曲亭馬琴「兎園小説外集」第二 唐船漂着の記 輪池堂
〇唐船漂着の記
文政九戌年正月七日 榊原越中守
當月二日、異國船一艘相見候段御屆申候旨、昨朝申越候處、猶又同三日、久能山一の御門より及ㇾ見候處、遠州大井川下沖合に、異形の船一艘掛り居候樣子に相見候段、在所家來より申越候に付、御用番へ御屆申上候。
[やぶちゃん注:「文政九戌年正月」「二日」グレゴリオ暦一八二六年二月八日。正月早々、スッタモンダの大騒ぎだった。]
同日 同 人
羽倉外記支配所、遠州榛原郡飯淵村沖合に、異國船と相見候船一艘相見候に付、當月二日爲二見分一外記致二出立一候趣、駿府町奉行牧野采女より通達有ㇾ之候間、久能山御備向、幷御山下領分海邊手當の儀、如二先格一申付置候段、在所家來の者より申越候に付、御用番へ御屆申上候旨、昨日申越候。
大目付 石谷備後守
[やぶちゃん注:「榛原」(はいばら)「郡飯淵」(はぶち)「村」現在の静岡県焼津市飯淵(はぶち)(グーグル・マップ・データ。以下ただの地名のリンクは同じ)。まさに大井川河口東端(左岸の先頭の地区)。]
同日 本多遠江守
羽倉外記御代官所、遠州榛原郡飯淵村沖合に、異國船相見候船一艘相見申候旨、當月二日夜、領分村方より屆出候處、同夜牧野采女よりも、外記出役の旨、申來候に付、早速、領分海邊手當の人數、差出候段、在所家來の者より申越候段、御用番へ御屆申上候。
大目付 岩瀨伊豫守
正月八日 田沼玄蕃頭
遠州榛原郡兵部卿殿御領分、川崎湊より東字三森[やぶちゃん注:「ひなたGPS」で飯淵周辺(戦前の地図)を探したが、見当たらない。]と申沖の邊へ、怪敷[やぶちゃん注:「あやしき」。]船、一艘相見候間、拙者領分同郡村役人より、當月朔日晝八時[やぶちゃん注:定時法で午後二時頃。]頃、申出候に付、彼地、諸家來罷越見受候處、領分より東南の方に一里半程隔り、長、凡二十五、六間[やぶちゃん注:約四十五・五から四十七・二七メートル。]程と相見、異國船一艘掛り居申候。尤、兵部卿殿御領分、同郡吉田村[やぶちゃん注:「ひなたGPS」で確認出来。大井川右岸の河口南西直近。]濱陸より六、七町[やぶちゃん注:六百五十四・五から七百六十三・六メートル。]沖合に、碇を卸居候樣子に付、右場所之人數差出候旨、同二日、中泉御代官竹垣庄藏より、在所家來共迄、申來候間、兼て手當申付、人數、早速、差出申候。尤、拙者領分相良・福岡[やぶちゃん注:同じく「吉田村」のかなり南西。]濱續の儀にも候間、人數手配等、申付置候段、彼地家來共より申越候。御用番え、御屆申上候旨、昨七日申越候。
同日 太田攝津守
去二日、大井川邊、川尻村[やぶちゃん注:「ひなたGPS」で確認出来。大井川河口先端右岸。]境、海上に、異國船相見候旨、領分吉宗[やぶちゃん注:吉川弘文館随筆大成版に『(永カ)』と編者注があり、これで納得。「吉永」は飯淵の北に接する村で「ひなたGPS」で確認出来。]村より注進申出候間、早速、見分の者差出候處、海上、凡、五、六丁餘、隔、三十間餘も可ㇾ有ㇾ之相見候。船、帆柱三本立、碇、卸し、人數、四、五十人も乘候樣子にて、白き旗、又、赤き旗にて、磯の方に向招候得共、高浪にて難二相分一、多分、唐人商船に可ㇾ有ㇾ之趣に御座候。依ㇾ之惣人數、差出候旨、在所より申越候間、此段、御用番に御屆申上候旨、昨七日申越候。
尾藩秦鼎手筒【二月四日、所二郵附一全文は、下に見えたり。】
扨、遠州へ唐船漂着、大騷動、遠州は稻佐風の海賊、日本一の名所、大晦日夜は、海中、幽靈の出現日、殊に、薄暮より、風雨つよき丑滿頃、漂流破船、押來之樣子にて、海賊ども、「天のあたへ、よい正月せん。」と、我一に小舟こぎ出し、仰みれば、船の異體なるに驚き、しばしタメラフほどに、松明・燈炎[やぶちゃん注:「ともしび」と訓じておく。]の光に、鬚の長き、異類・異形の物、見ゆれば、「ヤレ、幽靈よ。」と、にげ歸る。曉天になれば、金鼓、コキ、來る【これは元朝の祝の樂なり。】これにて、遠州諸侯、大騷動、此から御察しあれば相分るゝ事也。此圖書どもは、はや御通覽か、難ㇾ測候へ共云々。
[やぶちゃん注:「秦鼎」(はたかなえ)は儒者で尾張名古屋藩に仕えた秦滄浪(そうろう 宝暦一一(一七六一)年~天保二(一八三一)年)。美濃出身。鼎は名。寛政二(一七九〇)年に同藩に入り、翌年、藩校「明倫堂」典籍となり、後に教授となったが、驕慢で失脚したという。古書の校定を好み、「国語定本」・「春秋左氏伝校本」などをものしており、また三巻三冊から成る随筆「一宵話」(ひとよはなし)がよく知られる。
「稻佐風」(いなさかぜ)辰巳(南東)の風であるが、特に台風期の「強風」を指して言う。ここは、「特に荒っぽい」という形容であろう。
「元朝の祝の樂」は旧習。言わずもがな、当時の中国は清代。]
貴船唐山耶。將外夷耶。洋中不ㇾ辨ㇾ何。是暴風所ㇾ漂。想有二損壞一、鐵錨之類有ㇾ失否。柴米水菜之類有ㇾ乏否。貴國所ㇾ發之地。及船主之姓名。開駕漂著之月日。通船人名數行年州里。且船中帶品物。請審筆示ㇾ焉。[やぶちゃん注:「開駕」(かいが)「駕」は他者の往来を敬って言う語で、ここは「御出航月日」の意。]
文政九年丙戌正月朔 日本遠州榛原縣
海 岸 邑 正
呈二漂流船主一。
[やぶちゃん注:「海 岸 邑 正」海辺附近の村(「邑」)を管理監督する「正」規の役人・町役人の意であろう。以下が難破船からの返答であろう。中国語でよく判らない箇所があるが、以下読み進めると、どうも、この清の難破船には、ずっと昔に邦人の漂流者複数名を救助しており、その連中が、たまたま、同船していたらしいことが判ってくる。]
本船在ㇾ唐。于二十一月廿四日一自二乍浦一開行。
往二長崎一貿易幷護送。
貴國漂流商民三人。本船共計已百十六人。因二風不順一。今于二正月初一日一漂收。
貴地 口前寄ㇾ掟。但風浪甚大。恐ㇾ有二不測一。伏乞俯念。遠商在ㇾ洋日。久苦楚異常。速卽禀明[やぶちゃん注:「りんめいせり」で、「詳しく説明する」の意か。]。
大頭目大人。餝二備小船一。將二大船一縴二進内山嶴中一。暫爲二寄碇一。再行縴送二長崎一。幷給二附柴米各物一。萬勿二遲延一是憾。[やぶちゃん注:「縴進」で、「縴」(音「ケン」)は「綱を以って引きつつ進む」の意。前の部分から「附属装備する小船を以ってタグ・ボート風に」という意であろう。「内山嶴中」「ないざんおうちゆう」と読んでおくが、よく意味が判らない。「嶴」は後に出る「岙」も同字で、名詞で、浙江省・福建省などの沿海地方で多くは陸の地名に用いて山間の平地を指すが、どうも馬琴の言っている「奥州」の誤りのような気がする。]
計開、[やぶちゃん注:意味不明。「因みに当方の所持する対象物の数値を示すと、」といった謂いか?]
一小船一百艘。[やぶちゃん注:小船は百艘もあるというのか? よく判らぬ。]
文政九年正月初一日 寧波船主揚啓堂
竹筒内有二呈一張一。
貴國漂流民人長吉等十二人。于二庚辰年十二月初九日一。左岙州島船。𪳾二魚油等物一出口。往二來國一貨賣。過二東北一大風損傷。大桅隨ㇾ風漂流。于二次年正月二十日一到二暹羅沿海地方一。搭數上岸。上年六月初三日。附二搭金福全船一。至二七月十八日一到二門口一。二十九日起身。至二八月初九日一到二福州一。九月十四日起身。十月十五日到二乍浦一。原船出口共計十二人。右暹羅亡遇五人。現存七人。兩扁「得泰」[やぶちゃん注:本船の名前。]全勝二艘。護送到二長崎一。「得泰」護送三人【解按、左「岙」之「岙」、恐「仚」之誤。「仚」與ㇾ「仙」同。左「仚」、卽、「仙臺地方」云歟。再按、「岙」此「嶴」之誤。當ㇾ作二「奥州」一。「左」、亦、「在」字之誤耳。】。
計開、[やぶちゃん注:以下の「一」の後は恣意的に一字空けた。]
一 長吉。
一 鶴松。
一 喜太。
「全勝」船、護送、四人。
計開、
一 蒼(くら)松。
一 淸祐(すけ)。
一 米祉(よねじ)。
[やぶちゃん注:吉川弘文館随筆大成版は『米社』。あり得ない名で、誤判読か誤植である。]
一 榮祐。 船名 得 泰
上書。護送貴國人名册。 船主 揚啓堂
南部大膳大夫領分
奧州閉伊郡
山田村百姓
長 吉【歲三十六歲。】
そけい村百姓
喜太郞【歲二十五歲。】
同村百姓
筒 松 歲二十八歲
右中口
私共儀、唐船え、乘込、遠州へ漂着の上、當湊え、御引入に相成、此度於二元船一。始末御糺に御座候。
此度私共儀、大法大領船越浦、黑澤屋六之助船、仲船頭平之丞等、水主倉松、淸助、龜之肋、久米兵衞、伊勢松、米次、私共【此乘組十二人の内、久助といふものあるべし。下に見えり。脫字ならん。右久助を加て、十二人也。この餘、本文の内、誤脫、少からず。聊、意をもて、補ひつゝうつしとりぬ。】二人、幷、炊[やぶちゃん注:「まかなひ」か。]榮助共、都合、十二人乘組、右六之助、商荷物・粕油・大豆・鹽・肴、幷、大つち村々より御領主へ納候干肴類之由、樽詰莚菰包、幷、江戶御屋敷え、差出候分、書面・荷物共、江戶問屋へ相屆候分、一同積入、七ケ年以前、去る辰年十一月廿六日[やぶちゃん注:文政三年。グレゴリオ暦では一九二〇年十二月三十一日。]、大つち領[やぶちゃん注:岩手県上閉伊郡大槌町か。幕府領。新巻の塩鮭を始めとして海産物を江戸・上方・長崎などに送った場所として栄えた。]、出帆、順風にて、十二月七日、仙臺領「とりなん湊」へ入津、滯船。同九日、同所出帆、同十二日、雨雪にて、地方[やぶちゃん注:「ぢかた」。陸。]を見失ひ、房州沖に漂。同夜、戌亥[やぶちゃん注:北西。]の强く、洋中へ被二吹流一。同十五日晝、あかの道付候間[やぶちゃん注:「あか」は水の智眼的な浸水で、それを「防ぐ術(すべ)が完全に尽きてしまったので」の意であろう。]、無ㇾ據打荷いたし、同十四日、大時化にて、帆柱も切捨候處、方角を取失ひ、いづ方より吹候風共、不二相辨一、被二押流一。同十五日、風少し靜り、あかの道を塞ぎ、同十六日、桁[やぶちゃん注:「けた」。船本体の内側の支えとしている材。]を帆柱に致し、陸の方を心差、走參候處、又候、同十九日、戊亥の風强く、被二吹流一、雨雪にて時化に相成、同廿二日、大あれにて、又候、打荷致し、同夜、揖を折、船中の者共、力を落し、一同、神社を祈、綱を揖に致し、流次第に相成、翌巳年正月六日、丑寅にて彼二押流一候處、洋中、至て暖氣に相成、奧州邊、六、七月頃の時候同樣にて、然處、追々船中呑水無ㇾ之難儀致し候處、同十九日より雨降、漸、呑水を取、尙又、廿日、大時化に相成、同夜、俄に波音聞付候間、地方へ着候儀と心付、碇を入候得共、保兼、磯ヘトモを當候間、一同上陸之支度致し、船頭平之丞は、浦賀御番所御切手・海上通手形持參、てんま船を卸し、乘移、一同乘込候處、磯、惡敷[やぶちゃん注:「いそ、あしく」。]、元船、破船、粮米共外、打捨、てんま船も水船に相成、乘組十二人の者共の内、平之丞・龜之助は溺死いたし、殘十人の者共、漸、一命を助り、上陸致し候處、兩人、死骸成[やぶちゃん注:「なり」。]とも見付度[やぶちゃん注:「みつけたく」。]、海邊、種々、相尋候得共、何分、見當[やぶちゃん注:「みあたり」。]兼候内、間もなく、夜明、廿一日も同樣、相尋候得共、見當不ㇾ申、人家も不ㇾ見候間、其夜は無二是非一、草木有ㇾ之山に相臥、廿二日、山へ登り見候處、遠方に小屋相見候に付、尋參候處、木の葉にて、厚さ三寸位に家根を葺、四壁共、同樣にて圍設[やぶちゃん注:「かこみまうけ」。]、丸竹を敷置候小屋にて、男は丸裸、女は木の皮樣の物を卷、男は手首より指先迄、腰より下、兩足黑節迄、入墨致し、女は、腕より爪先迄、竪筋に入墨致し、男女共、顏へ赤土樣の物を塗り、鬼形のごとく怖敷[やぶちゃん注:「おそろしき」。]姿にて、大勢、駈集、何角[やぶちゃん注:「なにかと」。]、私語・奔走致候處、間もなく役人體の者にも可ㇾ有ㇾ之哉、一人、罷越、差圖致し、食用として、私共へ、芋根樣の物を爲ㇾ給[やぶちゃん注:「たべさせ」。]、一軒に一人宛、引取、被二養[やぶちゃん注:底本に『マヽ』傍注有り。]臥一候節は、小屋一軒、兼て、請取置、十人一所に臥、夫[やぶちゃん注:「それ」。]、食は前書の品、朝夕、一つ、二つ宛、宛行候に付、當座は給足[やぶちゃん注:「たべたり」。]不ㇾ申候得共、追々、腹中、馴、飢にも及不ㇾ申、衣類も、追々、着破れ候得共、寒暑の差別もなく、凡四ケ年程も右場所に罷在、尤、何事にても不ㇾ仕、扶助而已[やぶちゃん注:「のみ」。]請罷在候内、久米兵衞・久助、相果候間、木の葉にて編候蓙に包、土中に埋置申候。且、言語の儀、一向不二相分一候得共、ハラヲとか申樣にも相聞候島にて[やぶちゃん注:「ハラヲ」フィリピン東方の「パラオ」か。]、夫より、未年七月中頃にも可ㇾ有ㇾ哉、影以馴・不二見馴一大船罷越、滯船、翌申年[やぶちゃん注:文政八(一八二五)年。]八月始比にも可ㇾ有ㇾ之、右船、出帆の體に付、手眞似等致し相願、右船へ爲ㇾ乘貰ひ、出帆の節、右島、形、海中より及ㇾ見候處、凡、竪二十四、五里程も可ㇾ有ㇾ之島に相見申候。夫より、八日程も西の方へ走り、ノレラン[やぶちゃん注:不詳だが、石川榮吉氏の論文「接触と変容の諸相 江戸時代漂流民によるオセアニア関係史料」(『国立民族学博物館研究報告別冊』(一九八九年二月発行)所収。国立民族学博物館学術情報リポジトリ「みんぱくリポジトリ」のこちらからPDFでダウン・ロード出来る)に本篇の日本人の漂流の方の事実が紹介されており、それによれば、パラオからはナマコ集荷に来た外国船に乗せて貰い、ヴェトナムに行き、マカオに移り、さらに転々とした後、浙江省乍浦(さほ:現在の浙江省嘉興市平湖市乍浦鎮)に至ったとあるので、ヴェトナムのどこかであろう。]と申候處の湊へ着船致、上陸間もなく、唐人體の者、罷越候間、乘組の内より、「日本人」の由、書付遣候處、人家へ引入、大切にいたはり吳申候。右場所の儀、家居の樣子、瓦葺にて、四壁とも、石にて疊上げ、相應の人家有ㇾ之、去酉六月三日、唐船參候間、爲ㇾ乘貰ひ、其節、八人の者へ、丸金四十枚、貰請、夫より出帆、同月十七日、船中にて、伊勢松、病死致し候節、「船には難二差置一」旨に付、無ㇾ據、海中へ捨、七月十八日、鴈門と申所へ着船いたし、同所、取扱を請。右場所の儀も、家居、瓦葺、四壁、漆食[やぶちゃん注:「しつくひ」。「漆喰」。]にて、又、家も相應に有ㇾ之、同廿九日、竹にて編候かご樣の物に被二乘せ一[やぶちゃん注:ママ。]、役人、差添、繼送[やぶちゃん注:「つぎおくる」。]。其節も、丸金にて、人々、二枚づゝ貰ひ受、八月七日、福州と申所へ着、同所、取扱を受、古衣類等、貰ひ請罷在。九月十四日、同所出立、同所にても役人、付添、或は陸路を步行[やぶちゃん注:「ありき」。]、或は川船にて下り、道中いたし、十月十五日、乍浦へ着、同所、取扱を受、衣類・羽織等迄も、日本風に致し貰ひ受候儀にて、同所に罷在候内、長崎商船出候間、倉松・淸助・米次・榮助、右四人は、十一月十九日、別船に乘、出帆致し、私共三人は當船へ乘船いたし參候内、洋中にて難風に逢ひ、此度、漂着仕候儀に御座候。尤、丸金貰受候分、彼地にて兩替いたし、追々、遣拂[やぶちゃん注:「つかひはらひ」。]、當時の着用衣類、幷、遣殘り錢等而已、所持罷在候儀に御座候。但、私共三人の内、長吉・鶴松は、女房、有ㇾ之、喜太郞は獨身に御座候。右御糺に付、相違不二申上一候以上。
戌正月廿一日 長 吉左大指爪印
喜太郞右同斷
鶴 松左同斷
羽 倉 外 記 樣
竹 垣 庄 藏 樣
通船人數計開、
船主劉景筠【在留長崎。】 五十四歲 杭州人
[やぶちゃん注:「船主」唐船の荷主に代わって貿易業務の一切を主宰する人物を指す。]
同 揚啓堂 二十七歲 平湖人
財副朱柳橋 四十八歲 同
同 劉聖字 三十一歲 杭州人
[やぶちゃん注:「財副」積荷管理を担当し、船主を補佐する要職。]
顆長洪廷機 五十二歲 侯官人
[やぶちゃん注:「顆長」航海に於ける技術面を担当する現在の航海士の最高責任者。]
總官鄭資淳 四十一歲 長樂人
[やぶちゃん注:「總官」:船主の事務を処理して、船員を統率する事務長相当職。]
舵工郭光柱 四十歲 閩縣人
[やぶちゃん注:操舵の監督・責任者。]
同 傅照使 四十六歲 同安人
目侶曹發生 三十歲 長樂人
[やぶちゃん注:「目侶」(もくりよ(もくりょ))は一般船員。]
傅分使 三十六歲 同安人
陳忠信 四十八歲 寧波人
游來文 三十歲 侯官人
傅藏使 二十四歲 同安人
鄭友波 三十六歲 閩縣人
嚴五枝 四十歲 侯官人
徐愈使 三十四歲 同安人
傅忠使 三十五歲 同
洪文科 三十一歲 同
玉亭進 四十一歲 閩縣人
曹用弟 四十二歲 同
黃國文 三十六歲 侯官人
傅騰霧 二十九歲 同安人
呂疊使 四十三歲 同
曹敍林 二十七歲 平湖人
洪繼倫 三十五歲 侯官人
高畑弟 三十九歲 同
吳志就 三十六歲 同
慮志揚 三十八歲 侯官人
洪三捷 三十五歲 同
林子暇 三十六歲 同
劉鏡弟 四十四歲 長樂人
洪仁聲 二十七歲 侯官人
陳雲漳 四十三歲 閩縣人
鄭法第 二十四歲 同
鴆在彩 四十二歲 福州人
高享泰 四十六歲 侯官人
林德揚 四十歲 閩縣人
林文光 三十八歲 長樂人
林永暢 三十五歲 同
鄭照鳳 四十歲 同
鄧朗弟 二十五歲 同
高煒弟 二十三歲 同
陳克奕 四十二歲 同
王家榮 二十八歲 同
鄭國禎 二十七歲 長樂人
盧玉琳 四十歲 寧波人
周有利 三十歲 同安人
林克新 三十歲 侯官人
黃杏使 三十八歲 同安人
强 六 □□歲 同
[やぶちゃん注:年齢はママ。]
載大椿 三十二歲 平湖人
張 湧 五十二歲 同
陳福使 三十三歲 蘇州人
葉留度 三十五歲 同安人
揚習奎 四十歲 平湖人
曹住弟 二十八歲 同
董老大 二十六歲 長樂人
王神童 三十六歲 閩縣人
傅交使 三十歲 同安人
王湓使 二十三歲 同
[やぶちゃん注:「湓」は「ほん」と読む。]
周守使 三十四歲 同
陳九使 三十一歲 同
李墜使 二十八歲 同
王溫使 二十一歲 同
林阿取 三十三歲 同
謝阿小 三十三歲 同
姜江鎭 二十三歲 同
傅祖癊 三十歲 同安人
[やぶちゃん注:「癊」は心臓の病名。或いは「痕跡・傷痕・血痕」の意で人名としてはおかしい。吉川弘文館随筆大成版は「蔭」とする。松浦章氏の論文「江戸時代における漂着唐船に関する一・二の資料――得泰船筆語を中心に――」(一九八〇年三月発行『関西大学東西学術研究所紀要』所収・ネット上でPDFファイルでダウン・ロード可能)の「通航一覧続輯」巻三六所引の「唐船漂着之記」の乗組員名簿を見たところ、「傅祖廕」となっており、これが正しいか。]
許安使 二十二歲 同
邱君使 三十八歲 鄞縣人
[やぶちゃん注:「鄞」は「ぎん」と読む。]
陶阿曹 四十七歲 同安人
陳川使 二十八歲 同
張純使 二十八歲 同
陳尙德 三十歲 閩縣人
陳道筆 三十二歲 龍溪人
鄭攘使 三十歲 平湖人
陳家相 四十八歲 同安人
陳城弟 五十歲 惠安人
黃振聲 三十七歲 福州人
張淸興 三十八歲 同
黃驥弟 三十八歲 同安人
黃攘使 三十五歲 福州人
王燕使 三十二歲 長樂人
陳琳第 三十七歲 同
鄭義盛 三十五歲 閩縣人
何素文 四十五歲 同安人
劉老使 三十六歲 同
傅意使 二十二歲 長樂人
博爾使 三十七歲 同
王井使 三十一歲 福州人
蘇錫連 四十二歲 同安人
胡起龍 四十歲 同安人
張慶元 三十二歲 同
潘四觀 三十五歲 同
附搭黃國通 三十六歲 平湖人
[やぶちゃん注:船舶による貿易実務の担当者。]
傅仙使 三十歲 同
姜倫第 六十歲 同
杜相第 二十九歲 同
林奕弟 三十二歲 侯官人
雛仁文 四十二歲 長樂人
隨便薛長生 三十二歲 同
[やぶちゃん注:「隨便」意味不明。現代中国語では、よい意味ではない。]
錢 順 三十九歲 侯官人
張得利 二十九歲 閩縣人
袁 貴 三十五歲 侯官人
吳四貴 三十二歲 同
薛 渭 四十五歲 蘇州人
張雙福 三十五歲 同
頎順祥 二十一歲 蘇州人
[やぶちゃん注:「頎」は「き」と読む。]
鄔 三 四十二歲 同
[やぶちゃん注:「鄔」は「う」と読む。]
康福生 二十四歲 杭州人
姜 全 三十一歲 蘇州人
載言寶【護送通事】 三十一歲
以上其計一百十六人
文政八年 船主 劉 景 筠
同 揚 啓 堂
財副 朱 柳 橋
同 劉 聖 字
總 官 鄭 資 淳
浦湊、酉十一月廿四日、出帆。
寧波船【長四十間[やぶちゃん注:七十二・七二メートル。朱印船を一回り小さくしたかなりの大船である。]、巾八間[やぶちゃん注:十四・五四メートル。]。】
帆檣【長十七丈二尺[やぶちゃん注:五十二・一二メートル。]、𢌞り二丈四尺[やぶちゃん注:七・二七メートル]。】
船、水際より下、一丈八尺[やぶちゃん注:五・四五メートル。]。水上見上げ迄、二丈八尺[やぶちゃん注:八・二四メートル。]。總、高さ四丈六尺[やぶちゃん注:約十三・九四メートル。]。
椗[やぶちゃん注:「いかり」。「碇・錨」に同じ。]三挺、長六間[やぶちゃん注:十・九四メートル。]、一挺目方、五百貫目[やぶちゃん注:一・八七五トン。]。
綱𢌞り、凡、二尺餘。シユロ繩。
正月二日に、四斗樽一つ、船より、陸へ、流來る。右樽の上に、「竹筒内、有二書翰一。」と、札、付あり。
米・薪水・玉子・豆腐・鮮魚。
雛・木・ロハ【「ロハ」は「豆」之誤歟。】・大豆・刀豆、一斗。
「得泰」船貨數。
大呢【「呢」は泥。】・㕷吱【「㕷吱」は喎吧。[やぶちゃん注:「㕷吱」(「かくし」か)も「喎吧」(「かは」か)も読みも意味も不明。識者の御教授を乞う。先の松浦章氏の同引用の荷物を見ると、「呷吱」「二箱」とあるが、やはりこの熟語でも正体が判らない。]】・藥材・糠・貸材。
大淸福州寧波、船主、程氏揚啓堂。
百十六人乘。
外【「外」、當ㇾ作ㇾ「内」。】に三人、日本、大土浦、黑澤屋六之助船、十二人乘、船頭、平之丞。是は奧州南部、宮古之人。
文政三辰年十一月廿六日、房州沖より被二吹流一、十二人の内、五人、死、七人、殘。
大淸國へ上陸の節、右七人の内、四人は外船へ、三人は此船へ乘。戌正月朔日、遠州住吉へ漂流着。六之助船水主[やぶちゃん注:「かこ」。]の者中[やぶちゃん注:「もののうち」。]、天竺「バラキ」と申島[やぶちゃん注:不詳。インドネシアのバリ島か?]へ、被吹流、「リス」[やぶちゃん注:不詳。イギリスか?]と申國の船、來り、此船を賴み、「メㇾラン」[やぶちゃん注:先の「ノレラン」と同じであろう。]と申國へ參り、同所より、大淸へ送る。
「バラキ」と申島は、芝と蘆の住居にて、蔀[やぶちゃん注:「しとみ」。]、なし。男女とも、丸裸。男は兩手・兩股に入墨あり。女は、なし。但し、バラキえ、巳正月廿日、漂流着。
[やぶちゃん注:以下二段落は底本では全体が一字下げ。]
右、唐船を長崎まで送り遣さるゝとき、林家より、筆談の爲、學問所の諸生二人を、遠州までつかはして、同船せしめらるゝといふ。この諸生等、歸府の後、必、異聞あらん、たづぬべし。
右、唐船紀事二本を、輪池翁の見せられしかば、二本を合して、その誤脫を補寫し卒[やぶちゃん注:「をはんぬ」。]。
丙戊[やぶちゃん注:文政九](一八二六)年。]春三月廿九日
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