萩原朔太郞詩集「蝶を夢む」正規表現版 靑空に飛び行く
靑空に飛び行く
かれは感情に飢ゑてゐる。
かれは風に帆をあげて行く舟のやうなものだ
かれを追ひかけるな
かれにちかづいて媚をおくるな
かれを走らしめろ 遠く白い浪のしぶきの上にまで。
ああ かれのかへつてゆくところに健康がある。
まつ白な 大きな幸福の寢床がある。
私をはなれて住むときには
かれにはなんの煩らひがあらう!
私は私でここに止つてゐやう
まづしい女の子のやうに 海岸に出で貝でも拾つてゐやう
ねぢくれた松の木の幹でも眺めてゐやう
さうして灰色の砂丘に坐つてゐると
私は私のちひさな幸福に淚がながれる。
ああ かれをして遠く遠く沖の白浪の上にかへらしめろ
かれにはかれの幸福がある。
ああかくして、一羽の鳥は靑空に飛び行くなり。
[やぶちゃん注:「ゐやう」は総てママ。初出は大正六(一九一七)年二月号『感情』。これは、先日、公開した『萩原朔太郎詩集 遺珠 小學館刊 遺珠 「靑空に飛び行く」(決定稿と初出)』で電子化してあるので、そちらを見られたい。なお、筑摩版全集の『草稿詩篇 蝶を夢む』の最後には、『靑空に飛び行く(本篇原稿一種一枚)』としつつも、掲げずに、『本篇原稿の題名は「一羽の鳥は岬の上に立てり、」とある』とのみ記す。]
« 萩原朔太郞詩集「蝶を夢む」正規表現版 腕のある寢臺 | トップページ | 萩原朔太郞詩集「蝶を夢む」正規表現版 冬の海の光を感ず »

