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2021/12/28

伽婢子卷之十二 幽靈書を父母につかはす

[やぶちゃん注:挿絵は四枚(見開き二幅と単幅三つ)は、底本の昭和二(一九二七)年刊の日本名著全集刊行會編「江戶文藝之部」第十巻「怪談名作集」をトリミング補正して、適切と思われる位置に挿入した。]

 

 ○幽靈、書を父母(ぶも)につかはす

 

 江州東坂本に、正木のなにがしが娘龍子(たつこ)は、いとけなしくて才知あり。

 親、もとより有德(うとく)なりければ、いつくしみ育て、哥雙紙の道、敎へたるに、いつしか容貌(かほかたち)美しく、心ざま、情深し。其隣に芦崎(あしさき)なにがしが子に、數馬(かずま)といふ者は、龍子と同じ年にて、いとけなき時は、一つ所に遊びけるを、時の人、みな、戯(たはふ)れて、

「此同じ年なる子は、後、必ず、夫婦となすべし。」

といふを、幼なき心に、互に思ひしめて、

「此人ならでは。」

と、ひそかに許しけり。

 年たけゝれば、出《いで》て遊ぶ事もなし。

 數馬は、山にのぼせて、兒(ちご)となし、龍子は窓(まど)のもとに隱れすみけり。

 數馬、或時、家に歸りつゝ、哥を書きて遣(つかは)す。

 人しれず結びかはせし若草の

   花は見ながら盛りすぐらむ

 しるらめや宿の梢を吹かはす

   風にかけつゝかよふこゝろを

 龍子、是を見るに、限りなく『嬉し』と思ふ中に、又、思ひくづをれつゝ、返しとおぼしくて、

 月日のみ流れゆくゆく淀川の

   よどみ果てたる中の逢瀨に

 今はかく絕にしまゝの浦におふる

   みるめをさへに波ぞたゞよふ

 年十七になりしかば、親、

「然るべき人、聟にせん。」

と、はからひけるを、龍子、更にうけごはず、湯水をだに斷(たち)て泣き伏したるを、ひそかに問はせたりければ、

「西隣りの數馬に、約束しける事、あり。是にゆかずば、死すべし。他所には更に行べからず。」

といふ。

 親。

「この上は。」

とて、隣りになかだちを入れ、

「かうかう。」

と、いはせしか共、正木は有德(うとく)にて、蘆崎は貧しければ、

「數馬、容(かほ)かたちうるはしく、美男(びなん)にて才智ありとはいへども、いかで其緣を結ぶの相待(さうたい)ならん。」

とて、親は、しばしば辭しけれ共、

「娘の思ひかけたる所也。又、それ、有德なるを以て、緣を結ばゞ、金銀財寶を聟にする也。婚姻に財寶を論ずるは、夷慮(いりよ)のえびすの道也。」

と、いへり。

「我等、更に財寶を聟には、とらず。數馬が人がら、才智利こんなるを以て、聟にせん、と云事也。」

とて、しひて、吉日を定め、其いとなみは、娘の方《かた》より整え、其日に至りて、迎へつかはしければ、心の儘に夫婦となり、忍ぶべき關守もなく、嬉しさ、限りなし。

 龍子、

  ひとり寢のまどにさし入月かげを

   諸ともに見る夜半ぞうれしき

と、いひければ、數馬、

 夜な夜なはかこちて過し窓のもとに

   ともにながむるありあけの月

 夫婦の契り、淺からざる事、比翼の鳥の空に飛び、連理の枝の地に結びたるも、譬(たとへ)とするに、たらず。

 

Kazumatatuko1

 

 僅かに半年ばかりの後に、織田信長、江州に打ち出《いで》、山門、此の時に、たてをつきしを、元龜二年九月十二日、叡山・吉日山王《ひえさんわう》に至るまで、皆、燒《やき》滅ぼさる。

 此故に、坂本の民屋(みんをく)、亂妨・騷動して、四角八方に、皆、ちりぢりになりたり。

 龍子は信長の家臣佐久間右衞門尉信盛が手に、とりものとなりて、初めは行方《ゆきがた》を知らず。

 後に、淺井《あざい》・朝倉、ほろびて、江州、物靜かになり、人民、おのれおのれが故鄕に歸り住みて、暫く安堵したり。

 數馬は、妻の龍子が行衞を尋ねんとて、父母に別れをとり、

「もし、めぐり逢はずば、二たび、家に歸るべからず。」

と誓ひをおこし、比叡辻(ひえつじ)に出たれば、人のいふやう、

「正木が娘龍子は、佐久間に捕られて、陣中に。」

とて、聞《きき》て、河内の國高屋の城に赴きしかば、

「交野(かたの)の城、おちて、江州小谷(をたに)に行たり。」

といふ。

 又、江州に行しかば、

「京都にあり。」

と聞ゆ。

 方々《かたがた》、その所、定まらず、こゝかしこに馳せ向ひ、終に、天正八年正月に聞《きき》けるやう、

「佐久間は、大坂門跡の籠城につき、天王寺の陣に屯(たむろ)し、七ケ國の軍勢を從へ居たり。」

といふ。

 これより、攝州大坂にくだり、天王寺の陣に赴きしかば、年月《としつき》重なり、諸國を尋ねめぐりしかば、衣は破れて。鶴(つる)の氅(けごろも)の如く、かたち、おもがはりして、色黑く、瘦せつかれ、野にとまり、草に臥し、露にやどかす袖の上、淚は、更に、置き爭ふ。

 すでに天王寺の陣に行きければ、軍兵《ぐんぴやう》、そばだち、番手(ばんて)きびしく、數馬、恐ろしながら、立《たち》やすらひ、隙を窺ひて、問はんとす。

 番の足輕共、あやしみて、

「これは、いかさま、敵のはかりごとをもつて、陣中のありさま、見せつかはしぬらん。其儀ならば、一足《ひとあし》も逃すな、搦め捕りて、首をはね、見せしめのため、札《ふだ》をそへて、阿部野(あべの)にさらせや。」

とて、

「我も、我も。」

と走り出て、打ふせ、押し倒して、高手小手にいましめ、大將佐久間に、このよし、いひ入たり。

 佐久間、聞きて、

「囚人(めしうど)、こなたへ、つれて來れ。子細を尋ねて後に、ともかうも、はからふべし。」

とて、本陣に召しよせ、信盛、出向うて、

「汝は大坂籠城の者か。いかなる子細によりて、此陣に來り、うかがひける。ありの儘に白狀せずば、水火の責めに掛くべし。」

と、いはれたり。

 

Kazumatatuko2

 

 數馬、少しも恐れたる色なく、

「只今、此大事に及びて陳《ちん》じ申《まうす》には、あらず。ゆめゆめ、敵方より來りて、此の陣中をうかゝふ者には、あらず。これは江州東坂本の土民、蘆崎のなにがしが子、數馬といふ者也。叡山喪亂(さうらん)の砌(みぎ)り、一族、悉く八方に別れちりて、行方なく、此程、漸く、國中、靜かになり、地下《ぢげ》の土民、歸り住みて安堵せし所に、我《わが》妹(いもと)龍子、一人、歸り來らず。人に問へば、『君の陣中にあり』といふ。それより、諸方に尋めぐり、只今、爰に來り侍べり。願くは、一目逢せてたび給へかし。然(しか)らば、死すといふとも、何をか恨み侍べらん。」

とて、淚を、はらはらと流す。

「さて。年はいくつ許(ばか)り。」

と問へば、

「其時は十七歲、それより九年を經たれば、廿六歲になり侍り。」

といふ。

「扨は。」

とて、陣中の女房共を尋ねしかば、年も、名も、國も、所も同じく、數馬がいふに替らぬ女あり。

 歌、よく詠み、手書き、智惠、利根なりければ、信盛、これを寵愛して置きたり。

「うたがふ所なく、それなり。」

とて、繩をとき、ゆるし、廰場《ちやうば》に呼び入《いれ》て、龍子に逢はせしかば、龍子も、

「我《わが》兄《あに》也。」

と、いひて、數馬に對面し、一目見るより、

「あれは。それか。」

と、いひもはてず、淚を流し、淚より外の事、なし。

 信盛曰、

「久しく諸方を尋ねめぐり、關を越え、咎(とが)めを凌ぎ、さこそ侘しく心つかれ、力、衰へぬらん。此陣中にして、暫く休息せよ。」

とて、新らしき小袖一かさね出し、小屋の内に置きて、旅のつかれを休めらる。

 次の日、信盛、いひけるは、

「汝が妹(いもと)、よく雙紙を讀み、歌をも、つゞる。汝も、定めて、手書き、物讀むか。」

と。

 數馬、答へて、

「それがし、いとけなきより、山門にのぼり、佛經・外典(げてん)、怠りなく學(がく)し、詩文のかたはし、よろしからねども、つくり侍べり。手も亦、をかしげながら、なべての人には、劣り侍らじ。」

といふ。

 信盛、大に喜び、

「我れ、いとけなき時より武藝に心をよせ、諸方の陣中に日を送り、學文・手跡の事は、手にも取らず。此故に、今、諸方の書簡、又は、一篇の詩歌を贈られても、更に和韻・返歌の事に及ばず。手の郞從の中にも、これ、なし。今、幸ひに、汝、その道を得たり。我が陣中に居て、その事の職、勤めて得させよ。」

と也。

 數馬、嬉しくて、

「ともこうも、仰にしたがひ奉らむ。」

とて、はや、二百貫の知行につけられ、上を受け、下につたへ、書簡・飛札(ひさつ)、みな、信盛が心の如く、とゝのへたり。

 軍中の諸兵、いずれも、重き人に思ひ、かしづきて、あなづらはしき色、なし。

 されども、數馬は是を嬉しとも思はず。

 妻が行衞を尋ね求むる爲にこそ、身をも省みず、命をも惜まず、これまでも來りけれ、一たび逢ひ見て後は、重ねて見る事も叶はず、内外(うちと)、隔り、互に心ばかりを思ひ通はし、忍びの淚を袖につゝみながら、月を越ゆるほどに、卯月の衣更(《ころも》がへ)になれければ、垢付(あかづ)たる小袖をぬぎて、人を賴みて、

「妹につかはす。」

と、いはせ、歌一首、書きて、衣裏(えり)に包み入れたり。

 色見えぬこれや忍ぶのすり衣

   思ひみだるゝ袖のしら露

 龍子、これを取りて、衣裏(えり)の綻びを廣げしかば、歌、あり。大に悲しくて、聲を忍びの泪おさへ難く、返しとおぼしくて、小紙に書つけ、

「夏のかたびら、遣す。」

と、いうて、衣裏もとに、縫ふくめて、遣りける。

 いかにして行きて離れむ陸奧(みちのく)の

   思ひしのぶの衣へにけり

 數馬、此返しを見るに、胸、悶え、心、消えて、思ひ歎きしが、其つもりにや、重き病に沈み、

「今を限り。」

と聞えしかば、龍子は佐久間に申して、

「兄(あに)の病、重くして、今は限りと、聞侍べり。願くは、此世の名ごりに、今一たび、見まゐらせばや。」

とて、なきければ、許し侍べり。

 

Kazumatatuko3

 

 急ぎ、小屋の中に行たりければ、前後わきまへず、吟(によひ)ふしたり。

 龍子、枕もとに立寄り、

「如何に。みづからこそ、只今、爰に參りて侍べれ。」

といふに、數馬、

「むく」

と起きあがり、龍子が手をとり、大息(《おほ》いき)つきたるに、泪は兩の目に餘り、容(かほ)に流れかゝりつゝ、物をも得云はで、口ばかり動くやうにて、其儘、絕入《たえいり》て、空しくなる。

 佐久間、あはれがりて、天王寺のうしろの山もとに送り埋(うづ)み、僧を雇ひて吊(とふら)はせけり。

 龍子は、なくなく我が住む方に歸り、湯水をだに聞《きき》いれず、引かづきて、臥しけるが、其夜より、心地、惱みて、藥をも飮まず、只なきに泣きつゝ、空に向ひ、地に伏して、大息のみ、つきて、次の日の暮がた、佐久間にいひけるは、

「みづから、家を離れ、君にしたがひ參らせ、年を重ねて他國を巡り、親しき者とては、一人もなかりしに、只、兄のみ一人、尋ね來(き)て、これさへ、むなしくなり侍べり。此かなしさは、生《せい》を替ても、忘れ難く侍べれば、今は、命も極まれり。みづから、死なば、兄のそばに、埋みてたべ。黃泉(よみぢ)のもとにして、せめて、同じ所にめぐり逢ひ、年月の憂さ、つらさ、語り慰む事もがなと、他國にさまよふ便りを求めむ。」

とて、その息絕え、むなしく成るたり。

 佐久間は、世に痛はしく思ひて、其心ざし、望みたるに違(たが)はず、數馬が塚の左に並べて埋みつゝ、龍子が衣裝、殘らず、寺に送りつかはし、あと、よく吊ひけり。

 同じき六月に、大坂門跡の籠城、あつかひになりて、開退(あけのき)ければ、佐久間も天王寺の陣を拂ひて歸りしかば、今は、少し、物靜かになり行《ゆく》かと覺えしに、龍子が江州の家に久しく召使はれし下人彌五郞、商人と成りて、世を渡るわざとし、大坂より和泉《いづみ》の境ひにゆくとて、天王寺邊(へん)を打過ければ、東の方の山ぎはに、新しく立《たち》たる家、あり。

 數馬と、龍子と、門より、つれ立出て、

「如何に。彌五郞にてはなきか。道のたよりに立寄れかし。故鄕の事も、ゆかしきに。」

とて、呼びかけたり。

 彌五郞、立もどり、手をうちて、

「故鄕には數馬殿の御父母は、とく、むなしくならせ給ひ、その跡は、舅(おぢ)にておはする權七殿こそ、繼がせ給へ。龍子公(たつこぎみ)の二人の御親は、恙なくて、只、御人《おひと》の行衞を聞かまほしく、朝夕は、泣きしをれて、神ほとけに祈り給ふに、などや、とくとく歸り給はぬ。」

と語る。

 龍子、

「さればよ、故鄕のゆかしさ、いふばかりなければ、世につかふる身は、心のならねば、それも叶はず。」

といふ。

 彌五郞は急ぐ事のありて早く歸るべきに、

「文一つ、遣はし給へ。」

と云へば、

「まづ、今宵は、こゝにとゞまりてよ。」

とて、酒、進め、物、食はせなどして、夜もすがら、物語りしつゝ、はや、明方になりければ、彌五郞は旅立空《たびだつそら》に出《いで》てかへる。

 龍子、文、こまごまと書て、渡しぬ。

 坂本に歸りて、正木夫婦に、文を參らせ、

「かうかう。」

と語りしかば、親、かぎりなく喜び、急ぎ、文を開きて見れば、文の言葉、文字のくさり、手の書き流したる、疑ふ處もなき、娘の文なり。

 其言葉には、

「久しく年へて たまたま彌五郞 見え來たり 故鄕の事 聞につけて 嬉しきが中に 戀しさ やる方もなく侍べり 朝な夕な そなたの空に棚引く雲霞も 思ひを起こすなかだちとなり 秋來る鳫金(かり《がね》)も 便りの文は傳へぬかと侘びられ そゞろに落つる淚の袖 今は みな 朽果てて 彌五郞にまみえし嬉しさを 何に包まんとのみ思ほゆ わが身は 父のうみて 母の育てける 深き惠みは 海(うみ)の數(かず)ならず 高きいつくしみは 山も物かは 夫 いざなひ 妻 したがふは 女の身の習ひ 人の世の定め也 往日(そのかみ)は 山崩れ 麓(ふもと)傾き 日の色は煙におほはれ みづうみの波は熖(ほのほ)に燃ゆ 身を歎き 命をのがれんとて したしきが ゆき別れ 塵(ちり)の如く とび 霰(あられ)の如く わかれて 皆 ちりちりになり 互にゆくさき 知り難し みづからは 佐久間とかや恐ろしき武士にとられ 或時は

交野(かたの)の陣に肝を消し 或時は中嶋のいくさに胸を冷やし 國の數々 從ひ巡(めぐ)り なみだにのみ 浮き沈みし 恨みを心に隱し おそれを身にうけて 春の月 朧ろに 秋の風 凄(すさ)まじく 寢(ね)られぬ枕の上には 夜の衣をかへせども 夢をだに結はず 時移り 事さりて 我を尋ぬる人に逢へり 更に春を尋ぬるの遲き恨みはなしに 門の前の柳 風に折られて 二たび 枝 出《いで》つゝ 斷《たへ》たる絃(ことのを)かさねて繫ぎければ 又 君の賜(たまもの)ありて つかふる道に 立歸るべき私(わたくし)を忘れ 日 重なり 月 逝きて 今日(けふ)になりぬ 音づれ絕えたる不孝(ふけう)のとが 恩を忘るゝに似たる事をば 枉(ま)げてゆるし給へ」

など、書きて、奧に、

 田鶴(たづ)のゐるあしべの潮(しほ)のいや增に

   袖ほすひまもなくなくぞふる

 二人の親、是を見て、

「その比、別れてより、たよりのつてをだに聞かず、今は世になき人の數にや入ぬらんと、心もとなく悲しと思ひ暮せしに、生きてありとだに聞けば、まことに、日比、いのり申せし神ほとけの利生《りしやう》ぞや。」

とて、嬉しなきに、なきけり。

 父のいふやう、

「急ぎ、こゝに迎へて、年比の歎きをも慰め、見えもし、見もせむ。」

とて、彌五郞に案内せさせ、急ぎ、天王寺に赴きしに、棟門(むなかど)立《たて》たる家ありと覺えし所には、只、草、茫々と生ひ茂り、狐、はせ巡り、道のなき山の麓に、塚、二つ、並びて、あり。

 こゝかしこ見めぐらせ共、それかと覺しき家は、なし。

 一町餘りの西に寺あり。

 こゝに行て、僧に尋ねしかば、

「其塚は、佐久間信盛の陣中より葬禮したる、蘆垣數馬、正木氏龍子兄弟の塚なり。又、そのあたりに、人のすむべき家は、なきものを。」

といふ。

 父、驚き、娘の文を取出して見れば、文字もなく、墨もつかぬ白紙にてぞ、有ける。

 父、悲しさのあまり、塚のもとに打倒れ、人目をも耻《はぢ》ず、聲をばかりに泣き居たり。

 

Kazumatatuko4

 

[やぶちゃん注:龍子の父の夢中の邂逅を描いたもの。この画像では判り難いが、冥途の存在である三角頭巾(天冠(てんかん・てんがん))を二人ともつけている。早稲田大学図書館「古典総合データベース」のこちらの画像を見られたい。面白いのは、右下に下男の弥五郎もその夢に登場していることである。しかし、情に於いては、接点を作った彼れが描かれていることに、私は違和感はない。]

 

「我、はるばると、これまで來《きた》る事も、一目逢はんと思ふぞ。いかに此つかに埋もれて、跡を隱しけるこそ、悲しけれ。老たる父が心を知らば、姿を見《み》みえて、此《この》物思ひを慰めよかし。」

とて、其夜は、そこにとどまりしに、夜半ばかりに、夢ともなく、數馬と龍子と現れ出て、淚をながしつつ、そのかみの事共、語り、

「跡、よく、とぶらひて給(た)べ。」

といふ。

 父、夢心地に、

「我、ここに來る事は、迎へて故鄕に歸らん爲也。よし、さらば、空しき尸(から)なりとも、つれて、故鄕に歸りなむ。」

と云ふに、

「いやとよ、此地に埋もるゝも、地府(ちふ)の定《さだめ》あり。又、物靜かにして、すむに、よろし。故鄕にうつし歸されんには、苦み、重なる事、侍べり。埋みし塚をば、二たび、餘所に移さぬものぞや。地府の定めし御とがめ、その亡者にあたりて、苦しみを受くる也。只、此まゝ置きて、とぶらひ給へ。」

とて、父にとりつき、なきけるよ、と、おぼえて、夢は、さめたり。

 なくなく、僧を雇ひて、塚の前にして、供物(くもつ)をそなへ、經、よみつゝ、跡、よく、とぶらひ、淚ともろともに立《たち》別れて、坂本の故鄕に立歸りし父が心、見る人、きく人、皆、あはれがりて、淚をながす。

 坂本に歸りても、思ひのつもりにや、夫婦の親、いくほどなく、身まかりぬ。

[やぶちゃん注:「江州東坂本」現在の滋賀県大津市坂本(グーグル・マップ・データ。以下同じ)の東部。

「哥雙紙の道」この場合の「哥雙紙」は、和歌に関する書で、歌道の意。

「芦崎(あしさき)」本篇で「芦」と「蘆」が混在しているのはママである。

「人しれず結びかはせし若草の花は見ながら盛りすぐらむ」「新日本古典文学大系」版脚注によれば、了意御用達の例の山科言緒(ときお 天正五(一五七七)年~元和六(一六二〇)年:公家)編の歌学書(部立アンソロジー)「和歌題林愚抄」(安土桃山から江戸前期の成立)「恋二」の「絶久恋」の藤原隆信朝臣(康治元(一一四二)年~元久二(一二〇五)年:正四位下右京大夫。建仁二(一二〇二)年に法然に従って出家した。似絵(にせえ:平安末期から鎌倉時代に流行した大和絵様式の肖像画。特に面貌を写実的に描くもの)の開祖として知られる)の歌(「千載和歌集」「恋四」)を一部変えて用いたとある。早稲田大学図書館「古典総合データベース」のこちらで後代の再板(寛政四(一七九二)板)であるが、原本に当たるが出来る。ここの「7」が「戀」の巻で、その全巻(PDF)だと、「30」コマ目の左丁の十一行目のそれで、

 人しれす結ひそめてし若草の花のさかりをすきやしぬらん

整序すると、

 人知れず結び初めてし若草の花の盛りを過ぎやしぬらむ

であろう。「草結び」は古代に於いては、道標べとするように、とりわけ呪的な行為であり、近世に至ると、ダイレクトに「男女間の約束をすること。縁結び。」の意をあからさまに指した。

「しるらめや宿の梢を吹かはす風にかけつゝかよふこゝろを」同前で同じそれの「恋二」の「恋隣女」にある藤原俊成の一首(「新続古今和歌集」の「恋」)を一部変えて用いたとある。全巻(PDFの「34」コマ目の右丁の十一行目のそれで、そこでは俊成の家集「長秋詠藻」からとある。

 しるらめややとのこすゑを吹かはす風につけてもおもふ心を

整序すると、

 知るらめや宿の梢を吹き交はす風につけて思ふ心は

龍子と数馬は実際に隣家であるから、この一首はよく調和する一首となる。

「月日のみ流れゆくゆく淀川のよどみ果てたる中の逢瀨に」同前で同書の「恋二」の「絶久恋」の為道朝臣の一首の以下を手入れをしたもの。同前の「30」コマ目の左丁の十二行目のそれで、

 月日のみなかれもゆくかなみた川よとみはてたる中のあふせに

で、整序すると、

 月日のみ流れもゆくか淚川淀み果てたる中の逢ふ瀨に

「今はかく絕にしまゝの浦におふるみるめをさへに波ぞたゞよふ」特に原拠はないか。「絕えにしままの」が以下の「浦」に掛かって「真間の浦」を引き出し、下総の市川真間の悲劇の美少女真間の手児奈が身を投げた「浦」を通わせ、そこに「生ふる」ところの海藻「みるめ」(「海松」「水松」などと漢字表記するミル緑藻植物門アオサ藻綱イワズタ目ミル科ミル属ミル Codium fragile。古くより食用とされ、「万葉集」に既に詠まれているそれを実景として点描しつつ、「見る目」或いは「見る面」(「二人が顔を見合わすこと」がかくも永く絶えていることを)を掛けている。

「他所」「新日本古典文学大系」版脚注では、「たしよ」と読ませる注となっている。

「なかだち」仲人(なこうど)。

「相待(さうたい)」底本も元禄版も「さうたい」である。但し、ここは「さうだい(そうだい)」と読むのが正しいようで(「新日本古典文学大系」版も「さうだい」)、仏教用語で「二つの対象が、互いに相対関連して存すること。長は短と、東は西と相い対して共に存するという類い。相互の相対立の性質によって、見かけ上、存在しているように見えているに過ぎない仮象を言う。対語は「絶待」(ぜつだい)

ならん。」

とて、親は、しばしば辭しけれ共、

「夷慮(いりよ)のえびす」野蛮人。重語的で如何にも差別的で嫌な感じがするフレーズである。

「利こん」「利根」。利発に同じ。

「ひとり寢のまどにさし入月かげを諸ともに見る夜半ぞうれしき」同前で同書の「恋二」「月前逢恋」の前大納言経任(「新後撰和歌集」の「恋三」)の一首をいじったもの。全巻(PDF)の「23」コマ目の右丁の初行のそれ。

 ひとりねのとこになれにし月かけをもろともにみるよはそうれしき

整序すると、

 獨り寢の床に馴れにし月影をもろともに見る夜半ぞうれしき

「夜な夜なはかこちて過し窓のもとにともにながむるありあけの月」元歌はないか。

「織田信長、江州に打ち出《いで》、山門、此の時に、たてをつきしを、元龜二年九月十二日、叡山・吉日山王《ひえさんわう》に至るまで、皆、燒《やき》滅ぼさる」織田信長による「比叡山焼き討ち」は同年同月同日(ユリウス暦一五七一年九月三十日/グレゴリオ暦換算十月十日)。僧侶・学僧・上人・児童の首を、悉く刎ねたと言われている。織田軍は、先ず、坂本・堅田周辺に放火し、それを合図に攻撃が始まったとされる。「吉日山王」坂本にある現在の日吉大社(ひよしたいしゃ)。第二次世界大戦以前は「ひえ」と呼んでいた。延暦七(七八八)年、最澄が比叡山上に比叡山寺(後の延暦寺)一乗止観院(後の根本中堂)を建立した際、比叡山の地主神を祀る日吉社を守護神として崇敬した。而して延暦一三(七九四)年の平安京遷都により、日吉社は京の鬼門に当ったことから、鬼門除け・災難除けの社として国から崇敬されるようになり、参照したウィキの「日吉大社」によれば、『延暦寺が勢力を増してくると、やがて日吉社と神仏習合する動きが出て、日吉社の神は唐の天台宗の本山である天台山国清寺で祀られていた山王元弼真君にならって山王権現と呼ばれるようになり、延暦寺では山王権現に対する信仰と天台宗の教えを結びつけて山王神道を説いていくようになる。日吉社は』元慶四(八八〇)年に『西本宮の大己貴神が』、寿永二(一一八三)年に『東本宮の大山咋神が』、『それぞれ正一位の神階に叙せられた』。『こうして日吉社は延暦寺と次第に一体化していき、平安時代中期には八王子山の奥に神宮寺が建てられている。また、日吉社の参道沿いには延暦寺の里坊が立ち並ぶようになっていく。天台宗が全国に広がる過程で、日吉社の山王信仰も広まって全国に日吉社が勧請・創建され、現代の天台教学が成立するまでに与えた影響は大きいとされる』とある。

「佐久間右衞門尉信盛」(大永八・享禄元(一五二八)年或いは前年とも~天正一〇(一五八二)年)は武将佐久間信晴の子として尾張に生まれた。織田信秀に仕え、信長が家督相続をする際には、これを支持し、以後、信長の信任を得たとされる。永禄一一(一五六八)年の信長の上洛に従い、京都の治安維持に努め、次いで近江永原城を預けられ、柴田勝家とともに、近江から六角承禎(しょうてい)(=義賢)の勢力を掃討するのに力があった。元亀三(一五七二)年十二月の遠江の「三方ケ原の戦い」に、徳川家康の援軍として浜松城に送られたが、この時は完敗を喫した。「長篠の戦い」・「伊勢長島一向一揆」との戦い、「越前一向一揆」との戦いなど、信長の戦闘の殆どに参陣しているが、なかでも天正四(一五七六)年から本格化した「石山本願寺包囲戦」では、特にその中心的な位置にあった。ところが、石山本願寺が降服してきた直後の天正八(一五八〇)年八月、「無為に五ヶ年間を費した」と信長から問責され、子の正勝ともども、高野山に追放されてしまう。明智光秀の讒言によるとも、事実、茶の湯に耽溺して軍務を怠ったからとも言われてはいるが、真相は不明で、信長の所謂、「捨て殺し」政策の犠牲になった一人とされる。剃髪して宗盛と号したが、紀伊国十津川の温泉で病気療養中に病死した。なお、子の正勝は、後に許されて、信長に仕え、不干斎と号して、豊臣秀吉の御咄衆となり、茶人としても名を残している(以上は「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。

「淺井《あざい》・朝倉、ほろびて」「小谷城の戦い」で敗れ、浅井長政は天正元(一五七三)年九月一日(父の久政は既に八月二十七日に自刃)に自刃して浅井家は滅び、朝倉義景は「一乗谷城の戦い」で敗走し、従兄弟朝倉景鏡(かげあきら)の勧めで逃れていたことろ、天正元年八月二十日早朝、当の景鏡が織田信長と通じて裏切って襲撃、自刃して朝倉家は滅亡した。因みに、「新日本古典文学大系」版脚注でここに注して『浅井義景』とあるのは、朝倉義景の誤り。

「比叡辻(ひえつじ)」先の坂本の東の琵琶湖西岸の滋賀県大津市比叡辻(ひえいつじ)。「新日本古典文学大系」版脚注に、近江の『水陸交通の要地』とある。

「河内の國高屋の城」現在の大阪府羽曳野市古市にある高屋城城跡。義昭派の重臣遊佐信教が同じく反信長派であった三好康長をこの城に引き入れて籠城を敢行したが、天正三(一五七五)年に信長の猛攻を受け(この時、佐久間も城攻めに参加しているようである)、落城、その後、廃城となった。本丸は現在の安閑(あんかん)天皇陵に治定されている古墳上にあった。

「交野(かたの)の城」現在の大阪府交野市私部(きさべ)にあった。別名私部(きさべ)城。ここ

「江州小谷(をたに)」現行では小谷城(おだにじょう)と濁る。現在の滋賀県長浜市にあった。ここ。専ら、朝倉の滅亡の地、浅井長政とお市の方との悲劇の舞台として語られる城である。

「天正八年」一五八〇年。

「大坂門跡の籠城」浄土真宗本願寺派第十一世宗主・真宗大谷派第十一代門首・石山本願寺住職であった顕如(天文一二(一五四三)年~天正二〇(一五九二)年)は元亀元(一五七〇)年に彼の率いる本願寺と織田氏は交戦状態に入り、この永い反目と抗争は「石山合戦」とも呼ばれる。しかし、織田軍が次々と反対勢力を制圧したため、抗戦継続を諦め、朝廷を和平の仲介役として、この天正八(一五八〇)年に信長と和睦し、顕如自身は石山を退去し、紀伊国鷺森別院に移った。

「天王寺の陣」石山攻め(旧石山本願寺は現在の大阪城内に遺跡が比定されている)のために織田軍が天王寺に設けた陣屋。天正四(一五七六)年五月七日に摂津天王寺で発生した信長と一向一揆との戦闘「天王寺砦の戦い」では四天王寺は信長勢に火を放たれ、全焼している。無論、佐久間もここに実際に出陣している。

「七ケ國」三河・尾張・近江・大和・河内・和泉・紀伊。

「氅(けごろも)」羽毛。

「そばだち」背筋を伸ばして威嚇的に立哨し。

「番手(ばんて)」陣の警固に当たる兵士。

「いかさま」「如何樣」。副詞。「いかさまにも」の略から、ここでは「自分の考えや叙述、推測などの確度が高いことを表わす語。「きっと・どう見ても・てっきり」。

「札《ふだ》」「新日本古典文学大系」版脚注に、『氏名・年齢・罪科などを記した高札。捨札』とある。

「阿部野(あべの)」「新日本古典文学大系」版脚注に、『阿倍野のことか。天王寺に近い繁華の地』とある。天王寺の南に接したここ

「陳《ちん》じ申《まうす》には、あらず」「新日本古典文学大系」版脚注にある通り、『疑いをはらすために』敢えて拵えて『弁明する』ものではない、の意。

「妹(いもと)」「新日本古典文学大系」版脚注には、『兄妹の関係に偽っているが、これは』龍子が『信盛の妻妾の身の上にあったことを暗示する』とある。

「廰場《ちやうば》」「新日本古典文学大系」版脚注に、『「庁庭(ちやうば)」の当て字。折り調べを行う「お白洲」』とある。

「あれは。それか。」「新日本古典文学大系」版脚注に、『あの人がその人か。意外な邂逅と数馬の変わりはてた姿に驚き、思わず口をついて出た語』とされる。

「和韻」小学館「日本国語大辞典」に『他人から漢詩を詠みかけられた時などに、それにこたえて、その詩と同じ韻字を用いて詩を作ること。次韻・用韻・依韻の三体がある』とある。

「手の郞從」直属の手下の部下。

「二百貫の知行」「新日本古典文学大系」版脚注に、『年貢高が銭二百貫文の土地。田地一段を五百文と計算するのが標準的であった』とある。

「飛札(ひさつ)」飛脚に持たせて送る急ぎの手紙。急を要する手紙。「飛書」とも言う。

「あなづらはしき色、なし」「侮らはし」は動詞「侮(あなず)る」の形容詞化で、軽蔑しようとする気持ちがすること。尊敬・尊重する意志を持たないことを言う。佐久間の従者らも彼のことを一目置いていたことを言う。

「卯月の衣更(《ころも》がへ)」四月一日。

「色見えぬこれや忍ぶのすり衣思ひみだるゝ袖のしら露」同前で「和歌題林愚抄」の「恋四」の「寄衣恋」の常盤井入道の歌(「新後撰和歌集」「恋一」)を用いたとある。同じく早稲田大学図書館「古典総合データベース」ここの「7」が「戀」の巻で、その全巻(PDF)の「62」コマ目の右丁の後ろから五行目のそれ。

「いかにして行きて離れむ陸奧(みちのく)の思ひしのぶの衣へにけり」同前で同書の「恋四」の「寄衣恋」の従二位家隆(「玉葉和歌集」「恋一」)を転用している。同前で、ここの「62」コマ目の右丁の一番最後のそれ。

「同じき六月に、大坂門跡の籠城、あつかひになりて、開退(あけのき)ければ」「あつかひ」は講和のこと。「新日本古典文学大系」版脚注によれば、『実際には』もっと早く、同じ天正八(一五八〇)年『閏三月に講和が実現した』とある。

「御人」「新日本古典文学大系」版脚注に、『そのお方。目前の相手に対して名指しを遠慮した婉曲な表現。オヒト』とある。

「中嶋のいくさ」「新日本古典文学大系」版脚注に、『淀川支流の神崎川と中津川に囲まれた一帯。現在の大阪市淀川区・東淀川区のあたり。元亀元年(一五七〇)九月三日、中島まで出陣した将軍義昭のもとに』、『根来、雑賀衆一万騎が馳せ参じ、信長軍との間に激戦を交えた(信長記三。大坂合戦事)』とある。この中央附近である。

「斷《たへ》たる絃(ことのを)」楽器の弦が切れることであるが、「琴瑟 (きんしつ) 」を夫婦の仲に喩えるところから、本来は「妻に死別すること」を言う。ここは逆転して夫数馬が死んだと思っていたことを言っており、豈はからんや、彼が生きていたことを転じて言っている。

「君の賜(たまもの)ありて つかふる道に 立歸るべき私(わたくし)を忘れ」主君佐久間が褒美として数馬を右筆として取り立てて呉れたことを言いつつ、そうした結果として、龍子が、自身の親に孝をなすことがないがしろにした慚愧の念を言う。

「不孝(ふけう)」「新日本古典文学大系」版脚注によれば、『「不孝」の呉音読み』とある。

「田鶴(たづ)のゐるあしべの潮(しほ)のいや增に袖ほすひまもなくなくぞふる」同前で、同書の「恋四」の「寄鳥恋」の国道朝臣の一首(「順徳院歌合建保二九尽」)のこの55」コマ目の右丁の後ろから五行目のそれを用いたもの。但し、リンク先では「國通」と見える。

「棟門(むなかど)」「新日本古典文学大系」版脚注に、『切妻破風の屋根を載せた立派な門』とある。

「蘆垣數馬」ママ。

「地府(ちふ)」冥府。]

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