ゆげ)と云所に、友勝(ともかつ)とて、鍛冶(かぢ)の侍べり。
用の事ありて、大和の郡山に行て、日暮方に立歸りしに、あまりに草臥(くたびれ)侍べりしまゝ、山の傍らに休み居(ゐ)たり。
かゝる所へ、或る人、馬に乘りて、又、一疋の馬には、鞍、置ながら、追ひ立て、打過《うちすぐ》る。
友勝、いふやう、
「是れは、河内の方へ、おはするやらん。さもあらば、御馬一疋、借(か)し給へ。殊の外に道に勞れ侍べり。とても、乘る人もなき馬なれば、我を乘せてたびてむや。」
と云へば、馬の主《あるじ》、
「それこそ、いと易き事なれ。川の向ひの岸にて下りて給はらんには、それ迄は、乘り給へ。」
といふに、友勝、大に喜び、打のりてゆく。
川をのり渡して、岸に着き、馬より、くだり、
「御なさけの程、喜び奉る。」
と、いうて、馬を返しければ、馬主、鞭(むち)うち、追立《おひたて》て、行く方(がた)なく歸ぬ[やぶちゃん注:「新日本古典文学大系」版もこう(『帰りぬ』)なっているが、元禄版では『行がたなくなりぬ』となっている。そもそも「行く方」も判らないものを「歸りぬ」と言うのはおかしい。私は元禄版を支持する。]。
友勝は、日、已に暮て後に、家に立歸へりて、見れば、妻の女房も、子供、其外、兄弟一族、悉く集り、膳を調へ、食《じき》[やぶちゃん注:底本は『しき』。元禄版は読みなし。「新日本古典文学大系」版に従った。]を設け、さまざま、もてなし、遊び居たり。
[やぶちゃん注:自宅に帰った友勝が思い余って妻を打つシーン。左下に膳を前に座っているのが、友勝の娘であろう。その斜め右前にいる女は片口(かたくち)をのみ前に置いているから、家の女中でお酌をするために控えているのである。他の三名が友勝の兄弟姉妹である。]
友勝、歸りしかども、人々、見向きもせず。
友勝、我が子供の名を呼び、我が弟妹(おとと・いもと)の名をよべども、耳にも聞きいれず、物語し、酒、飮み、笑ひ、慰む事、もとの如し。
友勝、大きに腹立て、大聲を揚げ、どよみ、めぐれ共、更に知る人、なし。
餘りに、腹を立て、拳(こぶし)を握りて、妻子を打擲《ちやうちやく》すれ共、『それか』と思ひたる色もなく、
「友勝、内におはしたらば、いよいよ賑やかに侍らんものを。」
など、いふて、酒、飮みければ、友勝、思ふやう、
『扨は。我、忽ちに空(むな)しくなりて、魂《たましひ》ばかり、こゝに歸り、妻子も、一族も、我をば、見ざるらん。』
と、泪を流して、只、泣きになきけれ共、いよいよ、見る人もなかりければ、詮方なく、家を出《いで》て、村の外に出つゝ、立休(《たち》やす)らひければ、さしも氣高き人、驪(くろ)の馬にめされ、冠(かふり)を戴き、紫の直衣(なほし)・大紋の指貫(さしぬき)、着(ちやく)し給ひ、人、あまた、めし連れ、鞭を以て、友勝をさして、の給はく、
「あれは、未だ死ぬまじき者の魂なり。思はざる外の事に、さまよひ步(あり)く者かな。」
と、のたまふ。
こゝに、赤き裝束に、鳥帽子、着たる人、來りて、
「弓削友勝は、未だ、定業《ぢやうごふ》來らざる者なるを、大和川の水神(すいじん)、現はれ出たるに、馬を借りたり。水神、戯れて、魂を引出し侍べり。只今、本(もと)の身に返し納むべき爲(ため)に、我、これまで參りたり。」
とて、馬の前に跪きけり。
貴人(きにん)、少し笑ひ給ひ、
「水神、まことに、道理もなき事に、人の命を誑(たぶら)かして、己《おのれ》が戯れとするこそ、安からね。明日、必ず、刑罸、行ふべし。」
と、の給ふに、此者、恐れたる氣色にて、急ぎ、立寄りて、友勝を招きて、いふやう、
「馬上の貴人は、是、聖德太子也。常に科長(しなが)の陵(みさゝぎ)より出て、國中を巡り、惡神(あくじん)を治(しづ)め、惡鬼(あくき)を戒(いまし)め、人民を護り給へり。我は、これ、水神の眷族として、こゝに來れり。汝を、二たび、人間に返すべし。暫く、目を、ふさげ。」
とて、うしろに廻り、推(お)す、と覺えて、大和川の西の岸に、夢の覺めたる如くにして、甦(よみがへ)り、起き上りて、家に歸りければ、妻子は、待うけて、大きに喜び、
「今日は、一門、集りて、遊びし侍べり。如何に、夜更けては、歸り給ふぞ。」
といふ。
[やぶちゃん注:友勝が馬上の聖徳太子の霊に逢い、馬前に両手を揃えて跪くのは、水神の眷属で、太子に詫びに来て釈明しているところ。画面の左端下方に膝をついて、足先を爪先立てて聖徳太子を見上げているのが、友勝。右端は太子の傘持ちの布衣(ほい)の舎人(とねり)。]
友勝、聞きて、
「我は、かうかうの事、ありけり。」
と語るに、皆人(みな《ひと》)、聞て、驚き、怪しみ侍べり。
[やぶちゃん注:「河内の國弓削(ゆげ)」大阪府八尾(やお)市弓削町(ゆげちょう)附近(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。聖徳太子と後に敵対することになる豪族物部守屋の父尾輿(おこし)の母は、弓削連(ゆげのむらじ)の祖倭古連(やまとこのむらじ)の娘の阿佐姫であった。その弓削連の本拠地が旧若江郡弓削郷であった。
「鍛冶(かぢ)」「新日本古典文学大系」版脚注に、『聖徳太子の従者の宮地鍛冶師丸という人物名』があるとされ、それを通わせたものか、とされる。
「とても」副詞で「結局のところ~(であるのだから)」の意。
「驪(くろ)」黒毛の馬。
「科長(しなが)の陵(みさゝぎ)」推古天皇二〇(六二二)年二月二十二日に斑鳩宮で病死した聖徳太子が葬られた磯長(しなが)陵。特異的に考古学的にも彼の墓の可能性が高いとされる古墳である。
「大和川」弓削町の南を流れる。]
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