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2021/12/08

萩原朔太郎詩集 遺珠 小學館刊 斷片 われのみひとり立ちて ――病人の歌――

 

  われのみひとり立ちて

        ―― 病 人 の 歌 ――

 

心臟より出づるところの手

なやみ、はがみ、

ふぢのほの貝の口より出づるところの手

それさへわれは見た

もつと明らかにくるしみの形を見た

それは光るほど

遠き夜あけの空にいきづく

あへぎ なやめる病氣の人の影のうすあかり

みな顏より

つらつら淚ながしてこほらんとす

ああ遠き山里のあなた

悲しき建物の窓をみれば

われがいとしき戀びともかたくかぢまりて死にはてんとみゆ

いきものいきをひきとり

冬の日すでにたましひのはりつめし上べに

くるしみ

*はすべてその手をいづべきところにのばしたのに

ああわれのみひとりここに立ちつくして

 

  *ここのところ一字不明。

 

[やぶちゃん注:筑摩版全集では、「未發表詩篇」に同題で以下のように載る。不審な箇所や歴史的仮名遣の誤りなどは総てママ。

   *

 

 われのみひとり立ちて

      ――病人の歌――

 

なやめるものゝ救ひと

心臟より出づるところの手

なやみ、はがみ、

ふぢつほの貝の口より出づるところ手

それさへわれは見た

ああもつとも明らかにくるしみの形を見た

それは光るほど

遠き夜あけの空にいきづく

あへぎなやめる疾患の病氣の人の影のうすあかり

悲しき建物の窓

みなみな顏よりつらつら淚ながしてこほらんとす

うす あかね あかりさす冬の日の夕ぐれがた

ああ遠き山里のあなたをみれば

悲しき建物の窓 にはをしみれば

れがいとしき戀びとも床に上に

かたくかぢまりて死にはてんとすんとみゆ

いきものいきをひきとり

いきもたえ

夕ぐれ冬の日すでにたましひをたましひの氷をあつくはりつめ しにし上べに

くるしみ

たにしはすべてその手をいづべきところにさしのばしたるに

けふ

あああゝわれのみひとり立ちつくし。こゝに立ちつくして、

 

   *

整序してみる。

   *

 

 われのみひとり立ちて

      ――病人の歌――

 

心臟より出づるところの手

なやみ、はがみ、

ふぢつほの貝の口より出づるところ手

それさへわれは見た

もつとも明らかにくるしみの形を見た

それは光るほど

遠き夜あけの空にいきづく

あへぎなやめる病氣の人の影のうすあかり

みな顏よりつらつら淚ながしてこほらんとす

ああ遠き山里のあなた

悲しき建物の窓をしみれば

われがいとしき戀びとも

かたくかぢまりて死にはてんとみゆ

いきものいきをひきとり

冬の日すでにたましひの氷をはりつめし上べに

くるしみ

たにしはすべてその手をいづべきところにのばしたるに

あゝわれのみひとりこゝに立ちつくして、

 

   *

この内、「ふぢつほ」は「ふじつぼ」誤記と考えてよい(筑摩版全集校訂本文でもそうなっている)。無論、蔓脚類の代表的一種であるフジツボ類(節足動物門甲殻亜門六幼生綱鞘甲(フジツボ)亜綱蔓脚(フジツボ)下綱完胸上目無柄目フジツボ亜目 Balanomorpha)は軟体動物(軟体動物門 Mollusca)の広義の貝類とは全く無縁で、判り易く乱暴にドンブリでぶっちゃければ、エビ・カニの仲間で、固着定在性の自律的移動はしない、あの殼の内部で、子どもらに判り易く言うなら、エビのようなものが逆立ちしているのだ、と言ってよいが、朔太郎があれを貝と呼ぶのは、別段、異様ではない。大人でも、未だに、海産無脊椎動物に詳しくない大方は、フジツボと同類の岩礁固着性のカメノテ(完胸上目有柄目ミョウガガイ亜目ミョウガガイ科カメノテ属カメノテ Capitulum mitella )や、ビーチコーミングで漂流木片などに付着しているエボシガイ(有柄目エボシガイ亜目エボシガイ科エボシガイ属エボシガイ Lepas anatifera )をも、十把一絡げに、貝の一種だと思い込んでいる者は未だに甚だ多い。脊椎の原型である脊索を幼生時に保有することから、脊椎動物の直ぐ下位に位置附けされている高等生物の脊索動物門尾索動物亜門ホヤ綱 Ascidiacea のホヤなどは、ごくごく最近まで、プロであるはずの海産類業者や魚屋でさえ、「ホヤガイ」と呼び、貝類だと思い込んでいたのだから。懇切丁寧に、「ホヤの幼生はオタマジャクシ型をしており、目も口もあるが、口器で対象物に吸着すると、そこから仮根(かこん)が生え、尾部が頭部に吸収されてあの革のような皮殼に変容する。」と発生機序を細かに絵に描いて説明してやっても、これ、却って、『人が知らないのをいいことに、いい加減なことを言いやがって!』と胡散臭い顔をされ、蔑まれるのがオチである。嘗て二十代の始めに酒場でその話をしたら、著名大学の歴史学教室の助手であった親友は、せせら笑って、「あれは、貝でしょう?」と全く信じず、不審極まり、彼の友人の生物学の専攻者に、彼が、その場で電話をし、やっと私の言っていることが総て正しいことをしぶしぶ認めたほどである。伝統的な博物学がすたれ、文理ともに専門性が特化してしまい、門外の知識には黙っているのが礼儀といった非学問的な致命的習慣が蔓延ってしまった。教師時代、とある高校で生物学を馬鹿にしていた物理教師が(理科の教師間では物理の教師が最も自尊心が強く、生物学を学問的に下に見る傾向が、残念ながら、今も広く見受けられる)、たまたま、生物を教えなければならなくなったのだったが、彼はミトコンドリアが♀由来のDNAしか持たないことをさえ知らずに教壇に立っていたことを、ある時、たまたま知って、私は開いた口が閉まらなかったのを思い出す。だから、フジツボを貝と言う朔太郎は、却って可愛い少年のように見え、私は優しく微笑みたくなるぐらいなのである。

 閑話休題。整序すると、本篇とはかなり違う箇所があるが、しかし、肝心の表現・表記上に特異ポイント(「ふじつほ」はまさにその特異点と言える)に於いては、著しく酷似しており、私は、筑摩版と同じ削除だらけの、読み難い草稿原稿を小学館の編者も見たのだと感じている。判読に疲れてくると、恐らくはどんなにストイックで責任感の強い編者であっても、知らず知らず、不審な箇所を無意識に自身が納得出来るように錯覚判読することを避けられぬように、私は、思うからである。一律、劇薬消毒校訂本文である筑摩版全集より――遙かに――まし――だと思うからでもある。

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