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2021/12/31

ブログ・アクセス1,650,000突破記念 梅崎春生 春日尾行

 

[やぶちゃん注:昭和二八(一九五三)年五月号「オール読物」初出で(春生は作品内で発表誌を出してサーヴィスなんぞしている)、後の昭和三〇(一九五五)年十一月近代生活社刊の作品集「春日尾行」に標題も使用されて所収された。

 底本は昭和五九(一九八四)年沖積舎刊「梅崎春生全集第三巻」を用いた。

 文中に簡単な注を挿入した。不明の二箇所で情報の御提供を願ったので、どうか、よろしくお願い申し上げるものである。

 なお、本テクストは2006518日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来、本ブログが、本日、この年末に至って、先ほど、1,650,000アクセスを突破した記念として公開する。【20211231日 藪野直史】]

 

   春 日 尾 行

 

 夕方のことです。

 二三日来うらうらと暖かく、おだやかないい天気がつづいていました。僕は所在なく縁側にあぐらをかき、庭樹を眺めたり空ゆく雲を見上げたり、こんな夕方にはビールが好適だなどと考えてみたり、うつらうつらとしているうち、ふっと人の気配がしたので、見ると長者門の下にぼんやり立っているのは、矢木君なのでした。矢木君というのは、僕の友人で、歳は僕よりも一廻り少い。職業は画家ということになっていますが、あまり画が売れてる話も聞かないし、まあ画家の卵といったところでしょう。[やぶちゃん注:「長者門」は長屋門に同じ。但し、当時の梅崎春生は借家住まいであったから、これは洒落で、普通の門であろう。「矢木君」恐らくは梅崎春生が小説でよく登場させるエキセントリックな絵描きのモデルである画家秋野卓美(大正一一(一九二二)年~平成一三(二〇〇一)年)であろう。「立軌会」同人で、元「自由美術協会」会員。「一廻り」ではないが、春生(大正四(一九一五)年生)より七つ年下である。元は春生の妻恵津さんの知り合いであった。昭和二七(一九五二)年十月発表に「カロ三代」を参照。]

 矢木君は僕の方を見て、眼をしばしばさせ、照れたようなまぶしいような、妙な笑い方をしました。そしてしずかに口を開きました。

「今日は」

「おはいりよ」

 と僕は答えました。

 矢木君は縁側に近づいて来ました。見ると彼は右手に重そうに、ビールを半ダースほどぶら下げているではありませんか。今しがたビールのことを考えていたばかりなので、僕はもう頰がむずむずと弛(ゆる)んで、にこにこ笑いがこみ上げてくるのをどうしても止めることが出来ませんでした。矢木君はビールをどさりと縁側に置き、自分も腰をおろしながら、庭をぐるりと見廻しました。

「はあ。ここの桜も満開ですな」

「こんな暖かさだから、どこの桜だって満開だよ」

「はあ。そんなものでしたな」

 矢木君はそんな間抜けな返事をしながら、急に声を低めてひとり言のように呟(つぶや)きました。

「やはり、棒引きということにしとこうかな。いや、それでは少し――」

「何の話だね?」

 と僕は聞きとがめました。矢木君という男は、日頃からどこかトンチンカンなところがあって、話の通じないことがよくあるのです。矢木君はエヘヘと笑いながら、まぶしそうに僕の方に向き直りました。

「実はね、あなたにね、六千八百円ばかり貸してあるでしょう。その金のことですけどね――」

「僕に貸してある?」

 僕はびっくりして、さえぎりました。

「僕は君から金を借りた覚えはないよ」

「覚えがなくったって、あなたは僕に借りているのです。そいつを棒引きに――」

「棒引きにもポン引きにも――」

 と僕は呆れて、嘆息しました。

「君は時々トンチンカンになるようだね。なにか夢でも見たんじゃないのかい。季節の変り目だから、用心してしっかりすることだね」

「夢じゃないですよ。うつつのことですよ」

 矢木君はすこしも騒がず、たしなめるような口調になりました。

「自分では気がつかないでも、先様の方でそんな具合になってる。よくあり勝ちなことです。今からビールでも飲みながら、説明して上げたいと思うんですが、都合はいかがですか?」

「ビールは結構なことだが、一体――」

「はあ。話の最初は、腕時計からです」

「腕時計?」

「そうです。腕時計です」

 そう言いながら矢木君は靴を脱いで、ごそごそと縁側に這(は)い上って来ました。

 以下、ビールを酌み交しながら、矢木君がめんめんと物語った、昨日一日の彼の行動です。だから、以下の文章で、僕というのは、もちろん矢木君のことです。

 

『はあ、その腕時計というのはね、四五日前、酔っぱらった僕の友人が、僕の部屋に置き忘れて行ったものなんですよ。まだ真新しくって、何でも一万五千円出して買ったんだそうです。なかなか感じのいい、しゃれた型の時計でした。

 で、友達が取戻しに来ないもんだから、この四五日、僕が重宝(ちょうほう)して使ってたわけなんですが、さて昨日の朝のことです。昨日は日曜でしたね。朝遅く起きて、井戸端で歯をていねいにみがき、さて顔を洗おうと、掌にこてこてと石鹸を塗りつけた時、ふと気が付くと、手首にその腕時計をつけたままじゃありませんか。僕はあわてて、革をつまみ上げるようにして、それを外した。外したまではハッキリ覚えてるけど、それをどこに置いたか、それが全然ハッキリしないんですよ。きれいさっぱりと記億から拭い取られているんです。

 なぜこんな妙な記億脱落があったかと言うと、それが全部じゃないでしょうが、ちょっとした理由があったのです。と言うのは、つまり、井戸端にいたのは、僕一人じゃない。顔を洗っている僕のすぐそばに、駒井美代子嬢がつつましくしゃがんで、じゃぶじゃぶと洗濯をしていたんです。

 駒井嬢というのは、僕と同じ家に間借りしている、二十前後の女性です。もちろんまだ独身で、どこか会社にタイピストとして勤めてる。ちょっと可愛い顔をしてるし、身体つきもなかなか良い。いつかモデルになって呉れと頼んで、断られたこともあるんですけどね。なかなか気性の烈しいところもある娘(こ)なんです。その娘が、日曜だものだから、シャンソンか何か口吟(くちずさ)みながら、洗濯してたというわけです。

 で、しゃがんでいる関係上、僕の位置から、その可愛い素足の膝頭が、スカートの間からちらちらとのぞけて見える。え? 膝頭だけじゃなかろうって? ええ、ええ、そんなものが、とにかくちらちらと見える。画描きだって、そんなことはありますよ。つい頭がくらくらして、とたんに記億が脱落したんでしょうな。僕は邪念を追っぱらうために、盛大な水音を立てて、ジャブジャブと顔を洗いましたよ。

 さて僕が顔を洗ってる間に、駒井嬢はさっさと洗濯を済ませて、物干場の方に行ったらしいのです。タオルで顔を拭き上げると、彼女の姿はもうそこには見えなかった。やれやれと思いながら、さっきの腕時計はと探すと、そこらに見当らないじゃありませんか。ポンプの台の上にもないし、吊棚の上にも見当らない。僕はギョツとしましたよ。なにしろ一万五千円ですからな。急いで記億を探り廻しても、どこに置いたか、ついハッキリしない。物干場の方からは、駒井嬢が口吟む″巴里の屋根の下″か何かが、ほがらかに聞えてくるんです。[やぶちゃん注:「吊棚」井戸に屋根がついており、そこに物を置く簡易な吊り棚があるのであろう。「巴里(パリ)の屋根の下」(Sous les toits de Paris )は、一九三〇年に制作されたフランスのロマンティック・コメディ映画で、同時に一世を風靡したその主題歌の題名。監督は名匠ルネ・クレール(René Clair)。ストーリー・キャスト・スタッフは当該ウィキを参照。YouTube のこちら(ghbook氏)で冒頭と音楽が視聴出来る。]

「盗られたんじゃないかな」

 とっさにそう僕が思ったのも、無理な話じゃないでしょう。僅かの時間の間に、物体が消失する。物理的にも不可能な話ですからな。僕はいきなり嫌疑を駒井嬢にかけた。あんな虫も殺さぬ顔をして、あいつ存外のしたたか者に違いない。素足を見せびらかしたのも、色仕掛で僕の頭を輝れさせようという、そんな邪悪な魂胆だったかも知れないぞ。そんなことを頭で忙しく考えながら、僕は井戸端に棒立ちになっていました。五分間も立ちすくんでいたようですな。

 しかし、立ってただけじゃ、腕時計が出て来る筈もない。じゃ駒井嬢をつかまえて詰問するか。証拠がないんだから、そんなわけにも行かない。シラを切られりゃ、それっきりですからね。

 僕は憂鬱で腹の中が真黒になって、そこで二階の自分の部屋に、しおしおと戻って来たんです。折角のいい天気なのに、何と幸先が悪いことだろう。一万五千円もする時計を失くすなんて、何という阿呆なことか。僕はもうむしゃくしゃして、外出する気にもなれず、出窓に頰杖をついて、空を眺めたり地面を眺めたりしていたのです。そして三十分も経ったでしょうか』

 

『ふっと下を見おろすと、この下宿の玄関から、駒井嬢が出て行くところじゃありませんか。アッと僕は思って、急いで窓から離れ、机の上のスケッチブックを小脇にかかえて、大急ぎで階段をかけ降りたのです。その時の気持で言えば、どうしても放って置けないような気がしたんです。

「俺の時計を、どこか古物商にでも売りに行くんじゃないかな?」

 そんな疑いが、ちらと頭に浮んだ。靴をつっかけて表に出ると、三十米ほど先を、駒井嬢がゆうゆうと歩いて行く。ひとつ尾行してやれ。パッとそれで心が決ってしまった。古物商あたりで、売買の現場を押えて、そして時計を取戻してやろう。そんな気持だったですな。そして僕は、何食わぬ顔をして、そっと彼女のあとをつけ始めたんです。

 彼女は横丁を出て、駅の方に歩いて行きます。十米ばかり遅れて、僕がついて行く。他人を尾行するということは、へんな楽しさがありますな。やがて彼女は足を止めて、とあるミルクホールに入りました。僕はと言えば、やはり足を止めて、ちょっと考え込み、そして同じくミルクホールの扉を押しました。駒井嬢の視線が、チラと僕を突き刺したようですが、しかし僕は素知らぬ顔をして、別の卓に腰かけました。

 駒井嬢が注文したのは、牛乳とトーストです。僕もお腹が空いていたので、同じものを注文しました。

 食べ終ると、彼女は手提(さ)げから金を払って、外に出る。僕も同じく外に出る。十米の距離を保ってついて行く。彼女は妙な表情で、二度か三度か振り返って僕を見たですな。それから街角の本屋に飛び込んだ。すなわち僕も飛び込む。もう尾行すると言うより、多少は厭がらせの気分もあったようです。何しろ一万五千円ですからねえ。

 彼女はちらちらと僕を横目で見ながら、それでも″オール読物″か何かを一冊買ったようです。ぐいとそれを手提げに押し込むと、ぷんぷんしたような動作で表に出た。僕も急いで表に出たら、いきなり待伏せていたように彼女が詰めよって来ました。

「あんた、何であたしのあとをつけるのよ――」

「つけてやしないよ」

 と僕は答えました。

「あんまりいい天気だから、散歩してるんだよ」

「散歩するんだったら、あたしの歩くところと、別のとこにしたらどう?」

「そりゃ僕の勝手だよ」

 僕もつけつけと言ってやりました。

「僕が歩いて行こうとすると、前をウロチョロされて、こっちの方がよっぽど迷惑だよ」

 駒井嬢の眉根がキリリと上りました。怒ったらしいんです。尾行されて、時計が売れないもんだから、怒ったんだな。僕はそう解釈して、追い討ちをかけるように言葉をつぎました。

「それとも、つけられで困るなんて、何か後暗いところでもあるのかい?」

「そら、やっぱりつけてるんじゃないの!」

 と彼女はキンキン声を立てました。

「今朝の井戸端ででもさ、変な眼付であたしの脚を見詰めたりしてさ。あんた、少し変態じゃない――」

 僕はたちまちどぎまぎしました。なにしろ真昼間の街なかでのキンキン声です。僕がたじろいだのを見ると、彼女は鼻をつんと反(そ)らして、勝ち誇ったようにくるりと向うをむき、トットッと歩き出しました。井戸端での俺の視線に気付かれていたとは不覚だったな。しかし次の瞬間、僕は直ちに狼狽から立直って、とたんに猛然たる敵意と闘志が湧き上ってきたですな。もうこうなれば、宇宙の果てまでも、どこどこまでもくっついて歩いてやる。僕もはずみをつけて、トットッと足を踏み出しました。

 駅前まで来ると、彼女はキッと振り返った。僕ははっと電柱に身をかくしたから、気付かれなかったらしいです。それから彼女は、手提げを小脇にかかえて、傍にあるパチンコ屋にそそくさと入って行きました。電柱のかげから飛び出して、僕もパチンコ屋の前に行き、内の様子をそっとうかがいました。日曜のことですから、猛烈に混んでいましたな。僕も五十円出して玉を買い求め、人混みの中にまぎれこみました。こちらも玉を弾きながら、彼女を見張ろうという寸法です。彼女は一番奥の一台にとりついて、今やパシパシと弾いている。僕は表側の手洗い台の傍にやっと空き台を見付けて、おもむろに玉を入れ、パチンパチンと打ち始めました。彼女を見張るのが主ですから、自然と指にも熱がこもらない。邪魔になるスケッチブックを台の上に乗せ、彼女の動静と玉の動きを、かたみにうかがっていたんです。そして十分も経ったでしょうか』

 

『人混みを横柄にかき分けて、奥の方から出て来る男がいたんです。そいつは、丁度空いていた僕の傍の台に取りついて、いきなりピシンピシンと玉を打ち始めたんです。

 その打ち方が、一風変っていたですな。玉を穴に入れる。ハンドルに全力をこめ、ヤッと懸声をかけて玉を弾き上げる。玉は大速力で、台の中を七八回も回転し、それからカランコロンところがり落ちる。ふつうだと、玉をあまりぐるぐる回転させないように弾き上げるのですが、この男のはめちゃです。しかも、ヤッ、ホウ、と言ったような懸声が入るんです。とてもにぎやかなやり方でした。

 そこで僕も興味をおこして、ちらちら横目でそいつを見たりした。それは縁の太い眼鏡をかけ、チョビ鬚(ひげ)を立てた、でっぷり肥った紳士です。四十五六にもなりますかな。まあ重役風と言えば、そうも言えましょう。左掌には玉を四五十、わし摑(づか)みに摑んで、懸命に玉弾きに没入している。

 そんなやり方だから、ほとんど当り玉が出ない。やり方を教えてやろうかと思ったけれど、それも差出がましい気がして、横目で見ているだけ。時たま当り孔(あな)に入って、ジャラジャランと玉が流れ出ると、男は肥った躰(からだ)を大きくゆすって、ホッホウホウと言うような奇声を出して喜ぶ。傍若無人とも言えるし、無邪気だとも思える。僕はついその男に気をとられて、注意をそこに向けてるうちに、ふと気がついて奥の方をうかがうと、駒井嬢の姿が見えないじゃありませんか。アリャアッと思って、あわててそこらを探して見たが、彼女の姿は全然見当らない。

 僕は急いで表に飛び出した。あたりをきょろきょろ見廻した。見当らなかったですな。僕がちょっと隣りの男に気をとられてる隙に、彼女は出て行ったらしいんです。突然僕は腹が立って来ましたよ。全く地団太(じだんだ)を踏みたくなった。

「畜生め」

 と思わず僕は呟いた。そしてスケッチブックを取りにパチンコ屋に戻ると、丁度(ちょうど)隣りの男は最後の玉を弾いて、それがムダ玉だったらしく、

「ほう。ほう」

 と嘆声を洩(も)らしながら、出て来るところです。てらてらした額に、汗の玉が五つ六つふき上っている。それを見たとたん、僕は急にこの男がすこし憎らしくなって来ましたね。

 僕がスケッチブックをかかえ表に出ると、男は額の汗を拭きながら、駅舎の方に歩いてゆくところでした。僕はその後姿を見た。その瞬間、ある考えが僕の胸に浮び上って来たんです。

「駒井嬢のかわりに、今日一日、この男のあとをつけ廻してやろうか!」

 どうしてこんな奇妙な考えが浮んで来たのか、僕にもよく判らない。すこしはやけっぱちになってたんでしょうな。それともう一つ、俺の邪魔をしたこの男が、今日一日どんな行動をとるか。そんな無償の好奇心みたいなものもあったようです。

 そこで僕は、瞬間に心を定めて、スケッチブックを小脇にかかえ直した。こういうことは気合いのもんですな。男は切符を買っている。傍に寄ってうかがうと、新宿までの切符らしい。僕もつづいて新宿までの切符を買いました。時間はもう正午に近かったですな』

 

『日曜日だから、電車もめちゃくちゃに混んでいました。この男は、でくでく肥ってるくせに、人混みをうまくかき分ける才能があるらしく、満員の車輛にするりとづり込んだ。同じ車輛に乗り込むのに、僕は一苦労しましたよ。それでも、エンジンドアにスケッチブックをはさまれたまま、どうにか発車した。[やぶちゃん注:「エンジンドア」自動ドアのこと。開閉動作に際して直接作動する動力装置を「ドア・エンジン」と呼ぶ。ウィキの「自動ドア」によれば、『鉄道車両用には導入当初は空気圧作動式が多く用いられてきたが、近年は電気スクリューやリニアモーター、ラック・アンド・ピニオンといった電動式も導入され始めており、空気配管の減少に伴うメンテナンスの簡素化に寄与している』とある。]

 新宿の街がまた大にぎわいでした。うらうらといい天気だし、暖かいし、休日だしという訳で、有象無象どもが家をあけて、ぞろぞろと浮かれ出たんでしょうな。おかげで男のあとをつけるのは、大変でしたよ。刑事や探偵の苦労がしみじみと判りましたよ。もっともこちらは、刑事みたいにホシを追ってるんじゃなく、意味なく人をつけてるんですけどね。

 男はつけられているとは露知らず、すっすっと人混みを縫って歩く。こちらは無器用に人にぶっつかったりして、あとを追う。男は新宿の地理にくわしいらしく、ふっと横丁に曲り込んだ。あぶなく姿を見失うところでしたよ。

 裏街にちょっとした喫茶店みたいなのがあった。扉に金文字で″喫茶軽食ワクドウ″と書いてある。ワクドウとはまた妙な名前ですな。僕の故郷の方言では、ワクドウとはひき蛙のことですが、あまり上品な名前じゃないですな。男はこのワクドウの前に立ち止り、ちょっと腕時計を見て、扉を押して内に入ったんです。そこで僕もあとにつづいて入った。

[やぶちゃん注:「ワクドウ」方言で「ワクドウ」が「蛙」や「疣蛙」(ガマガエル)を指すのは、調べたところ、前者が宮崎、後者が福岡であった。秋野の出身は判らぬが、梅崎春生は福岡生まれである。但し、小学館「日本国語大辞典」を引くと、「わくどう」があり、『蟇蛙(ひきがえる)をいう。わくひき』とあって、記載例書籍を「日葡辞書」とするから、方言と限定することは出来ないようだ。なお、人名にはちょっとないようだ。]

 食事時だから、客も割に入っていました。隅の方の卓に、赤いトッパーコートを着た若い女が、ひとり掛けていた。男は、やっほう、というような声を立てて、その卓に近づいて行きました。女はじろりと男の顔を見ました。年は二十四五見当の、ちょっと険はありますが、なかなかの美人です。男が卓につくと、女はすぐに口をききました。

「遅かったじゃないの」

「うん、ちょっと」

「あなた、いつも約束の時間に遅れるわね。この前だって、そうだったわよ」

「すまん、すまん。ついパチンコに熱が入り過ぎたもんだから――」

「パチンコだって。あたしとパチンコと、どっちが大切なのよ」

 どうしてそんな会話が耳に入るかと言うと、運良く隣りの卓が空いていて、そこに掛けることが出来たからです。両方の卓の間には簡単な仕切りがあるのですが、声はほとんど筒抜けでした。僕は耳を立てて、その会話を聞きました。

「何にする?」

 と男が聞きました。

「あたし、お腹が空いたわ。朝食を抜いたんですもの」

 男は指を立てて給仕を呼び、カレーライスとコーヒーを二人前注文しました。僕も即座に指を立て、給仕に同じものを注文しました。さっきトーストを食べたばかりで、お腹は空いてなかったのですが、行きがかり上そういうことにしたのです。どうせ尾行するからには、相手と同じものを食べ、同じ行動をした方がいいと思ったんですな。そうした方が、相手の心理の意識が良く理解出来る。まあ言ってみれば、そんな魂胆です。ところが、同じものを注文したことが、男の注意をひいたらしく、彼はくるりと振り返って、仕切り越しに僕を見ました。そして女に向って、小さな声でささやきました。

「お隣りも、カレーとコーヒーだとよ」

 やがて注文品がそれぞれ運ばれました。白飯にどろりと黄黒いカレーがかけてある。ヮクドウという言葉を思い出して、とたんにちょっと食慾が減退したですな。しかしメニューを見ると、百円と書いてある。百円の品物を食わなきゃ勿体(もったい)ないですからな。とにかく押し込むようにして食べましたよ。耳は相変らず隣席の方にそばだてながら。

 隣りではぼそぼそと、映画を見る相談か何かをしています。男はチャンバラが見たいらしいが、女の方は洋画を主張する。しきりに押問答をしていたようですが、どういうはずみか男が、ストリップはどうだ、などと言い出して、女からぴしりと掌を叩(たた)かれた模様です。僕は思わずクスリと笑いました。

「莫迦(ばか)ね、あんたは。あんなもののどこが面白いの?」

「だって、女の裸ってものは、あれでなかなか芸術的だよ。うん」

 かすかな笑い声と共に、急に声が低くなり、何かささやき合う様子でした。それから二人は、相談がまとまったらしく、立ち上って表へ出て行った。遅れてはならじと僕も支払いを済ませ、ワクドウを出ました。二十米ばかり先を、二人はよりそいながら、ぶらぶらと歩いている。

 二人は洋品店に寄りました。僕は歩道の電桂によりかかって、しばらく待っていました。やがて二人は出て来た。女は明色の手袋をつけていました。約束の時間に遅れた罰か何かで、買わせられたんでしょうな。二人が動き出したので、僕もぶらぶらと行動を起しました。人混みは相変らずだけれど、今度は向うの速力が鈍いので、つけるのはそれほど困難じゃない。ことに女のトッパーコートは、赤くて目立つので、見失う心配がありません。それから二人は洋画専門のM座の前に足を止め、男が切符を買いました。離れたところから見ていると、二人はモギリ嬢に切符を渡し、どうやら二階に上って行く様子なんです。二階は、れいのロマンスシートというやつです。これには困りましたな。ロマンスシートというやつは、二人で買うものに決っているし、僕は一人なんですからな。[やぶちゃん注:「トッパーコート」単に「トッパー」とも呼ぶ。婦人用のショート・コートの一種で、上半身を覆う程度の軽快なデザインのものを指す。一般的にはウエストからヒップまでの丈で、裾広がりのシルエットとなったものが多い。本邦では敗戦後を始めとして、昭和三十年代も流行した(サイト「アパレル派遣なび」のこちらに拠った)。]

 よっぽどここで尾行を止して、下宿に戻ろうかと思ったんですけどね。もしここで尾行を止めたら、俺は朝から一体何したことになるんだと思いましてね、一人だったけれど、思い切ってロマンスシートの切符を買い求めました。

 ええ、ええ、バカだってことは、その時も百も承知です。尾行したって、一文の得にならないことは、初めからハッキリしてるんですからね。でも人間には、気持の行きがかりってものが、確かにあるんですよ。そういうことで、人間は時々バカなことをやる。バカをやらない人間があったら、お目にかかりたいですねえ。人間のやることったら、総じてバカですよ。僕だって、そしてあなただって、同じことですよ』

 

『ロマンスシートの料金も、なかなか僕に辛かったが、皆が二人連れなのに、僕一人で腰かけているのも、相当に辛かったですねえ。

 れいの二人は、中央から右寄りの席に、肩をすりよせて掛けていました。僕はその斜め後方の席に、ひとりぽつねんと腰をおろしました。

 スクリーンの方はろくろく見ない。うっかり映画などにひき入れられると、さっきの駒井美代子嬢を取り逃したと同じようなことになる。そう思って、もっぱら二人の後姿ばかりに注意を払っていたのです。一体この二人はどういう関係にあるんだろう?

 男の方はさっき話した通り、三等重役的タイプですが、トッパーコートの女と夫婦関係にあるとは、全然思えない。しかし、恋愛関係としては、男の方が野暮ったすぎる。妾関係でもないようだし、情婦みたいなもんかな、などと考えてもみたんですが、世間知らずの僕には、そこらがハッキリとは判らない。

 すると暫(しばら)くして、暗がりの中で二人の顔が相寄ったと思うと、いきなり接吻したらしいんです。図々しいもんですな、暗がりといえども、スクリーンの照り返しで、はっきりそれと判る。男の方が積極的で、女の方は厭がってるような風情でした。映画館の席で、背後から見られてるかも知れないのに、あのチョビ鬚(ひげ)にくすぐられるのは、あまりソッとしないんでしょうな。しかし接吻したからには、この二人はある程度とある種類の色情関係にある、と考えて僕は思わず緊張しました。思えば僕も阿呆な役割でしたな。わざわざ高い金を払って、映画はろくに見ず、二人の接吻を看視してたんですからな。

 どういうつもりか、その時僕はスケッチブックをがさごそと膝の上にひろげ、その接吻のシルエットを、簡単なスケッチとして描いたりしたのです。描いたって、どういうこともない。絵描きの本能みたいなものですかな。そのうちにお見せしますよ。

 とにかく二人は、三十分ばかりの間に、四度接吻しました。それから僕は尿意を催してトイレットに行き、大急ぎで戻って来ると、丁度(ちょうど)二人は扉から廊下に出て来るころでした。危なかったですな。映画がさほど面白くなくて、出るところだったらしいんです。もう一足おそかったら、取り逃すところだったかも知れません。

 男は眼鏡ごしに、じろりと僕の顔を見ました。そして妙な表情を浮べました。何か思い出そうとして思い出せないような、そんな奇妙な表情です。女の方はトットッと階段を降りて行く。僕も何気ないふりをよそおって、階段の方に歩いた。男はそこでグフンとせきばらいをして、急ぎ足に僕を追いこし、女と肩を並べました。階段を並んで降りながら、男は女に何かささやいている模様です。僕はわざとゆっくりした足どりで、そろそろと階段を降りました。

 映画館を出て、彼等がまっすぐに歩いて行ったのは、駅です。駅で男は切符を買い求めた。某私鉄の切符だということは判ったが、どこまで買ったのか、それはついに判らなかった。男が妙な顔をした以上、あまりあつかましく近近とくっついて歩くわけにも行かなかったんです。ええ、僕は生れつき、それほど心臓が強くないんですよ。

 僕は大急ぎでポケットを探った。もう余すところ、百円足らずしかない。ワクドウとM座の支払いで、とたんに囊中(のうちゅう)が乏しくなって来たのです。二人の後姿は、すっすっと改札の方に遠ざかって行く。どこまで切符を買ったんだろう。どこかへしけこむつもりかな。そうだとすれば、相当遠距離かも知れないぞ。僕は惑乱しましたな。追うべきか諦めるべきか。次の瞬間、朝からの得体の知れない情熱の方が、ついに勝ちを占めました。是が非でもと、僕は歯をかみ鳴らすようにして、切符をせかせかと買い求めました。今日一日は、尾行の鬼となってやる!

 買った切符は、最短距離のやつです。もちろん乗越して、乗越賃金を払う覚悟でした。二人の姿は、もう見えません。でも電車が判っているから安心です。と言っても、一足違いで発車されると一大事ですから、僕は駅の地下道を小走りに走りましたよ。

 十三時五十分発各駅停車。その電車の最後尾の車輛に、二人は乗っていました。女は座席に腰をおろしていましたが、男の方は立って、吊革にぶら下っていました。僕は気付かれないように、車掌室の真鐘(しんちゅう)棒に背をもたせ、もっぱらプラットホームの方ばかりを見るようにしていました。はたから見れば、気軽に郊外スケッチに赴く若い画家、そんな風(ふう)に見えたでしょうな。尾行者などとは誰も悟らない。間もなくベルがいっぱいに鳴り渡り、発車です。

 ところが、駅を五つ六つ過ぎる頃から、男は僕の存在に気付いたらしいのです。ちらっちらっと僕の方を見るらしい。あるいは窓ガラスを鏡の代用にして、僕の動作を見張っている様子なのです。僕の方も、駅に停る度に、彼等が下車するかどうか確かめる必要があるので、どうしても視線がそちらに行く。それまで男と女は、何か話し合ったりしていたのに、僕に気付いてからは、男はすこしずつ無口になって来たようです。妙に怒ったような、不安なような、ふくれたような顔になって来ました。

 女の傍の席が空いたので、男は腰をおろしました。僕に気付いているのは男の方だけで、女はまだのようでした。気付かれたらもう仕方がない。そう思って、僕はもう窓外を眺めるふりは止して、大っぴらに二人を眺めることに心を決めました。つまり、気持の上で居直ったんですな。居直りたくもなりますよ。朝から貴重な時間と貴重な金銭を費やして、ここまでやって来たんですからな。それともう一つ、朝から傍若無人にパチンコをやったり、きれいな女性とあいびきみたいなことをやったり、こちらは生活と芸術に苦労してるのに、愉しげに人生を享楽している。金も相当豊富に所持しているらしい。すなわち僕は、この男に、もはやかすかな嫉妬と憎悪を感じていたらしいんです。それは相手の女が、大変きれいな女だったせいもあったでしょうな。

 きれいな女だったですよ。あなたにも、一度お見せしたい位です。ちょっと険を含んだ、するどい顔付の女で、身体つきもなかなか良かった。駒井美代子の比ではありません。脚なんかカモシカみたいにすらりとしていましたね。頭には形良くベレー帽をかぶっている。

 男の方でも、駅に着くたびに、この僕が降りないか降りないかと、考えてるらしいんですな、がたりと停車すると、じろりと僕をにらみつける。僕もじろりと向うを見る。僕はもちろん向うの氏素姓(うじすじょう)は知らないのですが、向うからすれば、この僕はなおのこと気味悪い存在に違いありません。絵描きみたいな風体のくせに、どこまでもついて来るんですからな。

 そして電車は、やっとQという駅に停りました。女がすっと立ち上りました。男はじろりと僕を見てつづいて立ち上りました。扉が開く。二人は出る。別の出口から、僕も歩廊に降り立ちました。男はギョツとした風に、僕の方を見ました。

 Q訳での下車客は、相当な数でした。Q遊園地が、ここにはあるんです。子供連れの客が多かったのも、そのせいでしょう。それらがどっと改札口へ押しかける。その混雑に紛れて、僕の靴をぐいと踏みつけた奴がいます。飛び上るほど痛かったですな。見ると僕の横にいるのは、れいの男なんです。混雑にまぎれて傍に忍び寄って、わざと僕の足を踏みつけたらしいんです。

「いてて!」

 と僕は思わず悲鳴を上げました。男はにやりと快げに笑い、そのまま改札口を出て行った。この野郎、と思って僕もそのあとを追った。乗越賃金でちょっと暇どったけれども。

 Q遊園地は、ここから一粁ほど隔てた小高い丘の上にあるんです。駅前から遊園地まで、子供電車が出ている。子供電車と言ったって、トロッコに色を塗り、それにテント屋根をかぶせただけの、お粗末なしろものです。二人は年甲斐もなく、嘻々(きき)としてそれに乗込みました。僕ももちろん乗り込んだ。二人のすぐうしろの座席です。もうこうなれば意地でしたな』

 

『遊園地内も、桜が満開でしたよ。

 このQ遊園地に僕は初めて来たんですが、なかなか繁昌してるんで、おどろきましたよ。うじゃうじゃの人の波です。設備も割にととのっていました。子供自動車やウォーターシュート。野球場や動物園。子供連れで遊びにゆくには、手頃のところですな。あんまり人が多いんで、砂ぼこりが立ち、折角の桜もうすよごれて、まるで紙屑か何かをくっつけたみたいに見えましたな。

 僕はまかれないように、忠実に二人のあとにくっついて歩いた。その頃から女の方も、少し変だと思い始めたらしいです。時々不審げなまなざしで、僕の方を見る。

 二人はウォーターシュートに乗ったり、吊下げ飛行機に乗ったりする。年甲斐もなく、そんなことが楽しいらしいんです。僕はと言えば、そんなのに乗ってみたいんだけど、生憎(あいにく)懐中が乏しいんで、乗れない。うっかり乗ると、帰りの電車賃がなくなるおそれがある。仕方がないから、連中が乗っている間は、スケッチブックを開いて、そこらの写生などをして暇をつぶしていました。連中が降りて来ると、またついて歩く。無償の情熱はいいけれど、さっき踏まれた足は痛いし、そろそろくたびれては来たし、イヤになって来たですな。しかし、ひるむ心を引立て引立てして、番犬のようにつきまとって歩いた。

 それはビックリハウスというやつでしたな。窓のない小さな建物で、内に入ると何かビックリすることがあるらしいんです。男は二人前の切符を買った。一枚十円だけれど、僕には買えない。だから、どんなビックリか、僕は今でも判らないです。

 建物の入口に、係の少女が立っている。そしてその前まで行って、男は女だけを建物の中に入れました。するとそれで定員だと見えて、少女が扉をしめた。そのとたんに男はくるりとふりむき、顔をきっと緊張させて、僕の方へまっすぐつかっかと歩いてくる。ちょっとばかりこちらも緊張しましたな。

「おい。君は一体、誰から頼まれた?」

 男は僕のそばにピタリとよりそい、低い声でそう言いました。やや凄味(すごみ)を利(き)かせた口調です。僕は身構えたまま黙っていました。だって返事のしようがないですからね。すると男の声は急にやわらかく、意外にも哀願の調子さえ帯びて来たんです。

「え、誰に頼まれた。トミコからか?」

 ビックリハウスから、わあわあとけたたましい混声が流れ出ました。内部の叫声喚声を拡声器で表に流しているんです。人寄せのためでしょうね。

「え。トミコだろう。な、依頼主はトミコだろう」

 僕はわけも判らないまま、重々しくうなずきました。すると男は絶望したように頭をかきむしりました。

「そうか。やはりトミコか」

 男はうなり声を上げました。そして忙しく手を内ポケットに突込むと、ワニ皮の財布を引っぱり出しました。そして左手で僕の腕を摑(つか)みました。

「な、金ならいくらでも出す。その報告を握りつぶして呉れんか。頼む」

 予想外に事態が進展したので、面食ったのは僕です。僕は思わず目をパチパチさせました。何が何だか五里霧中ながら、とにかく僕が何かと間違えられてるらしいこと、そしてそのことでこの男が絶望して、僕に金を呉れたがっている、そのことだけはやっと了解出来ました。男はおっかぶせるように言葉をつぎました。

「え。いくら要るんだ。いくら?」

「一万五千円」

 とっさにその金額が口に出て来た。やはり無意識の裡(うち)に、あの腕時計のことを心配してたんですな。そう言ってしまって、自分でもびっくりした位です。

「なにい。一万五千円だと?」

 そして男は笛のような嘆声を発しました。

「そりゃ高い。いくらなんでも高過ぎる。少し負けて呉れ」

「イヤです」

 こうなれば僕も必死です。折角金を呉れると言うのに、ここで所定の金額を頑張らなきゃ、友達に会わせる顔がない。男の顔は赤く怒張して来ました。すこし声を荒らげて、

「負けろ!」

「イヤだ」

「考え直せ!」

「じゃ金は要らん。その腕時計を呉れ」

 男はあわてたように右の手首を引っこめました。

「無茶言うな。この時計は三万円もする」

「じゃ、金よこせ」

 そして僕は、いきなりスケッチブックを開いて、接吻のデッサンを見せてやりました。男はさっと顔色を変え、それから、へなへなと身体から力を抜いたようでした。

「そうか。それじゃ仕方がない」

 男はしぶしぶと財布から紙幣(さつ)束を出し、むこう向きになって数えてる様子でしたが、直ぐに向き直って、束を僕の眼前につきつけました。そして沈痛な声で言いました。

「ここに九千円ある」

「九千円では足りない」

「だから、あと六千円は、名剌に書くから、そこで受取って呉れ」

「大丈夫でしょうな。そこは」

「大丈夫だ。それより君の方は、大丈夫だろうな。俺からしぼって、またトミコから取ったら、承知しないぞ。いいな」

「大丈夫だ。三橋とは違う」

 男はせかせかと名刺と万年筆を引っぱり出し、裏に何か書き始めました。追っかけられるような動作です。ははあ、女がビックリハウスから出て来ないうちに、事を処理してしまいたいんだな。そう僕は気付きました。ちょっと気の毒な気持でしたよ』[やぶちゃん注:「Q遊園地」このロケーションとなる遊園地がどこなのか、私にはよく判らない。多くのアトラクションがあり、動物園もあり、何より、駅から「子供電車」があるというのは、恐らく私より年上の方(私は昭和三二(一九五七)年生まれ)なら、即座にお判りになるだろう。御教授戴けると、恩幸、これに過ぎたるはない。「三橋」不詳。詐欺事件か何かの犯人の名らしいが判らぬ。出来れば、遊園地とともに、よろしく御教授あられたい。]

 

『僕は名刺を受取り、大急ぎでビックリハウスの前を離れました。早くあっちに行け、と男が言ったせいもあるのですが、ぐずぐずしてると男の気持が変って、金を取戻されそうな気もしたからです。急ぎ足で駅の方に戻りながら、僕は名刺の表を読みました。鴨志田竜平。そう印刷してあります。あの肥っちょの名前なのでしょう。裏をかえすと。『拝啓。この名刺持参人に六千円渡してやって呉れ。そちらは忙しいか。こちらはとても忙しい。アハハ。オテル殿。竜平』

 と書いてあります。せっぱつまってこれを書いたくせに、何がアハハだと、僕はいささか軽蔑と憐憫(れんびん)を感じましたな。

 男の説明では、僕が残金を受取る先方は、神田駅近くのおでん屋だということでした。オテルというのはそこの女将らしいのです。男とオテルとはどういう関係にあるのか、急いでいたもんで、その時はつい聞きそびれてしまいました。

 さて、神田駅で降り、男が教えた道筋をたどり、そのおでん屋の表に来た時は、もうあたりはすっかり暗くなっていました。七時ちょっと過ぎていましたかな。繩のれんからそっとのぞいて見ますと、五坪か六坪程度の小ぢんまりした店構えです。お客が一人入っています。台の向うには三十前後の、白粉の濃い女が、おでん鍋の中味を箸(はし)で調整しています。これがオテルだな、と思いながら、僕はガラス扉をがらりとあけました。

「今晩は」

 と僕は言いました。オテルさんはちらと僕の風体を見て、つっけんどんに言いました。

「似顔画はお断りですよ」

 僕がスケッチブックを持っているので、間違えたらしいのです。

「似顔描きじゃないよ。飲みに来たんですよ」

 そう言って僕は台の前に腰をおろしました。一杯飲んで、それから用事にとりかかろうというつもりなんです。

「あら、そう。それはそれは」

 オテルさんは急に愛想良くなって、いそいそとおちょうしをつけました。僕は莨(たばこ)に火をつけ、ちらりちらりとオテルを観察していました。どうも水商売上りらしいな。ちょっとヒステリー気味なところもあるらしいぞ。さて、どんな具合に切出してみるかな。

 おちょうしのカンがつき、おでんを一皿注文して、僕はおもむろに飲み始めました。九千円という大金がポケットにあるし、ゆったりした気分でしたな。昼間ワクドウでカレーライスを食べたきりですから、腹はぺこぺこで、おでんも旨(うま)かったし、お酒ははらわたに沁み渡ったです。適度の運動の後の酒、これはこの世の極楽ですな。

 先客は三十五六の、ちょっといなせな請負師らしい風体の男です。オテルさんと親しげに冗談口をきき合ったり、盃をさしたりさされたり、古くからの顔馴染のように見えました。男が言いました。

「今日はオテルさん一人かい。オフサはどうした」

「ありゃ一昨日クビにしちゃったわよ」

 とオテルさんは眉をひそめて、はき出すように言いました。

「へえ。何でクビにしたんだね」

「どうもこうもないよ。あの女、見かけによらず淫乱でね、店の名にかかわるからさ」

 それから二人の間で、オフサという女の話がやりとりされました。僕は黙ってそれを聞きながら、盃(さかずき)を傾けていました。オフサというのは、この店の雇い女らしく、何か男と間違いをおこして、それで追い出されたらしいのです。しかしその件については、オテルさんはあまり口にしたくないらしく、最後に不快げに眉をひそめて、嘆息しました。

「もう、男も女も、あたしゃ全然信用しないことにしたよ」

「カモさんじゃないのかい。オフサに手をつけたのは」

 男は盃を口に持って行きながら、ズバリと言いました。オテルさんはぎょっとしたらしく、顔をこわばらせたが、直ぐに忌々しげにうなずきました。

「実はそうなんだよ。ほんとに癪(しゃく)にさわるったらありゃしない」

「そうだろうね。カモさんったら、女癖が悪いからな。イカモノ食いというやつだよ。それでどうしてオテルさんは見破ったんだね?」

「オフサの日記を調べてみたのさ。どうも様千が変だったからね。すると、ところどころに鴨(かも)の絵が書いてあるのさ。あたしゃ初めニワトリの両かと思ってさ、何でニワトリが描いてあるのかと考えてるうち、ハッと気が付いたのさ。癪にさわるじゃないの。鴨志田と寝た日の心覚えに、その画を描いたってえの」

 僕は驚きましたな。カモさんというのが鴨志田の事とは、今迄思いもしなかったからです。これは少々風向きが宜(よろ)しくない様子です。

「それで、オフサを問い詰めて白状させたのが一昨日。直ぐにクビにしてやったわ」

 オテルさんはコップに冷酒を注いで、ぐいとあおりました。眼がすこし吊上っています。

「そいじゃ、ばれたことはカモさんはまだ知らないのかい」

「そうなんだよ。やって来たらとっちめてやろうと、手ぐすね引いて待ってるのだけどね。何だい、ろくに手当も呉れない癖に、ひとかどの旦那面しやがってさ!」

 僕はと言えば、おちょうしも空になったし、皿のおでんも食い尽したし、ここらで口を入れなければ、ますます具合が悪くなる予感がしたものですから、おそるおそる口を出しました。

「じ、じつは、カモさんから頼まれて、やって来たんですが――」

「え。なに。カモ?」

 とオテルさんはきりりと僕の方に向き直りました。

「一体何を頼まれて来たのさ?」

「こ、これを」

 僕は急いで名刺を差出しました。声もいくらかかすれたようです。オテルさんは名刺をひったくるようにして、忙しくそれを読み下しました。額の静脈がもりもりと盛り上ったようです。

「何だい。六千円。よくもそんなことが言えるわね。バカにしてるわ」

「でも、僕は六千円、どうしても要るんですよ」

「あんたは一体誰なの。何者なの。鴨志田とどういう関係があるのさ!」

「関係というほどじゃないけれど、僕はあの人に六千円貸しがあるんです」

「貸し? あの人は、他人様から金を借りるような男じゃないわ」

「だって、チャンと貸してあるんですよ!」

 と僕は言葉に力をこめました。

「鴨志田さんは、明晩こちらにお伺いすると言ってましたよ。その時、色々説明するって」

 これは僕がウソをついたのです。そう言えばオテルさんの気持が和んで、金を出して呉れるかも知れないと思ったのです。するとオテルさんは、軽蔑的な口調ではき捨てるように言いました。

「六千円なんて大金は、家には今ないわよ!」

「こんな店をやってて、無いわけはない。無いとは言わせませんぞ!」

 僕も腹が立ったので、つい税務吏員みたいな口を利きました。

「ないわよ!」

 とオテルさんは怒鳴りました。

「ある!」

「ない!」

 オテルさんはヒステリックに叫んで、手を棚に伸ばし、一冊の帳面を投げつけるように僕によこしました。帳面は台の上でハラリと拡がりました。

「疑うんなら、それを見てよ。それが全部のツケの帳面よ。来る客来る客、皆ツケばっかりで、現金は一文も入りゃしない。ウソだと思ったら、金箱見せてやろうか。え?」

 そのキンキンした声を聞きながら、僕の視線はその帳面の一頁に、ひたと釘付けにされていたのです。ここまで言えば、もうお判りでしょう。その沢山の名前の中に、あなたの名前と、その下に金額、六千八百円也と、チャンと記入されてあったんです。偶然も、こうピッタリ行くと、もう言うところないですな。しかし、あなたがあんな変てこりんなおでん屋の常連だとは、ちょっと驚き入りましたな。僕はおもむろに口を開きました。

「じゃ、このツケを僕が取って来て、それを僕のものにしていいかい?」

 オテルはびっくりしたように僕の顔を見、首を伸ばして帳面をのぞきこみました。僕はあなたの名のところを指差しました』

 

『オテルさんとの談合は、それでまとまったんですがね。

 僕の貸金は六千円だし、あなたのツケは六千八百円でしょう。差額の八百円を払ってゆけと、オテルさんはしきりに主張するのです。僕は素直に払いました。それと今飲んだ分の勘定。これが二百二十円です。二十円というハシタ金がなかったので、僕はあちこちポケットを探ってると、上衣の内ポケットに何かコリッとした固いものが入っている。何だろうと思ってつまみ出して見ると、僕は思わずアッと驚愕の叫び声を上げましたよ。それは一体何だったと思います? なんと腕時計だったんですよ。今朝盗られたとばかり思っていた腕時計が、チャンと内ポケットに入っていたんです。何ともはや驚きましたな。これが内ポケットに入ってる位なら、僕は一体何のために今朝からせっせと動き廻ったか、わけが判らんじゃありませんか』

 

 矢木君はそこまで話して、ぐっとコップのビールを飲みました。もうそろそろ日暮れ時です。半ダースの瓶もほとんど空になりました。いい気持に酔っぱらって、身体の節節がとろけてゆくような感じでした。

「それは一日御苦労だったね」

 と僕はけだるく口を開きました。

「しかしまあ、時計が出て来てよかったな」

「あの洗面の時、大事なものだと思って、無意識に内ポケットにしまいこんだんでしょうな。駒井嬢の膝頭のおかげで、すっかりそれを忘却してしまったらしい」

 そして矢木君は、とろりとうるんだ眼を僕に向けました。

「それでと、つまり、僕はあなたに、六千八百円の貨しがあるわけになりますな。これは一体――」

「棒引きだよ」

 と僕はたしなめてやりました。

「その上僕から金を取ろうなんて、それはむさぼりと言うもんだよ。芸術家ともあろうものが、そんな慾張りでは、絶対に大成しないよ。棒引きにしなさい。そうすれば僕もたすかる」

「それもそうですな。では、そういうことにしますか」

 矢木君はけろりとした表情でそう答えながら、残りのビールをぐっと飲み乾しました。

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