萩原朔太郎詩集 遺珠 小學館刊 散文詩 編註・「遊獵手記」
散 文 詩
[やぶちゃん注:パート標題。]
編註 詩集『蝶を夢む』には卷末に「散文詩」として「吠える犬」以下四篇の作品が收めてある。(既刊『月に吠える』參照)これらの作品は萩原朔太郞の詩として比較的初期に屬するもので、四篇中の「吠える犬」「柳」「極光」の三篇は大正四年二月號の雜誌『詩歌』に掲載され、「Omega の瞳」は大正三年十月號の『詩歌』に掲載された。しかし『蝶を夢む』の作品は「吠える犬」一篇を除き、他は長文に散文詩として發表されたものを、部分的に抽出して一個の作品に獨立せしめたものであつた。(本篇中の「懺悔者の姿」參照)當時に於ける萩原朔太郞は「散文詩」として十數篇の作品を作つてゐるので、ここにはその代表的なものを收錄し、作品收錄に完璧を期することとした。其中「ADVENTURE OF THE MYSTERY」のみは大正七年の作品で、そのため他の作品と情操を異にするが、これも「散文詩」として發表されたのでここに收めた。
なほ「Omega の瞳」を含む「SENTIMENTALISM」「光の說」等の作品はいくぶん評論めいたものなので、ここには採らぬこととした。
[やぶちゃん注:「既刊『月に吠える』」本底本の同シリーズの「萩原朔太郎詩集Ⅰ 月に吠える」のここから「吠える犬」・「Omega の瞳」・「極光」の三篇が収録されてある。
「吠える犬」ここに私の古い電子化がある(古い仕儀で正字表現が不全であったので先ほど修正しておいた)
「柳」ここに私の古い電子化がある(同前)。
「極光」次注のリンク先の私の注を参照。
『本篇中の「懺悔者の姿」參照』以下の本底本のこれ。古くに「懺悔者の姿 萩原朔太郎 (「極光」原形)」として電子化してあるので見られたい(同前で修正した)。
「SENTIMENTALISM」「光の說」二篇とも「青空文庫」の「散文詩・詩的散文」で読める。]
遊 獵 手 記
銃口を放るるとき彈丸はその最も遲*なるスピードを有す。我は樹上の鴨をねらふ。鴨はその心臟に靈氣を感ずるとき電光のごとく疾落すれども、いまだ銃口を放れんれんとし、放れざるとき、彈丸は些の加速度を有せず。哀しい哉、感傷の人は常に裝藥せる銃を擬して樹上の鴨をねらふ。
林中に小池あり。龜と魚介と住めり、龜は最も少なるものと雖も、なほよく沼中の祕事を知る。而して悠々たり、われ試みに龜を量りしにその重さ同額の純金と等しかりき。
たちまちにして疾行する兎あり。これを追ふこと久しくして得ず。落葉樹の間、犬の吠ゆることやや久し、兄弟よ、我は手に銃を擬せどもいまだ一樹の針葉だにおとさざる也。
愛するものよ。
しばらく我れは汝をはなれこれらのめづらしき魚介と遊ばんとす。
ああすべて聖者は疾患し、菊は疾患し、而して宙宇のあひだわれと遊べるものただこの林間一個の生物のみ。
みよ。龜はかくして地上に這ひわれの視界の及ばぬ方にかくれ默禱し、而してつねに默思す。龜は魚介にあらざるもなほ靈性を有する魚介なり。龜は宙宇にありて最小なるものと雖もよく純金の重量を有しその時に凝縮することをもつて哀傷最も深し。彼はその安住一所をはなれず、常に悠々たるも常に金性の凝氣を發し心最もいたむ。
この故に龜よ、汝の葡行するところにより我の靈智をそめむ。
いま龜をして卓上を這はしむる者はたれぞ。戲奴よ、我はこれ等のたはむれよりしてわが聖餐を穢さしむるに忍(しの)びず。ああすべて聖なるものは終れり。我をして二度言語を勞せしむる勿れ。戲奴よ、爾の名は人間なり、最も賢しこき思想家也。
[やぶちゃん注:「*」は判読不能或いは以下の筑摩版全集のものと同じく一字分の空きであろう。珍しく編者注記がない。本篇は筑摩版全集の「未發表詩篇」に以下のように載る。表記は総てママである。「葡行」はママ。「匍行」の誤字であろう。「戲奴」は「ジョーカー」と読んでおく。
*
遊獵手記
銃口を放るるとき彈丸はその最も遲 なるスピートを有す、我は樹上の鳥鴨をねらふ、鳥は鴨はその心臟に靈氣を感ずるとき電光の如く疾落すれども、いまだ銃口を放るゝとき我のれんとし、放れざる時、彈丸は尙些の加速度を有せず、哀しい哉、感傷の人は常に裝藥せる銃を擬して樹上の鴨をねらふ。
林中に小沼あり。龜と魚介とす住めり、龜は最も小なるものと雖も尙よく沼中の祕事を知る。而して悠々たり、われ試みに龜を量りしにその重さ同額の純金と等しかりき
たちまちにして疾行する兎あり。之を追ふものこと久しくして得ず。落葉樹の間、殘雪の光れるを見て 山脈の犬の吠ゆることやゝ久し、兄弟よ、我は手に銃を擬せどもいまだ一樹の針葉だにおとさざる也。
愛するものよ
しばらく我れは汝等の上に此のをはなれ此等のめづらしき魚介をと遊ばんとす、
ああすべて聖者は疾患し菊は疾患し、而して宙宇のあひたわれと遊べるものたゞこの林間一疋個の玩具生物のみ、
われはいま掌よりみよ。龜と→をはかくして地上に這ひわれの視界の及ばぬ方にかくれ默禱し而してつねに默思す、龜は魚介にあざるも尙靈性を有する魚介なり。來りすみかに龜は宙宇にありて最小なるものと雖もよく純金の重量を有しその時に凝縮するを以て哀愁傷最も甚だし、深し、彼は悠々たるも彼はその安住一所をはなれず。常に悠々たるも常に金性の凝氣を發し心最もいたむ。
この故に龜はよ、汝と一所の小匣に汝の葡行するところにより我の靈氣智をひそなめむ。
咄、いま龜をして卓上を這はしむる者はたれぞ。戲奴よ、我は此等のたはむれよりしてわが聖餐を穢さしむるに忍ひす。ああすべて聖なるものは終れり。戲奴よ、我をして二度言語を勞せしむる勿れ。戲奴よ、爾の名は人間なり。最も賢しこき思想家也。
愛するものよ、
*
とあって、筑摩版全集初版は編者注で、『一行目の「最も遲 なる」の一字分空きは原文のまま。』とあるだけだが、後に差し込みで、校訂本文を『遲緩』と字を当て、注を『一行目の「最も遲 なる」の一字分空きは原文のままであるが、ノート別稿』(全集には収録されていない資料)『に「遲カン」とあるので』校訂本文を修正した旨の追記がある。確かに「遲緩」は腑には落ちる。また、「咄」は「トツ」で「舌打ち」の音からの激しくしかる際に発するオノマトペイアである。
さて。本篇と比較してみると、細部に夥しい異同があり、最終行の「愛するものよ、」もないのであるが、第一行の「遲」の後の「*」或いは空白の一致から、私は最終的に同一の原稿であると判断する。抹消の多さや、散文詩であるために、文字が錯綜し、原稿が相当に判じにくいものである可能性が高いと考えたからである。]
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