「南方隨筆」版 南方熊楠「牛王の名義と烏の俗信」 オリジナル注附 「二」の(7)
烏や鴉を凶鳥とするのも最[やぶちゃん注:選集では「いと」と振る。]古いことで、五雜俎九に、「詩云、莫赤匪狐、莫黑莫烏、二物之不祥從古已忌之矣[やぶちゃん注:「「詩」に云はく、『赤くして狐に匪(あら)ざるは莫(な)く 黑くして烏に匪ざるは莫し』と。二物の不祥なるは、古へより已に之れを忌む。」。]。日本紀神代下に、天稚彥橫死の時、其父天國玉[やぶちゃん注:「あまのくにたま」。]、諸鳥を役割して、八日八夜、啼哭悲歌する。異傳に以烏爲宍人者[やぶちゃん注:「烏を以つて、宍人者(ししひと)と爲す。」。「宍人者」は獣肉を処理する屠殺業者を指す。]、古事記に翠鳥御食人(そにをみけびと)とし、と有る。宣長言く、御食人(みけびと)は殯[やぶちゃん注:「もがり」。]の間、死者に供る饌[やぶちゃん注:「むくるけ」。]を執行ふ人也、書紀に宍人者と有る是に當れりと(古事紀傳一三)。翠鳥(そに)乃ち鴗(かはせび)は能く魚を捕ふる故御食人としたちふ谷川士淸の說より推すと、吾神代には烏專ら生肉を食ひ、弱い鳥獸を捕ふるを以て著れた物で、爾後如く腐肉死屍を啖ひ田圃を荒すとて忌(いま)れなんだんだろ。然るに書紀神武卷に、更遣頭八咫烏召之(兄磯城)。時烏到其營而鳴耶、天神子召汝、恰奘過々々々(いさわいさわ)、と。兄磯城忿之曰、聞天壓神至、而吾爲慨憤時、奈烏何鳥、若此惡鳴耶、乃彎弓射之[やぶちゃん注:「更に頭八咫烏(やたのからす)を遣はして之れ(兄磯城(えしき))を召す。時に烏、其の營(いほり)[やぶちゃん注:砦。陣屋。]に到りて鳴きて曰はく、「天神(あめのかみ)の子、汝(いまし)を召す。恰奘過(いさわ)、恰奘過(いさわ)。」と。兄磯城、之れを忿(いか)りて曰はく、「天壓神(あめおすのかみ)の至ると聞きて、吾が慨憤(ねた)みつつある時に、奈何んぞ、烏鳥(からす)の此くのごとく惡しく鳴くや。」と。乃(すなは)ち、弓を彎(ひ)きて之れを射る。」。底本では清音で振るが、「いざわ」は感動詞(「いざ」は感動詞、「わ」は感動の助詞)で、相手を誘うときに発する言葉。]。次に弟磯城[やぶちゃん注:「おとしき」。]方に往き、前同樣に鳴くと、弟公、容を改め、臣聞天壓神至、旦夕畏懼、善乎烏、汝鳴若此者歟[やぶちゃん注:「臣、天壓神の至りますと聞(うけたまは)りて、旦夕(あしたゆふべ)に畏(お)ぢ懼(かしこ)まる。善きかな、烏、汝の此(か)くのごとく鳴く者か。」。]と言つて之を饗し、隨つて歸順したと見ゆ。さすれば其頃は此方の氣の持樣次第、烏鳴[やぶちゃん注:「からすなき」。]を吉とも凶とも做(し)たのだ。然るに、追々烏を忌む邦俗と成つたは、本來、腐肉死屍を啖ふ上に村里田園擴がるに伴れて烏の抄掠[やぶちゃん注:「せうりやく(しょうりゃく)」。「抄略」とも書く。かすめ奪うこと。略奪。]侵害も劇しく成つたからであらう。腐肉死屍を食うて掃除人の役を勤むる功を賞して禿鵰(ヴアルチユール)などを神とし尊んだ國も有るから、其だけなら斯く忌み嫌はるゝ筈が無い。古ハドリアのヴヱネチア人は、年々二人の欽差大臣を烏群に遣はし、油と麥粉を煉合せて贈り、圃[やぶちゃん注:「はたけ」。]を荒らさぬ樣懇願し、烏輩之を享食(うけく)へば吉相とした(Gubernatis, vol.ii, p.254)。吾邦でも初は腐屍や害虫を除き朝起きを勵しくれる等の諸點から神視した烏が、田圃開くるに及び嫌はれ出したので、今日では歐米で烏鴉が跡を絕つた地も有る。本邦も御多分に洩れない始末と成るだらうが、飛鳥盡きて良弓藏まる氣の毒の至り也。佛說にも夫長旅の留守宅に來て面白く鳴く烏に、其妻がわが夫無難に還るの日汝に金冠を與へんと誓うた所、夫果して息災に戾つたので、烏來たり金盃を眺めて好音[やぶちゃん注:「良きこゑ」。]を出す。因て妻之を烏に與へ、烏、金盃を戴いて去る。鷹、金盃を欲さに[やぶちゃん注:「ほしさに」。]烏の頭を裂いた。神之を見て偈(げ)を述ぶらく、須く[やぶちゃん注:「すべからく」。]無用の物を持つ事勿れ、黃金烏頭に上つて盜之を望むと(F. A. von Schiefner, “Tibetan Tales,” trans. Ralston, 1906, p.355)。是れ印度でも烏を時として吉鳥としたのだ。然し經律異相四四に譬喩經を引いて、昔有一極貧人、能解鳥語、爲賈客賃擔、過水邊飯、烏鳴、賈客怖、作人反笑、到家問言云々、答曰、烏向語我、賈人身上有好白珠、汝可殺之取珠、我欲食其肉、是故我笑耳[やぶちゃん注:「昔、一(ひとり)の極めて貧しき人有り。能く鳥語を解す。賈客(こかく)[やぶちゃん注:商人。]の爲に賃擔(ちんかつぎ)[やぶちゃん注:雇われて同行して物品を担い運ぶこと。]をして、水邊を過ぎ、飯(めしく)ふ。烏、鳴いて、賈客、怖るるに、作人(やとひど)、反(かへ)つて笑へり。家に到りて問ふて云はく」云々、「答へて曰はく、『烏、向(さき)に、我に語るに、「賈人の身上(しんしやう)に好き白珠あり。汝、之れを殺し、珠を取るべし。我は、其の肉を食らはんと欲す。」と。是の故に我は笑ひしのみ。』と。」。]とあれば、隨分古く既人肉を食ふ鳥として烏鳴を忌んだと知らる。今日も印度で烏を不祥とす。然してラバルの婦女にカカと名くる例あり。梵語及びラバル語で烏の義也(Balfour, “The Cyclopaedia of lndia,” vol.i, p.843)と有るが、日本で妻をカカと呼ぶは是と關係無し。斯く不祥としながら印度人は一向烏を殺さず放置するから、家邊に蕃殖すること夥しく、在留の洋人大いに困る(“Encyclopaedia Britannica,” vol.vii, p.513)。是は丁度土耳其[やぶちゃん注:「トルコ」。]で犬を罪業有る物が化つたと信じながらも、之を愍れんで蕃殖を縱にせしむると一般だ。摩訶僧祇律十六に、神に供へた食を婦人が賢烏來れと呼んで烏に施す事有り。パーシー輩が烏を殺さぬは例の太陽に緣有り、又屍肉を片付け吳るからだらう。波斯人は、鴉二つ雙(なら)ぶを見れば吉とす(Burton, “The Book of the Thousand Nights and a Night,” ed. Smithers, 1894, vol.vi, p.382, n)。囘敎國と希臘基督敎國には烏を不祥とし、カリラー、ワ、ジムナー書には、之を、罪業、纏(まと)はり、臭氣、穢(きたな)き鳥と呼べり(同書五卷八頁注)。アラブ人も鴉を朝起き最も早き鳥とし、グラブ、アル、バイン(別れの鴉)と言ふ。因て別離の兆として和合平安幸福の印相たる鳩と反對とす。主として黑白色の差(ちが)ひから想ひ付いたらしく、俗傳にマホメツト敵を避けて洞に潜んだ時、烏追手に向ひ、ガール、ガール(洞々(ほらほら))と鳴いたので、マホメツト之を恨み、以後常に、ガール、ガールと鳴いて自分の罪を白し[やぶちゃん注:「あらはし」。]、又、盡未來際[やぶちゃん注:「じんみらいざい」。]黑い喪服を著て不祥の鳥たるを示さしめたちふ事で厶る[やぶちゃん注:「ござる」。](同上卷三、一七八頁注二)。古希臘神話にも光の神アポロ、情をテツサリアの王女コローニスに通じ姙めるを、鴉して番せしむる内、王女、復[やぶちゃん注:「また」。]イスクスの戀を叶へて其妻たらんと契つたので、鴉其由を光神に告げると、何樣べた惚れ頸丈[やぶちゃん注:「くびつたけ」。]な女の不實と聞いて騰せ[やぶちゃん注:「のぼせ」。]揚げ、折角忠勤した鴉其時迄白かつたのを永世黑くした(Grote, “History of Greece,” London, John Murray, 1869, vol.i, 174)。又女神パラス、其義兄へフアイストスの子、蛇形なるを養ふに、三侍女をして決して開き見る勿らしむ。然るに、三女好奇の餘り竊に之を見て亂心して死す。鴉其由を告げたので永くパラスに勘當されたと云ふ(Gubernatis, vol.ii, p.254;Smith, “Dictionary of Greek and Roman Biography and Mythology,” 1846, vol.ii, p.48)。斯く何處でも評判が惡く成つても、アラビヤ人は今も鴉を占候之父(アブ・ザジル)と呼び、右に飛べば吉、左に飛べば凶とす(Burton, vol.iii, p.178, n.)。プリニウスの博物志十卷十五章に、鴉の卵を屋根下に置くと其家の女難產すと載す。一六〇八年出板ホールのキヤラクタースに、迷信の人、隣屋に鴉鳴くを聞けば直ちに遺言を爲すと有る由(Hazlitt, vol.ii, p.508)。又古歐人は事始めに鴉鳴を聞くを大凶とした(Collin de Plancy, p.144)。ブラウンのプセウドドキシアの注者ウヰルキン言く、鴉は齅覺非常に發達せる故、人死する前に特異の臭を放つを、煙突を通じて聞知り鳴き噪ぐ。實は死の前兆を示すで無くて、死につゝ有る人有つて、而して後鳴くのぢやとは尤も千萬な論だ。爾雅に鳶烏醜其飛也翔、烏鵲醜其掌縮[やぶちゃん注:「鳶・烏は醜し。其れ、飛ぶや、翔(はばた)く。烏・鵲は醜し。其れ、掌(あし)を縮む。」。]。烏も一たび惡まれ出すと、飛ぶ時に脚を腹下に縮める事迄も御意に入らぬのぢや。埤雅に今人聞烏噪則唾、以烏見異則噪、故唾其凶也[やぶちゃん注:「今、人、烏の噪ぐを聞けば、則ち、唾(つば)す。烏は異を見れば、則ち、噪ぐを以つて、故に其の凶に唾するなり。」。]。唾吐いて凶事を厭(まじな)ふは、歐州、殊に盛んだ。水滸傳第六回、魯智深、大相國寺の菜園で破落戶共(ごろつきども)を集め遊ぶ時、楊柳上老鴉鳴噪すると、衆人有リ二扣クㇾ齒ヲ的一齊シク道フ赤口上リㇾ天ニ白舌入ルトㇾ地ニ、智深道フニ、儞做二甚麼ノ鳥亂ヲ一、衆人道フ、老鴉叫ブ、怕ラクハ有ラン二口舌一[やぶちゃん注:熊楠は珍しく訓点をつけているのだが、本文に不審があり、中文サイトで確認し、特異的に修正した。『衆人、齒を扣(たた)くもの、有り、齊(ひと)しく道(い)ふ、「赤口(しやくこう)、天に上り、白舌(びやくぜつ)、地に入る。」と。智深、道ふ、「儞(なんぢ)ら、甚麼(いか)にしてか鳥亂(てうらん)を做(な)すや。」と。衆人、道ふ、「老鴉叫ぶ、怕(おそ)らくは口舌有らん。」と。』。私は「水滸伝」に興味がなく、短い余生の間にも読むことはない。されば、この部分、意味がよく判らないところが多いが、注をする気はない。悪しからず。]]。宋・元の頃は、斯(かゝ)る烏鳴の禁法(まじなひ)も有たんぢや[やぶちゃん注:「あつたんぢや」。]。習俗通に、案明帝起居注曰、帝東巡泰山、到滎陽、有烏飛鳴乘輿上、虎賁中郞將王吉射中之、作辭曰、烏烏啞啞、引弓射、洞左腋、陛下壽萬歲、臣爲二千石。帝賜錢二百萬、令亭壁悉畫爲烏也[やぶちゃん注:これも本文表記に疑問があったので、中文サイトを参考にしつつ、本文を特異的にいじって作り替えた。「「明帝起居注」を案ずるに、曰はく、『帝、東して、泰山を巡り、熒陽(けいやう)に至る。烏、飛んで、乘れる輿(こし)の上に、鳴く有り。虎賁中郞將王吉、射て、之れに中(あ)つ。辭を作(な)して曰はく、「烏々啞々(ううああ)、弓を引き、射て、左の腋を洞(つらぬ)く。」と。陛下は萬歲を壽(ことほ)ぎ、「臣は二千石と爲す。」と。帝、錢二百萬を賜ひ、亭壁に、悉く、烏を畫き爲さしむ。』と」。]又烏の爲に人民大に困つた例は、古今圖書集成邊裔典卷二十一に朝鮮史略を引いて、高麗忠烈王二十七年云々、先是朱悅子印遠爲慶尙按廉、貢二十升黃麻布、又惡烏鵲聲、令人嚇以弓矢、一聞其聲卽徵銀瓶(錢の名)、民甚苦之[やぶちゃん注:同前で、「維基文庫」の同書の当該部(「朝鮮部彙考九」の「大德元年以高麗王昛子謜為高麗國王仍加授王昛功臣號逸壽王按元史成宗本紀大德元年二月癸卯以闍里台所)の電子化を参考に本文を訂した。「『高麗の忠烈王二十七年』云々。『是れに先だちて、朱悅の子、印遠は、慶尙の按廉[やぶちゃん注:監査役か。]と爲(な)り、二十升の黃麻の布を貢(みつぎ)す。また烏鵲(うじやく)の聲を惡(にく)んで、人をして嚇(おど)すに弓矢を以つてせしむ。一聞(ひとたび)、その聲を聞けば、卽ち、銀甁を徵し、民、甚だ之れに苦しむ。』。]。Tavernier, “Travels in India,” vol.ii, p.294 に、暹羅[やぶちゃん注:シャム。タイ王国の古名。]で娼妓死すれば常の婦女通り火葬せしめず、必ず郊外に棄てゝ犬や鴉に食すと有り。吾國亦德川氏の初世迄妓家の主人死すれば藁の韁(たづな)を口にくはへ、死んだ時著た儘の衣で町を引ずり野において烏狗に餌うた[やぶちゃん注:「かうた」。餌として食わせた。]と一六一三年(慶長十八年)英艦長サリスの平戶日記に出づ(Astley, “A New General Collection of Voyages and Travels,” 1745, vol.i, p.482)。妓主長者さへ斯だから賤妓などは常に烏腹に葬られたなるべく、從つて、彼輩、烏を通じて熊野を尊び、其から熊野比丘尼が橫行するに及んだのだらう。
[やぶちゃん注:「詩云、莫赤匪狐、莫黑莫烏」「詩經」の「國風」の「邶風」(はいふう)の「北風」の一節。全体は国が乱れ、身に危険の迫ったと感じた者が、親友とともに他国へ亡命せんとするシークエンスを詠んだもので、壺齋散人氏のブログ「壺齋閑話」の「北風:亡命の歌(詩経国風:邶風)」で全体が読める。訓読・和訳有り。
「翠鳥御食人(そにをみけびと)とし」「翠鳥」翡翠(かわせみ。ブッポウソウ目カワセミ科カワセミ亜科カワセミ属カワセミ亜種カワセミ Alcedo atthis bengalensis 。私の「和漢三才圖會第四十一 水禽類 鴗(かはせび)〔カワセミ〕」を参照されたいが、思うに、何故、カワセミがそうした死者へ送る聖餐の料理人とされたのかは、以下の谷川の説なんぞよりも、恐らくは、その冠毛や羽根が著しく美しいことから、死者の霊をその美々しさで鎮魂するという呪的意味があったものと私には思われる。
「宣長言く、御食人(みけびと)は殯の間……」国立国会図書館デジタルコレクションの岩波文庫版の当該部をリンクさせておく。右ページ最終行末から。なお、「日本書紀」の当該本文ページはここ。
「谷川士淸」(たにかわことすが 宝永六(一七〇九)年~安永五(一七七六)年)は国学者・神道家。本名は昇。医者の家に生まれ、玉木正英・松岡玄達に垂加神道を学び、独学で国学を修め、本居宣長とも交わった。「日本書紀」を重んじ。その全注釈「日本書紀通証」(全三十五巻)をものし、また国語辞典の先駆とされる字書「和訓栞」(わくんのしおり(全九十三巻・本書の実際の刊行には、士清の没した翌年から明治二〇(一八八七)年、まで、実に百余年を要した)の著者としてよく知られる。「和訓栞」を調べてみたが、それらしいものを発見出来なかったので、以下の見解は「日本書紀通証」のものか。
「古ハドリア」古い「Hadria」地方で、特に現在のイタリアのヴェネト地方(Veneto)州(今の州都は「ヴヱネチア」(Venezia))に、嘗てエトルリア人が築いた都市で現在のアドリア(Adria)の古称。
「欽差大臣」本来は清朝の官職名で、特定の事柄について皇帝の全権委任を得て対処する臨時の官を欽差官というが、その中でも特に三品以上のもの指した漢語である。
「Gubernatis, vol.ii, p.254」複数回既出のイタリアの文献学者コォウト・アンジェロ・デ・グベルナティス(Count Angelo De Gubernatis 一八四〇年~一九一三年)の「動物に関する神話学」。「Internet archive」の第二巻原本の当該部はここ。下から十五行目以下に出る。]
「F. A. von Schiefner, “Tibetan Tales,”」ドイツの言語学者にしてチベット学者であったフランツ・アントン・シーフナー(Franz Anton Schiefner 一八一七年~一八七九年)の「チベット譚」。
「經律異相四四に譬喩經を引いて、昔有一極貧人……」「中國哲學書電子化計劃」の影印本画像のここで全原文が視認出来る(中段の終りから)。標題は「賃人善解鳥語十六」で、最後に割注で「出譬喩經」(「譬喩經(ひゆきやう)」に出づ)とある。
「ラバルの婦女にカカと名くる例あり。梵語及びラバル語で烏の義也(Balfour, “The Cyclopaedia of lndia,” vol.i, p.843)」「ラバル」は以下の引用元の原本の綴りで納得。南方熊楠は頭の音を落しており、「マラバ(ー)ル」が正しく、現在のインド南部のコンカン地方からタミル地方のカンニヤークマリに至るまでの沿岸地帯であるマラバール海岸(英語:Malabar Coast)のことだ。紀元前三千年頃から既その記録が現われ、メソポタミア・アラビア・ギリシャ・ローマなどにその存在が知られていたとウィキの「マラバール海岸」にあるから、独自の言語を持っていたとしてもおかしくない。ここ(英文の当該ウィキ(正確には「Malabar Coast moist forests」(マラバール海岸湿性林地帯))の地図画像)。引用元は既出既注のスコットランドの外科医で東洋学者のエドワード・グリーン・バルフォア(Edward Green Balfour 一八一三年~一八八九年)の書いたインド百科全書。「Internet archive」の原本のこちらの右ページ下方。タイトル「CROWS.」。
「“Encyclopaedia Britannica,” vol.vii, p.513」「Internet archive」には同巻はなかったので、「National Library of Scotland」で発見したものの、糠喜びで、当該ページには、それらしい記載がないようだ。
「摩訶僧祇律十六に、神に供へた食を婦人が賢烏來れと呼んで烏に施す事有り」「大蔵経テキストデータベース」で確認。確かに同巻にある。
「パーシー輩」パールシー或いはパールスィー。インドに住むゾロアスター教の信者たちを指す。
「Burton, “The Book of the Thousand Nights and a Night,” ed. Smithers, 1894, vol.vi, p.382, n」原本確認不能。「Internet archive」巻六の当該ページを見たが、エディションが異なるのか、ないようである。
「カリラー、ワ、ジムナー書」不詳。
「王女コローニス」ウィキの「コローニス」(別人で複数いる)の「プレギュアースの娘」によれば、『ラピテース族の王プレギュアースの娘で、医術の神アスクレーピオスの母とされる。コローニスの物語はカラスの色が変わる変身譚とともに語られている』。『ヘーシオドスによると、コローニスはアポローンに愛されて子を身ごもったが、プレギュアースによってエラトスの子イスキュスと結婚させられた』。『しかし、多くの伝承ではコローニスが自らイスキュスと密通したとされる。ピンダロスによれば、コローニスはアポローンに愛されて子供を身ごもったにもかかわらず、アルカディアからの客人イスキュスに恋をし、父プレギュアースに隠れてイスキュスと密通した。しかし、アポローンはすぐに気づき、アルテミスを送ると、アルテミスは多くの者とともにコローニスを射殺した。しかし、コローニスが火葬されるとき、アポローンは自分の子を救い出し、ケイローンに養育させた』。『後に成長したアスクレーピオスは死者さえも蘇らせる名医になった。ピンダロスの物語ではカラスは登場しないが、多くの物語では、カラスがコローニスの密通に気付き、アポローンに知らせる。アポローンは怒って以前は白い色だったカラスを黒い色に変え、またコローニスを殺した。しかし、アポローンは後悔して自らの手で火葬し、そのさいに子アスクレーピオスをコローニスの胎内から救い出して、ケイローンに養育させた』。『アントーニーヌス・リーベラーリスでは、コローニスの密通の相手はアルキュオネウスとされる』。また、『エピダウロスの詩人イシュロスによると、コローニスはプレギュアースとムーサ』(文芸(ムーシケー)を司る女神たち)の一『人エラトーとマロスの娘クレオペマーの娘である』。『パウサニアスによると、プレギュアースがエピダウロスにやって来たとき、コローニスはすでにアポローンの子を身ごもっていた。そして、プレギュアースに同行してエピダウロスにやって来て、アスクレーピオスを出産し、ミュルティオン山に捨てた。この赤子はヤギに養われ、羊飼アレスタナスに発見されたとき、神々しく光っていた』。『なお、一説にアスクレーピオスの母はレウキッポスの娘アルシノエーともいわれ、古代でも意見が分かれていたが、アポロパネースというアルカディア人がデルポイでどちらの伝承が正しいか神に質問すると、コローニスの子であるという答えが返ってきたという』とある。
「Grote, “History of Greece,” London, John Murray, 1869, vol.i, 174」イギリスの国会議員で歴史家でもあったジョージ・グロート(George Grote 一七九四年~一八七一年)が一八四年から十年かけてものした「ギリシャ史」。「Internet archive」で探したが、エディションの合わないものばかりで、当該ページを見ても、違っていた。
「女神パラス」処女神アテーナーは『少女の頃、友達であるパラスと槍と楯を持って闘技で遊んでいたところ、間違ってパラスを殺してしまった。それを悲しんだ女神は、自分の名の前に「パラス」を置き、パラス・アテーナーと名乗ることにしたという』とウィキの「アテーナー」にある。ここはアテーナーのことである(次注参照)。
「其義兄へフアイストス」ギリシア神話の炎と鍛冶の神(本来は雷と火山の神であったと思われる)ヘーパイストスは、当該ウィキによれば、アプロディーテーと結婚するも、『相手にされなかった』彼は、『アテーナーが仕事場にやって来たときに欲情し、アテーナーと交わろうとして追いかけた。ヘーパイストスは処女神であるアテーナーから固く拒まれたが、アテーナーの足に精液を漏らした。アテーナーがそれを羊毛でふき取り、大地に投げると、そこから上半身が人間で下半身が蛇の子供エリクトニオスが誕生した。それを見つけたアテーナーは見捨てはせず、自分の神殿でエリクトニオスを育てたという』とある。なお、『軍神アテーナーは、頭痛に悩むゼウスが痛みに耐えかね、ヘーパイストスに命じて斧(ラブリュス)で頭を叩き割らせることで、ゼウスの頭から生まれたとい』われ、ヘーパイストスはゼウスとヘーラーの第一子であるし、彼の妻アプロディーテーの父もゼウスともされるから、単性生殖の処女神と姻族関係から見ると「義兄」というのは腑に落ちる。
「Gubernatis, vol.ii, p.254」本書電子化で複数回既出既注のイタリアの文献学者コォウト・アンジェロ・デ・グベルナティス(Count Angelo De Gubernatis 一八四〇年~一九一三年)の「動物に関する神話学」。「Internet archive」の第二巻原本の当該部はここ。左ページの七行目以下に記されてある。
「Smith, “Dictionary of Greek and Roman Biography and Mythology,” 1846, vol.ii, p.48」イングランドの辞書編集者ウィリアム・スミス(Sir William Smith 一八一三年~一八九三年)の「ギリシャ・ローマ伝記神話事典」。「Internet archive」のこちらの「ERICHTO’NICUS」の条。
「プリニウスの博物志十卷十五章に、鴉の卵を屋根下に置くと其家の女難產すと載す」既出既注。しかし、これは、『ワタリガラスは一腹でせいぜい五つの卵しか生まない。彼らは嘴で生み、あるいは交尾する(したがって懐妊している婦人がその卵を食べると口から分娩する。そしてとにかくそれを家に持ち込むと難産する)と一般に信じられている。』の部分をざっくり纏めたもので、やや言い方が悪い。
「一六〇八年出板ホールのキヤラクタースに、迷信の人、隣屋に鴉鳴くを聞けば直ちに遺言を爲すと有る由(Hazlitt, vol.ii, p.508)」既出既注のイギリスの弁護士・書誌学者・作家ウィリアム・カルー・ハズリット(William Carew Hazlitt 一八三四年~一九一三年)著の「信仰と民俗学」。「Internet archive」の当該書のこちらの左ページの中段下方に、「NATIONAL FAITHS」(「国民の信仰」)の最後に、
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Moresin includes the croaking of ravens among omens. Hall, in his "Characters," 1608, tells us that if the superstitious man hears the raven croak from the next roof, he at once makes his will.
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この引用は、イギリスの司教で風刺作家でもあったジョセフ・ホール(Joseph Hall, Bishop of Exeter 一五七四年~一六五六年)が一六〇八年に発表した「Characters of Virtues and Vices 」(「美徳と悪徳の特性」)の一節。英文サイトで全文がここで活字化されている。「BOOK II. CHARACTERISTICS OF VICES.」の「The superstitious.」の中に以上の一節がある。
「ブラウンのプセウドドキシア」こちらに既出の人物で、その私の注「Sir Thomas Browne」で本書にも言及済み。
「ウヰルキン」不詳。
「埤雅」(ひが)は北宋の陸佃(りくでん)によって編集された辞典。全二十巻。主に動植物について説明してある。
「風俗通」後漢の応劭(おうしょう)が著した事物考証本である「風俗通義」のこと。著者は制度・典礼・故事に詳しく、後漢末の混乱期に、それらが忘れられることを恐れて「漢官儀」などを著わしているが、本書も、その博識をもとに,当時の一般人の考えの誤りを正すために書かれたもの。もとは三十巻或いは三十二巻あったとされるが、現存するのは皇覇・正史・愆礼(けんれい。「愆」は「不正」の意)・過誉・十反・声音・窮通・祀典・怪神・山沢の十巻のみである。
高麗の忠烈王二十七年」一三〇〇年。
「Tavernier, “Travels in India,” vol.ii, p.294」十七世紀のフランスの宝石商人で旅行家であったジャン=バティスト・タヴェルニエ(Jean-Baptiste Tavernier 一六〇五年~一六八九年)。一六三〇年から一六六八年の間にペルシャとインドへの六回の航海を行っており、諸所の風俗を記した。その著作は、彼が熱心な観察者であり、注目に値する文化人類学者の走りであったことを示している。彼のそれらの航海の記録はベスト・セラーとなり、ドイツ語・オランダ語・イタリア語・英語に翻訳され、現代の学者も貴重な記事として、頻繁に引用している(英文の彼のウィキに拠った)。「Internet archive」で、この原本を見つけ、指示するページを見たが、載っていない。ページ数か、巻数の誤りか。
「Astley, “A New General Collection of Voyages and Travels,” 1745, vol.i, p.482」「Internet archive」のこちらの左ページ左の中央附近に記載がある。但し、そこでは「Dogs and Fowls」とあり、「Fowls」は広義の鳥類を指す語で、カラスには限らない。]
序でに言ふ、牛黃を祕密法に用ゐる事、佛敎に限らぬ。摩利支天は、もと梵敎の神で、唐朝に吾邦へ傳へた兩界曼陀羅には見えぬ。趙宋の朝に譯された佛說大摩里支菩薩經に牛黃をもつて眞言を書くと有るなど、明らかに梵敎から出た作法だ。馬鳴大士の大莊嚴經論十に、牛黃を額に塗つて我吉相をなすと云ふ者に佛僧が問ふと、吉相は能く死すべき者を死なざらしめ鞭繋らるべき[やぶちゃん注:「むちうちくくらるべき」。]者を解脫せしむ。此牛黃は牛の心肺の間より出づと答ふ。僧曰く、牛自身に牛黃を持ながら耕稼の苦を救ふ能はず、何ぞ能く汝をして吉ならしめんやと。又其よりずつと前に出來た根本說一切有部毘奈耶雜事一に、諸婆羅門、額に白土や白灰を點畫する事有り。又六衆(六人の惡僧每度釋尊に叱らるゝ者)入城乞食、見諸婆羅門、以牛黃點額、所有乞求、多獲美味[やぶちゃん注:「又、六衆(六人の惡僧。每度、釋尊に叱らるゝ者。)、城に入りて食を乞ふ。諸婆羅門を見るに、牛黃を以つて額に點ず。所有(いはゆる)、乞ひ求めば、多く、美味を獲(う)。」。]六衆之を眞似(まね)して佛に越法罪を科(おは)せらると有り。密敎に牛黃を眉間に點ずるは梵敎から移れるので、原(も)と佛敎徒の所作で無かつたのぢや。牛黃梵名ゴロチヤナ、支那のみならず印度でも藥用する(Balfour, vol.ii, p.547)。諸派の印度[やぶちゃん注:選集では『ヒンズー』。]敎徒が今も額に祀神の印相を點畫する樣子一斑は Dubois, “Hindu Manners, Customs and Ceremonies,” ch. ix に就いて見るべし。
[やぶちゃん注:「馬鳴大士」馬鳴(めみょう 紀元後八〇年頃~一五〇年頃)は古代インドの仏教僧。サンスクリット語の名「アシュヴァゴーシャ」の漢訳。
「大莊嚴經論十に、牛黃を額に塗つて我吉相をなすと云ふ者に佛僧が問ふと……」「大莊嚴論經卷第一」CBETA(中華電子佛典協會)電子版(PDF)の124コマ目(原本でも同ページ)の頭に出る。
「根本說一切有部毘奈耶雜事一に、諸婆羅門、額に白土や白灰を點畫する事有り……」「維基文庫」の同書同巻の電子化に(コンマを読点に代え、一部の漢字を正字化した)、
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緣處同前、時諸苾芻日初分時、執持衣鉢入城乞食、見諸婆羅門以自三指點取白土或以白灰、抹其額上以爲三畫、所有乞求多獲美好。
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とある。「六衆」は熊楠が添えたものか。「六衆之を眞似(まね)して佛に越法罪を科(おは)せらる」の文字列も単語で分解して検索した限りでは、同書にはない。
「Balfour, vol.ii, p.547」「Internet archive」の原本ではここだが、見当たらない。
「Dubois, “Hindu Manners, Customs and Ceremonies,” ch. Ix」以前に言った通り、「Internet archive」では後代の合巻しかないので、当該部は探せない。]
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