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2021/12/14

曲亭馬琴「兎園小説別集」始動 / 「兎園小説別集」目録・上巻 「西羗北狄牧菜穀考」(その1)

 

[やぶちゃん注:「兎園小説別集」は曲亭馬琴編の「兎園小説」・「兎園小説外集」に続き、「兎園会」が断絶した後、馬琴が一人で編集し、主に馬琴の旧稿を含めた論考を収めた「兎園小説」的な考証随筆である。所持する吉川弘文館随筆大成版の「日本随筆大成」第二期第四巻所収の丸山季夫氏の解説によれば、この時期の『馬琴は戯作の筆に多忙であった頃で』あったが、『なおこの文業を残している事が、馬琴自身の楽』し『みも、ここにあったかと思われる』とある。なお、本書中巻には、「耽奇会」の文政八(一八二五)年三月十三日発会の席上、薬種商であった文宝堂亀屋九右衛門(後に二代目蜀山人の号を名乗った)が発表した「大名慳貪之匣」(だいみょうけんどんのはこ)の名義及び、その「けんどん」に当てるべき文字に関して、山崎美成と激しい論争(通称「けんどん争い」などと呼ばれる)となって、両者が決定的に絶交することになった一件に関わる「けんどん名義」が所収されている。

 なお、本書の冒頭にある馬琴に「ひやうし考」は、「兎園小説」正編の第一集に収録された「ひやうし考」の再録であり、表記に若干の相違があるものの、全く同じものであるので、省略した。

 底本は上巻と下巻は、

国立国会図書館デジタルコレクションの大正二(一九一三)年国書刊行会編刊の「新燕石十種 第四」のこちら

から載る正字正仮名版を用いる。しかし、実は同底本には中巻がない。しかし、これは、同シリーズの別な巻に同じ内容のものが載るために省略したもので、それぞれ、「けんどん爭ひ」(「兎園小説別集」では「けんどん名義」)と「元吉原の記」として分離して掲載されているための省略であるから、この中巻の二編は、

国立国会図書館デジタルコレクションの「新燕石十種」第一

を底本とすることにした。

 挿絵は画像が、今一つ、ぼんやりしているが、底本の画像をトリミング補正して使用することとした。また、本文は吉川弘文館日本随筆大成第二期第四巻に所収する同書のものをOCRで読み取り、加工データとして使用させて戴く(結果して校合することとなる。異同があるが、必要と考えたもの以外は注さない。稀に底本の誤判読或いは誤植と思われるものがあり、そこは特に注記して吉川弘文館版で特異的に訂した)。但し、以上のような変則分離が底本ではなされていることから、「目錄」の中巻の部分については、吉川弘文館随筆大成版の「目次」にあるものを正字化して示すこととした。諸凡例は先行する「兎園小説」(正編)に準じて、字下げその他は必ずしも底本に従わない(ブログのブラウザ上の不具合を防ぐため)。【 】は二行割注。今まで通り、句読点は現在の読者に判り易いように、底本には従わず、自由に打った。鍵括弧や「・」も私が挿入した。踊り字「〱」「〲」は正字化した。【二〇二一年十二月十三日始動 藪野直史】]

 

 

  兎園小說別集

 

 

兎園小說別集目錄

     上 卷

ひやうし考【この一編は、兎園小說第一集に收めたるものなり。こは、淨書したるを、類に從て、こゝにも、載るのみ。】

西羗北狄牧菜穀考

内浦駒嶽神馬紀事【駒嶽圖、附圖は別にあり。】

[やぶちゃん注:この割注は吉川弘文館随筆大成版にはない。]

松前家走馬の記

騎馬砲考

[やぶちゃん注:吉川弘文館随筆大成版では「砲」は『筒』。]

柳川藩水馬の記

松前家牧士遠馬の記【この卷は祕すべき事なきにあらず、みだりに人の見る事をゆるしがたきものなり。】

追錄剿入三ヶ條

[やぶちゃん注:吉川弘文館随筆大成版には以上の注記的項立てはない。「剿入」は「さうにふ」で「挿入」に同じ。]

文忌寸禰麿骨龕所掘圖說

烏丸光廣卿戲墨鳴神三絃紀事

髷の侍【自是卷下、余所獨撰也。是故雖社友、未ㇾ有錄之。兒孫宜祕藏。】

[やぶちゃん注:吉川弘文館随筆大成版の「目次」では、順序に異同があり、標題のみ表記のまま並べると、

   *

ひやうし考

西羗北狄牧菜穀考

内浦駒岳神馬紀事

松前家走馬の記

騎馬筒考

文忌寸禰麿骨龕所掘図説

烏丸光広卿戯墨鳴神三絃紀事

柳川藩水馬の記

松前家牧士遠馬の記

髷の侍

   *

である。吉川弘文館随筆大成版には杜撰なことに底本注記がないのだが、どうも本書には異なった稿本があるようである。

 以下、冒頭注で述べた通り、吉川弘文館随筆大成版の「目次」の項目のみを正字化して掲げた。]

     中 卷

けんどん名義

 同批考 同批考問辨 同約言

 同釋詰 同勸解

 同勸解囘語

元吉原の記

     下 卷

帶掛考【追記、信天緣。】

三十六町一里幷一里塚權輿考【追記、簞笥・瑞稻・白烏。】

[やぶちゃん注:吉川弘文館随筆大成版には割注自体がない。但し、底本のこの目次は不全で、本文にある「東大寺造立供養記」がなく、しかもそこに「瑞稻」と「白烏」の追記はある。]

問答三條【乞素壓狀・地口・八分。輪池、問、馬琴、答。】

問目三條【鳩有三枝之禮・鹿獨・肝煎。著作堂、問、答、なし。追記、雀戰。】

墨水賞月詩歌【追記、淸國荒飢亂。】

天狗孔平傳

異年號辨

高野大師色葉

永錢考【小出、問、山崎、答。】

正八幡考【小出、問、山崎、答。】

加賀金澤出村屋紀事【追錄、越後船石。】

下野赤岩庚申山記

[やぶちゃん注:同前で吉川弘文館随筆大成版と異同がある。同じ仕儀で示す。

   *

帯掛考

三十六町一里幷一里塚権輿考

簞笥のはじまりの事

東大寺造立供養記

問答三条

問目三条

墨水賞月詩歌

天狗孔平伝

異年号弁

高野大師色葉

永銭考

正八幡考

加賀金沢出村屋紀事

下野赤岩庚申山記

   *]

 

 

兎園小說別集上卷

 

   ○ひやうし考      著作堂手稿

[やぶちゃん注:省略。冒頭注参照。底本ではここから。くどいが、図を含めて、内容はほぼ同一である。]

 

   ○西羗北狄牧菜穀考  瀧澤 解 稿

[やぶちゃん注:標題「西羗北狄牧菜穀考」(せいきやうほくてきぼくさいこくこはう(せいきょうほくてきぼくさいこくこう))は、「西羗北狄」が、古代からの中国人の漢人選民思想である中華思想に基づく差別を意味する「東夷西戎南蛮北狄」という中国以外の四方外の人間は総て野蛮人とする考えに拠った方位の呼称。東は海で陸続きがなく、南は時期によって中国が有意に南進していたから外したものであろう。但し、この場合の「西羌」は、西でも北西部に住んだチベット系民族を漢代に呼んだ語で、四世紀には五胡の一つとして華北に侵入して後秦を建国した。多くの部族に分かれ、西夏を建国したタングート族も、その一つであった。南船北馬を出すまでもなく、北は馬が重要で、「牧菜穀」は「牧」が家畜(特にここでは、その馬)で、その飼料となる広義の秣(まぐさ)が「菜」であり、その種を合わせて「菜穀」と言ったものである。

 少し長いので、段落を成形し、一部で行を空けた。但し、馬琴は冒頭に以下のような整然とした目録を立てているものの、実際にはそこに出る植物名が、読むうちに、ごちゃごちゃになって出現するので、整序して読み解くことは、かなり困難である。馬琴はかなり頑張って市井の一般人にも判るように丁寧に考証してはいるのだが、彼は南方熊楠に似ていて、思いついたものは、脱線に脱線を重ねてでも、謂わずにはいられない、天才にありがちな、整理・整序を心がけて記述することがやや苦手な性質(たち)であることが判る。さらに馬琴は、今までの彼の記事から見ても、博物学的な動植物についての知識は、実は、それほど深くない。また、その混迷に拍車をかけたのは、以下の冒頭で私が注した通り、「本草綱目」等の漢籍が、同一植物に対して、全く異なる異名を与えていたこと、或いは、別種、或いは、そうであるかのように記載していること、さらに、そこに出る植物の漢語名と本邦の漢字が、必ずしも同一の植物を指していないにも拘わらず、馬琴はそこで立ち止まって考察することがおろそかになっている箇所が多いこと、に由来するものであると考える。また、注に時間がかかるので、本篇は分割公開することとした。]

 

   目 錄

△東廧考、△同圖【新製。】。△蒴藋、△同圖【「本草圖經」。】。△苜蓿、△同略圖【依「本草圖經」、以加愚案者。】。△茭米・雕胡。△黍蓬【一名、旱蓬。一名、靑科。】。已上[やぶちゃん注:「旱蓬」は底本では「早蓬」であるが、不審で、吉川弘文館随筆大成版ではここは正しく「旱蓬」となっていたので、訂した。しかし、同版も後で同じ誤字(誤植?)をやらかしている(底本も同じ)。そこも訂した。これは五月蠅くなるだけなので、そこは指示していない。正直、致命的に重篤な誤字である。]。

 右、引用する所の本草等の本文、すべて漢文なるを、今、和解して、悉、國字をもて、しるしたり。且、和訓なければ、こゝろ得がたきものには、傍訓を施して、披閱の便りとす。いまだ、一種も、これらの草を見ざれば、只、古人の說に愚按を加へて、蛇足の辨をなすにすぎず。もし、命と黃金と、ふたつながら、心にまかする時に逢ふ事あらば、親しく蝦夷地に赴きて、採藥せまほしくこそ、ねがひ侍るなり。あなかしこ。

[やぶちゃん注:「東廧」「廧」は音は「シヤウ(ショウ)・ザウ(ゾウ)」である。「とうしやう(とうしょう)」と読んでおく。中文サイトを、複数、調べて、やっと学名を見出せた。少なくとも現在は双子葉植物綱ナデシコ目ヒユ科Corispermoideae 亜科Agriophyllum squarrosum を指す。現代中国では「沙蓬」(サーミ)と書くようである。本邦には植生せず、英文サイト「Flora of China 」のこちらによれば、中国及びカザフスタン・モンゴル・ロシア・アゼルバイジャンに砂漠・砂地地帯に自生する。民間薬に用いられてもいるようである。中文サイト「狗捜百科」の「沙蓬」草体の画像。「維基文庫」の「欽定古今圖書集成」の「博物彙編 草木典」の第四十巻の最後にある「東廧部彙考」も参照。「郭義恭廣志」と「本草綱目」の引用と挿絵がある。

「新製」馬琴がオリジナルに描いたものの意。当該の挿絵のキャプションを読むと判然とする。

「蒴藋」(そくづ(そくず))は現在ではマツムシソウ目レンプクソウ科ニワトコ属ソクズ Sambucus javanica を指す。近年の新分類では、スイカズラ科 Caprifoliaceae からレンプクソウ科 Adoxaceae に移されている。

「本草圖經」北宋の科学者で宰相でもあった蘇頌(そしょう 一〇二〇年~一一〇一年)によって一〇六一年に整理・加筆された本草書。全二十巻・目録一巻であったが、散逸し、現在は引用だけが残る。

「苜蓿」(もくしゆ(もくしゅ)/むまごやし)は、現在はマメ目マメ科マメ亜科シャジクソウ連ウマゴヤシ属ウマゴヤシ Medicago polymorpha を指す。但し、民間ではマメ科シャジクソウ属 Trifolium 亜属Trifoliastrum 節シロツメクサ Trifolium repens の俗称としても知られる。

「茭米・雕胡」(かうべい(こうべい)・てうこ(ちょうこ))は孰れも単子葉植物綱イネ目イネ科エールハルタ亜科 Ehrhartoideae イネ族マコモ属マコモ Zizania latifolia の草体全体或いはその実のことである。私の「大和本草卷之八 草之四 水草類 菰(こも) (マコモ)」を参照されたい。

「黍蓬【一名、旱蓬。一名、靑科。】」馬琴は独立別項としているが、私の考証では、これらもマコモである。前のリンク先を見られたい。]

 

   東廧

 「大明一統志」卷九十、「韃靼土產」の條下に云、『東轖は蓬草に似て、實は穄子(せいし/きみのみ[やぶちゃん注:右/左のルビ。])の如し。十月始、熟。

[やぶちゃん注:「大明一統志」明の全域と朝貢国について記述した地理書。全九十巻。李賢らの奉勅撰。明代の地理書には先の一四五六年に陳循らが編纂した「寰宇(かんう)通志」があったが、天順帝は命じて重編させ、一四六一年に本書が完成した。但し、記載は、必ずしも正確でなく、誤りも多い。「中國哲學書電子化計劃」のこちらで当該部の影印が見られるが、そこでは「東牆」となっている。

「きみのみ」のルビの「きみ」は「きび」。「穄子」は中日辞典で、「粘りの少ないきび」(黍。単子葉植物イネ目イネ科キビ属 或いはキビ Panicum miliaceum )の一種とある。但し、後で「もちきみ」ともルビしているところからは、逆に、粘りの強いキビを指している可能性もある。]

 東廧は【音「墻」。○解云、「東轖」「東嗇」、相おなじ。】、陳藏器が曰、『東廧は河西に生ず。苗は蓬に似て、子は葵に似たり。九月・十月に熟す。飯と爲て、食ふべし。』。河西の人の語に云、「貸我東廧。償爾田粱。」【こは、河西の俗のことわざなり。】といへり。「廣志」に云、『東廧は、子粒、葵に似たり。靑黑色、幷・凉【州名。】の間に有ㇾ之【幷州・凉州は、もろこし、蜀のかたにあたる、西北邊塞のところなり。】。』。

[やぶちゃん注:「貸我東廧。償爾田粱。」実は底本「田梁」で吉川弘文館随筆大成版も同じ。「本草綱目」に拠って訂した。「我れに東廧(とうしやう)を貸さば、爾(なんぢ)に田粱(でんりやう)を償(つぐな)はん。」。「田粱」(「田」は中国語では「田圃」ではなく、「畑地」を指す)は「粟」(単子葉植物綱イネ目イネ科エノコログサ属アワ Setaria italica )を指す。

「廣志」明の董斯張撰の「廣博物志」か。

「子粒」「みのつぶ」と訓じておく。]

 李時珍が曰、『司馬相如が賦に「東廧彫胡」とは、卽ち、此れなり【解云、「彫胡」も亦、草の名、つぶさに下に見えたり。】。』。『「魏書」に云、『烏丸の地【烏丸は夷國の名なり。】、東廧に宜し【「宜し」とは「よく出來る」をいふなり。】。穄(きみ)に似たり。白酒に作るべし。【「其葉は蓬に似たり」といふ。「蓬」は「旱蓬」をいふか。しからば、葉は唐黍の葉に似たるものなるべし。】。』。

[やぶちゃん注:「司馬相如が賦に「東廧彫胡」「文選」に載る司馬相如「子虛賦」。「漢文リポジトリ」のここの(「欽定四庫全書」の中の「文選卷七」(梁の蕭統編・唐の李善註)、[007-24a] の影印画像を開いて見るのがよい。なお、「中國哲學書電子化計劃」の機械翻字の目も当てられないひどい誤翻字とはうって変わって、ここの電子化はかなりハイ・レベルで、ミスも少ない。そこには「東蘠彫胡」とあることが判る。

「烏丸」(うぐわん(うがん))は漢と北魏間の中国北方に居住していたアルタイ語系遊牧民族。「烏桓」とも書く。先祖は「東胡」と呼ばれ、東胡が紀元前三世紀末に匈奴に撃破されると、残った者たちが二つに分かれ、北方のシラムレン川流域を根拠地とした集団が「鮮卑」、南方のラオハ川流域に根拠地を置いた集団が「烏丸」と呼ばれるようになった。中国の正史では、狩猟・交易のほか、季節的農耕を行なっていた痕跡もあるとする。シャーマニズムを信仰し、初め、統一勢力はなく、非世襲の大人(たいじん)に統率されて、地域ごとに分立し、匈奴に服属していたが、後には、漢にも朝貢し、漢の匈奴抑制策の一翼を担い、両者に属するようになった。後漢末に至り、大人が世襲化し、蹋頓(とうとん)が柳城を拠点として大部分を統一する勢力を形成したが、河北を平定した魏の曹操によって壊滅させられた。その残った者たちは、多く鮮卑に従い、後、四世紀にかけて、鮮卑とともに中国内地に移入して農耕民化し、北魏以降は、漢民族と融合の度合いを深めていった(小学館「日本大百科全書」に拠った)。]

 又、「廣志」にいへるは、『梁禾、蔓生す【「いねの穗のやうにて、つる草なり」といふ也。】。其子(み)は、葵の子の如し。其米粉、白くして、麵の如し。饘粥(しらがゆ)に作べし。六月に種て、九月に收む。牛馬【一本に「馬」の字、なし。】、食ㇾ之、尤、肥。』といふ。これも亦、穀【穀草なり。】にて、東廧に似たるものなり【已上、李時珍が說なり。】

[やぶちゃん注:「廣子」底本も吉川弘文館随筆大成版も「廣子」「広子」。ちょっと考えりゃ前に出てるんだから、判るだろうに! 処置なしだね。訂した。]

『東廧の子は、甘く平らかにして、毒、なし。○主治は益ㇾ氣輕ㇾ身、久服不ㇾ饑、堅筋骨能步行【陳藏器が說なり。】。』と、いへり。

[やぶちゃん注:ここまでは、馬琴の言うように、「本草綱目」の巻二十三の「穀之二」にある「東廧」から引用・訓読して示している。「漢文リポジトリ」のここの、[061-16a]の影印画像を見られたい。]

 解、按ずるに、東廧は、元來、北狄の穀草なり。「大明一統志」に東轖に作るものは、轖と廧と同音なればなり。其苗は蓬草に似たりといへど、蓬は種類多き草なれば、いづれの蓬に似たるや詳ならず。按ずるに、「本綱」、「蓬草子」の註に、李時珍が云、『蓬に黃蓬草・飛蓬草あり。黃蓬草は湖澤の中に生ず【水草なり。】葉は菰蒲の如く、秋月に實を結びて穗を成すなり。餓る年には、人、その米を采て食ㇾ之。浸し洗ふて曝し、舂(つけ)ば、乃ち、苦澁ならず。又、「飛蓬草」は藜蒿の類にて、末は大きく、本は小さし。風にあへば、拔け易き草なる故に、「飛蓬」と號。子は灰藋菜子(あかざのみ)の如し。亦、荒を濟ふべしと、いへり。且、東廧の子は、穄子(もちきみ)の如しといひ、或は葵子の如しといへば、これも亦、一定ならず。畢竟、記者の、こゝろこゞろにて、譬を取るのおなじからぬのみ。東廧に二種あるにはあらず。いまだ此草を見ざれば、只、舊記のまゝにしるして、後の考をまち侍るなり。

 前書に、東廧は苜蓿の種類にもや侍らんと、まうせしは、ふかく考ざりし故なり。東廧と苜蓿は、おなじからず。「綱目」にも「東廧」は「穀の部」にあり、「苜蓿」は「菜疏の部」にあり。且、その草のかたちも、いたく異るものなり。

 「本綱」には、東廧を馬に飼ふて宜きよしを、いはず。只、東廧に似たる穀草の、牛馬に飼ふよしをのみ、いヘり。しかれども、東廧の主治を按ずるに、氣を益し、身をかろくし、筋骨を堅くして、よく步行すとあれば、馬にも、よろしきこと、疑ひなかるべし。

[やぶちゃん注:「飼ふ」馬に食用の秣(まぐさ:かいば)として与えるの意。]

「葉は蓬草に似たり、といふ。この「蓬」を「旱蓬」の事とすれば、かやうなるものにても可ㇾ有ㇾ之候。旱蓬、飛蓬、みな、唐黍に似たるものなり。

 昔年、苜蓿のよしにて、御在所へ御種被ㇾ成候は、旱蓬・靑科か。さらずば、東廧にて可ㇾ有ㇾ之候。旱蓬・靑科は、くはしく末に註し申候。」

[やぶちゃん注:「かやうなるものにても可ㇾ有ㇾ之候。」「御在所へ……」というのは、本篇がさる貴人のためにものした記事が元であることを示す。而して、「秣」で馬のことが出てくるところから、私は息子興継が医員をしていた馬好きの松前老侯、先代の第八代藩主松前道広が相手ではないかと踏んだ。最後にの方でそれが明らかになる。

「昔年」「そのかみ」と訓じておく。]

 

Tousyou

 

[やぶちゃん注:底本よりトリミング補正した。キャプションは、上が、

東廧

「子(み)は葵に似たり」といふ說に從がへば、かやうのものにても可ㇾ有ㇾ之哉。こゝに圖し候は、水あふひの實の形也。葵は此稃(みのかは)をわれば、内に[やぶちゃん注:ここに実の絵が挿入。]やうなる子の粒有ㇾ之候。

下が、

又、「子は穄子(もちきみのこ)の如し」といふ說に從へば、かやうのものにても可ㇾ有ㇾ之哉。但、實の稃は、葵の如く、内なる子粒は穄の子の如きか。未詳。

とある。キャプション部分の植字制限と、それにルビを植字するに、これ以上のポイントの極く小さい活字がないためであろう、「もちきみのこ」のルビが異様に上にまではみ出ているが、以上のように採った。最後に言っておくと、このキャプションから、判る通り、馬琴は漢籍に出る解説を無批判に和名のそれに相当させた上で、概ね、全くの想像からこの二図を描いていることに注意しなくてはならない。これは結果して馬琴の幻想植物図なのである。事実、先に示した、現在「」に同定比定されているAgriophyllum squarrosum とは、全く異なっている。

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