曲亭馬琴「兎園小説別集」上巻 西羗北狄牧菜穀考(その4) / 西羗北狄牧菜穀考~了
苜蓿追考
一日、屋代輪池翁、予が爲に小草一株を採しめて、その寫眞の圖一頁とともに寄せていはく、
「是は、これ、苜蓿なり。江戶中にも、墟地にあり。こは、昌平橋の邊[やぶちゃん注:「ほとり」と訓じておく。]なる堤に生たるものなり。」
と、いへり。予、これを觀るに、その草、「本草綱目」に所云[やぶちゃん注:「いふところの」。]、「苜蓿」に似ず、葉は「芳宜」のごとく、三葉、相巡[やぶちゃん注:「あひめぐ」。]りて、「いちご」の葉にも似たり。花は、さゝやかにて、其色、黃なり。實は、まろくして、やはらかき、剌、あり。おもふに、こは、「本草綱目啓蒙」に載するもの、すなはち、一種の苜蓿にて、眞の苜蓿には、あらず。しかれども、交遊の厚義・忠告、予が考索を、たすけらる。よろこぶベし、よろこぶべし。よりて、再び考るに、「本草啓蒙」【卷二十三。】に云、『苜蓿、オホヒ【「和名抄」。】、カタバミ、ウマコヤシ、マコヤシ、サバシツバ、カラクサ、アンヅル【城州一乘寺村。】、コツトイコヤシ【藝州。】、一名「連理草」【「陝西通志」。】、𦱒蓿【「品字箋」。「𦱒」は「苜」の俗字。】。
[やぶちゃん注:「墟地」ここでの場合は「荒地」というよりも、古くからあって、人の手がそれほど頻繁には入らない地所の謂いと思われる。でないと、昌平橋そばの堤(つつみ)というロケーションと一致しないからである。
「昌平橋」ここ(グーグル・マップ・データ)。
「芳宜」(はうぎ)は「芳宜草(はうぎさう(ほうぎそう))」で、萩(マメ目マメ科マメ亜科ヌスビトハギ連ハギ亜連ハギ属 Lespedeza )の別称。
「本草綱目啓蒙」本草家として知られる小野蘭山(享保一四(一七二九)年~文化七(一八一〇)年)の講義及びその講義録「本草綱目紀聞」を、彼の高弟らが、文語調に改め、出版したもの。第一版は享和三(一八〇三)年で、以後、数多く増補改訂して出版されている。明の時珍の、本邦での本草書のバイブル「本草綱目」の導入以降、わが国の本草学は急速に発展したが、その方向は次第に博物学へと発展進歩したが、そうした中でも本邦本草学の頂点に立つ著作で、体裁は「本草綱目」の解説書であるが、数多くの和漢古書を引用し、自説を加えるなど、内容は豊富である。とくに個々の薬物名(動・植・鉱物名等)に於いては、日本各地の方言名も記されており、本草書としてばかりでなく、植物学・言語学の領域でも利用価値が甚だ高い。蘭山の本書口述の理由の一つには、貝原益軒の「大和本草」に誤りが多く、それを批判的に正す目的があったとも私は聞いている。私も和書の博物書としては非常に好きなもので、しばしばお世話になっている。国立国会図書館デジタルコレクションで全巻が読め、ダウン・ロードも出来るが、一括一発でそれが出来る「人文学オープンデータ共同利用センター」のこちらを利用されるのがよい。画像が明るく明瞭で極めて読み易く(刊本自体が非常に綺麗な作りで、漢字カタカナ交りの非常に読み易い楷書であって若い方にもお薦めである)、私もそれで全巻を入手して重宝している。但し、ここでは指示が簡単な国立国会図書館デジタルコレクションで示す。「卷二十三」の「菜部」の「菜之二」のここである。馬琴の引用の版と、名称の部分が少し違うので、以下に全部を電子化しておく(「乄」は「シテ」の約物)。
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苜蓿
オホヒ【「和名鈔」。】 カタバミ ムマゴヤシ
マゴヤシ サバ ミツバ
カラクサ ヱンザヅル【城州一乘寺村。】
コツトイゴヤシ【藝州。】
〔一名〕連理草【「陝西通志」。】 𦱒蓿【「品字箋」。「𦱒」ハ「苜」ノ俗字。】
原野ニ多シ。秋間、子、生ズ。長ジテ、一根ニ、叢生ス。莖、地ニ布テ[やぶちゃん注:「しきて」。匍匐して。]、蔓ノ如シ。長サ、一、二尺。葉、互生ス。形、隨軍茶ノ葉ニ似テ、小ク、五、六分ノ大サニ乄、邉ニ、細鋸齒アリ、深緑色。三月、葉間ニ、三、五、小花穗ヲナス。黃色、隨軍茶(ハギ)ノ花ニ似テ小シ。後、莢ヲ結ブ。卷曲乄、柔刺アリ。夏月、熟シテ、苗・根、共ニ枯ル。一種、葉間ニ細莖ヲ生ジ、數花、毬ヲナス者アリ。
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この「隨軍茶(はぎ)」は、現行では狭義にヤマハギ Lespedeza bicolor var. japonica を指す。「一乘寺村」京都府京都市左京区の北東部に一乗寺地区。現在の、概ね左京区内の「一乗寺」を町名に冠する地区の総称。左京区の北東部に位置し、東は比叡山、南は田中、西は高野、北は修学院と接する。この附近。「連理草【「陝西通志」。】」(同書は清の沈清崖の陝西の地誌)とあるが、「中國哲學書電子化計劃」の影印本で見ると、「中京雜記」出典で「連枝草」とあり、誤りである。
以下、底本では「輪池堂の記に……と、いへり。」までが、全体が一字下げ。]
原野に多し。秋間、子、生ず。長じて、一根に、叢生す。莖、地に布て、蔓の如し。長さ、一、二尺。葉、互生す。形、隨軍(はぎの)茶葉に似て、小く、五、六分の大さにして、邊に、細き鋸齒、あり、深綠色なり。三月、葉間に、三、五、小花穗を、なす。黃色、隨軍茶の花に似て、小し。後、莢を結ぶ。卷曲して、柔刺、あり。夏月、熟して、苗・根、共に、枯る。一種、葉間に細莖を出して、數花、毬をなすものなり。
輪池堂の記に、『「金光明最勝王經」、「辨才天女品湯藥十五」、苜蓿、其一也』。と、いへり。
[やぶちゃん注:先に示した「大蔵経テキストデータベース」で示した「金光明最勝王經」のそれは「大辯才天女品第十五」の文中にある。ここでは、中文サイト「福智全球資訊網」の電子化されたものをリンクさせる。二段落目にある。]
[やぶちゃん注:苜蓿の第一図である。国立国会図書館デジタルコレクションの画像をトリミング補正した。]
愚、按ずるに、「西京雜記」に載する所の漢の苜蓿園、風、その間に在れは、蕭々然たり。よりて「懷風」と名づく。又、光風と名づく、とあるに據るときは、その高さ、三、四尺にして、「芳宜」のごときものならん、と思はる。しかるに、「啓蒙」には、『莖は地に布て、蔓の如し。長、一、二尺。』といへば、無下に小草なり。この土[やぶちゃん注:「ど」。本邦の意。]の苜蓿は、形のごとくの小草なる故に、常に刈とりても、牛馬に飼ふにて、足らず。まいて、荒年の夫食にするに足るものならねば、むかしより、植るもの、なきななるべし。すべて草木・藥品は、和漢のたがひありて、形の小大も、おなじからず。その効能も、互に異にして、且、優劣あり。かゝれば、この土の苜蓿は、西羗の苜蓿と、おなじからず。縱[やぶちゃん注:「たとひ」。]、牛馬に飼ふとも、牛馬を肥す効能の有無、はかりがたし。況や、苜蓿に似たるものをや。只、名によりて、その物を擇むことの疎[やぶちゃん注:「おろそか」。]ならば、亦、何の益あらん。さて、和品の苜蓿は、、かばかりの小草にては、牛馬に飼ふに足るべくも、あらず。しかれども、皇國にても、西國・北國・蝦夷地などには、彼[やぶちゃん注:「かの」。]西羗のものにひとしく、いと大きなる苜蓿あらんか。これも亦、しるべからず。今、江戶にある苜蓿は、その葉こそ相似たれ、花は穗をなさずして、子も亦、圓扁たることなし。卷曲もせず、圓く、小さし。名のおなじきに泥まずして[やぶちゃん注:「なじまずして」。]、採るもの、よろしく辨ずべし[やぶちゃん注:「ず」の濁点は吉川弘文館随筆大成版で補った。]。
[やぶちゃん注:苜蓿の図のその二。引用は同前。右上に「子」(たね)、左上に「花」とある。]
[やぶちゃん注:以上、蘭山の言っている黄色い花で、相対的に大きいとするのは、やはり現在のマメ目マメ科マメ亜科シャジクソウ連ウマゴヤシ属ウマゴヤシ Medicago polymorpha を指していることが、明白である。なお、ウマゴヤシの原産はヨーロッパで(私は「うまごやし」というと、偏愛するルナールの「にんじん」を思い出す。私の二〇〇八年の古いサイト電子化「ジュウル・ルナアル作 岸田国士訳 挿絵 フェリックス・ヴァロトン(注:やぶちゃん copyright 2008 Yabtyan)」の「苜蓿」を見られたい)であるが、江戸時代には日本に入ってきている、当時は新しい帰化植物であった(思うに、南蛮貿易の割れ物のクッションにウマゴヤシの葉が使用されたのではないかと私は考えており、本来は意図的に持ち込まれた外来種ではないと思う)。現在でも、しっかり全草を肥料・牧草にするので、「馬肥(うまごやし)」の他、「特牛肥(こっといご)やし」(「こつとい」は古くは「こというじ」とも呼んだ。頭が大きく、強健で、重荷を負うことの出来る牡牛。「ことい」「こってい」「こといのうし」とも呼んだ)の名がある。以上の馬琴の「馬の飼料にはならない」と貶して言っている方は、まさしく、現在も民間通称として生きている噓の「うまごやし」、私の愛するマメ科シャジクソウ属 Trifolium 亜属Trifoliastrum 節シロツメクサ Trifolium repens であると断じてよい。
「夫食」(ふじき)と読む。平時でも農民の食料一般を指したが、特に米以外の雑穀を指すことが多く、地方によっては芋や蒟蒻を主食とし、それを意味する場合もあった。幕府・諸藩は凶作に備えて、救荒備蓄としてそうした穀類や蔬菜の貯留を奨励したり、凶作・飢饉時には救済のため、貸付(夫食貸) も行なったが、現在の政府と同じで、その貸付・返済をめぐっては、農民闘争の原因となることが多かった。
以下、「草案なり。」までは、底本では全体が一字下げ。]
松前老候の懇によりて、前日、「牧馬菜穀考」一編を綴りて、まゐらせしに、輪池翁の好意によりて、一種の苜蓿を得たりしかば、又、この追考の編をも、まゐらせて、件の草をも見せまゐらせき。こは、その折の草案なり。
乙酉六月廿五日 瀧 澤 解 識
未見の人、紀藩の源珪甫、その著す所の「禹鑿堂漫錄」五卷を、予に寄せて、その書の校正及び序文を請へり。きのふ、友人文寶亭、その書を屆け來りしかば、燈下に繙閱する程に、「第三卷 本草」と題せし條に、苜蓿の事、有。その辨論、愚意と暗合したるをもて、こゝに錄して、遺忘に備ふ。
『「禹鑿堂漫錄」に云、『「前漢書」、『樓護通二本草一。』』。古の本草は簡約なるべし。今は衆口雜駁、日を逐て、臆說を累に[やぶちゃん注:「かさぬるに」。]、派別・支流して、其眞を失へり。夫、物は一種にして、名に方言の違ひあり。蒹葭・蘆荻・藋葦・菼薍・薕虇は、みな、一種にして異ならず。難波の蘆は伊勢の濱荻の如し。强て辨別せば、却[やぶちゃん注:「かへつて」。]、魯魚の惑をなさん。今、所謂、苜蓿は三葉の水草、暮春、黃花を開く。近年、京師の某、苜蓿九名を著す。カタバミ・馬肥シ・サバヱンドウ・マコヤシ・コツトヰコヤシ・ヱンツル・カラクサ。ケンケ、如ㇾ此。「蓬窓續錄」に【馮可時。】」云、『古稱二蓼杖一、卽苜蓿也。』。一書曰、「苜蓿、根粉を剪て塗る時は、辷り、能して不ㇾ用二人手一而行。」とあり。此は葛粉の如き者なり。「西京雜記」曰、『苜蓿一名懷風。又或謂二之光風一。風在二其間一、常に蕭々然たり。日照二其花一有二光采一。故名二苜蓿一爲二愼風一。茂陵人謂二之連枝草一。』。按ずるに、苜蓿は山葛の類、藿葉也。馬に飼べし。水草にあらざること可ㇾ知。又、菰といふもの、今以ㇾ蒲當ㇾ之誤也。「周禮」に、『六穀の菰』、註に『彫胡』とあり。美濃國、土俗、所謂、「花がつみ」、卽、「彫胡」なるべし。水面に浮て、白花を開く。實は蕎麥に似て、味、甘美也。粉にして食ㇾ之。杜詩に『波漂二菰米一沈魚黑』。由ㇾ是、觀ㇾ之、浮萍之類なる事、明し[やぶちゃん注:「あきらけし」。]矣。
[やぶちゃん注:「松前老候」ここでやっと明示された。正編でもしばしば登場した先代の第八代松前藩藩主松前道広(宝暦四(一七五四)年~天保三(一八三二)年)である。彼は文化四(一八〇七)年五十四の時、藩主在任中の海防への取り組みの不全や、吉原の遊女を妾にするなどの素行の悪さ(遊興費が嵩み、商人からの借金が嵩み、藩の財政も窮乏していた)を咎められ、幕府から謹慎(永蟄居)を命ぜられていた(後の文政五(一八二一)年には謹慎は解かれた)。馬琴の長男琴嶺舎滝沢興継は松前藩の医員であったため、馬琴が最も親しい大名であったのである。]
「牧馬菜穀考」馬琴が個人的に献じたものらしい。活字では残っていない模様である。
「乙酉」文政八(一八二五)年。
『紀藩の源珪甫、その著す所の「禹鑿堂漫錄」』高牧實氏の論文「滝沢馬琴 書籍の蒐集・抄録・借覧 ㈣完」(PDF)の「追補」(PDFで54コマ目・ページでは58ページ)に、
《引用開始》
「禹鑿堂漫録」 天保十三年九月二十六日篠斎宛書翰(『馬琴書翰集成』第六巻 六一・六二頁)に、全五巻を、下谷御徒歩衆で走書の名人に筆料金一両一分で写させたことがみえる。紀州の学士某弥学の随筆、友人文宝亭の紹介で序文と校訂を頼まれたが、潤筆料の件で破談して原本返送を催促されたので、急いで写させて返本した、といゝ、篠斎に売り渡すべく見本一巻を送本した。近来の随筆の第一の好書、年来の愛書、是迄、誰にも見せていない、と申し送っている。写させた時期については詳らかでない。
《引用終了》
とあるのが本書である。渡辺竜門及び源珪甫の名で、こちらの書誌に「龍門漫録」全五巻・附録一巻とし、「タイトル別名」に「禹鑿堂漫録」「龍門廢語」「龍門廢話」とある。他に調べて見ると、源珪甫の名で「類聚伊勢誌」という地誌らしきものも書いているようである。但し、同書はネット上では閲覧出来ない模様である。にしても、高牧氏の以上の記載には、あきれるほど、憮然とするではないか! 馬琴は自分が考証して口述したものを、一説として、勝手に自分の作品に書き記した中神梅龍園を恨んでいる(『曲亭馬琴「兎園小説外集」第二 江戶地名考小識』を見よ)くせに、ここでは――仕事料が安過ぎて破約となり、返本を要求されたため、急いでその写本を作らせ、それを別な人物に売り渡そうとした――というトンデモない詐欺行為を働こうとしてるじゃないか! クソ馬糞、基! 馬琴がッツ!
「萬堅堂漫錄」不詳。
「樓護通二本草一」「漢書」の「傳」の中にある「游俠傳」の一節に、
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樓護、字君卿、齊人。父世醫也。護少隨父爲醫長安、出入貴戚家。護誦醫經・本草・方術、數十萬言、長者咸愛重之。共謂曰、「以君卿之材、何不宦學乎。」。繇是辭其父、學經傳、爲京兆吏數年、甚得名譽。
(樓護、字(あざな)は君卿、齊(せい)の人。父は世醫なり。護、少(わか)くして、父に隨ひ、醫を長安にて爲(な)し、貴戚の家に出入せり。護、醫經・本草・方術を誦(そらん)ずること、數十萬言、長者は咸(みな)、之れを愛し重じたり。共に謂ひて曰はく、「君卿の材を以つて、何ぞ宦學(くわんがく)せざらんか。」[やぶちゃん注:「仕官の道を選ばぬのか?」]と。是れに繇(したが)ひて、其の父に辭して、經傳(けいでん)[やぶちゃん注:儒教の経書とその注釈書。]を學び、京兆の吏と爲(な)りて、數年、甚だ名譽を得。)
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とある。実は「本草」という言葉が漢籍に出現するのは、現存書では「漢書」が最初なのである。ここはただその濫觴を言ったに過ぎない。
「蒹葭・蘆荻・藋葦・菼薍・薕虇」恐らく総てヨシ(イネ科ダンチク亜科ヨシ属ヨシ Phragmites australis )の類を指すものと考える。
「魯魚の惑」「魯魚(烏焉(うえん)・亥豕(がいし))の誤り」のこと。「魯」と「魚」、「烏」と「焉」、「亥」と「豕」とは、孰れも字形が似通っていて誤りやすいところから、 文字の誤り。但し、ここでは、文字の違いで、異物と判断する誤謬を言っている。
「水草」これは湿地或いは潤いのある地面を好む草の謂いであろう。
「サバヱンドウ」意味不明。
「ヱンツル」同前。
「カラクサ」「唐草」。中国渡来由来。
「ケンケ」紫雲英(げんげ)。マメ目マメ科マメ亜科ゲンゲ属ゲンゲ Astragalus sinicus 。マメ科シャジクソウ属 Trifolium 亜属Trifoliastrum 節シロツメクサ Trifolium repens とは別種であるが、葉がちょっと似て見える。シロツメクサとゲンゲを同じものと思っている人は、案外、多い。
「蓬窓續錄」「【馮可時。】」明の政治家馮時可の誤り。一六六一年成立の随筆。
『「西京雜記」曰……』(その3)で当該部も含めて既注済み。
「山葛」マメ目マメ科マメ亜科インゲンマメ連ダイズ亜連クズ属クズ変種クズ Pueraria montana var. lobata ? ぜんぜん、ちゃいまんねん! なお、「山葛羅」で、ヒカゲノカズラ植物門ヒカゲノカズラ綱ヒカゲノカズラ目ヒカゲノカズラ科ヒカゲノカズラ属ヒカゲノカズラLycopodium clavatum の異名もあるけんど、あれは、ごっつう大きいスギゴケにしか見えへんから、それもちゃうわ!
「藿葉」不詳。「藿」(音「カク」)は「豆」の意だから、豆のような葉の意か。「藿香」で「かはみどり」と読めば、薄荷の匂いのするシソ目シソ科カワミドリ属カワミドリAgastache rugosa があるが、ウマゴヤシとは似ても似つかぬもので、違う。単なる感じだが、馬はカワミドリは食わんと思うね。
「菰」前に出したマコモのこと。
「花がつみ」は美濃に限定せず、全国的にマコモの異名として知られる。清音「はなかつみ」とも呼び、漢字は「花勝見」「花勝美」などを当てる。但し、もとは万葉以来の古語(序詞の末に置いて、「かつ」を引き出すために用いられることが多い)で、マコモに限定は出来ず、広義に水辺に生える花や穂を出す草花の総称と思われ、「まこも」以外の「花あやめ」「よし」「かたばみ」などの諸説がある。さらに、この記者は最後に「浮萍之類なる事、明し」なんて言っているところは、不審で、これはじぇんじぇん違う、菱(フトモモ目ミソハギ科ヒシ属ヒシ Trapa japonica )を想定しているようにしか思えない。
「杜詩に『波漂二菰米一沈魚黑』」「魚」は「雲」の誤り。「波は菰米(こべい)を漂はして 沈雲 黑く」。所持する一九六六年岩波文庫刊「杜詩」(鈴木虎雄・黒川洋一訳注・全八冊。本篇は第六冊所収)で確認した。七六六年杜甫五十五歳の時の作。「秋興 八首」の「七」の七言律詩の第五句。訳では、『そうして黒くみのった菰米は波にただよわされてその影が沈める雲の黒きが如くみえ、』とある。語注には『菰米 彫蔀米というものである、まこもに似ている植物にみのる一種の米である。』とあるが、中文ウィキの「菰」を見ると、食用部の異名の一つに「彫胡米」が記されてあるので、やはりマコモでよい。全詩は、紀頌之氏の「杜甫詳注 杜詩の訳注解説 漢文委員会」のこちらを見られたい。
以下、底本では全体が一字下げ。]
解云、皇國の苜蓿を水草とする事、これも亦、非なり。
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