夏目漱石の「こゝろ」を芥川龍之介はどのように受容したのか?――迂遠なる予告――
私は夏目漱石の「こゝろ」についての考証に於いて、「人後に落ちない」という自信は相応に、ある。それはサイト版の各章にマニアックな「やぶちゃんの摑み」を附したサイト版の「心」初出版で、一つの見解を示したつもりではある。
先生の遺書(一)~(三十六) ―― (単行本「こゝろ」「上 先生と私」相当パート)
先生の遺書(三十七)~(五十四) ―― (単行本「こゝろ」「中 兩親と私」相当パート)
先生の遺書(五十五)~(百十) ―― (単行本「こゝろ」「上 先生と遺書」相当パート)
他にも、それ以前に、サイト版の、
や、
でも、探究を続けてきたし、さらに古くは、
などというトンデモ贋作も、ものしている。
しかし、それでも私の憂鬱は完成されていないのだ。
それは何故か? それはとりもなおさず、強力な親和性のある自死を選んだ、夏目漱石の最晩年の弟子である芥川龍之介が、その「こゝろ」をどう受容し、且つ、どのような差別化の中で、芥川龍之介が敢えて自死を選んだのかという、芥川龍之介に特化した謎が解明されていないからである。
言及した論文などは、正直、私は全く以って満足していない。それは概ね、漱石「こゝろ」サイドからの、インキ臭い総合的受容史に過ぎないからである。
私は――その禁足地に足を踏み入れずには――最早――居られないのである。
ここでは、詳細は語らないけれも、
「そのヒントは芥川龍之介の書簡と、それに対する年譜的事実が、一つの突破口になるのでなはないか?」
と考えている。
私は、
『それを、もうそろそろ、やらねばならぬ!』
という瀬戸際に来ていることに、数年前から、気づいていた。
何時になるかは、分らぬ。
しかし、これは私の「こゝろ」の集大成として、唯一、やり残しているものであると考えていることを、ここに告白しておく。――――
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