「南方隨筆」版 南方熊楠「牛王の名義と烏の俗信」 オリジナル注附 「二」の(8)/「牛王の名義と烏の俗信」~了
結 論
と云ふと大層だが、こんなに長く書ては何とか締りを附けざ成らぬ。本篇牛王の事を一寸書く積りで、烏の事が以ての外長く成つた。上述の外に烏に關する俗信古話は甚だ多く、其は其は山烏の頭が白く成る迄懸つても書き悉されぬから、善い加減に果(はて)として結論めきた者を短く口上と致さう。文獻乏しき世の事が永く後(あと)へ傳はらぬは、北米の印甸人(インジアン)印度のトダ人南洋や亞非利加に其例頗る多きは先輩の定論有り。然しながら未開の民とても既に人間たる上に、多少の信念も習慣風俗も有つたに相違無いから、後日追々他方から種々と文化を輸入しても固有の習慣信念全くは滅びず、幾分か殘り留まる。斯る事物を總稱してフオークロール(俚俗)、之を硏覈[やぶちゃん注:「けんかく」。底本は「硏劒」だが、選集で訂正した。「覈」は「調べる」の意で、事実を詳しく調査し明らかにすること。「研究」に同じ。]する學をもフオークロール(俚俗學)と云ふ。舊俗の一朝にして亡び難きは、舊曆の正月祝や盆踊が何に[やぶちゃん注:「いかに」。]禁制しても跡を絕たず動(やゝ)もすれば再興せらるゝで知れる。されば、熊野烏の尊ばれたなども之に關して外國と異なる事共多きより推すと、もと熊野に烏を神視する固有の古俗有つて、其事或は外國に類例有り或はこれが無かつた。然る處へ外國から牛王の崇拜入來つたので、本來、烏を引いて誓言すると、新來、牛王を援(ひ)いて盟證すると丁度似た所から、烏像を點じて牛王寶印とし、牛王と云へば烏の畫札(ゑふだ)と解する迄因習流行した事と惟ふ[やぶちゃん注:「おもふ」。]。扨偶然の符合ながら、印度で烏と牛と親愛する事實話なども大に此融通を助成したゞらう。其牛王と云ふは、印度に牛を裁判の標識とし誓言の證據に立つる事有り、又大自在天や大威德明王如き强勢な神も、閻魔王如き冥罰を宰る[やぶちゃん注:「つかさどる」。]神も皆、牛を使物とする所から、本邦に佛法入つてより牛を誓言や冥罰の神としたので、曾我物語に牛王の渡ると見えてと有るも、祈禱が聽かれた標[やぶちゃん注:「しるし」。]に祭神(さいしん)の裁可通り、法を執行し來る神を指した者で、先は[やぶちゃん注:「まづは」。]牛頭馬頭(ごづめづ)が人の死際に火の車もて迎ひに來る樣な事と思ふ。
(大正五年鄕土硏究第三卷第十二號)
[やぶちゃん注:太字は底本では傍点「◦」。以下の太字も同じ。
「トダ人」インドのタミル・ナードゥ州にあるニールギリ丘陵(グーグル・マップ・データ)に居住する少数民族トダ族。
「曾我物語に牛王の渡ると見えてと有る」後の「追記」の「二」の「病氣を人に移す修法成就の際、牛王といふ神が渡ると同時に供物が自ら動き出す」とあるそれは、本篇冒頭で既出(原文も引用されてある)既注。]
追 記
一、牛王に就て (鄕硏三卷六四二頁參照)牛黃(ごわう)を確かに牛王と書いた例は、川角太閤記卷四、「慶長元年遊擊(遊擊將軍沈惟敬)參る時、秀吉へ進物は、沈香のほた一かい餘り、長さ二間、間中(まんなか)高さ三寸、廻り一尺の香箱(かうばこ)に入れ申候。八疊釣の蚊帳、但し色は蟬の羽毛(蟬とはカワセミなるべし)、藥種、龍腦、麝香、人參、牛王の由、以上七色、其外、卷物、綾、羅、錦紗の類也云々」とある。此序に申す。印度の烏が水牛の爲に牛虱を除く由を述べたが(三卷六四九頁)、十八世紀の英人ギルバート、ホワイトのセルボーン博物志にも、「白種、灰色種の鶺鴒が牛の腹や鼻邊から脚邊に走り廻り、牛にとまる蠅を食ふ。又足下に踏殺された蟲をも食ふならん。造化經濟の妙、乃ち斯る不近緣の二物をして能く相利用せしむ」とある。吾邦の鶺鴒にも亦斯くの如き行爲ありや否。
(大正五年鄕硏究第四卷第一號)
二、鄕硏三卷六四二頁に曾我物語から、病氣を人に移す修法成就の際、牛王といふ神が渡ると同時に供物が自ら動き出す一條を引いた。頃日、義經記卷五「吉野法師が判官を追掛奉る事」を讀むと、義經、衆徒を追却けて後、餅を取出だして從者に頒つに「辨慶を召して是れ一つづゝと仰せければ、直垂の袖の上に置てゆづりはを折て敷き、一つをば一乘の佛に奉る。一つをば菩提の佛に奉る。一つをば道の神に奉る。一つをばさんじんごわうにとて置たりけり」。是は山神牛王で、牛王といふ特種の神が中古崇敬せられた今一つの證據と見える。或はごわうは護法の假名を誤寫したのかとも惟ふが、曾我物語に牛王と書き、印度で牛を神視する事既に述べた如くだから、多分は矢張り牛王で有らう。
又烏で占ふ例を種々擧げたが、多くは其鳴聲に由るもので、其坐位を察て[やぶちゃん注:「みて」。]卜ふのは J. Theodore Bent,“The Cyckades,” 1885, p.394 に一つ見える。云く希臘のアンチパロス島は史書載する事無く唯海賊の巢栖(すみか)なりし。又只今も碌な者棲まず。パロス島人、此島民を蔑んで烏と呼ぶ。以前は尤も迷信深く主として烏を相(み)て占へり。例せば烏が樹に止るに北側ならば萬づ無事だが、南側ならば海賊海峽に入れる徵と斷じ、忙ぎ走つて邑の諸門を閉じたと。熊楠謂ふに烏は眼至つて明かに且つ注意深い者故、自然、海賊の來るのを怪んで其方を守り坐るのだらう。從つて此占ひなどを單に迷信と笑ふてのみ過すべきで無い。
六四八頁に地獄で烏が罪人を食ふちう佛說を擧げたが、現世に烏に人を食はせた基督敎國の例もある。十三世紀にクーロンジユの大僧正アンリ一世は、フリデリク伯の手足、頸、脊を輾折(しきを)り、扨、餘喘あるまゝ烏に與へて倍(ますま)す苦んで死せしめた(Henri Estienne, “Apologie pour Herodote,” ed. 1879, Paris, tom.i, p.65)。次に、七三八頁に比丘尼等賤妓と烏の關係を一寸述べたが、延寶四年[やぶちゃん注:一六七六年。]板談林十百韻第十の百韻のうち、「比丘尼宿はやきぬぎぬに歸る雁、卜尺」、「かはす誓紙のからす鳴く也、一朝」、「終は是れ死尸(しかばね)さらす衆道ごと、志計」。賣色比丘尼や男色の徒が烏を畫(ゑが)いた牛王で誓ふを詠(よん)んだ物たる事勿論だが、當初、熊野比丘尼が牛王を賣りあるいたに因(ちな)んだ作意でもあらう。西鶴の好色一代女に、大阪川口の碇泊船を宛込(あてこん)で婬を鬻いだ歌(うた)比丘尼を記して、「絹の二布(ふたの)の裾短かく、とりなり一つに拵(こしら)へ、文臺に入(いれ)しは、熊野の牛王、酢貝(すがひ)、耳姦(みゝかしま)しき四つ竹、小比丘尼に定まりての一升干杓(びしやく)」と云へるが其證據だ。
(大正五年鄕硏究第四卷第七號)
[やぶちゃん注:本文内の太字は底本では傍点「◦」。『川角太閤記卷四』「慶長元年遊擊(遊擊將軍沈惟敬)參る時、秀吉へ進物は……」「川角太閤記」は「かわすみたいこうき」(現代仮名遣)と読む。江戸初期に書かれたとされる豊臣秀吉に関する逸話を纏めたもの。全五巻。主に「本能寺の変」から「関ヶ原の戦い」までの期間が記されている。本来は単に「太閤記」といったが、後になって他の「太閤記」と区別するために著者川角三郎右衛門の名を冠して呼ぶようになった。作者は、大名で筑後国主であった田中吉政(天文一七(一五四八)年~慶長一四(一六〇九)年)に仕えた武士。当該部は国立国会図書館デジタルコレクションの明四二(一九〇九)年共同出版刊の共同出版株式会社編輯局編「川角太閤記 下卷」のここ(左ページ四行目以降)。
「ギルバート、ホワイトのセルボーン博物志」「南方熊楠 小兒と魔除 (5)」の私の「G. White, ‘The Natural History and Antiquities of Selborne’」の注を参照されたい。訳本を所持しているのだが、書庫の底に沈んで見当たらず、当該箇所を示せない。悪しからず。
『義經記卷五「吉野法師が判官を追掛奉る事」を讀むと、義經、衆徒を追却けて後、餅を取出だして從者に頒つに……』所持する岩波古典文学大系(東洋文庫藏本底本)で確認。
「さんじんごわう」は「山神護法(さんじんごわう)」と表記し、前記の岩波の岡見正雄氏の頭注では、
《引用開始》
山神午王とする校注本もあるが、田中本「さんしんこほう」とある。山神護法、即ち山の神と解すべきで、護法は元来仏教を擁護する護法善神の意で、平安時代以来験徳ある僧侶には護法(乙護法)がつき仕え、その意のままに駆使された。書写の性空上人や信貴山縁起絵巻の乙(おと)護法など有名であるが、修験道でも験者の使いとなって走り廻る所謂使神、みさき神と考えたようで、山神も護法の一人と考えて、山神護法といったのだろう。なお護法は古くからゴオウと訓じたので、宮内庁書陵部、九条家旧蔵諸山縁起なる鎌倉期慶政上人筆の一冊には(熊野参詣還向ノ次第先ツ護法(コヲウ)送り次第」なる詞句が見え、ゴヲウと訓をつけるので、湯沢幸吉郎氏が指摘するように、西源院本太平記(刀江書院本)には「満山護法(コウヲウ)」(一一〇頁)、「常随宮仕之護法(・ウヲウ)」等と見える(湯沢氏、国語学論考)。「五しきにそめたる七尺のはたをさゝけて申やう、山には山神こわう、かわにはすいしん、うみにはりうしんと申て、よるひるおこたらす」(横山氏校、室町時代物語集第一、古梓堂文庫本、くまのゝ本地上)、「きさき御くしあまたゆいわけて一ゆいをは、ほんていたいしやくをはしめてよろつのほとけにまいらする、このわうし三にたり給はんまてまほり給へ、一ゆりをはこの山の山神こふうにまいらする」(同下)、「山王七社王子眷属東西満山護法聚衆」(覚一本系平家巻七、平家山門連署)、「七仏五十余代仏祖幷満山護法善神神」(相田氏、日本の古文書所引、肥後広福寺文書、菊池武茂起訓文)、「伏乞当寺の諸尊満山の護法」(勅修御伝第三十一)、「下野ノ国宇都宮の御殿に納める。乙護法使者たり」(平治巻一、叡山物語の事)、「さりとも年月頼みをかくる大聖不動明王の威力、又は山神護法善神、殊には開山役の優婆塞」(謡曲、谷行)。→補注一六。
《引用終了》
とある。聊か引用が長くなるのであるが、明らかに南方熊楠が牛王とする説を退ける内容であるから、補注も引いておく。
《引用開始》
一六 山神護法[やぶちゃん注:当該ページ数を略した。] 護法については頭注の如く諸例があるが、なお宮地直一氏の熊野三山の史的研究第六編第四章、三山祭神の組織の条に、熊野の十二所以外の附属せる若干の小神ありとして[やぶちゃん注:以下の引用は変則的に改行部分の途中で一字下げとなっているが、ここでは改行して頭から示した。]、
「護法 護法とは所謂正法を護持する梵天・帝釈・四天王等の謂にして、之が中にあつて、是等善神の使者となり駆使の役に当るものを護法天童又は護法童子といひ、又略して単に護法ともいへり。而してこの種類に属せる護法は、有徳の験者に常侍してその用を勤め、又道心者に随つて之を擁護すと信ぜられて、上下の信仰頗る篤く、日本霊異記(中、打法師以現得悲病而死縁第卅五)を始め、その後の記録物語類に尠からぬ記事を留めたり。例へば伝教又は性空の使役せしと伝ふる乙護法の如きは、その一にして(平治物語叡山物語事・元亨釈書十一・太平記十一書写山行幸事・栂尾明恵伝記上)、本社にあつては、御幸を始め参詣の輩が帰途稲荷の社頭に護法を送るの習あり、その式折敷に餅を盛りて地土に安き[やぶちゃん注:「おき」。]、先達幣を収つて拝礼を行ふといへり(中右記、天仁二年十一月十目・長秋記、大治五年十二月廿二日、長承三年二月七日)。こは往還の道程余りに長途に及ぶが故に、途中の安全を祈請せんとする自然の要求より起りし風習なるべしと雖も、護法そのものゝ本体に関しては全然その所見を欠きたり。されど今さきに記しき金剛童子の性質より推考するに、かく道者の為に護身の用を勤めしは即ちこの童子にして、護法の名は之が功能の一方面を表示せし称呼なるべく、又さきに引ける御記文に、各々付払天魔云々とあるも、道中の護持を含めし意に外ならざるか。走湯山縁起(四)によるに、さきに掲げし雷電童子を南山護法五体王子之中といへり。五休の称はいかゞならんも、金剛童子を以て護法とする思想は充分に之を認むるを得べく、又太平記(五、大塔宮熊野落事)にも三所権現の下に満山護法十万眷属八万金剛童子と連記したり。かゝれば古くはさきの一万十万社以外に之を祭る社を見ざりしが、鎌倉時代に入り独立の崇拝をうけ、満山護法といはれて、別にその本地を定め、又別社として祭祀せらるゝに至りぬ(宴曲抄上、譲羽山熊野権現、康正三年注文、垂跡絵)。されど遂に十二所の数に加へらるゝに及ばざりき」(三八八頁)と書かれる。[やぶちゃん注:以下略。]
《引用終了》
「J. Theodore Bent,“The Cyckades,” 1885, p.394」イギリスの探検家・考古学者で作家でもあったジェームス・セオドア・ベント(James Theodore Bent 一八五二年~一八九七年)の「キクラデス諸島」(エーゲ海中部に点在するギリシア領の二百二十以上の島から成る諸島。位置は当該ウィキの地図を参照されたい)。当該箇所は「Internet archive」のこちら。
「クーロンジユの大僧正アンリ一世は、フリデリク伯の手足、頸、脊を輾折(しきを)り、扨、餘喘あるまゝ烏に與へて倍(ますま)す苦んで死せしめた(Henri Estienne, “Apologie pour Herodote,” ed. 1879, Paris, tom.i, p.65)」アンリ・エティエンヌ(Henri Estienne 一五二八年~一五九八年:パリ生まれの古典学者・印刷業者。ラテン語名ヘンリクス・ステファヌス(Henricus Stephanus)としても知られる。一五七八年に彼が出版した「プラトン全集」は、現在でも「ステファヌス版」として標準的底本となっている。以上は当該ウィキに拠った)の「ヘロドトスの謝罪」。当該書の当該部はここ。この二人の人物については、よく判らんのだが、以上の原記載に「Henri Ⅰ de molenark 1225-1238」とあり、ずたずたされてカラスの餌にされた「Frederic」なる人物と、その関係も私にはよく判らぬ。
「談林十百韻」(だんりんとつぴやくゐん(だんりんとっぴゃくいん))は江戸前期の俳諧撰集。延宝三(一六七五)年板行。田代松意(しょうい)編・自序・自跋。全二冊。同年夏、東下した西山宗因に発句「されば爰に談林の木あり梅の花」を請い受け、江戸神田鍛冶町の松意の草庵に集った、俳諧談林の連衆である松意・雪柴・在色(ざいしき)・一鉄・正友(せいゆう)・志斗・一朝・松臼・卜尺の九人で詠じた百韻十巻。以下の二句は、「愛知県立大学図書館 貴重書コレクション」の「古俳書」のこちら(以上は当該箇所の画像データ。同書のトップ・ページはこちら)で原本の当該句が見られる。左丁の四・五・六句目である。なお、本文で「志計」とあるのは、「志斗」に同じ。辞書により、前者で出、読みを「しけい」とする。しかし前掲原本を見るに、一貫して「志斗」と書いている。これだと「しと」と読むのが普通であるが、「計」は「ばかり」と副助詞で訓ずることが多く、その副助詞「ばかり」を「斗」の字で略して書くことが近代以前では頗る多い。さすれば、「志斗」も「しけい」と読むべきであろうか。
『西鶴の好色一代女に、大阪川口の碇泊船を宛込(あてこん)で婬を鬻いだ歌(うた)比丘尼を記して、「絹の二布(ふたの)の裾短かく、とりなり一つに拵(こしら)へ、文臺に入(いれ)しは、熊野の牛王、酢貝(すがひ)、耳姦(みゝかしま)しき四つ竹、小比丘尼に定まりての一升干杓(びしやく)」と云へる』巻三の「調謔(たはぶれ)の歌船(うたふね)」の一節。国立国会図書館デジタルコレクションの昭和二(一九二七)年国民図書刊の「近代日本文学大系」第三巻所収の同作の当該部をリンクさせておく。右ページ後ろから五行目末から。所持する小学館「日本古典文学全集」の暉峻(てるおか)・東(ひがし)共校注・訳「井原西鶴集」(昭和四九(一九七四)年第二版)によれば、「歌比丘尼」は『熊野の護符を売り念仏を唱え、地獄極楽の絵解きをして米銭を乞うた尼。「もとは清浄の立て派にて熊野を信じて諸方に勧進しけるが、いつしか衣をりやくし歯をみがき頭をしさいにつみて、小哥を便りに色をうるなり」(人倫訓蒙図彙)』とある。以下、「二布」は腰巻のことで、「とりなり一つ……」は『みな一様のいでたちをして』、「文臺」は『かた箱。比丘尼が脇にはさんで持つ小箱』、「熊野の牛王」は無論、熊野牛王印でたまさかの男と起請文を交わすのに使う小道具、「酢貝」は『しただみ(栄螺』『に似た小さい貝)の蓋を酢の中に入れると旋回する。春の初め熊野に参詣して紀州の海辺で拾い、比丘尼が児女に玩具として与える』とある(これについては後述する)。「四つ竹」は『扁平な竹片を両手に二個ずつ持ち、掌を開いたり、閉じたりして鳴らす楽器』、「一升干杓」については、『比丘尼は腰に檜の柄杓(ひしゃく)を差し、米や金を受け』たとあるものを指す。「酢貝」は私の守備範囲で、腹足綱前鰓亜綱古腹足目サザエ(リュウテン(サザエ))科リュウテン亜科オオベソスガイ属スガイ Lunella correensis のサザエと同じような石灰質の蓋を指す。本邦の全域の磯の潮間帯で普通に見られるに殻径二~三センチメートルの食用にもなる巻貝であるが、例えば、当該ウィキによれば、『日本では磯で普通に見られることから、昔から磯遊びの対象として親しまれてきた。著名な例としてこの貝の蓋を半球面側を下にして酢に浸すと、酸で蓋の石灰質が溶解する際に、二酸化炭素の気泡を出しつつ、くるくると回転することから、古くから子供の遊びとなっていたという。冒頭に述べたように「酢貝」という名はこの遊びに由来し、本来は蓋のみの呼称で、本体の方にはカラクモガイ(唐雲貝)の名がある。』とあり、「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」のスガイにも、『フタの丸く盛り上がった方を下にして、酢に浸すと泡を出してクルクルと回る。「スガイ」はこの蓋の呼び名。貝本体はカラクモガイ(唐雲貝)とい言った』とあって、幼少時以来、海岸生物に魅せられてきた私も、小さな頃から、諸図鑑の解説でそう覚えていたのだが、実は実際に何度か、試してみたが、泡は出たが、旋回はしなかったので、六十四になっても、その運動を見たことがない。昔からそんなに知られた遊戯であるなら、ネット上の動画にあるだろうと調べたこともあるが、なかった。今回も調べたが、見当たらない。ところが、個人サイト「五島列島 福江島の博物誌 知られざる五島の海」でズバリ! 「フタは回るのか? スガイ 酢貝 (サザエ科) Turbo (Lunella) coreensis 」を見つけた。而して実験の結果は――『泡は確かに出てくるのですが、数時間そのままにしておいても回ることはありませんでした。今回使ったフタは直径』八ミリメートル『ほどで、小さな泡で動くには大きすぎたのかもしれません。あるいは、もっと強烈に反応するような強い酢(?)が必要なのか。インターネット上で調べてみても、有効な情報は得られませんでした。ただ、私と同じように「やってみたけど回らない」という人はいました。とりあえず、もっと小さいもので試してみようかとは思っていますが…。』(二〇一五年三月の記事)とあった。う~~ん、私も何時か、小型のもので、やってみよっ、と!]
« 「南方隨筆」版 南方熊楠「牛王の名義と烏の俗信」 オリジナル注附 「二」の(7) | トップページ | 萩原朔太郞詩集「蝶を夢む」正規表現版 農夫 »