萩原朔太郞詩集「蝶を夢む」正規表現版 戀を戀する人
戀を戀する人
わたしはくちびるにべにをぬつて
あたらしい白樺の幹に接吻した。
よしんば私が美男であらうとも
わたしの胸にはごむまりのやうな乳房がない
わたしの皮膚からはきめのこまかい粉おしろいの匂ひがしない
わたしはしなびきつた薄命男だ
ああなんといふいぢらしい男だ
けふのかぐはしい初夏の野原で
きらきらする木立の中で
手には空色の手ぶくろをすつぽりとはめてみた
腰にはこるせつとのやうなものをはめてみた
襟には襟おしろひのやうなものをぬりつけた
かうしてひつそりとしなをつくりながら
わたしは娘たちのするやうに
こころもちくびをかしげて
あたらしい白樺の幹に接吻した。
くちびるにばらいろのべにをぬつて
まつしろの高い樹木にすがりついた。
[やぶちゃん注:太字は底本では傍点「ヽ」。十二行目の「襟おしろひ」はママ。「月に吠える」からの再録。『萩原朔太郎詩集「月に吠える」正規表現版 戀を戀する人』と比較されたいが、傍点部がもっと多い。私は糞前衛芝居のようないかにもな映像で、あまり好きな詩篇ではないが、「月に吠える」初版発売(大正六(一九一七)年二月十五日感情詩社・白日社出版部発行(自費出版))に際して問題を起こした詩篇で、既に印刷済みであったものの、直前に内務省警保局から発売禁止の内達を受け、本篇及び「愛憐」(そちらで削除の様子を注で記してある)の二篇を削除することで発売が許可されたいわくつきのものである(私の上記正規表現版は複数冊存在する無削除の完全本で復刻されたものを底本としている)。但し、大正一一(一九二三)年三月に発行された再版「月に吠える」(アルス刊)では、この二篇は復活して所収されてある。]