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2021/12/22

萩原朔太郞詩集「蝶を夢む」正規表現版 海鳥 (ひょんなことから驚きの事実を発見)

 

   海 鳥

 

ある夜ふけの遠い空に

洋燈のあかり白白ともれてくるやうにしる

かなしくなりて家家の乾場をめぐり

あるひは海岸にうろつき行き

くらい夜浪のよびあげる響をきいてる。

 

しとしととふる雨にぬれて

さびしい心臟は口をひらいた

ああ かの海鳥はどこへ行つたか。

運命の暗い月夜を翔けさり

夜浪によごれた腐肉をついばみ泣きゐたりしが

ああ遠く飛翔し去つてかへらず。

 

[やぶちゃん注:「あるひは」はママ。この「乾場」は「ほしば」で、ワカメかコンブのそれであろう。私は直ちに既に友人であった北原白秋の優れた一首(第一歌集「桐の花」(大正二(一九一三)年東雲堂書店刊)の「初夏晩春」所収。白秋二十七歳。例の松下俊子との姦通罪により未決監に拘置(二週間)された翌年)、

      一九一〇暮春三崎の海邊にて

 いつしかに春の名殘となりにけり

  昆布干場(こんぶほしば)のたんぽぽの花

を想起する。因みに、北海道では昆布のそれは「干場」と書いて「かんば」と呼ぶが、朔太郎が北海道へ行ったという記憶はないので、「ほしば」でよかろう。ところが、ネットで北海道行の有無を調べていたところ、筑摩版全集の年譜にも載らない驚きの事実を見つけた。二〇一三年四月三日の「四国新聞社」の記事で、『萩原朔太郎が旧制中学卒業後の進学先として農学を志願していたことを示す資料が北海道大の文書館(札幌市)で』、三『日までに見つかった。研究者は「都会や欧州を愛し、芸術活動を志したイメージとは対照的で、非常に興味深い」と評価している』。『文書館によると、資料は』明治四〇(一九〇七)『年の東北帝国大学農科大予科(現・北海道大)の志願者名簿で、朔太郎の名前や出身中学などの記載があった。文書館の職員が昨年』二『月、保管していた過去の志願者名簿などを調べていた際に』、『偶然』、『見つけた』。『名簿には入試を欠席したことを示す印も付けられていた』とあって、小さいが、その志願者名簿の写真(北海道大文書館提供)が載り、「前橋」「萩原朔太郎」の姓名が確認出来る。当時、朔太郎は数え二十二(志願時は満二十歳)で、この年の七月に高等学校入学試験を受験したが、志望校未記入であったため、熊本の五高の合格扱いとなった(翌年七月第一学年を落第し、同月、岡山の六高を受験して合格(九月八日附で志願変更で五高を退学)したが、翌明治四十二年七月に性懲りもなく六高第一学年をまたしても落第、結局、翌明治四十三年四月に慶応義塾大学部予科一年に入学したものの、理由不明であるが、同月中に退学している。これが彼の最終学歴である。彼が一瞬なりとも、農学を志したというのは、かなり驚きである。これは当時は相応の記事になったのであろうが、私は十四年前に早期退職して以来、まず、滅多に新聞は読まないし、ネット上の新聞記事も余程のことがないと、読まない。皆さん、ご存知であれば、悪しからず。

 「一九一〇暮春三崎の海辺にて」と初出は大正一一(一九二二)年七月号『日本詩人』。以下に示す。「あるひは」「うらつき行き」(後者は原稿の誤記か誤判読か誤植)はママ。

   *

 

 海鳥

 

ある夜ふけの遠い空に

洋燈(らんぷ)のあかり白白ともれてくるやうにしる。

かなしくなりて家家の乾場をめぐり

あるひは海岸にうらつき行き

くらい夜浪のよびあげる響をきいてる。

 

しとしととふる雨にぬれて

さびしい心臟は口をひらいた

ああ かの海鳥はどこへ行つたか。

運命の暗い月夜を翔けさり

夜浪によごれた腐肉をついばみ泣きゐたりしが

ああ遠く飛翔し去つてかへらず。

 

   *]

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