萩原朔太郞詩集「蝶を夢む」正規表現版 その襟足は魚である
その襟足は魚である
ふかい谷間からおよぎあがる魚類のやうで
いつもしつとり濡れて靑ざめてゐるながい襟足
すべすべと磨きあげた大理石の柱のやうで
まつすぐでまつ白で
それでゐて恥かしがりの襟足
このなよなよとした襟くびのみだらな曲線
いつもおしろいで塗りあげたすてきな建築
そのおしろいのねばねばと肌にねばりつく魚の感覺
またその魚類の半襟のなかでおよいでゐるありさまはどうです
ああこのなまめかしい直線のもつふしぎな誘惑
そのぬらぬらとした魚類の音樂にはたえられない
あはれ身を藻草のたぐひとなし
はやくこの奇異なる建築の柱にねばりつきたい
はやく はやく この解きがたい夢の Nymph に身をまかせて。
[やぶちゃん注:初出は大正六(一九一七)年十二月発行の『詩篇』で、標題は「その襟足は魚類である」である。表記上の変化が細部に見られる。以下に示す。添え辞の「てい」はママ(転倒誤植)。
*
その襟足は魚類である
「最も美しきものの各部分に就てい」
その二
ふかい谷間からおよぎあがる魚類のやうで、
いつもしつとり濡れて靑ざめてゐるながい襟足、
すべすべと磨きあげた大理石の柱のやうで、
まつすぐでまつ白で、
それでゐて恥かしがりの襟足、
このなよなよとした襟くびのみだらな曲線、
いつもおしろいで塗りあげたすてきな建築、
そのおしろいのねばねばと肌にねばりつく魚の感覺、
またその魚類の半襟の中でおよいでゐるありさまはどうです、
ああ このなまめかしい直線のもつふしぎな誘惑、
そのぬらぬらとした魚類の音樂にはたえられない、
あはれ身を藻ぐさのたぐひとなし、
はやくはやくこの奇怪なる建築の柱にねばりつきたい、
はやくはやくこの解きがたき夢の NYMPH に身をまかせて。
*
また、筑摩版全集の「草稿詩篇 蝶を夢む」には、本篇の草稿が載る。以下に示す。太字は底本では傍点「ヽ」。歴史的仮名遣の誤りや誤字(「誘惑」の誤字と思われる「透惑」)は総てママ。□は底本の判読不能字。
*
その襟くびはその襟足は魚類である
その足は
その襟くび
その鼻は 音樂 宗敎である、
そこには不思議な祕密がある、
かぎりなき影
その襟足は魚である
ふかい谷底間から浮び泳ぎあがつた魚類のやうで
くいつも靑ざめてしつとりと水にぬれてゐる その ながい襟 足 くび
すべすべとする
いつもしつとりとしてぬれて靑ざめてゐるながい襟足
ねばねばしてねばり
すべすべとみがきあげた大理石の柱のやうで
まつすぐで、堂々としてまつしろで、ゴーマンでそれでゐて恥かしがりの襟足
なよなよとしたえりくびの曲線みだらな曲線、
いつもおしろひで優美にぬりあげたすてきな直線→藝術建築、
そのおしろひのねばねばとねばる肌の肌にねばりつく魚のやうな音樂
またそのえりくびの→藝術魚るゐの半襟の中でおよいでゐるありさまはどうです、
そこへ吸ひつきたい
みる人の心を吸ひつける不思議な
うつむいて半襟の内へ うづくまるくすぐつたひくびすじ かくれるくすぐつたい襟筋
ああしつとりと汗や油にぬれてゐる魚の肌の
その半襟の うちぶところに 中でおよいでゐるありさまはどうだ、
ああ、なんといふこのあやしげなる女の肌の→直線の→肌の 陰影の魔術は人の心肉の魔術はみる人の心をくるしめなやます、
わ が れからだをもぐさとなし
ああ早くその肌にねばりつきたい、
ああ早くそのきれいな皮膚にぴつたりと吸ひつきたい、
このなまめかしいもぐさの直線のもつ不思議な透惑→恐ろしい不思ギな透惑
その不思議なその靑ざめた 魚→透惑 色情ぬらぬらとした音樂のよろこび魚るゐの音樂にはたえられない
このかぎりなく 美しい→不思議なる 美しいものの透惑
かぎりなくああ早く早くもぐさのたぐひとなりこの奇怪なる建築のもつ限りなく美しい夢の中に、美しい夢の中に窓を□□めて、柱にねばりつきたい
*]
« 萩原朔太郞詩集「蝶を夢む」正規表現版 その手は菓子である | トップページ | 「南方隨筆」版 南方熊楠「牛王の名義と烏の俗信」 オリジナル注附 「二」の(4) »