「南方隨筆」版 南方熊楠「牛王の名義と烏の俗信」 オリジナル注附 「二」の(6)
烏鴉共に、膽勇智慧敏捷、鳥中に傑出し、壽命も長く、又多少の間違ひは有るにせよ、親子夫妻友儕[やぶちゃん注:「ともがら」。]間の愛情も非常に厚いちふ處より、慈孝忠信の話も出來、殊に太陽に緣有る靈鳥と仰がるゝより、或は神、或は神使として專敬された。隨つて之を吉鳥とした例も少なからず、既に上文に散見するが、猶一二を擧れば、沙漠を旅行する中、鳶や烏が見當れば必ず村落が近いと云ふから之を吉相とするは必定だ(Burton, “Pilgrimage to Al-Madinah and Meccah,” in The York Library, vol.ii, p.294)。南史に、高昌國有朝烏、旦々集王殿前、爲行列、不畏人、日出然後散去[やぶちゃん注:「高昌國に、朝、烏、有り。旦々、王の殿前に集まり、行列を爲し、人を畏れず。日、出でて、然る後に、散じ去る。」。]。是はナポレオン三世が鷲を馴して兵士の人氣を自身に集めた如く、烏が每旦參朝するを王威の徵としたのだ。類凾に、海鹽南三里、有烏夜村、晉何準所居也、一夕群烏啼噪、適生女、他日後夜啼、乃穆帝立準女爲后之日[やぶちゃん注:「海鹽の南三里に烏夜村(うやそん)あり。晉の何準(かじゆん)の居りし所なり。一夕、群烏、啼き噪ぎ、適(たまた)ま、女(むすめ)を生む。他日、後夜(ごや)に啼く。乃(すなは)ち、穆帝(ぼくてい)が準の女を立てて后(きさき)と爲せし日なり。」。]。烏啼きも此樣(こんな)に吉(よ)いのが有うとは、お釋迦さんでも氣が附くめー。又唐書曰、柳仲郢自拜諫議後、每遷官、群烏大集於昇平里第云々、凡五日而散、詔下不復集、家人爲候、惟天下除節度、烏不復集、遂卒於鎭[やぶちゃん注:「唐書に曰はく、『柳仲郢(りうちゆうえい)、諫議[やぶちゃん注:諫議大夫(かんぎたいふ)。皇帝の誤りを諌め、国家の利害得失などについて忠告する役職。秦では「諫大夫」と称していたが、後漢の光武帝が改めてより、歴代、この名で置かれた。]を拜せしより後(のち)、官を遷(うつ)る每に、群烏、大いに昇平里(しやうへいり)の第(だい)[やぶちゃん注:屋敷。邸宅。]に集まり』云々、『凡そ五日にして、散ず。詔、下れども、又は集まらず。家人、以つて、候(しるし)と爲(な)す。惟だ、天下の節度[やぶちゃん注:節度使の任官。]を除き、烏、又は集まらず。遂に鎭に卒(しゆつ)す。」]。官が昇る前每に集まつた烏が來ないのが死亡の前兆だつたんぢや。酉陽雜俎に邑中終歲無烏、有寇、郡中忽無烏者、日烏亡[やぶちゃん注:ぱっと見でも不審だった。最後の部分、底本は「曰烏亡」で、選集もそれを馬鹿正直に訓読して『烏亡という』となっているのだが、原本の影印本を「中國哲學書電子化計劃」で確認したところ、これは「曰」ではなく、「日」の誤りであることが判明したので特異的に訂した。「邑(いふ)の中(うち)、終歲、烏、無ければ、寇(こう)[やぶちゃん注:外部から侵入してくる賊。]、有り。郡の中、忽(にはか)に、烏、無ければ、日烏(ひう)、亡(ぼう)せり。」。]。婦女の不毛同樣、有るべき物が具(そな)はらぬを不吉とするので、邦俗鼠多い家は繁昌し、火事有るべき家に燕巢はぬと信ずるに同じ。古希臘等で、鴉を豫言者とせるも必ず凶事のみ告げたので無く、昔氷州(アイスランド)では鴉鳴の通事[やぶちゃん注:翻訳者。]有て吉凶を判じ、國政を鴉鳴に諮(と)うた(Collin de Plancy, p.143)。マコレーも其セント・キルダ誌に鴉が歡呼して好天氣を豫告し中つるを稱揚した。支那の鴉經(上出)も、鴉鳴が凶事ばかりで無く、吉事をも告ぐるとしたのだ。類凾二四三と二四四に邵氏聞見錄を引き云ふ、邵康節の母、山を行(あり)き、一黑猿を見、感じて娠み、娩するに臨み、烏、庭に滿ちければ、人もつて瑞とすと。是は康節先生が色餘り黑かつた言譯に作り出た言らしいが、兎に角烏を瑞鳥とした例にはなる。又、王知遠母晝寢、夢鴉集其身、因有娠、寶誌曰、生子、爲當世文士[やぶちゃん注:「王知遠が母、晝(ひる)寢(い)ねて、鴉、其の身に集まるを夢み、因つて娠(はら)めり。寶誌曰はく、「子(をとこ)を生まば、當世の文士と爲(な)らん。」と」。]。鴉に因んで文章に黑人(くろうと)と云ふ洒落かね。ブレタンでは家每に二鴉番し[やぶちゃん注:「つがひし」。]、人の生死を告ぐといふ(Collin de Plancy, p.143)。
[やぶちゃん注:「Burton, “Pilgrimage to Al-Madinah and Meccah,” in The York Library, vol.ii, p.294」十九世紀の大英帝国を代表する冒険家で、人類学者・言語学者・作家・翻訳家であり、軍人・外交官でもあったリチャード・フランシス・バートン(Richard Francis Burton 一八二一年~一八九〇年:本邦では特に「アラビアン・ナイト」の英訳「The Book of the Thousand Nights and a Night」(「千夜一夜物語」 一八八五年~一八八八年出版。本編十巻・補遺六巻)の翻訳者として知られる)の「Personal narrative of a pilgrimage to Al-Madinah and Meccah」(「アルマディナとメッカへの巡礼の私的な物語」)。一八五五~六年刊で全三巻。但し、二種の英文サイトの同巻同ページを調べたが、見当たらない。
「南史」中国の正史二十五史の一つ。本紀十巻・列伝七十巻から成る。唐の李延寿の撰。高宗(在位:六四九年~六八三年)の時に成立した。南朝の宋・斉・梁・陳四国の正史を改修した通史で、南朝・北朝の歴史が、それぞれ自国中心であるのを是正し、双方を対照し、条理を整えて編集した史書。
「高昌國」南北朝から唐代にかけて、現在の新疆ウイグル自治区トルファン市に存在したオアシス都市国家。元・明代にはウイグル語の音訳から「哈拉和卓」(カラ・ホージャ)・「火州」・「霍州」などとして記録されている。トルファン市高昌区には、城址遺跡「高昌故城」が残っている。ここ(グーグル・マップ・データ)。
「類凾に、海鹽南三里……」「漢籍リポジトリ」の「烏三」の[428-14a]の影印画像の二行目の「村名 弓名」に現われる。
「後夜(ごや)」夜半から朝までの時間。
「穆帝(ぼくてい)」複数いるが、この場合は東晋の第五代皇帝。司馬聃(たん)。在位は三四四年~三六一年。数え十九歳で崩御している。
「準の女」何法倪。東晋の政治家で宰相に昇りつめた何充(二九二年~三四六年)の五番目の弟である何準の娘。穆帝の皇后。
「柳仲郢(りうちゆうえい)」唐代の政治家。監察御史・戸部尚書・京兆尹を歴任し、節度使となったが、後に左遷された。
「鎭」東蜀の「町」の意か。実は「唐書」の記載は「巻十八下」の「本紀第十八下」の「宣宗」の条にあるが、かなり長い。「中國哲學書電子化計劃」のこちらの電子化がそれであるが(かなりよく正しく字が起こされているようである。影印本画像も見られる)、その最後の部分は、「會河南尹柳仲郢、鎭東蜀、辟為節度判官、檢校工部郎中。大中末、仲郢、坐專殺左遷、商隱廢罷、還鄭州、未幾病卒。」とあるのを熊楠は圧縮している。
「酉陽雜俎に邑中終歲無烏……」同書の巻十六の「廣動植之一序」の動植物の吉凶を羅列した中に出る。この時期の「邑」(ゆう)は現在の「県」に相当する。中国の「郡」は県を含む上位の行政単位である。従って、「県中(けんじゅう)から、一年中、カラスがいなくなった時は、外部からの侵攻がある凶兆であり、また、郡の中に、突如、カラスがいなくなった時は、太陽の中にいる三本足の神聖なカラスが死んでしまう宇宙的カタストロフを意味する。」ということである。これなどを見ると、私には、黒点の拡大による太陽の核融合の減衰ではなく、皆既日食を指しているように思われる。
「マコレー」これはイギリスの商人で官吏でもあった旧イギリス領シエラレオネの植民地主義者であったケネス・マカーリー(Kenneth Macaulay 一七九二年~一八二九年)であろう。
「セント・キルダ誌」選集はこれを雑誌名として二重鍵括弧で括っているが、これは、マコレーが書いた「The History of St. Kilda 」(「セント・キルダ諸島の歴史」)のことではないか?
「鴉經(上出)」『「二」の(2)』参照。
「類凾二四三と二四四に邵氏聞見錄を引き云ふ、邵康節の母、山を行(あり)き……」「漢籍リポジトリ」のこちらが「卷二四三」で(「人部二」)、こちらが「卷二四四」で(「人部三」)、確かに孰れにも「邵氏聞見錄」からの引用がある。しかし、前者には「一黑猿を見、感じて娠み、」に相当するものはない。複数の検索方法で同書全体も調べたが、見当たらなかった。後者には「生子三」の「庭滿慈烏」で[249-6b]に「邵氏聞見録邵康節母李氏臨娩有慈烏滿庭人以瑞是日康節生七嵗戯于庭蟻穴中别見天日雲氣徃来也」と、この後半に相当するものがある。
「王知遠母晝寢……」「王知遠」は唐代の人物のようである。「維基文庫」の「大清一統志」では(影印画像附帯)、「鴉」ではなく、「鳳」となっている。同「古今圖書集」のこちら(同前。但し、画像は下方)では、『「唐書王遠智傳」、王遠智、系本琅邪、後爲揚州人。父曇選、爲陳揚州刺史。母晝寢、夢鳳集其身、因有娠。浮屠寶誌謂曇選曰、「生子當爲世方士。」。』とあるんですけど? 熊楠先生?
「ブレタン」フランスのブレタン(Brétin)か?]
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