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2021/12/14

萩原朔太郎詩集 遺珠 小學館刊 遺珠 「靑空に飛び行く」(決定稿と初出)

 

  靑空に飛び行く

      『蝶を夢む』收載

 

かれは感情に飢ゑてゐる。

かれは風に帆をあげて行く舟のやうなものだ

かれを追ひかけるな

かれにちかづいて媚をおくるな

かれを走らしめろ 遠く白い浪のしぶきの上にまで。

ああかれのかへつてゆくところに健康がある。

まつ白な大きな幸福の寢床がある。

私をはなれて住むときには

かれにはなんの煩らひがあらう!

私は私でここに止つてゐよう

まづしい女の子のやうに 海岸に出て貝でも拾つてゐやう

ねぢくれた松の木の幹でも眺めてゐやう

さうして灰色の砂丘に坐つてゐると

私は私のちひさな幸福に淚がながれる。

ああ かれをして遠く遠く沖の白浪の上にかへらしめろ

かれにはかれの幸福がある。

ああかくして、一羽の鳥は靑空に飛び行くなり。

 

[やぶちゃん注:「『蝶を夢む』收載」は編者による附記。詩集「蝶を夢む」は大正一二(一九二三)年七月に新潮社の「現代詩人叢書」の第十四巻として刊行された萩原朔太郎の第三詩集に相当するもの(但し、「月に吠える」「靑猫」からの再録十六篇を含み、全六十篇所収)。以上はしかし、一ヶ所、問題がある。以下に原本を国立国会図書館デジタルコレクションの画像で視認して示す。

   *

 

   靑空に飛び行く

 

かれは感情に飢ゑてゐる。

かれは風に帆をあげて行く舟のやうなものだ

かれを追ひかけるな

かれにちかづいて媚をおくるな

かれを走らしめろ 遠く白い浪のしぶきの上にまで。

ああ かれのかへつてゆくところに健康がある。

まつ白な 大きな幸福の寢床がある。

私をはなれて住むときには

かれにはなんの煩らひがあらう!

私は私でここに止つてゐやう

まづしい女の子のやうに 海岸に出で貝でも拾つてゐやう

ねぢくれた松の木の幹でも眺めてゐやう

さうして灰色の砂丘に坐つてゐると

私は私のちひさな幸福に淚がながれる。

ああ かれをして遠く遠く沖の白浪の上にかへらしめろ

かれにはかれの幸福がある。

ああかくして、一羽の鳥は靑空に飛び行くなり。

 

   *

六行目の字空けである。]

 

 

 

   靑空に飛び行く

    『感情』大正六年二月號(『靑空に飛び行く』原型)

 

おほきな、まつくろの巖の上に立つて居るのはだれだ

ここの岬の上で

はりつめた勇猛の聲で叫んでゐるのはだれだ

かれは感情に飢えてゐる

かれは風に向つて帆をあげて行く舟のやうなものだ

かれを追ひかけるな

かれに近づいて媚をおくるな

かれを走らしめる、遠く白い浪のしぶきの上にまで

ああ かれのかへり行くところに健康がある

まつ白な、おほきな幸福の寢床がある

私をはなれて住むときには

かれにはなんのわづらひがあらう

私は私でここに止つて居やう

まづしい女の子のやうに、海岸に出て貝でも拾つて居やう

ねぢくれた松の木の幹でも眺めて居やう

さうして灰色の砂丘に座つてゐると

私は私のちいさい幸福に淚がながれる

ああ かれをして遠く遠く沖の白浪の上にかへらしめる

かれにはかれの故鄕(ふるさと)がある

かれは美しい少年の感情に飢えて居るのだ

私とは緣もゆかりもないところで

かれにはかれの張りつめた勇猛の聲に伸びあがつて居るのだ

ああかくして一羽の鳥は靑空にとび行くなり。

 

[やぶちゃん注:「飢え」「居やう」「ちいさい」はママ。筑摩版全集の同初出を示す。歴史的仮名遣の誤りはママ。

   *

 

 靑空に飛び行く

 

おほきな、まつくろの巖(いはほ)の上に立つて居るのはだれだ

ここの岬の上で

はりつめた勇猛の聲で呌んでゐるのはだれだ

かれは感情に飢えてゐる

かれは風に向つて帆をあげて行く舟のやうなものだ

かれを追ひかけるな

かれに近づいて媚をおくるな

かれを走らしめる、遠く白い浪のしぶきの上にまで

ああ かれのかへり行くところに健康がある

まつ白な、おほきな幸福の寢床がある

私をはなれて住むときには

かれにはなんのわづらひがあらふ

私は私でここに止つて居やう

まづしい女の子のやうに、海岸に出で貝でも拾つて居やう

ねぢくれた松の木の幹でも眺めて居やう

そうして灰色の砂丘に座つてゐると

私は私のちいさい幸福に淚がながれる

ああ かれをして遠く遠く沖の白浪の上にかへらしめる

かれにはかれの故鄕(ふるさと)がある

かれは美しい少年の感情に飢えて居るのだ

私とは緣(ゑん)もゆかりもないところで

かれにはかれの張りつめた勇猛の聲に伸びあがつて居るのだ

ああかくして一羽の鳥は靑空にとび行くなり

 

   *

本篇は一部の歴史的仮名遣が不全に修正されており、不快である。やるか、やらないか、そのどちらかでしかない。而して、その場合、筑摩版全集校訂本文の消毒のように「ちいさい」を「ちひさい」としてよいかどうか? しかし、小学館編者の致命的な一点は、「まづしい女の子のやうに、海岸に出で貝でも拾つて居やう」の「出て」の改変である。「いで」では、どこが、まずいのだ? まあ、「でて」の方が韻律的には躓きはないが、しかし、絶対に許されぬ改変である。決定稿でも「出で」だからである! 後発の収録詩集類でも、この決定稿詩篇の「出で」は「出で」で、「出て」と後に朔太郎が修正した痕跡は――全くない――のだ!

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