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2021/12/07

曲亭馬琴「兎園小説外集」第二 駿州沼津の近村香靈山寺に相傳小松内大臣重盛公寶塔の圖幷搨本 海棠庵

 

   ○駿州沼津の近村香靈山寺に相傳

    小松内大臣重盛公寶塔の圖幷搨本

 

Sigemorihaka

 

[やぶちゃん注:底本の国立国会図書館デジタルコレクションの画像をトリミング補正した。サイズ表示がある。五輪塔の水輪に、

径(わたり)、二尺。

直径六十一センチメートル弱。地輪の高さが、

一尺二寸

三十六センチメートル強。地輪の横幅が、

二尺七寸五分

八十三センチメートル強。]

 

 正面 雲山寺殿證空大居士

 兩脇 □□三戊亥八月朔日

   彌兵衞宗淸建之

右の年號、磨滅して讀がたし。土人は「建久三年に、彌兵衞宗淸が建る所なり。」といひ、支干[やぶちゃん注:底本は「干」が「幹」。吉川弘文館随筆大成版で訂した。以下も同じ。]は「戊亥」といはれる如く、隱然と見ゆれども、戊亥は、古より無き支干なり。重盛公の薨年は治承三年己亥なれば、もしくは治承ならん歟。只、「戊」の如く見ゆる字、不審。「三年己亥」なれば、必、磨滅せるは、「治承」なるべし。重盛公の法號を「靈山寺殿」と稱せし事、いまだ搜索に暇あらず。姑く土俗の口碑のまゝに記しつ。猶、他日、審訂せんのみ。

 文政九年丙戌春三月廿五日    海棠庵

[やぶちゃん注:以下、最後まで底本では全体が一字下げ。]

著作堂言、治承のむかしは、いまだ何居士などと唱る法號あること、なし。曾我兄弟の法號なども、皆、後世、浮屠のつけしものなれば、この小松殿の墓表も、當時のものには、あらじ。甚、疑しき事にこそ。

又云、宗淸は彌平兵衞と諸書にみえたり。こゝに彌兵衞とあるも、いぶかし。

[やぶちゃん注:「建久三年」一一九二年。この七月十二日に源頼朝は征夷大将軍に任ぜられた(今日からの飛脚によって頼朝に伝えられたのは同月二十日)。頼朝の同職任官に反対していた後白河法皇の死去から四ヶ月後のことであった。

「彌兵衞宗淸」平宗清(生没年未詳)。通称は馬琴の指摘する通り、弥平兵衛。平頼盛(長承二(一一三三)年~文治二(一一八六)年:平忠盛の五男。母はかの池禅尼。清盛の異母弟。清盛の男兄弟の中で「壇ノ浦の戦い後」も唯一生き残り、頼朝の厚遇を受けて京に住んだ。死因は病死である)に仕えた家人(けにん)。頼盛が尾張守であったことから、その目代となった。永暦元(一一六〇)年二月、「平治の乱」に敗れ、落ちのびた源頼朝(数え十四歳)を、美濃国内で捕縛し、六波羅に送ったが、この際、頼盛の母である池禅尼を通じて、頼朝の助命を求め、結果、伊豆配流とされた(頼盛の厚遇はそれによる)。仁安元(一一六六)年、正六位上で右衛門少尉となり、同三(一一六九)年に左衛門権少尉となった。また、後白河院の北面武士ともなっており、院領大和国藤井庄(現在の奈良県山辺郡山添村付近)の預りを務めたりもしていた。「治承・寿永の乱」で平家が都落ちした後の元暦元(一一八四)年六月、頼朝は宗清を恩人として頼盛とともに鎌倉へ招いたが、これを「武士の恥である」として断り、平家一門のいる屋島へ向かった。頼朝は頼盛から宗清が病で遅れると聞き、引出物を用意していたが、現れなかったことから、落胆さえしている。その後の行方は不詳である。なお、子の家清は、出家して都落ちには同行せず、元暦元(一一八四)年七月には本拠の伊勢国で「三日平氏の乱」を起こしたが、鎌倉方に討ち取られている。

「重盛公の薨年は治承三年己亥」平清盛の嫡男平重盛(保延四(一一三八)年~治承三(一一七九)年)は享年四十二で病没した(胃潰瘍或いは腫瘍や脚気説などがある)。

「治承ならん歟」治承三(一一七九)年は己亥。同年十一月には「治承三年の政変」所謂、平清盛のクーデターが発生し、後白河法皇が幽閉されている。

 最後に。この五輪塔は平重盛の墓でも供養塔でもない。静岡県沼津市本郷町に現存する霊山寺(りょうぜんじ:グーグル・マップ・データ)に今もある。綾氏の記事「東海・北陸地方の石造物⑭:霊山寺五輪塔(伝・平重盛の墓)・宝篋五輪群」に大きな写真もあり、そこに『沼津市の霊山寺(りょうぜんじ)は地元では「れいざんじ」と呼び習わされ、はっきりした創建年代は不明であるが、鎌倉時代中期にはその前身となる寺院が造られていたと考えられる』。『霊山寺の歴史を物語る鎌倉時代の石塔群が境内墓地には残っており、中でも二メートルを超える巨大な五輪塔が中央に建つ三基の五輪塔は、鎌倉時代後期の作で、凝灰岩製で古様を示し、重量感と安定感のある優作である』。『中央塔(二枚目)は古くから平重盛の墓と伝承されていたが』、昭和三一(一九五六)年の『発掘調査の際に蔵骨器が発見され、そこに元亨三年』(一三二三年:鎌倉幕府滅亡の十年前)『の銘文があったことから、鎌倉時代後期の西大寺系の律宗の僧・成真大徳のものであることが判明し、五輪塔も彼の墓であろうと考えられる』。『左右の小ぶりな五輪塔も、中央塔よりも造立年代は下るだろうが、鎌倉時代後期の作である』。『なお、写真は数年前に撮影したものであり、現在は修復の際に落剥を防ぐために薬品が表面に塗られたために、少し石の色が変わってしまっている』とある。]

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