萩原朔太郞詩集「蝶を夢む」正規表現版 さびしい人格
さびしい人格
さびしい人格が私の友を呼ぶ
わが見知らぬ友よ早くきたれ
ここの古い椅子に腰をかけて二人でしづかに話してゐやう
なにも悲しむことなく君と私でしづかな幸福な日を暮さう
遠い公園のしづかな噴水の音をきいてゐやう
しづかに しづかに 二人でかうして抱きあつてゐやう。
母にも父にも兄弟にも遠くはなれて
母にも父にも知らない孤兒の心をむすびあはさう
ありとあらゆる人間の生活の中で
おまへと私だけの生活について話しあはう
まづしいたよりない二人だけの祕密の生活について
ああその言葉は秋の落葉のやうにさうさうとして膝の上にも散つてくるではないか。
わたしの胸はかよわい病氣した幼な兒の胸のやうだ
わたしの心は恐れにふるへるせつないせつない熱情のうるみに燃えるやうだ。
ああいつかも私は高い山の上へ登つて行つた
けはしい坂路をあほぎながら蟲けらのやうにあこがれて登つて行つた
山の絕頂に立つたとき蟲けらはさびしい淚をながした。
あほげばばうばうたる草むらの山頂で大きな白つぽい雲がながれてゐた。
自然はどこでも私を苦しくする
そして人情は私を陰鬱にする
むしろ私はにぎやかな都會の公園を步きつかれて
とある寂しい木蔭の椅子を見つけるのが好きだ。
ぼんやりした心で空を見てゐるのが好きだ
ああ都會の空を遠く悲しげにながれてゆく煤煙
またその都會の屋根をこえてはるかにちひさく燕の飛んで行く姿をみるのが好きだ。
よにもさびしい私の人格が
おほきな聲で見知らぬ友を呼んでゐる
わたしの卑屈で不思議な人格が
鴉のやうなみすぼらしい樣子をして
人氣のない冬枯れの椅子の片隅にふるへて居る。
[やぶちゃん注:三ヶ所の「ゐやう」、「あほぎながら」「あほげばば」はママ(歴史的仮名遣は「ゐよう」「あふぎながら」「あふげば」が正しい)。「月に吠える」からの再録。表記の異同はあるものの、大きな作り変えはない。私の『萩原朔太郎詩集「月に吠える」正規表現版 さびしい人格』では、かなり拘った注も附してあるので、詩篇を比較されるとともに、是非、注も読まれたい。本篇は、私には、とある忘れ難き過去の記憶から、萩原朔太郎だけではない、近現代詩歌の中で、必ず、一番に想起する詩篇なのである。]
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