曲亭馬琴「兎園小説外集」第二 冷泉左衞門督爲金詠歌 輪池堂
○冷泉左衞門督爲金詠歌
故鄕を立出しより東路の
なかばは越しさ夜の中山
蔦楓みどりの春に分いれば
霞おくあるうつのやまみち
ゆたけしと霞の空に仰みる
かげいや高き春のふじのね
かち人の賑ふ聲も大井河
わたる瀨廣き水の白波
ふじの雪はるゝ光のゆたけさを
ひとつにうつす田子のうら浪
のどけしな水の綠も春の色に
かすむ光の浮しまのはら
三月二日旅館當座霞中春月
司 直
いく里のかげのどかにも立こめて
霞にもるゝ春のよの月
司 直
秋よりもまして哀は深きよの
おのへにかすむ春の月かげ
中川九同
[やぶちゃん注:底本では「中川九同」の「同」の字の右に『マヽ』傍注がある。]
東路の名にや立らん春の月
かすみの關にかげをへたてゝ
淸 董【中川造酒】
梅櫻花にかすみに匂ふよの
かげのどかなるむさしのゝ月
維 尹【森川中務】
かすむこそなかく深き哀なれ
世ははな鳥の春のよの月
靜 齋
比ひなきあはれをこめて春のよに
かすめる月の長閑なるかげ
右詠歌は、文政九年丙戌春三月上旬、關東下行のときの事とぞ聞えし。
[やぶちゃん注:「冷泉左衞門督爲金」不詳。一つ、同時代の上冷泉家に公卿の冷泉為全(ためたけ 享和二(一八〇二)年〜弘化二(一八四五)年)がおり、彼は正三位参議左衛門督に至っている。彼の誤字か?
「司直」冷泉為全だとしたら、不審。彼は参議でもあったが、参議も左衞門督も司直職ではない。
「おのへ」「をのへ」(尾の上)の誤字であろう。山や丘の頂・峰の意。
「中川九同」不詳。
「淸董【中川造酒】」不詳。「淸董」は「せいとう」、「造酒」は「みき」ではあろう。
「維尹【森川中務】」不詳。「維尹」は「これただ」か。「中務」は「なかつかさ」。
「比ひなき」「たぐひなき」。
「文政九年丙戌」一八二六年。]
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