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2021/12/02

伽婢子卷之十一 易生契

 

[やぶちゃん注:かなり長く、回想の展開部がやや変則的な構造になっているため、そこでは、特異的に行空け・ダッシュ・リーダを用いた。挿絵(二枚)は、今回は底本の昭和二(一九二七)年刊の日本名著全集刊行會編になる同全集第一期「江戶文藝之部」第十巻「怪談名作集」のものをトリミング補正して、適切と思われる箇所に挿入した。]

 

    ○易生契(しやうをかへてちぎる)

 

 肥前の國松浦郡(まつらのこほり)松浦の里に、豐田(とよだの)孫吉といふ者あり。

[やぶちゃん注:「松浦の里」旧肥前国松浦(まつら)郡は現在の佐賀県と長崎県に跨った広域の古称。その郡域は当該ウィキの地図を見られたい。現在は郡や町は「まつうら」と読んでいる。現行では狭義には、佐賀県伊万里市松浦町(まつうらちょう)となるが、ここに限定する根拠はない。「新日本古典文学大系」版脚注でも、『「松浦の里」とは、佐賀県東松浦郡浜玉町で松浦潟に注ぐ玉島川(古称松浦川)』(現在は唐津市浜玉町。この附近。グーグル・マップ・データ。以下同じ)『や、同県唐津市で海に注ぐ松浦(まつうら)川流域』(玉島川の西方。この附近)『を指すか』とされる。]

 未だ若くして父母におくれ、妻もなくて、獨り住《すみ》けり。其家、貧しからず、いとけなき時より、耕作・商賣の營みをも、えさせず、元より、たゞ、ひとり子也ければ、親、こと更に、いとほしみて、儒學のかたはしに、心を傾け、講席(かうせき)にもつらなるを以て、所作(しよさ)とし、侍べらしむ。

 

Katiko1

 

[やぶちゃん注:二人の邂逅シーン。右手の娘の小袖の柄は蔦。下方中央にいるのは、犬か猫か区別がつかぬが(この絵では犬っぽいけれdど)、二枚目の挿絵の庭での仕草からは、猫であり、二枚ともに首輪をつけており、ぶち猫と断じてよい。本文には犬も猫も出てこないから、絵師に拘りがあったようである。右手上空に、夕方、巣に戻るのか、二羽の鳥が描かれている。或いは、絵師は、秘かに比翼鳥を匂わせたつもりだったのかも知れない。]

 

 或夕暮に、門に出て見ゐたれば、かたち、賤しからぬ女子《をなご》一人、南の方より、出來《いできた》る。年の程、十六、七と見ゆ。

 色よき小袖を重ねたるにはあらねど、姿かたちは、人に勝れて見ゆ。

 豐田、はしり出て、袖をひかへ、とかく語らひければ、女は岩木ならぬ身の、「いな」とはいはじ、「いな舟」の、さすがにかゝる浪枕、ならぶる袖を、かたしきつゝ、夜もすがら、語らひ、わりなく契りて、明方になりければ、名殘(なごり)盡きせず、女は、起き、別れて、歸りぬ。

 日、暮ければ、女、又、來れり。

[やぶちゃん注:「いな舟」「稻舟」。刈り取った稲を積んだ舟。歌語。

「浪枕」「新日本古典文学大系」版脚注に、『「稲舟」の縁語である「波枕」に「枕」を掛け、「枕並ぶる」「並ぶる袖」と続く』とあり、さらにその「袖」を「かたしきつつ」(「片敷く」は本来は、男女が共寝をする際に互いの衣服を敷き交わして寝たことに対して、自分の衣服だけを敷いて「独り寂しく寝る」の意であるが、ここは「片」=それぞれが敷いてともに寝ると転じたもの)となりゆくのである。

「みづから」今までにも何度も出た、自称の一人称代名詞。「新日本古典文学大系」版脚注には、『多く高貴な女性が使う』とある。]

 豐田、

「其の家は、いづくぞ。親は、誰(たれ)人ぞ。」

と問ふに、更に、さだかにも、答へず。

 强て、たずぬれば、

「みづから、常に褐色(かちいろ)の衣に、蔦(つた)の唐草、染《そめ》たる小袖なれば、『褐子(かちこ)』とも、『蔦子(つたこ)』とも、名をば、呼び給へかし。」

とて、打笑へば、豐田、

『扨は。これ、由(よし)ある家に召し使はるゝ女の、暮(ゆふ)な暮(ゆふ)な、ひそかに出《いで》て、來《きた》るならん。此事、もし、顯はれ侍べらば、ゆゝしき咎(とが)めも如何(いか)なるべしや。』

と思ひて、更にも尋ね認(とめ)ず。

[やぶちゃん注:「唐草」(専ら「唐」が使われるが、これは実は当て字で、「絡草(からみぐさ)」の略とされる)蔓草の蔓や葉が絡み合って延びている様子を図案化した模様。古くエジプトやメソポタミアに始まり、本邦にはシルク・ロードから中国を経て、伝わった。]

 いよいよ睦(むつま)しく、比翼連理の契り、あさからず。

 或夜、豐田、酒に醉(ゑ)ひて、戯(たはふ)れて、いふやう、

「有の儘に、其すみどころを、語り給はざらんには、心、まだ、とけず、とぞ思はん。我は、かくこそ、思ひ侍べれ。」

とて、

 手枕のうへにみだるゝ朝寢髮

   下には人のこゝろとけずも

と、いひければ、女、限りなく恨みたる氣色にて、かくぞ、返しける、

 手枕をかはすちぎりに下紐の

   とけずと君がむすぼゝれつゝ

「今は、何をか隱し侍らん。君と、みづからは、古へより、よく知る事、侍べり。然らずば、如何に、かく、情深く契り侍らむ。まことは、我は、今の世の人には、あらず。君がため、更にたぶろかし參らする者にも、侍べらず。宿世(すくせ)の緣(えん)、深き故ぞや。昔、この松浦の里に、大友左衞門佐(すけ)なにがしとて、ゆゝしき武勇の大名、おはしき。みづからは杵島郡(きしまのこほり)の者にて、よく、歌、うたひ、碁、うつ事を得て、人、更に、みずからに勝つ者、なし。此故に、十七歲のころ、召されて、左衞門佐殿に仕へ參らせ、朝な夕な、側(そば)を離れず、寵愛、淺からず。其時は、君、まだ、其家の小姓(こせう)にて、近く召使はれ給ひしに、容貌(かほかたち)うるはしかりければ、自(みづか)ら、思ひを懸け、心を通はし侍べり。かくて、自ら、餘りに堪へ兼つゝ、或日の暮方、燈火(ともしび)、未だ取らざる闇(くら)まぎれに、

 よそながら目には懸(かか)れど雨雲の

   へだつる中にふるなみだかな

と、かきて、君が袂に投入れしかば、其次の日の夕暮に、君、また、

 よそにのみ嶺の白雲きへかへり

   たえずこゝろにふるなみだ哉

と、かきて、自らが袖に投入給ひしより、年も同じ年、所も同じ所に、人目を中の關守になして、互に、心ばかりを思ひ通はせ共、家の内外、嚴しき掟の、つらさのみ、恨みられて、契るべき便りも、なし。後に、傍輩の童に(わらは)、此《この》心ざしを顯はされ、左衞門佐殿に讒(ざん)せられしかば、則ち、大に怒りて、君と我と、高手(たかて)の繩をかけ、松浦川のはたに引出し、首(くび)を刎られ侍べり。君は今、已に、又、人間に生れ給ひ、みづからは、それより此方(かた)、猶、今までも、冥土(めいど)にあり。思ひひそめたる心の末、百餘年の後も朽ちず、空しき靈(たま)の現はれ來て、割りなき契を結ぶなり。昔を思へば、今も悲しき憂目(うきめ)見たりける事の、いとど、つらさは、勝るぞや。」

とて、淚を流す事、雨の如し。

[やぶちゃん注:「手枕のうへにみだるゝ朝寢髮下には人のこゝろとけずも」「新日本古典文学大系」版脚注によれば、山科言緒(ときお 天正五(一五七七)年~元和六(一六二〇)年:公家)編の歌学書(部立アンソロジー)「和歌題林愚抄」(安土桃山から江戸前期の成立)「恋一」の「乍臥無実恋」の西住法師(俗名は源季正(或いは季政)。西行の弟子)の一首(引用は「千載和歌集」の恋二)を参考にしたらしい注が出る。早稲田大学図書館「古典総合データベース」のこちらで後代の再板(寛政四(一七九二)板)であるが、原本に当たるが出来た。ここの「7」が「戀」の巻で、その全巻(PDF)だと、「20」コマ目の左頁の終わり(「戀一」の終り)から三行目である。起こす。

   *

 手枕のうへにみたるあさねかみしたにとけすと人はしらしな

   *

本編のインスパイアと比較するために整序すると、

   *

 手枕の上に亂るる朝寢髮(あさねがみ)下に解けずと人は知らじな

   *

である。了意の改変の方が妙なひねりがなくて、すんなり腑に落ちる。

「手枕をかはすちぎりに下紐のとけずと君がむすぼゝれつゝ」同じく「新日本古典文学大系」版脚注では、やはり「和歌題林愚抄」の「恋一」の「来不遇恋」の藤原道経(康平三(一〇六〇)年頃~?:平安後期の歌人。藤原顕綱の子。長治元(一一〇四)年から保延四(一一三八)年にかけて、多くの歌合に参加した。「藤原忠通家歌合」の主要歌人の一人。保延四年以後に出家し、その数年後に八十歳近くで没したとされる)の一首(引用は「続拾遺和歌集」)を類歌として挙げる。同前で、当該巻(PDF)の「20」コマ目の右頁の最終行である。起こす。

   *

 手枕をかはす斗のちきりにもなおとけかたきよはのした紐

   *

整序すると、

   *

 手枕を交はすばかりの契りにも猶(な)ほ解けがたき夜半(よは)の下紐(したひも)

   *

「たぶろかし」「誑(たぶら)かす」の訛ったもの。騙(だま)す。

「大友左衞門佐」不詳。「大友」と言えば、戦国時代の北九州東部を平定し、安土桃山時代まで生きた大友義鎮(よししげ)/宗麟(享禄三(一五三〇)年~天正一五(一五八七)年)がいるが、彼を真正モデルとしてしまうと、話柄内時制が本書全体の時代設定の下限を遙かにはみ出てしまうことになるので、あり得ない。大友宗麟から単に名を用いただけのことか。

「杵島郡(きしまのこほり)」「新日本古典文学大系」版脚注に、『肥前国。佐賀県南西部の杵島郡白石町』(しろいしちょう)・『江北町』(こうほくまち)・『有明町』(現在は合併して先の杵島郡白石町となった)『等の地域。有明海に面した水田地帯』とある。有明海湾奥の北西部。ここ

「よそながら目には懸(かか)れど雨雲のへだつる中にふるなみだかな」「新日本古典文学大系」版脚注では、やはり「和歌題林愚抄」の「恋一」の「見恋」の前内大臣公忠(南北朝時代の三条公忠(元亨四(一三二四)年~永徳三/弘和三(一三八四)年)の一首(引用は「永徳御百首」)を類歌として挙げる。同前で、当該巻(PDF)の「12」コマ目の右頁の二行目である。起こす。

   *

 よそなからめにはかゝれとあま雲のへたつる中にゆく月日かな

   *

整序すると、

   *

 よそながら目にはかかれど雨雲隔つる中に行く月日かな

   *

了意の改変に軍配。

「よそにのみ嶺の白雲きへかへりたえずこゝろにふるなみだ哉」新日本古典文学大系」版脚注では、やはり「和歌題林愚抄」の「恋一」の「見恋」の十楽院宮の一首(引用は「永徳御百首」)を類歌として挙げる。同前で、当該巻(PDF)の「12」コマ目の右頁の四行目である。起こす。

   *

 よそにのみ峯の白雲きえかへりたへす心になにかゝるらん

   *

整序すると、

   *

 よそながら峯の白雲消え返り絕えず心に何掛かるらん

   *

了意の改変は男の返歌としては、よく出来ている。

「高手(たかて)の繩」「高手小手」(たかてこて)。「小手」は手首から肘(ひじ)までを指す語。両手を背の後ろに回し、首から肘・手首にかけて、厳重に縛り上げること。]

 豐田、此事を聞《きく》に、又、悲しさ、限りなし。

 されば、

「今、是を聞くに、まことに二世の緣なれば、ますます、わり無く語らひて、昔の思ひを、はらさん。誰《たれ》をか忍びて、暮(ゆふべ)にこし、朝(あした)に歸らん。只、是れに住《すみ》て、もろ友《とも》に夫婦とならん。」

とて、豐田が家に留(とど)めて、猶、睦しき、なからひ也。

 幽靈とは見ながら、宿世(すくせ)の緣、わりなくて、恐ろしとも、思ひ侍べらず。

 豐田は、更に、碁、うつ事、知らざりしに、女、ことごとく、其の祕妙(ひめう)を敎へしかば、此比(《この》ころ)、あたりに名を得し者、豐田にむかひて、碁に敵する人、なし。

 女、つねづねは、左衞門佐の事を語る。

 

――……まのあたり、今、見るやうに覺えたり。……左衞門佐、或時、女房達を召つれて、川の邊(ほとり)に遊びし所に、うるはしき男、二人、きらびやかに出たち、川の向ひを、遙《はるか》に行過《ゆきすぐ》る。

 女房達の中に、一人、云ふやう、

「男ならば、是れ程、美(うる)はしきをぞ、我が思ふ人とも、思はまし物を。」

といふ。

 左衞門佐、聞て、

「此男の妻と、成らまほしきか。」

と云ふ。

 其の女房、打ち笑ひ、顏、赤めて、物も、いはず。

 暫くありて、新しき桶に、蓋覆(ふたおほ)ひして、女房達の中に、出《いだ》す。

「是れ、先の男の許に、遣すべき祝ひの物。見よ。」

と、あり。

 開きて見れば、男をほめし女房の首(くび)、打ち切《きり》て、見せ侍べり。

 女房達、手足、ふるひ、目、くらみて、絕入《たえい》りけるも、多かりし。

……又、或時、鹽燒く浦に仰せて、私(わたくし)には售(うら)せず、我が領分の鹽を、皆、下直(げぢき)に買ひ取り、京方の商人に賣りけるを、何者か、したりけむ、左衞門佐の門に、落書(らくしよ)しける、

 さなきだに辛きおきめを左衞門が

   國の鹽やきにがりはてけり

左衞門、是れを聞て、

「いかさまにも。鹽燒どもの所爲(しわざ)なるべし。」

とて、鹽燒司(つかさ)三人を捕へて、濱おもてに礫(はりつけ)に懸けたり。

……又、年每(ごと)の春になれば、錢米《せんまい》を出し、國中の民百姓に借(か)し渡し、身上《しんしやう》宜しき者には、殊更に、多く借して、秋に至りて、大分の利を掛けて、元にそへて、取歸す。もし、返すべき力なき者は、其所の有德(うとく)人にかけて、辨(わきま)へさせ、或は、妻子を他所に售(うり)つかはし、資材・家屋敷、みな、沽却(こきやく)せしめ、年年《としどし》に、虐(はた)り、取りもぎとる故に、國中、大に衰微に及べり。何者か、詠みたりけむ、

 無理にかす利錢(りせん)の米の數よりも

   こぼす淚はいとゞおほとも

左衞門佐、是を聞て、

「賤しき百姓共は、是れ程の事も、よも、つらねまじ。有德人(うとく《じん》)ばらの所爲(しわざ)にこそ。」

とて、城下に住みける有德人、十餘人、闕所(けつしよ)して追出し、其の財寶ども、皆、奪ひとりぬ。

……或時、左衞門佐、父の年忌にあたり、國中の僧を集めて齋(とき)を行ひしに、一人の僧、遲く來れり。破れたる袈裟かけて、衣、甚だ、古し。

 諸人、あなづりて、奧にも請(しやう)せず、門の傍(かたはら)に居(すゑ)て、齋を食はせたれば、齋、過《すぎ》て、其鉢を、膳の上に覆(うつぶけ)て、彼僧は、去(いに)けり。

 跡にて、鉢を取上げんとするに、少も、動かず。

 諸人、奇特(きどく)の事に思ひて、集まりて、

「えいや、えいや。」

と引動かせ共、太山《たいざん》の如くに重くして、上らず。

 左衞門佐に、

「かく。」

といふに、自ら行て、これを上げられしかば、輕くあがりて、其下に、哥、二首、あり、

 花ちりて梢につけるくだ物の

   今幾(いく)かありて落ちんとすらむ

 我人につらき恨みをおほ友の

   家の風こそ吹きよはりけれ

 左衞門佐、これを見るに、驚く心もなく、いよいよ、國民をむさぼり、人を殺す事、草を薙(なぐ)かとも思はず、恣(ほしいまま)に惡行を致せしかば、それより、二年を待たずして、禍(わざはひ)、來り、身を失ひ、家を亡ぼしぬ。……――

 

……何事も、皆、天道より定まる事と云ひながら、法(ほふ)[やぶちゃん注:仏法。]に過《すぎ》たる科(とが)を犯せば、禍ひ、必ず、近く來《きた》る。然(さ)れば、みづから、昔の心ざしにひかれて、今、かく、契りを、なし侍べり。今より、一年にして、迷塗(めいど)の暇(いとま)、すでに、きはまるべし。」

と語りしが、月日程なく「くれ羽鳥」、あやなく過ぐる光陰、はや、一とせに、なりにけり。

[やぶちゃん注:「私(わたくし)には售(うら)せず」「新日本古典文学大系」版脚注に、『中世期』の『京都・奈良では既に塩座(しおざ)が設置され、汐の専売権を掌握し』ていたとある。

「下直(げぢき)」安値。

「さなぎだに辛きおきめを左衞門が國の鹽やきにがりはてけり」「辛き」「おきめ」は塩の縁語。「おきめ」は「沖布」(おきめ)で、「沖で穫れる海藻」を指し、所謂、「藻塩」(焼き)と強く連関する。ここでは、さらに「置目」(おきめ)で、「掟書」(おきてがき:主に中世後期から用いられた、幕府や領主が公布した「法度(はっと)」の一形式。元来は限られた集団・階層の中の取決め・仕来たりなどを記すものであったが、室町以降、法の発布者が、従来は規制の対象とされていた在地領主・土豪層にも広がると、その公布する法の形式として採用され、次第に法令と同様の意味を持った。室町幕府発布の「徳政令」などは幕府奉行人連署の下知状形式、その他は下文形式など、さまざまな形式をとるが、はじめに「掟」「御掟」「掟事」「定」「定申」などの語を記し、次いで法令の条文が「事(こと)」書きで記されるのが通例とされた)に掛けてある。下句では「塩焼き」の職人らの「苦り」切った顔と、塩の「ニガリ」が掛けてある。狂歌としては文字通り辛辣で、よく出来ている。

「鹽燒司(つかさ)」造塩業者の頭(かしら)。

「錢米《せんまい》」「新日本古典文学大系」版脚注に、『銭と米。ここでは、領主自らが年貢などのために貸しつけたもの』とある。

「身上《しんしやう》宜しき者」暮らし向きのよい者。

「有德(うとく)人にかけて」裕福な者に課税して。

「辨(わきま)へさせ」「新日本古典文学大系」版脚注には、『「ワキマユル 本人が支払い得ないものを他人が弁済する」(日葡)』とある。強制的な不当な連帯責任を負わせているのである。

「虐(はた)り」「はたる」(徴る・債る)とは、「請求する・強く求める・取り立てる・徴収する」の意。

「無理にかす利錢(りせん)の米の數よりもこぼす淚はいとゞおほとも」「おほとも」は「多(い)とも」と悪逆の領主の姓「大友」に掛けた皮肉。

左衞門佐、是を聞て、

「ばら」「輩・原・儕」で、人を表す語に付いて、複数の意を表わす接尾語。「殿ばら」などを除けば、多くは、同輩以下に対して敬意を欠いた表現として用いられる。

「闕所(けつしよ)」中世に於いて、「所領・諸職を没収すること」を言う。

「齋(とき)」ここは法要に際して僧侶に食事を供することを指す。

を行ひしに、一人の僧、遲く來れり。破れたる袈裟かけて、衣、甚だ、古し。

「あなづりて」「侮(あなど)りて」の古い言い方。

「太山《たいざん》」山東省中部にある中国五岳の一つである名山泰山(標高千五百二十四メートル。「太山」「岱山」とも書く)を指すが、ここは一般名詞で「高く大きな山」の意。

「花ちりて梢につけるくだ物の今幾(いく)かありて落ちんとすらむ」「新日本古典文学大系」版脚注によれば、本話の原拠である「剪燈新話」の「四」の「五」の「綠衣人傳」にある『詩句を狂歌に翻案したもの』とする。原拠考証はしない約束なので、これ以上は注さない。

「我人につらき恨みをおほ友の家の風こそ吹きよはりけれ」「新日本古典文学大系」版では、「我」に『われ』、「人」に『ひと』と編者ルビが振られてあり、通釈では『皆』(この場合、「自他」であるが、自分を除いたでないとおかしいが、結局、それが最後に致命的な禍いとして降りかかってくるわけで、仏教的には自他と区別すル必要はないのでいいか)とある。「おほ」は「大友」に「多(おほ)」を掛けているのは言うまでもない。「風」は「かぜ」と訓じていよう。「家風」で、ここでは「権門家の威勢」の意。

 左衞門佐、これを見るに、驚く心もなく、いよいよ、國民をむさぼり、人を殺す事、草を薙(なぐ)かとも思はず、恣(ほしいまま)に惡行を致せしかば、それより、二年を待たずして、禍(わざはひ)、來り、身を失ひ、家を亡ぼしぬ。……――

「くれ羽鳥」「新日本古典文学大系」版では、『くれはどり』で、注では、『呉織。呉の国から伝来した職工や織物』とし、『「暮れ」の意で月日から続き、織物に綾があることや漢織(あやはどり)の併称から「あや」に掛かる』とある。辞書に枕詞とし、美しい綾のあるところから、「あや」「あやに」「あやし」に掛かる、とある。]

 

Katiko2

 [やぶちゃん注:二人の離別のシーン。ともに泣いている。但し、本文にはこうした位置関係でのシーンは描かれていない。猫は伏せているというより、ともに別れを惜しんで臥せっているようにも見える。]

 

 女、心地、煩ひければ、醫師(くすし)を賴み、藥を與ふれども、飮まずして、豐田が手をとりて、

「昔の語らひ、君と、緣、深く、夫婦の情(なさけ)は、こゝにして、盡き侍べり。自ら、幽冥陰氣(ゆうみやういんき)の形(かたち)を現はし、君に契り參らせ、いとほしみの恩を、受けたり。思へば、昔、一念の愛執(あいしう)を起して、思はざる外の禍ひに、おち入りたり。たとひ、なんぢは干潟(ひがた)となり、岩(いはほ)は、湯(ゆ)に沸(わ)くとも、此の恨みは、更に、消(けし)がたし。天、傾(かたふ)き、地、崩(くづ)るとも、此情(なさけ)は、忘れじ。今、已に、宿世のよしみを續けて、後の世の緣を契る。是より、我は、黃泉(よみぢ)に歸るべし。其のかみ、殺されてより、百餘年、此たび、重ねて契る事、一年、久くして、又、逢《あひ》奉れり。思ひの雲は、はれゆきたり。更に、戀《こひ》、悲しみ給ふな。」

とて、打ちなきけるを、豐田は、淚の中より、

「今、暫し、留(とどま)り給へ。飽かぬ別れに後《おく》れて、殘る身を、いかにとか、思ひ給はん。」

と云へば、女、なくなく、

 名ごりをも惜しまでいそぐ心こそ

   別れにまさるつらさ成りけれ

と、詠じて、壁に向ふて、臥しけるを、

「いかに、いかに。」

と呼べども、呼べども、はや、事切れ果てゝ、空しき「から」のみ、床に殘れり。

 豐田、悶え焦(こが)れ、泣き悲しめども、甲斐、なし。

 床に空しき衣をとりて、

 移り香になにしみにけん小夜衣(さよごろも)

   忘れぬつまと思ひしものを

 さて、棺(くわん)に納め、野邊に送くらんとするに、棺、甚だ、輕(かろ)かりければ、開きて見るに、只、衣のみ、殘りて、尸(かばね)は、なし。

 空しき棺を、寺に埋(うづ)み、佛事、いとなみ、懇ろに、跡、弔(とふら)ひ、二たび、妻を求めず。

 出家して、四國・九國を巡り、それより、唐土(もろこし)の商人舟に便船して、入唐(につたう)しつゝ、その終はる所を、知らず。

[やぶちゃん注:「たとひ、なんぢは干潟(ひがた)となり、岩(いはほ)は、湯(ゆ)に沸(わ)くとも」私は『なんだか、変わった喩えだなあ?』と思ったが、「新日本古典文学大系」版脚注に、原拠の『原話に「海枯レ石爛ルトモ」』とあるとされ、『「なんぢ(汝)」は草書体の類似から「海」を読み誤ったものか』とあって、納得した。なお、ここは続く以下の台詞から、「長恨歌」のコーダを確信犯で意識した形をとっている。

「殺されてより、百餘年」先に時代が下るのが問題だと私が言ったのは、この表現に基づく。

「名ごりをも惜しまでいそぐ心こそ別れにまさるつらさ成りけれ」同じく「和歌題林愚抄」の「恋二」の「恨別恋」の二条(藤原)為世(建長二(一二五〇)年~延元三/暦応(一三三八)年:鎌倉末期の歌人。藤原為氏の嫡子で為家の孫。彼に始まる二条家の平淡美を重んじる歌風は、中世全期を通じ、歌壇の主流となった。頓阿や吉田兼好らも門人であった)の一首(引用は「元亨後宇多十首」)を元歌として挙げる。同前で、当該巻(PDF)の「24」コマ目の右頁の十一行目。起こす。

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 なこりをもおしまていそく心こそわかれにまさるつらさ成けれ

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「から」ここは単なる骸(むころ)・亡骸(なきがら)の意。

「移り香になにしみにけん小夜衣(さよごろも)忘れぬつまと思ひしものを」同前で、「和歌題林愚抄」の「恋二」の「移香増恋」の権中納言経房(建長二(一二五〇)年~延元三/暦応(一三三八)年:鎌倉末期の歌人。藤原為氏の嫡子で為家の孫。彼に始まる二条家の平淡美を重んじる歌風は、中世全期を通じ、歌壇の主流となった。頓阿や吉田兼好らも門人であった)の一首(引用は「千載和歌集」の「恋四」)を類歌として挙げる。同前で、当該巻(PDF)の「25」コマ目の右頁の八行目。起こす。

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 うつりかになにしみにけんさよ衣わすれぬつまと成(なり)にし物を

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「つま」は「衣」の縁語で「褄」、さらに「妻」を掛けた。

「唐土(もろこし)の商人舟に便船して、入唐(につたう)し」「新日本古典文学大系」版脚注では、ここで、本話の今一つの当地ロケーションの伝承を示して(冒頭注でも出ている)、『入唐については、古代からの松浦佐用姫伝承の影響があるか』と注されておられる。佐用姫については、「宗祇諸國物語 附やぶちゃん注 無足の蛇 七手の蛸」の私の「松原姫(まつらひめ)」の注を参照されたい。]

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