「南方隨筆」版 南方熊楠「牛王の名義と烏の俗信」 オリジナル注附 「二」の(5)
支那で烏を太陽の精とする。三足の烏は淮南子に最古く筆せられたと、井上哲次郞博士が大正二年五月一日の日本及び日本人で言はれた。其本文は日中有踆烏猶踆蹲也謂三足烏[やぶちゃん注:「日中に踆烏(しゆんう)有り。猶ほ踆は蹲(そん)のごときなり。『三足の烏』を謂へり。」。]だ。しかし、楚辭に羿焉彃日烏焉解羽[やぶちゃん注:底本では三字目が「畢」であるが、誤字であるので訂した。「羿(げい)は焉(いづく)んぞ日(ひ)を彃(い)たる 烏(からす)は焉んぞ羽(はね)を解(と)せる。」。]とあり、准南子に堯時十日竝出草木焦枯堯命羿仰射十日其九烏皆死堕羽翼[やぶちゃん注:「堯の時、十の日(ひ)、竝び出でて、草木、焦げ枯る。堯、羿に命じて、十の日を、仰ぎ射せしむ。その九の烏、皆、死して、羽翼を墮(お)とす。」。]と出るを見ると、三足は兎に角、烏が日に棲むちう迷信は、漢代よりはずつと古く有つて、戰國の時既に記されたのだ。明治四十五年八月一日の『日本及日本人』[やぶちゃん注:一九一二年。七月三十日に大正に改元している。但し、これは雑誌のバック・ナンバーを言ったもので、刊行物は事実、改元以前に発行されているから、これで正しいのである。]に予が言つた通り、太陽に烏有りとは日中の黑點が似たからだが、其上に烏が定つて[やぶちゃん注:「きまつて」。]曉を告げるからで有る。バツヂ曰く、古埃及人の幽冥經(ブツク・オヴ・ゼ・デツド)に、六七の狗頭猴(チノケフアルス)旭に對(むか)ひ手を擧げて呼ぶ處を畫けるは、曉の精で日が地平より上り畢れば化して狗頭猴と成ると附載した。蓋し亞非利加の林中に此猴日出前每に喧呼するを曉の精が旭日を歡迎頌讃すると心得たるに由ると。是れ頗る支那で烏を日精とするに似居る。予屢ば猴を畜(か)うたのを觀ると、日が暮れば忽ち身を屈め頭を垂れて眠り了り何度起(おこ)すも暫くも覺(さめ)居らず、扨曉近く天が白むと歡び起きて大噪(おほさは)ぎす。日吉の神が猴を使物とするは此由であらう。猴と烏は仲惡い者らしく、古今著聞集に、文覺淸瀧川の上で猴謀つて烏を捕へ使ひ殺すを見たと載せ、Tavernier, “Travels in India,” trans. Ball, 1889, vol.ii, p.294 に、ベンガルで母に乳付(ちゝづ)かぬ子を三日續けて朝から晚(くれ)迄樹間に露(さら)し、なほ乳付かねば之を鬼子(おにご)と做(な)して恒河(ガンジス)に擲入(なげい)る。斯く曝さるゝ間烏來つて眼を啄き拔く事多く、爲にこの地方に瞎(かため)又盲人(めくら)多し。然るに猴多き樹間に曝された兒は此難を免る。猴は甚だ烏を惡み、其巢を見れば必ず之を覆して卵を破る故、烏が其邊に巢ぬ[やぶちゃん注:「すくはぬ」。]からだと出づ。日吉(ひえ)と熊野と仲惡きに(嚴神鈔)、其使ひ物の猴と烏と仲惡きも面白い。但し日吉山王利生記に烏も日吉の使と有るは、例の日に緣あるからだらう。鹽尻四一、伊勢矢野の神香良洲(からす)の御前は天照大神の妹と云ふも、日と烏に因んだのか。古今圖書集成の邊裔典卷二八に、朝鮮史略曰、新羅東海濱有二人、夫曰迎烏、妻曰細烏、迎烏漂至日本國小島主、其妻細烏尋其夫、漂至其國、立爲妃、人以迎烏細烏爲日月之精[やぶちゃん注:「「朝鮮史略」に曰はく、『新羅の東海の濱に、二人、有り。夫は迎烏と曰ひ、妻は細烏と曰ふ。迎烏、漂ひて日本國の小島に至り、主と爲(な)る。其の妻細烏は、其の夫を尋ね、漂ひて其の國に至り、立ちて妃と爲る。人、迎烏・細烏を以つて、「日月の精」と爲す』と。」。]。又新羅の官制十七品の中に、大烏・小烏有り、何とか烏に關する名か知らぬ。古波斯から起つて一時大に歐州に行はれたミツラ敎で、光の神ミツラ自ら聖牛を牲する雕像に、旭日の傳令使として鴉を附した(“Encyclopaedia Britannica,” vol.xviii, p.623)。其像は予親(まのあた)り視た事有り。寫は Seyffert, “A Dictionary of Classical Antiquities,” trans., 1908, p.396 に出づ。Frobenius, “The Childhood of Man,” 1909, pp.255-6 に、鴉死人の靈を負て太陽に送り付ける所を西北米土人が刻んだ樂器の圖有り。ツリンキート人は最初火を持來り、光を人に與へしは烏と信ず(“Encyc. Brit.,” ii, 51)。西南濠州諸部土人の傳說にも烏初めて火を得て人に傳へた話が多い。例せばヤラ河北方の古傳に、カール、アク、アール、ウク女獨り火を出す法を知れど他に傳へず、薯蕷(やまのいも)を掘る棒の端に火を保存す。烏(ワウング)之を取らんとし、其の蟻の卵を嗜むを知れば、多くの蛇を作つて蟻垤(ありづか)下に置き、かの女を招く。女少しく掘るに蛇多く出づ。烏敎へて彼棒で蛇を殺さしむ。乃ち蛇を打つと棒より火墮(おつ)るを、烏拾ひ去つた。大神パンゼル、彼女を天に置き星となす。烏火を得て吝みて[やぶちゃん注:「しわみて」。]人に與へず。黑人の爲に食を煮てやるはよいが、賃として最好の肉を自ら取り食ふ。大神大いに怒り、黑人を聚めて烏に麁しく[やぶちゃん注:「あらあらしく」。]言(ものい)はしむ。烏瞋(いか)つて黑人を燒亡せんとて火を抛散らす。黑人各の[やぶちゃん注:「おのおのの」。]火を得て去り、チユルト、チユルトとヲラル[やぶちゃん注:選集ではそれぞれ『チェルト』『テラル』と表記する。]の二人、乾草もて烏を圍み火を附けて焚殺すと有つて、此烏も星と化(な)つて天に在るらしい(Smyth, “The Aborigines of Victoria,” 1878, vol.ii, pp.434, 459)。其他鷲と烏合戰物語など、西南濠州の神話に烏多く參加せり。烏が火を傳ふとは、日と火と日と烏が相係るに由つたらしく、支那にも武王紂を伐つ時、渡孟津、有火自天、止於王屋、爲赤烏(尙書中候)、惑熒火精、生朱烏(抱朴子)、「蜀徼有火鴉、能銜火(本草集解)[やぶちゃん注:『「孟津を渡る。天より、火、有り、王屋に止まり、赤烏と爲れり。」(「尙書中候」)、熒惑(けいわく)は火の精にして、朱烏を生む。」(「抱朴子」)、「蜀の徼(さかひ)に火鴉有り、能く火を銜む。」(「本草」集解)。』。]など、類凾四二三に引き居り、中山白川營中問答の講談を幼時聽きたるに、此事の起は、白烏を朝廷へ獻じたのを郊外に放つと忽ち火に化し、京師火災に及んだからと言つた。酉陽雜俎に、烏陽物也。感陰氣而翅重、故俗以此占其雨否[やぶちゃん注:「烏は陽物なり。陰氣を感ずれば、翅、重し。故に、俗、此れを以つて其の雨ふるや否やを占ふ。」。但し、この「酉陽雜俎」出典とするという記載は不審。後注参照。]。倭漢三才圖會に鴉鳴有還聲者、謂之呼婦、主晴、無還聲者、謂之逐婦、主雨[やぶちゃん注:「鴉、鳴きて、還(もど)る聲有れば、之れを『呼婦』と謂い、晴を主(つかさど)る。還る聲無ければ、之れを」『逐婦』と謂ひ、雨を主る。」。]という支那說を引き、又云く、按夏月鴉浴近雨、每試然、凡將雨氣鬱蒸、故浴翅者矣[やぶちゃん注:「按ずるに、夏月、鴉、浴すれば、雨ふること、近し。每(つね)に試むるに、然り。凡そ將に雨ならんとすれば、氣、鬱蒸(うつじよう)す。故に翅を浴する者なり。」。但し、この「倭漢三才圖會」出典とするという記載は不審。後注参照。]。こんな譯にも由るか、濠州で烏初めて雨を下した[やぶちゃん注:「ふらした」。]と信ずる土人有り(Smyth, ii, 462)。
[やぶちゃん注:「淮南子」本邦の学者間では「えなんじ」と呉音で読むことになっている。前漢の高祖の孫で淮南王の劉安(紀元前一七九年?~同一二二年)が編集させた論集。二十一篇。老荘思想を中心に儒家・法家思想などを採り入れ、治乱興亡や古代の中国人の宇宙観が具体的に記述されており、前漢初期の道家思想を知る不可欠の資料とされる。当該箇所は「中國哲學書電子化計劃」のこちらの影印本画像の一行目で見られる。右の活字は機械翻字で、どうしようもなくひどいので参照してはダメ。
「井上哲次郞」国家主義者であった哲学者井上哲次郎(安政二(一八五六)年~昭和一九(一九四四)年)の通称。東京帝国大学で日本人初の哲学教授(明治二十三(一八九〇)~大正一二(一九二三)年)となった(“metaphysical”の訳語「形而上」は彼になるもの)。文学史では近代詩集の濫觴として必ず覚えさせられる(読んでも頗る退屈な非詩的内容なのに)「新体詩抄」を、外山正一・矢田部良吉らとともに明治一五(一八八二)年に刊行、「孝女白菊詩」などの漢詩でも有名で、当時、現役の東大教授である。
「大正二年」一九一三年。
「日本及び日本人」正しい表記は『日本及日本人』。月刊の評論雑誌。明治二一(一八八八)年四月、三宅雪嶺・井上円了・杉浦重剛ら政教社同人により創刊された『日本人』を、明治四〇(一九〇七)年に改題したもの。当初から西欧主義に反発した国粋主義を主張し、後、雪嶺の個人雑誌的色彩を濃くした(但し、大正一二(一九二三)年の大震災罹災直後に運営方針から内部で対立し、同年秋に雪嶺は去った)。昭和二〇(一九四五)年二月、終刊。戦後の昭和四一(一九六六)年一月に復刊したものの、時勢に合わず、四年後には廃刊となった。
「踆烏」太陽の中に蹲っているとされた、三本足の鴉。
「蹲」大修館書店の「廣漢和辭典」では「蹲」の意義の中で、「鷷」に同じとするので、そちらを引くと、「爾雅」に西方に棲息する雉とある。しかしこれは、何だか、「踆烏」が豆鉄砲喰らったような感じで、不服であった。そこでさらに調べると、研究者がおられた。飯塚勝重氏の論文「三足烏原像試探」(PDF・『アジア文化研究所研究年報』四十八号・二〇一四年二月発行・「東洋大学学術情報リポジトリ」のここでダウン・ロード可能。画像も豊富)である。詳しくはそちらを見られたいが、飯塚氏は「踆」を「蹲」と似ているとした記載自体を怪しいと考えておられる。「廣漢和辭典」の親分である「大漢和辞典」を引いた後に、「蹲」について「蹲鴟」(そんし)「鴟蹲」の語を掲げ、後者は本来は『うずくまるフクロウを意味する』とされる(口絵有り)。以下の「楚辞」の「烏」も考証されておられるので、是非、読まれたい。
「羿焉彃日烏焉解羽」「楚辞」の長大な詩「天問」の地上の怪異に対する疑問を挙げる段の終りにある、
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鯪魚何所
鬿堆焉處
羿焉彃日
烏焉解羽
鯪魚(りようぎよ)は 何(いづ)れの所ぞ
鬿堆(きたい)は 焉(いづ)れの處ぞ
羿(げい)は 焉(いづ)くんぞ日を彃(い)たる
烏(からす)は 焉くんぞ羽(はね)を解きたる
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である。訓読は集英社「漢詩大系 第三巻 楚辭」(藤野岩友著・昭和四二(一九六七)年)に拠った。
・「鯪魚」は清の呉任臣の「山海経広注」で、「山海経」の「海内北経」にある「陵魚、人面、手足魚身、在海中。」の注で、この屈原の「天問」の「鯪魚」をそれであるとする(「中國哲學書電子化計劃」のこちらの影印本画像を参照)。なお、私の『毛利梅園「梅園魚譜」 人魚』でも言及され、私が相当にリキを入れた注を附してあるので、是非、読まれたい。ただそこに私が張った多くの画像を見るだけでも、人魚フリークにはすこぶる楽しいはずである。序でに、私の「大和本草附錄巻之二 魚類 海女 (人魚)」もどうぞ。
・「鬿堆」「山海経」の「東山経」に「北號之山」に、「有鳥焉、其狀如鷄而白首、鼠足而虎爪、其名曰鬿雀、亦食人。」とあるのが、それらしい。
・「羿」当該ウィキによれば、『中国神話に登場する人物』で、『弓の名手として活躍したが、妻の嫦娥(姮娥とも書かれる)に裏切られ、最後は弟子の逢蒙によって殺される、悲劇的な英雄である』。『羿の伝説は』「楚辞」のこの「天問」『篇の注などに説かれている太陽を射落とした話(射日神話、大羿射日)が知られるほか、その後の時代の活躍を伝える話』(夏の時代の別な羿のことであるが、後代のそれは、この羿の伝説の派生的なものとも考えられているようだが、ここでは省略する)『も存在している』。『日本でも古くから漢籍を通じてその話は読まれており』「将門記」の石井の夜討ちの場面や、「太平記」(巻二十二)『などに弓の名手であったことや』、『太陽を射落としたことが引用されている』。『天帝である帝夋』(しゅん)『(嚳』(こく)『ないし舜と同じとされる)には羲和』(ぎわ/ぎか)『という妻がおり、その間に太陽となる』十『人の息子(火烏)を産んだ。この』十『の太陽は交代で』、一日に一人ずつ、『地上を照らす役目を負っていた』。『ところが』、『帝堯の時代に』、十『の太陽がいっぺんに現れるようになった。地上は灼熱地獄のような有様となり、作物も全て枯れてしまった。このことに困惑した帝堯に対して、天帝である帝夋は』、『その解決の助けとなるよう天から神の一人である羿をつかわした。帝夋は羿に紅色の弓(彤弓』(とうきゅう)『)と白羽の矢を与えた』。『羿は、帝堯を助け、初めは威嚇によって太陽たちを元のように交代で出てくるようにしようとしたが』、『効果がなかった』ため、『仕方なく』、一『つを残して』九『の太陽を射落とした。これにより』、『地上は再び元の平穏を取り戻したとされる』。『その後も羿は、各地で人々の生活をおびやかしていた数多くの悪獣』『を退治し、人々にその偉業を称えられた』。しかし、『自らの子(太陽たち)を殺された帝夋は羿を疎ましく思うようになり』、『羿と妻の嫦娥(じょうが)を神籍から外したため、彼らは不老不死ではなくなってしまった。羿は崑崙山の西に住む西王母を訪ね、不老不死の薬を』二『人分もらって帰るが、嫦娥は薬を独り占めにして飲んでしまう。嫦娥は羿を置いて逃げるが、天に行くことを躊躇して月(広寒宮)へしばらく身をひそめることにする。しかし、羿を裏切ったむくいで体はヒキガエルになってしまい、そのまま月で過ごすことに』なってしまった(嫦娥は道教で月の神となっている)。『なお、羿があまりに哀れだと思ったのか、「満月の晩に月に団子を捧げて嫦娥の名を三度呼んだ。そうすると嫦娥が戻ってきて再び夫婦として暮らすようになった」という話が付け加えられることもある』。『その後、羿は狩りなどをして過ごしていたが、家僕の逢蒙(ほうもう)という者に自らの弓の技を教えた。逢蒙は羿の弓の技を全て吸収した後、「羿を殺してしまえば私が天下一の名人だ」と思うようになり、ついに羿を撲殺してしまった。このことから、身内に裏切られることを「羿を殺すものは逢蒙」』(「逢蒙殺羿」)と言うようになった』とある。
・「烏(からす)は 焉くんぞ羽(はね)を解きたる」これは、まさに太陽の中に(三本足の奇体なかどうかは知らぬが)烏がさわにいたのに、羿が九つの太陽を射落とした結果、九割もの鴉は羽を落して消えてしまったという牽強付会をすると、何となく、意味が通ずるようなきがしてくる。そんなことを妄想しながら、検索していると、山のキノコ氏のブログ「雑想庵の破れた障子」の「人類は紀元前の大昔から、太陽黒点の消長と、温暖化との相関関係に気付いていた! (前篇)」にそれっぽい引用が出てくるのを見出した。さらに、同記事の(後篇)を読むに、『射落とした太陽からカラスの羽が落ちてくるか、あるいは太陽からカラスの群れが飛び出してあちこちに雲散霧消する。つまり、カラスがいなくなったのである。』とあった。而して、熊楠と同じく、この太陽の中の黒いカラスとは、太陽の黒点を指す、とあった。以下、『太陽黒点は英語では sunspot=太陽のそばかす、ほくろでありますが、世界各地に太陽にカラスがいるぞという伝承があるようで、東アジアでは太陽に棲むカラスとは太陽黒点のことです。そもそも太陽は』二十七『日 (地球日で) の周期で自転しているから黒点は日々移動していくし、太陽活動の活発さに応じて巨大になったり消滅したりして変幻自在であります。で、動き回るカラスに見えたのでしょう。東アジアの太陽に棲むカラスはたいていは』三『本足ですが、これは数字には陰の数字と陽の数字があり、太陽のカラスには陽の数字の』三『を当てたものだと考えられています。しかし、巨大肉眼黒点が』三『本足のカラスそっくりの形状であった可能性もありえます。現代人は目が悪い人が多いですが、古代人は視力の高い人が多かったと考えられ、肉眼黒点の形状を細かに観察したことであろうと思われます』とあって、更に、『日本がまだ縄文時代のころ』、『中国大陸では既に農耕がはじまっていて』、一『日の仕事をおえた人々が夕陽を眺めて、太陽のカラスを観察していたのが』三『本足のカラスの起源なのです。古代には』、『まだ近代的な意味での天文学も植物学も地質学もありませんが、現代人よりもはるかに身近な 「自然観察」 をしていたことは想像に難くありません』とあった。「楚辞」のこの一句を解釈するには、やや説明しきれていない気はするものの、非常に面白い考証である。是非、読まれたい。
「明治四十五年八月一日の『日本及日本人』に予が言つた」当該記事に当たることが出来ない。
「バツヂ」イギリスの考古学者エルネスト・アルフレッド・トンプソン・ウォーリス・バッジ(Ernest Alfred Thompson Wallis Budge 一八五七年~一九三四年)。古代エジプト・アッシリア研究者として大英博物館の責任者を長く務めた。既に「南方熊楠 小兒と魔除 (2)」と「南方熊楠 西曆九世紀の支那書に載せたるシンダレラ物語 (異れる民族間に存する類似古話の比較硏究) 6」に登場している。
「幽冥經(ブツク・オヴ・ゼ・デツド)」古代エジプトで冥福を祈り死者とともに埋葬された葬祭文書「死者の書」。パピルスなどに、主に絵とヒエログリフで、死者の霊魂が肉体を離れてから、死後の楽園アアルに入るまでの過程・道標を描いたもの。参照した当該ウィキによれば、『書名をラテン文字化』したものを、『日本語に直訳すると「日下出現の書」または「日のもとに出現するための呪文」となる』。「死者の書」という名称は、一八四二年に『プロイセン王国のエジプト学者、カール・リヒャルト・レプシウスがパピルス文書を』「Ägyptisches Totenbuch」(「エジプト人の死者の書」)と『名付けて出版したことで、英訳の』「Book of the Dead」などとして『知られるようになった』とある。
「狗頭猴(チノケフアルス)」漢字文字列からは、「狗の頭部を持った猿」で、エジプト神話に登場する冥界の神であるアヌビス(Anubis)の異名かと思ったが、不詳。綴りが判らん。Chinochephalus じゃ、何か学名みたいだし。以下の熊楠の言い方じゃ、アフリカにモデルになった猿がいるように書いてある。識者の御教授を乞うものである。
「古今著聞集に、文覺淸瀧川の上で猴謀つて烏を捕へ使ひ殺すを見た」巻第二十の「魚蟲禽獸」篇にある「文覺上人、高尾にて三匹の猿、烏を捕りて鵜飼を摸するを見る事」である。以下に電子化する。「新潮日本古典集成」版を参考に、恣意的に漢字を正字化した。
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文覺上人、高雄興隆の比、見まはりけるに、淸瀧川のかみに、大きなる猿、兩三匹ありけるが、一つの猿、岩のうへにあふのきふして、うごかず。いま二匹は、たち退きて居たりけり。上人あやしみ思ひて、かくれて見ければ、烏一兩とびきて、この寢たる猿のかたはらに居たり。しばしばかりありて、猿の足を、つつきけり。猿、なほ、はたらかず、死にたるやうにてあれば、烏、しだいにつつきて、うへにのぼりて、目をくじらむと、しけるとき、猿、烏の足をとりて、おきあがりにけり。その時、のこりの猿二匹、いできて、ながき葛(かづら)をもちて、烏の足に、つけてけり。烏、飛びさらんとすれども、かなはず。さて、やがて河にをりて、烏をば、水になげ入れて、葛のさきをとりて、一匹は、あり、いま二匹は、河上より、魚をかりけり。人の、鵜、つかひけるをみて、魚をとらせむとしけるにや。烏を鵜につかふためし、はかなけれども、こゝろばせ、ふしぎにぞ思ひよりたりける。烏は、水になげ入られたれども、その益なくて、しにゝければ、猿どもは、うちすてて、山へいりにけり。「不思議なりし事、まのあたり見たりし。」とて、彼上人、かたりけるなり。
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「Tavernier, “Travels in India,” trans. Ball, 1889, vol.ii, p.294」十七世紀のフランスの宝石商人で旅行家であったジャン=バティスト・タヴェルニエ(Jean-Baptiste Tavernier 一六〇五年~一六八九年)。一六三〇年から一六六八年の間にペルシャとインドへの六回の航海を行っており、諸所の風俗を記した。その著作は、彼が熱心な観察者であり、注目に値する文化人類学者の走りであったことを示している。彼のそれらの航海の記録はベスト・セラーとなり、ドイツ語・オランダ語・イタリア語・英語に翻訳され、現代の学者も貴重な記事として、頻繁に引用している(英文の彼のウィキに拠った)。「Internet archive」で、この原本を見つけ、指示するページを見たが、載っていない。ページ数か、巻数の誤りか。
「嚴神鈔」室町時代の成立と推定される山王七社と諸末社について述べた書。「東京大学史料編纂所」公式サイト内のこちらで、「續群書類從 四十九」のそれが視認出来る。但し、写本。
「日吉山王利生記」(ひえさんのうりしょうき:現代仮名遣)は「山王絵詞」とも呼ぶが、詞書のみが伝わる。鎌倉時代、文永年間(一二六四年~一二七五年)の成立と推定される。
「鹽尻」江戸中期の国学者天野信景(さだかげ 寛文三(一六六三)年~享保一八(一七三三)年)の膨大な随筆(百七十巻以上が現存すると思われる)。元祿・宝永・正徳・享保(一六八八年~一七三六年)の約四十年間に亙って、歴史・地理・言語・文学・制度・宗教・芸術などについての見聞や感想を記したもの。国立国会図書館デジタルコレクションで当該箇所が読める。ここの左丁の上段の「○伊勢國壹志郡矢野に祭る所の香良洲の……」の条で、上段その「香良洲(からす)の御前は天照大神の妹」という下りは上段後から四行目に出現する。
「古今圖書集成の邊裔典卷二八に、朝鮮史略曰、新羅東海濱有二人、夫曰迎烏、妻曰細烏、迎烏漂至日本國小島主、其妻細烏尋其夫、漂至其國、立爲妃、人以迎烏細烏爲日月之精」「古今圖書集成」(清の類書。現存する類書(百科事典)としては、中国史上最大で、巻数一万巻。正式名称は「欽定古今圖書集成」)を「中國哲學書電子化計劃」の影印本で探したが、眼がチカチカしてくるばかりなので、引用ではなく、原本の「朝鮮史略(李徴朝鮮末期に成立した朝鮮穆祖から宣祖朝までの略史。作者不詳)を探したところ、「漢籍リポジトリ」のこちらにあった。[001-17b]の画像と電子化を見られたい。
「新羅の官制十七品」新羅(紀元前五七年~紀元後 九三五年)官位と職名であろう。
「ミツラ敎」ミトラ教・ミトラス教・ミスラス教とも。古代ローマで隆盛した、太陽神ミトラス(ミスラス)を主神とする密儀宗教であるが、これは、その起原は古代のインド・イランに共通するミスラ(ミトラ)神の信仰であったものが、ヘレニズムの文化交流によって地中海世界に入った後、形を変えたものと考えられることが多い。 紀元前一世紀には牡牛を屠るミトラス神が地中海世界に現われ、紀元後二世紀までには、ミトラ教としてよく知られる密儀宗教となった。ローマ帝国治下で一世紀より四世紀にかけて興隆したと考えられている。しかし、その起源や実体については不明な部分が多い(当該ウィキに拠った)。
「“Encyclopaedia Britannica,” vol.xviii, p.623」「Internet archive」の原本のここ。
「Seyffert, “A Dictionary of Classical Antiquities,” trans., 1908, p.396」ドイツの古典哲学者でローマが専門であったオスカル・セイフェルト(Oskar Seyffert 一八四一年~一九〇六年)の著作。「Internet archive」で版は古いが(一八九五年)、同ページにあった。キャプションは「ミトラスの生贄」で、左上方の崖の上にカラスが確かにいる。
「Frobenius, “The Childhood of Man,” 1909, pp.255-6」ドイツの在野の民族学者・考古学者で、ドイツ民族学の要人であったレオ・ヴィクトル・フロベニウス(Leo Viktor Frobenius 一八七三年~一九三八年)の英訳本「人類の幼年期」。「Internet archive」のこちらで原本の当該箇所が見られ、その下方の「241」図が「鴉死人の靈を負て太陽に送り付ける所を西北米土人が刻んだ樂器の」それだ。素敵だ! 気に入ったので、スクリーン・ショットでキャプションごと撮り、以下に掲げる。因みに、この後にも同様な魅力的なそれらの図が見られる。必見!
「ツリンキート人は最初火を持來り、光を人に與へしは烏と信ず(“Encyc. Brit.,” ii, 51)」「Internet archive」の原本を確認、そこに北西アメリカの「Thlinkit indians」とあった。調べて見ると、所謂、イメージする北米インディアンよりも、アラスカに分布する人々のようである。和文記載が乏しく、よく判らない。
「ヤラ河」ヤラ川(Yarra River)はオーストラリアのビクトリア州南部を流れる川で、ヤラ・レンジズ国立公園の湿地帯に源を発し、メルボルンの中心地区を流れ、ポート・フィリップ湾のメルボルン港に注ぐ。流路延長は約二百四十二キロメートル。ここ(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。その Yarra Ranges National Park 附近のアボリジニーの伝承である。
「Smyth, “The Aborigines of Victoria,” 1878, vol.ii, pp.434, 459」オーストラリアの地質学者で、作家・社会評論家でもあったロバート・ブラフ・スミス(Robert Brough Smyth 一八三〇年~一八八九年)の作品。「Internet archive」の原本の「434」はここで、下方に火の伝承のことが短く記されているが、そこにはその伝説ついては、第一巻の「461」ページに指示してある(二巻の「459」ページは目録で違う)。そこで、第一巻を見ると、「458」から「火」の項があり、「459」に熊楠の示した「カール、アク、アール、ウク女」(原書では「Kar-ak-ar-ook」と綴る)の名が二行目に出現する。ここだ!
「尙書中候」緯書(漢代に盛行した讖緯説を集大成した書。先秦の頃より流行していた未来を予言する讖(しん)と、陰陽五行・災異瑞祥・天人相感などの諸説によって経書を解釈しようとする緯とが結合した讖緯説は、図讖・図緯・緯候などと呼ばれて前漢末に隆盛を極めた。それが後漢の初めに至って、政権と結び付き、王莽の重んじた古文経に対抗して今文(きんぶん)学説として整理の気運が生じ、「乾鑿度」・「考霊曜」・「元命包」のように三字の編名を冠するいわゆる「緯書」が成立した。ここは小学館「日本大百科全書」に拠った)の一書。散佚して、引用でしか見られない。
「蜀徼有火鴉、能銜火(本草集解)」これは李時珍の「本草綱目」の巻四十九「禽之三」の「慈烏」の「集解」の最後にある。「漢籍リポジトリ」のこちらの[114-10b]の影印画像を見られたい。
「類凾四二三」以上の三つの引用は、「漢籍リポジトリ」のこちらの「鳥部六【烏・鵲】」の「烏一」及び「烏二」にバラバラに出るものを熊楠がチョイスしてセットにしたもの。漢文を熟語の文字列でそれぞれ検索されたい。
「中山白川營中問答」「中山」は公卿議奏に任じられた中山愛親(なるちか 寛保元(一七四一)年~文化一一(一八一四)年:寛政元(一七八九)年に光格天皇が父典仁(すけひと)親王に太上(だいじょう)天皇の尊号をおくることを幕府に諮ったが、老中松平定信の反対でならなかった「尊号一件」で知られた人物。同五年に幕府の召喚を受け、一件紛糾の責任をとわれて閉門百日、議奏を解任された)で、「白川」白河公松平定信であろう。国立国会図書館デジタルコレクションに「勤王龜鑑 繪本中山實記」というのがあり(大谷信道編・明治二〇(一八八七)年広知社刊)、問答が幾つかあるが、ざっと見た限りでは、この話はないようだった。「白烏を朝廷へ獻じたのを郊外に放つと忽ち火に化し、京師火災に及んだ」というのを、幾つかの単語の組み合わせで検索したが、これもヒットしなかった。識者の御教授を乞う。
「酉陽雜俎に、烏陽物也……」この以下の文字列は、「酉陽雜俎」には見当たらない。しかし、私の「和漢三才圖會第四十三 林禽類 慈烏(からす) (ハシボソガラス)」で、良安は、「三才圖會」から引用して、
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「三才圖會」に云はく、『鴉、異を見れば、則ち、噪(さは)ぐ。故に、人、烏の噪ぐを聞くときは、則ち唾(つばきは)く。性(せい)、樂にして空曠(くうくわう)。涎(よだれ)を傳(つた)へて孕(はら)む。烏の飛-翅(と)ぶを候(うかが)ひて、天、將に雨(あめふ)らんとするを知る。蓋し、烏は陽物なり。陰氣を感じて重(おも)し。故に、俗、此れを以つて雨を占ふ。』と。
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とあるのを、熊楠は勘違いしたものか?
「倭漢三才圖會に鴉鳴有還聲者……」これも「和漢三才図会」には、幾つかの項を調べたが、どこにも見当たらない。気になるのは、「鴉鳴有還聲者、謂之呼婦、主晴、無還聲者、謂之逐婦、主雨」「という支那說を引き」という熊楠の言い方が、必ずしも、引用でない点で、中文サイトの「古今圖書集成」のこちらの「論飛禽」に(活字化を参考に画像で起こした)、
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諺云、「鴉浴風、鵲浴雨、八八兒洗浴斷風雨。」。鳩鳴有還聲者、爲之呼婦主晴、無還聲者、爲之逐婦主雨。鵲巢低主水、高主旱。俗傳、鵲意既預知水。則云、終不使我沒殺、故意愈低、既預知旱、則云、終不使我曬殺、故意愈高。「朝野僉載」云、鵲巢近地、其年大水、海燕忽成群而來、主風雨。諺云、「烏肚雨白肚風赤、老鴉含水叫。」。雨則未晴、晴亦主雨、老鴉作此聲者亦然。鴉若叫早主雨、多人辛苦。叫晏晴、多人安閒。農作次第、夜間聽九逍遙鳥叫卜風雨。諺云、「一聲風、二聲雨、三聲四聲斷風雨。」。鸛鳥仰鳴則晴、俯鳴則雨。鵲噪早報晴明曰乾鵲。冬寒天雀群飛翅聲重必有雨雪。鬼車鳥卽是九頭蟲、夜聽其聲出入、以卜晴雨。自北而南、謂之出窠、主雨。自南而北、謂之歸窠、主晴。「古詩」云、「月黑夜深聞鬼車 吃鷦叫」。主晴。俗謂之、「賣蓑衣𪃮叫。」。諺云、「朝𪃮晴、暮𪃮雨。」。夏秋間雨陣將至、忽有白鷺飛過、雨竟不至、名曰截雨。家鷄上宿遲、主陰雨。燕巢做不乾淨、主田内草多、母鷄背負鷄鶵、謂之鷄䭾兒、主雨【𪃮字査字典不載。乃方言也。音屋字亦係俗字。】
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とあって、内容と対象の鳥に異同があるが、その諺に酷似する部分があることが判る。さらに、以下の「按夏月鴉浴近雨、每試然、凡將雨氣鬱蒸、故浴翅者矣」であるが、「按」は良安の自身の解説をする際の定番の謂いではあり、「自分で試してみたが、その通り。」というのも良安がよく使う謂い方なのではあるのだが、見当らないのである。調査は続行する。識者の御援助も乞いたい。
「濠州で烏初めて雨を下したと信ずる土人有り(Smyth, ii, 462)」これも第一巻の誤り。「Internet archive」の原本のここ。]
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