萩原朔太郞詩集「蝶を夢む」正規表現版 春の芽生
春 の 芽 生
私は私の腐蝕した肉體にさよならをした
そしてあたらしくできあがつた胴體からは
あたらしい手足の芽生が生えた
それらはじつにちつぽけな
あるかないかも知れないぐらゐの芽生の子供たちだ
それがこんな麗らかの春の日になり
からだ中でぴよぴよと鳴いてゐる
かはいらしい手足の芽生たちが
さよなら、さよなら、さよなら、と言つてゐる。
おおいとしげな私の新芽よ
はちきれる細胞よ
いま過去のいつさいのものに別れを告げ
ずゐぶん愉快になり
太陽のきらきらする芝生の上で
なまあたらしい人間の皮膚の上で
てんでに春のぽるかを踊るときだ。
[やぶちゃん注:「ぽるか」ポルカ(チェコ語:polka/英語:polka/フランス語:polka)は、十九世紀後半に流行した四分の二拍子の活発な舞曲。各小節の第三番目の八分音符が強調される。名称はチェコ語の「polska」(「ポーランド娘」の意)に由来するとされる。起源は不明だが、一八三七年にプラハで登場して以来、直ちに世界中に広まり、舞踏会やダンス・ホールに欠かせない存在となった。ヨハン・シュトラウス父子は、ワルツのほかにも多数のポルカを書いており、スメタナは、オペラ「売られた花嫁」(一八六六年初演)の他、さまざまな作品に、この舞曲のリズムを取り入れたことで知られている(以上は小学館「日本大百科全書」に拠った)。
本篇の初出は大正四(一九一五)年四月発行の『卓上噴水』で、初出では「春」と題されている。筑摩版全集で以下に示す。「ぐらひ」「子供だち」「ずいぶん」はママ。
*
春
私は私の腐蝕した肉體にさよならをした
そして新しく出來あがつた胴體からは
あたらしい手足の芽生が生えた
それらは實にちつぽけな
あるかないかも知れないぐらひの芽生の子供だちだ
それがこんな麗らかの春の日になり
からだ中でぴよぴよと鳴いてゐる
可愛らしい手足の芽生たちが
さよなら
さよなら
さよなら
と言つてゐる
おお いとしげな私の新生よ
はぢきれる細胞よ
いまいつさいのものに別れをつげ
ずいぶん愉快になり
きらきらする芝生のうへで
生あたらしい人間の皮膚のうへで
てんでに春のポルカを踊る時だ。
三月十七日
*
同全集の「草稿詩篇 蝶を夢む」には『本篇原稿六種六枚』とあり、二種が掲げられてある。同全集では四種を重要と判断せず、掲載していないことになる。以下、二種(孰れも無題)を以下に示す。二篇とも歴史的仮名遣の誤りや誤字(「健設」「らいまちす」など)・脱字はママである。
*
○
私は私の肉體にさよならをした
ふりすてゝ顧り見ない過去の腐蝕した肉體に
そうして新らしい胴體からはく健設した胴體から
新らしい手足が生えたの芽生がはえた
新らしい指の芽生がはえた
それはほんのそれはじつにちつぽけだな
あるかないかもわからないぐらいの芽生であるの子供たちだ、
それがこんな麗らかの春の日にすら
からだ中でぴよぴよ鳴いて居る
可愛らしい手足の芽生たちが
さよなら
さよなら
さよならといつて居る、
おおいとしげな私の新生よ
ちよいと空をごらん
太陽がくるりくるりとまわて居る、
からだ中が球のやうに
春の芝生を
いつさいのものに別れをつげ
うらゝかのきらきらする芝生の上で
みんな春のポルカをおどるのだ
[やぶちゃん注:「顧り見ない」はママ。以下の別稿も同じ。]
○
私は私の肉體にさよならをした、
ふりすてゝ顧り見ない 腐蝕 過去の肉體、
腐蝕した 過去の→らいまちすの 過去の肉體の上に別れは墓場の中で光つて居る、
らうまちすの羊みたいな奴に要はないのだ過去と告別した
お前は→を「時」の墓場の下で光つておいで、
そして見給へ新らしく出來あがつた胴體からは
新らしい手足の芽生がはえた
それはまだじつにちつぽけな
あるかないかわからないぐらいの芽生の子供たちだ
それがこんな麗らかの春の日になり
からだ中でぴよぴよ鳴いて居る
可愛いらしい手足の芽生たちが
さよなら
さよなら
さよならといつて居る
おおいとしげな私の肉體→細胞新生よ
はぢきれる細胞よ
いまはいつさいのものに別れをつげ
ずいぶん愉快になり
きらきらする春の芝生のうへで
私のいきいきした生あたらしい人體の皮膚の上で
てんでにみんな春のポルカを踊るのだ、
*
なお、筑摩版全集第三卷の『草稿詩篇「補遺」』の「斷片」パートに、
*
○
私の私の腐れきつた紳經にさよならをした、
そして新しく出
*
とあるのは(「私の私の」のくり返し及び「紳」の誤字はママ)、本稿冒頭部分に他ならない。]
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