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2021/12/15

曲亭馬琴「兎園小説別集」上巻 西羗北狄牧菜穀考(その3)

 

苜蓿【「別錄」。上品。】、一名は木粟【「綱目」。】、一名は光風草。

 「本草綱目」李時珍が曰、苜蓿を郭璞は「牧宿」に作る。其宿根より、おのづから生じて、牛馬に飼牧すべきゆゑなり。又、羅願が「爾雅翼」に「木粟」に作る。其米、炊ぎて飯となすべきの故なり。葛洪が「西京雜記」に云、『樂遊苑に、苜蓿、多し。風、その間に在れば、常に蕭々然たり。日、その花を照らせば、光采あり。故に「懷風」と名づく。又、「光風」と名づく。茂陵の人、これを「連枝草」といふ。「金光明經」に、これを「塞鼻力迦(さいびりききや)」といふ。

[やぶちゃん注:既に注した通り、「苜蓿」(もくしゆ(もくしゅ)/むまごやし)は、現在はマメ目マメ科マメ亜科シャジクソウ連ウマゴヤシ属ウマゴヤシ Medicago polymorpha を指す。但し、民間ではマメ科シャジクソウ属 Trifolium 亜属Trifoliastrum 節シロツメクサ Trifolium repens の俗称としても知られる。個人的には、両種を射程に入れて読んだ方がよいと思う。この前後は「本草綱目」の巻二十七の「菜之二」に拠っている。「漢籍リポジトリ」の同巻の、[069-9a]・[069-9b] ・[069-10a]の影印本と電子化と対照されて読まれるのがよい。

「郭璞」(くわくはく(かくはく) 二七六年~三二四年)は西晉末から東晉にかけての学者(道家研究家)・詩人。卜筮術に長じた。元帝に仕え、のち、王敦(おうとん)の部下となったが、その謀反を占って、「凶」と断じたため、殺された。「爾雅」「楚辞」「山海経」などの注でよく知られる。

「羅願」(一一三六年~一一八四年)は南宋の地方官で終わったが、優れた学者であった。

「爾雅翼」中国古代の字書「爾雅」(現在伝わっているものは全十九篇。著者・著作年代ともに未詳。伝承では周公旦或いは孔子又は孔子の弟子の作とされるが、権威づけの範囲を出ない)の一部を成す草 ・木 ・鳥 ・獣 ・虫 ・魚の篇目を選んで釈義を加えたもので、博物学的な観点から分類・解説されたものとして、優れている。全三十二巻 。一一七四年の序がある。

「葛洪」(かつこう 二八三年~三四三年)は晋の道士で道教研究家。詳しくは私の「都賀庭鐘 席上奇観 垣根草 巻之五 千載の斑狐一條太閤を試むる事」の「抱朴子」の注を参照。彼の「抱朴子」は神仙の書として有名だが、そもそもが抱朴子は彼の号である。

「西京雜記」(せいけいざつき)は、前漢の出来事に関する逸話を集めた書物。当該ウィキによれば、『著者は葛洪ともされるが、明らかでない。その内容の多くは史実とは考えにくく、小説と呼んだほうが近い』。『「西京」とは前漢の首都であった長安』(現在の西安)『のこと』。伝本によって異なるが、百三十『条前後からなり、前漢の逸話のほか、宮廷の文物や年中行事を詳しく記す』とある。「中國哲學書電子化計劃」の影印本のここの二行目に出る。

「樂遊苑」長安城内の東南部一帯の古くから知られた広大な人気の景勝地。

「茂陵」現在の陝西省咸陽市興平市茂陵。本来は前漢の武帝の墓を指す。長安の北西、渭水を隔てた丘陵上にある。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「金光明經」(こんこうみょうきょう:現代仮名遣)はサンスクリット語「スヴァルナ・プラバーサ・スートラ」と言い、四世紀頃に成立したと見られる大乗経典の一つ。原題は「スヴァルナ」が「黄金」、「プラバーサ」が「輝き」、「スートラ」が「経」で、「黄金に輝く教え」の意である。但し、時珍は確かに「塞鼻力迦」と記しているが、「大蔵経テキストデータベース」で調べると、「金光明最勝王經」のここには『苜蓿【塞畢力迦】』とある。これだと、読みは「さいひつりきか」であろう。]

 陶弘景が曰、『長安の中、乃ち、苜蓿園あり。北人、甚、重ㇾ之。江南にては、甚、これを、食はず。味ひ、なきをもつての故なり。外國に、又、苜蓿といふ草あり。これをもて、目を療治す。この類ひには、あらず。異草也。』。

[やぶちゃん注:「陶弘景」(四五六年~五三六年)は「本草綱目」に頻繁に引用される六朝時代の医師にして博物学者。道教茅山派の開祖でもあった。『曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 老狸の書畫譚餘』の私の注の同人を参照。]

 寇宗奭が曰、『陝西には、甚、多し。用て、牛馬に飼ふ。鍬き時、人もこれを食ふ。宿根より刈とれば、復、生ず。』。

[やぶちゃん注:「寇宗奭」(こうそうせき)は宋代の本草学者。(その2)で既出既注。]

 時珍が曰、『「雜記」にいふ。苜蓿は、原[やぶちゃん注:「もと」。]、大宛國より出たり。漢の使、張商、帶(たづさへ)て中國に歸れり。然りしより、今、處の田野に、是、有。陝・隴の人は、亦、種る[やぶちゃん注:「ううる」。「植うる」。]者あり。年々に自生す。苗を刈て、蔬とす。一年に、三たび、刈るべし。二月、苗を生ず。一科[やぶちゃん注:一つの株の意か。]に數十莖、莖は、頗、灰藋に似たり。一枝に三葉なり。葉は決明に似て、小きこと、指頂の如し。綠色にして碧艷、夏より秋に人て、細黃花を開き、小き莢を結ぶ。圓扁旋轉して、刺あり。數莢、累々たり。老れば、則、黑色なり。内に米あり。穄子[やぶちゃん注:「きびのみ」と訓じておく。]の如し。飯になすべし。亦、酒に釀すべし。羅願は、これをもて、「鶴頂草なり」と、いひしは、誤なり。鶴頂は紅心灰藋なり。氣味、苦く、平らにして、濇る[やぶちゃん注:「とどこほる」と訓じておく。]毒、なし。宗奭が曰、『微、甘く、淡し。』。孟洗が曰、『凉なり。少し食へば、好し。多く食へば、冷氣をして、筋の中に入れしむ。卽ち、人を疫せしむ。』。李廷飛が曰、『蜜とおなじく、食へば、人をして、下痢せしむ。』。主治は「別錄」に云、『中を安んず。久しく食ふべし。』。孟洗が曰、『五臟を利し、身を輕くし、肺胃の間の邪熱氣を、洗ひ去る。小腸の諸惡・熱毒を通ず。煮て、醬油に和して食ふ。又、羹[やぶちゃん注:「あつもの」。]となすべし。』。蘇頌が云、『乾して食へば、人に益あり。苜蓿の根は、氣味、寒にして、毒、なし。』。』。

[やぶちゃん注:「雜記」不詳。先に出た「西京雑記」かと思ったが、同書には見当たらない。

「大宛」(だいおん/たいえん:現代仮名遣)は、紀元前二世紀頃から中央アジアのフェルガナ地方に存在したアーリア系民族の国家。「大宛」とは、固有名詞を漢字に転写したものではなく、「広大なオアシス」という意味であるらしい。位置は参照したウィキの「大宛」にある地図を見られたい。

「張商」不詳。

「陝・隴」現在の陝西省附近と、「隴」は、その東に接する現在の甘粛省の略称。

「鶴頂草」「紅心灰藋」ナデシコ目ヒユ科 Chenopodioideae 亜科Chenopodieae連アカザ属シロザ Chenopodium album 、及び、その変種アカザ Chenopodium album var. centrorubrum のこと。山口裕文・久保輝幸・池内早紀子・魯元学氏の共同論文「漢名にみる雑草“あかざ”の生物文化史」(PDF・『雑草研究』第六十四巻・二〇一九年発行)に、中国では(コンマを読点に代えた)、『“あかざ”は、雑草(非有害)や食用(蔬または羮,穀物)、杖、灰の素材として認識され、三国時代までに萊、藜、藋、釐、拝、蔏および茟などの文字で表され,唐宋代には灰條、灰藋』(☜)、『白藋、青藜、金鎖夭、紅灰藋、鶴頂草』(☜)『など』の『文字でも表記されるようになり、明代には紅心』(☜)『の藜(および丹藜、藜菜、臙脂菜、舜芒穀、観音粟など)と葉に白粉をつける灰藋(および灰條、灰条、灰菜。灰條莧など)との 』二『 群で認識され,清代には地膚や絡帚、薇、苜蓿などとの混同が修正され、藜または灰藋に集約されていた』というところで確認出来た。

「決明」マメ目マメ科ジャケツイバラ亜科センナ属エビスグサ Senna obtusifolia の漢名。当該ウィキによれば、『北アメリカ大陸原産』、『または、熱帯アメリカの原産と言われている』。『それが、熱帯アジアから中国南部に伝わり、日本には江戸時代の享保年間に渡来した』。『日本では本州から沖縄にかけて、帰化植物として分布する』とある。草体もそちらで確認されたい。

「孟洗」孟詵(六二一年~七一三年)の誤り。初唐の官人で医師。「食療本草」・「必効方」・「保養方」の著作があり(原本は散佚)、「本草綱目」でも、よく引かれる。

「李廷飛」不詳だが、漢籍の本草書にはよく引用される。「延壽書」という著作がある。]

主治は、蘇恭が云、『熱病、煩滿、目、黃に赤し、小便、黃み、酒疸等の症にて、擣て[やぶちゃん注:「つきて」。]、一升を服すれば、吐痢して、卽ち、癒ゆ。』。時珍が云、『摘て、汁を飮めば、沙石淋疾の痛みを治す。』。

[やぶちゃん注:「煩満」(はんまん)胃部や胸腹部が膨満して、不快感がある状態を指す。

「酒疸」アルコールの過飲による総合的な慢性的内臓疾患のようである。]

「大和本草」【卷七。】に云、『苜蓿は、疑らくは、「仙臺はぎ」なるべし。「仙臺はぎ」は、花も葉も、「はぎ」に似て、やわらかに、花、黃なり。又、大豆の花に似たり。わかき時、食すべし。一度、うゆれば、根、茂りて、繁昌す。「本草綱目」、柔滑菜類に載たり。』。貝原の說、よりどころとすべし。しかれども、只、その花を、いふて、實を、いはず。「仙臺はぎ」が苜蓿の如く、子の、あまたの莢ありて、莢の中に、穄子のごとき米、出來る者か。もし、その實、かくのごとくならば、苜蓿ならんも、似るべからず。まづ、よく「仙臺はぎ」を植て、ためして見たきものに侍り。しかれども、はぎの葉は、左の如く、細し。「仙臺はぎ」も葉は、はぎの如しといヘば、亦、かくのごとくなるべし。

[やぶちゃん注:以上の「大和本草」は「中村学園大学」公式サイト内の中村学園大学図書館蔵本の当該巻PDF)「大和本草卷之七」「草之三」の「花草類」の19コマ目にある。完全に引用している。

「仙臺はぎ」和名の漢字表記は「先代萩」(中文名「野决明」)が正しく、所謂、「萩」(マメ科マメ亜科ヌスビトハギ連ハギ亜連ハギ属 Lespedeza )とは縁の遠い、マメ目マメ科マメ亜科ソフォラ族Sophoreae センダイハギ属センダイハギ Thermopsis lupinoides のことを指す。近年、学名をThermopsis fabacea とする提案がなされている。Katou氏のサイト「三河の植物観察」の同種のページ(写真有り)を参照されたい。]

 

Hagimokusyuku

 

[やぶちゃん注:底本の国立国会図書館デジタルコレクションの画像をトリミング補正した。以下同じ。キャプションは右が「はぎの葉」、左が「苜蓿の葉」。比較のために、葉脈がくっきり見える吉川弘文館随筆大成版も以下に示しておく。

 

Hagimokusyukuyosikou

 

但し、これは後の挿絵で――吉川弘文館随筆大成版が――実はだ挿絵を誤っているのではないか?――と私が深く疑っていることへの伏線的仕儀である。

 

 こののち、植木屋より求めて、一とせ、「仙臺萩」といふものを植て見しに、花は黃にして、胡枝(はぎ)花には似ざるものなり。かゝれば、「大和本草」の說も亦、うけがたかり。

 「苜蓿の葉は、決明に似て、指頂のごとし。」といへば、はぎの葉より、まろくして、上のごとくなるべし(圖略)。且、「葉のいろ、綠にして、碧に艷なり。」といへば、その葉、「るりこん」[やぶちゃん注:「瑠璃紺」。、瑠璃色がかった紺色。深い紫味の強い青色のこと。]のごとく、うるはしきもの、と、おもはる。又、「その花は。細にして、黃なり。」とのみあれば、詳ならねども、「本草圖經」によりておもふに、藤豆の花の如く、

 

Mokusyuku1

 

[やぶちゃん注:底本から。これを「挿絵A」と呼んでおく。なお、ここには吉川弘文館随筆大成版はとんでもない図が入っている。後で掲げる。

 

かやうなるものにや、あらん。又、「その子は、數莢、累々たり。」といへば、これも又、ふぢ豆の實の、ちひさき如き、莢、あまた、つくものにて、

 

Mokusyuku2

 

[やぶちゃん注:キャプションは、

○さやに、少(ちひ)さき刺、あり。實、「あかざ」のごとし。

とある。これを「挿絵B」と呼んでおく。なお、この挿絵は吉川弘文館随筆大成版では、逆に掲げてある。以下に参考に示す。

 


Yosikounomakomonomitosuru

 

藤の種子みたようだと本文にあるから、この方が判りはいい。

 

かやうに、ちひさき「さや」、圓扁とて、まろ長く、「くしがた」のやうに、實のなるものなるべし。此莢の内に、穄子のごとき米は、あるなり。よく熟すれば、莢は黑くなる、といふ。

「御在所に、かやうの草、これあり候哉。よくよく御穿鑿のうへ、この注文に、よくあはざれば、「苜蓿」とは申がたく候。「仙臺はぎ」は江戶になく候故、よくも見ず候得ども、必、「苜蓿」ならんとは、おもはれず候。なれども、「仙臺はぎ」も、江戸御屋敷のうちに御植被ㇾ成候て、一とせ、御ためし御覽被ㇾ遊候はゞ、これらの疑ひは、とけ可ㇾ申と奉ㇾ存候。」

[やぶちゃん注:ここで再び、(その1)の時のように、突如、手紙文となっており、やはりこれは先の第八代藩主松前道広であることが次回の(その3)で明らかとなる。]

○「昔年、『苜蓿なり』とて、御もらひ被ㇾ成候は、その實のかたちは、

 

Makomonomi

 

[やぶちゃん注:底本ではここに配されているのが、「この図」である。ただ、「この図」については底本の画像が不鮮明なので、吉川弘文館随筆大成版を用いた。但し、ここが大問題で、「この図」は、吉川弘文館随筆大成版では、実は前の「挿絵A」の箇所に置かれてあるのである。その代わりにここに入っている図は実は「挿絵A」を倒立させた、

 

Mokusyukuyosikou_20211215173101

 

なのである。挿絵A」と「挿絵B」は非常によく似ているのだが、所謂、藤の花のように下がった先端部は「挿絵A」ではスマートであるのに対して、「挿絵B」はでっぷりと太っている、という点で識別出来るのである。しかし、ここでその絵は正しいとは思われない。トウモロコシのようにブツブツの凝縮したような描き方は違和感があるが、これはまず、本文にある通り、黒穂菌(くろぼきん:真正担子菌綱クロボキン目Ustilaginales)の一種である Ustilago esculenta に寄生されて異様に太く肥大化した新芽であるマコモダケ(真菰筍・茭白)以外には考えられないからである。則ち、吉川弘文館随筆大成版は判り易くしようと、二枚をひっくり返したのは親切だったかも知れないが、うっかりそれを「挿絵A」と入れ替えて挿入してしまったのである。

 

かやうのものゝやうに承り候。これは苜蓿には無ㇾ之候。その穗によりて推量仕候へば、『黍蓬』とまうすものゝ如可ㇾ有ㇾ之奉ㇾ存候。この『黍蓬』も、羗人の食といたし候ものにて、一名は「靑科」と申候。葉は「もち黍」のごとく、「玉蜀」の葉にも似より候よし。しかれども、馬を飼ひ候よしは、「本草」にしるし不ㇾ申候。さりながら、西羗の食にいたし候へば、その葉をば、馬に飼候はんと奉ㇾ存候。馬の好み候物に候は、尺馬の爲に藥とならん事、勿論の儀と奉ㇾ存候。よりて、「本草綱目」二十三卷、「茭米」の條中に見え候を、左に抄し申候。

 『「黍蓬」は、乃ち、「旱蓬」にて、「靑科」は是なり。實を結ぶこと、黍のごとし。羗人、是を食ふ。今、松州に、これ、あり【楊愼が說。】。又、云、鄭樵が「通志」に云、「彫蓬」は、卽ち、「米茭」なり。飯となして、食ふべし。故に是を「齧(けん)」といふ。又。「黍蓬」は、卽ち、菱之實を結ばざるもの、惟、薦となすに堪たり。故に、これを「薦」といふ【この說はわろし。】。楊愼が「巵言」に云、『「蓬」に水・陸の二種あり。「彫蓬」は、すなはち、「水蓬」にて、「彫苽」、是なり【上に出せし「彫胡」の事なり。】。「黍蓬」は、すなはち、「旱蓬」にて、「靑科」、是也。時珍が云、鄭氏・楊氏の二說、おなじからず。しかれども、皆、理あり。葢、蓬類は一種にあらざる故なればなり。』と、いへり。

[やぶちゃん注:「本草綱目」巻二十三の「穀之二」の「茭米」は「漢籍リポジトリ」のここの、[061-16b] [061-17a] [061-17b]の影印本画像を電子化本文と一緒に見られるのがよい。

「松州」(しようしう)は現在の湖北省宜都市一帯にあった非常に古い州のことか。他にも二箇所ある。

「楊愼」(一四八八年~一五五九年)は明中期の文学者。一五一一年に科挙に首席で登第し、翰林修撰を授けられたが、一五二四年、桂萼(けいがく)・張璁(ちょうそう)らが起用されたとき、同志三十六人と反対意見を皇帝に具申し、月俸を停止されたが、さらに同志と意見を具申し続けた結果、平民に落とされ、雲南に流謫された。以後は詩酒を楽しみ、放逸な所行で韜晦したが、経学・詩文とも卓出していた。博学の評判が高く、著書に「丹鉛総録」・「升菴集」やここの出た「楊子巵言」(ようししげん)などがある(以上は小学館「日本大百科全書」)。特に雲南に関する見聞・研究は貴重な資料とされている。

「鄭樵」(ていしょう 一一〇四年~一一六二年)は南宋の歴史家。一一四九年、高宗に、「通志」の中でも名高い「二十略」に通ずる内容の著を提出した。それを機縁として、高宗に謁見を許され、断代史(単一の王朝についてのみ記録すること)を否定する史論を上奏した。礼部に任官を果たしたが、宰相秦檜による強権政治の被害者となり、地方官に左遷されてしまった。しかしその間も「通志」に繋がる著述活動を中断することなく、後、枢密院編修官として中央への復帰を果たした。南宋にとって外患であった金の官制調査を企てようと、秘書省に蔵された書物の閲読を願い出たこともあった。これは、当時における彼の現代史への強い興味を意味している。一一六一年、開封に遷都を果たしていた金は、南宋と対立を激化させ、高宗自らが出陣するほどの情勢となった。鄭樵は行宮留守幹弁公事として都の臨安の留守となり、勅命によって完成していた「通志」二百巻の献上を命ぜられたが、間もなく、病没した。他に「爾雅注」三巻などがある(以上は当該ウィキに拠った)。

「通志」構成や簡単な内容は当該ウィキを見られたい。

 以下は底本では全体が一字下げ。]

 解云、今、楊愼が說に從ふときは、「彫蓬」は水草なり。又、「靑科」は「旱蓬」にて、陸草なり。しかれども、蓬類は、あまたあれば、實を結ばぬもの、あるなり。この陸に生じて、黍のごとき實を結ぶものは、「旱蓬」にして、「靑科」、これなり。

「昔歲、御在所へ御植させ被ㇾ成候は、旱蓬・靑科にて有ㇾ之べくやと奉ㇾ存候。是も亦、甚、得がたきものに御座候。只今も、そのたね、殘り候て、御在所に生じ候はゞ、よろしき物に御座候。」。

「東廧も、この旱蓬に葉は似候ものに可ㇾ有ㇾ之奉ㇾ存候。これらの趣をもつて、追々に御尋させ被ㇾ成候はゞ、存の外、御在所の野山に有ㇾ之候歟も、はかりがたく奉ㇾ存候。愚按の趣、あらましを認め候て、奉ㇾ入尊覽候。誠惶々々頓首再拜。

 文政八年乙酉夏六月十八日 瀧澤 解 謹記

[やぶちゃん注:最初に言っておくが――まだ――終わりじゃないんだな、これが!――「苜蓿再考」という記事が延々続くんだわ!

 なお、以上の内、どうしてもケリをつけておきたいのは、水草だの、陸草だの、ごちゃごちゃ言って、底無しの如き異名を連発して、まさに煙(けむ)に捲かれている「菰」、「マコモ」のことである。実は既に私の「大和本草卷之八 草之四 水草類 菰(こも) (マコモ)」でも紹介してあるのであるが、澁澤尚氏の論文『「菰」の本草学―陸游詩所詠菰草考序説―』PDF・『福島大学研究年報』創刊号・二〇〇五年十二月発行)という恐るべき労作がある。そこでは最終的には(「三 植物学上の菰」を参照)やはり、本邦のマコモと中国の本草学上の「菰米」を実らす「菰」を別種とはしない立場を採っておられる(但し、澁澤氏は『実際に結実しない菰が存在したことは確かなようで、『採薬便記』申奥州(『古事類苑』植物部巻十四引)に「紀州熊野本宮ニモ菰米アリ、地所ノ菰ニ米穂ヲ生ルコトナシ」などとある。現代においてもこれらの事実を重視し、またしばしば結実しない菰が観察される報告があることから、菰に二種ありとして別個に学名つける研究者もある』と述べておられる。困っていた人、これで一件落着である。別な種があったというのは誤りだったのである!

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