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2021/12/11

曲亭馬琴「兎園小説外集」第二 江戶地名考小識

 

[やぶちゃん注:本篇は国立国会図書館デジタルコレクションの「曲亭雜記」の巻第一下ここからにも所収する。そちらでは多くのルビが振られているので、それを参考にして(「曲亭雜記」は歴史的仮名遣の一部に誤りがある)、《 》で読みを歴史的仮名遣で附し、また、「馬琴雑記」は地名が項立てされて、読み易いので、それにも倣った。本文自体は、まず一度、総てを底本である国立国会図書館デジタルコレクションの「新燕石十種 第四巻」(国書刊行会編大正二(一九一三)年)の当該部(リンク先は当該本篇の開始ページ。左上段終りから三行目)で確認し、それから、「曲亭雜記」で操作を加えるという方法を採った。その場合、読みの一部を送り仮名で送って読みを附さないという変更も行った。

 

   ○江戶地名考小識

    ○竹橋《たけばし》

「紫一本」、その他の古記に、『竹橋は初め、竹をあみて、わたせしよりの名。』と、いへるは、大かたのことにて、まさしき證文、なし。亡友榕窓《ようさう》主人の筆記に云、『會津藩士に在竹《ありたけ》五郞右衞門隆尹《たかただ》といふものあり。その先祖は相州小田原の家士、荒木・在竹・多米《ため》・大道寺・荒川とて、四家の一なり。在竹は伊勢の在名平氏《ざいめいへいし》也。應仁の頃、在竹兵衞門尉、その子攝津守、その子も亦、攝津守に任ず。永祿七子年正月廿八日、江戶渡候而、於鴻臺《こうのだい》北條氏康・同氏政父子、二萬五千騎にて、房州里見義弘、加勢の佐竹義重、兩敵を受《うけ》、合戰の刻《きざみ》、攝津守、手勢六十三騎、召連、「ハタハ鳥居」にて、正月八日、討死なり。その子彥四郞、父攝津守、軍忠《ぐんちゆう》に依りて、上總國椎津城《しひつのしろ》を賜る。その身は江戶二の曲輪に被ㇾ置《おかれ》、常陸若出陣之節は、先を可相勤由也。彥四郞家中のものども、神田竹橋に披差置候。依ㇾ之、「在竹橋」と唱候處、今は申し能きまゝに、「竹橋」と唱ふ、といふ。彥四郞は小田原沒落の節、於椎津城討死也。定紋、「幕の紋」、「釘貫に一文字」也。』【これは、その家の說なりとぞ。】。この說によれば、「竹橋」は、元來、「在竹橋」の略稱也。かの、「竹をあみて、橋とせし。」といへるは、牽强附會の說なるべし。

[やぶちゃん注:以下、「うらみなりき。」まで、底本では全体が一字下げ。]

文化中、梅龍園《ばいりやうゑん》【中神氏。】來訪の日、不圖《ふと》、この事を物がたりしかば、やがて、ふところがみに錄して、もてゆかれたり。そののち、かの人、「慶長江戶圖考」をあらはせし時、右の說を載せて、ある說に云々と、かゝれしは、うらみなりき。

[やぶちゃん注:「竹橋」現在の東京都千代田区北の丸公園にある竹橋(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。

「紫一本」(むらさきのひともと)は歌学者戸田茂睡(もすい 寛永六(一六二九)年~宝永三(一七〇六)年)による江戸地誌。天和二(一六八二)年成立。侍の陶々斎と遁世者の遺佚が訪ね歩く物語という趣向で、江戸の名所旧跡を紹介したもの。戸田は岡崎藩本多家に出仕した武士であったが、晩年に致仕し、浅草金龍山の辺りに住んだ。元禄五(一六九二)年頃から、中世以来の「制禁の詞」(歌に使用が禁じられていた言葉)や「古今伝授」を非難した「百人一首雑談」・「僻言調(ひがごとしらべ)」など、多くの著述を世に示した。江戸前中期のかの元禄期に、こうした言説を成したことは、歌学史上、特筆されるものである(後半は平凡社「世界大百科事典」に拠った)。

「榕窓主人」不詳。ああっつ! 検索掛けたら、私の記事が! それにしても、本篇に先行する南町奉行として名高い根岸鎮衛(元文二(一七三七)年~文化一二(一八一五)年)が逝去の前年まで書き続けた随筆「耳囊」の「卷之八 竹橋起立の事」(リンク先は私の古い電子化訳注)にこの引用と全く同じ文字列が出現するからには、ちゃんとした榕窓主人の記録が存在するはずなんだがなぁ?

「在竹五郞右衞門隆尹」底本も吉川弘文館随筆大成版も、以下、総て『佐竹』であるが、「曲亭雜記」で訂した。次注参照。不詳。但し、会津藩に藩士に在竹氏は実在していることが江戸初期の同藩の分限帳で確認は出来た。

「その先祖は相州小田原の家士、荒木・在竹・多米・大道寺・荒川とて、四家の一なり」五家を挙げているようにしか見えないのはママ。さて、後北条氏に仕えた重臣は四でも五でもなく、「御由緒六家」(ごゆいしょろっけ)と呼んだ。それは、荒木・在竹・多目(ため:「多米」とも書いた)・大道寺・荒川・山中の六家であった。

「應仁」一四六七年~一四六九年。

「永祿七子年」一五六四年。

「鴻臺」現在の千葉県市川市国府台にあった国府台城(こうのだいじょう)。以下は第二次国府台合戦で、里見方が退却した。

「北條氏康」底本も吉川弘文館随筆大成版も「康」がない。「曲亭雜記」で補った。

「ハタハ鳥居」不詳。これは単なる直感だが、国府台城からそう遠くない南東の、千葉県市川市八幡に、かの魔所「八幡の藪知らず」がある。何時から鳥居と社殿があったかは知らぬが、今もある。「ハタハ」は「八幡」の原記者榕窓主人の記載を写した人物が判読を誤ったのではあるまいか?

「上總國椎津城」千葉県市原市椎津にあった。

「常陸若」ママ。「雜記」では三字に『ひたちのくに』とルビするが、「若」を「くに」とは読めない。

『定紋、「幕の紋」、「釘貫に一文字」』「耳囊」の「卷之八 竹橋起立の事」の私の注を参照。図有り。

「文化中」一八〇四年~一八一八年。

「梅龍園【中神氏。】」幕臣で国学者の中神守節(もりとき/しゅせつ 明和三(一七六六)年~文政七(一八二四)年)の号。湯島聖堂に入り、「寛政重修諸家譜」の編集に携わった。文化三年、学問所勤番組頭となった。「慶長江戶圖考」「慶長年間江戸図考」「江戸古地図考」など。

「ある說に云々と、かゝれしは、うらみなりき」亡友であった榕窓の言説を出典も示さずに手軽に横取りされたからだろう。]

  ○丸山

丸山は「丸塚」の轉訛なるべし。「鎌倉大草紙《かまくらおほざうし》」その他の舊記に、豐島《としま》左衞門尉平信盛の一族、練馬【平左衞門、是は舍弟なり。】・平塚・丸塚《まるづか》[やぶちゃん注:「雜記」では『圓塚(まるつか)』とする。]と見えたり。平塚は、今、駒込《こまごみ》と西ケ原の間に、平塚明神あり、此わたりなるべし。圓塚《まるづか[やぶちゃん注:こちらには濁点がある。]》といふところ、今、なし。こは、今の本鄕丸山なるべし。豐島より、平塚、丸山と、連綿せる地方をもて考れば、むかし、圓塚といひしを、いつの頃よりか、丸山と唱來れること、疑ひなし、と、おぼゆ。

[やぶちゃん注:以下、「しるしがたし。」まで、底本では全体が一字下げ。]

圓塚の古城迹は、今、加州候の邸中にあらんとおもふ事、去歲傳聞の寄るによりて、愚按と、暗合せし事あり。しかれども、憚るよしあれば、こゝには、しるしがたし。

[やぶちゃん注:「鎌倉大草紙」「太平後記」の異名もある。史書。三巻。作者・成立年未詳。天授五/康暦元 (一三七九) 年から文明一一(一四七九) 年の間に於ける、鎌倉公方・関東管領を中心に、関東の政治的事件を編年体で記したもの。君臣父子の秩序を説く道徳的な意図を持つ。

「豐島左衞門尉平信盛」不詳。馬琴の「南総里見八犬伝」には出てくるが。

「平塚は、今、駒込《こまごみ》と西ケ原の間に、平塚明神有り」現在の東京都北区上中里にある平塚神社。南に駒込、西に西ケ原の地名が残っている。

「本鄕丸山」現在の文京区本郷の一部。

「豐島」現在の豊島区附近。]

   ○四谷

四谷は、此の邊に、谷、四つある故に【千日谷・茜荷谷・千駄ケ谷《せんだがや》・大上谷《おほかみだに》。】名づくといへるは、普通の說なり。然れども、茜荷谷は大久保なり【小石川にも同名の谷あり。】。大上谷は高井戶なり。これらは、四谷へ遠かり。予、これを疑ひ思ふこと、久しかりしに、近ごろ、「增補改正江戶志」を閱《けみ》して、一說を得たり。「江戶志」に云、『四谷名主勘四郞に尋ねしに、云、「往古は、只、むさし野につゞきたる曠野《ひろの》にして、させる家居もなし。わづかに家四軒あり。梅屋・木屋【今、保久屋といふ。】茶屋・布屋、これなり。甲州往來の旅人の休所《きうしよ》なり。よりて、『四ツ家《や》』と呼びなせしを、今は『四ツ家』の名さへ、うせて、『四谷』と書くなり。されども、右四軒の内、梅屋、保久屋は、子孫、今に、この地に有り。其の頃の高札をもてる。」よし、勘四郞、物語なり。並に、「當處の故老抔は、これらのわけをしりたるも、候はん。」と、いへり。この說、しかるべからん歟。又、或る說に、市谷《いちがや》は四谷までに、谷、四ツあり。第一を「一ケ谷」といひ、第四を「四谷」といふ、といへり。いづれも、證文なき事なれば、詳かならず。猶ほ、考ふべし。

[やぶちゃん注:「四谷」東京都新宿区東部の地名。甲州街道に沿ってあり、江戸城の四谷見付や四谷大木戸が配されて、江戸城西方の要衝であった。現在は新宿に連なるビジネス街・商店街となっている。

「千日谷」現在の東京都新宿区南元町附近の、単に地形上、低くなった一帯の旧地名。「千日坂」の名が残る。

「茜荷谷」この附近

「千駄ケ谷」この附近

「大上谷」「狼谷」とも表記するが、元は「大上谷」。現在の西原二丁目から大山町にかけての谷で、宇田川の水源であった。この中央附近

「增補改正江戶志」近藤義休(よしやす/ぎきゅう:生没年や事績は不詳)が原作で、旗本で故実家の瀬名貞雄(享保元(一七一六)年~寛政八(一七九六)年)が寛政年間に補訂した江戸地誌の増補改訂版らしい。

「保久屋」「曲亭雜記」では「久保屋」とする。

「市谷」現在の新宿区市谷(いちがや)。この附近。]

   ○市谷

 市谷は「江戶志」に、『むかしは「市買《いちがひ》」と書きたり。この處にて、六齋《ろくさい》の市《いち》たちたればなり。尾州の御屋敷にては、今も「市買」と書く。』と、いへり。この說も穩當ならんとは思はれず。しかれども、「伊皿子《いさらご》」を、「鎌倉大草紙」に「五十子《いさらご》」に作り、「池上」を「鎌倉管領九代記」に、「池龜《いけがめ》」と書たれば、市谷も、二百年以前は「市買」と書たる歟。證文なくては、おぼつかなき事なり。

[やぶちゃん注:底本や吉川弘文館随筆大成版では、以上は前の「四谷」の後に馬琴が全体を一字下げで追記した記事となっているが、「曲亭雜記」に従って独立項として立てた。

「六齋の市」中世から近世に、月の内で定期に開かれた市(いち)のこと。「六斎市」の呼称は当初、仏教関係行事と関連して市が開かれたことに由来するものと考えられるが、後には、交換経済の発達や、戦国大名の市(いち)振興政策などに基づいて開かれるようになった。市の開催日は、月の上・中・下旬に、各二回で、六回、開かれた。史料上では南北朝初期と推定される常陸国国府(現在の茨城県石岡市)の六斎市、室町時代の応仁・文明年間(一四六七年~一四八七年)の美濃国大屋田(おおやだ)(岐阜県美濃市)の紙市(かみいち)、山城国宇治郷(うじごう)(京都府宇治市)の市が早い例で、戦国時代には諸大名の城下町や新宿の建設、市町(いちまち)振興などの目的で、多くの六斎市が開かれ、保護された。江戸時代には畿内・西国地方では、地方城下町や在郷町に交換機能を奪われて衰退したが、東国地方では農村商業の中心として存続したものも見られる(以上は「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。

「伊皿子」不詳。東京都港区三田四丁目と高輪二丁目の間にある「伊皿子坂(いさらござか)」に名を残す、旧町名かと思った(当該ウィキによれば、『泉岳寺から上り坂に入り、頂上で魚籃坂に繋がる。江戸時代には、この坂から江戸湾が一望に見渡せた』。凡そ一六〇〇年(慶長五年)頃に、『来日した明人が当地に帰化し、当時の外国人の呼称「エビス」「イベス」から自らを「伊皿子」(いびす)と名乗ったという。この帰化人の名が「伊皿子」という町名の由来とされる』とある)が、「鎌倉大草紙」の話では、慶長五年と合わない。]

   ○波切不動

波切不動、舊說も、まちまちにて、定かならず。近ごろ、梅龍園の說に、「並木の不動」なるを、訛れるにや、といはれしかども、未ㇾ詳おぼゆ。愚、按ずるに、やはり、「波切」なるべし【再按、「遺老物語」所載「三河の記」に、「波切主稅」あり。この宅、なほ、あるべし。】。「三河後風土記」、「一向亂《いつかうらん》」【「大樹寺御難」。】」の條に、波切孫四郞といふ御家臣、見えたり。當時、宗徒にて、御敵對の張本なりしかば、斷絕せしよし同書にいへり。しかれども、波切氏は孫四郞一人にも限るべからず【この他の舊記にも、波切氏の人、見えたるを抄錄せしやに覺たれども、急には、たづねわぶるゆゑ、こゝに略す。】。かゝれば、波切不動は、波切氏の持佛などにてありしにや、さらずば、波切氏の屋、そのほとりにありしによりて、波切不動と唱來れるにても、あらんかし。

[やぶちゃん注:「波切不動」波切不動尊。日蓮宗。現在の東京都文京区大塚の三丁目交差点の北角にあった(ポイントは後述の本傳寺)。国立国会図書館デジタルコレクションの「江戸名所図会」の「卷之四 天權之部」に「波切不動尊」として出、挿絵もある。現在は直ぐ東隣りの同宗の本傳寺に移築されてある。本件については、文京区茗荷谷界隈のタウン・ガイド・サイト「坂と歴史の町」の中の七会静氏の「『江戸名所図会』の大塚・雑司ヶ谷を歩く」の中の「波切不動尊」が詳細を極める。上記の位置もこちらの記載に従った。語源説も馬琴なんぞより信頼がおけ、『波切不動尊の由来については諸説あり、寛延』四(一七五一)年の「南向茶話」は、『大塚と巣鴨の双方から霧が並び』(「立つ」或いは「昇る」か)『ことから竝霧(なみきり)というようになり、これが波切になったといいます』。『また、本傳寺の縁起書によれば、建長年間』(一二四九年~一二五六年)、『宗祖が伊勢国の小幡川(現在の宮川)に水が溢れて渡れずにいたところ、老翁が現れて宗祖を導いて渡してくれたといいます。小幡の山寺に来ると』、『不動尊が水に濡れていて、川を渡してくれた老翁が』、その『霊験』(示現)『であったことを知ります。山寺の僧は不動尊を背負って宗祖の跡を追い』、『東国に赴き、富士見塚(現在の大塚)の農家に宿泊しますが、翌朝、尊像が重くて動かせなくなり、ここに安置したといいます。これが波切不動尊です。 宗祖について』、「江戸名所図会」は日蓮と『しています』(先のリンク先で読める)。『また、後年、江戸城主の太田某がこの不動尊を篤く信仰していましたが、三浦から海を渡る際、嵐に遭遇しました。祈念したところ、不動尊が舳に現れて波を切ってくれたことから、波切不動といわれるようになったともいいます』。『ほかに、火災があった時に関口の川(江戸川、現在の神田川)に入って本尊を火から守ったことから』、『波切不動尊といわれるようになったという説もあります』とある。どうです? 少なくとも、馬琴の辛気臭い退屈な語源説より、ずっと面白い!

「遺老物語」幕臣で、国学者・医者の朝倉景衡(かげひら:本姓は日下部)の編纂になる近世前・中期の見聞記・随筆・実録を集めた叢書(古老の語り話を記したというのが書名の由来)。享保一八(一七三四)年成立。「三河の記」は巻二。愛知県図書館のデジタルライブラリーのこちらで写本で視認出来るが、御覧になれば判るが、んなもん、探す気は百二十%、ない。悪しからず。

「三河後風土記」(みかわごふどき)は近世に書かれた徳川氏創業期に関する歴史書。著者不詳。全四十五巻(巻数の異なるものが他に二種ある)。一部の伝本には偽書説がある。徳川氏が祖と称している清和源氏から徳川家康将軍就任までの七百余年間を年代順に記述している。著者・成立年代については、慶長一五(一六一〇)年五月成立の平岩親吉著と序にあるものの、正保年間(一六四五年~一六四八年)以後の成立と考証され、著者も不明とされる。後に改編を行った幕府儒官成島司直(なるしまもとなお)は沢田源内(元和五(一六一九)年~元禄元(一六八八)年:江戸前期の偽書・偽系図の製作者としてよく知られる問題人物である)としている(以上は当該ウィキに拠った)。

「一向亂《いつかうらん》」「大樹寺御難」戦国時代、三河国の西三河全域で永禄六(一五六三年)から翌七年にかけて、半年ほど発生した「三河一向一揆」のこと。「大樹寺」は愛知県岡崎市にある浄土宗の寺院で、一向一揆とは関係がなく、寺自体が一揆との戦場になったに過ぎない。ここ。この「御難」というのは、当時の徳川家康にとってこの「三河一向一揆」が彼の人生の中の最大の危機の一つだったからであろう。当該ウィキによれば、この「三河一向一揆」は、「三方ヶ原の戦い」・「伊賀越え」と『並び、徳川家康の三大危機とされる。敵からも「犬のように忠実」と半ば揶揄される形で評価された三河家臣団の半数が、門徒方に与するなど、家康に宗教の恐ろしさをまざまざと見せつける事となった』自体だったと書かれてある。

 以下は底本・吉川弘文館随筆大成版ともに連続しているが、「曲亭雜記」に従い、独立させた。]

   ○吾妻橋 ○花川戶

吾妻橋は、吾妻の杜のかたに、わたせし橋なれば、この名なり。猶、麻布コフガヘ橋は、國府の方にゆく橋なれば、やがて「國府方橋」といふがごとし。「方」を「へ」とよむ事、古訓なり。「萬葉集」に、「往方」と書て、「ユクヘ」とよめるが如し。さるを、「笄」と書て、附會の說をなすものは、うけがたし。又、花川戶も、ふるくは、「船川戶」と書たるもあれど、やはり、花川戶なるべし。「竹町のわたし」を、ふるくは、「花方のわたし」といへり。「花方」を訛りて「花川」といひ、或は訛りて「船川」とも、いへりしにや。むかし、かしこに、さくらの並木ありしによりて、花方戶と、いひしなるべし。

[やぶちゃん注:「吾妻橋」隅田川に掛かる橋当該ウィキによれば、創架は安永三(一七七四)年十月の『ことで、それまでは「竹町の渡し」と呼ばれた渡し舟があった場所であった。徳川家康の入府から江戸時代にかけて隅田川に架橋された』五基の『橋のうち最後の橋であり』、明和六(一七六九)年四月に『浅草花川戸』(吾妻橋西詰から北に広がる浅草寺の東の隅田川右岸一帯)『の町人伊右衛門と下谷竜泉寺の源八の嘆願が幕府によって許可され、着工後』五『年で完成した』。長さ八十四間(約百五十メートル)、幅三間半(約六・五メートル)の『橋で、武士以外の全ての通行者から』二『文ずつ通行料を取ったと記録に残る』天明六(一七八六)年七月十八日の『洪水の際』、『永代橋、新大橋がことごとく流され、両国橋も大きな被害を受ける中』、『無傷で残り、架橋した大工や奉行らが褒章を賜ったという。その後』、『幾度かの架け替えが行われたようである』。『橋名は』、当初は、『「大川橋」と呼ばれた』。『これは近辺で隅田川が「大川」と呼称されていたことにちなむ。しかしながら、俗に江戸の東にあるため』、『町民たちには「東橋」と呼ばれており、後に慶賀名として「吾妻」とされた説と、東岸方面の向島にある「吾嬬神社」』(あずまじんじゃ)『へと通ずる道であったことから』、『転じて「吾妻」となった説がある』。『明治九(一八七六)年六月十七日、『木橋として』は『最後の架け替えが行われた際』、『正式に現在の橋名である「吾妻橋」と命名された』とある。

「吾妻の杜」前注に示した東京都墨田区立花にある吾嬬神社(ここ)。橋の直近ではない。当該ウィキに載る「吾嬬の森連理の樟」の浮世絵が往時の森の面影を伝える。

「麻布コフガヘ橋」東京都港区西麻布に「笄橋跡」が残る。国立国会図書館デジタルコレクションの「江戸名所図会」の「卷之三 天璣之部」の「笄橋」はここから本文が始まり、後注で馬琴より詳細な地名由来が記載されている挿絵は離れたこちら

「國府の方」先の笄橋のある西麻布交差点付近は嘗ては「麻布笄町」と称したが、その「笄町」はこの附近の古名である「国府方(こうがた)村」の転訛と言う。]

   ○カニハ

王子より半道ばかり、千住と川口の渡との間の河端《かはばた》を「かには」といへり。今は「神谷」と書きて、「カニハ」と唱ふ。こは、舊名「梶原新田」なり。長享・長祿の江戶地圖に見えたり。扨、「かぢはら新田」を略して、「かぢはら」といひ、又。略して「カヂハ」といひしを、やがて訛りて「カニハ」といふなるべし。

[やぶちゃん注:「神谷」これは現在の足立区にある新神谷橋附近ではないかと推測する。ここに嘗て、江戸の隅田川最上流の渡しが存在し、「神谷の渡し」或いは「宮堀の渡し」と称された。江戸時代は、主に西新井大師への参拝客や、荒川堤への花見客などを乗せていたらしい。

「梶原新田」だから、何? 梶原一族かい?

「長享・長祿」順序が逆。長禄は一四五七年から一四六年まで。長享はずっと後の一四八七年から一四八九年まで。ちょっと思ったのは、江戸の地図で「長祿」は、ちょっと、古過ぎう気がするので、「長享・享祿」(後者は一五二八年から一五三二年まで)の誤りのような気がしないでもない。]

   ○「續江戶砂子」正訛《せいくわ》

「續江戶砂子四」、「地藏靈場」の中《うち》、「身代り地藏・善龍山常德寺」【淨土宗。駒込。土物店《つちもののだな》。】、「靈驗利益《れいげんりやく》」の條に云、『本鄕丸山、眞中氏息《そく》、彌八《やはち》、七歲にして兩眼、盲《しひ》たりしが、享保十四酉八月三日、瑞夢ありて、兩眼《りやうがん》、ひらく【廿三丁の左、廿四丁の右。】。』。按ずるに、右の眞中氏は、予が大父《おほぢ》淨頓居士《じやうとんこじ》實家の兄、眞中理左衞門【一名は治助。】、藤藏[やぶちゃん注:「雜記」では『藤原』。]恆直の事也。壯年より御代官の手附《てつき》をつとめて、はじめは本鄕に住居し、寶曆中には小石川傳通院門前にも住居せし事、舊記によりて、しらる。この理左衞門ぬしは、小字《をさなな》を彌八といへり。享保十四年は、件《くだん》のぬし、三十五歲の時に當れり。子、數人あり。長男繼之助《つぎのすけ》、【七、八歲にて早世す。】、その次は女子【早世。】、二男眞中祐藏【一子[やぶちゃん注:「雜記」は『一字』で、以下の「は」は、ない。この場合は「一字」は「今一つの名」となる。]は勝野右衞門。安永五年に歿す。】、三男眞中萬五郞【早世。】、その次は女子【名を「でん」といふ。松田長玄、妻。天明中、六十四歲にして歿す。】、四男眞中林藏【晚年、剃髮して忠山と號す。文化十一年[やぶちゃん注:一八一四年。]七十餘歲にして歿す。】、五男眞中右金吾《うきんご》【四歲にして早世。】、家記《かき》に載する所、かくの如くにして、「彌八」といふ子、なし。おもふに、「續江戶砂子」に『眞中氏の息彌八』と記せしは、沾凉《せんりやう》が傳聞のあやまりにて、父理左衞門の小字を、その子の名なりと、おもヘるにや、あらん。しかれども、此地藏の靈驗の事を、忠山に問はざりければ、繼《つぐ》[やぶちゃん注:先と異なるが、「雜記」のママ。]之助か、祐藏か、定かならず【大かたは繼之助なるべし。】。理左衞門ぬしは、寶曆六丙子年[やぶちゃん注:一七五六年。]、越後州頸城郡宮島村御代官所にて歿したり。享年六十二歲なりき。

 文政九丙戌年[やぶちゃん注:一八二六年。]菊月念六燈下識  瀧澤 解

右の考は、とし來、雜記中に、その見出しばかりを、しるしおきて、いまだ、考證の足らざるも多かれど、こたみ、冠山老候の懇望によりて、抄錄して、まゐらせたる。こは、その副本也。

[やぶちゃん注:以上では、馬琴の祖父の親族が登場するため、特にそれを正そうとして細述している。

「續江戶砂子」著者は俳人菊岡沾涼(せんりょう)。最初に享保一七(一七三二)年に刊行された彼の手になる正編の江戸地誌「江戸砂子(えどすなご)」は発売後、好評を得て、後に著者自身により、続篇のこれが、享保二〇(一七三五)年に同人作の「新板江戸分間絵図」ともに出版された。なお、私はブログ・カテゴリ「怪奇談集」で沾凉の「諸國里人談」の全電子化注を終っている。

『「地藏靈場」の中《うち》、「身代り地藏・善龍山常德寺」【淨土宗。駒込。土物店《つちもののだな》。】、「靈驗利益《れいげんりやく》」の條』底本や吉川弘文館随筆大成版では、寺の名が『常□寺』と判読不能になっているが、「曲亭雜記」で訂した。早稲田大学図書館「古典総合データベース」の原本のここPDF)の25コマ目で(右丁の最終行から左丁にかけて)視認出来る(但し、かなり読み難い)。「善龍山常德寺」は東京都文京区本駒込のここに現存する浄土宗寺院。当該ウィキによれば、寛永七(一六三〇)年に『立誉善達によって開山された。元々は湯島天神切通に位置していた日蓮宗寺院「善正寺」を浄土宗に転宗させて成立したものだが、天和の大火で焼失した。再建しようとしたところ、幕府より御用地として接収されたため』天和三(一六八三)年に『現在地に移転した』。『当寺は「身代わり地蔵」と呼ばれる地蔵菩薩像で知られている。江戸時代の地図には「身代地蔵常徳寺」と地蔵名の方が大きく記載されるほどの知名度であった。ある時、当寺第』二『世転誉上人が病床に伏し、右目が失明しそうになった。そこで、この地蔵に祈ったところ、転誉上人は全快し、代わりに地蔵の右目が腫れていたという。そのことから「身代わり地蔵」として崇められるようになった』。但し、昭和二〇(一九四五)年の東京大空襲の際、大き過ぎたため、『運び出すことができずに焼失し』てしまった。五十七年も経った二〇〇二年に、二『代目の身代わり地蔵像が再建された』とある。「土物店」とは、「土物」=青物市場のこと。「駒込土物店」は江戸時代、神田・千住と並んで、三大青果市場として知られた。「文京区」公式サイト内の「駒込土物店跡」によれば、その起原は元和年間(一六一五年~一六二四年)と言われ、『当初は近隣の農民が野菜を担いで江戸に出る途中、この地で休むのが毎朝の例となり、付近の住民が新鮮な野菜を求めたのが起こり』とあり、『また、近くの富士神社の裏手は駒込ナスの生産地として有名であり、大根、にんじん、ごぼうなどの』、『土のついたままの野菜(土物)が取り引きされた』とあり、『現在』、『駒込土物店縁起の碑がある。(天栄寺境内)』とある。碑は、ここで、常德寺の南西直近である。

「菊月」九月の異名。

「念六」前にも注したが、「二十(廿)」の変化した音「ネム」が「念」の音に通じるところから、年月日などの「二十」の意に用いる。従ってここは二十六日のこと。

「冠山老候」因幡国若桜(わかさ)藩の老公池田(松平)定常(明和四(一七六七)年~天保四(一八三三)年)の号。当該ウィキによれば、『定常は政治家としても有能であ』『ったが、『どちらかというと文学者として高く評価されている』とあり、彼の著作「論語説」・「周易管穂」・「武蔵名所考」・「浅草寺志」等は、『当時の儒学や古典、地理などを知る上で貴重な史料と』して『高い評価を受けて』おり、文政六年には、『自らの前世を語った勝五郎という農民の少年の元を訪れ』、「児子再生前世話(「勝五郎再生前生話」)を記した」ことでも知られる。]

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