曲亭馬琴「兎園小説外集」第二 六足狗 輪池堂
○六足狗
山城州宇治郡山科鄕花山村、博勞渡世いたし候庄右衞門方に、廿日程以前、出生いたし候飼犬の子、
[やぶちゃん注:「花山村」現在の京都市山科区北花山山田町(かざんやまだちょう:グーグル・マップ・データ。以下同じ)附近か。
以下、「陰莖、貳。」までは、底本では、全体が一字下げ。]
毛色白黑【但、頭に茶色の毛、交り有ㇾ之。】、向足、貳本。跡足、四本。尾、壹、肛門、貳【但、尾之兩脇に有ㇾ之。】。陰莖、貳。
右、犬の子、追て、「見世もの」にいだし候積りにて、買取り、當時、宮川筋松原上る町、丸屋五兵衞方に飼罷在候趣に御座候事。
文政十丁亥三月十一日
[やぶちゃん注:「宮川筋松原上る町」この附近。]
○この狀に、廿日程以前とあるは、今玆春二月廿日前後の事なるべし。この圖、屋代輪池堂の寫本を借りて、うつしとゞめつ。時に丁亥[やぶちゃん注:文政一〇(一八二七)年。]夏四月八日也。
異狗圖
[やぶちゃん注:底本の国立国会図書館デジタルコレクションの「新燕石十種」第四よりトリミング補正した。]
後足四ツのうち、二足は短くて、地につかず、さがりて、踏むこと、なきものなり。尾も、ふたつあり。黑白のぶちにて、頭のかたに、茶色の雜毛、なし。この餘は圖說の如し。
丁亥の春、土岐村元祐、京師にあり、「親しく目擊したり。」とて、予が爲に、いふこと、右の如し。
[やぶちゃん注:「土岐村元祐」(ときむらげんいう:歴史的仮名遣)は紀州藩家老三浦長門守の医師土岐村元立(げんりゅう)の長男。生没年や詳細事績は不詳。同じく医師であったか? 因みに、この元立の次女岐村路(みち 文化三(一八〇六)年~安政五(一八五八)年)は曲亭馬琴の長男興継(本書では琴嶺舎を名乗る。)の妻で、馬琴の義理の娘にして、晩年に馬琴が失明後は、彼の筆記助手や代作社となったことから、馬琴を語る上では、非常に重要な女性である。彼女のウィキによれば、『神田佐久間町に生まれる。はじめ』、『鉄と名づけられ、手習い』・『三絃を学ぶが』、『三絃を好まず』、『舞踊を学ぶ。姉とともに松平忠誨』(ただのり:摂津国尼崎藩第五代藩主)『邸に仕える。その後』、『江戸城に勤め』、二十一歳の時には『父の許にあ』ったが、文政一〇(一八二七)年、二十二歳の時、『馬琴の嫡子滝沢宗伯興継に嫁し、みちと改名』した。『嫡男太郎興邦のほか』、『二女を儲け』たが、天保六(一八三五)年に宗伯が病いで急逝し、翌七年、『神田信濃町で馬琴夫婦と同居』を始めた。天保一〇(一八三九)年『前後より馬琴の眼疾が進み遂に明を失うに至るが、路はその口述筆記を行い時に琴童の名で代作も行』った。「南総里見八犬伝」の後半、「玉石童子訓」(ぎょくせきどうじくん)などは、実は、路の手になるもので、『難しい漢字を学び』、『馬琴独特のふりがなに苦心』したという。嘉永元(一八四八)年に馬琴が亡くなり、翌年には太郎も逝去してしまう。この嘉永元年の『馬琴最後の年』からは、『路自ら』、『日記を記し』たが、近年、『木村三四吾により』、「路女日記」として刊行されている。『路女の筆記者としての苦難は明治期よりよく知られ、貞女として賞賛され、鏑木清方がその画材とするほか、馬琴を描く際に欠かせない人物となっている』。『なお』、『森田誠吾「滝沢路女のこと」以来』、「滝沢路」と記されるが、『江戸時代は夫婦別姓であるから』、『土岐村路とするのが正しい』とある。なお、管見したネット記事では、「路女日記」で兄元祐とは絶交していたとある(理由は不詳)。]
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