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2021/12/20

萩原朔太郞詩集「蝶を夢む」正規表現版 群集の中を求めて步く

 

   群集の中を求めて步く

 

私はいつも都會をもとめる

都會のにぎやかな群集の中に居ることをもとめる。

群集は大きな感情をもつたひとつの浪のやうなものだ

どこへでも流れてゆくひとつのさかんな意志と愛慾とのぐるうぷだ。

ああ ものがなしき春のたそがれどき

都會の入り混みたる建築と建築との日影をもとめ

大きな群集の中にもまれて行くのはどんなに樂しいことか

みよ この群集のながれてゆくありさまを

ひとつの浪はひとつの浪の上にかさなり

浪はかずかぎりなき日影をつくり 日影はゆるぎつつひろがりすすむ

人のひとりひとりにもつ愁ひと悲しみと みなそこの日影に消えてあとかたもない。

ああなんといふやすらかな心で 私はこの道をも步いてゆくことか。

ああこの大いなる愛と無心のたのしき日影

たのしき浪の彼方につれられてゆく心もちは淚ぐましくなるやうだ。

うらがなしい春の日のたそがれどき

このひとびとの群は建築と建築との軒を泳いで

どこへどうして流れゆかうとするのか

私のかなしい憂愁をつつんでゐるひとつの大きな地上の日影

ただよふ無心の浪のながれ

ああどこまでもどこまでも この群集の浪の中をもまれて行きたい。

 

[やぶちゃん注:太字は底本では傍点「ヽ」。本篇は「靑猫」所収の「月夜」の解題転載であるが、これは「靑猫」所収のコーダ部分が大きくカットされてある。私の「萩原朔太郞 靑猫(初版・正規表現版) 群集の中を求めて步く」と比較されたい。ただ、リンク先では、朔太郎が本詩集より後の「底本 靑猫」以降に本篇に加えた改変の方に関心が向いてしまった結果、初出形を示すのを忘れていた。ここで本篇の初出形(大正六(一九一七)年六月号『感情』)を改めて示しておくこととする。太字は同前。その「ぐるうぶ」の「ぶ」濁点はママである。歴史的仮名遣の誤りもママである。

   *

 

 群集の中を求めて步く

 

私はいつも都會をもとめる

都會のにぎやかな群集の中に居ることをもとめる

群集はおほきな感情をもつたひとつの浪のやうなものだ

どこへでも流れてゆくひとつのさかんな意志と愛慾とのぐるうぶだ。

ああ ものがなしき春のたそがれどき

都會の入り混みたる建築と建築との日影をもとめ

おほきな群集の中にもまれてゆくのはどんなに樂しいことか

みよこの群のながれてゆくありさまを

ひとつの浪はひとつの浪の上にかさなり

浪はかずかぎりなき日影をつくり、日影はゆるぎつつひろがりすすむ

ひとのひとりひとりにもつ憂ひと悲しみはみなそこの日影に消えてあとかたもなし

ああ なんといふやすらかな心で私はこの道をも步みすぎ行くことか

ああ このおほひなる愛と無心のたのしき日影

たのしき浪のあなたにつれられてゆく心もちは淚ぐましくなるやうだ

うらがなしい春の日のたそがれどき

このひとびとの群は建築と建築との軒をおよぎて

どこへどうして流れゆかふとするのか

私のかなしい憂愁をつつんでゐるひとつの大きな地上の日かげ

ただよふ無心の浪のながれ

ああ どこまでも、どこまでも、この群集の浪の中をもまれて行きたい

浪の行方は地平にけぶる

ただひとつの悲しい方角をもとめるために。

 

   *

個人的には、萩原朔太郎が詩人として名声を得て後に出版した詩集の中で、それらに載っている詩篇の幾つかを彼は、後発詩集や選集に載せる際に、何度も書き直しを加えた詩篇が有意に多くあるのだが、それらの過半は、私はするべきでなかった改変、はっきり言えば改悪が、有意に多く含まれているように感ずる。詩人の若き日の詩篇には、時にその当時の詩人だけに永久著作権が認められるべき詩篇がある。最早、詩想に於いて別人となってしまった老いさらばえた老詩人は、若き日の自作に手を入れるべきではない、ということを私は短詩形文学に対して甚だしく感ずるものである。]

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