「南方隨筆」版 南方熊楠「牛王の名義と烏の俗信」 オリジナル注附 「二」の(2)
扨鴉や烏が膽勇に富めるは、和漢三才圖會烏の條に、其肉味酸鹹臭、人不食、故常人不恐人、不屑鷹鷂、而恣園圃果蓏穀實、竊人家所晒魚肉餅糕等、噉郊野屍肉、是貪惡之甚者也[やぶちゃん注:私の「和漢三才圖會第四十三 林禽類 慈烏(からす) (ハシボソガラス)」を参照されたい。当該部を含む原文総てと、訓読及び私のオリジナル注を附してある。]と讀むと、人が忌んで殺さぬ故不敵に成つた樣だが、ワラスの著ダーヰニズムに云つた通り、氷雪斷えぬ所に住む鳥は、多くは肉食動物に見露されぬ樣に其體が氷雪同樣白い。然るに烏だけは常に進んで他の動物を侵すのだから、卑怯千萬な擬似色を要せず、且つ群棲するもの故色が黑いと氷雪の白いに對照して反つて友を集むるに便有るのだ。烏が本來大膽なので、決して人が忌んで殺さぬ故大膽に成つたので無い。烏が明敏にして黠智[やぶちゃん注:「かつち(かっち)」。「猾智(くわつち)」に同じ。悪がしこい知恵。悪知恵。]なるは禽經に烏の烏之巨嘴者善避矰弋彈射[やぶちゃん注:「巨嘴(きよし)なるは、善く矰弋(そうよく)・彈射を避く」。「矰」・「弋」ともに狩猟用具の一つ。矢に糸や網を付けて射ち、鳥や魚に絡ませて捕る仕掛けを言う。本邦では「射包(いくる)み」と呼ぶ。「彈射」は矢などを弾いて射ること。]。Tennent, “Sketches of the Natural History of Ceylonm” 1861, pp. 254-5 に、錫蘭(せいろん)の烏が籃の蓋を留置いた栓を拔いて其中を覗いたり、人が肉を切ると、油斷するところへ付け入つて、其血塗れな庖丁を奪うたり、殊に椿事なは、犬が骨を嚙むを奪はん迚、一羽の烏が其前に下りて奇態に踊り廻れども犬油斷せぬ故、暫く飛去つて棒組一羽連れ來り二人して踊れども效無し、其時後で來た烏一計を案じ出し、一たび空中に飛騰つて忽ち直下し、其嘴の全力を竭して[やぶちゃん注:「つくして」。]太く[やぶちゃん注:「いたく」。]犬の背を啄く。犬仰天して振向く處を、最初より居つた烏輙(たやす)く[やぶちゃん注:底本では「轍」だが、特異的に私が訂した。]彼が食ひ居つた骨を奪つた等の諸例を出し居る。Romanes, “Animal Intelligence,” 1881 にも、烏の狡智非常な例を陳べ有る。斯程智慧有る者故、上に引いた野狐が烏を智慧最第一と讃(ほ)めた印度譚や、母に叱り出された少女が情夫に急を報げんと烏に助を乞う辭に、「智慧の烏よ、鳥中の最[やぶちゃん注:「いと」。]賢き者よ」と言つたエストニア誕[やぶちゃん注:「たん」。「譚」に同じ。]がある(Kirby,“The Hero of Esthonia,” 1895, vol. i. p. 215)。Southey,“Common-Place Book,” ed. Warter, 1876, 3rd Seris, p. 638 に、英國で烏群地に小孔を喙き開け檞[やぶちゃん注:「かしわ」。]の實を埋めながら前進するを見たが後日烏が巢を架けるに足る密林と成つたと記す。眉唾な樣な咄だが、米國に穀を蒔いて收穫する蟻有り、又檞の實を大木の幹に自ら穿つた孔に塡め置き、後日實の中に生じた蟲(むし)を食ふ用意とする啄木鳥もあるというから丸啌(うそ)でも無からう。烏は朝早く起き捷く[やぶちゃん注:「すばやく」。]飛んで諸方に之き、暮に栖(すみか)に歸るから、世間雜多の事を見聞すてふ處から言つた物か、古スカンヂナヴヰアの大神オヂンの肩に留まる鴉二つ、一は考思(かんがへ)、一は記憶(おぼえ)と名く。大神每朝之を放てば世界を廻り歸つて悉皆の報告す。大神由つて洽く[やぶちゃん注:「あまねく」。]天下の事を知る故に鴉神の名有りと(Collin de Plancy, “Dictionnaire infernal,” Bruxelles, 1845, p.347)。斯く烏は飛ぶ事捷く世間を廣く知るてふより、所謂往を推して來を知る力有りとせられ、古希臘では、烏をアポロ神豫言の標識とし(“Encyclopaedia Britannnica,” 11th ed., vol. ii. Art “Apollo”)、支那でも、本草集解に古有鴉經、以占吉凶、然北人喜鴉惡鵲、南人喜鵲惡鴉、惟師曠(禽經)以白項者(乃ち燕烏)爲不祥近之[やぶちゃん注:「古へ、「鴉經」あり、以つて吉凶を占ふ。然(しか)も、北人は、鴉を喜び、鵲(かささぎ)を惡み、南人は、鵲を喜び、鴉を惡む。惟(た)だ、師曠(「禽經」)は、白き項(うなじ)なる者(乃(すなは)ち燕烏[やぶちゃん注:『「二」の(1)』で私が同定したクビワガラス。])をもつて不祥となし、これに近づかず」。]。酉陽雜俎に、世有傳陰陽局鴉經、謂東方朔所著、大略先數其聲、卽是甲聲、以十干數之、辨其急緩、以定吉凶[やぶちゃん注:「世に「陰陽局鴉經」を傳ふる有り。東方朔の著はす所と謂へり。大略は、先づ其の聲を數へ、卽ち、是れ、甲の聲ならば、十干を以つて之れを數へ、其の急緩を辨じ、以つて吉凶を定む」。]。日本でも烏鳴きは必しも皆凶ならず、例せば、巳の時は女に依つて口舌有り、卯の時は財を得、午の時は得財吉、又口舌[やぶちゃん注:「財を得ること、吉、又、口舌あり。」。]猶委細は二中歷第九を覽なさい[やぶちゃん注:「みなさい」。]。錫蘭では烏は常に家邊に在る物なればとて、今日も其行動鳴聲から棲つた樹の種類迄考へ合せて吉凶を占ふ(Tennent 上に引いた處)。又烏は善く方角を知る故、人が知らぬ地へ往く嚮導や遠地へ遣る使者とした例が多い。酉陽雜俎に、烏地上に鳴けば凶く[やぶちゃん注:「あしく」。]、人行くに臨み烏が鳴いて前引すれば喜多しと有り。八咫烏が神武帝の軍勢を導きし事日本紀に見え、古希臘テーラの貴人バツトスが未知の地に安着して殖民し得たのも實に鴉の案内に憑つたので、鴉の義に基いて其地をキレーネーと命じた(Cox, “An Introduction to Folk-Lore,” 1895, p.104)。但し宣室志には軍出るに鳶や烏が後に隨ふは敗亡の徵と有る。ヘブリウの古傳にノア大洪水に漂(たゞよ)うた時、三つの鳥を放つに三度目の鴉が陸地を見出した。三つの鳥は鴉(からす)鴿(いへばと)鴿(はと)と云ふのと鴿燕鴉と云ふのと二說有るが、チエーンは鴉が最後に陸を發見した說を正とした。北米土人の話にも似た事があれど、鴉の代りに他の鳥としておる(“Encyclopaedia Britannica,” vol.vii, p.978)。又那威[やぶちゃん注:「ノルウェー」。]のフロキ氷州(アイスランド)に航せんと出立の際、三羽の鴉を諸神に捧げ、遠く海に浮んで先づ一羽を放つと元來し方へ飛往くを見て、前途猶遙かなりと知り、進行中又一羽を放つと空を飛び廻つて船に戾つたので、鳥も通わぬ絕海に有りと了(さと)つた。三度目に飛ばした奴が仔細構はず前進す。其を蹤(あとつ)けて船を進めて到頭氷州の東濱に著いたと云ふが、其頃那威にはオヂン大神の使物たる鴉を特別に訓練して神物とし、航海中陸地の遠近を驗す[やぶちゃん注:「ためす」。]に用ひたらしい(Mallet, “Northern Antiquties,” in “Bohn's Library,” 1847, p.188)。是に同軌の例、長阿含經十六、商人、臂鷹入海、於海中放、使彼鷹飛空、東西南北、若得陸地、便卽停止、若無陸地、更還歸船。[やぶちゃん注:「大蔵経テキストデータベース」で同経の当該部を確認したところ、「還」が脱落していることが判ったので挿入した。「商人、鷹を臂(ひぢ)にして海に入り、海中(うみなか)に於いて放つ。彼(か)の鷹をして、空を飛ばし、東西南北せしむ。若(も)し、陸地を得れば、則卽(すなは[やぶちゃん注:二字でかく訓じておく。])ち、停止し、若し、陸地無ければ、更に船に還歸(かへ[やぶちゃん注:同前。])る」。]。經律異相廿六には、大富人が海邊に茂林を作り烏多く栖む。其烏、朝每に飛んで遠隔の海渚に往き、明月の珠を噉ひ暮に必ず還る。件の長者謀つて百味の食を烏に與ふると、烏飽き滿ちて珠を吐出すこと夥し。長者之を得て大富と成つたと載す。奈女耆域因緣經に、耆婆[やぶちゃん注:「ぎば」。]が勝光王に殺さるゝを免れんとて、日行八千里の象に乘つて逃げるを神足能く其象に追付くべき勇士して逐はしむる、其士の名は烏と有る。是れ印度で烏を捷く飛ぶ事他鳥に超ゆとしたのだ。續群書類從の嚴島御本地に、五色の烏が戀の使して六年懸かる路を八十五日で往著く事有り。古英國のオスワルド尊者の使者も烏だつた(Gubernatis, vol.ii, p. 257)。
[やぶちゃん注:冒頭、改行されているのに、字下げがない。誤植と断じ、一字空けた。
「ワラスの著ダーヰニズム」ダーウィンと別に独自に自然選択を発見した優れたイギリスの博物学者で進化論者であったアルフレッド・ラッセル・ウォレス(Alfred Russel Wallace 一八二三年~一九一三年)が、一八八九年に発表したDarwinism: An Exposition of the Theory of Natural Selection, with Some of Its Applications (「ダーウィニズム:自然淘汰の理論の解説とその幾つかの適用例」)。
「禽經」春秋時代の師曠(しこう)の撰になるとされる鳥獣事典であるが、偽書と推定されている。全七巻。
「Tennent, “Sketches of the Natural History of Ceylonm” 1861, pp. 254-5」イギリスの植民地管理者で政治家であったジェームズ・エマーソン・テナント(James Emerson Tennent 一八〇四年~一八六九年)のセイロンの自然史誌。「Internet archive」のこちらで、原本の以下の当該箇所が視認出来る。
「Romanes, “Animal Intelligence,” 1881」「動物の知恵」は、カナダ生まれのイギリスの進化生物学者で生理学者であったジョージ・ジョン・ロマネス(George John Romanes 一八四八年~一八九四年)が一八八一年に刊行したもの。彼及び本書については、「生物學講話 丘淺次郎 附錄 生物學に關する外國書」の本文及び私の「ロマーネス」の注を参照されたい。
「Kirby,“The Hero of Esthonia,” 」イギリスの昆虫学者でフィンランドの民族叙事詩カレワラや北欧の神話・民話の翻訳紹介も行ったウィリアム・フォーセル・カービー(William Forsell Kirby 一八四四年~一九一二年)の同年出版の著作。「エストニア」はバルト三国では最も北にある現在のエストニア共和国(グーグル・マップ・データ)。当該ウィキによれば、『現在のエストニアの地に元々居住していたエストニア族(ウラル語族)と、外から来た東スラヴ人、ノルマン人などとの混血の過程を経て』、十『世紀までには現在のエストニア民族が形成されていった』。十三『世紀以降、デンマークとドイツ騎士団がこの地に進出して以降、エストニアはその影響力を得て、タリンがハンザ同盟に加盟し』、『海上交易で栄えた』。但し、『その後もスウェーデン、ロシア帝国と外国勢力に支配されてきた』とある。
「Southey,“Common-Place Book,” ed. Warter, 1876, 3rd Seris, p. 638」イギリスの、ロマン派の桂冠詩人にして「湖畔詩人」の一人であったロバート・サウジー(Robert Southey 一七七四年~一八四三年)の死後に纏められた著作集。「Internet archive」のこちらで、原本の以下の当該箇所が視認出来る。冒頭に「97」とあるのがそれだ。ローズ(薔薇)城で二十五年前に目撃した語りから始まっている。
「檞」原文ではオーク(oak)。
「大神オヂン」北欧神話の主神にして戦争と死の神。北欧神話の原典に主に用いられている古ノルド語での表記は「Óðinn」で音写すると「オージン」に近い。一般に知られる「オーディン」は現代英語などへの転写形である「Odin」が元である。詩文の神でもあり、吟遊詩人のパトロンでもある。魔術に長け、知識に対しては非常に貪欲な神であり、自らの目や命を代償に差し出すこともあった。その名は「oðr」(狂った・激怒した)と「-inn」(「~の主」)からなり、語源的には「狂気、激怒(した者)の主人」を意味すると考えられている。しかし、こうした狂気や激怒が、シャーマンのトランス状態を指していると考えれば「シャーマンの主人」という解釈可能であるという。参照した当該ウィキによれば、『愛馬は八本足のスレイプニール』で、『フギン(=思考)』と『ムニン(=記憶)という二羽のワタリガラスを世界中に飛ばし、二羽が持ち帰るさまざまな情報を得ているという。また、足元にはゲリとフレキ(貪欲なもの』『)という』二『匹の狼がおり、オーディンは』、『自分の食事は』、『これらの狼にやって』、『自分は葡萄酒だけを飲んで生きているという』とあった。
「Collin de Plancy, “Dictionnaire infernal,” Bruxelles, 1845, p.347」コラン・ド・プランシー(J. Collin de Plancy 一七九四年或いは一七九三年~一八八一年或いは一八八七年)はフランスの文筆家。当該書は「地獄の辞典」で、悪魔・オカルト・占い・迷信・俗信及びそれらに関連した人物のエピソードなどを集めた辞書形式の書籍。一八一八年に初版が発行されている。
「烏をアポロ神豫言の標識とし」これとは違うが、アポロンとカラスの神話上の関係については、chimaltovさんのブログ「ギリシャ神話あれこれ」の「カラスの失着」には、狡猾な使者でよく嘘をつき、遂には黒い羽と嗄れ声に変えられてしまったとあり、その理由が判り易く書かれている。
「本草集解」時珍の「本草綱目」の巻四十九の「禽之三」の「烏鴉」の「集解」(産地等についての注記解釈)。「漢籍リポジトリ」のこちらの[114-10b]の画像と電子化を参照されたい。なお、以下については、「和漢三才圖會第四十三 林禽類 慈烏(からす) (ハシボソガラス)」の「北人は鴉を喜びて、鵲〔(かささぎ)〕を惡〔(にく)〕む。南人は、鵲を喜びて、鴉を惡む」の私の注も参照されたい。「鵲」はスズメ目カラス科カササギ属カササギ亜種カササギ Pica pica sericea。
「酉陽雜俎に、世有傳陰陽局鴉經……」不審。「酉陽雜俎」にはこの記載は見当たらない。「維基文庫」の「古今圖書集成」を調べたところ、「禽異部雜錄」の「容齋續筆」からの引用の最後に、「世有傳陰陽局鴉經。謂東方朔所著。大略言凡占烏之鳴。先數其聲。然後定其方位。假如甲日一聲、卽是甲聲。第二聲爲乙聲、以十干數之、乃辨其急緩、以定吉凶。葢不專於一說也。」とあった。「容齋續筆」は南宋の政治家で儒学者の洪邁(一一二三年~一二〇二年)の考証随筆。まず「容斎随筆」が一一八〇年に公刊されたが、時の孝宗が、その議論の内容が優れていることから、賞賛した。「続筆」は一一九三年で、後に「三筆」・「四筆」と続き、「五筆」の執筆途中で没した。参照した当該書のウィキによれば、『日本では、荻生徂徠が』「示木公達書目」『の中で、好学の士のための必読書としてこの書目を挙げている』とある。
「二中歷第九」「二中歷」(にちゅうれき)は鎌倉初期に成立したとされる事典。当該ウィキによれば、『その内容は、平安時代後期に成立した』「掌中歴」と「懐中歴」の『内容をあわせて編集したものとされている。現代では「掌中歴」の一部が現存する』だけである。『掌中歴と懐中歴は三善為康』(永承四(一〇四九)年~保延五(一一三九)年)の手になる、平安『後期のものと推定されているが』「二中歴」の『編纂が誰によるものであるかは不明である。現代には尊経閣文庫本と呼ばれる、加賀・前田家に伝わる古写本が残されているのみで、これは鎌倉時代後期から室町時代にかけての、後醍醐天皇のころに作られたと考えられている』とある。その「第九」は「医方・呪術・怪異・種族・姓尸・名字」の項が掲げられている。国立国会図書館デジタルコレクションにある写本の「恠異歷日時」のここ(左丁末の「烏鳴」)である。見ましたよ、熊楠さん。
「八咫烏が神武帝の軍勢を導きし事日本紀に見え」「日本書紀」巻第三の神武天皇即位前の戊午年(機械換算で紀元前六六三年)の「六月丁巳」(二十三日)の条に、
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于時、天皇適寐。忽然而寤之曰、「予何長眠若此乎。」。尋而中毒士卒、悉復醒起。既而皇師、欲趣中洲、而山中嶮絕、無復可行之路、乃棲遑不知其所跋渉。時夜夢、天照大神訓于天皇曰、「朕今遣頭八咫烏、宜以爲鄕導者。」。果有頭八咫烏、自空翔降。天皇曰、「此烏之來、自叶祥夢。大哉、赫矣。我皇祖天照大神、欲以助成基業乎。」。是時、大伴氏之遠祖日臣命、帥大來目、督將元戎、蹈山啓行、乃尋烏所向、仰視而追之。遂達于菟田下縣、因號其所至之處、曰菟田穿邑。穿邑、此云于介知能務羅。于時、勅譽日臣命曰「汝忠而且勇、加能有導之功。是以、改汝名爲道臣。」。
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とあるのを指す。国立国会図書館デジタルコレクション岩波文庫の黒板勝美訓読・編の「日本書紀」の「中卷」の当該部をリンクさせておく。
「古希臘テーラの貴人バツトスが未知の地に安着して殖民し得た」現在はリビア領に含まれ、キュレネ(この半島先端附近。グーグル・マップ・データ。以下同じ)には紀元前七世紀末に、飢饉に襲われたテラ島(現在のギリシャのサントリニ島)住民の一部がバットスBattosを植民指導者として、この沃地に入植(紀元前四世紀に再録された植民決議の碑文がキュレネのアゴラから出土している)、バットス一門の王政は紀元前五世紀半ばまで続いた。その後、プトレマイオス王朝の支配を経て,紀元前七四年にローマの属州キレナイカとなった(以上は平凡社「世界大百科事典」の「キュレネ」の記載に拠った)。
「Cox, “An Introduction to Folk-Lore,” 1895, p.104)」イギリスの民俗学者で「シンデレラ型」譚の研究者として知られるマリアン・ロアルフ・コックス(Marian Roalfe Cox 一八六〇年~一九一六年:女性)の「民俗学入門」。「Internet archive」の当該原本のここ。
「宣室志」唐の文語伝奇小説集。張読の著。もとは十巻あったと思われるが、散逸して現在は「稗海」や「重較説郛」(ちょうこうせっぷ)などに一部が収録されているのみである。著者は「霊怪集」を書いた張薦の孫で、礼部侍郎まで進んだ(「ブリタニカ国際大百科事典」に拠る)。因みに、私が偏愛する中島敦の「山月記」(リンク先は私の古い電子化。『中島敦「山月記」授業ノート 藪野直史』もある。私が高校教師時代、漱石の「こゝろ」とともにオリジナルな朗読に拘った作品である)は、その直接の素材を唐代伝奇の李景亮「人虎伝」に拠るが、本書に載る「李徴」も同じ内容を持つ古い譚であることが知られている。以下の凶兆については、第一巻に載る。「中國哲學書電子化計劃」の影印本で原記載が確認出来る。影印から起こしておく。
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柳公濟尚書、唐大和中、奉詔討李同犍。既出師、無何、麾槍忽折。客有見者、嘆曰、「夫大將軍出師、其門旌及麾槍折者、軍必敗衂。不然、上將死。」。後數月、公濟果薨。凡出軍征討、有烏鳶隨其後者、皆敗亡之徵。有曾敬雲者、嘗為北都裨將。李師道叛時、曽將行營兵士數千人、毎出軍、有烏鳶隨其後、必主敗、率以為常。後捨家爲僧、住於太原凝定寺。太和九年、羅立言為京兆尹、嘗因入朝、既冠帶、引鏡自照、不見其首。遂語於季弟約言。後果為李訓連坐、誅死。
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「ヘブリウ」古代イスラエルの別称ヘブライ。
「ノア大洪水に漂(たゞよ)うた時、三つの鳥を放つに三度目の鴉が陸地を見出した。三つの鳥は鴉(からす)鴿(いへばと)鴿(はと)と云ふのと鴿燕鴉と云ふのと二說有るが、チエーンは鴉が最後に陸を發見した說を正とした」ウィキの「ノアの方舟」の「ギルガメシュ叙事詩」の同説話の記述の中で、主人公を「ウバルトゥトゥの子、シュルッパクの人」「ウトナピシュティム」とし、洪水が起こって『七日目に、ウトナピシュティムはまず』、『鳩をはなした。鳩は休み場所が見あたらずにもどってきた。つぎは燕をはなしたが』、『同じ結果になった。そのつぎには』、『大烏』(おおがらす。現在は、スズメ目カラス科カラス属ワタリガラスCorvus corax に比定されている)『をはなしたところ、水がひいていたので』、『餌をあさりまわって』、『帰ってこなかった。そこで彼は山頂に神酒をそそぎ、神々に犠牲をささげた』とある。
「 “Encyclopaedia Britannica,” vol.vii, p.978」「Internet archive」で同巻の当該ページを見たが、違う。巻数かページが違うか?
「Mallet, “Northern Antiquties,” in “Bohn's Library,” 1847, p.188」デンマークの文学やケルト神話及びスカンジナビアの著作をものした、スイスのジュネーブの作家パウル・ヘンリ・マレット(Paul Henri Mallet 一七三〇年~一八〇七年)の「Northern antiquities, or, An historical account of the manners, customs, religion and laws, maritime expeditions and discoveries, language and literature of the ancient Scandinavians 」(「北部古代遺跡 又は 古代スカンジナビア人の習俗・習慣・宗教と法律 海上探検と発見 言語と文学の歴史的説明」)。「Internet archive」のこちらで原本当該部が視認出来、その下部の注記の箇所に熊楠の言っている内容が書かれてある。
「經律異相」五十巻。梁の宝唱が五一六年に撰した仏書。「経」と「律」とに散説されている諸事項を、十四に分類して抜粋した一種の百科事典。説話文学の宝庫(小学館「日本国語大辞典」に拠る)。選集では「廿六」ではなく、『三六』とする。国文学研究資料館の影印本(和刻本)を調べたところ、これは選集が正しいことが判った。この画像の「巻第三十六」「雜行長者部下」の冒頭の「迦羅越以二飽食一※ㇾ鳥令ㇾ出二腹中珠一」(※は「グリフウィキ」のこれ。「施」の異体字)である。但し、哀しいかな、一貫して原本では「烏」ではなく、「鳥」となってるんですけど? 熊楠先生? でも、まあ、海辺の林に棲みつく雑食性の鳥であれば、高い確率で、ハシボソガラスであろうからいいでしょう!
「奈女耆域因緣經」個人サイト「無料で読める現代語訳仏教」の「マンゴー娘と名医の物語 『佛説㮈女祇域因縁經』」によれば、後漢の僧安世高訳「佛說㮈女祇域因緣經」の後出し版らしい。因みに、同ページによれば、それが前の「經律異相」に所収しているらしい。流石に、ちょっと疲れたので、探す気は、ない。
「耆婆」インドの医師で、釈尊と同時代人。サンスクリット語「ジーヴァカ」の漢音写。美貌の遊女サーラバティーの私生子として生まれ、一説には、誕生後、捨てられ、ある王子が拾って養育したとされる。名医として有名であると同時に、釈尊の教えに従った人物として知られる。彼に関しては、多くの伝説が残され、釈尊の病を治療したこと、また、「釈尊の教えに従えば、彼の治療が受けられる。」と考えた一般人が、治療を受けたいばかりに、仏教に入門するのを心配して、釈尊にその対策を献案したこと等が伝えられている。その原名を漢訳して「活童子」「壽命童子」「能活」などとも呼ばれ、中国の名医扁鵲と並び称される(「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)
「勝光王」紀元前六世紀頃又は同五世紀頃の古代インドに栄えたコーサラ国の王プラセーナジット(漢訳:波斯匿王(はしのくおう))の漢訳異名。当該ウィキによれば、『一説には、ヴィドゥーダバ王子は、釈迦族の指導者が召使に生ませた娘を母親として生まれた、と釈迦族の者が馬鹿にするのを聞いて、父・母・釈迦族を憎み、釈迦族を滅ぼす決意をした、とする』とあった。
「八千里」中国では周・漢の時代から、永く、一里の長さは四百メートルであった。それでも三千二百キロメートルである。
「嚴島御本地」国立国会図書館デジタルコレクションの「續群書類從」第七十五の「神祇部七十五」の冒頭に配されてある。以下の「五色の烏が戀の使して六年懸かる路を八十五日で往著く」の下りはここ。
「オスワルド尊者」アングロサクソン七王国のノーサンブリア王オズワルド(King Oswald 六〇四年~六四二年)。「聖パウロ女子修道会(女子パウロ会)」公式サイト「Laudate」の 「聖人カレンダー」の「8月9日 聖オズワルド(ノーサンブリア)殉教者」によれば、六一六『年に、ノーサンブリアの王であった父が、イーストアングルの王に殺されたため、オズワルドら』三『人の王子はスコットランドに逃亡し、アイオナの修道院で育てられ、そこで洗礼を受けた』。『その後』、二『人の兄弟たちが、イギリスのカドウェル王に殺されたとき、オズワルドは軍隊を率いて王と闘った。そのとき、十字架を作らせ、兵士たちとともにひざまずいて祈り、勝利を得たといわれる』。『オズワルドは、父の王座を取り戻して王位に就いた。その後アイオナの修道士を宣教師としてノーサンブリアに招き、派遣されたアイダン神父にリンディスファーンの島を与えて宣教の援助をした。しかし』、『異教徒マーシア王との戦いに破れ、戦死するが、そのとき「神よ、彼らの魂をあわれみたまえ」と言って亡くなったという』。『オズワルドはイギリスの偉大な英雄として崇められている』とある。英文の彼のウィキに、「Reginald of Durham recounts another miracle, saying that his right arm was taken by a bird (perhaps a raven) to an ash tree, which gave the tree ageless vigour; when the bird dropped the arm onto the ground, a spring emerged from the ground.」という記載があり、彼の死の秘蹟とカラスの関連性が認められる。
「Gubernatis, vol.ii, p. 257」本篇で既出のイタリアの文献学者コォウト・アンジェロ・デ・グベルナティス(Count Angelo De Gubernatis 一八四〇年~一九一三年)の「動物に関する神話学」。「Internet archive」の第二巻原本の当該部はここ。]
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