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2022/01/31

毛利梅園「梅園介譜」 水蟲類 朝鮮ガニ / モクズガニ?

 

[やぶちゃん注:底本の国立国会図書館デジタルコレクションのここからトリミングした。この丁の図は、皆、小さい。なお、実際には、以下の画像の右下部には先の塩蔵ニホンザリガニの解説と左鉗脚があり、右上には先の「鰕一種」の触角の一部があるのだが、流石に五月蠅いので、今回は文字のない本丁の一部分を切り取り、それをそこに貼りつけて、意図的に消してある。本図には標題とクレジット以外に、解説はない。]

 

Tyousengani

 

朝鮮がに

 

乙未(きのとひつじ)八月五日、眞寫す。

 

[やぶちゃん注:甲羅の形状に問題があるが、左右の鉗脚の掌部と前節が、それぞれ、異様に出っ張って、エラが張っているかのように尖って描かれているのは、思うに、モクズガニの鉗脚の濃い毛の層を描いたもののように私には感じられた。

短尾下目イワガニ(岩蟹)科モクズガニ(藻屑蟹)属モクズガニ Eriocheir japonica

但し、逆立ちしてもこんな甲羅の形状ではない。しかし、他に候補を挙げることが、私には出来ない。「朝鮮がに」という呼称も、同属異種の「上海蟹」で知られるチュウゴクモクズガニ Eriocheir sinensis の原産地が、中国及び朝鮮半島東岸部とされることとも親和性を持つように思う(なお、チュウゴクモクズガニは本来は本邦に棲息しないが、既に侵入しているようである。恐らくは人為移入であろう)。違った種であると困るので、詳しくはウィキの「モクズガニ」を読まれたい。識者の御教授を乞う。

「乙未八月五日」天保六年。一八三五年九月二十六日。]

毛利梅園「梅園介譜」 水蟲類 サリ蟹(シマリカニ) / ニホンザリガニ(再出・塩蔵標本)

 

[やぶちゃん注:底本のここからトリミングした。この丁の図は、皆、小さいが、ご覧の通り、そこに同じヤマトザリガニの図を二つ並べて描いてある。梅園にとって、この種は非常に興味ある対象であったことが見てとれる。但し、塩蔵標本で体色が異なることから、これが、先の「福蟹」と同じヤマトザリガニであるとすることを、やや躊躇している雰囲気はある。しかし、『恐らく同一種ならん』と彼が思ったからこそ、かく並置し、同じく奇品と記したと考えてよかろう。なお、実際には、以下の画像の左下部の解説の真上には「朝鮮ガニ」の図があるのだか、流石に五月蠅いので、今回は文字のない本丁の一部分を切り取り、それをそこに貼りつけて、意図的に消してある。標題の前に最初の解説があるが、後に回した。]

 

Yamatozarigani

 

さり蟹【「しまりかに」。松前。】

 

或る某(ぼう)、奥刕旅行の節、彼(か)の地にて、之れを得(え)、二疋、予にあたゑり。最も、𪉩に漬けて送りしゆへ、生色(せいしよく)を知らず。只、竒品にして、之れを玩す。其の形狀を載するのみ。

 

乙未(きのとひつじ)八月十四日、倉橋氏藏を乞ひて、眞寫す。

 

「さり蟹」の頭に石を生ず。漢名「喇蛄石(ラツコセキ)[やぶちゃん注:底本のルビ。]」、蘭名に呼びて、「ヲクリカンキリ」。此の「かに」、「ゑび」の形に似て、さかしまに行く故(ゆゑ)、「さり蟹」と云ふ。

 

[やぶちゃん注:並置される『毛利梅園「梅園介譜」 水蟲類 福蟹(フクガニ) / ニホンザリガニ』と同じく、現在、本邦の北東北と北海道のみに棲息する日本固有種である、

十脚(エビ)目抱卵亜(エビ)目異尾(ザリガニ)下目ザリガニ上アジアザリガニ科アジアザリガニ属ニホンザリガニ Cambaroides japonicus

である。詳細な注をリンク先に附してあるので、そちらを見られたい。なお、少し疑問を感じるのは、二個体の塩蔵品を梅園は所持しているのにも拘わらず、わざわざ、本図のために倉橋氏(既注であるが、再掲すると、本カテゴリで最初に電子化した『カテゴリ 毛利梅園「梅園介譜」 始動 / 鸚鵡螺』に出る、梅園にオウムガイの殻を見せて呉れた「倉橋尚勝」であるが、彼は梅園の同僚で幕臣(百俵・御書院番)である(国立国会図書館デジタルコレクションの磯野直秀先生の論文「『梅園図譜』とその周辺」PDF)を見られたい)の所蔵品を見せて貰って描いたという点であるが、或いは、梅園が貰った二個体の方は、保存状態がよくなく、外骨格がばらばらになってしまい、写生するに適さない状態であったことから、状態のよい塩蔵品を倉橋尚勝から借りて写生したということであろうか。解説の最後で、既に先に注した「ざりがに」の語源説の一つが示されているのが、興味深い。私も少年期にアメリカザリガニをよく捕った時の観察から、この語源説を強く支持するものである。

「乙未八月十四日」天保六年。一八三五年十月五日。]

毛利梅園「梅園介譜」 水蟲類 カタ〻ヱビ / 産地誤認のテッポウエビ或いはテナガエビの第二歩脚の欠損個体(再出)

 

[やぶちゃん注:底本の国立国会図書館デジタルコレクションのここからトリミングした。この丁の図は、皆、小さいが、本種が最も大きく描かれているから、梅園にとっては興味ある対象であったことが見てとれる。なお、実際には、以下の画像の中央下部左寄りには、下方に描かれた「朝鮮ガニ」のキャプションがあるのだが、流石に五月蠅いので、今回は文字のない本丁の一部分を切り取り、それをそこに貼りつけて、意図的に消してある。]

 

Katataebi

 

鰕一種【「かたゑび」。】

 かた〻ゑび

    【江刕。京。】

 

江刕西堅田より出づる蝦。名産にして、其の地の、各(おのおの)を[やぶちゃん注:「それぞれの地名を冠して」の意であろう。]「松原ゑび」も亦、同じ。武江にて、芝の海より産する者を「芝ゑび」と呼び、皆、相ひ同じ。「芝ゑび」の中に、江刕にて、「堅田(かたた)ゑび」と称する者、希れにあり。則ち、條下に圖す。

 

乙未(きのとひつじ)陸月廿八日、眞寫す。[やぶちゃん注:「陸」は同字の異体字のこちら(「グリフウィキ」)と思われる。ネットを調べると、人名で「陸月」と書いて「むつき」と読ませるケースがあるとするから、一月の異名「睦月」と採ってよい。]

 

[やぶちゃん注:これは先の『毛利梅園「梅園介譜」 水蟲類 大脚蝦(テンボウヱビ)・白タヱビ・田ヱビ / テッポウエビ(概ね図のみ)・テナガエビの第二歩脚の欠損個体(解説内)・シラタエビ・ヤマトヌマエビ(最後は再出か)』で出た、散々、困らされた最上部の個体と同じ種である。そちらで述べた通り、見た目は、テッポウエビ科 Alpheidae の最大級の種である、

節足動物門軟甲綱ホンエビ上目十脚目抱卵(エビ)亜目コエビ下目テッポウエビ上科テッポウエビ科テッポウエビ属テッポウエビ Alpheus brevicristatus

にしか私には見えないのだが、それはあり得ない。テッポウエビは日本を含む東アジア沿岸海域の内湾・浅海の砂泥底、則ち、干潟にのみに棲息する海産エビで、内陸の琵琶湖(「堅田」(かたた)「松原」は琵琶湖沿岸の地名)には棲息しているはずがないからである。されば、そこで私は、そちらに出た藤居重啓著になる「湖中産物圖證」の写本の図を引き、本文を読んで、結果して、

十脚目テナガエビ科テナガエビ亜科テナガエビ属テナガエビ Macrobrachium nipponense の片方の鉗脚の欠損個体

を指していると断じた。誰からも、本種を別のこの種であると名指す御意見を頂いていないので、これを変更する気はない。引き続き、識者の御教授を乞うものではある。以前なら、私の博物図譜の電子化注にエールを送って戴いた、著名な魚類学者の方がおり、幾つかの種同定で、それぞれの専門家の方に同定を依頼して下さったが、その先生も既に鬼籍に入られており、そうした専門家との関係も一切なくなったので、最早、万事休すなのである。

 なお、ここに書かれた解説は冒頭のリンク先の内容と殆んど重複しているので、新たに注は不要と思われる。]

萩原朔太郎詩集「定本 靑猫」正規表現版 まどろすの歌

 

   まどろすの歌

 

愚かな海鳥のやうな姿(すがた)をして

瓦や敷石のごろごろとする 港の市街區を通つて行かう。

こはれた幌馬車が列をつくつて

むやみやたらに圓錐形の混雜がやつてくるではないか

家臺は家臺の上に積み重なつて

なんといふ人畜のきたなく混雜する往來だらう。

見れば大時計の古ぼけた指盤の向うで

冬のさびしい海景が泣いて居るではないか。

淚を路ばたの石にながしながら

私の辨髮を脊中にたれて 支那人みたやうに步いてゐよう。

かうした暗い光線はどこからくるのか

あるひは理髮師(とこや)や裁縫師(したてや)の軒に artist の招牌(かんばん)をかけ

野菜料理や木造旅館の貧しい出窓が傾いて居る。

どうしてこんな貧しい「時」の寫眞を映すのだらう。

どこへもう! 外の行くところさへありはしない。

はやく石垣のある波止場を曲り

遠く沖にある帆船へかへつて行かう。

さうして忘却の錨を解き 記綠のだんだんと消えさる港を訪ねて行かう。

 

[やぶちゃん注:底本のPDF一括版を見られたいが(64及び65コマ目)、「辨髮」はこうも書くので、誤字・誤植とは言えない。「あるひは」はママ。「あるひは理髮師(とこや)や裁縫師(したてや)の軒に artist の招牌(かんばん)をかけ」の「artist」の大振りのポイントはママ(底本で確認されたい)。「記綠」は「記錄」の誤字或いは誤植。なお、『第一書房版「萩原朔太郞詩集」(初収録詩篇二十一篇分その他)正規表現版 「靑猫(以後)」 まどろすの歌』を見られたい。「どこへもう!」のエクスクラメンション・マークの追加以外は詩想上の異同はない。そちらでは、語注・初出も示してある。なお、先行する『萩原朔太郎詩集「定本 靑猫」正規表現版 海港之圖』(散文詩中に本篇の一部を改変した引用がある)も参照されたい。]

萩原朔太郎詩集「定本 靑猫」正規表現版 風船乘りの夢

 

   風船乘りの夢

 

夏草のしげる叢(くさむら)から

ふはりふはりと天上さして昇りゆく風船よ

籠には舊曆の曆をのせ

はるか地球の子午線を越えて吹かれ行かうよ。

ばうばうとした虛無の中を

雲はさびしげにながれて行き

草地も見えず 記憶の時計もぜんまいがとまつてしまつた。

どこをめあてに翔けるのだらう!

さうして酒瓶の底は空しくなり

醉ひどれの見る美麗な幻覺(まぼろし)も消えてしまつた。

しだいに下界の陸地をはなれ

愁ひや雲やに吹きながされて

知覺もおよばぬ眞空圈内へまぎれ行かうよ。

この瓦斯體もてふくらんだ氣球のやうに

ふしぎにさびしい宇宙のはてを

友だちもなく ふはりふはりと昇つて行かうよ。

 

[やぶちゃん注:太字は底本では傍点「ヽ」。『第一書房版「萩原朔太郞詩集」(初収録詩篇二十一篇分その他)正規表現版 「靑猫(以後)」 風船乘りの夢』を参照されたいが、異同は八行目「どこをめあてに翔けるのだらう!」のエクスクラメンション・マークがないことだけである。]

萩原朔太郎詩集「定本 靑猫」正規表現版 海港之圖

 

 

Kaikounozu
圖 之 港 海

 

 港へ來た。マストのある風景と、浪を蹴つて走る蒸汽船と。

 

 どこへもう! 外の行くところもありはしない。

 はやく石垣のある波止場を曲り

 遠く沖にある帆船へ歸つて行かう。

 さうして忘却の錨をとき、記憶のだんだんと消えさる港を訪ねて行かう。

     ――まどろすの歌――

 

[やぶちゃん注:銅版画は筑摩版全集第二巻(初版・昭和五一(一九七六)年三月二十五日発行)からトリミングした。底本ではここ(単体HTML画像)で、PDF一括版では60コマ目。前の「桃李の道」の終りが右ページにある。

 キャプション下の散文詩は本詩集のこの絵に添えたオリジナルであるが、最初の一段落だけの散文詩(これは完全なオリジナル)の後の詩篇は、この三つ後の「まどろすの歌」(底本単体HTML画像でここで、PDF一括版では65コマ目、それらの右「84 」ページ)のコーダを改変(以下に示す通り、活字の致命的誤りがある)して挿入してある。また、「どこへもう!」の後の字空けが半角分しかないのは見て戴くと判る通り、ママである(理由不明。単なる植字の際の誤りか)。全篇は後で電子化したが、その十五行目から最終行十八行目で、そちらでは、

   *

 

どこへもう! 外の行くところさへありはしない。

はやく石垣のある波止場を曲り

遠く沖にある帆船へかへつて行かう。

さうして忘却の錨を解き 記綠のだんだんと消えさる港を訪ねて行かう。

 

   *

となっている。「記綠」は「記錄」の痛い誤字或いは誤植である(そちらの注で解説する)。なお、古い記事だが、「海港之圖 萩原朔太郎 (版画2タイプ掲示)」も参照されたい。]

2022/01/30

萩原朔太郎詩集「定本 靑猫」正規表現版 桃李の道

 

   桃 李 の 道

              老子の幻想から

 

聖人よ あなたの道を敎へてくれ

繁華な村落はまだ遠く

鷄(とり)や犢(こうし)の聲さへも霞の中にきこえる。

聖人よ あなたの眞理をきかせてくれ。

杏の花のどんよりとした季節のころに

ああ私は家を出で なにの學問を學んできたか

むなしく靑春はうしなはれて

戀も 名譽も 空想も みんな泥柳の牆(かき)に涸れてしまつた。

聖人よ

日は田舍の野路にまだ高く

村々の娘が唱ふ機歌(はたうた)の聲も遠くきこえる。

聖人よ どうして道を語らないか?

あなたは默し さうして桃や李やの咲いてる夢幻の鄕(さと)で

ことばの解き得ぬ認識の玄義を追ふか。

ああ この道德の人を知らない

晝頃になつて村に行き

あなたは農家の庖厨に坐るでせう。

さびしい路上の聖人よ

わたしは別れ もはや遠くあなたの沓音(くつおと)を聽かないだらう

悲しみのしのびがたい時でさへも

ああ 師よ! 私はまだ死なないでせう。

 

[やぶちゃん注:底本でも、添え辞のポイントは実際に詩本文のものと同じである(PDF一括版の59コマ目を見られたい。因みに60コマ目で後半が右ページに、左ページに銅版画添えの後出の「まどろすの歌」の一部を改変した一部を引いた散文詩があるのである)。『第一書房版「萩原朔太郞詩集」初収録詩篇二十一篇分その他・正規表現版 始動 /序・凡例・「靑猫(以後)」パートの「桃李の道」』を参照されたい。]

萩原朔太郎詩集「定本 靑猫」正規表現版 惡い季節

 

   惡 い 季 節

 

薄暮の疲勞した季節がきた。

どこでも室房はうす暗く

慣習のながい疲れをかんずるやうだ。

雨は往來にびしよびしよして

貧乏な長屋が並びてゐる。

 

こんな季節のながいあひだ

ぼくの生活は落魄して

ひどく窮乏になつてしまつた。

家具は一隅に投げ倒され

冬の 埃の 薄命の日ざしのなかで

蠅はぶむぶむと窓に飛んでる。

こんな季節のつづく間

ぼくのさびしい訪問者は

老年の よぼよぼした いつも白粉くさい貴婦人です

ああ彼女こそ僕の昔の戀人

古ぼけた記憶の かあてんの影をさまよひあるく情慾の影の影だ。

 

こんな白雨のふつてる間

どこにも新しい信仰はありはしない。

詩人はありきたりの思想をうたひ

民衆のふるい傳統は疊の上になやんでゐる。

ああこの厭やな天氣

日ざしの鈍い季節。

 

ぼくの感情を燃え爛すやうな構想は

ああもう どこにだつてありはしない。

 

[やぶちゃん注:「萩原朔太郞 靑猫(初版・正規表現版) 惡い季節」を参照されたい。]

萩原朔太郎詩集「定本 靑猫」正規表現版 囀鳥

 

   囀  鳥

 

軟風のふく日

暗鬱な思惟(しゐ)にしづみながら

しづかな木立の奧で落葉する路を步いてゐた。

天氣はさつぱりと晴れて

赤松の梢にたかく囀鳥の騷ぐをみた

愉快な小鳥は胸をはつて

ふたたび情緖の調子をかへた。

ああ 過去の私の鬱陶しい瞑想から 環境から

どうしてけふの情感をひるがへさう

かつてなにものすら失つてゐない。

人生においてすら

人生においてすら 私の失つたのは快適だけだ

ああしかし あまりにひさしく失つてゐる。

 

[やぶちゃん注:「萩原朔太郞 靑猫(初版・正規表現版) 囀鳥」及び「快適を失つてゐる 萩原朔太郎 (「囀鳥」初出形)」を見られたい。]

萩原朔太郎詩集「定本 靑猫」正規表現版 白い雄鷄

 

   白 い 雄 鷄

 

わたしは田舍の鷄(にはとり)です

まづしい農家の庭に羽ばたきし

垣根をこえて

わたしは乾(ひ)からびた小蟲をついばむ。

ああ この冬の日の陽ざしのかげに

さびしく乾地の草をついばむ

わたしは白つぽい病氣の雄鷄(をんどり)

あはれな かなしい 羽ばたきをする生物(いきもの)です。

 

私はかなしい田舍の鷄(にはとり)

家根をこえ

垣根をこえ

墓場をこえて

はるかの野末にふるゑさけぶ

ああ私はこわれた日時計 田舍の白つぽい雄鷄(をんどり)です。

 

[やぶちゃん注:「ふるゑ」「こわれた」はママ。「萩原朔太郞 靑猫(初版・正規表現版) 白い牡鷄」を見られたいが、詩集「靑猫」版とは、標題から本文まで三箇所の「牡鷄」を「雄鷄」とする以外は有意な異同を認めない。]

萩原朔太郎詩集「定本 靑猫」正規表現版 顏

 

   

 

ねぼけた櫻の咲くころ

白いぼんやりした顏がうかんで

窓で見てゐる。

ふるいふるい記憶のかげで

どこかの波止場で逢つたやうだが

菫の病鬱の匂ひがする

外光のきらきらする硝子窓から

ああ遠く消えてしまつた 虹のやうに。

 

私はひとつの憂ひを知る

生涯(らいふ)のうす暗い隅を通つて

ふたたび永遠にかへつて來ない。

 

[やぶちゃん注:「萩原朔太郞 靑猫(初版・正規表現版) 顏」を見られたいが、本篇は異同が全くない、特異点の正真正銘の再録である。]

萩原朔太郎詩集「定本 靑猫」正規表現版 思想は一つの意匠であるか

 

   思想は一つの意匠であるか

 

鬱蒼としげつた森林の樹木のかげで

ひとつの思想を步ませながら

佛は蒼明の自然を感じた。

どんな瞑想をもいきいきとさせ

どんな涅槃にも溶け入るやうな

そんな美しい月夜をみた。

 

「思想は一つの意匠であるか?」

佛は月影を踏み行きながら

かれのやさしい心にたづねた。

 

[やぶちゃん注:実際には底本では御覧の通り五行目「涅槃」の「涅」の字が、(つくり)の下部が「王」である「涅」の異体字のこれ(「グリフウィキ」)である。表示出来ないので、通常の「涅」を当てておいた。「萩原朔太郞 靑猫(初版・正規表現版) 思想は一つの意匠であるか」を見られたいが、そちらでも「涅」の異体字「𣵀」が使用されてあり、初版で「涅」を使っているからして、実に朔太郎は三種の活字を使っているかのように見えるが、極めて高い確率で、これはそれぞれの印刷所の「涅」の植字活字が、たまたまそれであったに過ぎない結果であろうと私は思う。「まあ、三種も、ヴァラエテイに富んだ意匠で――誠(まつこと)御苦勞樣でした。」と優しく植字工に秘かに労いの言葉をかけておくことに致そう。]

萩原朔太郎詩集「定本 靑猫」正規表現版 蒼ざめた馬

 

   蒼 ざ め た 馬 

 

冬の曇天の 凍りついた天氣の下で

そんなに憂鬱な自然の中で

だまつて道ばたの草を食つてる

みじめな しよんぼりした 宿命の 因果の蒼ざめた馬の影です。

わたしは影の方へうごいて行き

馬の影はわたしを眺めてゐるやうす。

ああはやく動いてそこを去れ

わたしの生涯(らいふ)の映𤲿膜(すくりん)から

すぐに すぐに 外(ず)りさつてこんな幻像を消してしまへ。

私の「意志」を信じたいのだ。馬よ!

因果の 宿命の 定法の みじめなる

絕望の凍りついた風景の乾板から

蒼ざめた影を逃走しろ。

 

[やぶちゃん注:「萩原朔太郞 靑猫(初版・正規表現版) 蒼ざめた馬」を参照されたい。]

萩原朔太郎詩集「定本 靑猫」正規表現版 笛の音のする里へ行かうよ

 

   笛の音のする里へ行かうよ

 

俥に乘つて走つて行くとき

野も 山も ばうばうとして霞んでみえる。

柳は風にふきながされ

燕も 歌も ひよ鳥も かすみの中に消えさる。

ああ 俥のはしる轍(わだち)を透して

ふしぎな ばうばくたる景色を行手にみる。

その風光は遠くひらいて

さびしく憂鬱な笛の音を吹き鳴らす

ひとのしのびて耐へがたい情緖である。

 

このへんてこなる方角をさして行け

春の朧げなる柳のかげで 歌も燕もふきながされ

わたしの俥やさんはいつしんですよ。

 

[やぶちゃん注:「萩原朔太郞 靑猫(初版・正規表現版) 笛の音のする里へ行かうよ」を参照されたい。]

毛利梅園「梅園介譜」 水蟲類 福蟹(フクガニ) / ニホンザリガニ

 

[やぶちゃん注:底本のここからトリミングした。この丁の図は、皆、小さい。本図は現在は絶滅危惧II類(VU)の本邦固有種のザリガニの北海道産の貴重な図である。]

 

Wokurikankirihukugani

 

福蟹(ふくがに)【蝦夷福山の産。「ヲクリカンキリ」。】

  福山の産なる故に、「福がに」と称す。予、考ふるに、「蝦蟹(ざりがに)」なるべし。

 

甲午(きのえむま)正月廿日、萬屋(よろづや)の某(ぼう)、之れを送る。則ち、眞寫し、自(みづか)ら、竒品(きひん)として藏(ざう)す。

 

[やぶちゃん注:「竒品」の右下の送り字は「ヲ」のようにも見えるが、それでは、ちょっと意味としておかしい。約物「乄」と判読し、「と」を添えて読んだ。本図は、現在、本邦の北東北と、北海道のみに棲息する日本固有種である、

十脚(エビ)目抱卵亜(エビ)目異尾(ザリガニ)下目Astacideaザリガニ上科Astacoideaアジアザリガニ科 Cambaroididaeアジアザリガニ属ニホンザリガニ Cambaroides japonicus

である。ウィキの「ニホンザリガニ」によれば、日本に住む三種のザリガニの内(他はザリガニ科 AstacidaeのPacifastacus属シグナルザリガニ亜種ウチダザリガニ Pacifastacus leniusculus trowbridgii :大正一五・昭和元(一九二六)年にアメリカ・オレゴン州ポートランドのコロンビア川流域の個体を農林省水産局が食用目的で実施した「優良水族移植」により北海道摩周湖に移入)と、異尾(ザリガニ)下目アメリカザリガニ科 Cambaridaeのアメリカザリガニ属アメリカザリガニ亜属アメリカザリガニ Procambarus clarkii :昭和二(一九二七)年(年)五月十二日に食用養殖目的で農林省主導で行われた無尾目アカガエル科アメリカアカガエル属ウシガエル Lithobates catesbeianus の餌(えさ)用として神奈川県鎌倉郡岩瀬の鎌倉食用蛙養殖場に二十匹持ち込まれたのが最初。後に養殖池から逃げ出した個体が、一九六〇年頃には九州まで分布域を広げた。日本では全国各地に広く分布する)、『唯一の在来種であり、秋田県・大館市にある生息地が、国の天然記念物に指定されている』。『成体の体長は』五~六センチメートル『ほど』で、稀れに七センチメートルに『達するが、アメリカザリガニよりは小さい。体色は茶褐色で、アメリカザリガニに比べて体や脚が太く、ずんぐりしている』。『かつては北日本の山地の川に多く分布していたが、現在は北海道、青森県、岩手県及び秋田県の』一道三県に『少数が分布するのみである』。大正『初頭では』、『北湖道の支笏湖から一度に』四千匹をも漁獲されて『いたが、十数年後の昭和』『初頭で既に支笏湖では数を集めるのが難しくなっていた』という』(ここに「日光のザリガニ」という長いエピソードが挟まっているが、皇室絡みの話で興味がないのでカットした)。『川の上流域や山間の湖沼の、水温』摂氏二十度『以下の』、『冷たく』、『きれいな水に生息し、巣穴の中に潜む。主に広葉樹の落葉を食べるが』、『雑食性で小魚や昆虫、生物の死体なども食べる』。『繁殖期は春で』♀は直径二~三ミリメートル『ほどの大粒の卵を』三十から六十『個ほど産卵する』。♀は『卵を腹肢に抱え、孵化するまで保護する。孵化した子どもはすでに親と同じ形をしており、しばらくはメスの腹肢につかまって過ごすが、やがて親から離れて単独生活を始める。体長』四センチメートルになるまで、二~三年、『繁殖を始める』には、五年『かかる。アメリカザリガニに比べて産卵数も少なく、成長も遅い』。『脱皮の前には外骨格(体を覆う殻)の炭酸カルシウムを回収し、胃の中に胃石をつくる。脱皮後に胃石は溶けて、新しい外骨格に吸収される。ただ、この胃石に含まれるカルシウム量は元の外骨格の』三%に『過ぎず、脱皮後の弱い時期にザリガニ自身を守るための様々な栄養素や免疫を集約したものである』。『ヒルミミズ類』(環形動物門環帯綱ヒルミミズ目ヒルミミズ科 Branchiobdellidae:詳しくは当該ウィキを参照されたい)『はミミズとヒルの中間のような動物群で、ほぼ北半球のザリガニ類の体表のみに生息する小型動物であり、地域やザリガニの種別に異なった種がおり、また同一地域でも複数種がある。ニホンザリガニの場合、この類の』十三『種が知られている』。『ところが』、『秋田県・尾去沢の個体群にはウチダザリガニに付くウチダザリガニミミズ Cirrodrilus uchidai (Yamaguchi, 1932) が付着していたことから、同個体群のニホンザリガニは北海道から移入された可能性が指摘されている。また、大正時代に行われた人為移入の結果と考えられる個体群が、栃木県・日光市においても発見され』、『ヒルミミズにより』、『北海道由来の個体群であることが推定された。これにより』、『北海道の個体群であっても、ある一定の条件が整えば』、『首都圏においても生息できることが判明した』。『北海道と本州(尾花沢以外の東北)の生息地では付着するヒルミミズ類の種は異なるものである。そのため、東北の本種が北海道から人為的に持ち込まれたものである、との可能性はほぼ否定することが出来る』。『伝統的な分類では、ニホンザリガニが属するアジアザリガニ属は、アメリカザリガニ科に含められている。しかし、アメリカザリガニ科が基本的に南北アメリカに産する中で、アジアザリガニ属は例外的にアジア産である』。『近年の研究によると、アジアザリガニ属は他のアメリカザリガニ科とは別系統で』、『アメリカザリガニ科とザリガニ科(ウチダザリガニなど)で、上位分類群のザリガニ上科を構成するが、アジアザリガニ属はそのザリガニ上科の中で最初に分岐したか』、『あるいはザリガニ科の方に』、『より近縁である』とある。二十『世紀前半までは数多く生息しており、食用や釣り餌などに利用されたが、それほど盛んに利用されたわけではない。後述する薬用材料としてのほうが一般的であった』。『個体数が減少し』、『絶滅危惧種となり、その生息地で天然記念物に指定されている現在では、これを食用とすることは常識的に憚られる』。『そもそもフランス料理の「ザリガニのポタージュ」などにはヨーロッパザリガニ』(ザリガニ科アスタクス属ヨーロッパザリガニ Astacus astacus )『を使うのが正統であり』、その他の国の料理でも、『アメリカザリガニやウチダザリガニの』方が、『世界各国で利用され、料理レシピなども充実しており、なにより』、『食味やその大きさ的にも、ニホンザリガニをあえて食べる必要はない』。なお、『ニホンザリガニは他のザリガニと同様に、モクズガニ』(短尾下目イワガニ科モクズガニ属モクズガニ Eriocheir japonica )『などと同じく肺臓ジストマの』一『種のベルツ肺吸虫 Paragonimus pulmonalis (Baelz, 1880) の中間宿主である。よって、危険を冒してまで』、『あえて食用にする際は』、『よく加熱することが推奨される』(私の「大和本草卷之十四 水蟲 介類 津蟹(モクズガニ)」を参照されたい。ベルツ肺吸虫症は、感染すると、虫体が概ね胸腔や肺に移行し、様々な呼吸器症状を引き起こす。その臨床症状や画像所見は肺癌や肺結核と類似するために、類症鑑別の重要性が常に指摘されてきており、神経系への虫体侵入によって重篤な症状を呈する症例も報告されている。参照した「国立感染症研究所」公式サイト内の「わが国における肺吸虫症の発生現況」によれば(そこではベルツ肺吸虫を挙げず、扁形動物門吸虫綱二生亜綱斜睾吸虫目住胞吸虫亜目住胞吸虫上科肺吸虫科 Paragonimus 属ウェステルマンハイキュウ Paragonimus westermani 及びミヤザキハイキュウチュウ(宮崎肺吸虫)Paragonimus miyazakiiのみを挙げているが、これはベルツハイキュウチュウを前者ウェステルマンハイキュウの三倍体群として同種と見做す立場があるためである)、『原因食品に関しては、不明を除いた』三百四十四『例について調べたが、淡水産のカニが過半数を占め』(五十九%)、『次いでイノシシ肉であった』(三十三%)。『淡水産のカニを原因食品とする肺吸虫症例の割合は関東で極めて高く』(九十四%)、『その一方、 九州ではイノシシ肉を原因食品とする症例が半数を超えた』(五十二%)。『これらの結果から、関東で目立つ外国人女性の症例は』、『日本産のサワガニ』(抱卵亜目短尾下目サワガニ上科サワガニ科サワガニ属サワガニ Geothelphusa dehaani )を、『非加熱で使う出身国の料理』法のままに行って、『摂食し』、『宮崎肺吸虫に感染し』ているのであり、『九州では日本人、 特に男性(主にイノシシ猟師やその関係者)が地元の食習慣に則し』て、『イノシシ肉を非加熱で摂食してウェステルマン肺吸虫に感染していると推察された。なお』、『イノシシ(待機宿主)の肉を感染源とする症例は海外では報告がなく、わが国の肺吸虫症の特徴の一つである』。『実際の感染源調査でも汚染は確認され,、東京都内で食用として販売されたサワガニについて肺吸虫の寄生状況を調査したところ、検査したサワガニ』(全検体二百六十六個体)の十七%から『肺吸虫の幼虫が検出され、その』内の九十三%が『宮崎肺吸虫であった』(コンマを読点に代えた)とある)。『また、過去には胃石』(「蜊蛄石(ざりがにいし)」又は「オクリカンキリ」と呼称された)『が眼病や肺病などの民間療法の薬として使われていた。この胃石は吸収しやすい形の非結晶:ACC(Amorphous Calcium Carbonate)でカルシウムが含まれているほか、様々な栄養素や免疫成分が凝縮されており、薬効が』実際に『あるためである』。『河川環境の悪化、採集業者の乱獲などが重なって、次々に生息地を追われた』。『秋田県大館市の桜町南と池内道下にあるニホンザリガニ生息地は、日本における生息地(自然分布)の南限であり、その保存を図る必要があるとされ』、昭和九(千九百三十四)年に『「ザリガニ生息地」として国の天然記念物に指定された』(『ざりがにハ、學術上著名ナル動物ニシテ、其ノ本州北部ニ產スルハ、動物地理學上興味アル事實ナリ。本生息地ハ、本種分布ノ南限ニ當タル』)。『ところが、天然記念物指定地の周辺は、昭和』四〇(一九六五~一九七九)『年代に急速に宅地化が進展して、ニホンザリガニの生息環境は悪化した』。二〇〇二年~二〇〇三年の『調査では、指定地内の』一『ヶ所で生息が確認され、その後も目撃情報はあったものの』、二〇一二『年の調査では指定地内での生息は確認されなかった。ただし、同年の調査では、市内の指定地以外の』三『ヶ所でニホンザリガニの生息が確認され、他の』一『ヶ所でも有力な目撃情報が得られている』とあった。また、個人ブログ「オショロコマの森ブログ5」の「青いニホンザリガニの悲劇」も是非、読まれたい。当時、この瑠璃色のヤマトザリガニのニュースを見た記憶があった。その後に、糞マニアどもによって、そんな事態が起きていたとは、知らなかった。奴(きゃつ)らに、禍いあれ!

「蝦夷福山」北海道松前郡松前町福山(グーグル・マップ・データ。以下同じ)である(因みに、以前にも「日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十三章 アイヌ 22 雨の室蘭にて」や、「日本山海名産図会 第五巻 肭獣」で述べたが、現在、北海道では、唯一、北海道渡島総合振興局管内の中部にある茅部(かやべ)郡森町(もりまち)だけが、「町」を「まち」と読み、他は総て「ちょう」である(理由は不明))。

「ヲクリカンキリ」オクリカンキリ。ラテン語“oculi cancri” 。もともとは「カニの目」の意であった。ザリガニ類の胃の中にある胃石(二個あるとも言う)の古称。辞書によっては、胃石は石灰質で、食物を砕く働きをするものであるが、昔はこの胃石をとり出して、眼病の薬や利尿剤に用いていたとあるが、機能は先に引いたウィキのものが本当らしい。

「蝦蟹(ざりがに)」ウィキの「ザリガニ」によれば、『ザリガニの名は』、本来は上記の本邦固有種である『ニホンザリガニ』『を指したものである。江戸時代の文献から見られ、漢字表記ではほとんど使われなくなったが』、『「喇蛄」と書かれる。江戸期には異称として「フクガニ」「イサリガニ」などとも呼ばれていた』。『ザリガニの語源は、「いざり蟹」の転訛とする説』(「いざる」とは「膝や尻を地につけたままで進む」ことを指す)『と、「しさり蟹」(しざり蟹)の転訛とする説』(「しさる」「しざる」は「後退(あとじさ)り・後ろに退行すること)『とがある。アイヌ語においても』、『いくつかの呼称があるが、ホロカアムシペ(horkaamuspe)やホロカレイェプ(horkareyep)など』、『「後ずさり」を意味する語源が見られる』。『ほかに「砂礫質に棲むことから』、「砂利蟹」という説、前に注した『体内で生成される白色結石』『から、仏舎利を連想して』「舎利蟹」と『呼んだというような説もあるが、前者についていえば、ニホンザリガニは』、実際には、特に『砂礫質の場所を好んで棲むわけではない』。『地方によっては』「エビガニ」「ザリ」「ザリンコ」「マッカチン」など、『多くの俗称がある』。私の少年期(練馬区大泉学園の弁天池周辺・鎌倉市植木や下耕地の大湿地帯(現在の武田製薬研究所))は、「ザリガニ」「マッカチン」、それから脱皮直後の外骨格が柔らかい個体を「コンニャク」と呼んでいた。

「甲午(きのえむま)正月廿日」天保五年。一八三四年二月二十八日。]

毛利梅園「梅園介譜」 水蟲類 饅頭蟹(マンヂウガニ) / マメコブシガニ(再出)

 

[やぶちゃん注:底本のここからトリミングした。この丁の図は、皆、小さい。しかも、本種は図を見ても、(底本本丁の右やや下方)に出ている第一個体と同じ種であるとしか思われないが、この図の方が、よく描けている。先のは大きさが小さかったため、本種と同じ種とは梅園は思わなかったようである。

 

Manjyugani

 

「松岡介品」に出づ。

 饅頭蟹(まんぢうがに)[やぶちゃん注:左ルビ。]

 

表甲

 

裏甲

 

此の者、蛤(はまぐり)に交ぢりて、之れ有るを、得(う)。乙未(きのとひつじ)八月六日雨窻(うさう)、眞寫す。

 

[やぶちゃん注:以上の通り、前と同じく、

十脚目エビ亜目短尾(カニ)下目カニコブシガニ科マメコブシガニ属マメコブシガニ Pyrhila pisum

に比定する。「饅頭蟹(まんぢうがに)」という異名は形状から本種で腑に落ちるし、斧足綱異歯亜綱マルスダレガイ科ハマグリ亜科ハマグリ Meretrix lusoria の棲息する砂(泥)地からの採取というのも、本種に相応しい。マメコブシガニの詳細は、前記事の私の注を参照されたい。

「松岡介品」儒学者で本草学者の松岡恕庵(じょあん 寛文八(一六六八)年~延享三(一七四六)年:京生まれ。恕庵は通称で、名は玄達、号は怡顔斎(いがんさい)など。門弟に、かの小野蘭山がいる)が動植物・鉱物を九種の品目(桜品・梅品・蘭品・竹品・菓品・菜品・菌品・介品・石品)に分けて叙述した本草書「怡顔斎何品」の一つ。彼の遺稿を子息と門人が編集したもの。早稲田大学図書館「古典総合データベース」のこちらの原本画像を視認して、起こしておく。読みは多くは推定。

   *

饅頭蟹(まんぢうかに) 〇達(たつ)、按ずるに、此の物、藝州にあり、甲、圓(まど)かにして、硬(かた)く、光り、あり。形(かたち)、饅頭に似たり。味、佳ならず。

   *

う~ん、仮に食っても、旨くはなかろうなぁ。なお、猛毒の毒ガニであるスベスベマンジュウガニ Atergatis floridus (綺麗で可愛いが、ゴニオトキシン・サキシトキシン・ネオサキシトキシン・テトロドトキシンと多種多様の致死的成分を持つ)を含む短尾下目オウギガニ科マンジュウガニ属 Atergatis とは縁もゆかりもないので注意されたい。

「乙未八月六日」天保六年。一八三五年九月二十七日。

「雨窻」この日は雨模様だったようだ。これは、写生日であって、雨の中、この蟹を得たというわけではない。]

萩原朔太郎詩集「定本 靑猫」正規表現版 天候と思想

 

   天 候 と 思 想

 

書生は陰氣な寢臺から

家畜のやうに這ひあがつた。

書生は羽織をひつかけ

かれの見る自然へ出かけ突進した。

自然は明るく小綺麗でせいせいとして

そのうへにも匂ひがあつた。

森にも 辻にも 賣店にも

どこにも靑空がひるがへりて 美麗であつた。

そんな輕快な天氣の日に

美麗な自動車(かあ)が 娘等がはしり廻つた。

わたくし思ふに

思想はなほ天候のやうなものであるか。

書生は書物を日向にして

ながく幸福のにほひを嗅いだ。

 

[やぶちゃん注:「萩原朔太郞 靑猫(初版・正規表現版) 天候と思想」を参照されたい。]

萩原朔太郎詩集「定本 靑猫」正規表現版 最も原始的な情緖

 

   最も原始的な情緖

 

この密林の奧ふかくに

おほきな護謨(ごむ)葉樹のしげれるさまは

ふしぎな象の耳のやうだ。

薄闇の濕地にかげをひいて

ぞくぞくと這へる羊齒植物 爬蟲類

蛇 とかげ ゐもり 蛙 さんしようをの類。

 

白晝(まひる)のかなしい思慕から

なにをあだむが追憶したか

原始の情緖は雲のやうで

むげんにいとしい愛のやうで

はるかな記憶の彼岸にうかんで

とらへどころもありはしない。

 

[やぶちゃん注:「萩原朔太郞 靑猫(初版・正規表現版) 最も原始的な情緖」を見られたい。]

萩原朔太郎詩集「定本 靑猫」正規表現版 馬車の中で

 

   馬 車 の 中 で

 

馬車の中で

私はすやすやと眠つてしまつた。

きれいな婦人よ

私をゆり起してくださるな

明るい街燈の巷(ちきた)をはしり

すずしい綠蔭の田舍をすぎ

いつしか海の匂ひも行手にちかくそよいでゐる。

ああ蹄(ひづめ)の音もかつかつとして

私はうつつにうつつを追ふ。

きれいな婦人よ

旅館の花ざかりなる軒にくるまで

私をゆり起してくださるな。

 

[やぶちゃん注:「巷(ちきた)」のルビはママ。「ちまた」の誤植。「萩原朔太郞 靑猫(初版・正規表現版) 馬車の中で」、及び、『萩原朔太郞詩集「蝶を夢む」正規表現版 馬車の中で』を参照されたい。]

毛利梅園「梅園介譜」 水蟲類 蟹二種 蘆虎(アシワラガニ)・蟙(ツマジロ・スナガニ) / マメコブシガニ・スナガニ

 

[やぶちゃん注:底本のここからトリミングした。この丁の図は、皆、小さい。下方の二つの図は同一個体の背部の図と腹部の図と採る。そして、トリミングした図上部の蟹のキャプションが左手で下方まで遙かに進出してしまっており、面倒なことに、その解説で梅園は、どうも、右下方の一種と、呼称の問題に於いて、合わせて、意見を書いている。また、「コブシガニ」と書いた異名の右下方に「大和本草」とあるのは、今までの梅園の記述法からみて、上の「コブシガニ」の出典と採ったのだが(後注参照)、この「大和本草」がこれまた、下方の別の蟹一種のキャプションに、やはり、侵入しているため、この二種を図として分離することが甚だ困難であるだけでなく、最後の解説の両種への見解である以上、今回は二種三図を纏めてトリミングするのが妥当という結論に達した。何故なら、そもそも、写生したことを示すクレジットが一つしかないことに注目すれば、これらの二個体を同時に真写し、これらの解説を書いたと考えるのが自然だと判断したからである(だから、解説文が錯綜し、しかも内容も両者に亙るのである)。なお、実際には、以下の画像の上部中央には、さらに、先の「虎蟳/タカアシガニ」のキャプションの一部が食い込んでいるのだが、流石に五月蠅いので、今回は文字のない本丁の一部分を切り取り、それをそこに貼りつけて、意図的に消してある。二種の間に「*」を設けた。]

 

Kobuasiwaragani

 

「本草」に出づ。

 蟹一種

 【「まめがに」・「こぶしがに」【「大和本草」。】。】

「他識扁」、

 比(ヒ)【「四つ足がに」。「小がに」。】

 

「臨海水土記」に曰はく、

      蘆虎(ロコ)

「閩書」に曰はく、

      金錢蟹(きんせんがに)【ともに「豆がに」・「いぞ〻」【備前。】・「あしわらがに」。「彭螖(ハウコツ)」は「唐人がに」・「豆がに」にするは非なり。「多識扁」、誤りて出だすか。】

 

   *   *   *

 

「本草」に出づ。

  蟹一種

 ◦「つまじろ」。

 ◦「小がに」。

「多識扁」、

  彭螖

  「とろがに」。

「魚鑑」、

  蟙

  「すながに」。

  一名、「つまじろ」。

  「かくれがに」。

 

癸巳下春廿有七日、眞寫す。

 

[やぶちゃん注:本種は図が小さい上に、現在の異名としてヒントにするには、あまりに汎用的なものであることや、別に標準和名に酷似するものあるものの、図の形状から見て、それらではあり得ないとしか思えない現代の異名(「アシワラガニ」・「ツマジロガニ」・「カクレガニ」等々)が陸続としてあり、梅園が引用している漢籍類の漢語名は、言わずもがな、生物学的に本邦産種のどれそれに同定比定することは、殆んど無効に近いものだからである。かなり、手数が懸かったのであるが(その過程は消去法の連続であり、煩瑣なものなので略す)、最終的に私は、上の一体の個体は、その甲部の特異な形状と、解説中の異名の「マメガニ」「豆ガニ」「コブシガニ」「小ガニ」「四ツ足ガニ」からの連想により、

十脚目エビ亜目短尾(カニ)下目カニコブシガニ科マメコブシガニ属マメコブシガニ Pyrhila pisum

に比定し、次に、下方の背・腹部図のカニであるが、これも、主に背部の甲部の形状と、特にその鉗脚の白さ、そして名の中にある「スナガニ」に着目して、

短尾下目スナガニ上科スナガニ科スナガニ属スナガニ Ocypode stimpson

に比定することとした。

 マメコブシガニは、本邦ではごく普通に岩手県以南から奄美大島までの各地の内湾の干潟の水際に棲息し、その小さいが、可愛い形状で、運動性能も比較的鈍いことから、私も何度も観察している。当該ウィキから引くと、『小柄なカニであり』、♂で甲長二・二センチメートル、甲幅二・一センチメートル程度である。『コブシガニ科』Leucosiidae『に共通の特徴として、甲羅は丸っこく』、『背面に盛り上がり、歩脚は短めで』、眼柄(目が先端についている柄)及び眼窩(眼柄全体を収納させる窪み)は孰れも『小さい』。『本種では』、『その背甲が丸くて』、『胃域と前鰓域の表面に』、『小さな顆粒がまばらにある。肝域はその縁沿いに小さな顆粒が列をなしており、その後方は角があって』、『左右に張り出している。なお』、『肝域が菱形の面を囲む形となるのは』、『本種の含まれる属の特徴である』。『背甲の周辺部にも顆粒が並ぶ。背甲の前縁から後縁へは』、『丸く滑らかに続く。出水孔は中央に隔壁があって』、『左右が接する。生きている時の色は変異が大きく、暗灰色、暗褐色などの地色に』、『白い大きな斑紋を持つものもあり、また歩脚には白褐色の横縞がある』。『甲羅は固く、また』、『腹綿も固く、腹面は白い』。鉗脚も『歩脚も』、『やや細長い』。『鋏は丈夫で強く、長節の上下の縁と、それに背面の基部付近中央寄りに顆粒が並ぶ。腕節の外側の縁に顆粒が並んで稜線を作る。掌部は幅が広く』、『やや扁平になっており、外側の縁に』一『列、背面に』二『列の顆粒の列がある。指部は掌部とほぼ同じ長さであり、その噛み合わせには小さな歯が並び、両方の指はどちらも先端が鋭くなっている』。『日本では岩手県から南の九州、奄美大島まで知られる。国外では朝鮮海峡、黄海、東シナ海に分布する』。但し、『本種がアサリの放流に伴って非意図的に放流されている実態もあり、その分布が拡大しているとの報告がある』。『内湾性の潮間帯、砂泥や砂礫泥の底質に生息する』、所謂、『内湾の干潟に生息する』カニ類の代表種と言ってよい。『また』、『河口域にも出現し、それらの環境では普通種である』。『しかし実際に個体群を調査したところ』、『多くの場所で干潟での生活は』一『年のうち』、実は『一定期間に限られていた。例えば福岡では』四『月下旬から』九『月中旬にかけての』六『ヶ月に限られ』、『残りの季節は潮下帯の深い場所で過ごす』。『地域によって多数個体が見られる場所もあれば』、『個体数が少なくて保護の必要性が論じられている地域もある』。『干潟の潮間帯に生息し、干潮時には』、『波打ち際や』、『水たまりで徘徊しているのが観察され』、『歩く際には前に進み、その速度は遅い』。『博多湾での観察では小型で殻の薄い二枚貝』の『ホトトギスガイ』(斧足綱翼形亜綱イガイ目イガイ科ホトトギスガイ属ホトトギスガイ Musculista senhousia )『やユウシオガイ』(異歯亜綱マルスダレガイ目ニッコウガイ科モモノハナ属ユウシオガイ Moerella rutila )等が捕食されていた。アサリ』(マルスダレガイ目マルスダレガイ科アサリ亜科アサリ属Ruditapes philippinarum )『の稚貝が餌となっていた例もあった。またアサリやマテガイ』(異歯亜綱マテガイ上科マテガイ科マテガイ属マテガイ Solen strictus )『の死体が殻を開いて露出したものを食べているのも観察された。他にイトゴカイ科』(環形動物門多毛綱イトゴカイ目イトゴカイ科 Capitellidae)『のものが砂で出来た棲管ごと』、『食べられていた。砂に鋏を差し入れて餌を探索する様子も観察された。このような観察例より小林は本種が肉食性であり、特に小型の二枚貝を中心に捕食すること、また大型貝類を捕食する能力はないものの、その死体の肉は利用するものと推定している。本種が多く食べているのが見られたホトトギスガイは』、『本種の見られない冬季に数を増すことから』、『本種の捕食圧がその個体数に影響する可能性も指摘している。他方、水産上の有用種であるアサリに対してはその影響は低いものと見ている』。『初夏に繁殖期を迎え』るが、そこ頃、♀を抱え込んだ♂が』、『よく見られるようになる』。この♂が♀を『後ろから抱え込む行動は多くのカニで確認されており、交尾の前後に行われるため』、「交尾前ガード」及び「交尾後ガード」と『呼ばれる。カニの種によっては交尾前ガードが重要なものと』、『交尾後ガードが重要なものがあ』るが、『マメコブシガニの場合は後者である。実験条件下では交尾前ガードの多くが数分程度であったのに対し、交尾後ガードは最長』三『日続いた。そのため』、『干潟で観察されるマメコブシガニのガード行動は多くの場合』、『交尾後ガードであると考えられる』。『抱卵は』六~八月に見られ、『幼生ではゾエアが』三『期ある。ゾエアは額棘のみを持ち、背棘と側棘を持たない』。『同属の種は日本にも他にあり、特にヘリトリコブシ P. heterograna はよく似ている。本種より』、『背甲の背面に顆粒が少なく』、『正中線上や縁取り部に限られることで』、『区別出来る。また』、『この種は砂泥質の浅い海底に生息し、本種の生息する波打ち際より』も、『沖に見られる』。『コブシガニ科のものは』、『一般には』、『より深い海に見られるものが多く、干潟に見られるものは少ない』(本種同定では、少ない干潟産のコブシガニ科の種及び本種の近縁種の画像も複数見たが、本図に最もしっくりくるのは本種であった)。『なお、属の分類の見直しから元のPhilyra が』七『つに分割されたため、本種の学名は以前の Philyra pisum から 現在のPyrhila pisum に変更されている』。『背甲の側面に大きなこぶがあるものが見られ、これは寄生性の等脚類であるマメコブシヤドリムシ』(節足動物門甲殻亜門軟甲綱真軟甲亜綱フクロエビ上目等脚目ウオノエ亜目エビヤドリムシ科 Apocepon 属マメコブシヤドリムシ Apocepon pulcher『が鰓室に寄生しているものである』とある。

 一方のスナガニは、まず、所持する平成七(一九九五)年保育社刊「原色検索日本海岸動物図鑑[Ⅱ]」(西村三郎編著)によれば、甲長は二・五センチメートルまでとし、相模湾以南に棲息する近縁種ミナミスナガニ Ocypode cordimanus に似るが、眼窩外歯は前側方に尖り、前側縁は前後にほぼ真っ直ぐに走り、大鉗脚の掌部内部にはスナガニ科スナガニ属ツノメガニ Ocypode ceratophthalmus (実は当初、このツノメガニを、この背・腹部二図の第二個体に比定しようと思っていた。実際に複数の写真を見ると、本種がよく似ていたからである。しかし、調べたところ、信頼出来るデータの殆んどが、ツノメガニの分布を奄美大島以南としてあり、梅園が標本を取り寄せたり、多数の異名を確認出来るようなフィールドでないことが判明したため、排除した)同様の、鑢(やすり)状の顆粒列を備えることで区別出来る。男鹿半島以南の日本海沿岸、及び、岩手県から九州までの各地沿岸の砂浜に生息する。や夜行性だが、夏季の繁殖期には、昼間も巣穴から出て、盛んにウェイビングを行う。行動は極めて敏捷であるとする。次に、当該ウィキから引くと、『甲幅は』三センチメートル『ほどで、甲は背中側にやや膨らんだ長方形をしている』。鉗脚は『左右どちらかが大きく、大きい方の鋏の内側に顆粒列が並ぶ。歩脚は長く』、『がっしりしている。複眼は大きく、巣穴に入るときは』、『眼柄』『を倒して』、『眼窩』『に収納する。大きな複眼のとおり、視力が良い』。『成体の体色は、周囲に敵がいない時は』、『複眼以外が赤一色だが、怯えると』、『黄褐色』から『黒褐色になる。よって捕獲した時はたいてい黒っぽい。また』、『若い個体はコメツキガニ』(スナガニ科コメツキガニ亜科コメツキガニ属コメツキガニ Scopimera globosa )『に似た白黒のまだら模様だが、甲が平たく脚が長いこと、腹面の紫色が淡いこと、この』若年個体の頃かた、『既に足が速いことなどで区別がつく』。『日本では東北地方以南、日本以外では朝鮮半島・中国東岸・台湾まで東アジアの熱帯・温帯域に広く分布する。学名の種小名"stimpsoni"は、北西太平洋の無脊椎動物研究に功績を残したアメリカ合衆国の動物学者ウィリアム・スティンプソン』(William Stimpson 一八三二年~一八七二年:私の敬愛するエドワード・シルヴェスター・モースと同じく、かのルイ・アガシーに師事した。一八五三年から一八五六年にかけて「北太平洋学術調査艦隊」に参加し、北太平洋産の無脊椎動物を、多数、採集した。また、開国直後の日本でも採集を行っており、採集地として函館・下田・小笠原・沖縄などが記録されている。この探検で四新属三十四新種を含む実に十四科二十六属五十種の標本を収集した。後、シカゴ科学院院長となったが、一八七一年の「シカゴ大火」で科学院が類焼、彼の研究成果や標本も、その殆どが焼失、翌年に結核を患い、四十歳で亡くなっている。参照した当該ウィキをリンクさせておく)『に因んだ献名である』。『水のきれいな砂浜に生息し、満潮線付近に数十』センチメートルから一メートル『ほどの深い巣穴を掘る。潮が満ちてこないほどの高さに、直径が』二~三センチメートル『ほどの円形の穴があれば、スナガニか同属種の巣穴の可能性が高い。コメツキガニよりも高い位置に、大きい巣穴を掘るのが特徴である。巣穴の周囲は』、『掘った砂を薄く積み上げ、コメツキガニのそれよりも大きくていびつな「砂団子」が見られる。また、放棄された巣穴の周囲は砂が乾いているが、主がいる巣穴の周囲は砂が湿っているので区別できる』。『夜に砂浜を徘徊し、動物の死体や藻類などを食べる。また、砂浜に生息する小動物も捕食し、孵化したばかりの』海ガメの『子どもを捕食することもある』。『夜は』、『それほど』、『警戒心は強くないが、昼は非常に警戒心が強く、大きな動くものを見つけると』、『素早く巣穴に逃げこむ。人間が巣に接近すると数十』メートル『離れていても巣穴に逃げこみ、一旦』、『巣穴に逃げこむと物音がする間はまず出てこない。巣穴まで遠い場合などは走って逃げだすが、走るスピードはカニ類トップクラスで、人間の小走りくらいのスピードで砂浜を疾走することができ、急な方向転換などもこなす。波打ち際の濡れた砂までやってくると』、『数秒以内に素早く砂に潜る』。『動きが速く巣穴も深いため捕獲は難しいが、巣穴に長い草の茎や乾いた砂を入れて掘り返すか、波打ち際まで追いこんで砂にもぐった所で捕獲することができる』。『海水浴場などで巣穴を見ることができるが、海洋汚染や砂浜の減少により』、『生息地が減少傾向にある』とある。

「本草」普通、こう言ったら、明の李時珍の「本草綱目」を指すのは、本草学の鉄則だが、ここは以下でダブるところの、貝原益軒の「大和本草」と採るしかない(下方のスナガニに同定したものの冒頭も同じ)。何故というに、「蟹一種」以下に、漢語が示されていないからであり、同巻四十五「介之一」の末尾ひとつ前にある「蟹」の如何にも乏しい記載にも、「豆蟹」も「拳蟹」もありゃせんからである。逆に「大和本草」には、「大和本草卷之十四 水蟲 介類 蟹(カニ類総論)」中に、

   *

「コブシガニ」は、形、小なり。大なる者〔も〕寸に滿たず。圓〔(まどか)〕にして鱉〔(すつぽん)〕のごとし。背の半〔(なかば)〕に縱の筋〔(すぢ)〕有りて、高く起こる。縫ふごとく、甲、硬(かた)し。はさみ、二つ、あり。足、左右、各(おのおの)五つあり。食ふべし。海濱に生ず。

   *

とある。なお、実は同記載には、見て戴くとわかるが、ぽろっと下方個体の異名「ツマジロ」も出るのであるが、私はそこで現在の異名から「端(褄)白蟹」で、短尾下目ワタリガニ科ヒラツメガニ属ヒラツメガニ Ovalipes punctatus の異名(鉗脚の先端が白いことに由来する)と採ったので、ここでは一致を見ないことからも、下方個体の記事の頭書とは採らないことにした。私の同定作業に無駄な混乱を生ずるからである。

「他識扁」「多識編」本草辞書。林羅山編。全五巻。明の林兆珂が「詩経」中の動植物を分類して注を施した「多識篇」に倣ったもので、「本草綱目」から物の名を抜き出し、万葉仮名で和訓を施したもの。「羅山林先生文集」の「多識編跋」に、「壬子之歲本草綱目を拔き寫して附するに國訓を以てす」とあり、慶長一七(一六一二)年の著述であることが判る。配列は「水部門」から「蔴苧(おま)門」までの部門別。版本に寛永七(一六三〇)年古活字版さ三巻本があるが、翌寛永八年に、諸漢籍から、異名を抜き出して追加し、万葉仮名に片仮名ルビを施し、五巻に仕立て直した整版が出た。以上は国立国会図書館デジタルコレクションの解題・抄録に拠ったが、そこには、当館本は慶安』二年(一六四九)『版で、寛永』八『年版の覆せ彫りである。本草学者白井光太郎の「白井氏蔵書」の印記あり』とあり、当該部はここの三行目からで、総見出しは「※【加仁】」(「※」=(上)「解」+(下)「虫」。「蟹」の異体字)で、五行目下方に(読みは私の推定)、

   *

 比(ヒ)【与豆阿志加仁(よつあしがに)。】

   *

六行目に、梅園が続けて出している、

   *

蟙(シキ)【岐加仁(きがに)。】

   *

があり、七行目に、やはり後に梅園が記すのとよく似た、

   *

蟛蜞(ホウキ)[やぶちゃん注:これのみ原本ルビ。]彭螖(ホウコツ)【古加仁(こがに)。】

   *

とあるのが確認出来る。

「臨海水土記」は宋の趙朴撰になる「臨海水土記」全一巻。早稲田大学図書館「古典総合データベース」にある明の陶宗儀の纂になる佚書の文集「説郛」(正篇・巻第六十二)のここの左丁二行目に、

   *

蘆虎、似彭蜞、兩螯、正赤。不中食。

   *

とあり(最後は思うに「食(しよく)に中(あ)てず」で、「食用にならない」の意味のようである)、この鉗脚が鮮赤色という記載から、「蘆虎」は本種の漢名ではないことが判る。ここで梅園がぐちゃぐちゃ挙げている漢名や異名を云々するつもりはない。梅園は思いつきで無責任それらを並べているだけにしか見えないからである。しかし、敢えて、言っておくと、これは本邦の短尾下目イワガニ上科ベンケイガニ科ベンケイガニ Searmops intermedium 或いはその近縁種と比定してよいと思われる。私の古いサイト版の栗本丹洲「栗氏千蟲譜 巻十(全)」の「蘆虎 猩々ガニ ヘンケイガニ」を見られたい。ここで食用に当てないのは、今も同じで、小型(甲幅三・五センチメートル)で、恐らくは出汁をとるくらいにしか使用出来ないからである。

「閩書」明の何喬遠撰になる福建省の地誌「閩書南産志」。

「金錢蟹」無効。短尾下目キンセンガニ科キンセンガニ属キンセンガニ Matuta victor の和名(漢字表記「金線蟹・金銭蟹」。但し、現代中国語では「頑強黎明蟹・勝利黎明蟹」である)に当てられてしまっている。ウィキの「キンセンガニを見られたい。

『「いぞ〻」【備前。】』この異名、不詳。

「あしわらがに」無効。本和名は短尾下目イワガニ上科モクズガニ科キクログラプスス亜科Cyclograpsinaeアシハラガニ属アシハラガニ Helice triden に与えられてしまっている。ウィキの「アシハラガニ」を見られたい。

「彭螖」「和名類聚鈔」巻十九「鱗介部第三十」の「亀貝類第二百三十八」に(国立国会図書館デジタルコレクション寛文七(一六六七)年版から)

   *

蟛螖(アシハラガニ) 「兼名苑」云はく、『蟛螖は【「彭」・「越」、二音。「楊氏漢語抄」に云はく、『葦原蟹』と。】形、蟹に似て小なり。

   *

とある。中文サイトの画像を見るに、アシハラガニ或いはその近縁種のように見える。

「唐人がに」「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」のこちらによれば、短尾下目アサヒガニ上科アサヒガニ科ビワガニ属トゲナシビワガニ Lyreidus stenops の異名に「トウジンガニ」「唐人蟹」とある。

「豆がに」現行では小型の蟹類の総称。

「つまじろ」「爪白」の訛りであろう。後注の「魚鑑」の引用を参照。

「とろがに」そのまま出したが(原本は「トロガニ」)、これは河口・干潟の浅海域・汽水域・上部の塩沼に棲息する蟹類(アシハラガニ・ベンケイガニ)類を総称する「泥蟹」であろうと思う。

「魚鑑」江戸時代の外科医武井周作の本草書「魚鑑」(うおかがみ:天保二(一八三一)刊)。国立国会図書館デジタルコレクションのこちらの右丁三行目に(下線は原本では右傍線)、

   *

をがに。此れ、「」なり。俗に「すながに」、一名(めう)「爪(つめ)しろ」、一名「かくれがに」。洲渚沙磧(シウシヨシヤセキ)の處に生ず。

   *

とあり、これはスナガニの同定として評価出来る

「癸巳下春廿有七日」天保四年三月二十七日。一八三三年五月十六日。]

2022/01/29

萩原朔太郎詩集「定本 靑猫」正規表現版 閑雅な食慾

 

   閑 雅 な 食 慾

 

松林の中を步いて

あかるい氣分の珈琲店(かふえ)をみた。

遠く市街を離れたところで

だれも訪づれてくるひとさへなく

林間の かくされた 追憶の 夢の中の珈琲店(かふえ)である

をとめは戀々の羞をふくんで

あけぼののやうに爽快な 別製の皿を運んでくる仕組

私はゆつたりとふほふくを取つて

おむれつ ふらいの類を喰べた。

空には白い雲が浮んで

たいさう閑雅な食慾である。

 

[やぶちゃん注:太字は底本では(たまにはPDF一括版で示す。47コマ目である)、傍点「ヽ」である。「たいさう」はママ。「萩原朔太郞 靑猫(初版・正規表現版) 閑雅な食慾」及び「萩原朔太郞詩集「蝶を夢む」正規表現版 閑雅な食慾」を参照されたい。]

萩原朔太郎詩集「定本 靑猫」正規表現版 怠惰の曆

 

   怠 惰 の 曆

 

いくつかの季節はすぎ

もう憂鬱の櫻も白つぽく腐れてしまつた。

馬車はごろごろと遠くをはしり

海も 田舍も ひつそりとした空氣の中に眠つてゐる。

なんといふ怠惰な日だらう

運命はあとからあとからとかげつてゆき

さびしい病鬱は柳の葉かげにけむつてゐる。

もう曆もない 記憶もない

わたしは燕のやうに巢立ちをし さうしてふしぎな風景のはてを翔つてゆかう。

むかしの人よ 愛する猫よ

わたしはひとつの歌を知つてる

さうして遠い海草の焚けてる空から 爛れるやうな接吻(きす)を投げよう。

ああ このかなしい情熱の外 どんな言葉も知りはしない。

 

[やぶちゃん注:「萩原朔太郞 靑猫(初版・正規表現版) 怠惰の曆」を参照されたい。そちらでも述べいるが、私はこのコーダが好きだ。]

萩原朔太郎詩集「定本 靑猫」正規表現版 憂鬱なる花見

 

   憂鬱なる花見

 

憂鬱なる櫻が遠くからにほひはじめた。

櫻の枝はいちめんにひろがつてゐる

日光はきらきらとしてはなはだまぶしい。

私は密閉した家の内部に住み

日每に野菜をたべ 魚やあひるの卵をたべる

その卵の肉はくさりはじめた

遠く櫻のはなは酢え

櫻のはなの酢えた匂ひはうつたうしい。

いまひとびとは帽子をかぶつて、外光の下を步きにでる

さうして日光が遠くにかがやいてゐる

けれども私はこの室内にひとりで坐つて

思ひをはるかなる櫻のはなの下によせ

野山にたはむれる靑春の男女によせる

ああ なんといふよろこびが輝やいてゐることか

いちめんに枝をひろげた櫻の花の下で

わかい娘たちは踊ををどる

娘たちの白くみがいた踊の手足

しなやかにおよげる衣裳

ああ そこにもここにも どんなにうつくしい曲線がもつれあつてゐることか

花見のうたごゑは橫笛のやうに長閑(のどか)で

かぎりなき憂鬱のひびきをもつてきこえる。

いま私の心は淚でぬぐはれ

閉ぢこめたる窓のほとりに力なくすすり泣く

ああこのひとつのまづしき心は なにものの生命(いのち)をもとめ

なにものの影をみつめて泣いてゐるのか

ただいちめんに酢えくされたる美しい世界のはてで

遠く花見の憂鬱なる橫笛のひびきをきく。

 

[やぶちゃん注:「その卵の肉はくさりはじめた」はママ。「その卵や肉はくさりはじめた」の誤字或いは誤植。「萩原朔太郞 靑猫(初版・正規表現版) 憂鬱なる花見」を参照されたい。]

2022/01/28

毛利梅園「梅園介譜」 水蟲類 虎蟳(ワタリガニ・テナガ・シマガニ) / タカアシガニ

 

[やぶちゃん注:底本のここからトリミングした。この丁の図は、皆、小さい。]

 

Kojin

 

「福州府志」、

虎蟳(コジン)【「わたりがに」。「てなが」と云ふ。「しまがに」。】

 

此者、「わたりがに」の苗(なへ/こ)の者。其の大なるもの、殻、三尺に至る。其の手螯(てばさみ)、四、五尺に至る。

 

甲午(きのうえむま)十月一日、眞寫す。

 

[やぶちゃん注:フライングの『毛利梅園「梅園介譜」 蝤蛑(ガザミ)』で、私はこの「虎蟳」「わたりがに」について、『中文サイトのこちらの「蟳虎魚贊」という絵を見ると、ガザミ属 Portunus らしい個体が描かれてあり、中文サイトを見ると同属の複数種にこの漢字を当てているから、ワタリガニ・ガザミ類を指す語である。』と注したのであるが、これは、図と解説を読む限り、ワタリガニ・ガザミ類ではあり得ない。絵は小さく「苗の者」の言っておいて、以下に異様に巨大なサイズを記しているから、これは、

抱卵亜目短尾下目クモガニ科タカアシガニ属タカアシガニ Macrocheira kaempferi のごく幼体

と比定同定する。当該ウィキによれば、『現生の節足動物では世界最大』種で、『カニ類の中では系統的に古い種で』「生きた化石」とも呼ばれる。『現生のタカアシガニ属(Macrocheira属)は』一属一種だけ『だが、他に化石種が』四『種類(日本国内に』二『種、アメリカ合衆国ワシントン州に』二『種)報告されている』。『脚には白色のまだら模様が入る。脚は非常に細長いが、さらに成体の』♂では鉗脚が他の『脚よりも長くなり、大きな』♂が鉗脚を『広げると』三・八『メートルに達する。甲羅は最大で甲幅』四十『センチメートルになり、甲長の方が長く楕円形で、盛りあがっていて丸っこい。体重は最大で』十九『キログラムに達する。複眼は甲羅の前方に並び、複眼の間には』、『斜めの棘が左右に突き出す。若い個体は甲羅に毛や棘があり、複眼の間の棘も長いが、成熟すると毛は短くなり、棘も目立たなくなる』。『生息域は岩手県沖から九州までの太平洋岸で、東シナ海、駿河湾、土佐湾である。まれに三河湾や伊勢湾で漁獲されたこともある。日本近海の固有種と言われていたが』、一九八九『年に台湾の東方沖で見つかっている。水深』百五十~八百『メートルほどの深海砂泥底に生息し(特に水深』二百~三百『メートルに多い)、春の産卵期には、水深』五十『メートル程度の浅いところまで移動して産卵する。学名は』、出島の三学者の一人で、ドイツ北部レムゴー出身の医師にして博物学者であったエンゲルベルト・ケンペル(Engelbert Kaempfer 一六五一年~一七一六年:元禄三(一六九〇)年にオランダ商館付の医師として、約二年間、出島に滞在し、オランダ語通訳今村源右衛門の協力を得て、精力的に資料を収集した。ヨーロッパにおいて、日本を初めて体系的に記述した「日本誌」(Geschichte und Beschreibung von Japan )の原著者として知られる。同書の出版は複雑なので、彼のウィキ、及び、ウィキの「日本誌」を読まれたい)に『ちなんで名づけられたもので、彼の生誕』三百五十『年の折』(二〇〇一年)『には剥製がドイツに送られた』。『食性は動物食の強い雑食性で、貝などを鋏で潰し割って食べることが多い。(鋏の内側に球状の突起が多数並んでおり、くるみ割り器のように、固い物を潰して割る構造になっている。)』。『産地以外では食材としての評価は低い。水揚げして放置すると身が溶けて液体化してしまうため、扱いが難しいといったことが挙げられる』。『味は水っぽく大味で』、そのため、『大正初期の頃から底引き網漁でタカアシガニが水揚げされるも』、『見向きもされていなかった。しかし今日では』、『漁獲される地元の名物料理の一つになっている。巷説では』、昭和三五(一九六〇)年に、『戸田村(現在の沼津市戸田地区)の地元旅館主人が「タカアシガニ料理」を始めたとされている』。『小型底引き網(トロール網)などで漁獲され、塩茹でや蒸しガニなどにして食用にされる。メスの方が美味しいという話もあるが、巨体の割にはあまり肉が多くない。漁場は相模灘、伊豆七島周辺、駿河湾、熊野灘、土佐湾などだが、産卵期の春は禁漁となっている。特に漁が盛んな駿河湾ではタカアシガニを観光の名物にしているが、近年は漁獲が減少しているため、種苗放流など資源保護の動きもある』。『和歌山県では産卵期の春に浅瀬に移動するものを漁獲している』とある。

「福州府志」明の作者不詳の福建省の地誌。「福州府志萬歷本」と呼ばれる。「中國哲學書電子化計劃」のこちらで以下のように確認出来た(手を加えた)。

   *

虎獅、形似虎頭、又名揭哺子、有紅赤斑點、螯扁、與爪皆有毛。

   *

「三尺」九十・九センチメートル。

「四、五尺」一メートル二十二センチから一メートル五十一・五センチメートル。

「甲午十月一日」天保五年十月一日。グレゴリオ暦一八三四年十一月一日。]

萩原朔太郎詩集「定本 靑猫」正規表現版 恐ろしく憂鬱なる

 

   恐ろしく憂鬱なる

 

こんもりとした森の木立のなかで

いちめんに白い蝶類が飛んでゐる。

むらがる むらがりて飛びめぐる

てふ てふ てふ てふ てふ てふ てふ

みどりの葉のあつぼつたい隙間から

ぴか ぴか ぴか ぴかと光る そのちひさな鋭どい翼(つばさ)

いつぱいにひろがつてとびめぐる てふ てふ てふ てふ てふ てふ てふ てふ てふ てふ てふ てふ

ああ これはなんといふ憂鬱な幻だ

このおもたい手足 おもたい心臟

かぎりなくなやましい物質と物質との重なり

ああ これはなんといふ美しい病氣だらう。

つかれはてたる神經のなまめかしいたそがれどきに

私はみる ここに女たちの投げ出したおもたい手足を

つかれはてた股や乳房のなやましい重たさを

その鮮血のやうなくちびるはここにかしこに

私の靑ざめた屍體のくちびるに

額に 髮に 髮の毛に 腋に 股に 腋の下に 手くびに 足に 足のうらに みぎの腕にも ひだりの腕にも 腹のうへにも 臍のうへにも むらがりむ

らがる 物質と物質との淫らなかたまり ここにかしこに追ひみだれたる蝶のまつくろい集團。

ああこの恐ろしい地上の陰影

このなやましいまぼろしの森の中に

しだいにひろがつてゆく憂鬱の日かげをみつめる。

その私の心はばたばたと羽ばたきして

小鳥の死ぬるときの 醜いすがたのやうだ。

ああこたへがたく惱ましい性の感覺

あまりに恐ろしく憂鬱なる。

 

[やぶちゃん注:底本のここと、ここだが、後者の後半画像をご覧になれば判る通り、以上のうち、

   *

額に 髮に 髮の毛に 腋に 股に 腋の下に 手くびに 足に 足のうらに みぎの腕にも ひだりの腕にも 腹のうへにも 臍のうへにも むらがりむ

らがる 物質と物質との淫らなかたまり ここにかしこに追ひみだれたる蝶のまつくろい集團。

   *

の部分、及び、

   *

ああこたへがたく惱ましい性の感覺

   *

はママである。明らかな痛い誤植である。朔太郎が本詩集末尾で言っている『この「定本」のものが本當であり、流布本に於ける誤植一切を訂正し、併せてその未熟個所を定則に改定した。よつて此等の詩篇によつて、私を批判しようとする人々や、他の選集に拔粹しようとする人々は、今後すべて必ずこの「定本」によつてもらひたい。』に従い、そのままに電子化した。本篇は正しくは、恐らく筑摩版全集校訂本文で修正されてあるように、

   *

 

   恐ろしく憂鬱なる

 

こんもりとした森の木立のなかで

いちめんに白い蝶類が飛んでゐる。

むらがる むらがりて飛びめぐる

てふ てふ てふ てふ てふ てふ てふ

みどりの葉のあつぼつたい隙間から

ぴか ぴか ぴか ぴかと光る そのちひさな鋭どい翼(つばさ)

いつぱいにひろがつてとびめぐる てふ てふ てふ てふ てふ てふ てふ てふ てふ てふ てふ てふ

ああ これはなんといふ憂鬱な幻だ

このおもたい手足 おもたい心臟

かぎりなくなやましい物質と物質との重なり

ああ これはなんといふ美しい病氣だらう。

つかれはてたる神經のなまめかしいたそがれどきに

私はみる ここに女たちの投げ出したおもたい手足を

つかれはてた股や乳房のなやましい重たさを

その鮮血のやうなくちびるはここにかしこに

私の靑ざめた屍體のくちびるに

額に 髮に 髮の毛に 腋に 股に 腋の下に 手くびに 足に 足のうらに みぎの腕にも ひだりの腕にも 腹のうへにも 臍のうへにも

むらがりむらがる 物質と物質との淫らなかたまり ここにかしこに追ひみだれたる蝶のまつくろい集團。

ああこの恐ろしい地上の陰影

このなやましいまぼろしの森の中に

しだいにひろがつてゆく憂鬱の日かげをみつめる。

その私の心はばたばたと羽ばたきして

小鳥の死ぬるときの 醜いすがたのやうだ。

ああこのたへがたく惱ましい性の感覺

あまりに恐ろしく憂鬱なる。

 

   *

が正しいはずであろう。偉そうな宣言の割に、朔太郎自身の杜撰さが目立ってしまった一篇である。こんなのを読まされては、異同も糞もありやせんがね!

 「萩原朔太郞 靑猫(初版・正規表現版) 恐ろしく憂鬱なる」の本篇及び初出形を、必ず、見られたい。そちらでは、詩篇末に驚くべき有名な注記、『註。「てふ」「てふ」はチヨーチヨーと讀むべからず。蝶の原音は「て・ふ」である。蝶の翼の空氣をうつ感覺を音韻に寫したものである。』がある(初出も同様の注記があるのをそちらで確認されたい)。

萩原朔太郎詩集「定本 靑猫」正規表現版 蠅の唱歌

 

   蠅 の 唱 歌

 

春はどこまできたか

春はそこまできて櫻の匂ひをかぐはせた

子供たちのさけびは野に山に

はるやま見れば白い浮雲がながれてゐる。

さうして私の心はなみだをおぼえる

いつもおとなしくひとりで遊んでゐる私のこころだ。

この心はさびしい

この心はわかき少年の昔より私のいのちに日影をおとした

しだいにおほきくなる孤獨の日かげ

おそろしい憂鬱の日かげはひろがる。

いま室内にひとりで坐つて

暮れてゆくたましひの日かげをみつめる

そのためいきはさびしくして

とどまる蠅のやうに力がない。

しづかに暮れてゆく春の日の夕日の中を

私のいのちは力なくさまよひあるき

私のいのちは窓の硝子にとどまりて

たよりなき子供等のすすりなく唱歌をきいた。

 

[やぶちゃん注:「萩原朔太郞 靑猫(初版・正規表現版) 蠅の唱歌」を見られたいが、六行目末の句点追加と、八行目の字空けの詰めと、十四行目末の句点追加という微細な異同、十五行目が、

   *

しづかに暮れてゆく春の夕日の中を

   *

だったものに、「春」の後に「の日」を添えている。]

萩原朔太郎詩集「定本 靑猫」正規表現版 春の感情

 

   春 の 感 情

 

ふらんすからくる煙草のやにのにほひのやうだ

そのにほひをかいでゐると氣がうつとりとする。

うるはしい かなしい さまざまの入りこみたる空の感情

つめたい銀いろの小鳥のなきごゑ

春がくるときのよろこびは

あらゆるひとの命をふきならす笛のひびきのやうだ。

ふるゑる めづらしい野路のくさばな

おもたく雨にぬれた空氣の中にひろがるひとつの音色

なやましき女のなきごゑはそこにもきこえて

春はしつとりとふくらんでくるやうだ。

春としなれば山奧のふかい森の中でも

くされた木株の中でもうごめくみみずのやうに

私のたましひはぞくぞくとして菌(きのこ)を吹き出す

たとへば毒だけ へびだけ べにひめぢのやうなもの

かかる菌(きのこ)の類はあやしげなる色香をはなちて

ひねもすさびしげに匂つてゐる。

春がくる 春がくる

春がくるときのよろこびは あらゆるひとの命を吹きならす笛のひびきのやうだ

そこにもここにも

ぞくぞくとしてふきだす菌(きのこ) 毒だけ

また籔かげに生えてほのかに光るべにひめぢの類。

 

[やぶちゃん注:太字は底本では傍点「ヽ」(「靑猫」には傍点はない)。「ふるゑる」はママ。「萩原朔太郞 靑猫(初版・正規表現版) 春の感情」。異同は御自身で確認されたいが、重大な一箇所を除いて大きな異同はない。

 その一箇所とは、初出(リンク先で示してある)と「靑猫」版で偏執狂的に拘ったはずの三行目の頭の「うれはしい」を、あっけなく「うるはしい」と直している点であるが、実はこれは先行する第一書房版「萩原朔太郞詩集」(私は以前に述べた通り、旧作の改悪版まで全部を電子化する意志を持っていないので、先に終わった第一書房版「萩原朔太郎詩集」の電子化では再録詩篇分は電子化していない。筑摩版全集でさえ後発詩集の再録の多くは載せずに、校異に留めてある。その時、底本とした同詩集の当該部を早稲田大学図書館「古典総合データベース」のPDF一括版で見られたい。147コマ目である)早稲田大学図書館「古典総合データベース」の同初版(書誌ページはここにあり、全巻PDF一括はで既に「うるはしい」に改めているのを受ける。しかし、これは非常に重大な詩想全体を揺るがすに匹敵する大改変・大改悪である。

 朔太郎が先に使った「うれはしい」は日本語としては、「憂(うれ)はしい」以外には読めない代物であり、それは「心配な状態で・如何にも嘆かわしい感じの」の意であって、而して、この一行は、

   *

うれはしい かなしい さまざまの入りこみたる空の感情

   *

で、マイナーな「うれはしい」「かなしい」という「さまざま」(と言いながら、それは詩人の内なる専ら問題性を持ったネガティヴな暗いものである)な「感情」が「入りこ」んでいる「空の」持つ「感情」というものを形容していることになる。詩篇全体は春の常識的定番的な「あらゆるひとの命を吹きならす笛のひびきのやう」な春、そうしたポジティヴな「春がくるときのよろこび」を詠いつつ、しかし、詩人の「たましひはぞくぞくとして」奇体な不吉な病的な「菌(きのこ)」のようなもの「を吹き出す」のであり、それは「たとへば毒だけ」「へびだけ」「べにひめぢのやうなもの」ものであり、それら「かかる菌(きのこ)の類は」おどろおどろしい「あやしげなる色香をはな」っては「ひねもす」陰気に「さびしげに匂つてゐる」のであり、しかもそれらは「ぞくぞくとしてふきだす」と痙攣的にたたみかけ、コーダさえ再び、「毒だけ」を出し、「また籔かげに生えてほのかに光るべにひめぢの類」のような疾患としての「春」の詩人の病的「感情」で締め括るものである。されば、私は本篇の初出や「靑猫」版の「うれはしい」でこそ、正当であると感じていた。それは詩人だけが「春」に感ずる「憂はしい」「哀しい」(とマイナーにしてメランコリックなそれ畳みをかける)「樣々の」「入り込みたる」不吉な不祥な、或いは、噓染みた、「否!」と、この詩人が叫びたくなる、全くの詩人独自の忌まわしい、春の表象たるところの、その「空の感情」をこそ描いた詩篇として優れていると思うからである。

 ところが、それを、

   *

うるはしい かなしい さまざまの入りこみたる空の感情

   *

と、如何にも優等生の作文のような、二項対立へ書き変え、一面的世間的大衆的には「麗(うるは)しい」が、しかし、詩人の内的な印象としてはネガティヴな「哀しい」「感情」がアンビバレントに「樣々」に「入り込」んでしまっている、どうしようもない搔き毟りたくなるような焦燥的にコンプレクス(複合的)した「空の感情」という、精神分析学の論文みたようなものになってしまっているのである。私は、この――改悪を――絶対的に――拒否する――ものである。

2022/01/27

萩原朔太郎詩集「定本 靑猫」正規表現版 月夜

 

   月  夜

 

重たいおほきな翅をばたばたして

ああ なんといふ弱々しい心臟の所有者だ。

花瓦斯のやうな明るい月夜に

白くながれてゆく生物の群をみよ

そのしづかな方角をみよ。

この生物のもつひとつのせつなる情緖をみよ。

あかるい花瓦斯のやうな月夜に

ああ なんといふ悲しげな いぢらしい蝶類の騷擾だ

 

[やぶちゃん注:最終行に句点無しはママ。本篇は萩原朔太郎遺愛の一篇であったようで、何度も後に再録し、その都度、標題変更や改稿を加えている。それについては、

萩原朔太郞 靑猫(初版・正規表現版) 月夜

萩原朔太郞詩集「蝶を夢む」正規表現版 騷擾(改題しているので注意!)

の注で、細かく、注釈・異同・初出・草稿を網羅してあるので参照されたい。

毛利梅園「梅園介譜」 水蟲類 猿猴蟹(ヱンコウガニ) / ケンナシコブシ

 

[やぶちゃん注:底本のここからトリミングした。]

 

Enkougani

 

猿猴蟹【「ゑんこうがに」。筑前柳川産。】

 

[やぶちゃん注:「エンコウガニ」は現在の和名では十脚目短尾(カニ)下目オウギガニ上科エンコウガニ科エンコウガニ属エンコウガニ Carcinoplax surgensis に与えられているが、同種は「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」の同種のページの画像を見て判る通り、この図のような背部全身に見られる棘状突起は持たず、甲はすべすべしていて、しかも、赤みを帯び、甲部の形状がまるで異なるから、本種ではない(「猿猴」はサルを指す。エンコウガニは猿の顔の形をしていて、且つ、甲が赤いことから命名されたものである)。このような、激しい棘状突起を有するのは、調べた限りでは、

短尾下目 Leucosioidea上科コブシガニ科エバリア亜科Ebaliinae Urashima 属ケンナシコブシ Urashima pustuloides

しかいないように思われる。英文サイトWorld Register of Marine SpeciesWoRMS」のこちらのデータ及び画像の「C」を見られたい。図と酷似することが判る。本種に同定する。深海性(水深三百二十~三百六十メートル附近)のカニである点で、梅園が入手した出来たことは、やや疑問だが(当時の底引網漁で採れなくはあるまい)、本邦に広く分布するようである。サイト「日本十脚目写真館」のこちらの画像が鮮やかである。ただ、その分、本図とはちょっと違って見えるが、梅園の入手したものは、既に死んだ個体で、時間を経た乾燥標本であれば、違和感はない。ただ、入手地を「筑前柳川」とするとなると、ちょっと疑問で、有明海の最深点は湾口部の湯島西方で、それでも百六十五メートルしかない点である。或いは、本種の死亡個体が、有明海の外の深海底で亡くなり、それが漂って、柳川近くまで浮上したものが、漁師の底引網に掛かったとすれば、あり得ぬことではないと私は思う。色がくすんでしまった理由もそれで説明がつくようにも感ずる。他種であるとすれば、御教授戴けると幸いである。]

毛利梅園「梅園介譜」 水蟲類 獨螯蟹(テンボウガニ) / シオマネキ

 

[やぶちゃん注:底本のここからトリミングした。]

 

Tenbougani

 

獨螯蟹(てんぼうがに)【「本草」に『大毒有り』と云ふ。紀州「和哥の浦」に、又、一種、小蟹あり、色、白く、片爪、小なり。是れも、「てんぼうがに」と云ふ。】

 桀歩(ケツホ)

  【「しをまねき」「かたつめがに」。紀州和哥浦産。】

 

[やぶちゃん注:どうも標本個体に問題があるのか、珍しく絵がよくない。キャプションからは、

抱卵(エビ)亜目短尾(カニ)下目スナガニ上科スナガニ科スナガニ亜科シオマネキ属 Uca

であることに違いはないが、図は特に鉗脚の形がどうも不審で、孰れのシオマネキ類とも似ていない。しかし、その鉗脚が、有意に紅色を呈しているところからは、の大鋏表面に顆粒が密集し、くすんだ赤色を呈する、

シオマネキ Uca arcuata

甲長(縦長)は二センチメートル、甲幅(横長)は三・五センチメートルに達し、日本産シオマネキ類の最大種のそれに比定同定してよい甲が逆台形をしている特徴も図によく出ている。ちなみに、分布域から、今一つ、ハクセンシオマネキ Uca lactea がいるが(寧ろ、共生する分布域ではハクセンシオマネキの方が個体数は多いと当該ウィキにはある)、ハクセンシオマネキは甲が長方形に近く、シオマネキより左右の眼柄の間が広い。この図の上部の二つの突起は眼柄の名残りと見え、横長からみて、それに齟齬しない。有明海沿岸では、私の好きな「がん漬」という塩辛にされたが、少なくとも、今、私の手に入るそれは、ラベルに蟹は中国産とある。なお、孰れも、現在、本邦では絶滅危惧II類(VU)に指定されている。なお、私は本邦では未だにシオマネキの自然群体を実見したことはない。初めて実見したのは、修学旅行の引率で訪れた、オーストラリアのケアンズの砂浜の脇の汚い排管の周囲でのことだった。それは私の当時の記事「臨海博士、グリーン島にて海外デビュー!」を読まれたい。

「獨螯蟹(てんぼうがに)」「てんぼう」は既出既注。この場合は恐らく、肥大化していない方の鋏足を切れた腕ととっての和名異名であろう。リンク先でも述べた通り、差別的ニュアンスがあるから、「てんぼう」は廃語とすべきである。

『「本草」に『大毒有り』と云ふ』「本草綱目」の「蟹」は「漢籍リポジトリ」のここの[106-21b]の直前から項立てされているが、海産物が苦手な時珍であるから、総てのカニ類を驚くべきことに、その項一つで纏めて解説してしまっている。「大毒」というのは、「集解」の頌氏の引用中に二箇所にあり(下線太字は私が附した)、

   *

故今南方捕蟹、差早則有銜芒、須霜後輸芒、方可食之、否則毒尤猛也。其類甚多。六足者名音詭、四足者名牝、皆有大、不可食。

   *

と、如何にも怪しげな記載である。ただ、正常に見えない、片腕の肥大と、奇体なウェーヴィング行動は、古えは、特別な異形(いぎょう)蟹として、食べてはならないと禁忌としたことは腑に落ちはする。なお、梅園が漢名として挙げる「桀歩」は、この後の方に、

   *

一螯大、一螯小者、名「擁劍」、一名「桀歩」。常以大螯鬬、小螯食物。

   *

とあって(「鬬」は音「トウ」で「鬪」に同じ)、これはシオマネキの類であることは間違いない。さらに言えば、梅園の謂いは正しくなく、時珍は後の「氣味」の条で「鹹寒有小毒」と規定している。

『紀州「和哥の浦」』この附近(グーグル・マップ・データ)。歌枕として知られ、古くから貝拾いの名所でもあった。

『又、一種、小蟹あり、色、白く、片爪、小なり。是れも、「てんぼうがに」と云ふ。』これは明らかに、

ハクセンシオマネキ Uca lactea

と採るべきである。

「しをまねき」「しほまねき」が正しい。「潮招き」。
「かたつめがに」「片爪蟹」。]

萩原朔太郎詩集「定本 靑猫」正規表現版 靑猫

 

   靑  猫

 

この美しい都會を愛するのはよいことだ

この美しい都會の建築を愛するのはよいことだ

すべてのやさしい娘等をもとめるために

すべての高貴な生活をもとめるために

この都にきて賑やかな街路を通るはよいことだ

街路にそうて立つ櫻の並木

そこにも無數の雀がさへづつてゐるではないか。

ああ このおほきな都會の夜にねむれるものは

ただ一匹の靑い猫のかげだ

かなしい人類の歷史を語る猫のかげだ

われらの求めてやまざる幸福の靑い影だ。

いかならん影をもとめて

みぞれふる日にもわれは東京を戀しと思ひしに

そこの裏町の壁にさむくもたれてゐる

このひとのごとき乞食はなにの夢を夢みて居るのか

 

[やぶちゃん注:「萩原朔太郞 靑猫(初版・正規表現版) 靑猫」を参照されたい。]

萩原朔太郎詩集「定本 靑猫」正規表現版 ホテル之圖

 

 

Hotel

圖 之 ル テ ホ

 ホテルの屋根の上に旗が立つてる。何といふ寂しげな、物思ひに沈んだ旗だらう。鋪道に步いてる人も馬車も、靜かな鄕愁に耽りながら、無限の「時」の中を徘廻してゐる。そして家々の窓からは、閑雅なオルゴールの音が聞えてくる。この街の道の盡きるところに、港の海岸通があるのだらう。すべての出發した詩人たちは、重たい旅行鞄を手にさげながら、今も尙このホテルの五階に旅泊して居る。

 

[やぶちゃん注:銅版画は筑摩版全集第二巻(初版・昭和五一(一九七六)年三月二十五日発行)からトリミングした。底本ではここ(単体HTML画像)で、PDF一括版では36コマ目(以下の私の謂いを理解されようとするなら、後者を見る方がよい)。「徘廻」はママ。前の「群集の中を求めて步く」の末尾が右ページにあり、否応なしに、この左ページの挿絵が目に飛び込んでくる。すると、その挿絵のホテルの前から右中央の消失点まで、異様に、ぎっしりと、ぎゅうぎゅうに、「群集」が、群がった蛆虫のように気持ち悪く、吐き気を催すほどに、意味不明のまま、屹立していることに気づくのである。而してページを捲ると、次の詩篇「靑猫」の「この美しい都會を愛するのはよいことだ/この美しい都會の建築を愛するのはよいことだ/すべてのやさしい娘等をもとめるために/すべての高貴な生活をもとめるために/この都にきて賑やかな街路を通るはよいことだ」という安っぽい帝都東京礼拝の呪文的思い込みの詩句が、これまた、否応なしに、読まされるのである。これを私は、「萩原朔太郞 靑猫(初版・正規表現版) 群集の中を求めて步く」の注で、これを萩原朔太郎の『如何にもな』『操作』と呼び、『そのやり口には』『鼻白む気がした』と批判したのである。これは私の秘やかな萩原朔太郎原体験記憶を穢す、後になって(私の「ホテル之圖 萩原朔太郎 (版画2タイプ掲示)」を見られると判るが、私が生まれて始めて見た、新潮社昭和四一(一九六六)年刊「日本詩人全集14 萩原朔太郎」所収の「ホテル之圖」は、原本同様、刷りが甚だ薄いために、惨めに孤独で愚かであった少年だった私は、薄暗い誰も居ない北国の図書館(私は少年期を鎌倉→大船→練馬大泉学園→大船→富山県高岡市伏木と移り住んだ。中・高(富山県立伏木高等学校)を通じて図書委員で、委員長も務め、中学時代は、ほぼ毎日、放課後の図書館のカウンター係をこなし、『図書館報』もほぼ一人で編集していた)で、この群集を群集と見做し得なかったものと考えている)、これ見よがしな、頗る厭な装置として機能していることに気づかされたからなのである。]

萩原朔太郎詩集「定本 靑猫」正規表現版 群集の中を求めて步く

 

   群集の中を求めて步く

 

私はいつも都會をもとめる

都會のにぎやかな群集の中に居るのをもとめる

群集はおほきな感情をもつた浪のやうなものだ。

どこへでも流れてゆくひとつのさかんな意志と愛欲とのぐるうぷだ。

ああ 春の日のたそがれどき

都會の入り混みたる建築と建築との日影をもとめ

おほきな群集の中にもまれてゆくのは樂しいことだ。

みよ この群集のながれてゆくありさまを

浪は浪の上にかさなり

浪はかずかぎりなき日影をつくり、日影はゆるぎつつひろがりすすむ。

人のひとりひとりにもつ憂ひと悲しみと、みなそこの日影に消えてあとかたもない。

ああ このおほいなる愛と無心のたのしき日影

たのしき浪のあなたにつれられて行く心もちは淚ぐましい。

いま春の日のたそがれどき

群集の列は建築と建築との軒をおよいで

どこへどうしてながれて行かうとするのだらう。

私のかなしい憂鬱をつつんでゐる ひとつのおほきな地上の日影。

ただよふ無心の浪のながれ

ああ どこまでも どこまでも この群集の浪の中をもまれて行きたい

もまれて行きたい。

 

[やぶちゃん注:本篇は、先行する詩集「靑猫」と「蝶を夢む」の孰れにも収録されている。

萩原朔太郞 靑猫(初版・正規表現版) 群集の中を求めて步く

に以上の「定本 靑猫」版を掲げて、その異同と、「定本 靑猫」での配置としての装置性について、やや批判的に評をしてある。また、再録された、

萩原朔太郞詩集「蝶を夢む」正規表現版 群集の中を求めて步く

で前者で示し忘れていた初出を示してあるので、ホテルの上にホテルを建てるような注は必要ないと考える。]

2022/01/26

萩原朔太郎詩集「定本 靑猫」正規表現版 その手は菓子である

 

   その手は菓子である

 

そのじつにかわゆらしい むつくりとした工合はどうだ

そのまるまるとして菓子のやうにふくらんだ工合はどうだ

指なんかはまことにほつそりとしてしながよく

まるでちひさな靑い魚類のやうで

やさしくそよそよとうごいてゐる樣子はたまらない。

ああ その手の上に接吻(きす)がしたい。

そつくりと口にあてて喰べてしまひたい

なんといふすつきりとした指先のまるみだらう

指と指との間に咲く このふしぎなる花の風情はどうだ

その匂ひは麝香のやうで 薄く汗ばんだ桃の花のやうにみえる。

かくばかりも麗はしくみがきあげた女性の指

すつぽりとしたまつ白のほそながい指

ぴあのの鍵盤をたたく指

針をもて絹をぬふ仕事の指

愛をもとめる肩によりそひながら

わけても感じやすい皮膚のうへに

かるく爪先をふれ

かるく爪でひつかき

かるくしつかりと、押へつけるやうにする指のはたらき

そのぶるぶると身ぶるひをする愛のよろこび はげしく狡猾にくすぐる指

おすましで意地惡のひとさし指

卑怯で快活な小ゆびのいたづら

親指の肌え太つたうつくしさと その暴虐なる野蠻性

ああ そのすべすべと磨きあげたいつぽんの指をおしいただき

すつぽりと口にふくんでしやぶつてゐたい。いつまでたつてもしやぶつてゐたい。

その手の甲はわつぷるのふくらみで

その手の指は氷砂糖のつめたい食慾

ああ この食慾

子供のやうに意地のきたない無恥の食慾。

 

[やぶちゃん注:「かわゆらしい」はママ。「親指の肌え太つたうつくしさと」はママで、「親指の肥え太つたうつくしさと」の痛い誤植。最初に単行詩集として「靑猫」に載ったものは、

萩原朔太郞 靑猫(初版・正規表現版) その手は菓子である

で、初出も掲げてある。次に再録した、

萩原朔太郞詩集「蝶を夢む」正規表現版 その手は菓子である

で電子化してある。また、実は本篇初出の続編である(前者の私の注を参照)、

萩原朔太郞詩集「蝶を夢む」正規表現版 その襟足は魚である

では、そちらの初出や草稿なども読めるようにしてあって、結果して、本篇分初出・「靑猫」版・再録「蝶を夢む」版・本「定本 靑猫」版の四つのヴァージョンに加えて、姉妹篇である「その襟足は魚である」の三ヴァージョン――計七篇を味わえるようになっている。どうぞ、じっくりと、比較されたい。因みに、私は最前者の注で、『私はフェティシズムの極地としてのそれなら、断然、初出を支持する。特に多くの「指」を「ゆび」と平仮名書きしたところに視覚的な舐めるようなそれが実に効果的に現出している。因みに、「定本靑猫」でもやや手を加えて再録しているが、「接吻」に「きす」とルビを振ってみたり、句読点を加えたりという小手先の仕儀がいらいらとして目立ち、五十歳の詩人のフェティシュは、最早、老耄して萎えてしまっていると言わざるを得ない(六十四歳の川端康成が書いた「片腕」の方が遙かに生々として凄いと思う)。何? 「定本靑猫」版を示さないで、どうして批判するかって? いやいや、この〈批判行為〉は正当である。何故なら、冒頭注で述べた通り、朔太郎自身が「定本靑猫」で『此等の詩篇によつて、私を批判しようとする人々や、他の選集に拔粹しようとする人々は、今後すべて必ずこの「定本」によつてもらひたい』と言っているのだから』(中略)。『面倒だから示さぬのではない。改悪によって枯れびしゃってしまって――示すにあまりに哀れ――だから、である。』とぶちかましている。その罵詈雑言を変更謝罪するつもりは全くない。私の憤懣の根っこが、比較されることで、自ずと判って戴けるものと、私は信ずるものである。

 なおまた、

萩原朔太郎詩集 遺珠 小學館刊 遺稿詩篇 手の感傷 / 筑摩版全集の「手の感觸」と同一原稿と推定(但し、順列に有意な異同が認められる)」

を電子化した際、その草稿として筑摩版全集の「未發表詩篇」の「女の手の感觸」を注で電子化したが、同全集は後の差し込みで、それが「その手は菓子である」の草稿と同一であることから、校訂本文も原型総て削除する、と指示があった。折角、電子化して整序版もオリジナルに作って示したので、そちらに載せてあるから、是非、見られたい。それが本篇の草稿である。 ]

萩原朔太郎詩集「定本 靑猫」正規表現版 波止場の煙

 

   波 止 場 の 煙

 

野鼠は畠にかくれ

矢車草は散り散りになつてしまつた。

歌も 酒も 戀も 月も もはやこの季節のものでない

わたしは老いさらぼつた鴉のやうに

よぼよぼとして遠國の旅に出かけて行かう。

さうして乞食どものうろうろする

どこかの遠い港の波止場で

海草の焚けてる空のけむりでも眺めてゐよう。

ああ まぼろしの處女(をとめ)もなく

しをれた花束のやうな運命になつてしまつた

砂地にまみれ

砂利食(じやりくひ)がにのやうにひくい音で泣いてゐよう。

 

[やぶちゃん注:『萩原朔太郞詩集「蝶を夢む」正規表現版 波止場の烟』を見られたいが、異同は、

・標題が「波止場の烟」であること。

・二行目・五行目・八行目の末に句点がないこと。

・八行目末が「ゐやう」となっていること。

・九行目の「處女(をとめ)」が「乙女」(ルビなし)であること。

・終行の頭が「礫利食(じやりくひ)がに」となっていること。

・終行の「音」にはちゃんと「ね」のルビがあること。

・終行の末尾が「居よう。」となっていること。

である。]

萩原朔太郎詩集「定本 靑猫」正規表現版 農夫

 

   農  夫

 

海牛のやうな農夫よ

田舍の屋根には草が生え、夕餉(ゆふげ)の煙ほの白く空にただよふ。

耕作を忘れたか肥つた農夫よ

田舍に飢饉は迫り 冬の農家の壁は凍つてしまつた。

さうして洋燈(らんぷ)のうす暗い厨子(づし)のかげで

先祖の死靈がさむしげにふるゑてゐる。

このあはれな野獸のやうに

ふしぎな宿命の恐怖に憑(つ)かれたものども

その胃袋は野菜でみたされ くもつた神經に暈(かさ)がかかる。

冬の寒ざらしの貧しい田舍で

愚鈍な 海牛のやうな農夫よ。

 

[やぶちゃん注:「ふるゑて」はママ。『萩原朔太郞詩集「蝶を夢む」正規表現版 農夫』を見られたいが、異同は、二行目の「煙」が「烟」であること以外には、「先祖の死靈がさむしげにふるへてゐる。」の後に行空けがあり、「このあはれな野獸のやうに」以下が第二連となった、二連構成であることが大きなそれである。]

萩原朔太郎詩集「定本 靑猫」正規表現版 停車場之圖

 

Teisyabanozu

圖 之 場 車 停

 無限に遠くまで續いてゐる、この長い長い柵の寂しさ。人氣のない構内では、貨車が靜かに眠つて居るし、屋根を越えて空の向ふに、遠いパノラマの鄕愁がひろがつて居る。これこそ詩人の出發する、最初の悲しい停車場である。

 

[やぶちゃん注:底本のここの左ページ。銅版画は筑摩版全集第二巻(初版・昭和五一(一九七六)年三月二十五日発行)のそれをトリミングした。本詩集のために書き下ろされた、挿絵版画に添えた立派な独立した散文詩である。なお、「柵」は原本を拡大して確認したが、断じて「栅」では、ない。原本のキャプションと散文詩の間は意想外に窮屈であること、図の刷りが予想以上に甚だ薄いことが判る。

 私は既に「停車場之圖 萩原朔太郎 (版画2タイプ掲示)」(二〇一三年六月)を電子化しているが、そこの注で、私は以下のように書いた……

   *

 私は初めて十一歳の秋、北国の黴臭い校内の図書館[やぶちゃん注:高岡市立伏木中学校(グーグル・マップ・データ)であった。その春に鎌倉からやって来た私には誰も友だちがいなかった。]で、この「停車場之図」とその散文詩を読んだ時の、あの素敵に慄っとした孤独な感覚を、今も忘れられないでいる。――この図と――「これこそ詩人の出發する、最初の悲しい停車場である」――という台詞こそが――私と朔太郎の宿命的邂逅の瞬間であったからである。

   *

何を隠そう! 今も覚えている! そちらで示した当時、刊行されて間もなかった、昭和四一(一九六六)年新潮社刊「日本詩人全集14 萩原朔太郎」所収の! その絵と以上の散文詩こそが、私の萩原朔太郎体験の濫觴の原風景だったのである!!!

萩原朔太郎詩集「定本 靑猫」正規表現版 家畜

 

   家  畜

 

花やかな月が空にのぼつた

げに大地のあかるいことは。

小さな白い羊たちよ

家の屋根の下にお這入り

しづかに淚ぐましく 動物の足調子をふんで。

 

[やぶちゃん注:『萩原朔太郞詩集「蝶を夢む」正規表現版 家畜』を見られたいが、異同は最終行が字空けなしで『しづかに淚ぐましく動物の足調子をふんで。』であることのみである。]

萩原朔太郎詩集「定本 靑猫」正規表現版 陸橋

 

   陸  橋

 

陸橋を渡つて行かう

黑くうづまく下水のやうに

もつれる軌道の高架をふんで

はるかな落日の部落へ出よう。

かしこを高く

天路を翔けさる鳥のやうに

ひとつの架橋を越えて跳躍しよう。

 

[やぶちゃん注:『萩原朔太郞詩集「蝶を夢む」正規表現版 陸橋』を見られたいが、異同は歴史的仮名遣を誤った「出やう」「しやう」のみである。]

萩原朔太郎詩集「定本 靑猫」正規表現版 海鳥

 

   海  鳥

 

ある夜ふけの遠い空に

洋燈のあかり白々ともれてくるやうにしる。

かなしくなりて家々の乾場をめぐり

あるいは海にうろつき行き

くらい夜浪の呼びあげる響をきいてる。

しとしととふる雨にぬれて

さびしい心臟は口をひらいた

ああかの海鳥はどこへ行つたか。

運命の暗い月夜を翔けさり

夜浪によごれた腐肉をついばみ泣きゐたりしが

ああ遠く 飛翔し去つてかへらず。

 

[やぶちゃん注:さて、「海鳥」は「かいてう」か? 「うみどり」か? などと思い始めてしまった。私はずっと「かいてう」で読んできた。それが、詩人の孤独感をより際立たせると思っていたから。ところが、試みにYouTube の朗読(玄人ではないな)を聴いたら、「うみどり」と読んでいるのを見つけた。しかし、聴くにやはり、情緒的に駘蕩してしまって、私にはしっくりこなかった。別宮貞雄氏が歌曲にしているデータはあったが、曲は聴けないから、判らない。他に朔太郎の詩篇の中で「海鳥」が出現していないか、ルビがないか、を調べたが、ちょっと見当たらないようだ。『大方の日本人の感覚と郷愁性からは、「うみどり」なんだろうかなぁ?』とは思ったものの、どうも気になって、捨ておけなくなった。すると、日外アソシエーツの「近代文学作品名辞典」で本篇がヒットした。おお! 「カイチョウ」だぜ! これは恐らく筑摩版全集索引が根拠なんだろうと思う。初版も一九八九年補巻版も、これ、孰れも「カ」に並んでいたよ。

 『萩原朔太郞詩集「蝶を夢む」正規表現版 海鳥 (ひょんなことから驚きの事実を発見)』を参照されたいが、異同は、「蝶を夢む」版が、

・「白白」「家家」と踊り字「々」を使用していないこと。

の他に、そちらでは、「くらい夜浪のよびあげる響をきいてる。」の後を一行空けて二連構成としている点が有意な差と言える。]

毛利梅園「梅園介譜」 水蟲類 ケンガニ / ガザミ

 

[やぶちゃん注:底本のここからトリミングした。]

 

Kengani

 

ケンガニ

 

乙未(きのとひつじ)九陽䟦終七日、之れを得て、眞寫す。

 

[やぶちゃん注:鋏足が如何にも小さいが、

抱卵(エビ)亜目カニ下目ワタリガニ科ガザミ属ガザミ Portunus trituberculatus

の若い個体であろう。ガザミについては、フライングした後掲の「毛利梅園「梅園介譜」 蝤蛑(ガザミ)」の私の注を見られたい。

「ケンガニ」「劍蟹」であろう。

「乙未(きのとひつじ)九陽䟦終七日」「乙未」は天保六(一八六五)年なのだが、以下の「九陽䟦終七日」が判らない。「終七日」は二十七日であるが、「九陽䟦」の月が判らぬ。「陽月」なら、陰暦十月であるが、そうすると、「九」が判らぬ。しかも「䟦」(「跋」の俗字)が、これまた、判らぬ。識者の御教授を乞うものである。]

萩原朔太郎詩集「定本 靑猫」正規表現版 石竹と靑猫

 

   石 竹 と 靑 猫

 

みどりの石竹の花のかげに ひとつの幻の屍體は眠る

その黑髮は床にながれて

手足は力なく投げだされ 寢臺の上にあほむいてゐる

この密室の幕のかげを

ひそかに音もなくしのんでくる ひとつの靑ざめたふしぎの情慾

そはむしかへす麝香になやみ

くるしく はづかしく なまめかしき思ひのかぎりをしる。

ああいま春の夜の灯かげにちかく

うれしくも死蠟のからだを嗅ぎて弄ぶ。やさしいくちびるに油をぬりつけ すべすべとした白い肢體をもてあそぶ。

そはひとつのさびしい靑猫

君よ 夢魔におびえて このかなしい戯れをとがめたまふな。

 

[やぶちゃん注:「あほむいて」「死蠟」はママ。

 『萩原朔太郞詩集「蝶を夢む」正規表現版 石竹と靑猫 (ちょっと筑摩版全集を批判した)』を参照されたいが、異同は、

・三行目「寢臺の上にあほむいてゐる」の最後にあった句点が除去されていること。

・四行目「この密室の幕のかげを」の最後にあった句点が同じく除去されていること。

●九行目「嗅ぎて弄ぶ。」が「蝶を夢む」版では「嗅ぎてもてあそぶ」であること。

●同じく九行目「うれしくも死蠟のからだを嗅ぎて弄ぶ。やさしいくちびるに油をぬりつけ すべすべとした白い肢體をもてあそぶ。」が「蝶を夢む」版では「うれしくも死蠟のからだを嗅ぎてあそぶ」が九行目で、以下の「やさしいくちびるに油をぬりつけ すべすべとした白い肢體をもてあそぶ。」が改行されていること。

である。なお、驚くべきことに、筑摩版全集校訂本文では、以上の最後の部分を、勝手に改行してしまっているのである。初出と句点から、そうするのを正当と考えたのだろうが(確かに萩原朔太郎の通常の詩篇(散文詩は除く)で「。」を打っておいて改行せずに続けるというのは特異点ではある)、本詩集を絶対「定本」と厳命しているものを、そんな風にして恣意的に弄ってしまって、これ、いいんですかねぇ? 筑摩さん? それとも冥界通信でもして、朔太郎が「そうして呉れ」と言いましたか?

萩原朔太郎詩集「定本 靑猫」正規表現版 黑い蝙蝠

 

   黑 い 蝙 蝠

 

わたしの憂鬱は羽ばたきながら

ひらひらと部屋中を飛んでゐるのです。

ああなんといふ幻覺だらう

とりとめもない怠惰な日和が さびしい淚をながしてゐる。

もう追憶の船は港をさり

やさしい戀人の捲毛もさらさらに乾いてしまつた

草場に昆蟲のひげはふるゑて

季節は亡靈のやうにほの白くすぎてゆくのです。

ああ私はなにも見ない。

せめては片戀の娘たちよ

おぼろにかすむ墓場の空から 夕風のやさしい歌をうたつておくれ。

 

[やぶちゃん注:「ふるゑて」はママ。

 『萩原朔太郞詩集「蝶を夢む」正規表現版 黑い蝙蝠 (筑摩版全集の初出表記への不審有り)』を参照されたいが、異同は、折角、歴史的仮名遣の正しかった「ふるへて」を、お得意の内在律(というかここは病的な慣用誤記固執)で初出形の「ふるゑて」に戻してしまっている点で、こうなるともう、彼の、この詩集への拘りが日本語文法をも無視する極北へと着実に向かっていることが判る。なお、朔太郎の高弟三好達治は、朔太郎晩年の文法破格傾向をひどく嫌い、師のアンソロジーを作っても、晩年の詩篇を殆んど採っていないことを言い添えておこう。]

2022/01/25

ブログ1,670,000アクセス突破記念 萩原朔太郎詩集「定本 靑猫」正規表現版 始動 箱・本扉標題・「自序」・目次・「揷繪目次」//本篇第一詩篇「蝶を夢む」

 

[やぶちゃん注:萩原朔太郎の詩集「定本 靑猫」(筑摩版全集並びに現行出回っているネット・データでは「定本青猫」と表記する。私自身も、過去記事ではそう表記してきた。しかし、「定本」は以下(リンク画像)で見る通り、箱書き・本体表紙・本文開始前標題に於いて、総て横割であったり、ポイント落ちであったりする上、「靑猫」とは字空けが必ずあるからには、「定本 靑猫」と表記すべきと考え、私は以後、一貫して、そう表記することとする)は「版𤲿莊」から昭和一一(一九三六)年三月二十日に刊行(以上は発行日)された単行詩集である。先行する詩集「靑猫」は大正一二(一九二三)年一月アルス刊であった。それを改めて「定本」と謳って再刊した意図は以下に示す「自序」に詳しい。なお、その、私に言わせれば、「定本」ではなくても、真正の「靑猫」の正規表現版は旧カテゴリ「萩原朔太郎」で、二〇一九年一月に総て電子化注済みである。

 私は二〇〇五年七月二十日に旧カテゴリ「萩原朔太郎」を開始して以来、現在の「萩原朔太郎Ⅱ」までに、萩原朔太郎の生前に彼の意志で刊行した単行詩集の殆んど総て(再録版の一部改変版の一部は除く)、正規表現版として電子化注してきたが(古いものにしかなかったものは、ほぼ正規表現に修正をしてある)、ここに至って、本詩集「定本 靑猫」のみが、最後の詩集として残った。私の正規表現版は編年ではない(例えば本詩集の後に朔太郎生前の自選詩集は直前に正規表現版として完遂した「宿命」がある)。本詩集は全六十九篇の詩篇から成るものの、その総てが、既刊詩集の「靑猫」・「蝶を夢む」・第一書房版「萩原朔太郞詩集」・新潮社版「現代詩人全集第九卷 萩原朔太郞集」からの再録である。しかし、再録と言っても、例によって朔太郎はそのままにせず、改変を施してしまっている。彼の後年の、特に若き日の作品に対する書き換えには、正直、どうも老害の部類に属すところの、生理的に受け入れられないところが、多々、見受けられ、中には、絶対に許し難い改悪作もある。それが、正直、本詩集の正規表現版を後回しにし、最後に残すこととなってしまったのであった。しかし、本詩集末尾にある「卷尾」の中では(最後に全文を電子化する)、朔太郎自身が、如何にも満を持したという感じで、檄文のように、『この「定本」のものが本當であり、流布本に於ける誤植一切を訂正し、併せてその未熟箇所を定則に改定した、よつて此等の詩篇によつて、私を批判しようとする人々や、他の選集に拔粹しようとする人は、今後すべて必ずこの「定本」によつてもらひたい。』(後で示す底本の当該部分(奥附の前ページ)の画像のここ)と言い放ってしまっている(この行為自体が老害の無謀行為としか私には見えない)。されば、この、当時、近づきつつあった軍靴の音みたようなファッショ的闡明に脅かされて、筑摩版全集でさえ、例外的(同全集は他の詩集では再録の詩篇は校訂本文採用はせずに省略し、校異に留めてある)に全篇を収録しているのである。私もやり残して何時までもモヤモヤするのは嫌だから、ここに始動することとしたものである。従って、本電子化注では、私自身が今までの萩原朔太郎の詩篇の電子化に於ける立ち位置と、有意にずれて臨んでいるため、興味のない異同の検出は今までのようにはする気がなく、また、改悪を容赦なく批判をするケースも出てくるものと思う。そこはご理解の上、私の注を読まれたい。

 底本は早稲田大学図書館「古典総合データベース」のこちらにあるPDF一括版の原本画像を視認した。但し、同サイトは画像自体の使用は許可制であるので、そのHTML単体画像をリンクさせたり、私も所持する筑摩書房「萩原朔太郎全集」第二巻(昭和五一(一九七六)年三月二十五日発行・初版)からトリミング補正して添えることで、ヴィジュアルにも楽しめるようにする。なお、加工データとして、上記筑摩版全集同巻を底本とした「青空文庫」のテクスト・データ(入力:kompass氏/校正:ちはる氏/二〇一八年十二月十四日修正版/ここの下方からダウン・ロード出来る)を使用させて貰った。ここに感謝申し上げる。

 字配やポイントの違いなどは、ブログ・ブラウザでは不具合が生ずるので、必ずも再現していない(なるべくそれらしくはするつもりではある)。

 再録対象との異同と、特に今回、必要と思った新た印象や疑問のみを注で附した。しかし、総ての単行詩集掲載分は既に初出形を含めて電子化しており、注もしてしまっているので、それらをリンクさせるに留めたものも多い。五月蠅くなくて、よかろかい。

 なお、本電子化注は2006518日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来(このブログ「Blog鬼火~日々の迷走」開始自体はその前年の200576日)、本ブログが本日の初夜、1,670,000アクセスを最速のたった11日で突破(一万アクセス)した記念として始動する。新年ということで、知人が大挙して訪れた可能性もあるが、カテゴリ「怪奇談集」と、まさに萩原朔太郎の記事に異様に多数の人物の有意な集中が見られる。【2022125日 藪野直史】]

 


Teihonaoneko

 

[やぶちゃん注:。ブラックで印刷。背から見て右手。最上部の萩原朔太郎の英語表記の名前の末尾が歴史的仮名遣になっているのが、韻律に拘った彼らしい。「※」のある枠内に「圓頂塔之圖」の画が入る。全体とこの挿絵の囲み罫線は、二重の内側が細いタイプで、中央の二本の横罫は細い単線である。なお、実は、以上は、私が作った模式画像である。当初、今までのように、完全にテキストで再現しようとしたのであるが、恐らく理解出来ない方が多いと思うが、ブログ・ブラウザでは、こうした英語・縦書・ポイント落ち活字が混在したものは、テキスト形式では綺麗に再現することが恐らくは出来ないことが、小一時間の格闘の末に判明した。そこで、迂遠であったが、ワードで似た見た目を少し似たような感じに作ったものを、PDFに落とし、それを画像に変換し、さらに画像ソフトで加工したものを、上に張り付けたものである(実はかなり苦労した)。底本の単体画像はここである。「圓頂塔之圖」は、これのみの著作権に抵触しない画像と思われる平面単独画像が、所持する書籍やネットその他でも見当たらないので(筑摩版全集は口絵でのみ平面的でない写真家によるものを掲げており、これは文化庁規定に照らして使用は出来ない)、底本のリンクで我慢して戴く。

 銅板画像については、「自序」の後に「揷繪について」があるのでそれを読まれたい。因みに、実は、私の中学生時代の萩原朔太郎原体験記憶は、これらの銅版画と完全に視覚的にリンクしてしまっているのである。]

 

 

  定 本 靑 猫 (詩集) 萩原朔太郞著

 

[やぶちゃん注:。私は標題の下方に改めて「(詩集)」と背に記した本は、ちょっと知らない。「定本」の文字との関係上、かくしたのであろうが、丸括弧は本書の作りの中で、唯一、如何にも恰好悪く、鼻白むものである。私が当時の本屋で見つけたら、正直、噴き出したかも知れぬ。] 

[やぶちゃん注:以下、本体に入る。左開きの表紙。本体のには印字がない(これはお洒落だ)。裏表紙も黄一色。表紙には、右上の背近くに箱表紙と同じ形の二重罫線と式に単線二本で仕切られた横長の白ラベルが貼り付けられてあり、その上段に、 

 

  The   Blue  Cat

   6 illustrations, 69 lyrics

 

とローマンで記されてあり、中段には中央に、

 

  猫 靑

 

で、その右手に縦書ポイント落ちで、

 

        定

        本

 

とあり、再下段には、

 

集 詩 入 𤲿 版 銅

著 郎 太 朔 原 萩

 

と、罫線を含め総てが、薄い水色で印刷されている。なお、筑摩版全集の解題と挿絵写真を見ると、このラベル違いの同じ初版が別にあり、それは、縦長のシールで、三段に分かれ、中段が非常に長い。上段にはゴシックで「THE   BLUE  CAT」(斜体ではない)と上にあって、中段にはその一番上に上のそれよりポイント落ちゴシックで「6  illutraions,   69  lyrics」(同じく斜体ではない)とあり、私なんどにはちょっと奇体な化け猫みたような(顔全体(正面)と両肩が描かれているが、肩は猫ではなく、人間にしか見えない)カリカチャライズしたイラストがあり、再下段は先に示した本底本の中段の部分が入っている。但し、こちらは総てがブラックの印刷である。遠見には西部劇の「お尋ねもの」の「WANTED」の張り紙のような不気味な感じである。なお、最後に言っておくと、ご存知の方も多かろうが、本詩集の箱を含む装幀は、先行する詩集「靑猫」のそれを真似たものである。私の『萩原朔太郞 靑猫 (初版・正規表現版)始動 序・凡例・目次・「薄暮の部屋」』の復刻版の画像を見られたい。

 さて。表紙を開くと、見返しと遊びの紺青が表紙装幀の黄色のはみ出しに映えて素晴らしい。これは本詩集のオリジナルで正編「靑猫」にはない。]

 

 

[やぶちゃん注:本扉標題。御覧の通り、先に示した箱表紙の、全く同じ版組みを、薄い水色で刷ったものである。これも画像では示せない。

 

 

宇宙は意志の現れであり、意志の本質は惱みである

 

                シヨウペンハウエル

 

[やぶちゃん注:本扉標題ページを開いた、見開きの左ページにある添え辞。引用文は本文並みに大きい。

 以下、「自序」。ここでは底本PDF一括版で示すと、12コマ目からである。]

 

 

 自  序

 

「靑猫」の初版が出たのは、一九二三年の春であり、今から約十年ほど昔になる。その後ずつと絕版になつて、市上に長く本を絕えて居た。元來、詩集といふものは、初版限りで絕本にするところに價値があるので、版を重ねて增册しては、詩集の人に貴重される稀本の價値が無くなつて來る。しかも今日、あへてこの再版を定本にして出す所以は、著者の私にとつて種々の理由があるのである。

 第一の理由は、初版「靑猫」の内容と編輯とが、私にとつて甚だ不滿足であり、意にみたないところが多かつた爲である。この詩集の校正が終り、本が市上に出始めた頃、私はさらにまた多くの詩を作つて居た。それらの詩篇は、すべて「靑猫」に現れた同じ詩境の續篇であり、詩のテーマに於てもスタイルに於ても、當然「靑猫」の中に編入すべき種類のものであつた。否むしろそれが無ければ、詩集としてのしめ括りがなく、大尾の完成が缺けるやうなものであつた。しかも詩集は既に製本されて出てしまつたので、止むを得ず私は、さらに此等の詩を集めて一册にし、靑猫續篇詩集(第二靑猫)として刊行しようと考へた。然るにその出版の好機がなく、且つ詩の數が少し豫定に足りないので、そのまま等閑に附してしまつた。但し此等の詩篇は、當時雜誌「日本詩人」その他に發表し、後に第一書房版の綜合詩集にも編入したので、私の讀者にとつては既に公表されてる者なのである。しかも「靑猫」を完全な定本詩集とする爲には、是非とも此等の詩を補遺しなければならないので、初版出版後今日まで、長く私はその再版の機會を待つて居た。[やぶちゃん注:「第一書房版の綜合詩集」昭和三(一九二八)年三月第一書房刊「萩原朔太郞詩集」。私の「萩原朔太郎Ⅱ」の『第一書房版「萩原朔太郞詩集」(初収録詩篇二十一篇分その他)正規表現版 「靑猫(以後)」』を参照。]

 同時にまた私は、その再版の機會をまつて、初版本の編輯上に於ける不統一を正さうとした。全集や綜合詩集は例外として、すべて單一な標題を揭げた詩集は、その標題が示す一つの詩境を、力强く一點に向つて集中させ、そこに詩集の統一された印象を構成させねばならないこと、あだかも一卷の小說に於ける構成と同じである。一册の標題された詩集の中に、そのテーマやスタイルを異にしてゐる種々雜多の詩が書かれてるのは、藝術品としての統一がなく、内容上の美的裝幀を失格してゐる。そして「靑猫」の初版本が、この點でまた不備であつた。例へば「軍隊」「僕等の親分」などのやうに詩の主想とスタイルとを異にして居る別種の者が混入して居り、他との調和美を破つて居た。再版の機會に於て、これもまた改訂編輯せねばならなかつた[やぶちゃん注:「僕の親分」はママ。「僕等の親分」が正しい。しかもマズいことに、「僕らの親分」は「靑猫」ではなく、「蝶を夢む」所収である。「軍隊」及び「僕等の親分」の私の正規表現版をリンクさせておく。]

 次の第二の理由は、初版本の裝幀、特に揷繪のことに關係して居る。私の始めのプランとしては、本書に用ゐた物と同じやうな木版𤲿を、初版本にも揷繪とするつもりであつた。然るに出版書店の方で時日を迫り、版𤲿職工との煩鎖な交涉を嫌つた爲、止むを得ず有り合せの繪端書を銅版にして代用した。元來私の書物に於ては、揷繪が單なる裝飾でなく、内容の一部となつて居るのであるから、揷繪が著者の意に充たないのは、内容の詩集が意に充たないのと同じである。この點もまた機會を見て、再版に改訂せねばならなかつた[やぶちゃん注:「煩鎖」はママ最後に句点がないのもママ(これはこの行が行末でおわっており、版組み上調整のしようがないからだが、句読点などを半角で組んで行末に「。」を組み入れる方法もあり、仕方がないとは言い切れない)。なお、朔太郎は「本書に用ゐた物と同じやうな木版𤲿を、初版本にも揷繪とするつもりであつた。然るに出版書店の方で時日を迫り、版𤲿職工との煩」瑣「な交涉を嫌つた爲、止むを得ず有り合せの繪端書を銅版にして代用した」と言い、自分の意図が実現されなかったのは、あからさまに出版社や版画職工のせいだと言っているわけだが、全く同じ轍を朔太郎は、既に一度、「純情小曲集」でやらかしているのである。『萩原朔太郎詩集 純情小曲集 正規表現版 始動 / 「珍らしいものをかくしてゐる人への序文」(室生犀星の序)・自序・「出版に際して」(萩原朔太郎)・目次・愛憐詩篇「夜汽車」』の表紙の部分を見られたい。そこでは「銅版畫入」とはっきり印刷されあるのに、同詩集には銅版画なんぞは挿入されいてないのである。これは寧ろ、萩原朔太郎自身の詩集刊行への丁寧な準備が杜撰だったことを暴露するものであろう。そもそも彼は仕事を持たず、詩集は結局、実父や実家の金を湯水のように使い込んで出版していたのだから、正直、「お前に言われたくないよ! ちゃんとやれよ!」と苛立たしく叫びたい私がいる。

 最後に第三の理由としては、この詩集「靑猫」が、私の過去に出した詩集の中で、特になつかしく自信と愛着とを持つことである。世評の好惡はともかくあれ、著者の私としては、むしろ「月に吠える」よりも「靑猫」の方を愛してゐる。なぜならこの詩集には、私の魂の最も奧深い哀愁(ベーソス)が歌はれて居るからだ。日夏耿之介氏はその著「明治大正詩史」の下卷で、私の「靑猫」が「月に吠える」の延長であり、何の新しい變化も發展も無いと斷定されてるが、私としては、この詩集と「月に吠える」とは、全然異つた別の出發に立つポエヂイだつた。處女詩集「月に吠える」は、純粹にイマヂスチツクのヴイシヨンに詩境し、これに或る生理的の恐怖感を本質した詩集であつたが、この「靑猫」はそれと異なり、ポエヂイの本質が全く哀傷(ベーソス)に出發して居る。「月に吠える」には何の淚もなく哀傷もない。だが「靑猫」を書いた著者は、始めから疲勞した長椅子(ソフハア)の上に、絕望的の悲しい身體(からだ)を投げ出して居る。[やぶちゃん注:「哀愁(ベーソス)」と「哀傷(べーソス)」の孰れもの「ベ」のルビはママ。誤植。「ヴイシヨン」もママ。ルビはしゃあないとしても、これぐらいは、校正で気づけよ! 朔太郎! 「日夏耿之介」(明治二三(一八九〇)年~昭和四六(一九七一)年:朔太郎より四つ年下)詩人で英文学者。長野生まれ。本名、樋口国登(くにと)。早大英文科卒。在学中から詩作を始め、西条八十らと詩誌『聖杯』(後に「仮面」に改題)を創刊して、大正期の象徴派新人として詩壇に登場、神秘的高踏的な詩風を確立した。詩集「転身の頌」「黒衣聖母」、「明治大正詩史」は彼のよく知られた詩論で、上下二巻。昭和四(一九二九)年新潮社刊。『中央公論』誌上に発表された四つの評論、「日本近代詩の成立」・「日本近代詩の浪漫(ろうまん)運動」・「日本近代詩の象徴思潮」・「日本輓近詩潮の鳥瞰景」を母胎としたもので、著者の象徴主義的詩観に立った個性的な詩史であり、戦後も改訂された。]

「靑猫」ほどにも、私にとつて懷しく悲しい詩集はない。これらの詩篇に於けるイメーヂとヴイジヨンとは、淚の網膜に映じた幻燈の繪で、雨の日の硝子窓にかかる曇りのやうに、拭けども、拭けども後から後から現れて來る悲しみの表象だつた。「靑猫」はイマヂスムの詩集でなく、近刊の詩集「氷島」と共に、私にとつての純一な感傷を歌つた詩集であつた。ただ「氷島」の悲哀が、意志の反※する牙を持つに反して、この「靑猫」の悲哀には牙がなく、全く疲勞の椅子に身を投げ出したデカダンスの悲哀(意志を否定した虛無の悲哀)であることに、二つの詩集の特殊な相違があるだけである。日夏氏のみでなく、當時の詩壇の定評は、この㸃で著者のポエヂイを甚だしく誤解してゐた。そしてこの一つのことが、私を未だに寂しく悲しませてゐる。今この再版を世に出すのも、既に十餘年も經た今の詩壇で、正しい認識と理解をもつ別の讀者を、新しく求めたいと思ふからである。[やぶちゃん注:「反※」(「※」=「口」+「巫」)はママ。「反噬」(はんぜい)の誤字か誤植。「反噬」の原義は「動物が恩を忘れて、飼い主に嚙みつくこと」で、転じて、「恩ある人に背き歯向かうこと・恩を仇で返すこと」を言う。]

 

 本書の標題「靑猫」の意味について、しばしば人から質問を受けるので、ついでに此所で解說しておかう。著者の表象した語意によれば、「靑猫」の「靑」は英語の  Blue  を意味してゐるのである。卽ち「希望なき」「憂鬱なる」「疲勞せる」等の語意を含む言葉として使用した。この意を明らかにする爲に、この定本版の表紙には、特に英字で  The Blue Cat  と印刷しておいた。つまり「物憂げなる猫」と言ふ意味である。も一つ他の別の意味は、集中の詩「靑猫」にも現れてる如く、都會の空に映る電線の靑白いスパークを、大きな靑猫のイメーヂに見てゐるので、當時田舍にゐて詩を書いてた私が、都會への切ない鄕愁を表象してゐる。尙この詩集を書いた當時、私はシヨーペンハウエルに惑溺してゐたので、あの意志否定の哲學に本質してゐる、厭世的な無爲のアンニユイ、小乘佛敎的な寂滅爲樂の厭世感が、自(おのづ)から詩の情想の底に漂つてゐる。[やぶちゃん注:「寂滅爲樂」(じやくめつゐらく)。「涅槃経」の四句偈の最後の一句。「煩悩の境を脱し、涅槃の境地に至って、初めて真の安楽があるというパラドクス。]

 

 初版「靑猫」は多くの世評に登つたけれども、著者としての私が滿足し、よく詩集のエスプリを言ひ當てたと思つた批評は、當時讀んだ限りに於て、藏原伸二郞君の文だけだつた。よつてこの定本では、同君に舊稿を乞ふて卷尾に附した。讀者の鑑賞に便すれば幸甚である。[やぶちゃん注:「藏原伸二郞」については、本詩集巻尾に配された「附錄」の「猫。靑猫。萩原朔太郞。」で注することとする。]

 

 揷繪について 本書の揷繪は、すべて明治十七年に出版した世界名所圖繪から採錄した。𤲿家が藝術意識で描いたものではなく、無智の職工が寫眞を見て、機械的に木口木版(西洋木版)に刻つたものだが、不思議に一種の新鮮な詩的情趣が漂渺してゐる。つまり當時の人々の、西洋文明に對する驚き――汽車や、ホテルや、蒸汽船や街路樹のある文明市街やに對する、子供のやうな悅びと不思議の驚き――が、エキゾチツクな詩情を刺激したことから、無意識で描いた職工版𤲿の中にさへも、その時代精神の浪漫感が表象されたものであらう。その點に於て此等の版𤲿は、あの子供の驚きと遠い背景とをもつたキリコの繪と、偶然にも精神を共通してゐる。しかしながらずつと古風で、色の褪せたロマンチツクの風景である。

 見給へ。すべての版𤲿を通じて、空は靑く透明に晴れわたり、閑雅な白い雲が浮んでゐる。それはパノラマ館の屋根に見る靑空であり、オルゴールの音色のやうに、靜かに寂しく、無限の鄕愁を誘つてゐる。さうして鋪道のある街々には、靜かに音もなく、夢のやうな建物が眠つてゐて、秋の巷の落葉のやうに、閑雅な雜集が徘廻[やぶちゃん注:ママ。]してゐる。人も、馬車も、旗も、汽船も、すべてこの風景の中では「時」を持たない。それは指針の止つた大時計のやうに、無限に悠々と靜止してゐる。そしてすべての風景は、カメラの磨硝子に寫つた景色のやうに、時空の第四次元で幻燈しながら、自奏機(おるごをる)の鳴らす佗しい歌を唄つてゐる。その佗しい歌こそは、すべての風景が情操してゐる一つの鄕愁。卽ちあの「都會の空に漂ふ鄕愁」なのである。

 

  西曆一九三四年秋

                 著  者

 

 

[やぶちゃん注:以下、「目次」であるが、リーダとページ数は除去した。]

 

 

 本文目次 詩六十九篇

 

 

蝶を夢む

黑い蝙蝠

石竹と靑猫

海鳥

陸橋

家畜

農夫

波止場の煙

その手は菓子である

群集の中を求めて步く

靑猫

月夜

春の感情

蝿の唱歌

恐ろしく憂鬱なる

憂鬱なる花見

怠惰の曆

閑雅な食慾

馬車の中で

最も原始的な情緖

天候と思想

笛の音のする里へ行かうよ

蒼ざめた馬

思想は一つの意匠であるか

白い雄鷄

囀鳥

惡い季節

桃李の道

風船乘りの夢

古風な博覽會

まどろすの歌

荒寥地方

佛陀

ある風景の内殼から

輪廻と樹木

曆の亡魂

夢にみる空家の庭の祕密

黑い風琴

憂鬱の川邊

佛の見たる幻想の世界

みじめな街燈

恐ろしい山

題のない歌

艶めかしい墓場

くづれる肉體

鴉毛の婦人

綠色の笛

寄生蟹のうた

かなしい囚人

猫柳

憂鬱な風景

野鼠

輪廻と轉生

厭やらしい景物

さびしい來歷

沿海地方

大砲を擊つ

海豹

猫の死骸

沼澤地方

駱駝

大井町

吉原

郵便局の窓口で

大工の弟子

時計

 

 

  揷 繪 目 次

 

圓頂塔之圖(扉)[やぶちゃん注:これのみリーダはあるが、ページ数はない。]

停車場之圖

ホテル之圖

海港之圖

市街之圖

時計台之圖[やぶちゃん注:「台」はママ。実際、当該ページでも「台」である。]

 

 

   

定本 靑 猫     全

 

[やぶちゃん注:本篇開始の標題。以上は、特殊な罫で囲まれてある。底本当該部を見られたい。]

 

 

   蝶 を 夢 む

 

座敷のなかで 大きなあつぼつたい翼(はね)をひろげる

蝶のちひさな 黑い顏とその長い觸手と

紙のやうにひろがる あつぼつたいつばさの重みと

わたしは白い寢床のなかで目をさましてゐる。

しづかにわたしは夢の記憶をたどらうとする

夢はあはれにさびしい秋の夕べの物語

水のほとりにしづみゆく落日と

しぜんに腐りゆく古き空家にかんする悲しい物語。

 

夢をみながら わたしは幼な兒のやうに泣いてゐた

たよりのない幼な兒の魂が

空家の庭に生える草むらの中で しめつぽいひきがへるのやうに泣いてゐた。

もつともせつない幼な兒の感情が

とほい水邊のうすら明りを戀するやうに思はれた。

ながいながい時間のあひだ わたしは夢をみて泣いててゐたやうだ。

 

あたらしい座敷のなかで 蝶が翼(はね)をひろげてゐる

白い あつぼつたい 紙のやうな翼(はね)をふるはしてゐる

 

[やぶちゃん注:本文のレイアウトは、また、非常に凝っている。本篇の始まりの単独画像はこれで、縦六分の一のところに横罫が各ページに端から端まで引かれてあり、その右ページでは左寄りの、左ページでは右寄り四分の一ほどの位置にノンブルが斜体で入る。

 第二連末の「ながいながい時間のあひだ わたしは夢をみて泣いててゐたやうだ。」はママ。「て」は衍字ではなく、誤植の可能性が頗る高い。原本の当該部を見ると、「泣いて」で改行+改ページだからである。言わずもがなであるが、天下の筑摩版全集校訂本文では、当然、消毒されて「泣いてゐたやうだ。」となっている。

私の『萩原朔太郞詩集「蝶を夢む」正規表現版 始動 / 「詩集の始に」・目次・「蝶を夢む」(詩集前篇の第一篇)』を見られたいが、異同は(誤植と断じた「泣いてて」は萩原朔太郎の名誉のため、絶対「定本」の巻頭詩でもあるからして、ここだけは、敢えて目を瞑ってやろうじゃないか)、

・第一連二行目「黑い顏と」は「醜い顏と」。

・第一連三行目末の句点を除去。

・第一連最終行「空家にかんずる」を「空家にかんする」と変更。これは初出(リンク先参照)により、初出形への補正と判断される。則ち、萩原朔太郎の詩想の中では一貫して「關する」であって、「感ずる」ではなかったという事実が判然とするのである。これは意味ある正当な改訂と言える(にしても「泣いてて」は「定本」のしょっぱなから致命的に痛いがね!)。

・第二連四行目「とほい水邊のうすら明りを戀するやうに思はれた。」は句点を追加している。

・最終行末の句点を除去。

している点である。リンク先には初出形も全体を示してあるので、見られたい。]

またしても最速十一日で一万アクセスを超えた

前回の一月十四日以降、連日、一千から九百といったアクセスが続き、僅か十一日で、一万アクセスを超えた。botの仕儀とも思われぬことで、ブログ・カテゴリ「耳囊」「怪奇談集」といった古い投稿や、「芥川龍之介書簡抄」へのアクセスが恐ろしく多い。記念テクストは用意しているが、明日にする。では、お休み――

狗張子卷之二 武庫山の女仙

 

[やぶちゃん注:挿絵は今回は底本(昭和二(一九二七)年刊日本名著全集刊行會編「同全集第一期「江戶文藝之部」第十巻の「怪談名作集」)のものをトリミング補正して、適切と思われるところに挿入した。]

 

    ○武庫山(むこやま)の女仙(によせん)

 

 天正年中に、京都七條わたりに、小野民部(みんぶ)小輔(せう)とて、もとは然《しか》るべき人のすゑと聞こえし。

 世に、おちぶれて、京のすまひも物うくて、津の國冠(かふり)の里に、したしき人を賴み、かしこにくだりて、住みけり。

 

Minnbu1

 

 さびしき田舍のすまひ、我とひとしき友もなく、春の日のうらゝかなるに、いざなはれて、心にまかせて、武庫の山もとにいたり、

 見渡せばすみのえ遠しむこ山の

       浦づたひして出る舟人

と、うちずむじて、谷ひとつ、わたりて、あなたの茂みにさし入ければ、年のほど、はたちあまりの女、只、ひとり、立(たち)てあり。

 花をたづねてあそぶにも、あらず、妻木(つまぎ)をひろふ賤(しづ)のめとも、みえず。

 身には、木の葉をつゞりながらも、いやしからぬ有さま、民部、あやしく思ひて、近くあゆみよりつゝ、

「君は、いかなる人なれば、かゝる山中(やまなか)に、只ひとり、おはすらん。」

と問ひければ、女、うちゑみて、

 

Minnbu2

 

「我は、もとより、此山に年月をかさねしものなり。昔をかたりて、聞せまゐらせん。古(いに)しへ、神功皇后は(じんぐうくわうごう)、高麗(こま)・もろこし・新羅(しらぎ)の國をうちしたがへ、此日のもとに歸陣(かいぢん)あり。弓矢(ゆみや)・鉾(ほこ)・劒(つるぎ)・よろひ甲(かぶと)、あらゆる武具を、此山にうづみ給ひしによりて、『武庫の山』とは名づけられけり。そののち、天長のみかどの御時に、第二の妃(きさき)、この山に入《いり》給ひ、『如意輪觀音の法』をおこなひ給ふ。故に『如意の尼』と申奉りけり。こゝは辨財天の住所、廣田(ひろた)の明神、つねに、まもり給ふ。白き龍に變じてあらはれ、石となりて御形(《おほん》かたち)を殘し、猶、今も、此山にましませり。空海和尙(くわしやう)、この所にして、『如意實珠の法』を修(しゆ)せられしに、辨財天女、あらはれ給ひ、

「我、此山にとゞまりて、あらゆる貧人(ひんにん)のために、たからをあたへん。」

と、ちかひ給へり。如意の尼、すでに伽藍を建立(こんりう)し、如意輪の陀羅尼(だらに)を誦(じゆ)し、空海和尙を請(しやう)じて、祕密灌頂(ひみつくわんぢやう)をうけ給へり。此年、天下、大に日でりせしかば、守敏(しゆびん)・空海、雨ごひのいのり、有りけるに、如意尼、もとよりもち給ひし『浦島子(うらしまこ)が箱』を、空海、これを借りて、大祕法をおこなひ、雨ふりて、天下をうるほし給ひけり。此山の上に、大《おほい》なる櫻木、有《あり》て、朝(あした)ゆふべには、光さして、かゝやきけるを、空海に仰せて、此木を伐(きり)て、佛像をつくり、『浦島子が箱』をば、佛(ほとけ)の中に、つくりこめ給ふ。御后(きさき)、此山に入《いり》給ひし御時《おほんとき》、二人の女官(によくわん)をめしつれ給ふ。一人は、これ、從四位上和氣眞綱(わけのまつな)のむすめ豐子(とよこ)といひ、今一人は相馬將門(さうままさかど)のむすめ將子(まさこ)といふ。今の我身、これなり。如意尼につかへ奉る事、露ばかりも、おこたり、なし。我は、常に瀧の水をくみて、閼伽(あか)のそなへとす。ある時、瀧の水のもとに、いとけなき兒(こ)の、いまだ二歲にもたらざるやうにて、色白く、うつくしきが、匍出(はひい)で、我を見て、うれしげに笑ひけるを、いとをしく、愛して、時のうつりて、おそく歸りしかば、

「いかに。けふは、おそかりし。」

と、とがめ給ふ。

「かうかうの事、侍り。」

と申す。

「その子、いだきて、歸りて、見せよ。」

と仰せけるを、又、瀧のもとにゆきければ、いたいけらしく、匐ひ出《いで》て、わらひけるを、かきいだきて歸るに、門に入《いり》しかば、此子、むなしく成《なり》て、枯木(かれき)の根(ね)のごとくにて、おもく覺えしを、如意尼、近くよせて御らんじければ、

「幾世(いくよ)へたりともしらず、大《おほい》なる茯苓(ぶくりやう)といふものなり。是れは、そのかみ、聞き及びし、仙人の靈藥なり。これを食(しよく)すれば、白晝(はくちう)に天にのぼるとかや。かぎりなき命を、のぶる、藥(くすり)なり。甑(こしき)に蒸(む)して、奉れ。」

とあり。柴(しば)三束(ぞく)を、燒(たき)つくして、すゝめ奉る。みずから、きこしめし、二人の女官にも給はり、みな、のこりなく、喰(くひ)つくしけり。これより、心はれやかに、身も凉しく、日をかさねて、如意の尼と、豐子、もろ友に、天に上《のぼ》り給ふ。我は、心、すこしおくれて、つれても、のぼり得ず、此山にとどまり、松の葉を食(じき)とし、數百年《すひやくねん》をおくりて、夏とても、熱(あつ)からず、冬もまた、寒からず。谷峯をわたれども、苦しくもなし。身はかろく、形(かたち)、おとろへず。さて、今は、いか成《なる》君のおさめ給ふ御代(みよ)成《なり》けるや。」

と問(とふ)に、民部は、

「かかるきどくの物がたり、又、ためしなき御事なり。天長の年よりこのかた、世、かはり、人、あらたまり、數(す)百歲をへだつるあひだに、人王(にんわう)は百七代にあたらせ給ふ。年號は、今は『天正』と改元あり。世の中、亂れて、暫らくも靜かならず、國、さはぎ、民、くるしみ、上下ともに、おだやかならねば、只、浮雲(うきくも)のごとし。あな、浦山《うらやま》しの有《あり》さま、眞(まこと)の地仙(ちせん)にて、おはしけり。」

とて、首(かしら)を地につけて、をがみけるあひだに、女仙は、行《ゆき》がたなく、うせにけり。

 民部、ふしぎに思ひ、ふもとの里に入《いり》て、

「只今、此山中にて、かゝる人に逢ひけり。年ごろも、此人に行逢(ゆきあふ)たるためしありや。」

と、たづねければ、あるじ、大《おほき》におどろきて、

「されば、此家の祖父(おゝぢ)、八十有餘なりしが、

『むかし、わかかりし時に、

「柴(しば)、刈(かる)。」

とて、山に入《いり》しかば、何とはしらず、廿(はたち)あまりの女の、顏、うるはしく、つやゝかなるが、身には、木の葉をつゞりかさね、岩のうへに、たちてありしを、

「あれは。」

といふ聲を聞て、飛ぶともなく、はしるともなく、嶺(みね)にのぼりて、うせさりぬ。』

と、かたられ、

『きつね・むじなの、ばけたるにや。』

と、いはれしを、聞《きき》おき侍べり。それより後には、見たる人も、侍べらず。」

とぞ、いひける。

 民部、

『きどくの事をも、みつる物かな。』

と、思ひつゞけて、歸りぬ。

[やぶちゃん注:「天正」一五七三年から一五九二年まで。国外では早期採用国では天正十(一五八二)年九月下旬以降、グレゴリオ暦となっている。

「小野民部(みんぶ)小輔(せう)」不詳。

「津の國冠(かふり)の里」大阪府高槻市大冠町(おおかんむりちょう:グーグル・マップ・データ。以下同じ)。

「武庫の山」地名としては兵庫県宝塚市武庫山が残る。六甲山脈の東端の山麓。ウィキの「武庫」によれば、『武庫(むこ)とは兵庫県摂津地方の古地名で、尼崎から兵庫までの沿海部を言う。武庫の名は』「神功皇后紀」に『はじめて見え』、「務古」とも『書いた』。『武器を埋めたところ』(「元亨釈書」等)、『椋(むく)の』の木のある山(加茂真淵)、『御子(みこ)の訛』(「住吉大社解状」)、『向こうの意』(「冠辞考」)など、『諸説ある』。『上古文化の中心地である大和を出、難波から船を出さんとするとき、遥か対岸の地を望んで「向こう」と言ったとする説は無理の無い解釈として一般に認められている。しかしながら、はるか難波の対岸から見えない場所や河川名にまで、武庫の名がつけられていることから、疑問がないわけではなく、古くからいくつかの説がある。吉田東伍は「大日本地名辞書」』の「廣田神社」の『項で、祭神名天疎向津姫(あまさかるむかつひめ)に関して』、「向か津」は「武庫津」に『同じと指摘していることと、かつて』「向か津峰」と『呼ばれた武庫山=六甲山全山が往古、廣田神社の社領であったことは、考慮に値する』とあり、「摂津国風土記」『(逸文)は武庫の由来について次のように伝えている』。『「(神功)皇后は摂津の国の海浜の北岸の廣田の郷においでになった。いま廣田明神というのはこれである。その故にその海辺を名づけて御前(みさき)の浜といい、御前の沖という。またその兵器を埋めた場所を武庫(むこ)という。今は兵庫という。」』。『この伝承は、兵庫県の旧家である 北風家が』寛政七(一七九五)年まで『家宝として神功皇后の鎧を伝えていたことと整合する』とあった。

「見渡せばすみのえ遠しむこ山の浦づたひして出る舟人」江本裕氏の論文「『狗張子』注釈(二)」(『大妻女子大学紀要』一九九九年三月発行・「大妻女子大学学術情報リポジトリ」のこちらから同題論文の総て((一)~(五))がダウン・ロード可能)の注に、『類歌に「住吉のえなつにたちて見わたせば六児(むこ)のとまりをいづる舟人」(『歌枕名寄』泊一一二)がある。』とあった。以下、この歌やロケーションから、六甲山脈にそれなりに分け入っていないとおかしいから、凡そこの中央辺りが候補地か(グーグル・マップ・データ航空写真)。

「妻木(つまぎ)」「爪木」とも書く。「爪先で折りとった木」の意とも、「木の端(つま)」の意とも言う。薪(たきぎ)にするための小枝。柴。

「木の葉をつゞりながらも、いやしからぬ有さま」挿絵を見るに、仙人のアイテムである木の葉綴りの服ながら、相応に豪華である。

「神功皇后は(じんぐうくわうごう)、高麗(こま)・もろこし・新羅(しらぎ)の國をうちしたがへ、……」以下については、江本氏の論文で、教科書的な注ではなく、本篇の構成と原拠について、詳細に優れた分析がなされてあり、本篇を読み解くに甚だ有益であるので、かなり長いが、以下に引用させて戴く。

   《引用開始》

「神功皇后」は、第十匹代仲哀天皇の后で名は気長足姫。しばしば託宣を受け、巫女の役剖も担っていた。以下の本文を五つの記事に分けると、「武庫山の白来」、「如意の尼」、「広田明神の霊験」、「空海の雨ごいと浦島子の箱」、「如意の尼の従者」となり、右は『元亭釈書』十八「如意尼」や『本朝神杜考』二「広田」、同五「浦島子」に載る。先行作品と本文との関わりについて述べると。本章の「如意の尼」では天長帝の「第二の妃」とするが、「神社考」一二「広田」では「天長ノ妃」とのみ、同五[浦島子]では「第匹ノ妃」、また『元亨釈書』では冒頭「天長帝ノ次ギノ妃」と記すのに対し、後出帝が得る霊夢の中では「大悲ノ真身ヲ見ト欲バ第四ノ妃即是也」と記し、同一記事内で「第二」と「第四」が混在する。いずれにせよ「第二」とするのは、管見の範囲では本書と『元亨釈書』冒頭部だけである。次に「空海の雨ごいと浦島子の箱」の記事は、日照りのあった年を本文では「此年天下に大に日でり」とし、如意尼が空海を招き秘密灌頂を受けた年と同じとするが、「元亨釈書」及び「神杜考」五では日照りがあったのは。「天長元年」、秘密灌頂を受けたのが「天長七年」とする。上記齟齬は、「元亨釈書」のいくつかのエピソードを、本書が順序を変えて利用したために起きたものか。ちなみに、本章前半を占める一連の記事が先行作品と明らかに異なる点は、例えば伽藍建立の年や秘密灌頂を受けた年などで、具体的な時間を示していないことである。次に「如意の尼の従者」について、女官が二人いることは「元亨釈書」に見られ、それぞれ「如一」、「如円」と記される。このうち「真綱之女」は本文に合うものの、上記の通り、名は「如一」で本文の「豊子」とは合致しない。またもう一人を「将門のむすめ将子」とする記事もない。ただし、将門の娘は、「如蔵尼」として知られ、「元亨釈書」では「如意尼」の次に「如蔵尼」の伝説を収載している。なお、「如一」、「如円」の記事は「神社考」には見えない。以上ここに述べた以外の、「武庫山の由来」、「広田明神の霊験」、「空海の雨ごいと浦島子の箱」の描写は先行作品をほぽ息実に採川する。

   《引用終了》

この内、私の食指が甚だしく動くのは、「浦島子の箱」である。林羅山道春著「本朝神社考」の注釈附きの昭和一七(一九四二)年改造社刊の当該箇所を国立国会図書館デジタルコレクションの画像で見られる。ここここで後者の一字下げの部分を了意がそっくり元にしていることがよく判るので、是非、見られたい。

「歸陣(かいぢん)」「がいじん」(凱陣)の当て読み。戦いに勝って軍隊を引き揚げ、自分の陣営に帰ること。凱旋。古くは事実、「かいじん」とも読んだから、相応しいルビである。

「天長のみかど」淳和(じゅんな)天皇(延暦五(七八六)年~ 承和七(八四〇)年/在位:弘仁一四(八二三)年~天長一〇(八三三)年)。桓武天皇の第七皇子。母は藤原百川(ももかわ)の娘旅子(たびこ)。先々代の平城天皇及び先代の嵯峨天皇は異母兄である。天長一〇(八三三)年二月に甥の淳和天皇に譲位して上皇となった。歴代天皇の中で、唯一散骨された人物である(死に際して「薄葬」を遺詔としたため。京都大原野西院で散骨が行われた)。

「如意輪觀音の法」江本氏の注に、『罪障を消すために、如意輪観音を本尊として行う修法。如意輪観音は一切の願いを成就させるという如意宝珠や宝輪などを持ち、多くは六臂を備え、右膝立ちの姿をしている(『仏像図彙』二)』とある。私の好きな菩薩で、鎌倉の西御門の来迎寺のものが素敵に素晴らしい。同寺公式サイトのこちらを見られたい。二十歳の頃、訪れた際は、古い小さな本堂の頃で、この像の前に、周囲のご老人たちが集まって茶話会を開かれており、茶菓子まで頂戴した。目と鼻の先で美しい尊像を拝めた。あの雰囲気が、私の中の失われた古き良き唯一の鎌倉であったと言ってよい。

「廣田(ひろた)の明神」江本氏の注に、『摂津国武庫郡(現兵庫県西宮市大社町)にあり、天照大神の荒魂を主神として祭る神社。二十二杜の一つ。平安期には、祈禱により官位が上がるという信仰があり、貴族の参拝が盛んであった。また、平安後期には社殿で歌合が催され、和歌に霊験のあることでも知られた』とある。ここ

「守敏(しゆびん)」(生没年未詳)は平安前期の僧。出自も不詳。「守敏僧都(しゅびんそうず)」と称された。当該ウィキによれば、『大和国石淵寺の勤操らに三論・法相を学び、真言密教にも通じた』。弘仁一四(八二三)年、『嵯峨天皇から空海に東寺が、守敏に西寺が与えられた』『が、空海と守敏とは何事にも対立していたとされる』。弘仁一五(八二四)年の旱魃の際、『神泉苑での雨乞いの儀式に於いて空海と法力を競った』。『空海に敗れたことに怒り、彼に矢を放ったが』、『地蔵菩薩に阻まれたと伝わる(これにちなみ現在、羅城門跡の傍らに「矢取地蔵」が祀られている)。同じくして西寺も寂れていったとされる』という話はとみに知られるエピソードである。私の「柴田宵曲 續妖異博物館 雨乞ひ」など参照されるもよろしかろう。

「從四位上和氣眞綱(わけのまつな)」(延暦二(七八三)年~承和一三(八四六)年)は公卿。かの道鏡の侵害を阻止し、平安遷都・水利事業に功のあった民部卿和気清麻呂の五男である。官位は従四位上・参議・贈正三位。当該ウィキによれば、『若くして大学寮で学び、史伝を読み漁った』。延暦二一(八〇二)年、二十歳で『文章生に補せられ』、延暦二十三年、『初めて官吏に登用されて内舎人に任ぜられる。平城朝では治部少丞・中務少丞を歴任』した。『嵯峨朝に入り』、『蔵人・春宮少進』などを経て、弘仁六(八一五)年、『従五位下・春宮大進に叙任される。その後、左右少弁・左右少将を経て、弘仁』十三年、『従五位上に』なってより、天長元年』(八二四年)『までに正五位下に叙せられた。また同年には、かつて父・和気清麻呂が建立し』、『桓武天皇により定額寺に列格されていた神願寺について、寺域が汚れているとして、高雄山寺の寺域と交換して、新たに神護国祚真言寺と称して改めて定額寺することを、弟・仲世』(なかよ)『と共に言上して許されている』。『その後、淳和朝から仁明朝にかけて』、『諸官を歴任し、重要な官職で就任しないものはなかったという』。承和七(八四〇)年、『参議に任ぜられ』、『公卿に列した』。『その後』、『右大弁として』、承和九(八四二)年に発生した「承和の変」(廃太子を伴う政変。藤原氏による最初の他氏排斥事件とされている)、承和一二(八四五)年に発生した「善愷(ぜんがい)訴訟事件」(法隆寺の僧善愷が、同寺の壇越である少納言登美直名(とみのただな)を告訴した事件)の『審理にあたるが、後者を巡って下僚である右少弁・伴善男の告発を受けて、自宅の門を閉じ、直後に憤死した。「塵の立つ道は人の目を遮ってしまう。不正な裁判の場で、一人で直言しても何の益があるだろうか。官職を辞めるべきだ。早く冥土に向かおう。」と憤慨しながら官職を追われて、この世を去ったと伝えられている』。『生まれつき人情に厚く、忠孝を兼ね備えていた。政務を執り行うにあたり、私利私欲や不正はなかった。素より仏教への信仰心があり、帰依していた。天台・真言両宗の立宗は、真綱と兄・広世の力によるものであるという』とある高潔な人物であった。

「豐子(とよこ)」不詳。

「相馬將門(さうままさかど)」かの平将門(延喜三(九〇三)年?~天慶三年二月十四日(九四〇年三月二十五日)。

「將子(まさこ)」不詳。江本氏の先の引用を見られたいが、江本氏はここにも注されて、『如蔵尼がこれにあたるか「如蔵尼ハ平将門第三之女也」(「元亨釈書」十八「如蔵尼」)。なお、和気真綱と平将門の生存年には、約百年の同きがあり、それぞれの娘が同時に「めしつれ」られたとは考えにくい』と指摘されておられる。

「茯苓(ぶくりやう)」「ブクリョウ」は菌界担子菌門真正担子菌綱ヒダナシタケ目サルノコシカケ科ウォルフィポリア属マツホド Wolfiporia extensa の漢方名。中国では食用としても好まれる。詳しくは「三州奇談卷之二 切通の茯苓」の私の冒頭注を参照。

「甑(こしき)」古く、米や豆などを蒸すのに用いた器。鉢形の瓦製で、底に湯気を通す幾つもの小穴を空け、湯釜に載せて蒸した。のち、方形又は丸形の木製とし、底に簀の子を敷いたものを蒸籠(せいろう)と呼ぶ。現在の「せいろ」である。

「松の葉を食(じき)とし」この食事も仙人お約束のアイテムである。

數百年《すひやくねん》をおくりて、夏とても、熱(あつ)からず、冬もまた、寒からず。谷峯をわたれども、苦しくもなし。身はかろく、形(かたち)、おとろへず。さて、今は、いか成《なる》君のおさめ給ふ御代(みよ)成《なり》けるや。」

「人王(にんわう)は百七代にあたらせ給ふ」実際には第百六代の正親町(おおぎまち)天皇(永正一四(一五一七)年~文禄二(一五九三)年/在位:弘治三(一五五七)年十一月十七日~天正十四年十一月七日(グレゴリオ暦一五八六年十二月十七日)。孫の和仁親王(後陽成天皇)に譲位して上皇となった。実に百二十年振りの上皇となった(上皇となるのには相応の資金が必要であり、これ以前のジリ貧の宮廷では、改元や儀式及び仙洞御所の建造などはとても出来ず、現役でいるほかなかったのである)。

「浦山《うらやま》し」「羨まし」の当て字であるが、本話では、「浦島子の箱」との洒落が嗅がせてある。

「地仙(ちせん)」地上(人間界)で暮らしている下級の仙人。]

狗張子卷之二 死して二人となる

 

[やぶちゃん注:今回の挿絵は状態が最もよい現代思潮社版のそれをトリミングした。]

 

   ○死して二人(ふたり)となる

 

Doppe

 

 小田原城下のうちに、百姓のすみける一村あり。家中の侍も、少々、すみけり。

 北條早雲の時に、西岡又三郞とて、中間(ちうげん)、わづらひて、死(しに)けり。

 夕《ゆふ》さり、

「夜《よ》ふけがた、野原に埋(うづ)み、をさめん。」

とて、傍輩(はうばい)ども、あつまりて、日の暮《くる》るを待《まち》ける所に、見なれぬ男(おとこ)の來りて、人々には會釋(ゑしやく)もなく、死人(しにん)の前に坐して、聲をかぎりに、啼(なき)ける。

 あはれなるまでに聞えしかば、

「さだめて、ちかき親類、又は、したしき友なるべし。」

と、思ふところに、死(し)したる屍(かばね)、俄かに、

「むく」

と、おきあがる。

 此《この》人も、おなじく、立ちあがり、搏(つかみ)あひ、打ちあひけり。

 物をば、いはず、かなたこなたせしまゝ、あつまりし人々は、大《おほき》におどろきながら、すべきやうなくして、戶をさしこめ、出(いで)のきけり。

 二人、とぢこめられ、戶より内(うち)にて、打《うち》あひつゝ、日の暮《くれ》がたに、しづまりければ、人々、戶をひらくに、二人、おなじ枕に、ふして、あり。

 勢(せい)のたかさ・すがたかゝり・顏の有《あり》さま・鬢(びん)鬚(ひげ)、その身に着たる衣服までも、すこしも、替はること、なし。

 常に狎(なれ)たる傍輩も、いづれをそれと、見知るべからず。

 棺(くわん)をおなじく、二人を、ひとつにして、塚を築(つき)て、埋みけり。

[やぶちゃん注:二重身(ドッペルゲンガー:ドイツ語:Doppelgänger)の死体物というのは面白い。中国の伝奇小説で読んだ記憶がある。種本穿鑿はしない約束だが、やはり興味を押さえ切れず、江本裕氏の論文「『狗張子』注釈(二)」(『大妻女子大学紀要』一九九九年三月発行・「大妻女子大学学術情報リポジトリ」のこちらから同題論文の総て((一)~(五))がダウン・ロード可能)を拝見したところ、『出典』に、『「太平広記」三三九「李則」』とされ、『あらすじは次の通り』として、『唐の貞元(七八五~八〇五)の初め、河南の率則が死亡したところへ、蘇郎中と名乗る米色の衣を着た人が現れる。この人が激しく哀慟すると、死んだはずの李則が起きあがり、互いに』(江本氏の注では「摶」とあるが、これは音「タン・セン」で「まるい・まるめる」の意。「搏」(音「ハク」で「打つ・叩く・摑む」)でないとおかしい。江本氏の原文本文でも「摶」となっている。両者は判読し難い、誤り易い字ではある)『み合い殴り合う。騒ぎが静まり家人が様子をみると、姿形、衣服までも同じ二つの屍が横たわっていた。そこで二人を同じ棺に葬った。』とあった。「太平廣記」巻三百三十九「李則」は以下。「中國哲學書電子化計劃」の影印本のこちら(標題「李則」は前丁)から起こした。後の訓読は自然流。

   *

    李則

貞元初、河南少尹李則卒。未歛、有一朱衣人來、投刺申弔。自稱蘇郎中。既入哀慟尤甚。俄頃屍起、與之相搏。家人子驚走出堂、二人閉門毆擊、及暮方息。孝子乃敢入、見二尸共卧在牀。長短・形狀・姿貌・鬚髯・衣服、一無差異。於是聚族不能識。遂同棺葬之。【出「獨異志」。】

   *

    李則

 貞元の初め、河南の少尹(せういん:属官)李則、卒す。未だ歛(はふ)らざるに、一(ひとり)の朱衣の人、來たる有り、投刺(とうし)して弔ひを申す。自ら「蘇郎中」と稱す。既に入るに、哀慟、尤も甚だし。俄かにして、頃(このとき)、屍(かばね)、起きて、之れと相ひ搏(う)つ。家人や子、驚きて、走り、堂を出づるに、二人、門を閉ぢ、毆(なぐ)り擊ち、暮方(くれがた)に及びて息(や)む。孝子、乃(すなは)ち、敢へて入るに、二つの尸(かばね)、共に卧して牀に在るを見る。長短・形狀・姿貌・鬚髯(しゆぜん)・衣服、一つとして、差異、無し。是(ここ)に於いて、聚族、識ること能はず。遂に同じ棺に、之れを葬(は)ふれり。【「獨異志」に出づ。】

   *

「斂」は「亡骸を衣服で覆う」意で死者を葬ることを指す。「投刺」は「謁見を求める」の意。「獨異志」李冗(或いは李亢・李元・李冘)などとも綴る)撰。原本は十巻であったが、現存するものは三巻で、本篇は佚文ではなく、その「巻上」にある(「維基文庫」の「獨異志」で確認)。

「小田原城下の……」江本氏の注に、『相模国小田原城(現神奈川県小旧原市城山)。小田原城は明応四年(一四九五)北条早雲により攻略され、以後北条氏の関東進出の拠点となった。中世末期には、城下は武家屋敷と町人屋敷が混在していたが、近世に入り稲葉氏により整備された。「百姓のすみける一村」とは、「新編相模国風土記稿」二三に「城下町 城の東南を擁し凡十九町あり。此十九町を総て小田原宿と称す。…此外谷津付といへる村落あり。農民の住せし所にて宿駅の事に預らず。十九町一村を続て、小田原府内と称せり」とあり、谷津村(現神奈川県小田原市谷津)を指すか。なお、谷津村は小田原宿とは城を挟んで反対側に位置し、「城下のうら」とするのにも合う。』とある。「新編相模国風土記稿」の記載は国立国会図書館デジタルコレクションの「大日本地誌大系」第三十六巻末尾のここで読める。神奈川県小田原市谷津(やつ)はここ(グーグル・マップ・データ)。

「北條早雲」戦国大名で、室町幕府政所執事を務めた伊勢氏出身にして今川家家臣・後北条氏の祖(初代)の北条早雲こと、伊勢宗瑞(そうずい ?~永正一六年八月十五日(一五一九年九月八日):彼は終生「伊勢」を名乗り、「北条」は用いていない)。彼が小田原城を奪取したのは明応四(一四九五)年九月或いは翌明応五年以降であるから、設定時勢はその没年までの閉区間となる。

「西岡又三郞」不詳。

「夜ふけがた、野原に埋み、をさめん。」という台詞からは、中間の郷里も親しい親族もおらず、身分も低いので、その中間仲間が世話して、城外の野面に埋葬しようというのであろう。今では夜間の野辺の送りは異様だが、近代まで、地方では普通にあった。また、流行病等や異常死のケースでは、密やかに夜を待って行われたりもした。

「勢(せい)のたかさ」「背(せい)の高さ」。

「すがたかゝり」「姿懸(掛)り」。姿・形の様子・風情。]

2022/01/24

やるっきゃないか……「定本 靑猫」――

本ブログで、残る正規表現版で残している萩原朔太郎の単行詩集は「定本 靑猫」のみとなった。総て既刊詩集の再録だが、例によって改変を施している。彼の若き日の作品への書き換えには、正直、どうも気に入らないところが多々あるのだが、しかし、同詩集末尾で、朔太郎自身が、

『私を批判しようとする人々や、他の選集に拔粹しようとする人は、今後すべて必ずこの「定本」によつてもらひたい。』

と言い放ってしまっている。……やるっきゃないか…………

毛利梅園「梅園介譜」 水蟲類 團扇蟹(ウチハガニ) / タマオウギガニか?

 

[やぶちゃん注:底本のここからトリミングした。キャプションは位置を変更した。このクレジットの「两品」は恐らく上記全図の左手にある「ケンガニ」との二種を指すものと思われる。]

 

Utihagani

 

團扇蟹(うちはがに)

 

甲表

 

腹裏

 

两品天保七(かのえさる)年五月十五日、指谷先生、之れを送らるを、圖す。

 

[やぶちゃん注:【2022年1月27日改稿】当初、本種は種として全く分からなかったが、どうも気になってはいた。たまたま、別な必要から、平成七(一九九五)年保育社刊「原色検索日本海岸動物図鑑[Ⅱ]」(西村三郎編著)をつまびらいていたところ、画像が本種を髣髴させるものとして、ふと、手が止まった。

抱卵(エビ)亜目短尾(カニ)下目オウギガ二科カノコオウギガニ属カノコオウギガニ Daira perlata

であった。解説に(ピリオド・コンマを句読点に代えた)、『甲長22㎜まで。脚を縮めた姿は球状に近い。全身短毛で覆われる。甲面は多数の溝によって細かく分画される。前側縁には3個の切れ込みがある。鉗脚・歩脚の内面は平滑で白い。浅海岩礁のウミトサカ類』『群体の柄部に穴をあけて生息する。相模湾から九州まで分布する。』とあった。梅園の図は小さくて、細部の検証は出来ないものの、この記載は概ね齟齬しないし、何より、和名の「扇」は「団扇」に親和性がある。これを有力候補としたい。 

 

「天保七年年五月十五日」一八三六年六月二十八日。

「指谷先生」不詳。]

萩原朔太郎詩集「宿命」「散文詩」パート(「自註」附) 物みなは歲日と共に亡び行く / 萩原朔太郎詩集「宿命」「散文詩」パート(「自註」附)~了

 

   物みなは歲日と共に亡び行く

        わが故鄕に歸れる日、ひそかに秘めて歌へるうた。

 

   物(もの)みなは歲日(としひ)と共に亡び行く。

   ひとり來てさまよへば

   流れも速き廣瀨川。

   何にせかれて止(とゞ)むべき

   憂ひのみ永く殘りて

   わが情熱の日も暮れ行けり。

 

 久しぶりで故鄕へ歸り、廣瀨川の河畔を逍遙しながら、私はさびしくこの詩を誦した。

 物みなは歲日(としひ)と共に亡び行く――鄕土望景詩に歌つたすべての古蹟が、殆んど皆跡方もなく廢滅して、再度(ふたたび)また若かつた日の記憶を、鄕土に見ることができないので、心寂寞の情にさしぐんだのである。

 全く何もかも變つてしまつた。昔ながらに變らぬものは、廣瀨川の白い流れと、利根川の速い川瀨と、昔、國定忠治が立て籠つた、赤城山とがあるばかりだ。

 

   少年の日は物に感ぜしや

   われは波宜(はぎ)亭の二階によりて

   悲しき情感の思ひに沈めり

 

 と歌つた波宜(はぎ)亭も、既に今は跡方もなく、公園の一部になつてしまつた。その公園すらも、昔は赤城牧場の分地であつて、多くの牛が飼はれて居た。

 ひとり友の群を離れて、クロバアの茂る校庭に寢轉びながら、靑空を行く小鳥の影を眺めつゝ

 

   艶めく情熱に惱みたり

 

 と歌つた中學校も、今では他に移轉して廢校となり、殘骸のやうな姿を曝して居る。私の中學に居た日は悲しかつた。落第。忠告。鐵拳制裁。絕えまなき敎師の叱責。父母の嗟嘆。そして灼きつくやうな苦しい性欲。手淫。妄想。血塗られた惱みの日課! 嗚呼しかしその日の記憶も荒廢した。むしろ何物も亡びるが好い。

 

   わが草木(さうもく)とならん日に

   たれかは知らむ敗亡の

   歷史を墓に刻むべき。

   われは飢ゑたりとこしへに

   過失を人も許せかし。

   過失を父も許せかし。

                ――父の墓に詣でて――

 

 父の墓前に立ちて、私の思ふことはこれよりなかつた。その父の墓も、多くの故鄕の人々の遺骸と共に、町裏の狹苦しい寺の庭で、佗しく窮屈げに立ち並んでる。私の生涯は過失であつた。だがその「過失の記憶」さへも、やがて此所にある萬象と共に、虛無の墓の中に消え去るだらう。父よ。わが不幸を許せかし!

 

   たちまち遠景を汽車の走りて

   我れの心境は動騷せり。

 

 と歌つた二子山の附近には、移轉した中學校が新しく建ち、昔の佗しい面影もなく、景象が全く一新した。かつては蒲公英(たんぽぽ)の莖を嚙みながら、ひとり物思ひに耽つて徘徊した野川の畔に、今も尙白い菫(すみれ)が咲くだらうか。そして古き日の娘たちが、今でも尙故鄕の家に居るだらうか。

 

   われこの新道の交路に立てど

   さびしき四方(よも)の地平をきはめず。

   暗節なる日かな

   天日(てんじつ)家並の軒に低くして

   林の雜木まばらに伐られたり。

 

 と歌つた小出(こいで)の林は、その頃から既に伐採されて、樽や櫟の木が無慘に伐られ、白日の下に生々(なまなま)しい切株を見せて居たが、今では全く開拓されて、市外の遊園地に通ずる自動車の道路となつてる。昔は學校を嫌ひ、辨當を持つて家を出ながら、ひそかにこの林に來て、終日鳥の鳴聲を聞きながら、少年の愁ひを悲しんでゐた私であつた。今では自動車が荷物を載せて、私の過去の記憶の上を、勇ましくタンクのやうに爆進して行く。

 

   兵士の行軍の後に捨てられ

   破れたる軍靴(ぐんくわ)のごとくに

   汝は路傍に渴けるかな。

   天日(てんじつ)の下に口をあけ

   汝の過去を哄笑せよ。

   汝の歷史を捨て去れかし。

               ――昔の小出新道にて――

 

 利根川は昔ながら流れて居るが、雲雀の巢を拾つた河原の砂原は、原形もなく變つてしまつて、ただ一面の桑畑になつてしまつた。

 

   此所に長き橋の架したるは

   かのさびしき惣社の村より

   直として前橋の町に通ずるらん。

 

 と歌つた大渡新橋も、また近年の水害で流失されてしまつた。たゞ前橋監獄だけが、新たに刑務所と改名して、かつてあつた昔のやうに、長い煉瓦の堀をノスタルヂアに投影しながら、寒い上州の北風に震へて居た。だが

 

   監獄裏の林に入れば

   囀鳥高きにしば鳴けり

 

 と歌つた裏の林は、槪ね皆伐採されて、囀鳥の聲を聞く由もなく、昔作つた詩の情趣を、再度イメーヂすることが出來なくなつた。

 

   物みなは歲日(としひ)と共に亡び行く――。

   ひとり來りてさまよへば

   流れも速き廣瀨川

   何にせかれて止(とゞ)むべき。

                     ――廣瀨河畔を逍遙しつゝ――

 

 

 物みなは歲日と共に亡び行く  この文中にある鄕土の景物は、すべて私の舊作「鄕土望景詩」から取材したものである。鄕土望景詩は、私の第三詩集「純情小曲集」中に編入されてるが、この書の後半、抒情詩篇中にもその中の數篇を拔選してある。[やぶちゃん注:巻末の「散文詩自註」の当該部をここに配した。「抒情詩篇中にもその中の數篇を拔選してある」「鄕土望景詩」全十一篇の内、「中學の校庭」「波宜亭」「小出新道」「新前橋驛」「大渡橋」「廣瀨川」「利根の松原」「公園の椅子」「監獄裏の林」の九篇である。本詩集「宿命」の残りを電子化する意志は永遠にありえないので、本詩集の当該詩篇を特にリンクさせておく。

 

[やぶちゃん注:「われこの新道の交路に立てど……」以下の詩篇「小出新道」からの抜粋の三行目「暗節なる日かな」はママで、「暗鬱なる日かな」の痛い誤植である。その引用の直後の散文中の「樽や櫟の木が無慘に伐られ、」の「樽」はママで、「楢」のやはり痛い誤植。「と歌つた大渡新橋も、……」以下の散文中の「長い煉瓦の堀を」の「堀」もママで、「塀」の誤りで、これも痛い。萩原朔太郎自身の最終校正のいい加減さに、かなり呆れ果てる。

 初出は昭和一二(一九三七)年十二月号『藝苑』(後注参照)であるが、筑摩版全集では初出欄にあるものは、それを萩原朔太郎の好意で転載した昭和一三(一九三八)年二月号『四季』再録版から初出が起こされてある。しかし、不審なことに「解題」には初出である『藝苑』が入手出来なかったという記載はない。ところが、校異に附された注では、さらに不審なことに『「藝苑」は未詳』とあるのである。

 これは、名作詩群「鄕土望景詩」を抜粋しながら(新詠も含む。後の初出参照)、往時と現在の懸隔を傷むノスタルジアに富んだ特異な作品であるので、初出を示しつつ、途中で異同(多くは誤字・誤植)を指摘し、さらに抜粋元のそれぞれの「鄕土望景詩」各篇を、決定版とも言うべき「純情小曲集」の私の正規表現版各篇(オリジナル注釈附き)へリンクさせて示すこととする。

   *

 

 物みなは歲日と共に亡び行く

    わが故鄕に歸れる日、ひそかに秘めて歌へるうた。

 

   物(もの)みなは歲日(としひ)と共に亡び行く。

   ひとり來てさまよへば

   流れも速き廣瀨川。

   何にせかれて止(とゞ)むべき

   憂ひのみ永く殘りて

   わが情熱の日も暮れ行けり。

 

 久しぶりで故鄕へ歸り、廣瀨川の河畔を逍遙しながら、私はさびしくこの詩を誦した。

 物みなは歲日(としひ)と共に亡び行く――鄕土望景詩に歌つたすべての古蹟が、殆んど皆跡方もなく廢滅して、再度(ふたたび)また若かつた日の記憶を、鄕土に見ることができないので、心寂寞の情にさしぐんだのである。

 全く何もかも變つてしまつた。昔ながらに變らぬものは、廣瀨川の白い流れと、利根川の速い川瀨と、昔、國定忠治が立て籠つた、赤城山とがあるばかりだ。

[やぶちゃん注:本篇は本文にある通り、本散文詩のための新詠である。初出は昭和一二(一九三七)年十二月刊の『藝苑』(前橋の同人誌と思われる)。筑摩版全集第二巻「拾遺詩篇」より引く。その校訂本文では「廣瀬河畔を逍遙しつつ」という題を附してあるが、これは以下の添え辞を仮題としたもののようである。

 

   *

 

 ○

 

物(もの)みなは歳日(としひ)と共に亡び行く。

ひとり來てさまよへば

流れも速き廣瀨川。

何にせかれて止(とゞ)むべき

憂ひのみ永く殘りて

わが情熱の日も暮れ行けり。

       ――廣瀨川を逍遙しつゝ――

   *

なお、「鄕土望景詩」の「廣瀨川」は『萩原朔太郎詩集「純情小曲集」正規表現版 鄕土望景詩 廣瀨川』を見られたい。]

 

   少年の日は物に感ぜしや

   われは波宜(はぎ)亭の二階によりて

   悲しき情感の思ひに沈めり

 

 と歌つた波宜(はぎ)亭も、既に今は跡方もなく、公園の一部になつてしまつた。その公園すらも、昔は赤城牧場の分地であつて、多くの牛が飼はれて居た。[やぶちゃん注:『萩原朔太郎詩集「純情小曲集」正規表現版 鄕土望景詩 波宜亭』を参照。]

 ひとり友の群を離れて、クロバアの茂る校庭に寢轉びながら、靑空を行く小鳥の影を眺めつゝ

 

   艶めく情熱に惱みたり

 

 と歌つた中學校も、今では他に移轉して廢校となり、殘骸のやうな姿を曝して居る。私の中學に居た日は悲しかつた。落第。忠告。鐵拳制裁。絕えまなき敎師の叱責。父母の嗟嘆。そして灼きつくやうな苦しい性欲。手淫。妄想。血塗られた惱みの日課! 嗚呼! しかしその日の記憶も荒廢した。むしろ何物も亡びるが好い。[やぶちゃん注:「嗚呼! しかし」は詩集では「嗚呼しかし」である。こっちの方がいいのは言うまでもない。『萩原朔太郎詩集「純情小曲集」正規表現版 鄕土望景詩 中學の校庭』を参照。]

 

   わか草木(さうもく)とならん日に

   たれかは知らむ敗亡の

   歷史を墓に刻むべき。

   われは飢えたりとこしへに

   過失を人も許せかし。

   綏失を父も許せかし。

                ――父の墓に詣でて――

 

 父の墓前に立ちて、私の思ふことはこれよりなかつた。その父の墓も、多くの故鄕の人々の遺骸と共に、町裏の狹苦しい寺の庭で、佗しく窮屈げに立ち並んでる。私の生涯は過失であつた。だがその「過失の記憶」さへも、やがて此所にある萬象と共に、虛無の墓の中に消え去るだらう。父よ。わが不幸を許せかし!

[やぶちゃん注:「わか」「餓え」「綏失」はママ。総て誤字か誤植。本散文詩のための新詠である。初出は昭和一二(一九三七)年十二月刊の『藝苑』。筑摩版全集第二巻「拾遺詩篇」より引く。その校訂本文では「父の墓に詣でて」という題を附してあるが、これは以下の添え辞を仮題としたもののようである。

   *

 

 ○

 

わか草木(さうもく)とならん日に

たれかは知らむ敗亡の

歴史を墓に刻むべき。

われは飢えたりとこしへに

過失を人も許せかし。

綏失を父も許せかし。

         ――父の墓に詣でて――

   *]

 

   たちまち遠景を汽車の走りて

   我れの心境は動騷せり。

 

 と歌つた二子山の附近には、移轉した中學校が新しく建ち、昔の佗しい面影もなく、景象が全く一新した。かつては蒲英公(たんぽぽ)の莖を嚙みながら、ひとり物思ひに耽つて徘徊した野川の畔に、今も尙白い菫(すみれ)が咲くだらうか。そして古き日の娘たちが、今でも尙故鄕の家に居るだらうか。

[やぶちゃん注:「蒲英公(たんぽぽ)」はママ。『萩原朔太郎詩集「純情小曲集」正規表現版 鄕土望景詩 二子山附近』を参照。]

 

   われこの新道の交路に立てど

   さびしき四方(よも)の地平をきはめず。

   暗節なる日かな

   天日家並の軒に低くして

   林の雜木まばらに伐られたり。

 

 と歌つた小出(こいで)の林は、その頃から既に伐截されて、樽や櫟の木が無慘に伐られ、白日の下に生々(なまなま)しい切株を見せて居たが、今では全く開拓されて、市外の遊園地に通ずる自動車の道路となつてる。昔は學校を嫌ひ、辨當を持つて家を出ながら、ひそかにこの林に來て、終日鳥の鳴聲を聞きながら、少年の愁ひを悲しんでゐた私であつた。今では自動車が荷物を載せて、私の過去の記憶の上を、勇ましくタンクのやうに爆進して行く。

[やぶちゃん注:「暗節なる」はママ。既に述べた通り、「暗鬱」の誤植。「天日」にルビはない。「伐截」「爆進」はママ。『萩原朔太郎詩集「純情小曲集」正規表現版 鄕土望景詩 小出新道』を参照。]

 

   兵士の行軍の後に捨てられ

   破れたる軍靴(ぐんくわ)のごとくに

   汝は路傍に渴けるかな。

   天日の下に口をあけ

   汝の過去を洪笑せよ。

   汝の歷史を捨て去れかし。

               ――昔の小出新道にて――

 

 利根川は昔ながら流れて居るが、雲雀の巢を拾つた河原の砂原は、原形もなく變つてしまつて、ただ一面の桑畑になつてしまつた。

[やぶちゃん注:本散文詩のための新詠である。「ぐんくつ」のルビはママ。「天日」にルビはない。「洪笑」はママ。初出は昭和一二(一九三七)年十二月刊の『藝苑』。筑摩版全集第二巻「拾遺詩篇」より引く。その校訂本文では「昔の小出新道にて」という題を附してあるが、これは以下の添え辞を仮題としたもののようである。

   *

 

 ○

 

兵士の行軍の後に捨てられ

破れたる軍靴(ぐんくつ)のごとくに

汝は路傍に渇けるかな。

天日てんじつの下に口をあけ

汝の過去を洪笑せよ。

汝の歴史を捨て去れかし。

        ――昔の小出新道にて――

 

   *

解説部は『萩原朔太郎詩集「純情小曲集」正規表現版 鄕土望景詩 利根の松原』を参照。]

 

   此所に長き橋の架したるは

   かのさびしき惣社の村より

   直として前橋の町に通ずるらん。

 

 と歌つた大渡新橋も、また近年の水害で流失されてしまつた。たゞ前橋監獄だけが、新たに刑務所と改名して、かつてあつた昔のやうに、長い煉瓦の堀をノスタルヂアに投影しながら、寒い上州の北風に震えて居た。だが

 

   監獄裏の林に入れば

   囀鳥高きにしば鳴けり

 

 と歌つた裏の林は、槪ね皆伐採されて、囀鳥の聲を聞く由もなく、昔作つた詩の情趣を、再度イメーヂすることが出來なくなつた。

[やぶちゃん注:「堀」「震えて」はママ。前に述べた通り、「塀」の誤字か誤植。『萩原朔太郎詩集「純情小曲集」正規表現版 鄕土望景詩 大渡橋』及び「鄕土望景詩」では唯一の後の追加(詩集本での所収として)となった一篇『第一書房版「萩原朔太郞詩集」(初収録詩篇二十一篇分その他)正規表現版 「鄕土望景詩」パート内の唯一の初収詩篇「監獄裏の林」及び巻末「校正について」』を参照。]

 

   物みなは歲日(としひ)と共に亡び行く――。

   ひとり來りてさまよへば

   流れも速き廣瀨川

   何にせかれて止(とゞ)むべき。

                     ――廣瀨河畔を逍遙しつゝ――

[やぶちゃん注:冒頭の新詠の変形のリフレイン。]

    *   *   *

 以上で「散文詩」パート本文が終わって、「抒情詩」パート(全六十八篇)に入るが、冒頭注で述べた通り、全篇が既刊詩集からの再録であるから、カットする。但し、例によって彼の概ね老害と言わざるを得ない改変があり、異同がある。なお、パート標題に添え書きがあるので、以下にパート標題部だけを示しておく。

 

 

抒 情 詩

 

   神よ、この淚の谷から救ひ出せ。

             シヨペンハウエル

 

 

[やぶちゃん注:「抒情詩」パートが終わると、「附錄 (散文詩自註)」と大書した標題を経て、幾篇かへのそれが始まるが、既にそれらは、各詩篇本文の後に配した。

 その後の奥附をリンクさせて、私の『萩原朔太郎詩集「宿命」「散文詩」パート(「自註」附)』電子化注を終了とする。]

萩原朔太郎詩集「宿命」「散文詩」パート(「自註」附) 臥床の中で

 

   臥床の中で

 

 臥床(ふしど)の中で、私はひとり目を醒ました。夜明けに遠く、窓の鎧扉の隙間から、あるかなきかの佗しい光が、幽明のやうに影を映して居た。それは夜天の空に輝やいてる、無數の星屑が照らすところの、宇宙の常夜燈の明りであつた。

 私は枕許の洋燈を消した。再度また眠らうと思つたのだ。だが醒めた時の瞬間から、意識のぜんまいが動き出した。ああ今日も終日、時計のやうに休息なく、私は考へねばならないのだ。そして實に意味のない、愚にもつかないことばかりを、每日考へねばならないのだ。私はただ眠つて居たい。牡蠣のやうに眠りたいのだ。

 黎明の仄かな光が、かすかに部屋を明るくして來た。小鳥の唄が、どこかで早く聞え出した。朝だ。私はもう起きねばならぬ。そして今日もまた昨日のやうに、意味のない生活(らいふ)の惱みを、とり止めもない記錄にとつて、書きつけておかねばならないのだ。そうして! ああそれが私の「仕事」であらうか。私の果敢ない「人生」だらうか。催眠藥とアルコールが、すべての惱みから解放して、私に一切を忘却させる。夜(よる)となつたら、私はまた酒場へ行かう。だが醉ふことの快樂ではなく、一切を忘れることの恩惠を、私は神に祈つて居るのだ。神よ。すべての忘却をめぐみ給へ。

 朝が來た。汽笛が聞える。日が登り、夜が來る。そしてまた永遠に空洞(うつろ)の生活(らいふ)が……。ああ止めよ。止めよ。むしろ斷乎たる決意を取れ! 臥床(ふしど)の中で、私はまた呪文のやうに、いつもの習慣となつてる言葉を繰返した。

 止めよ。止めよ。斷乎たる決意をとれ!

 

 そもそもしかし、何が「斷乎たる決意」なのか。私はその言葉の意味することを、自分ではつきりと知りすぎて居る。知つてしかも恐れはばかり、日日にただ咒文の如く、朝の臥床の中で繰返してゐる。汝、卑怯者! 愚痴漢! 何故に屑(いさ)ぎよくその人生を淸算し、汝を處決してしまはないのか。汝は何事をも爲し得ないのだ。そしてただ、汝の信じ得ない神の恩寵が、すべての人間に平等である如く、汝にもその普遍的な最後の恩寵――永遠の忘却――を、いつか與へ給ふ日を、待つて居るのだ。否々。汝はそれさへも恐れ戰のき、葦のやうに震へてゐるのだ。ああ汝、毛蟲にも似たる卑劣漢。

 だがしかし、その時朝の佗しい光が、私の臥床の中にさし込み、やさしい搖籠のやうにゆすつてくれた。古い聖書の忘れた言葉が、私の心の或る片隅で、靜かに佗しい日陰をつくり、夢の記憶のやうに浮んで來た。

 神はその一人子を愛するほどに、汝等をも愛し給ふ。

 

 朝が來た。雀等は窓に鳴いてる。起きよ。起きよ。起きてまた昨日の如く、汝の今日の生活をせよ――。

 

[やぶちゃん注:太字は底本では傍点「ヽ」。第二段落の「そうして!」はママ。「呪文」と「咒文」の混用はママ。

「神はその一人子を愛するほどに、汝等をも愛し給ふ。」「新約聖書」の「ヨハネによる福音書」の第三章第十六節。朔太郎の示したものに最も近い“ja1955: Colloquial Japanese (1955)”のここにあるものを引く。『神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。』。

 初出は昭和一二(一九三七)年一月号『四季』。異同を示す。

・題名の次の行にポイント落ちで、標題末位置から「(散文詩)」と記す。

・第三段落の「夜(よる)となつたら、」のルビはない。

・同第三段落の末尾の「神よ。すべての忘却をめぐみ給へ。」は「神よすべての忘却をめぐみ給へ。」。

・第四段落の「夜が來る。」は「夜が來る、」。

・同四段落の「臥床(ふしど)」のルビはない。

・『そもそもしかし、何が「斷乎たる決意」なのか。……』の段落中の「咒文」の方は前と同じ「呪文」である。

・同前段落中の「いつか與へ給ふ日を、」の読点はない。

・同前段落中の「震へて」は「震えて」。

・同前段落中の「毛蟲」は「毛虫」。

・最後から二つ目の段落中の、「その時朝の佗しい光が、」は「その時期の佗しい光が、」で誤植。

・同前段落中の「日陰」は「日蔭」。

・「神はその一人子を愛するほどに、汝等をも愛し給ふ。」と「朝が來た。雀等は窓に鳴いてる。……」の間の一行空けは、ない。

である。]

萩原朔太郎詩集「宿命」「散文詩」パート(「自註」附) この手に限るよ

 

   この手に限るよ

 

 目が醒めてから考へれば、實に馬鹿々々しくつまらぬことが、夢の中では勿體らしく、さも重大の眞理や發見のやうに思はれるのである。私はかつて夢の中で、數人の友だちと一緖に、町の或る小綺麗な喫茶店に入つた。そこの給仕女に一人の悧潑さうな顏をした、たいさう愛くるしい少女が居た。どうにかして、皆はそのメツチエンと懇意になり、自分に手なづけようと焦燥した。そこで私が、一つのすばらしいことを思ひついた。少女の見て居る前で、私は角砂糖の一つを壺から出した。それから充分に落着いて、さも勿體らしく、意味ありげの手付をして、それを紅茶の中へそつと落した。

 熱い煮えたつた紅茶の中で、見る見る砂糖は解けて行つた。そして小さな細かい氣泡が、茶碗の表面に浮びあがり、やがて周圍の邊(へり)に寄り集つた。その時私はまた一つの角砂糖を壺から出した。そして前と同じやうに、氣取つた勿體らしい手付をしながら、そつと茶碗へ落し込んだ。(その時私は、いかに自分の手際が鮮やかで、巴里の伊達者がやる以上に、スマートで上品な擧動に適つたかを、自分で意識して得意でゐた。)茶碗の底から、再度また氣泡が浮び上つた。そして暫らく、眞中にかたまり合つて踊りながら、さつと別れて茶碗の邊(へり)に吸ひついて行つた。それは丁度、よく訓練された團體遊戲(マスゲーム)が、號令によつて、行動するやうに見えた。

「どうだ。すばらしいだらう!」

 と私が言つた。

「まあ。素敵ね!」

 と、ぢつと見て居たその少女が、感嘆おく能はざる調子で言つた。

「これ、本當の藝術だわ。まあ素敵ね。貴方。何て名前の方なの?」

 そして私の顏を見詰め、絕對無上の尊敬と愛慕をこめて、その長い睫毛をしばだたいた。是非また來てくれと懇望した。私にしばしば逢つて、いろいろ話が聞きたいからとも言つた。

 私はすつかり得意になつた。そして我ながら自分の思ひ付に感心した。こんなすばらしいことを、何故もつと早く考へつかなかつたらうと不思議に思つた。これさへやれば、どんな女でも造作なく、自分の自由に手なづけることができるのである。かつて何人も知らなかつた、これ程の大發明を、自分が獨創で考へたといふことほど、得意を感じさせることはなかつた。そこで私は、茫然としてゐる友人等の方をふり返つて、さも誇らしく、大得意になつて言つた。

「女の子を手なづけるにはね、君。この手に限るんだよ。この手にね。」

 そこで夢から醒めた。そして自分のやつたことの馬鹿々々しさを、あまりの可笑しさに吹き出してしまつた。だが「この手に限るよ。」と言つた自分の言葉が、いつ迄も耳に殘つて忘られなかつた。

「この手に限るよ。」

 その夢の中の私の言葉が、今でも時々聞える時、私は可笑しさに轉がりながら、自分の中の何所かに住んでる、或る「馬鹿者(フール)」の正體を考へるのである。

 

[やぶちゃん注:第一段落「たいさう」はママ。「ぢつと見て居たその少女が、」の「ぢつと」はママ。

「メツチエン」ドイツ語“Mädchen”(音写するなら「メイチェン」)。少女・女の子。但しドイツ語、古語で「女中・メイド」の意があり、ここはシークエンスから、そちらで採るべきであろうという気もする。

 初出は昭和一二(一九三七)年十月号(私の所持する初版筑摩版全集では『第五卷十號・昭和十二年十日號』とあるが、誤植と判断した)。本誌は戦前の「生長の家」(光明思想普及會)が発行していた雑誌である。総ルビ。異同を示す。ルビで気になったものも示すが、総ルビの場合、作者が振っている可能性は皆無に等しいので、そこは必ずしも本当に朔太郎がそう読ませようとしているかどうかは、甚だ不審ではある。

・第一段落「友だちと一緖に」の「一緖」が「一所」。

・同第一段落「どうにかして」が「どうにしかして」。衍字か誤植。

・同第一段落の、その直後の「皆」に「みんな」とルビ。

・同第一段落末の方の「勿體らしく」が「勿論(もつった)らしく」。誤植。

・第二段落の出る二箇所の「氣泡」には「きあわ」とルビする。

・同二段落「巴里」に「パリー」とルビする。

・同二段落「團體遊戲(マスゲーム)」の「戲」は「戯」(但し、(へん)は「虛」の字体)。

・「そして私の顏を見詰め、……」の段落中の「睫毛」が「瞳毛(まつげ)」。誤植か。

・その段落内の「懇望」には「こんまう」(現代仮名遣「こんもう」)のルビ。同熟語は「こんばう」(同前「こんぼう」)とも読め、例えば私は自分で使う場合、概ね「こんぼう」と読むのを常としている。

・「私はすつかり得意になつた。……」の段落中の「何人」には「なんぴと」とルビ。

・最終段落中の「馬鹿者(フール)」は「馬鹿者(プール)」となっている。誤植であろう。

である。]

萩原朔太郎詩集「宿命」「散文詩」パート(「自註」附) 貸家札

 

   貸 家 札

 

 熱帶地方の砂漠の中で、一疋の獅子が晝寢をして居た。肢體をできるだけ長く延ばして、さもだるさうに疲れきつて。すべての猛獸の習性として、胃の中の餌物が完全に消化するまで、おそらく彼はそのポーズで永遠に眠りつづけて居るのだらう。赤道直下の白晝(まひる)。風もなく音もない。萬象の死に絕えた沈默(しじま)の時。

 その時、不意に獅子が眠から目をさました。そして耳をそば立て、起き上り、緊張した目付をして、用心深く、機敏に襲擊の姿勢をとつた。どこかの遠い地平の影に、彼は餌物を見つけたのだ。空氣が動き、萬象の沈默(しじま)が破れた。

 一人の旅行者――ヘルメツト帽を被り、白い洋服をきた人間が、この光景を何所かで見て居た。彼は一言の口も利かず、默つて砂丘の上に生えてる、椰子の木の方へ步いて行つた。その椰子の木には、ずつと前から、長い時間の風雨に曝され、一枚の古い木札が釘づけてあつた。

 

(貸家アリ。瓦斯、水道付。日當リヨシ。)

 

 ヘルメツトを被つた男は、默つてその木札をはがし、ポケツトに入れ、すたすたと步きながら、地平線の方へ消えてしまつた。

 

 

 貸家札  これも前と同じく、夢の潜在意識を書いたシユル・レアリズム風の作品である。原作では、これに「映畫のシナリオとして」といふ小書をつけておいた。[やぶちゃん注:巻末の「散文詩自註」の当該部をここに配した。なお、この「自註」は「虛無の歌」と前後が齟齬している。『「映畫のシナリオとして」といふ小書をつけておいた』と朔太郎は述べているが、以下の初出で示す通り、最終段落が初出にはあって、その一行を誤認したか、或いは、初出投稿の際の手元に残した決定稿には、「映畫のシナリオとして」という添え書きを、恐らくは最後に丸括弧で附して(しばしば彼の詩篇に見られる添え書き法である)あったのを言っているのかも知れない。または、以下に示す通り、初出誌の専門性(掲載誌名『シナリオ硏究』)から記憶違いをしたのかも知れない。真相は判らぬ。]

 

[やぶちゃん注:初出は昭和一二(一九三七)年十月号『シナリオ硏究』。以上に先に注した問題があるので、以下に示す。

   *

 

 貸家札

 

 熱帶地方の砂漠の中で、一疋の獅子が晝寢をして居た。肢體をできるだけ長く延ばして、さもだるさうに疲れきつて。すべての猛獸の習性として、胃の中の餌物が完全に消化するまで、おそらく彼はそのポーズで永遠に眠りつづけて居るのだらう。赤道直下の白晝。風もなく音もない。萬象の死に絕えた沈默(しじま)の時。

 その時、不意に獅子が眠から目をさました。そして耳をそば立て、起き上り、緊張した目付をして、用心深く、機敏に襲擊の姿勢をとつた。どこかの遠い地平の影に、彼は餌物を見つけたのだ。空氣が動き、萬象の沈默(しじま)が破れた。

 一人の旅行者―ヘルメツト帽を被り、白い洋服をきた人間が、この光景を何所かで見て居た。彼は一言の口も利かず、默つて砂丘の上に生えてる、椰子の木の方へ步いて行つた。その椰子の木には、ずつと前から、長い時間の風雨に曝され、一枚の古い木札が釘づけてあつた。

 

 (貸家アリ。瓦斯、水道付。日當リヨシ)

 

 ヘルメツトを被つた男は、默つてその木札をはがしポケツトに入れ、すたすたと步きながら、地平線の方へ消えてしまつた。

 この私の見た夢は、何かの意味深い漫畫になる。

 

   *

この詩集では削除された以上の一文から、本篇が精神分析学や、その影響を強く受けたシュールレアリスム系の作家たちが好んでやった夢記述、或いは、それを元にしたサルバドール・ダリの一連の夢に基づく絵画作品群に触発されたものであることが判る。確かに、朔太郎の詩篇中、頭抜けてシュールであるとは言える。

 初出との異同をリストしておくと、

・第一段落「白晝」にルビがないこと。

・第三段落のダッシュが一字分しかないこと。

・「(貸家アリ。瓦斯、水道付。日當リヨシ)」が一字下げでなく、最後の「日當リヨシ」の後に句点がないこと。

・その次の段落の「默つてその木札をはがし」の後に読点がないこと。

◎最終段落「この私の見た夢は、何かの意味深い漫畫になる。」が存在すること。

となる。]

萩原朔太郎詩集「宿命」「散文詩」パート(「自註」附) 虛無の歌

 

   虛 無 の 歌

 

     我れは何物をも喪失せず

     また一切を失ひ盡せり。 「氷島」

 

 午後の三時。廣漠とした廣間(ホール)の中で、私はひとり麥酒(ビール)を飮んでた。だれも外に客がなく、物の動く影さへもない。暖爐(ストーブ)は明るく燃え、扉(ドア)の厚い硝子を通して、晚秋の光が佗しく射してた。白いコンクリートの床、所在のない食卓(テーブル)、脚の細い椅子の數々。

 ヱビス橋の側(そば)に近く、此所の佗しいビヤホールに來て、私は何を待つてるのだらう? 戀人でもなく、熱情でもなく、希望でもなく、好運でもない。私はかつて年が若く、一切のものを欲情した。そして今既に老ひて疲れ、一切のものを喪失した。私は孤獨の椅子を探して、都會の街々を放浪して來た。そして最後に、自分の求めてるものを知つた。一盃の冷たい麥酒と、雲を見てゐる自由の時間! 昔の日から今日の日まで、私の求めたものはそれだけだつた。

 かつて私は、精神のことを考へてゐた。夢みる一つの意志。モラルの體熱。考へる葦のおののき。無限への思慕。エロスへの切ない祈禱。そして、ああそれが「精神」といふ名で呼ばれた、私の失はれた追憶だつた。かつて私は、肉體のことを考へて居た。物質と細胞とで組織され、食慾し、生殖し、不斷にそれの解體を强ゐるところの、無機物に對して抗爭しながら、悲壯に惱んで生き長らへ、貝のやうに呼吸してゐる悲しい物を。肉體! ああそれも私に遠く、過去の追憶にならうとしてゐる。私は老ひ、肉慾することの熱を無くした。墓と、石と、蟾蜍(ひきがへる)とが、地下で私を待つてるのだ。

 ホールの庭には桐の木が生え、落葉が地面に散らばつて居た。その板塀で圍まれた庭の彼方、倉庫の並ぶ空地の前を、黑い人影が通つて行く。空には煤煙が微かに浮び、子供の群集する遠い聲が、夢のやうに聞えて來る。廣いがらんとした廣間(ホール)の隅で、小鳥が時々囀つて居た。ヱビス橋の側に近く、晚秋の日の午後三時。コンクリートの白つぽい床、所在のない食卓(テーブル)、脚の細い椅子の數々。

 ああ神よ! もう取返す術(すべ)もない。私は一切を失ひ盡した。けれどもただ、ああ何といふ樂しさだらう。私はそれを信じたいのだ。私が生き、そして「有る」ことを信じたいのだ。永久に一つの「無」が、自分に有ることを信じたいのだ。神よ! それを信ぜしめよ。私の空洞(うつろ)な最後の日に。

 今や、かくして私は、過去に何物をも喪失せず、現に何物をも失はなかつた。私は喪心者のやうに空を見ながら、自分の幸福に滿足して、今日も昨日も、ひとりで閑雅な麥酒(ビール)を飮んでる。虛無よ! 雲よ! 人生よ。

 

 

 虛無の歌  ヱビス橋のビアホールは、省線の惠比壽驛に近く、工場區街にあり、常客の大部分が職工や勞働者であるため、晝間はいつも閑寂にがらんとしてゐるのである。一頃(ひところ)私はその近所に居たので、每日のやうに通つて麥酒を飮んだり、人氣のない廣間の中で、ぼんやり物を考へながら、秋の日の午後を暮してゐた。

 此等の詩篇で、私は相當に言葉の音律節奏に留意した。ボードレエルの言ふ「韻律を蹈まないで、しかも音樂的節奏を感銘づける文學」に、多少或る程度迄近づけようと努力した。しかし抒情詩とちがつて、理智的な思想要素が多い散文詩では、本來さうした哲學性に缺乏してゐる日本語が、殆んど本質的に不適當である。日本語で少しく思想的な詩を書かうとすると、必然的に無味乾燥な觀念論文になつてしまふ。でなければ全く音樂節奏のない印象散文になつてしまふ。日本語を用ゐる限り、ボードレエルの藝術的散文詩は眞似ができない。しかし私は特異な文體を工夫して、不滿足ながら多少の韻文性――すくなくとも普通の散文に比して、幾分かの音樂的抑揚のある文章――を書いて見た。それがこの書中の「虛無の歌」「臥床の中で」「海」「墓」「郵便局」「パノラマ館にて」等の數篇である。嚴重に言へば、此等の若干の物だけが「散文詩」であり、他は未だ「詩」といふべきものでないかも知れない。[やぶちゃん注:巻末の「散文詩自註」の当該部をここに配した。下線「がらん」は底本では傍点「ヽ」。以上で朔太郎が挙げた本詩集内の詩篇をリンクさせておく。「臥床の中で」(本篇より後なので電子化後にリンクする)・「海」「墓」「郵便局」「パノラマ館にて」である。]

 

[やぶちゃん注:本篇の太字下線は底本では傍点「◎」、太字「がらん」は底本では傍点「ヽ」。第二段落の「老ひて」、第三段落の「おののき」「强ゐる」「老ひ」はママ。添え辞は、詩集「氷島」の中の「乃木坂倶樂部」(リンク先は私の正規表現版。初出・注釈附き)の一節である。

「一頃(ひところ)私はその近所に居た」(「自註」)というのは、年譜の昭和四(一九二九)年十一月十四日に単身上京して、『赤坂區檜町六番地』(現在の港区赤坂六丁目)『のアパート「乃木坂俱樂部」の二階二十八號室に假寓』とあるのを指すとしか考えられない(恵比寿に近いのはここだけである)が、ここは翌十二月下旬に引き払って前橋に帰っており、僅か一ヶ月余りしかいなかった。なお、当時は彼は未だ満四十三歳であった。

 初出は昭和一一(一九三六)年五月号『四季』。異同は、

・標題が「秋」。

・添辞「氷島」の引用が、標題末から二字下げポイント落ちで、次行に、

   我 れ は 何 物 を も 喪 失 せ ず

   ま た 一 切 を 失 ひ 盡 せ り。

       ――「氷島」 新年

と、字間を空けた形で示され、しかも詩篇名を「新年」とする。但し、これは萩原朔太郎の誤認で、「萩原朔太郎 氷島 初版本原拠版 附・初出形 新年」を見て戴くと判る通り、このフレーズは出現しない。

・第三段落冒頭が「かつて私は。」と読点ではなく句点。誤植か。

・同第三段落の「失はれた追憶」の傍点は「●」。

・同第三段落の「長らへ」が「長らえ」。

・同第三段落の「蟾蜍(ひきがへる)」が「蟾蛞(ひきがへる)」(誤字或いは誤植)。

・第五段落の「もう取返す」は「取す」と脱字。

である。]

萩原朔太郎詩集「宿命」「散文詩」パート(「自註」附) 蟲

 

   

 

 或る詰らない何かの言葉が、時としては毛蟲のやうに、腦裏の中に意地わるくこびりついて、それの意味が見出される迄、執念深く苦しめるものである。或る日の午後、私は町を步きながら、ふと「鐵筋コンクリート」といふ言葉を口に浮べた。何故にそんな言葉が、私の心に浮んだのか、まるで理由がわからなかつた。だがその言葉の意味の中に、何か常識の理解し得ない、或る幽幻な哲理の謎が、神祕に隱されてゐるやうに思はれた。それは夢の中の記憶のやうに、意識の背後にかくされて居り、縹渺として捉へがたく、そのくせすぐ目の前にも、捉へることができるやうに思はれた。何かの忘れたことを思ひ出す時、それがつい近くまで來て居ながら、容易に思ひ出せない時のあの焦燥。多くの人々が、たれも經驗するところの、あの苛々した執念の焦燥が、その時以來憑きまとつて、絕えず私を苦しくした。家に居る時も、外に居る時も、不斷に私はそれを考へ、この詰らない、解りきつた言葉の背後にひそんでゐる、或る神祕なイメーヂの謎を摸索して居た。その憑き物のやうな言葉は、いつも私の耳元で囁いて居た。惡いことにはまた、それには强い韻律的の調子があり、一度おぼえた詩語のやうに、意地わるく忘れることができないのだ。「テツ、キン、コン」と、それは三シラブルの押韻をし、最後に長く「ククート」と曳くのであつた。その神祕的な意味を解かうとして、私は偏執狂者のやうになつてしまつた。明らかにそれは、一つの强迫觀念にちがひなかつた。私は神經衰弱症にかかつて居たのだ。

 或る日、電車の中で、それを考へつめてる時、ふと隣席の人の會話を聞いた。

「そりや君。駄目だよ。木造ではね。」

「やつぱり鐵筋コンクリートかな。」

 二人づれの洋服紳士は、たしかに何所かの技師であり、建築のことを話して居たのだ。だが私には、その他の會話は聞えなかつた。ただその單語だけが耳に入つた。「鐵筋コンクリート!」

 私は跳びあがるやうなシヨツクを感じた。さうだ。この人たちに聞いてやれ。彼等は何でも知つてるのだ。機會を逸するな。大膽にやれ。と自分の心をはげましながら

「その……ちよいと……失禮ですが……。」

 と私は思ひ切つて話しかけた。

「その……鐵筋コンクリート……ですな。エヽ……それはですな。それはつまり、どういふわけですかな。エヽそのつまり言葉の意味……といふのはその、つまり形而上の意味……僕はその、哲學のことを言つてるのですが……。」

 私は妙に舌がどもつて、自分の意志を表現することが不可能だつた。自分自身には解つて居ながら、人に說明することができないのだつた。隣席の紳士は、吃驚したやうな表情をして、私の顏を正面から見つめて居た。私が何事をしやべつて居るのか、意味が全で解らなかつたのである。それから隣の連を顧み、氣味惡さうに目を見合せ、急にすつかり默つてしまつた。私はテレかくしにニヤニヤ笑つた。次の停車場についた時、二人の紳士は大急ぎで席を立ち、逃げるやうにして降りて行つた。

 到頭或る日、私はたまりかねて友人の所へ出かけて行つた。部屋に入ると同時に、私はいきなり質問した。

「鐵筋コンクリートつて、君、何のことだ。」

 友は呆氣にとられながら、私の顏をぼんやり見詰めた。私の顏は岩礁のやうに緊張して居た。

「何だい君。」

 と、半ば笑ひながら友が答へた。

「そりや君。中の骨組を鐵筋にして、コンクリート建てにした家のことぢやないか。それが何うしたつてんだ。一體。」

「ちがふ。僕はそれを聞いてるのぢやないんだ。」

 と、不平を色に現はして私が言つた。

「それの意味なんだ。僕の聞くのはね。つまり、その……。その言葉の意味……表象……イメーヂ……。つまりその、言語のメタフイヂツクな暗號。寓意。その秘密。……解るね。つまりその、隱されたパズル。本當の意味なのだ。本當の意味なのだ。」

 この本當の意味と言ふ語に、私は特に力を入れて、幾度も幾度も繰返した。

 友はすつかり呆氣に取られて、放心者のやうに口を開きながら、私の顏ばかり視つめて居た。私はまた繰返して、幾度もしつツこく質問した。だが友は何事も答へなかつた。そして故意に話題を轉じ、笑談に紛らさうと努め出した。私はムキになつて腹が立つた。人がこれほど眞面目になつて、熱心に聞いてる重大事を、笑談に紛らすとは何の事だ。たしかに、此奴は自分で知つてるにちがひないのだ。ちやんとその祕密を知つてゐながら、私に敎へまいとして、わざと薄とぼけて居るにちがひないのだ。否、この友人ばかりではない。いつか電車の中で逢つた男も、私の周圍に居る人たちも、だれも皆知つてるのだ。知つて私に意地わるく敎へないのだ。

「ざまあ見やがれ。此奴等!」

 私は心の中で友を罵り、それから私の知つてる範圍の、あらゆる人々に對して敵愾した。何故に人々が、こんなにも意地わるく私にするのか。それが不可解でもあるし、口惜しくもあつた。

 だがしかし、私が友の家を跳び出した時、ふいに全く思ひがけなく、その憑き物のやうな言葉の意味が、急に明るく、靈感のやうに閃めいた。

「蟲だ!」

 私は思はず聲に叫んだ。蟲! 鐵筋コンクリートといふ言葉が、秘密に表象してゐる謎の意味は、實にその單純なイメーヂにすぎなかつたのだ。それが何故に蟲であるかは、此所に說明する必要はない。或る人々にとつて、牡蠣の表象が女の肉體であると同じやうに、私自身にすつかり解りきつたことなのである。私は聲をあげて明るく笑つた。それから兩手を高く上げ、鳥の飛ぶやうな形をして、嬉しさうに叫びながら、町の通りを一散に走り出した。

 

 

   散文詩といふよりは、むしろコントといふ如き文學種目に入るものだらう。此所で自分が書いてることは、或る神經衰弱症にかかつた詩人の、變態心理の描寫である「鐵筋コンクリート」と「蟲」との間には、勿論何の論理的關係もなく、何の思想的な寓意もない。これが雜誌に發表された時、二三の熱心の讀者から、その點での質問を受けて返事に窮した。しかし精神分析學的に探究したら、勿論この兩語の間に、何かの隱れた心理的關聯があるにちがひない。なぜならその詩人といふものは、著者の私のことであり、實際に主觀上で、私がかつて經驗したことを書いたのだから。

 しかし多くの詩人たちは、自己の詩作の經驗上で、だれも皆こんなことは知つてる筈だ。近代の詩人たちは、言葉を意味によつて聯想しないで、イメーヂによつて飛躍させる。たとへば或る詩人は、「馬」といふ言葉から「港」をイメーヂし、「a」といふ言葉から「蠅」を表象し、「象」といふ言葉から「墓地」を表現させてる。かうしたイメーヂの聯絡は、極めて飛躍的であり、突拍子もない荒唐のものに思はれるだらうが、作者の主觀的の心理の中では、その二つの言葉をシノニムに結ぶところの、歷とした表象範則ができてるのである。しかもその範則は、作者自身にも知られてない。なぜならそれは、夢の現象と同じく、作者の潜在意識にひそむ經驗の再現であり、精神分析學だけが、科學的方法によつて抽出し得るものであるから。

 それ故詩人たちは、本來皆、自ら意識せざる精神分析學者なのである。しかしそれを特に意識して、自家の藝術や詩の特色としたものが、西洋の所謂シユル・レアリズム(超現實派)である。シユル・レアリズムの詩人や畫家たちは、意識の表皮に浮んだ言葉や心像やを、意識の潜在下にある經驗と結びつけることによつて、一つの藝術的イメーヂを構成することに苦心してゐるが、單に彼等ばかりでなく、一般に近代の詩人たちは、だれも皆かうした「言葉の迷ひ兒さがし」に苦勞して居り、その點での經驗を充分に持つてる筈である。そこで私のこのコントは、かうした詩人たちの創作に於ける苦心を、心理學的に解剖したものとも見られるだらう。[やぶちゃん注:巻末の「散文詩自註」の当該部をここに配した。『此所で自分が書いてることは、或る神經衰弱症にかかつた詩人の、變態心理の描寫である「鐵筋コンクリート」と「蟲」との間には、勿論何の論理的關係もなく、何の思想的な寓意もない。』はママ。「描寫である」の後に明らかに句点が脱落している。但し、これは誤植とは言い切れず、朔太郎自身の打ち忘れの可能性を排除は出来ない。無論、天下の筑摩版全集校訂本文では句点が補訂されてある。『「a」』のアルファベットは縦書である。]

 

[やぶちゃん注:『「ククート」』はママ。痛い誤植である。「全で」は「まるで」。「祕」と「秘」が混用されているのはママ。但し、これは以下の初出(リンク)でも述べたが、恐らくは植字工の責任である。

 さて。ここで萩原朔太郎は、これを意図的に作ったコントだと言っている。彼は「自註」で、「二三の熱心の讀者から、その點での質問を受けて返事に窮した」と言っているが、その質問をした人物の中には、この体験をしている朔太郎を、ある種の精神的神経的に普通でない状態にあるのではないかと感じた者もいたことを禁じ得ないと私は思うのである。まず、この「鐵筋コンクリート」という日本語としても明治末以降に生まれた新語と外来語の合成された新奇な響きを持つ一語への拘りというのは、精神医学でよく知られているところの「ゲシュタルト崩壊」(ドイツ語: Gestaltzerfall:ゲシュタルトッアファル)であるからである。これは、詳しくは当該ウィキを読まれたいが、そこから纏めると、知覚に於いて、ある種の違和感を覚える現象の一つで、全体性を持った纏まりのある構造(Gestalt:形態・様式)対象から、突然、全体性の認識が失われてしまい、個々の構成部分にバラバラに切り離して認識されてしまう現象を指す。幾何学的図形や文字・顔など、視覚的なものに於いてよく知られているが、聴覚・味覚・嗅覚・皮膚感覚においても生ずる。一九四七年にはある一つの感覚を介して対象物を認知することが出来なくなる高次脳機能障害の一つである「失認(しつにん)」という疾患の一徴候とされたが、持続的な注視行動(様態)に伴って、健常者にも生じることが比較的広く知られるようにはなった。『認知心理学の視点から「文字のゲシュタルト崩壊」が研究されている。これは、例えば』、『同じ漢字を長時間注視していると』、『その漢字の各部分がバラバラに見え、その漢字が何という文字であったかわからなくなる現象である』。但し、現代でも、『ゲシュタルト崩壊の発生要因については未解明な部分が多く、静止網膜像のように消失が起きないことなどから、感覚器の疲労や順応によるのではなく、「比較的高次な認知情報処理過程によって発生する」』『ことがわかっている程度である』とある。

 また、その注で、夏目漱石の「門」の『冒頭に、このことを描いた場面がある』とあるのは有名な話で、主人公宗助が妻の御米(およね)に「近來(きんらい)の近(きん)の字はどう書いたつけね」と尋ねた後、彼女に字を教えて貰った後、「何(ど)うも字と云ふものは不思議だよ」「何故つて、幾何(いくら)容易(やさ)しい字でも、こりや變だと思つて疑ぐり出すと分らなくなる。此間も今日(こんにち)の今(こん)の字で大變迷つた。紙の上へちやんと書いて見て、ぢつと眺めてゐると、何だか違つたやうな氣がする。仕舞には見れば見る程今(こん)こんらしくなくなつて來る。――御前(おまい)そんな事を經驗した事はないかい」と応じ、御米が「まさか」と返すと、「己丈(おれだけ)かな」と宗助は言って、『頭へ手を當てた』とあって、彼女が「貴方何うかして入らつしやるのよ」と言うと、「矢つ張り神經衰弱の所爲(せい)かも知れない」と宗助が答えるというシークエンスである。この文字に対するゲシュタルト崩壊について、実際に漱石自身が弟子の芥川龍之介らに「ある漢字をじっと見ていると、この漢字が何故そう読むのか、判らなくなることがよくある」という告白をしていることが知られている。しかも、漱石は純然たる健常者とは言えない。イギリス留学時、「漱石発狂」と文部省に伝えられた異常行動は、彼の残した記載の宿の女主人に対する明らかに異常に蔓延してゆく関係妄想(不味い食事をこっそり便所の窓から捨てていたこと、窓の棧に硬貨がたまたま置かれていたことに関するそれ)を見ても、精神病罹患は間違いない(嘗て私は統合失調症を想定したが、現在は非常に重篤な強迫神経症であったと思っている)。帰国後は少し落ちつたものの、東京帝大講師として英語文学講師としての受け持ちの学生藤村操を叱責し、たまたま藤村が華厳の瀧で入水自殺した結果、彼の自殺念慮の一因に自身の行動が関係しているとそれ以後、思い込んでいたことは明らかである。また、精神疾患の予後も悪く、火鉢にあたっていた幼い娘を、その縁に硬貨が置かれているのを見た瞬間、反射的に娘を殴るといったフラッシュ・バックなども起こしている。

 さすれば、ゲシュタルト崩壊は、ある種の精神疾患(先天性・後天性を問わず)との連関を持っているケースがあるものと私は考えている。以前にも述べたが、萩原朔太郎には複数の異常な自己規定常同行動があり、時に説明のつかない情動変調を起こしたことも年譜その他にも記載されており、朔太郎が何らかの高機能障害や境界例であった可能性を否定することは出来ないと思う。そうして、本篇は、まさにそうした病的なゲシュタルト崩壊とそれに係わる関係妄想の体験記録として、実に精神医学書の教科書に載っていても全くおかしくない〈症例〉として読み解けるのである。

 ただ、萩原朔太郎の場合は、そうした自己の精神的神経的変調を、詩篇やアフォリズムの中に積極的に「表現」「芸術作品」として登場させ、それがまた、彼の人気を高めた点に於いて、彼の内的世界に於いては、かなり有意なレベルで、そうした文字通りの自己の「疾患」と共生し得たとは言えると思う。

 因みに、朔太郎は「自註」でシュールレアリスムに言及しているが、その宣言を書いた詩人アンドレ・ブルトンはフロイトに関心を持って精神医学を志し、精神病棟での勤務経験もあった人物であったし、強力なフロイディストで、確信犯の模範症例的絵画も多数描いたサルバドール・ダリと面会したフロイトは、ダリのことを「非常に危険な状態にあり、精神病院へ入院させるべき人物だ」と友人医師への書簡に記している。而して、そういう意味では、朔太郎もブルトンや、或いは、ダリやと、何ら変わらないと言えるのである。

 初出は昭和一二(一九三七)年一月号『文藝』。九年前にブログで電子化してあったものを、今回、新たに校正し、不全を補って改稿しておいたので、そちらを見られたい。なお、本篇以下、「虛無の歌」・「貸家札」・「この手に限るよ」・「臥床の中で」・「物みなは歲日と共に亡び行く」の最後までの六篇は、先行する単行本には載っていない。]

2022/01/23

曲亭馬琴「兎園小説別集」上巻 文忌寸禰麿骨龕所掘圖說

 

[やぶちゃん注:本篇は底本のここであるが、御覧の通り、画像の解析度が低く、百%でダウン・ロードすると、画像に記された文字が擦れて甚だ読み難くなってしまう。そこで、ここは吉川弘文館随筆大成版の画像をトリミングして使用することとした。「文忌寸禰麿」は「ふみのいみきねまろ」と読む。飛鳥時代の官人で軍将の書根麻呂(ふみのねまろ ?~慶雲(きょううん)四(七〇七)年)。「壬申の乱」(天武天皇元(六七二)年)で東国に逃れた大海人皇子(後の天武天皇)に從った舎人(とねり)。後に村国男依(むらくにのおより)らとともに近江に攻め入った。まさにこの記事にある通り、天保二(一八三一)年九月二十九日(本記事の日付とは一ヶ月のタイム・ラグがある)、大和宇陀(うだ)郡(現在の奈良県宇陀市榛原八滝(はいばらやたき:グーグル・マップ・データ。以下同じ)で発見された墓誌には「將軍左衞士府督正四位上」とある。慶雲四年十月二十四日(墓誌では九月二十一日とする)に死去した。氏(うじ)の「ふみ」は「文」とも、後に「連」(むらじ)から「忌寸」(いき)と称した。名は「根麻呂」とも書く。当該ウィキでは、ここに記された金銅製骨壺及び銅箱緑瑠璃壺墓碑の現物(総て国宝)画像が見られる。「骨龕所掘圖說」は「骨龕所(こつがんしよ)を掘るの圖說」か。「骨龕所」という熟語は聴いたことがないが、「龕」は「死人を納める棺」の義がある。仏教の隆盛後は、仏像・名号・位牌などを安置するための厨子或いは壁面の凹んだ場所(ニッチ)又は小室として知られる。鎌倉御府内に限られる「やぐら」には、多くの龕を見ることが出来る。]

   ○文忌寸禰麿骨龕所掘圖說

【解云、曩得是圖、貼於第十七卷内餘紙、今亦得ㇾ看此圖說、因剿入是卷楮餘、再錄ㇾ之。】

[やぶちゃん注:実際には以上の割注は全体が四字半下げである。訓読してみる。「解(とく)云はく、『曩(さき)に是の圖を得(え)、第十七卷の内の餘りの紙に貼り、今、亦、此の圖說を看るを得(う)。因りて、是の卷の楮餘(ちよよ)に剿入(さうにふ)し[やぶちゃん注:掠め取って書入れ。]、再び、之れを錄す。』と。」。]

 

總 高さ 八 寸 九 分

總目方 一貫八百目

  銅壺縮圖

[やぶちゃん注:「八寸九分」二十六・九六センチメートル。「一貫八百目」六キロ七百五十グラム。]

 

Tubo

 

[やぶちゃん注:以下、壺に書き込まれたキャプションを判読する。上からで、右から左への順。上段の蓋の下方の本体の上縁に(この上縁部は以下のキャプションから見て取り外しが可能なようである。前にリンクさせた現物写真でも明らかに分離しそうである)、

葢(ふた)高(たかさ)

三寸四分(十・三センチメートル)

目方

五百

五十目(二キロ六十二・五グラム)

中段の本体上部に左から右に横転して、

指渡(さしわたし)七寸五分(二十二・七センチメートル)

高サ二寸八分(八・五センチメートル弱)

合(あはせ)テ共ニ

目方壱貫

二百五十目(四キロ六百九十六グラム弱)

下方右手壺底外に、高台の高さを、

五分(一・五センチメートル)

本体下部に左から右に横転して、

渡(わたり)三寸九分(十一・八センチメートル)

とある。]

 

蓋高さ九分蓋共高

五寸五分

  玻瓈壺縮圖

[やぶちゃん注:「玻瓈壺」「はりつぼ」。玻璃壺。「五寸五分」十六・六センチメートル。]

 

Haritubo

 

[やぶちゃん注:胴部分のキャプション。

高サ五寸(十五・一五センチメートル)

目方三百五十目(一キロ三百二十五・五グラム)

とある。

 以下は、底本では玻璃製壺の下方にある。]

 胴廻り一尺六

寸五分破裂爲

十二片

[やぶちゃん注:『「胴廻り一尺六寸五分」(約五十センチメートル)であるが、「破裂」して、「十二片」と「爲」(な)る。』であろう。先の現物でも割れた跡が判る。]

 

銅牌◎圖形省略。[やぶちゃん注:以下、罫線は、実際には転倒した下方に開いた「コ」の罫線である。底本を見られたい。]

┌─

│      長さ五寸五分 一寸一分五厘

│ 銅箱蓋裏       厚      目方百六十目

│      巾一寸九分  一分

└─

[やぶちゃん注:「五寸五分」十六・三センチメートル。「一寸一分五厘」三・五センチメートル弱。「百六十目」六〇〇グラム。「一寸九分」五・七五センチメートル。「一分」三ミリメートル。]

┌─

│ 箱 蓋 表

└─

 

│ 壬申年將軍左衞士府督正四位上文禰麻

│ 呂忌寸慶雲四年歲次丁未九月廿一日卒

[やぶちゃん注:以下は、前二行の下方にある割注。]

【長さ八寸六分。巾一寸四分。厚九厘。目方六十目。】

[やぶちゃん注:「一寸四分」四・一五センチメートル。「九厘」二・七ミリメートル。「六十目」二百二十五グラム。]

 

┌─

│      長サ九寸五分 目方四百五十目

│ 銅  箱

│      巾二分餘

[やぶちゃん注:「九寸五分」二十八・七八センチメートル。「四百五十目」一キロ六百七十五・五グラム。「二分餘」六ミリメートル強。]

 

和州八瀧村池内にて、古銅器掘し候儀に付、伺書。

                木村總左衞門

私御代官所、和州宇陀郡八瀧村地内【解云、八瀧村は「書紀」に所ㇾ云、八咫烏の舊地なり。「大和志」等、宜く考ふべし。】、字「笠松耕地」と唱候[やぶちゃん注:「となへさふらふ」。]畑地にて、同村常七、古銅器掘出候旨、訴出候間、早速爲見分吟味手代差遣候處、去月【天保二年十一月。】朔日八ツ時頃、常七儀、同人弟、幷に、同村甚助・佐助と申者、相雇、地面打返し罷在候砌、鍬先に銅板一枚掛り出候に付、猶最寄掘穿候處、銘文彫付候銅板一枚入候銅箱一つ、右脇に葢付の銅壺一つ有ㇾ之候間、蓋明相改候處[やぶちゃん注:「けだし、あきらかに、あひあらためさふらふところ」。]、硝子に似寄候[やぶちゃん注:「によりさふらふ」。]壺に灰入[やぶちゃん注:「はひ、いりて、」。]有ㇾ之。尤掘出扱候節、外と[やぶちゃん注:「ほかと」で「ほかの物と」の意であろう。]壺に當り、數多に破碎致候樣子にて、最初掘出候銅板は、銘牌入候箱之蓋にて、此外、銅壺、廻り、燒灰有之。其餘、聊の品も無ㇾ之。然處、右地所は檢地高[やぶちゃん注:不詳。その高が非常に古くから検地対象であったことをかく言っているか。]の内にて、開發の年曆、不相知、元祿十六未年[やぶちゃん注:一七〇三年。]、植村右衞門佐檢地の節より、常七本家善四郞所持致居候處、同人、追々、及困窮、年月覺不ㇾ申候由。凡五十ケ年程以前、同村次郞兵衞持地に相成、引續同人伜、當時、次郞兵衞致所持候得共、善四郞所持の砌より、常七祖父要助、常七、代々、下作仕來候[やぶちゃん注:「したさく、つかまつりきたりさふらふ」。「下作」は小作料を支払って地主から借りて耕作すること。]永小作[やぶちゃん注:「えいこさく」。小作人が長期の耕作権を有する小作関係。小作料は一般に低く、耕作権の譲渡・売買も許されており、小作人の権利が強い。江戸時代に始まる慣行で、多くは新田開発の際に発生した。]に有ㇾ之、掘出し候場所は、極山中村方[やぶちゃん注:「ごく、さんちう〔の〕、むらかた」。]にて候得ども、平地の砌、其最寄古塚、或は墓印又は樹木等有ㇾ之儀、老年の者も存不ㇾ申、申傳候儀も無ㇾ之旨申候間、掘出候品々、得と[やぶちゃん注:「とくと」。]御改候處、歷史に有ㇾ之候、文忌寸禰麻呂の納骨古墳の由。慶雲四年九月中、卒去の旨、銅牌に相記有ㇾ之候。右銅牌幷に箱の内、紺錆[やぶちゃん注:「こんしやう」と読んでおく。緑青。]、吹出、外に壺は外廻り一面に流金[やぶちゃん注:「ながしきん」か。金鍍金(めっき)のことか。]、又は燒集(つけ)[やぶちゃん注:底本の「集」へのルビ。「やきつけ」。熱を加えて鏝付けすることか。]にても御座候や、金色の上、靑錆色にて、「摺剝し」[やぶちゃん注:「すりはがし」。高級着物の金彩加工の技法の一つで、生地の上に糊をひいて、金箔を貼りつけるの手法を言う。]と申候姿に相成、何れも紫銅[やぶちゃん注:青銅。]と相見候。銅性、宜敷、牌之外、箱之蓋而已[やぶちゃん注:「のみ」。]。厚さ、不同、有ㇾ之、薄き方は、自然にて朽滅[やぶちゃん注:「くちめつし」。]候儀にて可ㇾ有ㇾ之や、外と壺等は、聊、朽損し[やぶちゃん注:「くちそんじ」。名詞。]、無ㇾ之、内に入有ㇾ之候壺は碧色にて、玻瓈にも可ㇾ有ㇾ之や、フラスコ同樣に相見え申候。中に入候灰は石灰の樣子にて、尤、骨形等は相見え不ㇾ申候處、外、掘出し候品、無ㇾ之、然處、右體、高位方之古墳、數年二便[やぶちゃん注:「にべん」。大便・小便。]其外の肥し等にて相穢し候段、畢竟不ㇾ存儀とは乍ㇾ申、今更、甚恐怖いたし、不本意の至、奉ㇾ存候間、此上、於村方掘出し候品々、大切に守護致度旨、一同申立候。右始末等、取調相伺候儀に付、御下知有ㇾ之候迄、掘出主は村役人え相預け、麁末無ㇾ之樣取計、他所え持出候儀は勿論、猥に見物等不ㇾ爲ㇾ致樣、且、如何敷[やぶちゃん注:「いかがはしき」。]風說等、申觸間敷旨、申渡置候。此上、如何取計可ㇾ申や、則、掘出候品々、別段、麁繪圖面三枚相添、御下知奉ㇾ伺候。以上。

 天保二卯年十二月    木村總左衞門印

[やぶちゃん注:以下、最後まで底本では一字下げ。]

私に云、當時の風聞に、村方のものども、「件の銅牌を神に祭るべし」など欲するといふ。「彼掘出したる處の畑地は、以後、年貢御免なるべし。」など、いへり。いかに命ぜられしにや、尋ぬべし。

解云、慶雲は文武天皇の年號、當時、大和州藤原宮にいませしなり。文忌寸禰麿の事は、「日本後紀」・「日本逸史」等に見えたり。追て抄錄すべし。慶雲四年丁未より天保二年辛卯まで、星霜一千一百二十五年也。三十五年に作りしは傳寫の訛り[やぶちゃん注:「あやまり」。]なり。この禰麻呂忌寸の墓碑牌は、文政三年庚辰[やぶちゃん注:一八二〇年。]の春、攝州眞上の光德村の民、六右衞門が掘出せし、石川年足朝臣の墓碑牌と、一對の古物なり。年足の墓碑は別記にあり。合せ見るべし。

[やぶちゃん注:『八瀧村は「書紀」に所ㇾ云、八咫烏』(やたがらす)『の舊地なり。「大和志」』神武天皇が大和へ東遷する折り、建角身命(かもたけつぬみのみこと)が八咫烏に化身し、熊野の山中で停滞する一行を大和へと道案内し、皇軍の勝利に貢献したと伝えられている。このロケーションの西直近の宇陀市榛原高塚(はいばらたかつか)には八咫烏神社がある。「大和志」は「五畿内志」、正式には「日本輿地通志畿内部」の内の畿内五ヶ国の地誌、則ち、「河内志」・「和泉志」・「攝津志」・「山城志」・「大和志」の最後を指す。同書は享保年間(一七一六年~一七三六年)に編纂され、江戸幕府による最初の幕撰地誌と看做され、近世の地誌編纂事業に多くの影響を与えた書である。現物画像を国文学資料館の原本画像で見たが、記載が痩せていて、馬琴が言うほどには、参考にならない。その代わり、奈良県教育会が大正三(一九一四)年に刊行した「大和志料」下巻を国立国会図書館デジタルコレクションの方が遙かに記載が豊かである。同神社はここで、しかも、同郡の記載の末の「舊蹟墳墓」に「文氏墓」として、この「文禰麻呂」の記載も読める。

「攝州眞上の光德村」大阪府高槻市真上町に近い月見町の荒神塚。「光德」は不詳。

「石川年足」(いしかわのとしたり 持統天皇二(六八八)年~天平宝字六(七六二)年)は飛鳥末期から奈良中期にかけての公卿・歌人。「壬申の乱」以降、蘇我氏嫡流となった少納言蘇我安麻呂の孫、権参議石川石足の長男。官位は正三位・御史大夫。事績は当該ウィキを参照されたい。「高槻市」公式サイト内の「インターネット歴史館」の「石川年足の墓」を見られたいが、彼の塚が掘り出された際、『木炭で囲われた木箱があり、なかに埋葬された人物について記した金銅板製の「墓誌」と人骨が納めてあったと伝えられ』、『墓誌は、長さ約』三十『センチメートル・幅約』十『センチメートル・厚さ』三ミリメートルの『銅板で、表面に年足の系譜や官職などを刻んで』、『周りを細かい唐草文様で飾り、表裏とも金メッキがほどこしてしてあ』ったとある。『この墓誌によって、埋葬された人物が石川年足であると特定され、また真上の地がかつて白髪郷と呼ばれていたことがわか』ったとある。こちらも国宝である。

「別記にあり。合せ見るべし」不詳。]

毛利梅園「梅園介譜」 水蟲類 鞍掛鰕(クラカケヱビ) / ボタンエビ

 

[やぶちゃん注:底本のここからトリミングした。左下方は「ケンガニ」のキャプションの一部と同種の鋏、右手下方の「腹」は「團扇蟹(ウチハガニ)」のキャプションで無関係。]

 

Kurakakeebi

 

鞍掛鰕(くらかけゑび)

其の形、此くのごとく、脊(せ)の甲、馬に鞍を置きたるがごとし。故、名づく。「あをりゑび」とも充(あ)つ。此のゑび、其の身、甲の皮、「あをり」のありて、水を遊(およ)ぎ行く時、「あをり」て、以つて、鰭[やぶちゃん注:底本は「魚」の下方を「大」にし、「曰」を下方全体に配した字体。]のごとく、つこう[やぶちゃん注:「使ふ」の口語。]と云ふ。

 

[やぶちゃん注:この和名異名は生きていないが、形状の細部描写から、

十脚目タラバエビ科タラバエビ属ボタンエビ Pandalus nipponensis

ととってよい。私は毎週、行きつけの寿司屋で必ず刺身で食う、エビ・カニの中では特異的に好きな種である。当該ウィキを引く。『海洋生物学者であった東京帝国大学農学部の横屋猷(よこや ゆう)博士』(明治二四(一八九一)年~昭和四四(一九六九)は、昭和八(一九三三)年の東京帝国大学『農學部紀要』で、『日本周辺の大陸棚に生息している多数の十脚目甲殻類を報告した』が、『本種』Pandalus nipponensis Yokoya, 1933も『そのひとつである』。『体長は』十三センチメートルから二十センチメートルを『超える大型のものもいる。体色は濃いオレンジ色である。鮮度が落ちると、次第に黄色っぽくなる。額角(がっかく)の中央部付近と背部の赤味が濃い。殻から内臓が透き通って見える』。第一~五『腹節の側面に各』二『個の赤い不定形の斑紋(はんもん)がある』。『この斑紋が牡丹の花びらを散らしたように見えることが名前の由来であるという説と、体色が全体に赤く』、『牡丹色が連想されたことが由来であるという説が見られる』。『額角は頭胸甲(とうきょうこう)の』一~一・五『倍と長い。頭胸甲の背面の隆起は』同属のトヤマエビ Pandalus hypsinotus『と比べると低い』(なお、トヤマエビは本種と異なり(後述)、日本海全域からベーリング海にかけて棲息し、富山湾で最初に漁獲されたことから「トヤマエビ」と名付けられ、漁獲高も多い)。ボタンエビは『日本海には分布せず、太平洋側の宮城県沖以南にだけ分布する日本固有種で、大陸斜面の水深』三百~五百メートルに『生息する』。『かつては福島県の小名浜沖、東京湾、高知県の土佐湾などでも獲れたが』、『沖合底曳網漁の衰退により、現在では千葉県の銚子沖や静岡県の駿河湾、三重県の尾鷲沖などで少し獲れるだけになってしまった。市場には「牡丹海老」の名で複数種の赤いエビが出回っている』。十月から五月に『かけて、底引き網漁で捕獲される。ボタンエビは傷みやすいので、生きたまま持ち帰るためには鮮度を保ついろいろな工夫が必要となる』。『卵は青緑色でプチプチして美味。その大きさは』三・四×二・三ミリメートルで『タラバエビ属では最大である』。『卵が大型であり、幼生は短縮発生』(浮遊幼生期が短いことを指す語であろう)『するので、分散力は弱いと考えられる。一度に』五百~千二百『個程度を産卵し、メスが約』一『年に渡って抱卵する』。『幼生の成長は「卵黄依存型」で、研究環境で』六『段階が確認されていて』、『幼生段階が』一から四『期、後期幼生段階が』五乃至六『期である』。『雌雄同体』で『雄性先熟、すなわち』、『若い個体は繁殖期がやってきた時に』は、まず、『オスとして繁殖に参加するが、成長するとメスに性転換する。このため、体長』十三センチメートル『前後を超える大型の個体はすべてメスとなる』とある。

「あをり」「あふり」が正しい。漢字は「障泥」「泥障」と書く。馬具の付属具で、鞍橋(くらぼね)の四緒手(しおで)に結び垂らして、馬の汗や蹴上(けあ)げる泥を防ぐもの。下鞍(したぐら)の小さい大和鞍や水干鞍に用い、毛皮や皺革(しぼかわ)で円形に作るのを例とするが、武官は方形として、「尺(さく)の障泥(あおり)」と呼んで用いた。馬具のそれらは、引用元である「デジタル大辞泉」の同語の解説に添えられた解説図を参照されたい。]

萩原朔太郎詩集「宿命」「散文詩」パート(「自註」附) 戰場での幻想

 

   戰場での幻想

 

 機關銃よりも悲しげに、繋留氣球よりも憂鬱に、炸裂彈よりも殘忍に、毒瓦斯よりも沈痛に、曳火彈よりも蒼白く、大砲よりもロマンチツクに、煙幕よりも寂しげに、銃火の白く閃めくやうな詩が書きたい!

 

[やぶちゃん注:「曳火彈」(えいくわだん(えいかだん))はこの文字のままだと、対象物に損傷を与える砲撃弾の一種である。ウィキの「曳火」によれば、『曳火(えいか、Air burst)は、広く行われる砲撃形式の一つで、時限信管や近接信管の働きにより』、『砲弾が空中炸裂し、主に歩兵などの非装甲目標に大きな損害を与え、制圧することを目的とする。「曳火砲撃」、「曳火射撃」などとも呼ばれ』。『曳下もしくはエアバーストと表記される事もある』。『現在では榴弾』(りゅうだん:爆発によって弾丸の破片が広範囲に飛散するように設計されている砲弾)『を使用するが、かつてはこの曳火砲撃専用の榴散弾という砲弾が存在した。曳火という表現は火薬式の時限信管を用いていた時代に生まれたもので、遅延薬の燃焼を伴わない機械式信管や近接信管にも同じ用語が受け継がれたものである』。『曳火砲撃』の特色は、『砲弾が空中で炸裂し、大量の破片が地面に吸収されることなく目標範囲に降り注ぐ』こと、『水平より下面への破片すべてが有効な破片となりうる。ただし、榴散弾の弾子は砲弾の進行方向に放出される』こと、『空中で炸裂するため、敵の頭上から破片を降らせる形になり、姿勢を低くしたり』、『穴(塹壕など)に潜った敵にも損害を与えやすい』とある。引用元には「一般的な砲撃との相違点」として以上とそれらが対比出来るように書かれてあるので、見られたい。しかし乍ら、「曳火彈よりも蒼白く、」というのだから、これは「曳光彈」のことであろう。因みに、筑摩版全集校訂本文では詩集「運命」ではそのままなのに、「絕望の逃走」版では、『曳光彈』に消毒している。一貫性がないねえ!

 初出は昭和七(一九三二)年一月号『セルパン』。以下に示す。

   *

 

 戰場での幻想

 

 機關銃よりも悲しげに、曳火彈よりも靑白く、繋留氣球よりも憂鬱に、炸裂彈よりも殘忍に、そして毒瓦斯よりも沈痛に、敵意と感傷にみちた詩が書きたい!

 見よ。鐵製の兜を被つて、兵士は銃の先に劍を突けてる。

 

   *

最後は「突(つ)けてる」だろうが、意味は判るものの、用法としては誤りである。「絕望の逃走」版は本篇に同じ。]

萩原朔太郎詩集「宿命」「散文詩」パート(「自註」附) 山上の祈

 

    山 上 の 祈

 

 多くの先天的の詩人や藝術家等は、彼等の宿命づけられた仕事に對して、あの悲痛な耶蘇の祈をよく知つてる。「神よ! もし御心に適ふならば、この苦き酒盃を離し給へ。されど爾にして欲するならば、御心のままに爲し給へ。」

 

[やぶちゃん注:引用されたイエスの言葉は先の『萩原朔太郎詩集「宿命」「散文詩」パート(「自註」附) 主よ。休息をあたへ給へ!』の私の「自註」への注を参照(先行する詩篇の「自註」を読んだ読者は、『またかい』と鼻白むこと請け合い)。初出は昭和九(一九三四)年五月発行の『生理』。異同はない。]

萩原朔太郎詩集「宿命」「散文詩」パート(「自註」附) 戶

 

   

 

 すべての戶は、二重の空間で仕切られてゐる。

 戶の内側には子供が居り、戶の外側には宿命が居る。――これがメーテルリンクによつて取り扱はれた、詩劇タンタジールの死の主題であつた。も一つ付け加へて言ふならば、戶の内側には洋燈が灯り、戶の外側には哄笑がある。風がそれを吹きつける時、ばたばたといふ寂しい音で、哄笑が洋燈を吹き消してしまふのである。

 

[やぶちゃん注:「詩劇タンタジール」戯曲「青い鳥」で知られるベルギー象徴主義の詩人で劇作家のモーリス・メーテルリンク(Maurice Maeterlinck 一八六二年~一九四九年)が一八九四年出版した悲劇「タンタジールの死」(La Mort de Tintagiles The Death of Tintagiles :本来の版は五幕)。内容は西野絢子(あやこ)氏の論文「『タンタジールの死』から『鐵門』へ :虚子によるメーテルランク翻案能」(『慶應義塾大学日吉紀要』二〇一七年。「慶應義塾大学学術情報リポジトリ」こちらからPDF版がダウン・ロード可能)を読まれたい。

 初出は昭和六(一九三一)年九月号『作品』。異同は、

・第二段落冒頭に一字下げ位置から「――」が入る。

・戯曲名が「詩劇タンタージル」となっている。

・二箇所の「哄笑」が孰れも「洪笑」と誤っている。

点のみである。「絕望の逃走」版では、前方ダッシュはない。「戶の外側には宿命が居る」が「戶の内側には宿命が居る」となっており、これは「外側」が正しく、致命的な誤りである。戯曲名も「詩劇タンタージル」である。]

萩原朔太郎詩集「宿命」「散文詩」パート(「自註」附) 父と子供

 

   父 と 子 供

 

 あはれな子供が、夢の中ですすり泣いて居た。

「皆が私を苛めるの。白痴(ばか)だつて言ふの。」

 子供は實際に痴呆であり、その上にも母が無かつた。

「泣くな。お前は少しも白痴(ばか)ぢやない。ただ運の惡い、不幸な氣の毒の子供なのだ。」

「不幸つて何? お父さん。」

「過失のことを言ふのだ。」

「過失つて何?」

「人間が、考へなしにしたすべてのこと。例へばそら、生れたこと、生きてること、食つてること、結婚したこと、生殖したこと。何もかも、皆過失なのだ。」

「考へてしたら好かつたの?」

「考へてしたつて、やつぱり同じ過失なのさ。」

「ぢやあどうするの?」

「おれには解らん。エス樣に聞いてごらん。」

 子供は日曜學校へ行き、讚美歌をおぼえてよく歌つてゐた。

「あら? 車が通るの。お父さん!」

 地平線の遠い向うへ、浪のやうな山脈が續いて居た。馬子に曳かれた一つの車が、遠く悲しく、峠を越えて行くのであつた。子供はそれを追ひ馳けて行つた。そして荷車の後にすがつて、遠く地平線の盡きる向ふへ、山脈を越えて行くのであつた。

「待て! 何處(どこ)へ行く。何處(どこ)へ行く。おおい。」

 私は聲の限りに呼び叫んだ。だが子供は、私の方を見向きもせずに、見知らぬ馬子と話をしながら、遠く、遠く、漂泊の旅に行く巡禮みたいに、峠を越えて行つてしまつた。

 

「齒が痛い。痛いよう!」

 私が夢から目醒めた時に、側(そば)の小さなベツトの中で、子供がうつつのやうに泣き續けて居た。

「齒が痛い。痛いよう! 痛いよう! 罪人(つみびと)と人に呼ばれ、十字架にかかり給へる、救ひ主イエス・キリスト……齒が痛い。痛いよう!」

 

 

 父と子供  詩集「氷島」の中で歌つた私の數數の抒情詩は、「見よ! 人生は過失なり」といふ詩語に盡きる。此所にはそれを散文で書いた。――主はその一人兒を愛するほどに、罪びと我れをも救ひ給へ![やぶちゃん注:巻末の「散文詩自註」の当該部をここに配した。]

 

[やぶちゃん注:「地平線の遠い向うへ、」で始まる段落の最後の一文中の「向ふ」はママ。因みに、本篇初出年では、長女萩原葉子は満十四、次女明子(あきらこ)は満十二であったから、彼らの孰れかがモデルとなら、過去の記憶(と夢)ということでろう。なお、末尾の「救ひ主イエス・キリスト」には筑摩版全集校訂本文では「主(ぬし)」のルビがある。校異を見ても何も書かれていないので、初版にはあり、本底本(再版本)では抜かれた(落ちた)ものらしい。因みに、後で注するように初出には「ぬし」のルビがある。また、「讚美歌」の字は拡大して見るに、少なくともここまで電子化してきた底本の中では、ここのみ、「讃」でなく、「讚」の活字が用いられてある。

『詩集「氷島」の中で歌つた私の數數の抒情詩は、「見よ! 人生は過失なり」といふ詩語に盡きる』詩集「氷島」(昭和九(一九三四)年第一書房刊)は正規表現版電子化注をカテゴリ「萩原朔太郎」で完遂している。「見よ! 人生は過失なり」のフレーズは句点附きで、同詩集の一篇「新年」の後ろから三行目に出現する。

 初出は昭和九(一九三四)年十一月号『行動』。異同は

・「例へばそら、」の読点が句点。

・「地平線の遠い向うへ、」が「地平線の遠い向へ、」となっている。

・第二連の「側(そば)の小さなベツトの中で、」の「そば」のルビがない。

・「罪人(つみびと)」が「罪びと」(「罪」にルビはない)となっている。

・末尾の「救ひ主イエス・キリスト」は「主(ぬし)」とルビがある。

以外は異同はない。「絕望の逃走」版は本篇とほぼ相同(「主(ぬし)」のルビはある)。]

萩原朔太郎詩集「宿命」「散文詩」パート(「自註」附) 主よ。休息をあたへ給へ!

 

   主よ。休息をあたへ給へ!

 

 行く所に用ゐられず、飢ゑた獸のやうに零落して、支那の曠野を漂泊して居た孔子が、或る時河のほとりに立つて言つた。

「行くものはかくの如きか。晝夜をわかたず。」

 流れる水の悲しさは、休息が無いといふことである。夜(よる)、萬象が沈默し、人も、鳥も、木も、草も、すべてが深い眠りに落ちてる時、ただ獨り醒めて眠らず、夜(よる)も尙ほ水は流れて行く。寂しい、物音のない、眞暗な世界の中で、山を越え、谷を越え、無限の荒寥とした曠野を越えて、水はその旅を續けて行く。ああ、だれがその悲哀を知るか! 夜ひとり目醒めた人は、眠りのない枕の下に、水の澡々といふ響を聽く。――我が心いたく疲れたり。主よ休息をあたへ給へ!

 

 

 主よ。休息をあたへ給へ  詩人として生れつき、文學をする人の不幸は、心に休息がないといふことである。彼等はいつも、人生の眞實を追求して、孤獨な寂しい曠野を彷徨してゐる。家に居る時も、外に居る時も、讀書してる時も、寢そべつてる時も、仕事してる時も、怠けてゐる時も、起きてる時も、床にゐる時も、夜も晝も休みなく、絕えず何事かを考へ、不斷に感じ、思ひ、惱み、心を使ひ續けてゐるのである。眠れない夜の續く枕許に、休息のない水の流れの、夜(よる)更けて澡々といふ音をきく時、いかに多くの詩人たちが、受難者として生れたところの、自己の宿命を嘆くであらう。「主よ。もし御心に適ふならば、この苦き酒盃(さかづき)を離し給へ。されど爾(なんぢ)にして欲するならば、御心のままに爲し給へ。」といふ耶蘇の祈りの深い意味を、彼等はだれよりもよく知つてるのである。[やぶちゃん注:巻末の「散文詩自註」の当該部をここに配した。標題に「!」がないのはママ。]

 

[やぶちゃん注:「澡々」はママ。「澡」は「洗う・洗い清める」の意であるから、おかしい。水が音を立てて、よどみなく流れるさまであるから、「淙々」である。後掲する「絕望の逃走」では「淙々」となっているが、以上の通り、「自註」でも「澡々」となっており、初出もこれであるから、これは誤植ではなく、萩原朔太郎の原稿自体の誤字(偏執的思い込み)である。なお、筑摩版全集の「宿命」校訂本文は無論、「淙々」に修正されてある。

「行くものはかくの如きか。晝夜をわかたず。」「論語」の「子罕(しかん)第九」の「川上(せんじやう)の嘆(たん)」として有名な一節。

   *

子在川上曰、「逝者如斯夫。不舍晝夜。」。

(子、川の上(ほと)りに在りて曰はく、「逝(ゆ)く者は斯くのごときか、晝夜を舍(お)かず。」と。)

   *

「主よ。もし御心に適ふならば、この苦き酒盃(さかづき)を離し給へ。されど爾(なんぢ)にして欲するならば、御心のままに爲し給へ。」(「自註」)イエスのオリーブ山上の祈りの一節。「新約聖書」の私の好きな「ルカによる福音書」の「明治元譯新約聖書」(大正四(一九一五)年版の「路加傳福音書」第二十二章第四十二節から引く。

   *

父よ若(も)し聖旨(みこゝろ)に肯(かな)はば此(この)杯(さかづき)を我より離ち給へ然(され)ども我意(わがこゝろ)に非(あら)ずたゞ聖旨(みこゝろ)のまゝに成(なし)たまへ

   *

 初出は昭和九(一九三四)年十一月号『行動』。以下に示す。

   *

 

 主よ。休息をあたへ給へ!

 

 支那の曠野を漂泊して居た孔子が、或る時河のほとりに立つて言つた。

「行くものはかくの如きか。晝夜をわかたず。」

 流れる水の悲しさは、休息が無いといふことである。夜、萬象が沈默し、人も、鳥も、木も、草も、すべてが深い眠に落ちてる時、ただ獨り醒めて眠らず、夜も尙水は流れて行く。寂しい、物音のない、眞暗な世界の中で、山を越え、谷を越え、無限の荒寥とした曠野を越えて、水はその旅を續けて行く。ああ、だれがその悲哀を知るか! 夜ひとり目醒めた人は、眠りのない枕の下に、水の澡々といふ響を聽く。我が心いたく疲れたり。主よ休息をあたへ給へ!

 

   *

「絕望の逃走」版は、既に述べた通り、「淙々」に訂して、初出と同じである。則ち、本詩集所収に際して、朔太郎は冒頭に、『行く所に用ゐられず、飢ゑた獸のやうに零落して、』というリアリズムの映像を挿入したのである。これはまことに成功している加筆である。]

2022/01/22

狗張子卷之二 交野忠次郞發心

 

[やぶちゃん注:今回の挿絵は状態が最もよい現代思潮社版のそれをトリミング補正・清拭し、左右を近接させて合成した。右幅が水崎の辻斬り強盗のシークエンスで。左幅がその直後に水崎が戻った後の最後の場面。下方に、妻に呆れ果てて発心し、立ち去らんとする水崎の姿。家の中に既に推し斬った髻(もとどり)が見える。]

 

   ○ 交野(かたの)忠次郞發心(ほつしん)

 

Katano

 

 河内の國かた野の里に、水崎(みさき)忠次郞宣重(のぶしげ)と聞えしは、もとは駿河國今川家にありしが、牢浪して河内に來り、交野のわたりに引こもり、思ひかけず、妻をかたらひて、すみけり。本(もと)より武家の奉公人なれば、耕作・商買の所作(しよさ)もしらず、只、

『然るべき君を賴みて、軍陣に手がらをもふるひ、世にたち、名をも、とらばや。』

とのみ思ひて、あかしくらすほどに、身(しんしやう)上、ことの外にまづしく、朝(あした)ゆふべの烟(けふり)を、たてかねたり。

 ある夜のあかつき、忠次郞、ねぶりさめて、妻にかたりけるは、

「いか成《なる》先世(ぜんせ)のむくいにや、かゝるまづしき身となりはて、わびしき目をみせ侍べる事、返す返すも、面目(めんぼく)なき有さまなり。もし、世にも出《いづ》るならば、又、おもしろき世にも逢瀨(あふせ)のあるべし。」

と、かたる。

[やぶちゃん注:「河内の國かた野」旧交野郡。現在の交野市全域・枚方市の大部分と、寝屋川市の一部に相当する。この附近(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。淀川上流左岸。当該ウィキによれば、『交野郡の大部分は「交野ヶ原」と呼ばれる台地・丘陵地で、耕作には適さなかったが、鳥獣が多く棲息し、かつ京からも近いことから貴族の狩場となっていた。桓武天皇の時代には離宮が置かれた他、天皇の狩場(天皇以外の狩猟は禁止された)があったことにちなむ禁野(枚方市)の地名が残る。また、交野ヶ原は桜の名所としても知られ、交野郡にあった惟喬親王の渚院で在原業平が「世の中に絶えて桜のなかりせば春の心はのどけからまし」と詠んでいる』とある。

「水崎忠次郞宣重」不詳。

「妻をかたらひて」「語らふ」は男女が契りを結ぶの意。妻を迎えて。

「先世」「前世」に同じ。

「世にも出るならば、又、おもしろき世にも逢瀨のあるべし。」まどろっこしい謂いだが、「これよりどなたかの家人となって功名を挙げ、戦場で命を落としたとしたなら、きっと、相応に面白い後世(ごぜ)に於いて、二人は、再び、逢瀬を持って夫婦(めおと)となるに違いない。」ということであろう。作品内時制は永禄一二(一五六九)年の今川家滅亡の前後辺りの戦国時代。]

 妻、聞《きき》て、

「かゝるわびしき所にきて、幾世(いくよ)をへたりとも、いかめしき事のあるべしとも思はず。營(いとなみ)とて、すべき業(わざ)も、なし。かくて年月をおくりて後(のち)は、道のかたはら、細溝(ほそみぞ)の中に、たふれて、飢死するより外は、有《ある》べからず。せめては、野ばらのすゑ、往來の道すぢに出つゝ、手ごろのものの行過(ゆくすぐ)るをうかゞひ、うちころして、はぎとり、追ひたふして、うばひとり、我にも、ゆるやかなる心をも、つけて給(たべ)。」

とぞ、いひける。

[やぶちゃん注:「いかめしき事」功名を立てて立身出世すること。「幾世をへたりとも」とさえ言っているところから、彼の妻は、ここでの発案から、後のおぞましい行動・形振りから見ても、凡そ非情極まりない現実主義者であることが判る。

「ゆるやかなる心」物理的に満たされた満足感。]

 忠次郞、うち聞て、我、年ごろは、侍の道をたてゝ、『まさなき事は露ばかりもせじ』とこそ、嗜(たしな)みけれ、さりとも、かゝるわびしき中に、情けをかけて、ふかく契りしあひだを、去り別れんも悲しく、妻がこと葉につきて、思ひたちつゝ、夜のあくるを待かね、朝霧のまぎれに、刀(かたな)をわきばさみ、人ばなれとほき野のすゑ、草むらにかくれて待ける所に、年のほど、十七、八かと覺えし女性(によしやう)の、ちひさきめのわらはに、小袋(こぶくろ)をもたせてうち過《すぐ》るを、折ふし後さきに人氣(ひとけ)も、なし。刀をぬきて、かけ出《いで》つゝ、そのまゝ、うちころし、二人の女のきる物、はぎとり、小袋ともに持ちそへて、家に、はしり歸り、

「よき仕合(しあはせ)いたしぬ。」

とて、妻にあたへ、

「年のほど、十七、八かとみえたる、世にうつくしき女性なりけるぞや。いかなる里の誰人(たれびと)の妻なるらん、いたはしながら、うちころしける、あはれさよ。」

と、かたるに、妻、これを聞ながら、あはれとも思へるけしきもなく、井のもとのあたりにゆきて、水をくみつゝ、うれしげにわらひながら、小袖につきたる血を、あらひける顏つき、心ねのおそろしさ、鬼のごとくおもはれ、あきれたる中に、うとみはて、

『半時(はんとき)にても、わが妻とて、そふべきものか。情けなの心や。』

と、是《これ》を、「ぼだいのたね」として、もとゆひ、おしきり、家を出で、あしにまかせて諸國を修行して、三年(みとせ)にあたる比(ころ)ほひ、大和國よし野にめぐりきて、日、すでに暮《くれ》しかば、

『山本(やまもと)の里に宿(やど)をからばや。』

と思ふに、道のほとりに、軒(のき)あばらなる茅屋(かや《や》)のうちに、ともし火、かすかに、みえし。

[やぶちゃん注:コペルニクス的転回点の部分が、微妙に上手く書けていない。「忠次郞、うち聞て、」とあって、ここで直接話法の心内語となって、「我、年ごろは、侍の道をたてゝ、『まさなき事は露ばかりもせじ』とこそ、嗜(たしな)みけれ、」(『「こそ」~(已然形)、……』の逆接用法)「さりとも、かゝるわびしき中に、情けをかけて、ふかく契りしあひだを、去り別れんも悲し。」「と思ひて、」とジョイントしてこそ、おぞましい凶行の起動が際立ってくるところなのに、その心内語の尻が、うやむやに地の文に変質してしまい、メリハリがなくなって、ずるずるした、逆にたるんだ長回しになってしまっているのである。惜しい。

「山本の里」現在の奈良県橿原市山本町附近。]

 立《たち》よりて、戶をたゝくに、内より、わかき法師の出《いで》て、

「誰人《たれびと》ぞ。」

と云ふ。

「諸國修行の聖(ひじり)にて候。日の暮たれば、宿かし給へ。」

といふ。

「やすきほどの事。一夜をあかし給へ。」

とて、内によび入たり。

 粟飯(あはいひ)とり出で、

「是にて、旅のつかれをやすめ給へ。」

とて、我身は持佛堂にうちむかひ、念佛しけるあひだに、淚をぬぐふ事、幾(いく)しきりなり。

[やぶちゃん注:「粟飯」粟と米とを混ぜて作った飯。]

 忠次郞入道、此有さまをみつゝ、やうやう、粟飯、くひはてゝ、持佛堂にまゐり、もろ友に念佛しけるが、何となく物あはれにおぼえて、そゞろに淚のおちけるを、念佛はてゝ後(のち)、あるじの法師と、只、二人、うちむかひ、物がたりせしまゝ、

「さて、只今、念佛のあひだに、しきりに淚をおとし給ふは、いか成《なる》子細の候やらん。」

と、とひければ、あるじのほうし、こたへけるは、

「かたるにつけては悲しさの、かゝる身になりても、わすれがたき事の侍べり。我は、そのかみ、三好日向守の家人(けにん)なり。いとけなくして父におくれ、母かたの祖父(おゝぢ)は有德(うとく)なりける故に、その家にやしなはれ、人となりてのち、

『武家も、ものうき世の中なれば、只、わが名跡(みやうせき)をつぎて、世をやすくせよ。』

とて、ちかきあたり、田宮の里にすみわたり、北條村より、妻をむかへしを、いくほどなく、盜人(ぬすびと)のためにころされて、悲しくも、口をしさ、今更に、かぎりなし。その俤(おもかげ)の、わすられず、あまりの事には、

『かの盜人のありかをきかば、たとひ、虎ふす野べ、鯨(くじら)よる浦といふ共、只一人ゆきむかひ、妻の敵(かたき)はうつべきものを。』

と、別れをしたふ淚さへ、しばしがほども留らず、袂のかはく、隙(ひま)も、なし。かゝる時に、

『世をすてずは、生死(しやうじ)のちまたも覺束なく、まよひの夢も、さめがたかるべし。うき世の中は、これまでなり。佛道に身をすてゝ、はかなき妻のぼだいをも、とぶらひ、來生(らいしやう)には、さりとも、ひとつ「はちす」の契りを、むすばん。』

と、おもひ定め、此《この》山もとに、こもりて、念佛して居(ゐ)侍べり。今日(けふ)はこと更に、別れしつまの、三とせに歸るを思ひ出《いで》て、佛に花香(けかう)を奉り、むなしき後(あと)をとぶらふ中に、

 うらめしく又なつかしき月日かな

      別れみとせのけふと思へば

すつる身ながらも、猶、わすれかねて、かく思ひつゞけ侍べり。そなたにも、おなし世をそむきし人なれば、逆緣(ぎやくえん)ながら、とぶらひてたべ。」

とぞ、かたりける。

 忠次入道、つくづくと聞て、

「年ふればわすれ草もや生(おひ)ぬらん

     みとせのけふと思はれもせぬ

此もの語を聞《きく》につけて、恥かしき事こそ侍べれ。その女性を、ころせしものは、それがしなり。」

とて、初終(はじめをはり)の事、つぶさにかたり、

「我も、これゆゑ、世をそむきて、諸國をめぐる身の、とりわき、こよひ、此庵(いほ)にきたりしは、運のきはめとは、いひながら、嬉しう侍べり。その、うしなひし折からは、さこそ、悲しく、口をしからめ。かたきは、我なり。とくとく、かうべをはねて、本望(ほんまう)、とげ給へ。」

とて、首をのべて、さしむかひけり。

 あるじの法師、手をうちて、いふやう、

「年月(としつき)、念佛の隙(ひま)には、『妻のかたきのあり所を、しらさせ給へ。』と、神ほとけにも、いのり侍べりしに、こよひしも、こゝにめぐり來れる事も、心ざしのまことあるゆゑぞかし。今は、ねがひの花、ひらけ、妄念の雲、晴れたり。此事なくば、そなたも我も、いかでか「ぼだい」の道にいらん。『佛種(ぶつしゆ)は緣(えん)よりおこる』と、佛のとき給ふは、これなるべし。今は、うらみも、のこりなく、よろこびの種(たね)となり、一味(《いち》み)の雨の沾(うる)ほひける。九品(ぼん)の「うてな」のえんをむすび、おなじ蓮(はちす)の契りとなりし、嬉しさよ。」

とて、二人の法師、ひたひをあはせて、歡喜(くわんき)の淚、おきどころ、なし。

「此上は、何かへだてのあるべき。しばらく、こゝにとゞまり、念佛申て、とぶらひ給へ。」

とて、十日ばかりは、二人、おなじくおこなひしが、忠次入道、いとまごひして、出《いで》けり。

 後《のち》に、そのゆくすゑを、しらず。

 あるじの法師も、それより四年ののち、七日ばかり、やまひせしを、あたりちかき村人、かはるがはる、きたりて、かんびやうせしに、さのみに、くるしき色もなく、後世(ごせ)の事、物語りいたして、つひに「りんじふ」めでたく、念佛の息(いき)、もろ友に、正念に往生す。

 人々、とりまかなふて、塚にうづみ、しるしの木を、うゑて、男女(なんによ)あつまり、念佛して、とぶらひけりとかや。

[やぶちゃん注:「三好日向守」三好長逸(ながゆき 生没年未詳)。三好三人衆の一人で長老格。松永久秀と協力し、宗家の三好義継を後見した。のち久秀・義継の同盟軍と対立,奈良を中心に交戦をくりかえす。織田信長の畿内制圧で阿波に逃れ、しばしば反攻したが、天正元(一五七三)年の敗走後は不明。

「田宮の里」旧交野郡田宮村。現在の大阪府枚方市の枚方市駅南方直近の田宮本町を中心とする一帯であろう(ここは「今昔マップ」で示した)。

「北條村」現在の大阪府大東市北条交野郡外の南方だが、近い。

「今日(けふ)はこと更に、別れしつまの、三とせに歸るを思ひ出《いで》て」奇しくも、この庵に忠次郎が一宿を乞うたその日が、嘗て彼がこの法師の妻を強殺した日、彼女の祥月命日だったのである。則ち、四回忌当日だったのである。

「うらめしく又なつかしき月日かな別れみとせのけふと思へば」例の江本裕氏の論文「『狗張子』注釈(二)」(『大妻女子大学紀要』一九九九年三月発行・「大妻女子大学学術情報リポジトリ」のこちらから同題論文の総て((一)~(五))がダウン・ロード可能)によれば、本篇の種本の一つである「二人比丘尼」(鈴木正三著の仮名草子。但し、ストーリーの親和性は薄いとある)の「上」に出る、

 うらめしく又なつかしき月日かな

    わかれし人のけふとおもへば

が近い、とする。幸い、国立国会図書館デジタルコレクションのこちらと二コマ後の原本画像で当該歌が確認出来る。

「逆緣」普段、縁のない者が、偶然の縁で、死者に回向することを言う。これは、しかし、結果として、驚愕の事実が水崎によって語られることとなるのであった。

「年ふればわすれ草もや生(おひ)ぬらんみとせのけふと思はれもせぬ」江本氏の注釈でも『未詳』とする。

「一味(《いち》み)の雨」雨が一様に草木をうるおすように、仏の教えがどのような人々にも行き亙ることを比喩した仏語。

 なお、先の江本氏の論文によれば、本篇は「沙石集」の十七「悪を縁として発心したる事」が、『構成、結末、表現など、多くの点で一致し、本話の典拠といえる』とあるとある通りで、寧ろ、その『先行作品を、構成でほぼそのまま取り入れ、やや独自性に欠けるか』とも評しておられる。これは「沙石集」好きの私も多少、鼻白んだところではあった(但し、映像的には了意の方が遙かに上手い。特に後半で)。されば、原拠には原則、触れないという規定から外れて、ここでは以下に、所持する「岩波日本古典文学大系」本(一九六六年刊)を参考に直接話法などを改行し、カタカナはひらがなに直し、漢文部は読み下して、電子化しておく。

   *

    (七)惡を緣として發心したる事

 洛陽に貧して世を度(わた)るものありけり。妻(め)、夫に云ひけるは、

「かく貧く心苦しき世間、堪へ忍ぶべくも覺えず。人のせぬ事にもあらず。強盜(がうだう)・引剝(ひつぱぎ)ばしもして、我をもして、養ひ給へかし。」

と云ひけれども、

「人の貧しきは常の事也。いかゞ左樣のわざをば、すべき。」

と云ふに、妻、恨みくねり、打ち泣きなどして、

「さらば、暇(いとま)をたべ。いかなる人をも憑(たの)みて、すぎん。」

と云ひける時、さすがに、志もあさからざりけるまゝに、うち野の方へ行きて伺ひける程に、日の暮方に、女人の女童(めわらは)一人具したる、とほりけるを、折節、人も見へざりければ、走り寄りて打ち殺して、二人が「き物」を、はぎて歸りぬ。血付たる小袖共を、

「これこそ、しかじかの事して、まうけたれ。」

とて、妻にとらせければ、

「さこそ云ひしかども、かはゆき事かな。」

なども云ふべきに、えみまげて、よに嬉げなる顏氣色(かほきそく)也。

 あまりにうとましく覺えければ、日來(ひごろ)の情けも志しもわすられて、軈(やが)て、指し出でて[やぶちゃん注:間髪を入れず、家を飛び出して。]、本鳥(もとどり)押し切りて、或る僧坊にて出家して高野へ上りぬ。

 さて、一筋に後世の勤め、怠らず。よしなく殺しゝ罪、ふかく覺えて、且つは、彼の後世をも訪(とぶら)ひけり[やぶちゃん注:殺した者の冥福を祈った。]。

 或る時、同じやうなる入道、語らひ寄りて、物語しけるは、

「御發心(ごほつしん)の因緣、ゆかしく、誰も申さむ、仰(おほ)せられよ。これは、都にすみ侍りしが、歎く事ありて、すみなれし都(みやこ)、心、とゞまらず、あくがれ出でゝ、此の山へ上(のぼ)りて。」

といふ。

「これも、都のものにて侍るが、思ひの外の緣にあひて、出家して侍るなり。」

と云ふ。

「然るべき因緣にこそまゐりあひて侍るらめ。委しく仰せられよ。」

と云へば、いとつゝましげには、ありながら、しゐて問ひければ、申しけるは、

「相ひ語らひて侍りし者にすゝめられて、思の外の事をなむして侍りし。」

と、ありのまゝに語りければ、

「いつの比(ころ)にて侍し。又、女人の小袖の色、年の程なむど、こまごまと問ひけるを、ありのまゝに申ければ、此の入道、手を、

「はた」

と打ちて、

「さては。御邊(ごへん)は某(それがし)が善知識にてこそ、おはすれ。彼女は志(こころざし)ふかく侍りし者なり。其の日、後(おく)れて後、やがて出家して侍るなり。斯(かか)る緣なくは、爭(いかで)か、佛道修行のかたき道に思ひ入るべき。然(しか)るべき善知識にこそ。御邊より外の同行(どうぎやう)、有るべからず。共に彼の菩提を助け、今度(このたび)、出離の道に思ひ入るべし。」

とて、同じく勤め行ひて、一人は已に、臨終正念にて、おはりにけり。看病なんど、丁寧にしけるなり。或る人、聞きて語りき。今一人は、當時も侍るにや。

 人の世にある、歎き愁へ、後(おく)れ先き立つ習ひ、多けれども、人每(ごと)に、發心する事や侍る。賢(かし)こかりける心ざまなり。生死(しやうじ)の長夜(ちやうや)には、會離(ゑり)のかなしみたえぬ習ひと知りながら、愛をすて、道に入る人のなきこそ、愚かなれ。歎きあらむ人、此の跡を忍びて、永く衆苦充滿の世界を捨てて、早く快樂不退の淨土を願ふべし。

   *]

毛利梅園「梅園介譜」 水蟲類 貝蟹(ヤドリガニ) / カギツメピンノの♀か

 

[やぶちゃん注:底本のここからトリミングした。以下の解説中の下線は底本では二重右傍線で、「「たすき」と」で「と」まで引かれているのはママである。]

 

Yadorigani

 

貝蟹【「やどりがに」。】

 

「南越志」に曰はく、『璅蛣(さうきつ)、長さ、寸餘り、大なる者、長さ二、三寸、腹中、蟹の子、有り、楡莢(ゆけふ)のごとく、體を合はせ、共に生ず。俱(とも)に蛣と爲りて、食を取る。』と。今、常の文蛤(はまぐり)に蟹ある者、徃々あり、蟹ある蛤(がふ)は、肉、必ず、瘦せたり。『蠣の肉、亦、蟹となる』

 

此の蟹、「馬訶貝(ばかがひ)」のむき身の膓(はらわた)より、二つ、出でたり。其のむきみ、各(おのおの)、舌、なし。蟹、肉中より生ずるや、亦、外より、貝に入り、肉を食ふや。然らず。此の蟹、其の甲・腹、甚だ柔らかなり。肉ゑ、入りたると、思はず。肉より生じ、肉を食ふならん。蛤(ごふ)のみに限らず、いづれの貝にも有りぬべし。其の狀(かたち)、大いさ、圖のごとし。乾して、之れを藏す。又、曰はく、此の「小がに」、むき身の、ひらひらしたる処を、「たすき」と云ひ、「はかま」とも云ひ、其の「たすき」「はかま」の薄き皮との間に、此の「かに」、出入りす。口を開けども、殻の外ゑ、出て遊ぶにや。全躰、入るべき餘地、なし。

 

丙申(ひのえさる)十一月十六日、之れを採り、眞寫す。

 

[やぶちゃん注:これは、

甲殻亜門軟甲(エビ)綱真軟甲亜綱ホンエビ上目十脚(エビ)目抱卵(エビ)亜目短尾(カニ)下目原始短尾群 Thoracotremata(トラコトレマータ)亜群カクレガニ上科カクレガニ科 Pinnotheridae カクレガニ亜科 Pinnotherinae のカクレガニ類

の内、バカガイ(斧足綱異歯亜綱バカガイ上科バカガイ科バカガイ Mactra chinensis 。恐らく江戸湾産)から出現したことと、背甲の見た目の模様や腹部側の図からは、最も普通に見られる、

シロピンノ属カギヅメピンノ Pinnotheres pholadisの♀

ではないかと思われる。「長崎歴史文化博物館」公式サイト内の、ライデン国立自然史博物館蔵の同種の博物画()を見られたい。梅園の絵と、よく似ていることが判る。

『「南越志」に曰はく、『璅蛣(さうきつ)、長さ、寸餘り、大なる者、長さ二、三寸、腹中、蟹の子、有り、楡莢(ゆけふ)のごとく、體を合はせ、共に生ず。俱(とも)に蛣と爲りて、食を取る。』と。今、常の文蛤(はまぐり)に蟹ある者、徃々あり、蟹ある蛤(がふ)は、肉、必ず、瘦せたり。』ここまでは、実はまたしても呆れた孫引きで、貝原益軒の「大和本草卷之十四 介類 海蛤」の一節である。結構、リキを入れて注釈したので、そちらから私の注を転載する。

「南越志」晋代の作とされる沈懐遠撰になる南越(広東・広西・ベトナム北部域)の地誌。

「璅蛣(さうきつ)」「廣漢和辞典」の「蛣」の項に、蛸蛣(ソウキツ)・璅蛣(ソウキツは「蟹奴(カイド)」ともいい、腹の中に蟹の子を宿して共同生活をする一種の虫とある。そこで……「璅蛣」の日本語で検索をかけたら……あらまぁ……僕のテクストやがな、この「生物學講話 丘淺次郎 第五章 食はれぬ法 (二)隠れること~(5)」は……。まあ、ええわ。ともかくも、この「蟹奴」から連想するのは確かに最早、リンク先で私が注している通り、カクレガニ科 Pinnotheridae に属するカニ類しかあるまい。同科の種の殆んどは貝類等の他の動物との共生性若しくは寄生性を持つ。甲羅は円形乃至は横長の楕円形を呈し、額は狭く、眼は著しく小さい。多くの種は体躯の石灰化が不十分で柔らかい。本邦には四亜科一四属三〇種が知られる。二枚貝類の外套腔やナマコ類の総排出腔に棲みついて寄生的な生活をする種が多く、別名「ヤドリガニ」とも呼称する。一部の種では通常は海底で自由生活をし、必要に応じてゴカイ類やギボシムシなどの棲管に出入りするものもいる。基準種カクレガニ亜科オオシロピンノ Pinnothres sinensis などの属名 Pinnotheres から「ピンノ」とも呼ぶ。宿主の体を食べることはないが、有意に宿主の外套腔や体腔等の個体の内空間域を占拠するため、宿主の発育は阻害されると考えられ、この点から私は寄生と呼ぶべきであると思っている(以上の記載は主に保育社平成七(一九九五)年刊「原色検索日本海岸動物図鑑[Ⅱ]」及び平凡社「世界大百科事典」の記載を参考にし、以下の種記載は主に前者に拠る)。

「長さ寸餘り、大なる者、長さ二、三寸」長さ約三センチメートル、大きなものは六~九センチメートル強。

「腹中、蟹の子有り。楡莢(ゆけふ)のごとく、體を合はせ、共に生ず。俱に蛣と爲りて、食を取る」「楡莢」はバラ目ニレ科ニレ属Ulmus の実を包む羽のような形の莢(さや)のことを指す(なお、これは食用になる)。――さて、ところが実は、私はこの叙述を読みながらふと、これはカクレガニなんかではなく、カニ類に寄生する顎脚綱鞘甲亜綱蔓脚下綱根頭上目Rhizocephala のケントロゴン目 Kentrogonida 及びアケントロゴン目 Akentrogonida に属する他の甲殻類に寄生する寄生性甲殻類であるフクロムシ類のことを言っているのではなかろうかと感じたことをここで述べておきたい。それを説明し出すと、これまた、注がエンドレスになりそうなので、これについては、フクロムシを注した私の電子テクストである「生物學講話 丘淺次郎 四 寄生と共棲 二 消化器の退化」をリンクするに留めおくが、私は実は、何かまさしくモゾモゾゾクゾクするぐらい探りたい好奇心を禁じ得ないでいることは最後にどうしても述べておきたいのである。

「つねの文蛤などに蟹あるも徃々あり、蟹ある蛤(がふ)は、肉、必ず、瘦せたり」上記カクレガニ(ピンノ)類は宿主の体を食べることはないが、宿主の外套腔や体腔等の個体の内空間域を占拠するため(特に私がアサリで実見したある個体は吃驚するほど巨大で、その宿主のアサリは有意に軟体部が小さかったことをよく覚えている)、私は「必ず瘦せ」ているとは思わないものの、宿主の発育は相応に阻害され得ると考えており、この点から私は彼らは寄生と呼ぶべきであると考えていることを申し添えておく(これには反論される研究者もあるとは思われる)。因みに、そちらでも私が述べているが、「蛤(がふ)」は二枚貝の広称ではなく、「はまぐり」と読んではならない。日本人はすぐにこれを「はまぐり」と読みたがる悪い癖がある。

「蠣の肉、亦、蟹となる。」この部分も、やはり「大和本草卷之十四 水蟲 介類 牡蠣」からの孫引き。但し、最後に「云々」とあるから、梅園はこれで孫引きであることを示しているとは言えるが、ちゃんと「大和本草」が元だと断るのが筋だ。

「肉より生じ、肉を食ふならん」トンデモ化生説の宙返り版である。

「たすき」「襷」。

「はかま」「袴」。土筆の「はかま」と言うでしょ。

「口を開けども、殻の外ゑ、出て遊ぶにや。全躰、入るべき餘地、なし。」なんとなく言い方がおかしく、意味が判らない。

「丙申十一月十六日」天保七年。グレゴリオ暦一八三六年十二月二十三日。]

萩原朔太郎詩集「宿命」「散文詩」パート(「自註」附) 詩人の死ぬや悲し

 

   詩人の死ぬや悲し

 

 ある日の芥川龍之介が、救ひのない絕望に沈みながら、死の暗黑と生の無意義について私に語つた。それは語るのでなく、むしろ訴へてゐるのであつた。

「でも君は、後世に殘るべき著作を書いてる。その上にも高い名聲がある。」

 ふと、彼を慰めるつもりで言つた私の言葉が、不幸な友を逆に刺戟し、眞劍になつて怒らせてしまつた。あの小心で、羞かみやで、いつもストイツクに感情を隱す男が、その時顏色を變へて烈しく言つた。

「著作? 名聲? そんなものが何になる!」

 獨逸のある瘋癲病院で、妹に看護されながら暮して居た、晚年の寂しいニイチエが、或る日ふと空を見ながら、狂氣の頭腦に追憶をたぐつて言つた。――おれも昔は、少しばかりの善い本を書いた! と。

 あの傲岸不遜のニイチエ。自ら稱して「人類史以來の天才」と傲語したニイチエが、これはまた何と悲しく、痛々しさの眼に沁みる言葉であらう。側に泣きぬれた妹が、兄を慰める爲に言つたであらう言葉は、おそらく私が、前に自殺した友に語つた言葉であつたらう。そしてニイチエの答へた言葉が、同じやうにまた、空洞(うつろ)な悲しいものであつたらう。

「そんなものが何になる! そんなものが何になる!」

 ところが一方の世界には、彼等と人種のちがつた人が住んでる。トラファルガルの海戰で重傷を負つたネルソンが、軍醫や部下の幕僚たちに圍まれながら、死にのぞんで言つた言葉は有名である。「余は祖國に對する義務を果たした」と。ビスマルクや、ヒンデンブルグや、伊藤博文や、東鄕大將やの人々が、おそらくはまた死の床で、靜かに過去を懷想しながら、自分の心に向つて言つたであらう。

「余は、余の爲すべきすべてを盡した」と。そして安らかに微笑しながら、心に滿足して死んで行つた。

 それ故に諺は言ふ。鳥の死ぬや悲し、人の死ぬや善しと。だが我々の側の地球に於ては、それが逆に韻律され、アクセントの强い言葉で、もつと惱み深く言ひ換へられる。

 ――人の死ぬや善し。詩人の死ぬや悲し!

 

 

 詩人の死ぬや悲し  現實的な世俗の仕事は、すべて皆「能率」であり、實質の功利的價値によつて計算される。だが文學と藝術とは、本質的に能率の仕事ではない。それは功利上の目的性をもたないところの、眞や美の價値によつて批判される。故に藝術の仕事には、永久に「終局」といふものがないのである。そして詩人は、彼の魂の秘密を書き盡した日に、いよいよ益々寂しくなり、いよいよ深く生の空虛を感ずるのである。著作! 名聲! そんなものの勳章が、彼等にとつて何にならう。[やぶちゃん注:巻末の「散文詩自註」の当該部をここに配した。]

 

[やぶちゃん注:萩原朔太郎は何度も芥川龍之介の追悼・思い出を書いているが、とどめを刺すそれは、『改造』昭和二(一九二七)年九月号初出で、後に昭和一一(一九三六)年五月第一書房刊の「廊下と室房」に所収された「芥川龍之介の死」という十八章から成る長文のそれである(リンク先は私の古層のサイト版。正字不全はお許しあれ)。未読の方は全篇の通読を強くお薦めするが、特に「7」の「鄕土望景詩」に感動して早朝に寝巻のままで朔太郎に駆け込んだエピソード、「9」の「だが自殺しない厭世論者の言ふことなんか、皆ウソにきまつてゐるよ。」という朔太郎への龍之介の述懐シーン、「13」の龍之介との最後の邂逅シークエンス、最終章「18」の追悼散文詩などは絶品である。ともかくも、龍之介の鬼気迫る死への傾斜を余すところなく描いた稀有の追悼文と言える(朔太郎はある意味、追悼の達人と言ってもいい)。そうしてまた、私は、この本篇の標題「詩人の死ぬや悲し」には、朔太郎が龍之介の生前に、龍之介のことを、『芥川龍之介――彼は詩を熱情してゐる小説家である』とか、『けだし芥川君は――自分の見る所によれば――實に詩を熱情する所の、典型的な小說家にすぎなかつた』などと、断じてしまったことへの、強い慚愧の念が表わされていると考えている(「10」から「12」を見よ)。

 初出は昭和九(一九三四)年十一月号『行動』。句読点の有無や表記違いの他では、『「余は、余の爲すべきすべてを盡した」と。そして莞爾として微笑しながら、心に滿足して死んで行つた。』と、最終段落が、

   *

 ――人の死ぬや善し。詩人の死ぬや悲し。

   *

となっている二箇所が大きな異同である。「絕望の逃走」版は単なる表記違いを除くと、同じである。]

萩原朔太郎詩集「宿命」「散文詩」パート(「自註」附) 橋

 

   

 

 すべての橋は、一つの建築意匠しか持つてゐない。時間を空間の上に架け、或る夢幻的な一つの觀念(イデア)を、現實的に辨證することの熱意である。

 橋とは――夢を架空した數學である。

 

 

   日本の橋は、もつともリリカルの夢を表象してゐる。あはれな、たよりのない、木造の佗しい橋は、現實の娑婆世界から、彌陀の淨土へ行くための、時間の過渡期的經過を表象し、水を距てて空間の上に架けられてる。それ故に河の向うは彼岸(靈界)であり、河のこつちは此岸(現實界)である。[やぶちゃん注:巻末の「散文詩自註」の当該部をここに配した。]

 

[やぶちゃん注:初出は昭和六(一九三一)年九月号『作品』。異同はない。「絕望の逃走」も同じ。]

萩原朔太郎詩集「宿命」「散文詩」パート(「自註」附) 群集の中に居て

 

   群集の中に居て

        群集は孤獨者の家鄕である。 ボードレエル

 

 都會生活の自由さは、人と人との間に、何の煩瑣な交涉もなく、その上にまた人々が、都會を背景にするところの、樂しい群集を形づくつて居ることである。

 晝頃になつて、私は町のレストラントに坐つて居た。店は賑やかに混雜して、どの卓にも客が溢れて居た。若い夫婦づれや、學生の一組や、子供をつれた母親やが、あちこちの卓に坐つて、彼等自身の家庭のことや、生活のことやを話して居た。それらの話は、他の人々と關係がなく、大勢の中に混つて、彼等だけの仕切られた會話であつた。そして他の人々は、同じ卓に向き合つて坐りながら、隣人の會話とは關係なく、夫々また自分等だけの世界に屬する、勝手な仕切られた話をしやべつて居た。

 この都會の風景は、いつも無限に私の心を樂しませる。そこでは人々が、他人の領域と交涉なく、しかもまた各人が全體としての雰圍氣(群集の雰圍氣)を構成して居る。何といふ無關心な、伸々とした、樂しい忘却をもつた雰圍氣だらう。

 黃昏(たそがれ)になつて、私は公園の椅子に坐つて居た。幾組もの若い男女が、互に腕を組み合せながら、私の坐つてる前を通つて行つた。どの組の戀人たちも、嬉しく樂しさうに話をして居た。そして互にまた、他の組の戀人たちを眺め合ひ、批判し合ひ、それの美しい伴奏から、自分等の空にひろがるところの、戀の樂しい音樂を二重にした。

 一組の戀人が、ふと通りかかつて、私の椅子の側に腰をおろした。二人は熱心に、笑ひながら、羞かみながら嬉しさうに囁いて居た。それから立ち上り、手をつないで行つてしまつた。始めから彼等は、私の方を見向きもせず、私の存在さへも、全く認識しないやうであつた。

 都會生活とは、一つの共同椅子の上で、全く別々の人間が別々のことを考へながら、互に何の交涉もなく、一つの同じ空を見てゐる生活――群集としての生活――なのである。その同じ都會の空は、あの宿なしのルンペンや、無職者や、何處へ行くといふあてもない人間やが、てんでに自分のことを考へながら、ぼんやり並んで坐つてる、淺草公園のベンチの上にもひろがつて居て、灯ともし頃の都會の情趣を、無限に佗しげに見せるのである。

 げに都會の生活の自由さは、群集の中に居る自由さである。群集は一人一人の單位であつて、しかも全體としての綜合した意志をもつてる。だれも私の生活に交涉せず、私の自由を束縛しない。しかも全體の動く意志の中で、私がまた物を考へ、爲し、味ひ、人々と共に樂しんで居る。心のいたく疲れた人、重い惱みに苦しむ人、わけても孤獨を寂しむ人、孤獨を愛する人にとつて、群集こそは心の家鄕、愛と慰安の住家である。ボードレエルと共に、私もまた一つのさびしい歌を唄はう。――都會は私の戀人。群集は私の家鄕。ああ何處までも、何處までも、都會の空を徘徊しながら、群集と共に步いて行かう。浪の彼方は地平に消える、群集の中を流れて行かう。

 

[やぶちゃん注:「群集は孤獨者の家鄕である。」というのはシャルル・ボードレール(Charles Baudelaire 一八二一年~一八六七年)の没後に出版された散文詩集「パリの憂鬱」( Le Spleen de Paris :一八六九年刊)の全篇に漂っているテーマである。第十二篇“ Les Foules ”(「群衆」)や、第二十三篇“La Solitude ”(「孤独」)辺りを元に詩想としてフレーズ化したものか。笑い仮面氏のブログのこちらで前者の訳と原文が、同じくこちらで後者のそれが読める。

 初出は昭和四(一九二九)年二月号『四季』。長い作品だが、異同は冒頭の「ボードレエル」の引用の前後に「――」があること、「坐」の字が総て「座」であること、「雰圍氣(群集の雰圍氣)」が「氛圍氣(群集の氛圍氣)」になっていること、「何處」が「何所」といった表記違いがあること以外、唯一の大きな異同は、本篇の最終段落が二分されて、「ああ何處までも、何處までも、」が「ああ何所までも何所までも、」となっていて、さらに最後のフレーズ「群集の中を流れて行かう。」がリフレインしていることである。その二段落分のみを示す。

   *

 げに都會の生活の自由さは、群集の中に居る自由さである。群集は一人一人の單位であつて、しかも全體としての綜合した意志をもつてる。だれも私の生活に交涉せず、私の自由を束縛しない。しかも全體の動く意志の中で、私がまた物を考へ、爲し、味ひ、人々と共に樂しんで居る。心のいたく疲れた人、重い惱みに苦しむ人、わけても孤獨を寂しむ人、孤獨を愛する人にとつて、群集こそは心の家鄕、愛と慰安の住家である。ボードレエルと共に、私もまた一つのさびしい歌を唄はう。

 ――都會は私の戀人。群集は私の家鄕。ああ何所までも何所までも、都會の空を徘徊しながら、群集と共に步いて行かう。浪の彼方は地平に消える、群集の中を流れて行かう。群集の中を流れて行かう。

   *

「絕望の逃走」版では、「ボードレエル」の引用の前にのみ「――」があること、「坐」で一貫、二度のそれは「雰圍氣」で、しかも以上の最終段落分離が生きている――しかし「何所」は「何處」であり、最終フレーズのリフレインはない――過渡期的なものである。最終段落のみを示す。

   *

 ――都會は私の戀人。群集は私の家鄕。ああ何處までも何處までも、都會の空を徘徊しながら、群集と共に步いて行かう。浪の彼方は地平に消える、群集の中を流れて行かう。

   *

個人的には、この最終段落分離は残すべきであったと思う。巨匠ボードレールに応じた感じに気が引けたものか。]

2022/01/21

毛利梅園「梅園介譜」 水蟲類 大脚蝦(テンボウヱビ)・白タヱビ・田ヱビ / テッポウエビ(概ね図のみ)・テナガエビの第二歩脚の欠損個体(解説内)・シラタエビ・ヤマトヌマエビ(最後は再出か)

 

[やぶちゃん注:三種、描かれているが、「白タヱビ」(恐らくは「しらたえび」と読む)に対応する解説は見当たらない(恐らくは長い解説の後半に出る芝エビ云々がそれらしい)。しかも面倒なことに、その「白タヱビ」の触角が「田ヱビ」の解説文にかかってしまっているため、三種を纏めて電子化することにした。]

 

Tenbouebihoka

 

「邵武通志(しやうぶつうし)」に出づ。

   大脚蝦(タイキヤクカ[やぶちゃん注:左ルビ。])【「てんぼうゑび」・「てんごう」(備前)・「堅田(かたた)ゑび」(江州)・「泻(かた)ゑび」(賀州)。】

 

「湖中産物圖證」、蝦の條下に曰はく、『一種、小なる有り、頭尾共(とも)に二寸許り、又、五、六分の者あり。其の頭身半(なか)ばをなす鬚に、條あり、長く、足(あし)は、長短なり。皆、同じ。惣身(そうみ)、灰色にして、眼、大なり。夏秋の間、鮞(はららご)あり。腹外、脚手の間に、此れを抱(いだ)く。「松原ゑび」と云ふ。名品とす。松原は地名。湖邊の一湊(いち、みなと)なり。又、「堅田ゑび」と呼ぶ。其の形、「松原ゑび」と同じくして、一手(いつて)、大にして、一手、小なり。其の外、異なること、なし。此れ、「邵武府志」に出だす「大脚蝦」なりと、蘭山先生の説なり。此のゑび、勢多の獅子飛(ししとび)へ落ち、宇治川・伏見・淀・橋本邊へ落ち下りて、大いさ、頭尾共に、三、四寸。足の長さ、四寸許り。鬚は、足より短く、肉、太くして、甚だ美味となる。此れ、五、六月の候なり。右の邊、名産とす。鹽に製して、夏日、遠くに寄す』。 予、曰はく、「大脚蝦」、則ち、「堅田ゑび」なり。江戸芝浦の名産「芝ゑび」の中に、ま〻、あり。前説、『鬚、足より短く』と云ふ者、未だ見ず。此者、茲(ここ)に圖するは、何れの國の産や知らず。好子某氏所藏、之れを乞ひ、天保十亥年二月七日、之れを寫す。

 

此者、出水(でみづ)の後、田の中に生ず。干-乾(ほ)し、多く市中(いちなか)に賣る。「てゑび」とも、「はかりゑび」とも

 

丁酉三月十二日、眞寫す。

 

[やぶちゃん注:これは非常に困った。図されたものと、下方に書かれた解説に、生物学上、合致得ない乖離があるからである。まず、大振りの赤いザリガニのように描かれた図のそれは、テッポウエビ科 Alpheidae の最大級の種である(体長は五~七センチメートルほどであるが、さらに第一歩脚は大きな鉗脚として発達し、これを含めると、大型個体は十センチメートルを超える。第一歩脚は左右で太さと形態が異なり、大きい方は掌部(中ほどの関節から鋏の付け根まで)は指部(鋏部)の三倍ほど長く、重厚で、指部は、短いものの、太くて、鋭い。小さい方は逆に指部が掌部の凡そ三倍あり、咬み合わせ部分に隙間がある細長い鋏となる。大きい方の鋏を、一旦、開いて急速にぶつけ合わせ、「パチン!」という大きな破裂音を出すことが出来る。これは敵に遭遇した時の威嚇や、獲物を気絶させる際に、この行動を行う。以上は当該ウィキに拠った)、

十脚目抱卵(エビ)亜目コエビ下目テッポウエビ上科テッポウエビ科テッポウエビ属テッポウエビ Alpheus brevicristatus

にしか見えない(なお、同種の生時の体色は淡緑褐色で、背面には淡い白斑が散らばる。しばしばお世話になる鈴木雅大氏のサイト「生きもの好きの語る自然誌」の同種のページに生体写真があるので参照されたい。本図がザリガニのように赤いのは、乾燥標本にするために茹でてあるからであろう。但し、近縁種のフタミゾテッポウエビAlpheus bisincisus は生時でもピンク色或いは褐色を呈してはいる個人ブログ「田中川の生き物調査隊」の「フタミゾテッポウエビ」及び「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」の当該種のページをご覧あれ)。ところが、テッポウエビは日本を含む東アジア沿岸海域の内湾・浅海の砂泥底、則ち、干潟にのみに棲息する海産エビで、内陸の「堅田(かたた)ゑび」「江州」=近江国や、「泻(かた)ゑび」という呼称は「潟エビ」で如何にもテッポウエビでいいのだが、その地方名が、完全な内陸の「賀州」=伊賀国、ひいては、後に延々と解説されている琵琶湖と、そこから流れ出る河川域にはテッポウエビは棲息しようがないので、違う。但し、「てんぼうゑび」「てんごう」(備前)というのは、テッポウエビを指している可能性が頗る高いから、ここで同定の一候補として挙げてよいと私は判断した。「てんぼう」とは「手ん棒」で、「てぼう(手棒)」の音変化で「怪我などのために指や手がなく、棒のようになっていること」を言う古語である(但し、差別的ニュアンスがあるので、廃語とすべきものである)。

 さて、では、

この琵琶湖産(本文で引く「湖中産物圖證」(こちゅうさんぶつずしょう:現代仮名遣)は藤居重啓なる人物によって文化一二(一八一五)年に書かれた、琵琶湖の水棲動物についての図説。国立国会図書館デジタルコレクションで写本(複数巻)が視認でき、その「下」の「卷三上」のここで、梅園の引用した箇所が読める)の――純淡水産エビで――左右の歩脚の内の一対の片方の長さが短い種――とは一体、何か?

ということを考えねばならなくなった。しかし、だ。本邦に棲息する淡水エビで、左右の鉗脚が有意に長短になっている種というのは、調べた限りでは――いない――のである。

 困った。いろいろ調べる内、少年の頃、よく採ったアメリカザリガニのことを連想した。彼らは脱皮をする。脱皮直後は我々は「こんにゃく」と呼んだが、非常に柔らかく、外敵に直ぐ襲われる。すると、片手を食われることがあり、片手のない個体をよく見かけた。脱皮前の成体でも同種間の共食いや外敵によって、片手を捥ぎ取られて、再生中の個体もいた。そんなことを考えてみて、

「川エビ類も、脱皮直後にそうした事態となり、片手がなかったり、半分食われて短くなったりする個体が、生物群の圧が大きければ大きいほど、有意に出現することになるのではなかろうか?」

と思ったのであった。さらに、先に示した「湖中産物圖證」の解説の前の部分にエビの絵があった。それは、しかも、どう見ても、下方のそれは、既出のテナガエビにしか見えないのだった(参考図としてトリミングして以下に示す。左下のふにゃふにゃは、原本写本の虫食い穴である。上部の図の種は不明だが、触角が目立って長いのは、関西で「シラサエビ」「湖産エビ」と呼ばれて釣り餌になるテナガエビ亜科スジエビ属スジエビ Palaemon paucidens と考えてよいか)。

 

Kotyusanbutuzusyouebi

 

江戸時代当時の琵琶湖の水棲生物は非常に種に富み、固有種も沢山いた。しかも、テナガエビは同種個体間でも縄張り意識が強く、他の個体と遭遇すると、積極的に戦って排除をする。だとすれば、それだけ、テナガエビが鉗脚の一方を欠損する確率は高くなることになる。とすれば、普通のエビよりも片手という印象が甚だ強くなるわけだ! さればこそ、私はこれは、

節足動物門軟甲綱ホンエビ上目十脚目テナガエビ科テナガエビ亜科テナガエビ属テナガエビ Macrobrachium nipponense 片方の鉗脚の欠損個体

を指していると断じたいのである。

 なお、そんなことを考えつつ、ネットの川エビ類の記事をも縦覧していたところ、ab3mai氏のサイト「淡水エビの飼育と観察『蝦三昧』」の『淡水エビの見分け方 基本の「き」』を読んだところ、通常の淡水産のエビ類も、脱皮直後の個体が、共食いや外的などによって鉗脚を食われてしまい、片方を持たない個体が結構出現することが、はっきりと書かれてあった。特に肉食性の強いテナガエビでは、テナガエビでありながら、『両腕とも取れてしまっている個体もたまに見掛け』るあったのである。

 次に、中央下の「白タヱビ」であるが、これは文字通りの、

抱卵亜目テナガエビ科スジエビ属シラタエビ Exopalaemon orientis

である。「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」の同種のページを見られたいが、そこには体長は七センチメートル『前後になる。生きているときには透明で』、『死ぬと白くなる。額角が長く鋭い』とあり、漢字表記は『白太蝦』で、『「白太」とは白いということで、赤の反対語。これから』、『熱しても赤くならないということか。もしくは白いエビという意味合い』とする。分布は『浅い汽水域』で、『函館以南〜九州。韓国、台湾、中国』とし、『汽水域でとれる小エビのひとつ』で、『有明海周辺では干しエビにもな』り、『かき揚げに、だしなどに産地では人気が高い』と記されてある。梅園の『江戸芝浦の名産「芝ゑび」』(十脚(エビ)目根鰓(クルマエビ)亜目クルマエビ上科クルマエビ科ヨシエビ属シバエビ Metapenaeus joyneri既出)『の中に、ま〻、あり』とあるのが、シラタエビのことであろう。

 最後の左手の「田ヱビ」であるが、これは『毛利梅園「梅園介譜」 水蟲類 車ヱビ(クルマヱビ)・泥蝦(ノロマヱビ)の二種/ 前者「クルマエビ」・後者「ヌマエビ」の一種或いは「ヤマトヌマエビ」』で、バイ・プレーヤー「ノロマヱビ」の名で、小っちゃく、ちょこっと出た、

十脚目コエビ下目ヌマエビ科ヒメヌマエビ属ヤマトヌマエビ Caridina multidentata

と図がよく似ているのが判る。これに同定したい。

「邵武通志(しやうぶつうし)」既出既注。邵武府(しょうぶふ)は元末から民国初年にかけて、現在の福建省南平市西部と三明市北部に跨る地域に設置された行政単位。この附近(グーグル・マップ・データ)。ばっちり、内陸で、閩江が貫流する。同書は明代に陳譲によって編纂された同地方の地誌で、一五四三年の序がある。従って、「大脚蝦(タイキヤクカ)」は少なくとも、海産のテッポウエビではなく、淡水産のテナガエビ或いは近縁種かと思われる。ここ以下は、やはり、『毛利梅園「梅園介譜」 水蟲類 車ヱビ(クルマヱビ)・泥蝦(ノロマヱビ)の二種/ 前者「クルマエビ」・後者「ヌマエビ」の一種或いは「ヤマトヌマエビ」』の注で、「重修本草綱目啓蒙」の「四十 無鱗魚」の「鰕」から(リンク先は国立国会図書館デジタルコレクションの同原本の当該部)引いておいたので、そちらを見られたい。

「足は、長短なり。皆、同じ」「前説、『鬚、足より短く』と云ふ者、未だ見ず」先に述べた通り、これは食われた結果の欠損個体と私は断ずるものである。

「鮞」卵。

『「松原ゑび」と云ふ。名品とす。松原は地名。湖邊の一湊(いち、みなと)なり』現在の滋賀県彦根市松原町(まうばらちょう:グーグル・マップ・データ。以下同じ)。

「堅田ゑび」現在の滋賀県大津市堅田(かたた)。現在も過去も「かただ」ではない。

「勢多の獅子飛(ししとび)」現在の滋賀県大津市石山南郷町にある鹿跳(ししとび)渓谷。私の「譚海 卷之三 鹿飛口干揚り(雨乞の事)」を参照されたい。

「橋本」京都府八幡市橋本

『予、曰はく、「大脚蝦」、則ち、「堅田ゑび」なり』既に検証した通り、完全な誤りである。

「好子」好事家。

「天保十亥年二月七日」グレゴリオ暦一八三九年三月二十一日。

「てゑび」「はかりゑび」孰れも不詳。後者は乾した微小なそれを秤(はかり)売りしたからかとも思われる。

「丁酉三月十二日」天保八年。グレゴリオ暦四月十六日。]

藤森成吉作「拍手しない男」について

たまたま調べたところ、藤森成吉(ふじもりせいきち 明治二五(一八九二)年~昭和五二(一九七七)年)は著作権が存続している。私は高校教師時代、彼の短編小説「拍手しない男」の朗読を好んだ。最近では、プロレタリア文学を読むには図書館に行かかねばならないだろう。私は生徒配布用に私が作成した電子データを持っている。お読みになりたい方は私宛にメールを下されば、データをお送りする。非常に短いものである。

萩原朔太郎詩集「宿命」「散文詩」パート(「自註」附) 時計を見る狂人

 

   時計を見る狂人

 

 或る瘋癲病院の部屋の中で、終日椅子の上に坐り、爲すこともなく、每日時計の指針を凝視して居る男が居た。おそらく世界中で、最も退屈な、「時」を持て餘して居る人間が此處に居る、と私は思つた。ところが反對であり、院長は次のやうに話してくれた。この不幸な人は、人生を不斷の活動と考へて居るのです。それで一瞬の生も無駄にせず、貴重な時間を浪費すまいと考へ、ああして每日、時計をみつめて居るのです。何か話しかけてご覽なさい。屹度腹立たしげに呶鳴るでせう。「默れ! いま貴重な一秒時が過ぎ去つて行く。Time is life! Time is life!」と。

 

 

 時計を見る狂人  詩人たちは、絕えず何事かの仕事をしなければならないといふ、心の衝動に驅り立てられてる。そのくせ彼等は、絕えずごろごろと怠けて居り、塵の積つた原稿紙を机上にして、一生の大半を無爲に寢そべつてゐるのである。しかもその心の中では、不斷に時計の秒針を眺めながら、できない仕事への焦心を續けてゐる。[やぶちゃん注:巻末の「散文詩自註」の当該部をここに配した。太字下線は底本では、傍点「ヽ」。]

 

[やぶちゃん注:「終日」の読みは「ひねもす」か「しゆうじつ」か判らぬ。前例に徴してみても、確定は出来ない。個人的には本篇の雰囲気からは駘蕩とした印象の前者ではなく、「しゆうじつ」の方が相応しい気はする。

 初出は昭和六(一九三一)年五月号『新作家』。異同があるので、以下に示す。

   *

 

 時計を見る狂人

 

 或る瘋癲病院の部屋の中で、終日椅子の上に坐り、時計の指針を凝視して居る狂人が居た。おそらく世界中で、最も退屈な人間が此所に居ると私は思つた。ところが反對であり、院長は次のやうに話してくれた。「この不幸な人は、人生を不斷の活動と考へて居るのです。それで一瞬の生も無駄にせず、貴重な時間を浪費すまいと考へ、ああして每日、時計をみつめて居るのです。何か話しかけてご覽なさい。屹度腹立たしげに呶鳴るでせう。「默れ! いま貴重な一秒時が過ぎ去つて行く。Time is life! Time is life!」と。

 

   *

「絕望の逃走」版は、初出からの過渡期的なもの。煩を厭わず、示す。

   *

 

       時計を見る狂人

 

 或る瘋癲病院の部屋の中で、終日椅子の上に坐り、爲すこともなく、每日時計の指針を凝視して居る男が居た。おそらく世界中で、最も退屈な、時を持て餘して居る、と私は思つた。ところが反對であり、院長は次のやうに話してくれた。「この不幸な人は、人生を不斷の活動と考へて居るのです。それで一瞬の生も無駄にせず、貴重な時間を浪費すまいと考へ、ああして每日、時計をみつめて居るのです。何か話しかけてご覽なさい。屹度腹立たしげに呶鳴るでせう。默れ! いま貴重な一秒時が過ぎ去つて行く。Time is life! Time is life!」と。」

 

   *]

萩原朔太郎詩集「宿命」「散文詩」パート(「自註」附) 龍

 

   

 

 龍は帝王の欲望を象徵してゐる。權力の祥雲に乘つて居ながら、常に憤ほろしい恚怒に燃え、不斷の爭鬪のために牙をむいてる。

 

[やぶちゃん注:「祥雲」は「しやううん(しょううん)」と読み、「めでたい雲・瑞祥(ずいしょう)の雲」の意で「瑞雲」に同じ。「恚怒」は「いど」と読み、「腹を立てること・怒ること」の意。

 初出は昭和九(一九三四)年十二月号『四季』。「絕望の逃走」版もともに異同はない。]

萩原朔太郎詩集「宿命」「散文詩」パート(「自註」附) 自殺の恐ろしさ

 

   自殺の恐ろしさ

 

 自殺そのものは恐ろしくない。自殺に就いて考へるのは、死の刹那の苦痛でなくして、死の決行された瞬時に於ける、取り返しのつかない悔恨である。今、高層建築の五階の窓から、自分は正に飛び下りようと用意して居る。遺書も既に書き、一切の準備は終つた。さあ! 目を閉ぢて、飛べ! そして自分は飛びおりた。最後の足が、遂に窓を離れて、身體が空中に投げ出された。

 だがその時、足が窓から離れた一瞬時、不意に別の思想が浮び、電光のやうに閃めいた。その時始めて、自分ははつきりと生活の意義を知つたのである。何たる愚事ぞ。決して、決して、自分は死を選ぶべきでなかつた。世界は明るく、前途は希望に輝やいて居る。斷じて自分は死にたくない。死にたくない。だがしかし、足は既に窓から離れ、身體は一直線に落下して居る。地下には固い鋪石。白いコンクリート。血に塗れた頭蓋骨! 避けられない決定!

 この幻想の恐ろしさから、私はいつも白布のやうに蒼ざめてしまふ。何物も、何物も、決してこれより恐ろしい空想はない。しかもこんな事實が、實際に有り得ないといふことは無いだらう。既に死んでしまつた自殺者等が、再度もし生きて口を利いたら、おそらくこの實驗を語るであらう。彼等はすべて、墓場の中で悔恨してゐる幽靈である。百度も考へて恐ろしく、私は夢の中でさへ戰慄する。

 

[やぶちゃん注:太字は底本では傍点「ヽ」。「塗れた」は「まみれた」で、「鋪石」は「しきいし」と読んでいよう。老婆心乍ら、「實驗」は「實體驗」の意である。

 初出は昭和六(一九三一)年五月号『セルパン』。ほぼ同じだが、標題が異なり、一部に有意な表現の異同(誤字・誤植と思われるものも含む)があるので、以下に示す。「下ろう」、そこでは三度繰り返される最後の「死にくない」はママ。太字は同前。

   *

 

 自殺の恐怖

 

 自殺そのものは恐ろしくない。自殺に就いて考へるのは、死の刹那の苦痛でなくして、死の決行された瞬時に於ける、取り返しのつかない悔恨である。今、高層建築の上の窓から、自分は正に飛び下ろうと用意して居る。遺書も既に書き、一切の準備は終つた。さあ! 目を閉ぢて、飛べ! そして自分は飛びおりた。最後の足が、遂に窓を離れて、身體が空中に投げ出された。

 だがその時、足が窓から離れた一瞬時、不意に別の思想が浮び、電光のやうに閃めいた。その時始めて、自分ははつきりと生活の意義を知つたのである。何たる愚事ぞ。決して、決して、自分は死を選ぶべきでなかつた。世界は明るく、前途は希望に輝やいて居る。斷じて自分は死にたくない。死にたくない。死にくない。だがしかし、足は既に窓から離れ、身體は一直線に落下して居る。地下には固い舗石。白いコンクリート。血に塗れた頭蓋骨! 避けられない決定!

 この幻想の恐ろしさから、私はいつも幽靈のやうに蒼ざめてしまふ。何物も、何物も、決してこれより恐ろしい空想はない。しかもこんな事實が、實際に有り得ないといふことは無いだらう。既に死んでしまつた自殺者等が、再度もし生きて口を利いたら、おそらくこの實驗を語る者が少なくあるまい。彼等はすべて、墓場の中で悔恨してゐる幽靈である。百度も考へて恐ろしく、私は夢の中でさへ戰慄する。

 

   *

「絕望の逃走」では標題は「自殺の恐ろしさ」であるが、まだ自殺志望者は「高層建築の上の窓から、自分は正に飛び下りようと」しており、落下中は、「斷じて自分は死にたくない。死にたくない。死にたくない。」と三度繰り返している他は、本篇と同じである。]

萩原朔太郎詩集「宿命」「散文詩」パート(「自註」附) 物體

 

   物 體

 

 私がもし物體であらうとも、神は再度朗らかに笑ひはしない。ああ、琴の音が聽えて來る。――小さな一つの倫理(モラル)が、喪失してしまつたのだ。

 

 

 物體  人は悲哀からも、化石することを希望する。[やぶちゃん注:巻末の「散文詩自註」の当該部をここに配した。]

 

[やぶちゃん注:初出は昭和一〇(一九三五)年六月号(創刊号)『苑』であるが、そちらでは、標題が「物體」ではなく、「靜物」となっている。本文は同じである。「絕望の逃走」版は以下。

   *

 

      物體

 

 私がもし物體であらうとも、神は再度朗らかに笑ひはしない。ああ、琴の音が聽えて來る。――小さな一つの倫理(モラル)が、喪失してしまつたのだ。(抒情詩)

 

   *]

萩原朔太郎詩集「宿命」「散文詩」パート(「自註」附) 物質の感情

 

   物 質 の 感 情

 

 機械人間にもし感情があるとすれば? 無限の哀傷のほかの何者でもない。

 

 

 物質の感情  ロボツトの悲哀を思へ。物質であるところのものは、思惟することも、意志することも、生殖することもできないのだ。[やぶちゃん注:巻末の「散文詩自註」の当該部をここに配した。]

 

[やぶちゃん注:初出は昭和一〇(一九三五)年六月号(創刊号)『苑』であるが、そちらでは、「何者」が「何物」となっている。「絕望の逃走」版でも「何物」である。]

萩原朔太郎詩集「宿命」「散文詩」パート(「自註」附) 敵

 

   

 

 敵は常に哄笑してゐる。さうでもなければ、何者の表象が怒らせるのか?

 

 

   敵への怒りは、劣弱者が優勢者に對する、權力感情の發揚である。[やぶちゃん注:巻末の「散文詩自註」の当該部をここに配した。]

 

[やぶちゃん注:初出は昭和一〇(一九三五)年六月号(創刊号)『苑』。異同はない。但し、「絕望の逃走」版では、

   *

 

       敵

 

 敵は常に哄笑してゐる。さうでもなければ、何者の表象が怒らせるのか!

 

   *

 

と、最後が「?」ではなく、「!」となっている。個人的には「さうでもなければ、」という言い回しから反語であるからには、「!」の方がよいと感ずる。]

萩原朔太郎詩集「宿命」「散文詩」パート(「自註」附) 父

 

   

 

 父は永遠に悲壯である。

 

 

   父はその家族や子供等のために、人生の戰鬪場裡に立ち、絕えず戰つてなければならぬ。その困難な戰ひを乘り切る爲には、卑屈も、醜陋も、追從も、奸譎も、時としては不道德的な破廉恥さへも、あへて爲さなければならないのである。だが子供たちの純潔なロマンチスムは、かかる父の俗惡性を許容しない。彼等は母と結托して、父に反抗の牙をむける。槪ねの家庭に於て、父は常に孤獨であり、妻と子供の聯盟帶から、ひとり寂しく仲間はづれに除外される。彼等がもし、家族に於て眞の主權者であり、眞の專制者であればあるほど、益々家族は聯盟を强固にし、益々子供等は父を憎むのである。だが父の孤獨は、實には彼が生殖者でないことに原因してゐる。子供たちは、嚴重の意味に於ては、父の肉體的所有物に屬してゐない。母は子供たちの細胞である。だが父は眞の細胞ではない。言はば彼等は、子供等にとつて「義理の肉親」にすぎないのである。それ故にどんな父も、子供をその母から奪ひ、味方の聯盟陣に入れることはできないのである。

 しかしながら子供等は、その内密の意識の下では、父の悲哀をよく知つてる。そして世間のだれよりもよく、父の實際の敵――戰士であるところの父は、社會の至る所に多くの敵をもつてる。――を認識してゐる。それからして子供等は、彼の不幸な父を苦しめた敵に向つて、いつでも復讐するやうに用意してゐる。(封建時代とはちがつた仕方で、今の資本主義の世の中にも、孝子の仇敵(かたき)討ちがふだんに行はれて居ることを知るべきである。)最も平凡で、意氣地がなく、ぐうたらな父でさへも、その子供等にとつて見れば、人生の戰ひに慘敗した、悲壯なナポレオン的英雄なのだ。

 かくの如くして、人類史以來幾千年。父は永遠に悲壯人として生活した。[やぶちゃん注:巻末の「散文詩自註」の当該部をここに配した。「ぐうたら」の太字は底本では傍点「ヽ」。「奸譎」は一般には「かんきつ」と読むが、「きつ」は「譎」の慣用音で、正しくは「かんけつ」が正しい。意味は「心がねじけていて、偽りの多いこと」を言う。「譎」は「欺(あざむ)く・偽(いつわ)る・偽り」「怪しい・普通と違う」「遠回しに言う」の意がある。]

 

[やぶちゃん注:初出は昭和一〇(一九三五)年六月号(創刊号)『苑』。異同はない。「絕望の逃走」版も相同である。]

萩原朔太郎詩集「宿命」「散文詩」パート(「自註」附) 女のいぢらしさ

 

   女のいぢらしさ

 

「女のいぢらしさは」とグウルモンが言つてる。「何時(いつ)、何處(どこ)で、どこから降つて來るかも知れないところの、見たことも聞いたこともない未來の良人を、貞淑に愼(つつ)ましく待つてることだ。」と。

 家の奧まつた部屋の中で、終日(ひねもす)雀の鳴聲を聽きながら、優しく、惱ましく、恥かしげに、思ひをこめて針仕事をして居る娘を見る時、私はいつもこの抒情味の深い、そして多分に加特力敎的な詩人の言葉を思ひ起す。

 いぢらしくもまた、私の親しい友が作つた、日本語の美しい歌を一つ。

 

   君がかはゆげなる机卓(つくゑ)の上に

   色も朱(あけ)なる小箱には

   なにを祕めたまへるものならむ。

   われ君が窓べを過ぎむとするとき

   小箱の色の目にうつり

   心をどりて止まず。

   そは やはらかきりぼんのたぐひか

   もしくは、うら若き娘心を述べつづる

   やさしかる歌のたぐひか。(室生犀星)

 

 若い未婚の娘たちは、情緖の空想でのみ生活して居る。丁度彼女等は、昔の草双紙に物語られてる、仇敵討ちの武士みたいなものである。その若く悲しい武士たちは、何時(いつ)、何處(どこ)で、如何にして𢌞り逢ふかも解らない仇敵を探して、あてもなく國々を彷徨(さまよ)ひ步き、偶然の奇蹟を祈りながら、生涯を疲勞の旅に死んでしまふ。

 昔のしをらしい娘たちは、かうした悲しい物語を、我が身の上にひき比(くら)べ、行燈の暗い燈影で讀み耽つた。同じやうにまた、今日(けふ)の新時代の娘たちが、活動寫眞や劇場の座席の隅で、ひそかに未來の良人を空想しながら、二十世紀の草双紙を讀み耽つて居る。その新しい草双紙で、ヴァレンチノや林長二郞のやうな美男が扮する、架空の人物を現實の夢にたづねて、いぢらしくも處女(をとめ)の胸をときめかして居る。そして目算もなく、計畫もなく、偶然の𢌞合のみを祈りながら、追剝の出る街道や、辻堂や笹原のある景色の中を、悲しく寂しげに漂泊して居る。昔の物語の作者たちは、さうした悲しい數數の旅行の後で、それでも、漸く最後に取つて置きの籤(くじ)をひかせて、首尾よく願望を成就させた。だが若し、現實の人生がさうでなければ! そもそも如何に。女のいぢらしさは無限である。

 

[やぶちゃん注:太字は底本では傍点「ヽ」。なお、底本(再版本)では「仇敵討ち」「仇敵を探して」の孰れの「仇敵」にもルビは振られていないが、筑摩版全集の校訂本文では後者に「仇敵(かたき)を探して」と振られてある。校異にも載らないので、初版本は「かたき」と振られていたものと推定される。しかし、ならば、前の「仇敵討ち」に「かたきう」とルビが振られていないのはバランスが悪い。それを考えて再版では敢えて外したとも考えられなくはない。但し、本詩集に先行するアフォリズム集「絕望の逃走」(昭和一〇(一九三五)年十月十日第一書房発行)所収のものでは、確かにこちらの「仇敵(かたき)を探して」の部分にのみルビがある。

「グウルモン」フランスの詩人・作家・批評家のレミ・ド・グールモン(Remy de Gourmont 一八五八年~一九一五年)。引用元は不詳。

「加特力敎的な」これを萩原朔太郎が「カトリツクてきな」と読んでいるか、「カトリツクきやうてきな」と読んでいるかは、これでは判然としないが、後でリンクする初出が「カトリツク教的な」となっていることから後者で読むべきである。他にも、朔太郎が『「藍色の蟇」 跋――大手拓次君の詩と人物 萩原朔太郎 附 大手拓次訳 アルベール・サマン「秋」』(リンク先は私のブログ版。大手拓次の詩集「藍色の蟇」の電子化はブログ分割版サイト版縦書版も完備している)の中で「加特力教的」と「加特力」を使い分けて記載していることで決定的である。

「君がかはゆげなる机卓(つくゑ)の上に……」の詩は、大正一二(一九二三)年二月アルス刊の室生犀星の詩集「靑き魚(うを)を釣る人」に所収されている「朱(あけ)の小箱」である。但し、同詩集版とは表記に異同がある。以下に所持する昭和四二(一九六七)年新潮社刊の「日本詩人全集」第十五巻「室生犀星」から示す。

   *

 

   (あけ)の小箱

 

君がかはゆげなる卓(つくゑ)のうへに

いろも朱なる小箱には

なにをひめたまへるものなりや

われきみが窓べをすぎむとするとき

小箱まづ目にうつり

こころをどりてやまず。

そは、やはらかきりぼんのたぐひか

もしくば

うらわかき娘ごころをのべたまふ

やさしかるうたのたぐひか。

 

   *

「ヴアレンチノ」サイレント映画時代のハリウッドで活躍したイタリア出身のイケメン男優ルドルフ・ヴァレンティノ(Rudolph Valentino 本名:Rodolfo Alfonso Raffaello Piero Filiberto Guglielmi di Valentina d'Antoguolla 一八九五年~一九二六年)。当該ウィキによれば、『彼の魅力はそのエキゾチックな容姿で、『シーク』ではアラブ系の族長を、『血と砂』ではスペイン人の闘牛士を、『荒鷲』ではロシア人の貴族を演じ、同時代のセックス・シンボルとして絶大な人気を誇った。当時、劇場に出かける女性の多くが「彼がスクリーンから見つめる」という理由で綺麗に化粧をしていったという』とあるが、一九二六年、『胃潰瘍で』、『突然』、『倒れ』、『直ちに手術が行われたものの、術後に腹膜炎を併発し』て三十一歳の若さで亡くなった。『葬儀の際には』十『万人のファンがあつまり、後追い自殺するものまで出たという』。しかし、『彼がスターであったのは実質』僅か五『年間であった』とある。本篇の初出は昭和七(一九三二)年であるので、彼は既に没していた。

「林長二郞」戦前から戦後の長きに亙って日本映画界を代表する二枚目の時代劇スターとして活躍した長谷川一夫(明治四一(一九〇八)年~昭和五九(一九八四)年)の旧芸名の一つ。彼は昭和二(一九二七)年に歌舞伎役者から松竹下賀茂撮影所に入社し、歌舞伎の師匠から「林長二郎」の芸名を貰い、犬塚稔監督の「稚児の剣法」で銀幕デビューを果たした。当該ウィキによれば、『当時、時代劇映画の製作に』力を入れ『始めた松竹は、林を期待の新人スターとして、莫大な宣伝費をかけて売りだ』し『た。結果、この映画は若い女性の間で大人気となり、林は抜群の美貌に加え、若手時代劇スターを渇望していた松竹が社をあげて宣伝したことが功を奏し』、『たちまちスター俳優となった』。『同年、主演第』二『作目で』名監督『衣笠貞之助監督の『お嬢吉三』に出演。以来』、『衣笠とは大映時代までの約』五十『作品でコンビを組んだ。松竹時代では『鬼あざみ』『二つ燈籠』『鯉名の銀平』などの衣笠作品に主演、同時に美剣士スターとして大人気となった』とある。

「𢌞合」「めぐりあひ」。

 初出は昭和七(一九三二)年一月号『セルパン』であるが、真の初出形は筑摩版全集には載らない。詳しくは二〇一三年二月六日附の私のブログの「女のいぢらしさ 萩原朔太郎 (初出形)」を参照されたい。なんと! これが私のブログ・カテゴリ「萩原朔太郎」の第一号記事だったとは! まるで覚えてなかった! なお、「絕望の逃走」版は室生犀星の名に丸括弧がなく、しかもポイント落ちではなく、散文詩本文と同じポイントで、而も九字下げであることと、先に述べた「かたき」ルビがあること、以外は本文に異同はない。]

萩原朔太郎詩集「宿命」「散文詩」パート(「自註」附) 初夏の歌

 

   初 夏 の 歌

 

 今は初夏! 人の認識の目を新しくせよ。我々もまた自然と共に靑々しくならうとしてゐる。古きくすぼつた家を捨てて、渡り鳥の如く自由になれよ。我々の過去の因襲から、いはれなき人倫から、既に廢つてしまつた眞理から、社會の愚かな習俗から、すべての朽ちはてた執着の繩を切らうぢやないか。

 靑春よ! 我々もまた鳥のやうに飛ばうと思ふ。けれども聽け! だれがそこに隱れてゐるのか? 戶の影に居て、啄木鳥(きつつき)のやうに叩くものはたれ? ああ君は「反響(こだま)」か。老いたる幽靈よ! 認識の向ふに去れ!

 

[やぶちゃん注:太字は底本では傍点「◎」。「向ふ」はママ。初出は大正一五(一九二六)年六月号『日本詩人』。二段落目に幾つかの単なる誤字・誤植とも思われない、やや不審な異同があるので、以下に示す。こちらの太字は傍点「●」。

   *

 

 初夏の歌

 

 今は初夏! 人の認識の目を新しくせよ。我々もまた自然と共に靑々しくならうとしてゐる。古きくすぼつた家を捨てて、渡り鳥の如く自由になれよ。我々の過去の因襲から、いはれなき人倫から、既に廢つてしまつた眞理から、社會の愚かな習俗から、すべての朽ちはてた執着の繩を切らうぢやないか。

 靑春よ! 我々もまた鳥のやうに飛ばうと思ふ。けれども聽け! だれがそこに隱れてゐるのか? 戶の影に居て、喙木鳥(きつつき)のやうに叩くものはたれ? ああ君は「反響(すだま)」か。老ひたる幽虛よ! 認識の向ふに去れ!

 

   *

知らない方のためにに言っておくと、「反響」のルビ「すだま」は誤字・誤植ではない。「魑魅」「霊」などの漢字を当てて、古くから「山林・木石の精気から生じるとされた精霊。人面鬼身にして、よく人を迷わすという。ちみ(魑魅)」を指す。本邦のアニマチズム・アニミズムの零落したもので、しばしば同じ精霊の「木霊(こだま)」と同一視もされた(同時に「人の霊魂・たましい」の意にも用いた)。「虛妄の正義」版は太字は傍点「●」であること以外は、本詩集版と相同である。]

2022/01/20

毛利梅園「梅園介譜」 水蟲類 江蝦(ケンヱビ)前後二圖 / ハコエビ

 

Hakoebif

 

Hakoebib

 

江蝦【「けんゑび」・「鬼ゑび」・「かぶとゑび」。】

 

江蝦、其の身・殻、龍蝦(いせえび)に非(あらざ)るに、尤も堅く、たくましく、脊、三稜(さんりやう)にして、劔(つるぎ)の脊のごとく、形、蝦姑(しやこ)に似て、鬣(ひれ)なく、角(つの)の長さ、尺に至る。角、各々(おのおの)二つに合(がつ)せるがごとく、幷(なら)びつけり。身の長さ、尺に至る。魚戶(うをと/さかなや)、「鎌倉ゑび」と呼ぶは、非なり。「かまくら蝦」は龍蝦(イセヱビ[やぶちゃん注:左ルビ。])なり。此の者、其の腹裏、口の上に女面(をみなのめん)をあらはす。後の圖を見るべし。

 

乙未(きのとひつじ)十月廿八日、倉橋氏より、之れを送るを、眞寫す。

 

[やぶちゃん注:以上、底本の国立国会図書館デジタルコレクションのこちらの背部からの描写図見開き丁の解説。以下は次の見開き丁の腹部側の図のキャプション。]

 

   同 腹 之 圖

 

[やぶちゃん注:この素晴らしい図は、

十脚目イセエビ下目イセエビ科ハコエビ属ハコエビ Linuparus trigonus (Von Siebolt,1824)

である。「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」のハコエビのページを見られたい。それによれば、全長九十センチメートルを超える大型のエビとある(但し、後に掲げる他の記載でも、そんなに大きくはない。これは触角に先端からの長さであろう。そもそも大型のイセエビでも実体長四十センチメートルを超える個体はちょっと聴かないから)。頭胸部は箱形で(それが和名「箱蝦」の由来。学名命名は、ご覧の通り、オランダ人と偽って来日潜入した、かのドイツ人医師で博物学者のフィリップ・フランツ・バルタザール・フォン・シーボルト(Philipp Franz Balthasar von Siebold 一七九六年〜一八六六年)で、模式標本を持ち帰って新種記載した)、触角が太く、棒状を成す。分布は千葉県・島根県から九州。黄海・東シナ海・アフリカ東岸・オーストラリア東南岸。先に出たイセエビが、岩礁性海岸に多いのに対し、本種は水深七十メートルから百二十メートルの砂泥地に棲んでいる。ぼうずコンニャク氏によれば、『主に産地周辺で消費されている』。『刺し網、底曳き網などでとれるもので、イセエビよりも水っぽいとされ、評価が低い』とあり、『市場での評価』は『入荷は希。あまり高値とはならなかったが、珍しさもあって時に高値となることも』あるとあり、刺し網・底曳き網で漁獲されるとある。産地は静岡県・長崎県・宮崎県。『甲羅は厚みがあり、エビよりもカニを思わせる』が、『歩留まりは悪』く、『みそは少なく、身は水分が多いものの』、『ボリュームがある』とあり、『イセエビと比べると』、『ゆでて』も『弾力がなく、旨みがやや少なく感じる。熱を通すと締まって硬くなる』とある。また、『国産ハコエビには』近縁種の『オキナハコエビ』Linuparus sordidus も『知られる』とある(オキナワハコエビは「沖縄美ら海水族館」公式サイト内の「美ら海生き物図鑑」に(写真有り)、二〇〇三年に『うるま市沖から国内初記録となる個体が採集され、体全体が白いことから』、『新和名オキナハコエビの名が付けられた。ハコエビに比べ、やや深い水深約』四百~六百五十メートルからの『採集の記録がある。通常のハコエビとは、体色が白っぽいことや、第』二『触角が短いことなどから』、『容易に』識別出来るとあった)。

 次に当該ウィキを見る。『温暖で』、『やや深い海の砂泥底に生息し、食用にもなる大型種である。方言呼称としてゾウエビ(象海老)、ドロエビ(泥海老)などもある』。『成体の体長は』三十~四十センチメートル『ほどで、イセエビに匹敵する大型種である。甲は堅く、全面に小顆粒があり、つやがない。外見はイセエビにも似るが、イセエビに比べて棘や突起は少ない。頭胸甲の中ほどに頸溝があって、前後が明らかに仕切られる。頸溝より後ろでは背面中央と左右に計』三『本の稜(キール)が走り、体の断面が五角形をなす。腹部の各節には』一『本の横溝があるが、後半の第』四から第六『腹節では背面中央の稜線で中断される。体色はほぼ赤褐色だが、生体の甲の縁や関節部は黄白色で縁取られる』。『第』二『触角は扁平で先が尖り、体長と同じくらいの長さがある。イセエビ科は第』二『触角つけ根の関節から触角を後方に曲げられるのが普通だが、ハコエビ属は触角を後方に曲げられず、常に前方に突き出している。第』二『触角の間に細く短い第』一『触角がある。また、メスは第』五『歩脚の先端に小さな鉗をもつ』。『属名 Linuparus は、イセエビ属 Panulirus と同様にヨーロッパイセエビ属 Palinurus のアナグラムである。種小名 trigonusは「三つの角を持つ」という意味で背面の』三『稜に因み、和名もまた』、『その角張った体型が箱を想起させることに由来する。英名の一つ』である“Japanese spear lobster”は、『前に突き出た触角を槍に見立てたものである』。『アフリカ東岸から日本、ハワイ、オーストラリアまで、インド洋と西太平洋の熱帯・亜熱帯海域に広く分布する。日本では島根県・千葉県以西の沿岸域に分布する』。水深二十メートルから三百メートル『ほどのやや深い海の砂泥底に生息するが、日本近海では水深』七十~百二十メートル附近に『多い』。『日本では刺し網や底引き網などで漁獲され』、『食用になるが、イセエビやウチワエビほどの漁獲量はなく、市場に出回ることは少ない』。以下、ハコエビ属には四種が属するとして、前掲のオキナハコエビを含む学名が掲げられてある。なお、他に「旬の食材百科」の「ハコエビ Linuparus trigonus:生態や特徴と産地や旬」(学名が斜体でないのはママ)も画像が豊富で(別ページにも纏まってある)、一見に価値がある。先のウィキで述べている触角を後方に曲げることが出来ない物理的構造が拡大写真でよく判る。

「江蝦」の出所は不詳。「漢籍リポジトリ」で検索しても、二冊しか出てこない。検索結果では中文サイトに「江蝦」があるが、これは「川えび」の、先に候補としたヌマエビの類のようで(検索結果で「不審サイト」扱いなので、接続していないので、「日本沼蝦」という並列された文字列から推測)、どうも本種にこれを当てのは漢籍由来ではないようである。

「けんゑび」「劔海老」。

「かぶとゑび」「甲冑海老」。「兜海老」。

「其の腹裏、口の上に女面(をみなのめん)をあらはす。後の圖を見るべし。」この最後の「乎」は強意の助字と採り、「か」とは読まないことにした。所謂、すっかり流行らなくなった心霊写真と同じシミュラクラ現象(simulacrum)である。一応、私は、頭部を上にした状態で見えるような気がする。底本から最大でダウン・ロードしてトリミングしたものを掲げておく。違う方には、別に見えるかも知れないので、頭部を下にした画像も並べておく。

 

Hukubu1

 

Hukubu2

 

「乙未十月廿八日」天保六年十月二十八日はグレゴリオ暦一八三五年十二月十七日。

「倉橋氏」本カテゴリで最初に電子化した『カテゴリ 毛利梅園「梅園介譜」 始動 / 鸚鵡螺』に出る、梅園にオウムガイの殻を見せて呉れた「倉橋尚勝」であるが、今回、彼は梅園の同僚で幕臣(百俵・御書院番)であることが、国立国会図書館デジタルコレクションの磯野直秀先生の論文「『梅園図譜』とその周辺」(PDF)で判明した。]

毛利梅園「梅園介譜」 水蟲類 車ヱビ(クルマヱビ)・泥蝦(ノロマヱビ)の二種/ 前者「クルマエビ」・後者「ヌマエビ」の一種或いは「ヤマトヌマエビ」

 

[やぶちゃん注:底本のこちらからトリミングした。左手上部の鮮やかなそれは、既に電子化した「蝦蛄」の体幹尾部右方。大小二種だが、これ、画像を上手く分離出来ないので、二種を一緒とした。タイトルには、現在の知られたそれを採用した。二種の間には「*」を入れて記載内容を区別した。]

 

Kurumaebidoroebi

 

屋代(やしろ)「画帖」、

 斑節蝦【「くるまゑび」。「閩書(びんしよ)」。】

 蝦【一種。「くるまゑび」。】

 五色蝦【「くるまゑび」。】

 【「車ゑび」の小なるものを「さゑまき」と云ふ。「閩書」曰はく、『斑節蝦』と。】

 

申午(かのえむま)五月廿八日、眞寫す。

 

   *   *   *

 

「大和本草」曰はく、『青蝦』。

 

癸巳(みづのとみ)初夏十一日に、渚(みぎは)に、之れを捕へ、眞寫す。

 

「邵武府志(せうぶふし)」曰はく、『泥蝦。』【「のろまゑび」。】・

   【『田(た)・塘池(たうち)・沼(ぬま)の中(うち)に生ず』云〻。】

 

[やぶちゃん注:まず、右手のそれは言わずもがな、

軟甲綱十脚目根鰓(クルマエビ)亜目クルマエビ上科クルマエビ科クルマエビ属クルマエビ Marsupenaeus japonicus

である。詳しくは当該ウィキを見られたい。先にそちらの解説に注を附す。

『屋代「画帖」』江戸後期の御家人で右筆であった国学者屋代弘賢(ひろかた 宝暦八(一七五八)年~天保一二(一八四一)年)の「不忍文庫」の画譜か。現物を見たことがないので何とも言えない。

「斑節蝦」台湾ではこの名が生きており、正しく上記クルマエビを指す。サイト「台灣鮮魚網」の「澎湖明蝦(斑節蝦)」を見られたい。大陸では正式中文名を「日本囊對蝦」(繁体字表記に直した。以下同じ)とするが、俗称で「虎蝦」「花蝦」「斑節對蝦」とあった。

「閩書」明の何喬遠撰になる福建省の地誌「閩書南産志」。

「五色蝦」これはマズい。現行では、エビ上目イセエビ下目イセエビ科イセエビ属ゴシキエビ Panulirus versicolor がいるからである。「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」の同種のページをリンクさせておく。そもそもごく近くで観察すると、多少のグラーデションは認められるが、梅園の描いたようなそれこそ五色というのは、生体時では見られないので、ちょっと相応しい異名とは思われない。寧ろ、鮮やかな横縞と、茹でた際に紅色に変ずる過程をひっくるめての謂いならば、まあ、判らぬではない。

「車ゑび」寺島良安は「和漢三才圖會 卷第五十一 魚類 江海無鱗魚」の「車鰕」で、『大いさ四、五寸。皮、厚くして、節、隆(たか)く、褐白色の橫文(わうもん)、有り。之れを煮れば、紅に變ず。形、曲(かゞま)り、車輪のごとし。故に名づく。夏より出でて、秋冬、盛んに出でて、味、最も甘美。上品たり。』(私の訓読だが、一部を修正してある)と述べている通り、和名は腹部で腰を折って丸まった際、縞模様が車輪の輻(や)ように見えるからである。

『小なるものを「さゑまき」と云ふ』既に以前に注したが、再掲すると、上田泰久氏のサイト「食材事典」の「車海老(くるまえび)」のページに「サイマキ」の項があり、業者や調理人は十五センチメートル以上を「車海老」、十~十五センチメートルのものを「マキ」、それ以下を「サイマキ(鞘巻)」と呼び、 特に大きい二十センチメートル以上のものを「大車(おおぐるま)」と呼ぶとあって、『サイマキという言葉の由来ですが、昔、武士の腰刀の鞘(さや)に刻み目が付いていて、車海老の縞模様がこれに似ていたので、車海老の略称を鞘巻き(さやまき)と言った』のが、『なまって、サエマキ、サイマキとなり、これが小さな車海老の呼び方になった、という話です』とある。

「申午五月廿八日」天保五年五月二十八日はグレゴリオ暦一八三四年七月四日。

   *   *   *

 左手のちっちゃなエビだが、ちょっと同定に困った。それは、以下に見る通り、「大和本草」で言及しているが、そこでは海産のエビということになっているからである。しかし、以下の最後の引用のそれは、どう考えても、淡水産のエビであり、それを問題視することなしに、梅園が好きな釣りに行った折りかに、水辺で捕えたと言っているところから、これは純粋な淡水産のエビであろうと踏んだ。中記載の「渚」は「みぎは」で、海だけでなく、汽水域の潟及び淡水域の川・湖・池沼の端近くをこう呼ぶから、何ら、問題はない。益軒の説には不審な箇所もあるので、海産説は採らないこととする。そうなると、小さくて、色も形もどちらかというと染みであり、無批判に受け入れるわけではないが「ノロマ」な「エビ」、動きが相対的にゆっくりしているか、陸に揚げてしまうと、跳ねることをせず、這い歩こうとするという性質などを勘案すると、一つの候補は、

十脚目コエビ下目ヌマエビ科 Atyidaeに属するヌマエビ類

が挙げられるように思う。ところが、やっかいなことに、所謂、淡水産エビ類の中で、本邦本土に棲息しており、比較的、目につきやすい、所謂、代表的な「川えび」の類九種の内、「ヌマエビ」と称する種は実に五種もいるのである(サイト「E関心」の「川エビの種類を写真で見分けよう。淡水にすむ9種類。」に拠る種数に拠った。実際には以下のウィキの記載を読むに、ヌマエビの中でもよく似た別種がいて同定が難しいとあるから、実際にはもっといる)。待ちに待って今月五日に再開した「BISMaL ビスマル Biological Information System for Marine Lifeを用いて以下に示す(これがないと、守備範囲でない生物の希少種などは、自宅では学名もツリーも調べようがないのだ)。

ヌマエビ科ヒメヌマエビ亜科ヒメヌマエビ属ヒメヌマエビCaridina serratirostris

ヒメヌマエビ属ヤマトヌマエビ Caridina multidentata

ヒメヌマエビ属トゲナシヌマエビ Caridina typus

ヒメヌマエビ属ミゾレヌマエビCaridina leucosticta

ヌマエビ科カワリヌマエビ属ミナミヌマエビ Neocaridina denticulata

これらは幸いにして総て「ウィキペディア」があるので、和名の部分にそれぞれのリンクを張った。なお、最後の「ミナミヌマエビ」の記載に、二〇〇〇『年頃から本種の自然分布域外を含む日本各地においてカワリヌマエビ属のエビが収集されるようになった』とあり、二〇〇三『年には兵庫県夢前川水系で中国固有のヒルミミズ類の』一『種であるエビヤドリミミズ Holtodrilus truncatus が付着したカワリヌマエビ属のエビが発見され、釣り餌用に中国から輸入された淡水エビが川に逃げ出したことが示唆された』。『当初はこれらの外来エビがNeocaridina denticulataの亜種とみなされたため、日本で採集されたカワリヌマエビ属が』二『つのクレード』(clade:分岐群)『から構成されることに着目し、うち』、『関東以北に分布しない』一『つを日本固有亜種「Neocaridona denticulata denticulata 」として定義するべく研究が進められたが、その後』二『つのクレードに属するハプロタイプ』(haplotype:haploid genotype:半数体の遺伝子型)が、『それぞれ朝鮮半島・台湾・中国において発見され』、『日本の在来個体群を固有亜種として定義することはできなかった。このことから、本種の自然分布域外を含む日本各地に定着したカワリヌマエビ属の外来エビは別種であると考えられている』(二〇一八年現在)とあった。遺伝子の人為的な致命的攪乱は実に見えない目立たぬ小生物でも着実に起こっているのである。

 さて、それぞれの解説は読んで貰うとして、個人的には縦覧するに、この

「ノロマエビ」に該当しそうなのはヒメヌマエビ属ヤマトヌマエビ Caridina multidentata

と考える(下線太字は私が附した)。『成体の体長は』で三・五センチメートル、で四・五センチメートルほどあり、ヌマエビ類としては大きく(「川えび」にありがちな、小さくて透明ものでは、捕まえる気も起らないし、介譜に載せるのも、先に描いたアミやシバエビと差別化がし難いから、相対的に大きいものと考えてよい)、の方が大きい性的二型で、五センチメートルを超える個体もあり、『体色が濃く、体つきもずんぐりしている』。『複眼は黒く、複眼の間にある額角』(がっかく)『はわずかに下向きで、鋸歯状の棘が上縁に』十一~二十七個、下縁に四~十七個ある。五『対の歩脚は短くがっちりしていて、このうち前の』二『対は短く、先端に小さな鋏がある』。『体色は半透明の淡青色』・『緑褐色で、尾の中央に三角形の黒い小斑、尾の両端に楕円形の黒い斑点がある。体側には線状に赤い斑点が並ぶが、オスは点線状(・・・)、メスが破線状(- - -)である。また、個体によっては背中の真ん中に黄色の細い線が尾まで走る』(☜図をよく見られたい。あるぞ! この尾まで走る線状帯が!)。『スジエビやテナガエビ類は脚や眼柄、額角が長い。トゲナシヌマエビは体型や生息地が似ているが、やや小型で体側に斑点がないので区別できる』。『マダガスカル、フィジー、日本まで、インド太平洋沿岸の熱帯・亜熱帯域に広く分布する。日本での分布域は日本海側は鳥取県以西、太平洋側は千葉県以南の西日本とされる』。『海で生活する幼生期(後述)に、海流に乗って分散するため』、『分布域が広く、海洋上に孤立した島の小河川にも生息している』。『暖流が流れる海に面した川の、上流域の渓流や中流域に生息する』(梅園は旗本で江戸在住)。『九州以北に産するヒメヌマエビ属の中ではトゲナシヌマエビと並んで遡上する力が強い。川や海の改修工事や水質悪化、熱帯魚の業者による乱獲などで、野生の個体は減少している。ダムや堰の建設によって遡上が困難になり、生息域が狭まった川もある』。『食性は雑食性で、藻類、小動物、生物の死骸やそれらが分解したデトリタスなど何でも食べる。前』二『対の歩脚にある鋏で餌を小さくちぎり、忙しく口に運ぶ動作を繰り返す。小さなかたまり状の餌は顎脚と歩脚で抱きこみ、大顎で齧って食べる』。『夜に餌を探して動き出すが、昼間は水中の岩石や水草、落ち葉などの陰に潜む』。『捕獲する際は』、『それらの中にタモ網を差し込むと捕えることができる。通常はエビ類を水から出すと』、『腹部の筋肉を使ってピチピチと跳ねるが、ヤマトヌマエビは跳ねずに歩きだすのが特徴である』ときたもんだ! こいつでしょう!

『「大和本草」曰はく、『青蝦』』私の「大和本草卷之十四 水蟲 蟲之上 蝦」を見られたいが、そこで、

   *

河蝦〔かはえび〕、大にして足の長きあり、海ゑびより、味、よし。「杖つきゑび」と云ふ。山州淀川の名産なり。凡そゑびは腹外の水かきの内に子あり。蟹も腹の外に子あり。海中にゑび多し。凡そ蝦には毒あり、多食すべからず。瘡腫〔さうしゆ〕及び痘疹〔とうしん〕を患へる者、食ふ勿れ。久しくして味變じたる、尤も毒あり。雷公曰く、「鬚の無き者及び煮熟〔にじゆく〕して反つて白き者、大毒有り。」と。靑蝦〔あをえび〕、長さ一寸許り、海草の内に生ず。毒有り。食ふべからず。雞〔にはとり〕、之を食へば必ず死す。

   *

とあるのだが、そこで私は、

   *

「蝦には毒あり」一般的なエビ類全般には個体由来の有毒成分はない。過食に依る消化不良、本文にも出る他の病気で免疫力の低下した患者の雑菌やウィルスの経口感染若しくは腐敗毒(これも本文に「久しくして味變じたる」とある)による食中毒や寄生虫症、及び有毒プランクトン摂取によって毒化した個体の摂取、さらには甲殻類アレルギーなどの、稀なエビ食による食中毒の症例や症状を指していると考えておく。

   *

『雷公曰く、「鬚の無き者及び煮熟して反つて白き者、大毒有り。」と』の部分は中国の本草書「証類本草」(「経史証類備急本草」。本来は北宋末の一〇九〇年頃に成都の医師唐慎微が「嘉祐本草」と「図経本草」を合してそれに約六六〇種の薬と多くの医書・本草書からの引用文を加えて作ったものだが、後世に手が加えられている)の「巻第二序例下」の「淡菜」の「蝦」の項に全く同一の文が載る。「雷公曰」とあるが、これは中国最古の医学書「黄帝内経(こうていだいけい)」の元となった「素問」などで黄帝が対話する架空の神人である。

「靑蝦」この名と「一寸許り」(約三センチメートルほど)で海産とあるところからは、私などは北海道太平洋岸から根室野付半島までの浅いアマモ場などに棲息する薄緑色を呈する抱卵亜目タラバエビ科モロトゲエビ属ミツクリエビ Pandalopsis pacifica が頭に浮かんだ。大きさも一~五センチメートルで、成体の体色はすこぶる鮮やかである。但し、無論、ここに記されるような毒性はないし、これは前の「雷公」の注意書きに惹かれて、何らかの本草書からおどろおどろしい怪しげな叙述を引いたとしか私には思われない。なお、アオエビという和名を持つエビは実在するが、これは似ても似つかぬややグロテスクな(と私は思う)抱卵(エビ)亜目異尾(ヤドカリ)下目コシオリエビ上科 Galatheoidea に属する、最近は食用に供されるようになってきたところの、深海性大型種オオコシオリエビ Cervimunida princeps の仲間である Cervimunida jhoni に与えられているもので本記載とは無縁である。

   *

この注を変更する気はない。「杖つきゑび」というのは「ノロマエビ」と親和性のある異名であると思ったのだが、実は(後述)既出のテナガエビの別名だった。しかし、まあ、ここでは、益軒先生には御退場を願いたいと思う。

「癸巳初夏十一日」天保四年四月十一日。グレゴリオ暦一八三三年六月一日。

「邵武府志」邵武府(しょうぶふ)は元末から民国初年にかけて、現在の福建省南平市西部と三明市北部に跨る地域に設置された行政単位。この附近(グーグル・マップ・データ)。ばっちり、内陸で、閩江が貫流する。同書は明代に陳譲によって編纂された同地方の地誌で、一五四三年の序がある。あれえ? さてさて! またしても見つけてしまったよ、梅園先生! これも孫引きですよね? 「重修本草綱目啓蒙」の「四十 無鱗魚」の「鰕」からの(リンク先は国立国会図書館デジタルコレクションの同原本の当該部)。そこに、まず、『鰕は「かはゑび」の總名ナなり』と始まって、『ツヱツキヱビ【京。若州。】は、一名、テナガエビ【「本朝食鑑」】』とあって、「なるほど、手が長い彼らは、あたかも杖を突いているように見えるもんな。」と納得しつつ、以下を見てゆくと(一部読みを補填した。太字下線は私が附した)、

   *

一種、蕁常の「川ゑび」の形にして、色白き者を「シラサエビ」【備州。】と云ひ、一名「シラサイ」【豫州。】。是れ、白蝦なり。「八閩通志」に、『白蝦、江浦中に生ず。』と云ふ。常の「川ゑび」は淡靑黑色なり。豫州にて「テンス」と云ふ。是れ、靑蝦なり。琵琶湖の大ゑびは、大いさ、二寸に過ぎず、皮・鬚、硬く、下品なり。春・夏・秋、とると、云ふ。又、田中及び池澤に生ずる者、「ハタエビ」と云ふ。是れ、泥蝦なり。土州にて、長さ三寸許り、流水の泥中に生ずるを「ツチホリ」と云ふ。これも亦、泥鰕なり。「邵武府志」に、『蝦の小なる者、俗に泥蝦と呼ぶ。田・塘池・沼の中に生ず。之れを炒り熟せば、色の白き者は、殻、軟かに、色、紅なる者は、殻、硬し。又、食ふべし。』と云ふ。

   *

ってあるのを、見ちゃったんです……。

「泥蝦」ヌマエビの中国名としてもおかしくない。なお、「ドロエビ」は、十脚目抱卵亜目コエビ下目エビジャコ上科エビジャコ科クロザコエビ属クロザコエビ Argis lar の地方異名として各地にあるが、海産でモロ、エビエビしたもので本種ではあり得ない。「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」の同種のページを参照されたい。

「塘池」「池塘」に同じ。狭義には、湿原の泥炭層に出来る池沼を指す。]

萩原朔太郎詩集「宿命」「散文詩」パート(「自註」附) 建築の Nostalgia /(Nostalgia はローマンの斜体)

 

   建築の Nostalgia

 

 建築――特に群團した建築――の樣式は、空の穹窿に對して構想されねばならぬ。即ち切斷されたる球の弧形に對して、槍狀の垂直線や、圓錐形やの交錯せる構想を用意すべきである。

 この蒼空の下に於ける、遠方の都會の印象として、おほむねの建築は一つの重要な意匠を忘れてゐる。

 

[やぶちゃん注:底本はここ。初出は大正一一(一九二二)年十月号(創刊号)『文學世界』。題名がまるで違うので、以下に示す。

   *

 

 建築に於ける一つの重大なる構想

 

 建築――特に群團した建築――の樣式は、空の穹窿に對して構想されねばならぬ。卽ち切斷されたる球の弧形に對して、槍(やり)狀の垂直線や、圓錐形やの交錯せる構想を用意すべきである。

 この蒼空の下に於ける、遠方の都會の印象として、おほむねの建築は一つの重要な意匠を忘れてゐる。

 

   *

「虛妄の正義」は本篇に同じ。但し、筑摩版全集校訂本文を見る限り、標題中の「Nostalgia」は斜体ではない。]

萩原朔太郎詩集「宿命」「散文詩」パート(「自註」附) 海

 

   

 

 海を越えて、人々は向うに 「ある」 ことを信じてゐる。島が、陸が、新世界が。しかしながら海は、一の廣茫とした眺めにすぎない。無限に、つかみどころがなく、單調で飽きつぽい景色を見る。

 海の印象から、人々は早い疲勞を感じてしまふ。浪が引き、また寄せてくる反復から、人生の退屈な日課を思ひ出す。そして日向の砂丘に寢ころびながら、海を見てゐる心の隅に、ある空漠たる、不滿の苛ただしさを感じてくる。

 海は、人生の疲勞を反映する。希望や、空想や、旅情やが、浪を越えて行くのではなく、空間の無限における地平線の切斷から、限りなく單調になり、想像の棲むべき山影を消してしまふ。海には空想のひだがなく、見渡す限り、平板で、白晝(まひる)の太陽が及ぶ限り、その 「現實」 を照らしてゐる。海を見る心は空漠として味氣がない。しかしながら物憂き悲哀が、ふだんの浪音のやうに迫つてくる。

 海を越えて、人々は向うにあることを信じてゐる。島が、陸が、新世界が。けれども、ああ! もし海に來て見れば、海は我々の疲勞を反映する。過去の長き、厭はしき、無意味な生活の旅の疲れが、一時に漠然と現はれてくる。人々はげつそりとし、ものうくなり、空虛なさびしい心を感じて、磯草の枯れる砂山の上にくづれてしまふ。

 人々は熱情から――戀や、旅情や、ローマンスから――しばしば海へあこがれてくる。いかにひろびろとした、自由な明るい印象が、人々の眼をひろくすることぞ! しかしながらただ一瞬。そして夕方の疲勞から、にはかに老衰してかへつて行く。

 海の巨大な平面が、かく人の觀念を正誤する。

 

 

   海の憂鬱さは、無限に單調に繰返される浪の波動の、目的性のない律動運動を見ることにある。おそらくそれは何億萬年の昔から、地球の却初と共に始まり、不斷に休みなく繰返されて居るのであらう。そして他のあらゆる自然現象と共に、目的性のない週期運動を反覆してゐる。それには始もなく終もなく、何の意味もなく目的もない。それからして我々は、不斷に生れて不斷に死に、何の意味もなく目的もなく、永久に新陳代謝をする有機體の生活を考へるのである。あらゆる地上の生物は、海の律動する浪と同じく、宇宙の方則する因果律によつて、盲目的な意志の衝動で動かされてる。人が自ら欲情すると思ふこと、意志すると思ふことは、主觀の果敢ない幻覺にすぎない。有機體の生命本能によつて、衝動のままに行爲してゐる、細菌や蟲ケラ共の物理學的な生活と、我々人間共の理性的な生活とは、少し離れた距離から見れば、蚯蚓(みゝず)と脊椎動物との生態に於ける、僅かばかりの相違にすぎない。すべての生命は、何の目的もなく意味もない、意志の衝動によつて盲目的に行爲してゐる。

 海の印象が、かくの如く我々に敎へるのである。それからして人々は、生きることに疲勞を感じ、人生の單調な日課に倦怠して、早く老ひたニヒリストになつてしまふ。だがそれにもかかはらず人々は、尙海の向ふに、海を越えて、何かの意味、何かの目的が有ることを信じてゐる。そして多くの詩人たちが、彼等のロマンチツクな空想から、無數に美しい海の詩を書き、人生の讃美歌を書いてるのである。[やぶちゃん注:巻末の「散文詩自註」の当該部をここに配した。「却初」はママ。「劫初」の誤字。「老ひた」「向ふ」もママ。]

 

[やぶちゃん注:本篇中の太字「げつそり」は底本では傍点「ヽ」。「苛ただしさ」はママ。誤字か誤植か(後述)。なお、初出はちゃんと「苛だたしさ」となっている。なお、底本の見た目を見て戴く判るが、「ある」と「現實」の二箇所の前後は有意に空いていて、それぞれが、目立って見える。これは単なるこの本の見た目の版組みに過ぎないのだろうが、これは読者には相当に印象が異なる。それを再現するために、孰れも前後を一字分(半角では上手くならない)を空けておいた。

 初出は大正一五(一九二六)年六月号『日本詩人』。初出との異同は、冒頭の一段落が、

   *

 海を越えて、人々は向ふに 「ある」 ことを信じてゐる。島が、陸が、新世界が。

 しかしながら海は、一の廣茫とした眺めにすぎない。無限に、つかみどころがなく、單調で飽きつぽい景色を見る。

   *

と(「向ふ」はママ)、二段落で構成されていること(個人的には、断然、この二段落分割の方がいい)の他に大きな異同は、第四段落の終りの一文が、『砂草の枯れる磯山の上にくづれてしまふ。』となっていることだが、これは植字ミスに過ぎない。「虛妄の正義」は初出(前記の通りの冒頭が二段落に分離している)を整序したものだが、ここでも「苛ただしさ」となっている。これはやはり誤植ではない可能性が高い。所謂、萩原朔太郎の異様な思い込み偏執の誤った慣用表現なのだと私は見た。前にも言ったが、当時は、校正係や植字工が明らかな誤りを直してくれることがままあった。『日本詩人』の印刷所はそうだったのだろう。第一書房は詩人先生のお書きになったままを信条としたものか。但し、誤字だけでなく、表現までいじくってしまうトンデモ校正者もいた。信じられない方のために言っておくと、「校正の神様」の異名で称された神代種亮(こうじろたねすけ 明治十六(一八八三)年~昭和十(一九三五)年)がよく知られる。流行作家として引きも切らぬ状態にあった芥川龍之介は、特に彼に主作品集の校正を依頼していたが、その龍之介でさえ、彼が勝手に書き換えてしまうことを憤慨する書簡を書いている(サイト版「やぶちゃん編 芥川龍之介片山廣子関連書簡16通 附やぶちゃん注」の「書簡7 旧全集一二三六書簡 大正13(1924)年8月19日」を参照されたい)。

萩原朔太郎詩集「宿命」「散文詩」パート(「自註」附) 航海の歌

 

   航 海 の 歌

 

 南風のふく日、椰子の葉のそよぐ島をはなれて、遠く私の船は海洋の沖へ帆ばしつて行つた。浪はきらきらと日にかがやき、美麗な魚が舷側にをどつて居た。

 この船の甲板(でつき)の上に、私はいろいろの動物を飼つてゐた。猫や、孔雀や、鶯や、はつか鼠や、豹や、駱駝や、獅子やを乘せ、さうして私の航海の日和がつづいた。私は甲板の籐椅子に寐ころび、さうして夢見心地のする葉蘭の影に、いつも香氣の高いまにら煙草をくはへて居た。ああ、いまそこに幻想の港を見る。白い雲の浮んでゐる、美麗にして寂しげな植民地の港を見る。

 かくの如くにして、私は航海の朝を歌ふのである。孤獨な思想家の VISION に浮ぶ、あのうれしき朝の船出を語るのである。ああ、だれがそれを聽くか?

 

[やぶちゃん注:底本では太字は傍点「ヽ」、太字下線は「◎」である。「VISION」は横書で、半角ではない。

 初出は大正一一(一九二三)年十月号(創刊号)『文學世界』。異同は「寐ころび」が「寢ころび」、「煙草」が「烟草」、「白い雲」が「白い雪」(誤植? 後述する)、「港を見る。」が「港をみる。」、「あの」傍点が「●」である以外は同じ。「虛妄の正義」版は「寢ころび」、「煙草」、「港を見る。」、「あの」傍点は「●」と折衷型であるが、驚くのは「白い雪」のママであることである(言っておくと、筑摩版全集校訂本文では修正されてしまっている。その「校異」にそのままであることが記されてあるのである)。これは一体どういうことか? 可能性は一つしかないのではないか? 則ち、朔太郎は「虛妄の正義」に収録した散文詩原稿を、初出と同じ原稿(返却原稿であるのが一番それらしくなる)に変更を加えて第一書房に渡した。しかし、その元原稿自体で朔太郎が「白い雪の浮んでゐる」と誤記していたことに気づいていなかったというのが最もこの不審を解く事実ではなかろうか? 萩原朔太郎は、ものによっては、書きっぱなしで、掲載誌自体を読んでいなかった可能性もある。読んでいれば、手元に元清書或いは返却原稿があれば、当然、修正するだろう。或いは、雑誌を読んで、そうしなくてはと思ったものの、原稿返却にタイム・ラグがあり、うっかり忘れて、後のこの仕儀となってしまったものかも知れぬ。しかし――一語一句をゆるがせにしないことに五月蠅く拘ったはずの詩人にして、これは、あっちゃなんねえことではないか? ちょっと――ヒド過ぎだろ! 朔太郎!?!

萩原朔太郎詩集「宿命」「散文詩」パート(「自註」附) 郵便局

 

   郵 便 局

 

 郵便局といふものは、港や停車場やと同じく、人生の遠い旅情を思はすところの、悲しいのすたるぢやの存在である。局員はあわただしげにスタンプを捺し、人々は窓口に群がつてゐる。わけても貧しい女工の群が、日給の貯金通帳を手にしながら、窓口に列をつくつて押し合つてゐる。或る人々は爲替を組み入れ、或る人々は遠國への、かなしい電報を打たうとしてゐる。

 いつも急がしく、あわただしく、群衆によつてもまれてゐる、不思議な物悲しい郵便局よ。私はそこに來て手紙を書き、そこに來て人生の鄕愁を見るのが好きだ。田舍の粗野な老婦が居て、側の人にたのみ、手紙の代筆を懇願してゐる。彼女の貧しい村の鄕里で、孤獨に暮らしてゐる娘の許へ、秋の袷や襦袢やを、小包で送つたといふ通知である。

 郵便局! 私はその鄕愁を見るのが好きだ。生活のさまざまな悲哀を抱きながら、そこの薄暗い壁の隅で、故鄕への手紙を書いてる若い女よ! 鉛筆の心も折れ、文字も淚によごれて亂れてゐる。何をこの人生から、若い娘たちが苦しむだらう。我々もまた君等と同じく、絕望のすり切れた靴をはいて、生活(ライフ)の港々を漂泊してゐる。永遠に、永遠に、我々の家なき魂は凍えてゐるのだ。

 郵便局といふものは、港や停車場と同じやうに、人生の遠い旅情を思はすところの、魂の永遠ののすたるぢやだ。

 

 

 郵便局  ボードレエルの散文詩「港」に對應する爲、私はこの一篇を作つた。だが私は、その世界的に有名な詩人の傑作詩と、價値を張り合はうといふわけではない。[やぶちゃん注:巻末の「散文詩自註」の当該部をここに配した。]

 

[やぶちゃん注:本篇太字は底本では傍点「ヽ」。言っておくと、朔太郎は一時期、「生活」の「らいふ」「ライフ」というルビを振るのを異様に好み、旧作の再録時にそれをやらかした。私はこの「らいふ」「ライフ」だけは、反吐が出るほど、生理的嫌悪感を抱いている。

『ボードレエルの散文詩「港」』シャルル・ボードレール(Charles Baudelaire 一八二一年~一八六七年)の没後に出版された散文詩集「パリの憂鬱」( Le Spleen de Paris :一八六九年刊)の第四十一篇“ Le port ”。私の古いサイトの電子化「富永太郎詩集」から、同作の翻訳を示す(二〇〇五年公開のものなので、正字不全があるのは訂した)。

   *

 

  港(ボオドレエル)

 

 港は人生の鬪に疲れた魂には快い住家(すみか)である。空の廣大無邊、雲の動搖する建築、海の變りやすい色彩、燈臺の煌き、これらのものは眼をば決して疲らせることなくして、樂しませるに恰好な不可思議な色眼鏡である。調子よく波に搖られてゐる索具(つなぐ)の一杯ついた船の花車(きやしや)な姿は、魂の中にリズムと美とに對する鑑識を保つのに役立つものである。とりわけ、そこには、出發したり到着したりする人々や、慾望する力や、旅をしたり金持にならうとする願ひを未だ失はぬ人々のあらゆる運動を、望樓の上にねそべつたり、防波堤の上に頰杖ついたりしながら眺めやうとする、好奇心も野心もなくなつた人間にとつて、一種の神祕的な貴族的な快樂があるものである。

 

   *

壺齋散人氏のサイト「フランス文学と詩の世界」の『港 Le port:ボードレール「パリの憂鬱」』に原詩と壺齋氏の訳が載るので、併せて鑑賞されたい。

 初出は昭和四(一九二九)年三月号『若草』(大正 一四(一九二五) 年 十 月創刊。当初は『令女界』の姉妹雑誌として発行された。所謂、文学少女向けの雑誌であったが、創刊翌年には文芸雑誌として扱われるようになり、後の昭和十年代に入ると同誌は文芸雑誌として唯一の黒字雑誌と言われたと、松本和也氏の論文「昭和 10 年代における文芸時評(Ⅱ)――文芸雑誌『新潮』『文藝』『文学界』『若草』『作品』『文学者』」PDF)にあった)。総ルビである。大きな異同は、第三段落の「故鄕への手紙を書いてる若い女よ!」が「故鄕への手紙を書いてる若い女よ。」となっている点。ルビは大方、雑誌編集部が勝手に振ったものと思われるが、一応、振れるものを拾っておくと、「停車場(ていしやば)」、「遠國(ゑんごく)」、「側(かたはら)」、「鄕里(きやうり)」である。「虛妄の正義」版は「!」がなく「故鄕への手紙を書いてる若い女よ。」となっている他は、本詩集版と同じである。]

2022/01/19

毛利梅園「梅園介譜」 水蟲類 苗鰕(アミ) / アキアミ・アミ或いはオキアミ

 

[やぶちゃん注:底本のこちらからトリミングした。四個体が描かれてある。左手から伸びている鬚(触角)は、既に電子化した「蝦蛄」のそれで、下部にあるのは「クルマエビ」の長い鬚(触角)であって無関係である。下方の「醬蝦、細くして……」以下は「苗蝦」の補足注と考えられるので、途中に挟んだ。位置はブラウザの不具合を考えて再現していない。字の大きさも不揃いになるだけなので、以後、再現しないことにした。]

 

Ami

 

「楊氏漢語抄」に云はく、

   「細魚」は【「うるりこ」。】。「海糠魚」【「あみ」。】。

「漳州府志」及び「海物異名記」に曰はく、

苗蝦【「あみ」。又、「醬蝦」と云ふ。此者小にして、大、成らず。】

醬蝦、細くして針芒(しんばう/はりさき)のごとく、海人、醓(しほ)し、以つて、醬(ひしほ)と爲(な)す。淡紅色、云云。即ち、此の者なり。

「巻懷食鏡」、

  「海糠魚(あみ)」。

「本草」の「集解」、

  「糠蝦(あみ)」。

  「あびゆ」【総州。】。

 

壬辰八月十有四日、眞寫す。

 

[やぶちゃん注:これは図から見ても数種を含むと考えられ、

真軟甲亜綱フクロエビ上目アミ目 Mysida(糠蝦・醤蝦)

真軟甲亜綱ホンエビ上目オキアミ目 Euphausiacea(沖醤蝦)

甲殻亜門軟甲綱真軟甲亜綱十脚目根鰓亜目サクラエビ科アキアミ属アキアミ Acetes japonicus (秋醤蝦)

のエビ状を成すアミ類や、アミ類とは全くの別種であるオキアミ類、及び、アキアミのような小型のエビである。但し、細部が検証出来ないので、それぞれを同定比定することは出来ない。敢えて言うと、最上部のそれは下方の二種に比して大きく、色からも、生体ではないのであれば、アキアミの可能性が高いようにも思われる。下方は沿岸性の個体であろうから、オキアミ類よりもアミ類である可能性が高い。

 アミ目の類は、体は頭胸部・腹部・尾部に分かれ、頭部には発達した二対の触角と、可動の柄の先についた眼を持つ。また、尾部の先端は扇状に発達し、全体としてエビ類に酷似した外見であるが、アキアミのような小型のエビ類や、オキアミとは、分類学上は異なるグループに属し、分類学上、アミ目のアミ類は狭義のエビではなく、あくまで「アミ類」である。一般には「イサザ」「イサダ」とも呼ばれものの、この呼び名も、例えばツノナシオキアミ(オキアミ目ツノナシオキアミ Euphausia pacifica )のようなオキアミ類などに使われる場合があるので注意を要する。体長は最小種で二ミリメートル程で、一般には五ミリメートルから三センチメートル前後までの小型の種が殆どである。エビ類と異なり、胸肢の先が鋏状にならない。背甲は胸部前体を覆うものの、背側との癒合は第三胸節までである。アミ目は、尾肢内肢に一対の「平衡胞」と呼ばれる球状の器官を持つことで、他のグループと容易に識別出来る。大部分は海産で、一部の種が汽水域や湖沼にも棲息し、最も知られるアミ亜目アミ科イサザアミ属イサザアミ Neomysis intermedia のように、かなり塩分の低い環境にも適応した種や、純淡水産の種も存在する。但し、湖沼への出現は海跡湖に限られている。アミ目全体として見た場合の分布は、赤道から極地までの広い範囲に及ぶが、個々の種については、極めて分布域の狭いものも見られる(こはウィキの「アミ」に拠った)。

 和名が酷似するオキアミ類は、外見的には遊泳性のエビ類によく似ており、頭胸部は背甲に覆われ、腹部は六節からなる腹節と尾節から成る。胸部には八節があり、それぞれに附属肢があるが、エビを含む十脚類では、その前三対が顎脚となっているのに対して、オキアミ類では、そのような変形が見られない。第二・第三節が鉗脚として発達する例や、最後の一、二対が退化する例もある。それらの胸部附属肢の基部の節には、外に向けて樹枝状の発達した鰓を有するが、これが背甲に覆われていない点でもエビ類と大きな相違点であり、オキアミも分類学上は狭義のエビではなく、あくまで「オキアミ類」であるアミ類とはちょっと見では似て見えるものの、以上の固有の大きな器質的相違点があり、系統的にもやや遠いと考えられている。オキアミは全て海産で、その大部分が外洋の表層から中深層を遊泳して生活するプランクトンである。多くの場合、幼生はやや表層で生活し、成熟に連れて次第に深いところへ移動する傾向がある。また、浅海生の種もおり、それらは日周鉛直運動をする(ここはウィキの「オキアミ」に拠った)。

 一方、真正のエビ類であるオキアミは、日本を含む東南アジアの内湾域に生息する小型のエビで、食用や釣り餌などに利用される。標準和名に「アミ」と名がつくが、分類学上でも真正のエビの仲間であり、以上で述べた通り、イサザアミやコマセアミ(アミ目アミ科コマセアミ属コマセアミ Anisomysis ijimai )の属するアミ類ではなく、オキアミ類でもない。♂は一・一~二・四センチメートル、♀は一・五~三センチメートルで、体幹は前後に細長い。生時は体がほぼ透明であるが、尾扇に赤い斑点が二つある。死んだ個体の体色は濁ったピンク色になる。第二触角は体長の約二倍もあり、根元から四分の一ほどの所で折れ曲がる。五対ある歩脚のうち、第四及び第五歩脚が退化し、残りの三対は孰れも鉗脚である。アミ類やオキアミ類の歩脚は鉗脚化しないので、この点で区別出来る。インド南部・ベトナム・中国・黄海・日本の沿岸域に分布する。日本での分布域は秋田県以南で、富山湾・三河湾・瀬戸内海・中海・有明海などの内湾が多産地として知られる。プランクトンとして内湾の河口付近を大群で遊泳し、他のプランクトンやデトリタスを食べる。天敵は魚類、鳥類などである。生息地での個体数は多く、食物連鎖で重要な位置を占める。本邦での産卵期は五月から十月までで、♀は交尾後に六百八十個から六千八百個に及ぶ受精卵を海中に放出する。♂は交尾後に、♀は産卵後に死んでしまう。受精卵は直径〇・二五ミリメートルほどで緑色を呈し、数時間のうちに孵化し、ノープリウス(Nauplius)幼生を三期、プロトゾエア(Protozoea)幼生を三期、ゾエア幼生一期、ミシス(mysis)幼生を経た後、稚エビに変態する。本邦のの棲息地での研究によると、同種には九~十ヶ月ほど生存して越冬をする「越冬世代」と、夏の二~三ヶ月だけで一生を終える「夏世代」があり、一年のうちで二~三回、世代交代を行うことが判明している。越冬世代は五~七月に産卵し、生まれた夏世代が、七~十月に産卵して死ぬ。また、早いうちに誕生した夏世代から、もう一代、夏世代が生まれ、秋に越冬世代を産卵する場合もあり、越冬世代では、水温が下がると、成熟せずに休眠し、春に成長して産卵する。微小で弱性の性質をカバーし、子孫を残すための複雑巧妙なライフ・サイクルを持っていることが判る。現在、一九八〇年代頃から漁獲量は増え始めており、二〇〇〇年代には全世界で年間六十万トンも漁獲されている。一九八〇年代から一九九〇年代には養殖も試みられたが、現在では行われていない。曳き網などで漁獲され、漁の最盛期は八~十月頃で、和名通り、秋に多く漁獲される。塩辛にされることが多く、産地周辺で流通する。他にも佃煮・乾物・掻き揚げなどにも利用され、郷土料理として扱われることもある。朝鮮半島ではキムチの風味付けの一つとして、本種の塩辛が重要な材料となっている。嘗ては岡山県の児島湾が一大産地であり、西行の「山家集」にも(以下は所持する岩波古典文学大系を参考にして引用した)、

   *

   備前國に小嶋と申す島に渡りたりけるに、
   「糠蝦(あみ)」と申物を採る所は、おの
   おの、別々(われわれ)占(し)めて、
   長き「さを」に、袋をつけて、立て渡すなり。
   その「さを」の立て始めをば、「一のさを」
   とぞ名付けたる。なかに、齡(とし)高き
   あま人の立て初むるなり。「立つる」とて
   申(まうす)なる詞(ことば)、きゝ侍りし
   こそ、淚零れて、申すばかりなくおぼえて、
   詠みける

 立て初むる糠蝦採る浦の初(はつ)さをは

   罪(つみ)の中にも優(すぐ)れたるかな

   *

と詠まれ(正直、辛気臭い厭な歌だな)、「備前の漬アミ」として名高く、東京や関西へもさかんに送られたが、児島湾の干拓によって漁場が消滅したことで、衰退してしまった。食用以外に、釣り餌や養殖魚の飼料にも用いられる。本邦では、商品名には「アミエビ」という商品名が付くことがある。一般的には、冷凍物・塩漬物が流通の主体を占めており、冷凍物は「日本水産」等が生産し、塩漬物はキムチ料理に使用する物を流用するため、韓国からの輸入物が多い(以上は西行の歌引用以外はウィキの「アキアミ」に拠った)。

「楊氏漢語抄」「和名類聚鈔」にしばしば引用される、奈良時代の養老年間(七二〇年頃)に成立したと考えられている漢字辞書。漢語を和訳し、和名を附した国書であるが、現在は散逸。これも無論、「和名類聚鈔」に拠るもので、巻第十九「鱗介部第三十」の「龍魚類第二百三十六の以下(国立国会図書館デジタルコレクションのここを視認し、一部は推定で訓読した)。

   *

細魚(ウルリコ)【「海糠(アミ)」。附(つけたり)。】「漢語抄」に云はく、「細魚」【「宇留里古(うるりこ)」。】は海糠魚【「阿美」。今、案ずるに、出づる所、並(ならび)に未だ詳かならず。】

   *

この「うるりこ」については、小学館「日本国語大辞典」に「語源説」として、『捕えられ易いことから、ウルケ(癡)たコザカナ(小魚)の義〔比古婆衣・大言海〕。』とあった。「比古婆衣」は若狭小浜藩士にして国学者で本居宣長の没後の門人であった伴信友(ばんのぶとも 安永二(一七七三)年~弘化三(一八四六)年)の著になる考証随筆。全二十巻。続編九巻。一・二巻は弘化四(一八四七)年に、三・四巻は文久元(一八六一)年刊。以後の部分は明治四十年から四十二年(一九〇七年~一九〇九年)刊の「伴信友全集」に初めて収録された。古典や古代の制度・歴史・言語・故事などについての年来の研究を書きとめたもので、博引旁証が詳密を極める。死後、子の信近によって公表されたものである。以上の説は、「卷の四」の「白うるり」に中に出る。国立国会図書館デジタルコレクションの「伴信友全集」のこちらを見られたい。これを読むと、かなり説得力ある。

「海糠魚」「あみ」は小学館「日本国語大辞典」の「語源説」によれば、『⑴中国語「蝦米」から〔外来語辞典=荒川惣兵衛〕。⑵アミエビの上略〔守貞満稿・大言海〕。⑶ウナムシ(海虫)の義〔和訓栞・言葉の根しらべ=鈴木潔子』(きよこ)『〕。⑷アカムシの反〔名語記〕。⑸イマウミエビ(今産蝦)の義〔日本語原学=林甕臣』(はやしみかおみ)『〕。』とあった。同辞書では見出しを「あみ【醬蝦】」としつつ、本文で異名として、『こませ。あみえび。あみざこ。あみじゃこ。ぬかえび。』を掲げている。しかし、どうも以上の語源説は孰れも説得力を欠くように私には思われる。

「漳州府志」原型は明代の文人で福建省漳州府龍渓県(現在の福建省竜海市)出身の張燮(ちょうしょう 一五七四年~一六四〇年)が著したものであるが、その後、各時代に改稿され、ここのそれは清乾隆帝の代に成立した現在の福建省南東部に位置する漳州市一帯の地誌を指すものと思われる。同書の「介之屬」に『蝦姑【如蜈蚣而大。能食蝦、謂之蝦姑。】』とある。

「海物異名記」南唐の陳致雍に「晉江海物異名記」というのがあるが、これか? よく判らぬ。なお、「大和本草卷之十四 水蟲 蟲之上 苗蝦」の私の同書の注を是非、参照されたい。

「苗蝦」これは、稲生若水(いのうじゃくすい)著の三百六十二巻に、丹羽正伯らが増補した六百九十二巻が加わった、実に千五十四巻から成る本邦の博物学史上、画期的な本草書である「庶物類纂」(延享四(一七四七)年完成。漢籍類などから、動・植・鉱物の記事を集成・分類し、実物によって検証したもの)の「介屬卷之十」に「苗蝦」として立項されてある。「国立公文書館デジタルアーカイブ」のこちらで同巻を視認出来るが、その16及び17コマ目を見られたい。まず、冒頭で「苗蝦」とし、『一名「塗苗」【「福州府志」】一名「醬蝦」【同上】』『俗名「挨鼻(アミ)」【備前州】』とある。以下の解説では、蝦の中でも極めて小さなものを「苗蝦」と名づけるという記載がある。これを見て私は「苗」の意味がやっと腑に落ちた。さらに、同書には、

   *

苗蝦、「海物異名記」、謂醬蝦、細如針芒、海濱人鹽シテ以爲ㇾ醬【「漳州府志」】。

   *

とあるのを見出したによって、梅園は「海物異名記」なる書に直接当たらずに書いた可能性が見えてきた。後注で、実はこれらは孫引きだらけであることが判明する。なお、私の「大和本草卷之十四 水蟲 蟲之上 苗蝦」も参照されたい。梅園は、これも孫引き対象としていることが、またまたバレバレとなる。

「醬蝦」は「ひしほ」にする(塩漬けにする)エビの意である。

「巻懷食鏡」は「かんくわいしよくかがみ(かんかいしょくかがみ)」と読む。江戸中期の医師で後世派(ごせいは:李朱医学)の第一人者であった香月牛山(かつきぎゅうざん 明暦二(一六五六)年~元文五(一七四〇)年:筑前国生まれ。名は則実(則真とも)、牛山は号。儒学を福岡藩お抱えの本草家貝原益軒に、医学を藩医鶴原玄益に学び、三十歳で豊前中津藩小笠原氏の侍医となった。元禄一二(一六九九)年に職を辞し、京で医業を開くが、享保元(一七一六)年、招かれて小倉藩小笠原氏に仕えた。牛山は李東垣(りとうえん)・朱丹渓(しゅたんけい=朱震亨(しんこう))の医説を信奉し、また、貝原益軒の実証的研究方法の影響を受け、自らの医療経験に基づいて医説を唱え、治療においては温補の方剤を主とした「薬籠本草」ほか、多くの著書がある)が書いた本草書。早稲田大学図書館「古典総合データベース」のこちらで、没後の版だが、寛政二(一七九〇)年刊の版本が視認出来るのだが、分類が独特で、ぐちゃぐちゃにしか見えず、なんとも探し難かったが、やっと、同前のPDF一括版112コマ目に「海糠(アミ)魚」を見出した。而して、ここで、実は前の「海物異名記」云々までは、実はここからの丸写しでしかないことがバレた。そこに(訓読した)、

   *

海糠(アミ)魚 辟益[やぶちゃん注:牛山の本名の「啓益」の略字であろう。]、按ずるに、「本艸」の「集解」の「糠蝦」、是れなり。「漳州府志」に云はく、『「海物異名記」、之れを醤蝦と謂ひ、細くして針芒のごとし。海人、醓(しほ)して、以つて、醤(ひしほ)と爲(な)す。淡紅色』と云云。卽ち、此物也。其の氣味、性、蝦と相ひ同じ。便血・痔漏・瘡疥を發す。之れを患ふ人、食ふ勿れ。

   *

とあるのだ。而して、以上の記載は、梅園は、実は、それぞれの漢籍に拠ったのではなく、「庶物類纂」と、この「卷懷食鏡」から、お手軽に孫引きをしたに過ぎなかったのである。以前に述べた通り、梅園は絵は美事だが、書誌学的記載では、ボロが、これ、結構、多いのである。ちょっと残念だなぁ……。

「淡紅色」アキアミは生体ではほぼ透明だが、尾扇に赤い斑点が二つあり、しかも死んだ個体の体色は濁ったピンク色になる。挿絵の一番上のそれが、アキアミであると考えたのも、この死後変色からである。

『「本草」の「集解」、「糠蝦(あみ)」』「本草綱目」巻四十四の「鱗之三」の「鰕」の「集解」。「漢籍リポジトリ」のこちらの[104-51a]の影印画像を見られたい。そこに『凡有數種米鰕糠鰕以精粗名也』とある。

『「あびゆ」【総州。】』不詳。千葉にこの「アミ」の地方名が生き残っていたら、是非、お教え願いたい。

「壬辰八月十有四日」天保三年八月十四日。グレゴリオ暦では一八三二年九月十一日。]

萩原朔太郎詩集「宿命」「散文詩」パート(「自註」附) 神々の生活

 

   神 々 の 生 活

 

 ひどく窮乏に惱まされ、乞食のやうな生涯を終つた男が、熱心に或る神を信仰し、最後迄も疑はず、その全能を信じて居た。

「あなたもまた、この神樣を信仰なさい。疑ひもなく、屹度、御利益がありますから。」臨終の床の中でも、彼は逢ふ人每にそれを說いた。だが人々は可笑しく思ひ、彼の言ふことを信じなかつた。なぜと言つて、神がもし本當の全能なら、この不幸な貧しい男を、生涯の乞食にはしなかつたらう。信仰の御利益は、もつと早く、すくなくとも彼が死なない前に、多少の安樂な生活を惠んだらう。

「乞食もまた神の恩惠を信ずるか!」

 さう言つて人々は哄笑した。しかしその貧しい男は、手を振つて答辯し、神のあらたかな御利益につき、熱心になつて實證した。例へば彼は、今日の一日の仕事を得るべく、天が雨を降らさぬやうに、時時その神に向つて祈願した。或はまた金十錢の飯を食ふべく、それだけの收入が有り得るやうに、彼の善き神に向つて哀願した。そしてまた、時に合宿所の割寢床で、彼が溫き夜具の方へ、順番を好都合にしてもらへることを、密かにその神へ歎願した。そしてこれ等の祈願は、槪ねの場合に於て、神の聽き入れるところとなつた。いつでも彼は、それの信仰のために惠まれて居り、神の御利益から幸福だつた。もちろんその貧しい男は、より以上に「全能なもの」を考へ得ず、想像することもなかつた。

 人生について知られるのは、全能の神が一人でなく、到るところにあることである。それらの多くの神々たちは、野道の寂しい辻のほとりや、田舍の小さな森の影や、景色の荒寥とした山の上や、或は裏街の入り込んでゐる、貧乏な長屋の露路に祀られて居り、人間共の佗しげな世界の中で、しづかに情趣深く生活して居る。

 

 

 神々の生活  人間と同じく、神々にもまた種々の階級がある。そしてその階級の低いものは、無智な貧しい人々と共に、裏街の家の小さな神棚や、農家の暗い祭壇や、僅かばかりの小資本で、ささやかな物を賣つて生計してゐるところの、町々の隅の駄菓子屋、飮食店、待合、藝者屋などの神棚で、いつも佗しげに生活してゐる。日本の都會では、露路の至るところに、小さな佗しげな祠(ほこら)があり、狐や、猿や、大黑天や、鬼子母神や、その他の得體のわからぬ神々が、信心深く祭られてゐる。そして田舍には、尙一層多くの神々が居る。すべての農民等は、邸の中に氏神と地祖神を祭つて居り、田舍の寂しい街道には、行く所に地藏尊と馬頭觀音が安置され、暗い寂しい竹藪の陰や、田の畔(くろ)の畦道(あぜみち)每には、何人もかつてその名を知らないやうな、得體のわからぬ奇妙な神々が、その存在さへも氣付かれないほど、小さな貧しい祠(ほこら)で祀られてゐる。

 すべて此等の神々を拜むものは、その日の糧に苦しむほど、憐れに貧しい小作人の農夫等である。或はその家族の女共である。都會に於ても同じやうに、かうした神々に供物を捧げる人々は、槪ね皆社會の下層階級に屬するところの、無智で貧しい人々である。

「原則として」と小泉八雲のラフカヂオ・ヘルンが評してゐる。「かうした神々を信ずる人は、槪して皆正直で、純粹で、最も愛すべき善良な人々である。」と。それから尙ヘルンは、かかる神神を泥靴で蹴り、かかる信仰を讒罵し、かかる善良な人々を誘惑して、キリスト敎の僞善と惡魔を敎へようとする外人宣敎師を、仇敵のやうに痛罵してゐる。だがキリスト敎のことは別問題とし、かうした信仰に生きてゐる人々が、槪して皆單純で、正直で、善良な愛すべき人種に屬することは、たしかにヘルンの言ふ如く眞實である。此等の貧しい無智の人たちは、實にただ僅かばかりの物しか、その神々の恩寵に要求して居ないのである。田舍の寂しい畔道で、名も知れぬ村社の神の、小さな祠(ほこら)の前に額づいてゐる農夫の老婆は、その初孫の晴着を買ふために、今年の秋の收穫に少しばかりの餘裕を惠み給へと祈つてゐるのだ。そして都會の狹い露路裏に、稻荷の鳥居をくぐる藝者等は、彼等の弗箱である客や旦那等が、もつと足繁く通ふやうに乞うてるのである。何といふ寡慾な、可憐な、愼ましい祈願であらう。おそらく神々も祠の中で、可憐な人間共のエゴイズムに、微笑をもらしてゐることだらう。だがその神々もまた、さうした貧しい純良な人と共に、都會の裏街の露路の隅や、田舍の忘られた藪陰などで、佗しくしよんぼりと暮して居るのだ。常に至る所に、人間の生活があるところには、それと同じやうな階級に屬するところの、樣々の神々の生活がある。そしてその神々の祠(ほこら)は、それに祈願をかける人々の、欲望の大小に比例してゐる。ほんの僅かばかりの、愼(つつ)ましい祈願をかける人々の神々は、同じやうに愼(つつ)ましく、小さな些(ささ)やかな祠(ほこら)で出來てる。人生の薄暮をさ迷ひ步いて、物靜かな日陰の小路に、さうした佗しい神々の祠を見る時ほど、人間生活のいぢらしさ、悲しさ、果敢なさ、生の苦しさを、佗しく沁々と思はせることはないのである。[やぶちゃん注: 巻末の「散文詩自註」の当該部をここに配した。太字傍線「しよんぼり」は底本では傍点。因みに、ここで朔太郎が引用・略述している小泉八雲の言葉は、如何にも八雲の言いそうなことではあるが、その引用原本が何であるのか、私には不審なことによく判らない。私はネット上で、恐らく初めて、小泉八雲の来日以後の全作品(第一書房版「小泉八雲全集」に拠る)を元に全翻訳の電子化注をブログ・カテゴリ「小泉八雲」で二〇二〇年一月に完遂しているのだが、朔太郎が括弧書きで引用するような記載を今のところ見出すことが出来ない。判ったら、追記する。但し、小泉八雲がここに書かれているような本邦の信仰への強い親愛と、キリスト教への嫌悪感を持っていたことは確かである。因みに、萩原朔太郎には「小泉八雲の家庭生活 室生犀星と佐藤春夫の二詩友を偲びつつ」(昭和一六(一九四一)年九・十月号『日本女性』に連載)という作品がある(リンク先は二〇一三年五月一日に公開した私の古い電子テクスト)。]

 

[やぶちゃん注:本篇の太字「あらたかな」は底本では傍点「ヽ」。

 初出は昭和四(一九二九)年六月号『新文學準備俱樂部』。初出及び「虛妄の正義」では、「臨終の床の中でも、……」の部分が改行されて独立段落ある以外は大きな異同はない。]

2022/01/18

毛利梅園「梅園介譜」 水蟲類 海鰕(イセエビ) / イセエビ

 

[やぶちゃん注:底本のこちら。優れて大振りに描かれた大作で、個人的には画像サイズを百%にしたかったが、かなり大きな私のものを含め、多くの方のディスプレイからは、はみ出してしまうので、五十%で我慢した(【夜に追記】実はそうではなく、このブログでは自動的にサイズが小さくなるのであった。原サイズを見たい方は、これ。やっぱ、ええな!)。電子化は右上・下方(二箇所)・左上の順に起こした。但し、今回の文章は、随所に不審があり、正常に訓ずることが難しい。かなり私自身が勝手に語を挿入した箇所も多いので、必ず図譜の記載と対照して読まれたい。

 

Bsiseebi

 

「多識」

  海鰕【「いせゑび」。「うみゑび」。「かまくらゑび」。】紅鰕【藏噐。】

    鰝(かう)【「尓雅」。】

此者、國俗、春盤(しゆんばん)の飾(かざり)に之れを用ふ。淺草及び神田、又、所々の「年の市」に多く賣る。伊勢より、多く鹽(しほ)に和して送る。故に「伊勢ゑび」と云ふ。鎌倉よりも多く出だす。故に又、「かまくらゑび」と云ふ。

 

「大和本草」曰はく、『凡そ、蝦には毒あり、多食すべからず。瘡腫(さうしゆ)及び痘疹(とうしん)を患へる者、食ふ勿れ。久しくして、味、變じたる、尤も毒あり。雷公曰く、「鬚の無き者、及び、煮熟(にじゆく)して、反(かへ)つて白く色の変ずる者、大毒(たいどく)有り。」と。靑蝦(あをえび)は、海草の中に生ず。毒、有り。食ふべからず。雞(にはとり)、之れを食へば、必ず、死す。』と。又、海江に生ずる「ゑび」と「荏ごま」と[やぶちゃん注:「合はせて」の脱か。]食ふべからず。荏胡麻の油に[やぶちゃん注:「鰕を」の脱か。]煎(いり)製する豆腐、食ふべからず。人を、大いに毒し、立つに、腹痛し、甚だしければ、死に至る。救ふ術(すべ)なし。又、傘の紙、桐油紙に包み、遠くに寄す時は、必ず、大毒有り。

 

甲午(きのえむま)正月十五日、眞寫す。

 

王世懋(わうせいぼう)「閩部疏(びんぶそ)」曰はく、「龍蝦」【「いせゑび」。「かまくらゑび」。】

蝦【「和名抄」に、『ヱビ』。「本朝式」に「海老」の字を用ゆ。「神祇式」に「魵」の字を用ゆ。「本草綱目」に出づ。鰕、和漢典に「ゑび」は惣名(さうめい)なり。諸州、有りといへども、伊勢及び相州鎌倉、名産なり。故に「いせゑび」・「かまくら」の名あり。其の殻、紅にして、冬、殻を代はる者を「ヤワラ」と云ふ。南海、大なる者、最もあり。「延喜式」に伊勢・摂津・和泉の國より貢す。古へより、賀壽の蓬來盤中に置き、又、門松の飾りとす。皆老(かいらう)をしとふ壽祝の義なり。】

 

[やぶちゃん注:抱卵(エビ)亜目イセエビ下目イセエビ上科イセエビ科イセエビ Panulirus japonicusと同定してよかろう。梅園も参照していることが判る、私の「大和本草卷之十四 水蟲 蟲之上 海蝦」を参照されたい。なお、ウィキの「イセエビ」によれば、『日本列島の房総半島以南から台湾までの西太平洋沿岸と九州、朝鮮半島南部の沿岸域に分布する。かつてはインド洋や西太平洋に広く分布するとされたが、研究が進んだ結果、他地域のものは別種であることが判明した』とある。一般人はデカい海老は、直ぐに「イセエビ」と呼ぶ傾向がある。素人目で見たって明らかに違う種であることが判る別種を、何でも「イセエビ」と言いたがるのは、一種の生物学的阿呆ファシズムの悪しき症例である。なお、私の「日本山海名産図会 第三巻 海鰕」もお薦め!

「多識」前回既出の林羅山道春が書いた辞書「多識編」。慶安二(一六四九)年の刊本があり、それが早稲田大学図書館「古典総合データベース」にあったので、調べたところ、「卷四」のこちらに「海鰕」の項があり、そこに「海鰕【「宇美恵比」。今、俗に云く、「伊世恵比」。】」とあった。

『海鰕【「いせゑび」。「うみゑび」。「かまくらゑび」。】』そうさな、私の「鎌倉攬勝考卷之一」の「物産」がいいか。ちょうど、そこは、幸いにして、ブログ版でも公開しているので、すぐに見るには、「鎌倉攬勝考卷之一 物産 / 全テクスト化・注釈完了」がよかろう。そこでは、寺島良安の「和漢三才圖會 卷第五十一 魚類 江海無鱗魚」の「紅蝦」(イセエビ相当)を、原文・図・訓読及び私の注もひっくるめて引用しておいたから、こりゃ、もう、完璧だわい。

「藏噐」「本草綱目」で時珍が盛んにその記録を引用する唐の本草家陳蔵器のこと。「本草拾遺」(全十巻・七三九年成立)は本草学の古い名著とされる。

「鰝(かう)」イセエビなどの大きな海老を指す漢語である。本邦では、これで「いせえび」とも読ませているが、正しい訓とは言えない。大修館書店の「廣漢和辭典」でも意味では、あくまで『おおえび』である。こんな漢字を「いせえび」と読むんだと、ほくそ笑んでいる漢検馬鹿がいた。哀れなもんだ。

「尓雅」中国の古字書「爾雅」(じが)の略字。漢の学者らが、諸経書、特に「詩経」の伝注を集録したものとされる。全体が十九の篇から成り、「釈詁」篇は古人が用いた同義語を分類し、「釈言」は日常語を、「釈訓」はオノマトペを主とする連綿語(二音節語)などの同義語を分類しており、以後の「釈親」・「釈宮」・「釈器」・「釈楽」・「釈天」・「釈地」・「釈丘」・「釈山」・「釈水」・「釈草」・「釈木」・「釈蟲」・「釈魚」・「釈鳥」・「釈獣」・「釈畜」は、事物の名前や語義を解説している。古語を、用法と種目別に分類・解説した最古の字書で、現在も経書の訓詁解釈の貴重な史料であり、注釈書としては、晉の郭璞注と宋刑昺(けいへい)の疏を合わせた「爾雅注疏」が最も知られる。古くより、周公旦、又は、孔子とその弟子の手が加えられたという説があったが、現在は否定されている。

「春盤」「大和本草卷之十四 水蟲 蟲之上 海蝦」の私の「春盤」の注を参照されたい。

『「大和本草」曰はく、『凡そ、蝦には毒あり、多食すべからず。瘡腫(さうしゆ)及び痘疹(とうしん)を患へる者、食ふ勿れ。久しくして、味、變じたる、尤も毒あり。雷公曰く、「鬚の無き者、及び、煮熟(にじゆく)して、反(かへ)つて白く色の変ずる者、大毒(たいどく)有り。」と。靑蝦(あをえび)は、海草の中に生ず。毒、有り。食ふべからず。雞(にはとり)、之れを食へば、必ず、死す。』と』は「大和本草卷之十四 水蟲 蟲之上 蝦」を参照されたいが、正確な引用ではない。以下の出所不明の部分など、どうも梅園はこうした書誌学的な引用の正確さに欠けるところが随所で見受けられる。そうしたバイアスをかけて読まれたい。

『海江に生ずる「ゑび」と「荏ごま」と[やぶちゃん注:「合はせて」の脱か。]食ふべからず。荏胡麻の油に[やぶちゃん注:「鰕を」の脱か。]煎(いり)製する豆腐、食ふべからず。人を、大いに毒し、立つに、腹痛し、甚だしければ、死に至る。救ふ術(すべ)なし。又、傘の紙、桐油紙に包み、遠くに寄す時は、必ず、大毒有り。』以上の引用元をご存知の方はお教え願いたい。まず、縦覧してみたが、「大和本草」ではないようである。他に「本草綱目啓蒙」なども調べたが、どうもないようだ。「漢籍リポジトリ」の「本草綱目」の四十四の「鱗之三の[104-51a]の「鰕」には毒性(但し「小毒」とする。しかし、その解説では『氣味。甘溫、有小毒。【詵曰、生水田及溝渠者有毒。鮓内者尤有毒。藏器曰、以熱飯盛宻器中作鮓食、毒、人至死。弘景曰、無鬚及腹下通黒、并、煮之色白者、並不可食。小兒及雞狗食之脚屈弱。鼎曰、動風發瘡疥冷。積源曰、動風熱有病人勿食。】』とある。しかし、そもそもイセエビで、死に至る強毒個体というのは、私は聴いたことがない)が語られてあるが、ここの内容とは御覧の通り、一致を見ない。第一、ここはエゴマ(シソ目シソ科シソ亜科シソ属エゴマ Perilla frutescens var. frutescens )の種から採った油との「食い合わせ」で、どうも胡散臭い。

「甲午(きのえむま)正月十五日」天保五年一月十五日はグレゴリオ暦一八三四年二月二十三日。

『王世懋(わうせいぼう)「閩部疏(びんぶそ)」』明の政治家王世懋(一五三六年~一五八八年)の著になる「閩」=福建省の地誌。原文は「中國哲學書電子化計劃」のここにある中の、ここの影印本の八行目下方から。

   *

而最奇者龍蝦、置盤中猶蠕動、長可一尺許。其鬚四繚、長半其身、目睛凸出、上隱起二角、負介昂藏、體似小龍、尾後吐紅子、色奪榴花、眞奇種也。

   *

中国産なので同定には慎重になるが、この内容は分布と場所からみて、イセエビと採って無理がないようには見える。イセエビは中文ウィキで「日本龍蝦」と表記している。但し、中文ではイセエビ属 Panulirus を「龍蝦屬」としており、同属は世界で二十二種を数えるから、やはり同定比定するのは躊躇される(中国産イセエビ属を調べるのは面倒なので、悪しからず)。

『「和名抄」に、『ヱビ』』「倭名類聚抄」には、巻第十九の「鱗介部第三十」の「龍魚類第二百三十六」のここに(リンク先は国立国会図書館デジタルコレクションの寛文七(一六六七)年刊本)、

   *

鰕(エヒ)  七卷「食經」に云はく、『鰕【音「遐(カ)」。和名「衣比」。俗に「海老」の二字を用ゆ。】の味、甘、平にして、毒、無き者なり。』と。

   *

とある。

「本朝式」「延喜式」のこと。

「神祇式」「延喜式」の巻一から巻十までの神祇官関係の格式(律令の施行細則相当)。

「魵」(音「フン」元は斑(まだら)・斑点を持つ魚類を指すが、それが目立つことからエビ類の総称となった。

『「本草綱目」に出づ』これは先に示したエビ相当の「鰕」が載ることを言っているだけのこと。

『冬、殻を代はる者を「ヤワラ」と云ふ』不審。イセエビの脱皮時期は日長の影響を強く受けて決まり、日長が短い晩秋から冬は脱皮頻度が低下するからである(「三重県」公式サイト内の「今日のイセエビ」を参照した)。「ヤハラ」は恐らく「やはら」で、「やはらかし」由来と考えてよい。脱皮しばかりのイセエビの外骨格は、身と一緒に生で食べられるほど、柔らかいからである。

「しとふ」「慕(した)ふ」に同じ。]

毛利梅園「梅園介譜」 水蟲類 蝦一種(シバヱビ) / シバエビ

 

Sibaebi

 

[やぶちゃん注:巻頭見開きの図の最後。右端・上部からはみ出している記事や図は既に前の二つの電子化注で解説してあるので略す。言っておくが(二度と言わない)、「えび」は歴史的仮名遣は「えび」でいい。「ヱヒ」(ヱビ)「ゑび」は、皆、梅園の誤りである。

 

「松江府志(しやうかうふし)」に曰はく、「青蝦」、又、「對蝦」〔しばゑび。〕

「多識扁」、「天鰕」。

蝦一種(しばゑび)〔「芝蝦」〔江戶方言。〕。〕

 

壬辰(みづのえたつ)蠟月十五日眞寫。

 

[やぶちゃん注:十脚(エビ)目根鰓(クルマエビ)亜目クルマエビ上科クルマエビ科ヨシエビ属シバエビ Metapenaeus joyneri である。当該ウィキによれば、『新潟県・東京湾以南の西日本、黄海、東シナ海、台湾までの東アジア沿岸域に分布する』が、インド洋から『太平洋に広く分布するヨシエビ属の中では分布が狭い部類とされる』。『成体の体長は』一~一・五センチメートル程度で、『クルマエビ』(クルマエビ上科クルマエビ科クルマエビ属クルマエビ Marsupenaeus japonicus )『より小さく、体型も細い。額角はクルマエビ科』Penaeidae『としては比較的短く、やや下向きにまっすぐ伸び、上縁だけに7-8個の歯がある。甲は比較的薄くて軟らかく、上面を中心に細かい毛がある。同じヨシエビ属のヨシエビ』(Metapenaeus ensis )『やモエビ』(Metapenaeus moyebi )『とは区別しにくいが、新鮮な個体は半透明の淡黄色で、全身に藍色の小斑点があり、尾肢が青緑色をしている』。『水深』十~三十メートル『ほどの、内湾の泥底に好んで生息する。シバエビという和名はかつて東京・芝浦で多く漁獲されたことに由来する』が、『和名の由来となった芝浦では埋立、汚染、漁獲過多などが重なり』、二十『世紀後半頃には殆ど漁獲されなくなった』。『夜は海底付近を泳ぎ回って活動し、昼は砂泥に潜っている。食性は肉食性で、貝類や他の甲殻類を捕食する。繁殖期は夏で、幼生から成長した稚エビが夏から秋にかけて干潟で見られる。成長した稚エビは秋が深まると群れをなして深場に移る。寿命は』一年から一年半で、『産卵後にはオスメスとも死んでしまう』。『クルマエビと同様』、『有明海や三河湾など』の『大規模な内湾が多産地として知られる。漁の盛期は冬だが、西日本で冬にまとまって漁獲されるエビは本種だけである。底引き網やエビ刺し網で漁獲される』『有明海では伝統漁法の「あんこう網」』(「佐賀市」公式サイト内の「有明海の伝統的漁法について」に、有明海は『干満の差が日本一大きいため、潮流が速くなることを逆手にとった有明海独特の漁法があ』るとした冒頭に、「あんこう網漁」が掲げられ、魚のアンコウ(鮟鱇)が口を開けた姿に似た網で、一般に大潮の引き潮時を中心に操業される。潮流に乗って移動する魚介類を漁獲するもので、主に六角川・早津江川河口とその沖合域が主な漁場となっているとあった。海中での網の模式図は島原沖におけるアンコウ網調査」PDF)にあるので見られたい)『で、ワラスボ』(スズキ目ハゼ亜目ハゼ科ワラスボ亜科ワラスボ属ワラスボ Odontamblyopus lacepedii )『やウシノシタ類』(新鰭亜綱棘鰭上目カレイ目カレイ亜目ウシノシタ上科ササウシノシタ科 Soleidae及びウシノシタ科 Cynoglossidaeに属するウシノシタ類)『などと共に漁獲されている』。『クルマエビより小振りだが』、『味は良く、重要な漁業資源となっている。刺身、塩茹で、唐揚げ、天ぷら、掻き揚げなど様々な料理に使われる。また、マダイなど大型肉食魚の釣り餌として利用されることもある』。二〇一三年に、『「シバエビ」として出していたメニューが実際はバナメイエビ』(クルマエビ科 Litopenaeus 属バナメイエビ Litopenaeus vannamei 。本来は東太平洋原産でメキシコのソノラ州からペルー北部に至る沿岸であり、本邦には棲息しない。年間を通じて水温が摂氏二十度以上の海域にのみ分布するが、現在はタイやマレーシア・インドネシアなどで養殖されている。)『だったという虚偽表示』(後に実際は誤表示だったともされるが、確信犯で出していたケースもある。ウィキの「バナメイエビ」の方を参照されたい)『が日本で問題となった』ことがあるが、『バナメイエビは業界の慣例として「シバエビ」と呼ばれ』、代用種と『されることがあり、価格差もあまりなかった』とあるが、食感はまるで違う(バナメイエビの方がシバエビより大きく、ぷりぷりしている。加工物でない限り、料理人が誤ることは私はないと考える)。

「松江府志」は中国の松江県(現在の上海及び松江)の地方年代記・地誌。南宋及び元代に最初に別々なものとして書かれて以後、合本となり、後代の明や清に於いても増補されてきた。

「青蝦」「對蝦」については、「維基文庫」の「欽定古今圖書集成」の方輿彙編‎の「職方典」の第七百巻の松江府物產考二」に、この「松江府志」から引用したと思しい、『青蝦 大如掌。俗稱「對蝦」。三、四月間、有之。』という記載がある。

「多識扁」林羅山道春が書いた辞書「多識編」。慶安二(一六四九)年の刊本があり、それが早稲田大学図書館「古典総合データベース」にあったので、調べたところ、「卷四」のこちらに「鰕」の項があり、その中に「天鰕【古恵比】」とあった。「古恵比」は「こゑび」(小海老)だろう。

『「芝蝦」〔江戶方言。〕』先のウィキの引用を参照。

「壬辰臘月十五日」天保三年十二月十五日。一八三四年一月二十四日。]

萩原朔太郎詩集「宿命」「散文詩」パート(「自註」附) 墓

 

   

 

 これは墓である。蕭條たる風雨の中で、かなしく默しながら、孤獨に、永遠の土塊が存在してゐる。

 何がこの下に、墓の下にあるのだらう。我々はそれを考へ得ない。おそらくは深い穴が、がらんどうに掘られてゐる。さうして僅かばかりの物質――人骨や、齒や、瓦や――が、蟾蜍(ひきがへる)と一緖に同棲して居る。そこには何もない。何物の生命も、意識も、名譽も。またその名譽について感じ得るであらう存在もない。

 尙ほしかしながら我々は、どうしてそんなに悲しく、墓の前を立ち去ることができないだらう。我々はいつでも、死後の「無」について信じてゐる。何物も殘りはしない。我々の肉體は解體して、他の物質に變つて行く、思想も、神經も、感情も、そしてこの自我の意識する本體すらも、空無の中に消えてしまふ。どうして今日の常識が、あの古風な迷信――死後の生活――を信じよう。我々は死後を考へ、いつも風のやうに哄笑するのみ!

 しかしながら尙ほ、どうしてそんなに悲しく、墓の前を立ち去ることができないだらう。我々は不運な藝術家で、あらゆる逆境に忍んで居る。我々は孤獨に耐へて、ただ後世にまで殘さるべき、死後の名譽を考へてゐる。ただそれのみを考へてゐる。けれどもああ、人が墓場の中に葬られて、どうして自分を意識し得るか。我々の一切は終つてしまふ。後世になつてみれば、墓場の上に花輪を捧げ、數萬の人が自分の名作を讃へるだらう。ああしかし! だれがその時墓場の中で、自分の名譽を意識し得るか? 我々は生きねばならない。死後にも尙ほ且つ、永遠に墓場の中で、生きて居なければならないのだ。

 蕭條たる風雨の中で、さびしく永遠に默しながら、無意味の土塊が實在して居る。何がこの下に、墓の下にあるだらう。我々はそれを知らない。これは墓である! 墓である!

 

 

   死とは何だらうか? 自我の滅亡である。では自我(エゴ)とは何だらうか。そもそもまた、意識する自我(エゴ)の本體は何だらうか? デカルトはこれを思惟の實體と言ひ、カントは認識の主辭だと言ひ、ベルグリンは記憶の純粹持續だと言ひ、シヨペンハウエルと佛敎とは、意志の錯覺によつて生ずるところの、無明と煩惱の因緣(いんねん)だと言ふ。そして尙近代の新しい心理學者は、自我の本體を意識の溫覺感點だと言ふ。諸說紛々。しかしながら、たとへそれが虛妄の幻覺であるとしても、デカルトの思惟したことは誤つてない。なぜなら「我れが有る」といふことほど、主觀的に確かな信念はないからである。だがかかる意識の主體が、肉體の亡びてしまつた死後に於ても、尙且つ「不死の蛸」のやうに、宇宙のどこかで生存するかといふ疑問は、もはや主觀の信念で解答されない。おそらく我々は、少しばかりの骨片と化し、瓦や蟾蜍と一所に、墓場の下に棲むであらう。そこにはもはや何物もない。知覺も、感情も、意志も、悟性も、すべての意識が消滅して、土塊と共に、永遠の無に歸するであらう。ああしかし……にもかかはらず、尙且つ人間の妄執は、その蕭條たる墓石の下で、永遠に生きて居たいと思ふのである。とりわけ不運な藝術家等――後世の名譽と報酬を豫想せずには、生きて居られなかつたやうな人々は、死後にもその墓石の下で、眼を見ひらき、永遠に生きて居なければならないのである。どんな高僧智識の說敎も、はたまたどんな科學や哲學の實證も、かかる妄執の鬼に取り憑かれた、怨靈の人を調伏することはできないだらう。[やぶちゃん注:巻末の「散文詩自註」の当該部をここに配した。「永遠に生きて居たい」の太字は底本では傍点「◎」。「ベルグリン」はママ。「ベルグソン」の誤植。]

 

[やぶちゃん注:本篇の太字は底本では傍点「◎」。「默し」は私は「もだし」ではなく、「もくし」と読みたい。「土塊」は「つちくれ」であろう。

 初出は昭和四(一九二九)年六月号『新文學準備俱樂部』。あまり見たことがない雑誌だが、ネットで調べると、創刊は昭和四(一九二九)年六月一日とあるから、これはそれである。後、新文學社刊の雑誌『新文學』があるが、これは昭和一一(一九三六)年一月一日創刊で、スパンが長過ぎ、このプレの準備雑誌なのかどうかは判らなかった。識者の御教授を乞うものである。歴史的仮名遣の誤りやトンデモ誤字が相当数あるが、やや異同も見られるので、筑摩版全集から初出をそのままに示す。太字は底本では傍点「●」。

   *

 

 

 

 これは墓である。肅條たる風雨の中で、かなしく默しながら、孤獨に、永遠の土塊が存在してゐる。

 何がこの下に、墓の下に有るのだらう。我々はそれを考へ得ない。おそらくは深い穴が、がらんどうに掘られてゐる。さうして僅かばかりの物質――人骨や、齒や、甕や――が、蟾※と一緖に同棲してゐる。そこには何もない。何物の生命も、意識も、名譽も。またその名譽について感じ得るであろう存在もない。[やぶちゃん注:「※」=(へん)「虫」+(つくり)「如」。単漢字の意味は中文サイトでは虫の名とのみある。]

 尙しかしながら我々は、どうしてそんなに悲しく、墓の前を立ち去ることができないだろう。我々はいつでも、死後の「無」について信じて居る。何物も殘りはしない。我々の肉體は壞體して、他の物質に變つて行く。思想も、神經も、感情も、そしてこの「自我」の意識する本體すらも、空無の中に消えてしまふ。どうして今日の常識が、あの古風な迷信――靈魂や意識の實在――を信じやう。我々は死後を考へ、いつも風のやうに哄笑するのみ。

 しかしながら尙、どうしてそんなに悲しく、墓の前を立ち去ることができないだろう。我々は不運な藝術家で、あらゆる逆境に忍んでゐる。我々は孤獨に耐えて、ただ後世にまで殘さるるべき、死後の名譽を考へて居る。ただそれのみを考へてゐる。けれどもああ! 人が墓場の中に葬られて、どうして自分を意識し得るか。我々が死んだ時に、我々の一切は終つてしまふ。後世になつてみれば、墓場の上に花輪を捧げ、數萬の人が自分の名作を讃えるだろう。あゝしかし! だれがその時墓場の中で、自分の名譽を意識し得るか? 我々は生きねばならない。死後にも尙且つ、永遠に墓場の中で、生きて居なければならないのだ。

 肅條たる風雨の中で、さびしく永遠に默しながら、無意味の土塊が實在して居る。何がこの下に墓の下に有るだろう。我々はそれを知らない。これは墓である! 墓である!

 

   *

「虛妄の正義」版は概ね本篇に同じであるが、筑摩版全集校訂本文と校異によれば、本篇の「人骨や、齒や、瓦や」は初出に近く、「人骨や、齒や甕や」であり、「蟾蜍」は「蟾蜘」と誤っている。]

萩原朔太郎詩集「宿命」「散文詩」パート(「自註」附) 齒をもてる意志

 

   齒をもてる意志

 

 意志! そは夕暮の海よりして、鱶の如くに泳ぎ來り、齒を以て肉に嚙みつけり。

 

 

 齒をもてる意志  生きんとする意志。生殖しようとする意志。すべての生物は、その盲目的な生命本能の指令によつて、悲しくも衝動のままに動かされてる。ひとり寂しく、薄暮の部屋に居る時さへも、鱶のやうに鋭どい齒で、私の肉に嚙みついてくる意志![やぶちゃん注:巻末の「散文詩自註」の当該部をここに配した。]

 

[やぶちゃん注:「鱶」「ふか」。軟骨魚綱板鰓亜綱Elasmobranchiiのうち、一般にはエイ上目 Batoidea に含まれるエイ類を除く鮫類の内、大型のものの総称である。但し、中小型でも「ふか」と呼ぶケースもあるので、個体の大きさでの区別は無効に近い。寧ろ、広義の「鮫(さめ)」の関西以西での呼び名が「ふか」であるとした方が判りがいい(山陰では別に「わに」という呼称も現在、普通に生きている)。生物学的に「さめ」を規定するなら、一般的には鰓裂が体の側面に開く種群の総称としてもよかろう(鰓裂が下面に開くエイと区別される。但し、中間型の種がいるので絶対的な属性とは言えない)。より詳しい博物誌は「大和本草卷之十三 魚之下 フカ (サメ類(一部に誤りを含む))」の私の注を参照されたい。

 初出は未詳。「虛妄の正義」版は筑摩版全集校異によれば、末尾の「肉に嚙みつけり。」が「肉を嚙みつけり。」となっている。]

萩原朔太郎詩集「宿命」「散文詩」パート(「自註」附) 恐ろしき人形芝居

 

   恐ろしき人形芝居

 

 理髮店の靑い窓から、葱のやうに突き出す棍棒。そいつの馬鹿らしい機械仕掛で、夢中になぐられ、なぐられて居る。

 

[やぶちゃん注:昔から気になっている一篇だが、これは萩原朔太郎の見た夢の記録ではあるまいか。それなら、何の躓きもなく面白く奇体に読める。

 初出は昭和四(一九二九)年一月号『詩神』。以下に示す。本文の一字下げなし。「桿棒」はママ。畳語でこれでもよいが、その場合は「かんぼう」と読むことになる。「無中」もママ。

   *

 

 恐ろしき人形芝居

 

理髮店の靑い窓から、葱のやうに突き出す桿棒。そいつの馬鹿らしい機械仕掛で、無中になぐられ、なぐられて居る。

 

   *

「虛妄の正義」版は本篇と同じで異同はない。]

萩原朔太郎詩集「宿命」「散文詩」パート(「自註」附) 國境にて

 

   國 境 に て

 

 その背後(うしろ)に煤煙と傷心を曳かないところの、どんな長列の汽車も進行しない!

 

 

 國境にて  過去の思想や慣習を捨て、新しい生活へ突進する人は、その轉生の旅行に於て、汽車が國境を越える時に、舊き親しかつた舊知の物への、別離の傷心なしに居られない。[やぶちゃん注:巻末の「散文詩自註」の当該部をここに配した。]

 

[やぶちゃん注:「國境」は「くにざかひ」と訓ずるべきである。自身の旧上野国と、帝都東京にシンボライズされる旧武蔵国を越える際の双方向のロケーションで朔太郎は複数の、アンビバレンツやノスタルジアの複雑な意識感懐を含んだ詩篇をものしている。

 初出は昭和四(一九二九)年一月号『詩神』。以下に示す。本文の一字下げなし。

   *

 

 國境にて

 

背後(うしろ)に傷心と煤煙を曳かないところの、どんな長列の汽車も進行しない。(寓意のものとして)

 

   *

「虛妄の正義」版は本篇と同じで異同はない。]

萩原朔太郎詩集「宿命」「散文詩」パート(「自註」附) 黑い洋傘

 

   黑 い 洋 傘

 

 憂鬱の長い柄から、雨がしとしとと滴(しづく)をしてゐる。眞黑の大きな洋傘!

 

 

 黑い洋傘  洋傘は宿命を象徵する。[やぶちゃん注:巻末の「散文詩自註」の当該部をここに配した。こんな自註はやらずもがなの類いだ。]

 

 

[やぶちゃん注:初出は昭和四(一九二九)年三月号『新潮』。以下に示す。

   *

 

 黑い洋傘

 

 憂鬱の長い柄から、雨がしとしとと滴(しづく)をしてゐる。眞黑の大きな洋傘!(詩的幻想による觀念として)

 

   *

「虛妄の正義」版は本篇と同じで異同はない。]

萩原朔太郎詩集「宿命」「散文詩」パート(「自註」附) 家

 

   

 

 人が家の中に住んでるのは、地上の悲しい風景である。

 

[やぶちゃん注:初出は昭和四(一九二九)年三月号『新潮』。「虛妄の正義」版ともに異同はない。]

萩原朔太郎詩集「宿命」「散文詩」パート(「自註」附) 大佛

 

   大 佛

 

 その内部に構造の支柱を持ち、暗い梯子と經文を藏する佛陀よ! 海よりも遠く、人畜の住む世界を越えて、指のやうに尨大なれ!

 

 

 大佛  大佛は、東洋人の宗敎的歸依が心象する夢魔である。[やぶちゃん注:巻末の「散文詩自註」の当該部をここに配した。個人的にはこの散文詩的解説の方が散文詩として私は好む。]

 

[やぶちゃん注:初出は昭和四(一九二九)年一月号『詩神』。以下に示す。本文は一字下げがなく、二行分かち書きである。「臟する」はママであるが、別段、誤りでない。

   *

 

 大佛

 

その内部に構造の支柱を持ち、暗い梯子と經文を臟する佛陀よ!

海よりも遠く、人畜の住む世界を越えて、指のやうに厖大なれ!

 

   *

「虛妄の正義」版は本篇と同じ一字下げ一段落構成であるが、初出と同じく「臟する」と表記している。]

萩原朔太郎詩集「宿命」「散文詩」パート(「自註」附) 觸手ある空間

 

   觸手ある空間

 

 宿命的なる東洋の建築は、その屋根の下で忍從しながら、甍(いらか)に於て怒り立つてゐる。

 

 

 觸手ある空間  東洋に於て宿命的なるものは、必しも建築ばかりでない。[やぶちゃん注:巻末の「散文詩自註」の当該部をここに配した。]

 

[やぶちゃん注:初出は昭和四(一九二九)年三月号『新潮』。以下に示す。

   *

 

 觸手ある空間

 

 宿命的なる東洋の建築は、その家根の下で忍從しながら、甍(いらか)に於て怒り立つてる。

 

   *

「虛妄の正義」版は本篇と同じ(筑摩版本文は初出と同じく「於て」と消毒しているので注意。校異を参照)。]

2022/01/17

萩原朔太郎詩集「宿命」「散文詩」パート(「自註」附) 自然の中で

 

   自然の中で

 

 荒寥とした山の中腹で、壁のやうに沈默してゐる、一の巨大なる耳を見た。

 

 

 自然の中で  「耳」といふ題で、私は他の別のところに、この短かい詩を書き改へた。その全文は

 

 山 の 中 腹 に 耳 が あ る。

 

 何れにしても同じく、表現しようとしたことは、永却の時間に渡つて、無限の空間に實在してゐるところの、大自然の巨人のやうな靜寂さを描いたのである。老子の所謂「谷神不死」「玄ノ玄、牝ノ牝、コレヲ玄牝ト謂フ」の類。[やぶちゃん注:巻末の「散文詩自註」の当該部(次のページにかけて)をここに配した。「永却」はママ。「永劫」の誤字或いは誤植。なお、引用している詩篇の字空けは、御覧の通り、実際の通りに再現してある。「他の別のところ」とあるのは、昭和四(一九二九)年一月号『詩神』に載せた「獨逸黑的文章(シユワツエン メルヘン)」(添え題「斷章數篇」)でアフォリズム「帽子」・「人境」・「敎育」・「耳」・「科學的風景の中で」(最後のそれのみが長く、他はごく短い)を指す。筑摩版全集では第五巻の「アフォリズム拾遺」の三百十五ページから載っている。私は今のところ、電子化する気は、ない。「老子」のそれは「老子」の核を成す哲学核心である。第六章にある「谷神不死。是謂玄牝。玄牝之門、是謂天地根。緜緜若存、用之不勤」で、「谷神(こくしん)は死せず、是れを玄牝(げんぴん)と謂ふ。玄牝の門、是れを天地の根(こん)と謂ふ。緜緜(めんめん)として存するがごとく、之れを用ふれども勤(つ)きず。」である。ユングのグレート・マザーに近いものと私は認識している。]

 

[やぶちゃん注:初出は大正一五(一九二六)年六月号『日本詩人』。異同はない。「虛妄の正義」版も異同はない。]

萩原朔太郎詩集「宿命」「散文詩」パート(「自註」附) 虛數の虎

 

   虛 數 の 虎

 

 博徒等集まり、投げつけられたる生涯の機因(チヤンス)の上で、虛數の情熱を賭け合つてゐる。みな兇暴のつら魂(たましひ)。仁義(じんぎ)を構へ、虎のやうな空洞に居る。

 

 

 虛數の虎  「機因(チヤンス)」といふ現象は、客觀的には決定されたもの(因果律の計算する必然的な數字)であるけれども、主觀的には全く氣まぐれな運であり、偶然のものにすぎない。賭博の興味は、その氣まぐれな運をひいて、偶然の骸子(さいころ)をふることから、必然の決定されてる結果を、虛數の上に賭け試みることの冒險にある。すべての博徒等は、その生涯を惜しげもなく、かかる冒險に賭けて悔ゐないところの、烈しい情熱を持つてゐる。しかしながらその情熱は、何の實數的所得もないところの、單なる虛數の浪費にすぎない。怒れる虎が、空洞に咆えるやうなものである。[やぶちゃん注:巻末の「散文詩自註」の当該部をここに配した。太字下線は底本では傍点「◎」であるが、実は御覧の通り、傍点が「偶然」の二字の間から打たれてあって、傍点は「◎◎◎◎」と四点しか打たれていない(しかも各字間の右にである)。流石にこれは誤りであるが、再現不能であるから、筑摩版校訂本文に従い、「偶然のもの」五文字をかくした。なお、ここでまことしやかに朔太郎は数学用語を使っているが、それが純粋に論理的に意味を成しているとは思われない。]

 

[やぶちゃん注:筑摩版全集の校異を見ると、初版(昭和一四(一九三九)年九月十五日創元社刊)は「魂」に「ましひ」のルビしかないとあり、校訂本文で「だましひ」とルビを振ってある。私の底本は、その再版の昭和二二(一九四七)年同社刊のそれで、以上の通り「たましひ」となっている(拡大してみたが、清音で濁点はない)。但し、「た」のみが薄いので、後から組んだために、高さが低いように感ぜられる。

 初出は昭和四(一九二九)年一月号『詩神』。初出は「魂」には「だましひ」のルビがあるので、挙げておく。冒頭一字下げはない。

   *

 

 虛數の虎

 

博徒等集まり、投げつけられたる生涯の機因(チヤンス)の上で、虛數の情熱を賭け合つてゐる。みな兇暴のつら魂(だましひ)。仁義(じんぎ)を構へ、虎のやうな空洞に居る。

 

   *

因みに、「虛妄の正義」版では同一で「魂」には「だましひ」とルビがある。]

萩原朔太郎詩集「宿命」「散文詩」パート(「自註」附) 銃器店の前で

 

   銃器店の前で

 

 明るい硝子戶の店の中で、一つの磨かれた銃器さへも、火藥を裝塡してないのである。――何たる虛妄ぞ。懶爾(らんじ)として笑へ!

 

[やぶちゃん注:「懶爾として笑へ!」「懶爾」は見たことがない熟語である。小学館「日本国語大辞典」にも載らない。「爾」は一般に「しかり・その通り」で、「まさにそのような状態にある」ことを示す修飾語に添える助字であるから、「いかにも物憂いという感じで笑え!」という謂いであろう。

 初出は昭和四(一九二九)年一月号『詩神』。初出は「懶爾」へのルビが「懶」のみへ「らん」と振られている以外は同じ。「虛妄の正義」版は本篇と同じ。]

萩原朔太郎詩集「宿命」「散文詩」パート(「自註」附) 吹雪の中で

 

   吹雪の中で

 

 單に孤獨であるばかりでない。敵を以て充たされてゐる!

 

[やぶちゃん注:初出未詳。「虛妄の正義」版も異同なし。]

萩原朔太郎詩集「宿命」「散文詩」パート(「自註」附) 狐

 

   

 

 見よ! 彼は風のやうに來る。その額は憂鬱に靑ざめてゐる。耳はするどく切つ立ち、まなじりは怒に裂けてゐる。

 君よ! 狡智のかくの如き美しき表情をどこに見たか。

 

[やぶちゃん注:太字は底本では傍点「◎」。初出は大正一三(一九二四)年七月号『日本詩人』。傍点が「◎」である以外は異同がない。「虛妄の正義」版も傍点が「●」なだけで本篇と同じ。]

萩原朔太郎詩集「宿命」「散文詩」パート(「自註」附) 鏡

 

   

 

 鏡のうしろへ𢌞つてみても、「私」はそこに居ないのですよ。お孃さん!

 

   戀愛する「自我」の主體についての覺え書。戀愛が主觀の幻像であり、自我の錯覺だといふこと。[やぶちゃん注:巻末の「散文詩自註」の当該部をここに配した。]

 

[やぶちゃん注:初出は大正一五(一九二六)年六月号『日本詩人』。標題は「自我」。以下に示す。

   *

 

 自我

 

 鏡のうしろへ𢌞つてみても、私はそこに居ないのですよ。

 お孃さん!

 

   *

「虛妄の正義」版は本篇と同じ標題「鏡」で一行だが、『「私」』の鍵括弧は、ない。]

毛利梅園「梅園介譜」 水蟲類 蝦(モクチ) / ユビナガスジエビ?

 

[やぶちゃん注:右上の「蝦」の字は、実際には(「虫」+「殳」)の字であるが、これは「蝦」の異体略字であるので、「蝦」に代えた(後の『「本草綱目」巻第四十四』の次の行の「鰕」の字の(つくり)も同じであるが、「鰕」に代えた)。下方のやや中央寄りの文字列は対象個体の書写したクレジット。左端にある記載は、本図の一種に与えたものではなく、底本の本図全体の内の、右下の海鼠を除いた四体描かれたエビ類の総解説として記されたものであるが、ここで電子化しておく。右手の黒く突き出した二本は先のテナガエビの第二歩脚が突き出たもので、同じく右手から出ている細い二本はテナガエビの触角である。下方の背と触角を見せているエビは、本種とは異なる「蝦(シバエビ)」として、下方に描かれた二個体の内の一つで、右手の文字列もそれらへのもので関係ない。]

 

Mokuti

 

蝦〔一種。もくち。〕

 

癸巳(みづのとみ)林鐘(りんしやう)四日、眞寫す。

 

「本草綱目」巻第四十四

鰕〔えび。〕一名「何」。「長鬚公」。「曲身小子」。

鰕は「川ゑび」の惣名なり。時珍曰はく、『鰕、湖江に生ずる者、大にして、色、白し。溪地に出づる物、小にして、色、青し。其の青色なる者を「青蝦(しばゑび)」と曰ひ、白色なる者、白蝦(しらさい)と曰ふ。』と。

 

[やぶちゃん注:情報が「モクチ」という名だけで、これは困った。全図の先の右手のテナガエビ(♂と推定)と対照して見ると、同じく第二歩脚が伸びており、同じテナガエビの♀か、或いは、若年個体かとも思った。既に古くから食用にされてきたテナガエビであれば、それらに「モクチ」(この異名は今に生きていない模様である)という異なった名を附けたとしても、見かけが異なるからにはあり得ぬでもないとは逆に思う。しかし、どうもすっきりしない。「モクチ」という名を眺めていると、「モ」は「藻」かと思い、沿岸性の十脚(エビ)目根鰓(クルマエビ)亜目クルマエビ上科クルマエビ科ヨシエビ属モエビ Metapenaeus moyebi を想起したものの、同種は歩脚はここまで有意には伸びないから、違う。梅園が敢えてテナガエビの対位置にこれを描いたのは、まず、その伸びた第二歩脚による共通性からと考えてよく、体色も敢えてよく似た感じで描いている(そういうバイアスがかかったということ。実際の体色は少し違ったかも知れない)。そこで考えたのは、

十脚目テナガエビ科スジエビ属ユビナガスジエビ Palaemon paucidens

であった。彼らは、テナガエビほどではないにしても、やはり第二歩脚が長くなる。画像はサイト「浦安水辺の生き物図鑑」の「ユビナガスジエビ」を見られたい。それらしい。特にテナガエビの図と突き合わせると、私などは「いかにも!」と感じた。取り敢えず、それを第一候補としておく。

「癸巳」天保四(一八三三)年。

「林鐘四日」「林鐘」は陰暦六月の異名。天保四年六月四日は、グレゴリオ暦一八三三年七月二十日である。

『鰕〔えび。〕一名「何」。「長鬚公」。「曲身小子」。』ちょっと意外なのだが、かくも『「本草綱目」巻第四十四』とやらかしておきながら、同原本を見ても、この異名は見当たらないので少々不審に思った。而して、もしやと思ったのが図に当たった。この異名は「本草綱目」ではなく、梅園先生、これって、小野蘭山の「重修本草綱目啓蒙」じゃありませんか! 国立国会図書館デジタルコレクションの同書の巻三十「無鱗魚」の「鰕」の冒頭だ。そこに(太字は底本では囲み字)、

   *

  エビ 一名「何」【鄭樵「爾雅註」。】・「長鬚公」【「事物異名」。】・「虛頭公」・「曲身小子」【「共同」上。】・「魵」【「正字通」。】・「長髯公」【「類書纂要」。】

   *

とあって、「鰕は『かはえび』の總名なり」と始まってますな。ちょっと、それは、まずいでしょうねぇ。但し、「時珍曰」以下の部分は、確かに「本草綱目」同巻の「鰕」の「集解」からの引用ではある。「漢籍リポジトリ」のこちらの[104-51a]の影印画像を見られたい。

「湖江」大きな湖や大河(具体的には洞庭湖と長江)。

「溪地」溪谷。時珍は湖北省出身で、概ねそこで医業と本草研究に勤しんだ。則ち、彼の海産生物の記載に誤りが多いのは、実地に中国沿海の地方を見聞して対象物を調べることが殆んどなかったからである。

「青蝦(しばゑび)」次と合わせて、「本草綱目」を引いておき乍ら、それに和名の具体なエビの名を読みで附すというのは、流石にどうかと思われる。そもそも、時珍は以上に述べた通りで、純淡水産のごく内陸性の淡水エビしか指して言っていないのだから、これに和名種の名を宛がうこと自体が、とんだ仕儀であることは、当時の素人でも判ることで、甚だ以って不審極まりないことなのである。ただ、こちらは実は本図の下方にある「鰕一種」とあるのに「シバエビ」とルビを振っており、右側の異名の最初に「青蝦」を挙げていることからの、梅園の思い込みによる確信犯の仕儀ではある。現行の「シバエビ」は「芝蝦」(和名は嘗て江戸芝浦で多く漁獲されたことに由来する)で、内湾の泥底に好んで棲息するクルマエビ科ヨシエビ属シバエビ Metapenaeus joyneri である。

「白蝦(しらさい)」不詳。全く特定種を指さずに、比較的生体が白っぽい或いは半透明なエビをこう総称しているつもりなら、「シラエビ」「シロエビ」と書けばいいところを、「シラサイ」などと、特定種を指すような謂いをするのは、甚だ不審だ。特定の種を指しているとしか思われないが、判らぬ。このような異名だけをだされても困る。一つ、上田泰久氏のサイト「食材事典」の「車海老(くるまえび)」のページに「サイマキ」の項があり、業者や調理人は十五センチメートル以上を「車海老」、十~十五センチメートルのものを「マキ」、それ以下を「サイマキ(鞘巻)」と呼び、 特に大きい二十センチメートル以上のものを「大車(おおぐるま)」と呼ぶとあって、『サイマキという言葉の由来ですが、昔、武士の腰刀の鞘(さや)に刻み目が付いていて、車海老の縞模様がこれに似ていたので、車海老の略称を鞘巻き(さやまき)と言った』のが、『なまって、サエマキ、サイマキとなり、これが小さな車海老の呼び方になった、という話です』とあった。或いは、「シラサイ」というのは、「白鞘」で、白い或いは透明なエビの外骨格を言っているのかも知れないな、とは思ったことを言い添えておく。まあ、生体が透明で、死ぬと白く濁る淡水産(「本草綱目」だから)となると、本邦ならば問題なく、テナガエビ科テナガエビ亜科スジエビ属スジエビ Palaemon paucidens を名指すことが出来るけれども。昔は裏山の藤沢の貯水池の出水口で、沢山、獲れたものだったに。]

萩原朔太郎詩集「宿命」「散文詩」パート(「自註」附) 死なない蛸 / ★初出(総ルビ)及び「虛妄の正義」版総てを電子化した、私の「死なない蛸」決定版★

 

   死なない蛸

 

 或る水族館の水槽で、ひさしい間、飢ゑた蛸が飼はれてゐた。地下の薄暗い岩の影で、靑ざめた玻璃天井の光線が、いつも悲しげに漂つてゐた。

 だれも人々は、その薄暗い水槽を忘れてゐた。もう久しい以前に、蛸は死んだと思はれてゐた。そして腐つた海水だけが、埃つぽい日ざしの中で、いつも硝子窓の槽にたまつてゐた。

 けれども動物は死ななかつた。蛸は岩影にかくれて居たのだ。そして彼が目を覺した時、不幸な、忘れられた槽の中で、幾日も幾日も、おそろしい飢饑を忍ばねばならなかつた。どこにも餌食がなく、食物が全く盡きてしまつた時、彼は自分の足をもいで食つた。まづその一本を。それから次の一本を。それから、最後に、それがすつかりおしまひになつた時、今度は胴を裏がへして、内臟の一部を食ひはじめた。少しづつ他の一部から一部へと。順々に。

 かくして蛸は、彼の身體全體を食ひつくしてしまつた。外皮から、腦髓から、胃袋から。どこもかしこも、すべて殘る隈なく。完全に。

 或る朝、ふと番人がそこに來た時、水槽の中は空つぽになつてゐた。曇つた埃つぽい硝子の中で、藍色の透き通つた潮水(しほみづ)と、なよなよした海草とが動いてゐた。そしてどこの岩の隅々にも、もはや生物の姿は見えなかつた。蛸は實際に、すつかり消滅してしまつたのである。

 けれども蛸は死ななかつた。彼が消えてしまつた後ですらも、尙ほ且つ永遠にそこに生きてゐた。古ぼけた、空つぽの、忘れられた水族館の槽の中で。永遠に――おそらくは幾世紀の間を通じて――或る物すごい缺乏と不滿をもつた、人の目に見えない動物が生きて居た。

 

 

 死なない蛸  生とは何ぞ。死とは何ぞ。肉體を離れて、死後にも尙存在する意識があるだらうか。私はかかる哲學を知らない。ただ私が知つてることは、人間の執念深い意志のイデアが、死後にも尙死にたくなく、永久に生きてゐたいといふ願望から、多くの精靈(スピリツト)を創造したといふことである。それらの精靈(スピリツト)は、目に見えない靈の世界で、人間のやうに飮食し、人間のやうに思想して生活してゐる。彼等の名は、餓鬼、天人、妖精等と呼ばれ、我等の身邊に近く住んで、宇宙の至る所に瀰漫(びまん)してゐる。水族館の佗しい光線がさす槽の中で、不死の蛸が永遠に生きてるといふ幻想は、必しも詩人のイマヂスチツクな主觀ではないだらう。[やぶちゃん注:巻末の「散文詩自註」の当該部をここに配した。]

 

[やぶちゃん注:底本はここ。詩篇中の太字は底本では傍点「◎」。私が萩原朔太郎の詩篇中、最も偏愛する一篇であり、恐らくは私の高校教師時代、萩原朔太郎の詩篇の中では、特異点で朗読回数が多いものであった。されば、古くに「死なない蛸 萩原朔太郎 (初出形)」や、「萩原朔太郎 死なない蛸 (「宿命」版)」を電子化注しているが、正字不全も見られる。しかし、それらは九年前の私の思い出として、修正せず、今回、決定版として初出その他を以下に纏めて示すこととする。

「飢饑」これは、このままでは「きき」と読むしかない。意味は「饑」も「餓える」の意であるから字面上は意味が分かる。小学館「日本国語大辞典」に見出し語として載っており、『明六雑誌』の使用例があるが、これ、どうも聴き馴れない、というか、原文を見ずに朗読を聴く者は、百人が百人、「危機」と勘違いする。されば、私は、ここでの、この漢語表記を永く「うまくない」ものとして捉えている。後の「虛妄の正義」版の私の注を参照されたい。

「瀰漫」(「自註」)の原義は「水が満ちあふれること・水界が果てしなくひろくあること」であるが、転じて、「広がり満ちること・広く蔓延ること」の意。ここは後者。

 初出は昭和二(一九二七)年四月号『新靑年』。これまた、発表誌が如何にも相応しいではないか! 筑摩版全集で示す。総ルビである(過去に於いて「総ルビ」と言った場合、何故か漢数字には振られていないものが多く、ここでもそれである)。今回は完全を期してそれらの読みを総て附す。五月蠅く思われる方は、パラルビにした「死なない蛸 萩原朔太郎 (初出形)」を見られたい(但し、申し上げた通り、正字不全がある)。「水漕」「潮水(こすゐ)」は総てママである(「こすゐ」は植字工のミス。ルビは、概ね、嘗ては植字の際に植字工が勝手に附したことは余り知られていない。総ルビ原稿を書いた作家の方が遙かに少ない。稀有のそれは私の知る限りでは、かの泉鏡花ぐらいなものである。本篇で「しほみづ」と特異的にルビがあるのは、萩原朔太郎がこの初出のこの誤りに激しく不満を持ったからと推察される)。なお、「水(すゐ)」の読みであるが、ごく近代まで、「水」は「すゐ」が歴史的仮名遣として正しいとされてきたのだが、中国の中古音韻の研究が進む中で、現在では歴史的仮名遣は「すい」が正しいことが判った経緯がある。

   *

 

 (し)なない蛸(たこ)

 

 或(あ)る水族館(すゐぞくくわん)の水漕(すゐさう)で、ひさしい間(あひだ)、飢(う)ゑた蛸(たこ)が飼(か)はれてゐた。地下(ちか)の薄暗(うすぐら)い岩(いは)の影(かげ)で、靑(あを)ざめた玻璃天井(はりてんじやう)の光線(こうせん)が、いつも悲(かな)しげに漂(ただよ)つてゐた。

 だれも人々(ひとびと)は、その薄暗(うすぐら)い水漕(すゐさう)を忘(わす)れてゐた。もう久(ひさ)しい以前(いぜん)に、蛸(たこ)は死(し)んだと思(おも)はれてゐた。そして腐(くさ)つた海水(かいすゐ)だけが、埃(ほこり)つぽい日(ひ)ざしの中(なか)で、いつも硝子窓(ガラスまど)の漕(をけ)にたまつてゐた。

 けれども動物(どうぶつ)は死(し)ななかつた。蛸(たこ)は岩影(いはかげ)にかくれて居(ゐ)たのだ。そして彼(かれ)が目(め)を醒(さま)した時(とき)、不幸(ふこう)な、忘(わす)れられた槽(をけ)の中(なか)で、幾日(いくにち)も幾日(いくにち)も、おそろしい飢餓(きが)を忍ばねばならなかつた。

 どこにも餌食(ゑじき)がなく、食物(くひもの)が全(まつた)く盡(つ)きてしまつた時(とき)、彼(かれ)は自分(じぶん)の足(あし)をもいで食(く)つた。まづその一本(ぽん)を。それから次(つぎ)の一本(ぽん)を。それから。最後(さいご)にそれがすつかりおしまひになつた時(とき)、今度(こんど)は胴(どう)を裏(うら)がへして、内臟(ないざう)の一部(ぶ)を食ひはじめた。少(すこ)しづつ、他(た)の一部(ぶ)から一部(ぶ)へと。順々(じゆんじゆん)に。

 かくして蛸(たこ)は、彼(かれ)の身體全體(からだぜんたい)を食(く)ひつくしてしまつた。外皮(そとがは)から、腦髓(なうずゐ)から、胃袋(ゐぶくろ)から。どこもかしこも、すべて殘(のこ)る隈(くま)なく。完全(くわんぜん)に。

 或(あ)る朝(あさ)、ふと番人(ばんにん)がそこに來(き)た時(とき)、水漕(すゐさう)の中(なか)は空(から)つぽになつてゐた。曇(くも)つた埃(ほこり)つぽい硝子(ガラス)の中(なか)で、藍色(あゐいろ)の透(す)き通(とほ)つた潮水(こすゐ)と、なよなよした海草(かいさう)とが動(うご)いてゐた。そしてどこの岩(いは)の隅々(すみずみ)にも、もはや生物(せいぶつ)の姿(すがた)は見(み)えなかつた。蛸(たこ)は實際(じつさい)に、すつかり消滅(せうめつ)してしまつたのである。

 けれども蛸(たこ)は死(し)ななかつた。彼(かれ)が消(き)えてしまつた後(あと)ですらも、尙(なほ)且(か)つ、永遠(えいゑん)にそこに生(い)きてゐた。古(ふる)ぼけた、空(から)つぽの、忘(わす)れられた水族館(すゐぞくくわん)の漕(をけ)の中で。永遠(えいゑん)に――おそらくは幾世紀(いくせいき)の間(あひだ)を通(つう)じて――或(あ)る物(もの)すごい不滿(ふまん)をもつた、人(ひと)の目(め)に見(み)えない動物(どうぶつ)が生(い)きて居(ゐ)た。

 

   *

読みが五月蠅いという御仁に、一言、言っといてやろう。当初、別個にPDF縦書ルビ版を作ろうとも思ったが、やめたんだ。ルビ版は見かけはいいが、小さくてルビが見難いんだ。だから大事な読みの箇所を逆に見落とすことになりかねんからなんだ。「死なない蛸 萩原朔太郎 (初出形)」の注で私は述べたが、私は、若き日、長く、この第五段落の「外皮」を「がいひ」と朗読していたのだ。以上の通り、朔太郎は「そとかは」と読ませている。これは、読者や高校教師はよく注意して朗読しなければならない箇所なのだ。この詩篇、朗読家にも人気があるのだが、まあ、動画も複数あるから、聴いて御覧な、「がいひ」って読んでるプロも、これ、多いんだぜ! 「がいひ」という生物学用語みたような読みは、実は感動を半減させるのだ。これは「そとかは」という、ぬめぬめしたあの軟体動物の蛸のヌメリの擬似接触感覚として〈絶対の読み〉なのだ!

 最初に載った単行本「虛妄の正義」(昭和四(一九二九)年十月十五日発行第一書房刊)のものを以下に、同じく筑摩版全集から示す。太字は底本では傍点「●」。ルビは同じく「しほみづ」のみである。

   *

 

  • 死なない蛸

 

 或る水族館の水槽で、ひさしい間、飢ゑた蛸が飼はれてゐた。地下の薄暗い岩の影で、靑ざめた玻璃天井の光線が、いつも悲しげに漂つてゐた。

 だれも人々は、その薄暗い水槽を忘れてゐた。もう久しい以前に、蛸は死んだと思はれてゐた。そして腐つた海水だけが、埃つぽい日ざしの中で、いつも硝子窓の槽にたまつてゐた。

 けれども動物は死ななかつた。蛸は岩影にかくれて居たのだ。そして彼が目を覺した時、不幸な、忘れられた槽の中で、幾日も幾日も、おそろしい飢餓を忍ばねばならなかつた。

 どこにも餌食がなく、食物が全く盡きてしまつた時、彼は自分の足をもいで食つた。まづその一本を。それから次の一本を。それから、最後に、それがすつかりおしまひになつた時、今度は胴を裏がへして、内臟の一部を食ひはじめた。少しづつ他の一部から一部へと。順々に。

 かくして蛸は、彼の身體全體を食ひつくしてしまつた。外皮から、腦髓から、胃袋から。どこもかしこも、すべて殘る隈なく。完全に。

 或る朝、ふと番人がそこに來た時、水槽の中は空つぽになつてゐた。曇つた埃つぽい硝子の中で、藍色の透き通つた潮水(しほみづ)と、なよなよした海草とが動いてゐた。そしてどこの岩の隅々にも、もはや生物の姿は見えなかつた。蛸は實際に、すつかり消滅してしまつたのである。

 けれども蛸は死ななかつた。彼が消えてしまつた後ですらも、尙ほ且つ永遠にそこに生きてゐた。古ぼけた、空つぽの、忘れられた水族館の槽の中で。永遠に――おそらくは幾世紀の間を通じて――或る物すごい缺乏と不滿をもつた、人の目に見えない動物が生きて居た。

 

   *

朗読を第一とする私としては、この「虛妄の正義」を絶対のものとして推す。一つは、前に文句を言った「飢饑」が「飢餓」となっていて、何の不具合もないからが一つ。そうして、ここでは、初出でも、後の「宿命」版でも見られない、「どこにも餌食がなく、食物が全く盡きてしまつた時、彼は自分の足をもいで食つた。まづその一本を。それから次の一本を。それから、最後に、それがすつかりおしまひになつた時、今度は胴を裏がへして、内臟の一部を食ひはじめた。少しづつ他の一部から一部へと。順々に。」の部分が独立段落を成形している点が最大の急所としてあるからである。前の「けれども動物は死ななかつた。蛸は岩影にかくれて居たのだ。そして彼が目を覺した時、不幸な、忘れられた槽の中で、幾日も幾日も、おそろしい飢饑を忍ばねばならなかつた。」というプレ・シークエンスと、この「どこにも餌食がなく、食物が全く盡きてしまつた時、彼は自分の足をもいで食つた。まづその一本を。……」と始まるのっぴきならない戦慄のシークエンスは、詩想的にも、朗読技術に於いても、絶対に大きな有意なブレイクが必要だからである。私は現役時代――朗読七割・授業三割――を自己拘束とし、また、自負してきた国語教師であった。どんなに冴え切った緻密な人を驚かす解析をしても、朗読で生徒を感動させることが出来ない国語教師は失格だとさえ思っていた。いや、今もそう思っている。だから、「がいひ」のような誤った読みは、これ、致命的にダメなのである――

萩原朔太郎詩集「宿命」「散文詩」パート(「自註」附) 港の雜貨店で

 

   港の雜貨店で

 

 この鋏の槓力でも、女の錆びついた銅牌(メダル)が切れないのか。水夫よ! 汝の隱衣(かくし)の錢をかぞへて、無用の情熱を捨ててしまへ!

 

 

 港の雜貨店で  ノスタルヂア! 破れた戀の記錄である。[やぶちゃん注:巻末の「散文詩自註」の当該部をここに配した。]

 

[やぶちゃん注:底本はここ。「槓力」「こうりよく(こうりょく)」。本来は「てこ・てこ棒・重い物を動かすのに用いる棒」の意であるが、ここは水夫が用いる強力な鋏の裁断力を言っている。

 初出は昭和四(一九二九)年三月号『新潮』。標題は「雜貨店で」。筑摩版全集で示す。「銅牌(メダル)か」はママ。誤植。

   *

 

 雜貨店で

 

 この鋏の槓力でも、女の錆びついた銅牌(メダル)か切れないのか。水夫よ! 汝の隱衣(かくし)の錢をかぞへて、無用の情熱を捨てゝしまへ! (叙情詩風のものとして)

 

   *

最初に載った単行本「虛妄の正義」(昭和四(一九二九)年十月十五日発行第一書房刊)のものは本篇と異同はない。]

萩原朔太郎詩集「宿命」「散文詩」パート(「自註」附) 情緖よ! 君は歸らざるか

 

   情緖よ! 君は歸らざるか

 

 書生は町に行き、工場の下を通り、機關車の鳴る響を聽いた。火夫の走り、車輪の𢌞り、群鴉の喧號する巷の中で、はや一つの胡弓は荷造され、貨車に積まれ、さうして港の倉庫の方へ、稅關の門をくぐつて行つた。

 十月下旬。書生は飯を食はうとして、枯れた芝草の倉庫の影に、音樂の忍び居り、蟋蟀のやうに鳴くのを聽いた。

 ――情緖よ、君は歸らざるか。

 

 

 情緖よ! 君は歸らざるか  この「胡弓」は戀を表徵してゐる。古い、佗しい、遠い日の失戀の詩である。或はまた、私から忘られてしまつた、昔の悲しいリリツクを思ふ詩である。[やぶちゃん注:巻末の「散文詩自註」の本篇のものをここに配した。]

 

[やぶちゃん注:これは「自註」なしには朔太郎の詩想を理解する読者は少ないであろう。

 初出は昭和四(一九二九)年一月号『詩神』。筑摩版全集で示す。

   *

 

 情緖よ! 君は歸らざるか

 

書生は町に行き、工場の下を通り、機關車の鳴る響を聽いた。火夫の走り、車輪の𢌞り群鴉の喧號する巷(ちまた)の中で、はや一つの胡弓は荷造され、貨車に積まれ、さうして港の倉庫の方へ、稅關の門をくぐつて行つた。

十月下旬。書生は飯を食はうとして、枯れた芝草の倉庫の影に、音樂の忍び居り、蟋蟀のやうに鳴くのを聽いた。(叙情詩風のものとして)

 

   *

最初に載った単行本「虛妄の正義」(昭和四(一九二九)年十月十五日発行第一書房刊)のものも示す。

   *

 

  • 情緖よ! 君は歸らざるか

 

 書生は町に行き、工場の下を通り、機關車の鳴る響を聽いた。火夫の走り、車輪の𢌞り、群鴉の喧號する巷の中で、はや一つの胡弓は荷造され、貨車に積まれ、さうして港の倉庫の方へ、稅關の門をくぐつて行つた。

 十月下旬。書生は飯を食はうとして、枯れた芝草の倉庫の影に、音樂の忍び居り、蟋蟀のやうに鳴くのを聽いた。

 

   *

なお、今まで言わなかったが、「虛妄の正義」では以上の通り、総て標題の上に「●」が附されてある。]

萩原朔太郎詩集「宿命」「散文詩」パート(「自註」附) 記憶を捨てる

 

   記憶を捨てる

 

 森からかへるとき、私は帽子をぬぎすてた。ああ、記憶。恐ろしく破れちぎつた記憶。みじめな、泥水の中に腐つた記憶。さびしい雨景の道にふるへる私の帽子。背後に捨てて行く。

 

[やぶちゃん注:初出は大正八(一九一九)年八月号『文章世界』であるが、大きくことなる。全三段落の行空け構成で、本篇はその第三段落を抽出し、本詩集の他の散文詩に合わせて冒頭を一字下げにし、「恐ろしく破れちぎつた記憶。」と読点を句点に補正している。前二段落を完全にカットしたものである。筑摩版全集で以下に示す。総ルビだが、読みは一部に留めた。実は私は古くに初出形を電子化している。そちらと差別化するために、先行するそちらをパラルビにしていたのを、総ルビに変えておいた。「倒景(たふけい)」のルビはママ。

   *

 

 記憶を捨てる

 

それは雨に濡れてゐる、羊齒(しだ)の葉が這つてゐる。ぞくぞくとした植物が繁茂し、森の中が奥深(おくふか)く見える。憂鬱な幻想の透視に於て。

 

かつて生命(せいめい)はその瞳をもつてゐた。何物かを明らかにみるところの瞳を。恐らくはその憂鬱なる透視に於て、森の中の倒景(たふけい)をさへ。併(しか)し、悲しみの薄暮(はくぼ)はきた。印象をして消さしめよ。

 

森からかへるとき、私は帽子をぬぎすてた。ああ、記憶。恐ろしく破れちぎつた記憶、みじめな、泥水(どろみづ)の中に腐つた記憶。さびしい雨景の道にふるへる私の帽子。背後に捨てて行く。

 

   *

最初に載った単行本「虛妄の正義」(昭和四(一九二九)年十月十五日発行第一書房刊)でも、同じ処理を施した一段落構成で表記異同もない。]

萩原朔太郎詩集「宿命」「散文詩」パート(「自註」附) 鯉幟を見て

 

   鯉幟を見て

 

 靑空に高く、五月の幟が吹き流れてゐる。家々の屋根の上に、海や陸や畑を越えて、初夏の日光に輝きながら、朱金の勇ましい魚が泳いでゐる。

 見よ! そこに子供の未來が祝福されてる。空高く登る榮達と、名譽と、勇氣と、健康と、天才と。とりわけ權力へのエゴイズムの野心が象徵されてる。ふしぎな、欲望にみちた五月の魚よ!

 しかしながら意志が、風のない深夜の屋根で失喪してゐる。だらしなく尾をたらして、グロテスクの魚が死にかかつてゐる。丁度、あはれな子供等の寢床の上で、彼の氣味の惡い未來がぶらさがり、重苦しく沈默してゐる。どうして親たちが、早く子供の夢魔を醒してやらないのか? たよりない小さい心が、恐ろしい夢の豫感におびえてゐる。やがて近づくであらう所の、彼の殘酷な敎育から、防ぎたい疾病から、性の痛痛しい苦悶から。とりわけ社會の缺陷による、さまざまの不幸な環境から。

 けれども朝の日がさし、新しい風の吹いてくる時、ふたたび魚はその意志を回復する。彼等は勇ましくなるであらう。ただ人間の非力でなく、自然の氣まぐれな氣流ばかりが、我我の自由意志に反對しつつ、あへて子供等の運命を占筮する。

 

 

 鯉幟を見て  日本の鯉幟りは、多くの外國人の言ふ通り、世界に於ける最も珍しい、そして最も美しい景物の一つである。なぜならそれは、世の親たちの子供に對する、すべてのエゴイズムの願望の、最も露骨にして勇敢な表現であるからである。家々の屋根を越えて、靑空に高くひるがへる魚の像(かたち)は、子供の將來に於ける立身出世と、富貴と健康と、名譽と榮達と、とりわけ男らしい勇氣を表象して祝福されてゐる。だが風のない曇天の日に、そのだらりとぶらさがつた紙の魚の、息苦しく喘ぐ姿を見る時、世の親たちが、どんな不吉な暗い感じを、子供の將來について豫感するかを思ふのである。それらの親たちは、長い間人生を經驗して、樣樣の苦勞をし盡して來た。すべての世の中のことは、何一つ自分の自由にならないこと、人生は淚と苦惱の地獄であること、個人の意志の力が、運命の前に全く無力であることなどを、彼等は經驗によつてよく知つてる。出產によつて、今や彼等はその分身を、生存競爭の鬪爭場に送り出し、かつて自分等が經驗した、その同じ地獄の試練に耐へさせねばならないのだ。そして此所に、親たちの痛ましい決意がある。「決して子供は、自分のやうに苦勞させてはならない。」かく世の親たちは、一樣に皆考へてる。だが宇宙の決定されてる方則は、悲しい人間共の祈禱を、甘やかしに聽いてはくれないのである。宇宙の方則は辛辣であり、何人に對しても苛責なく、殘忍無慈悲に鐵則されてる。この世で甘やかされるものは、その暖かい寢床(ベツト)に眠つて、母親にかしづかれてる子供だけだ。だがその子供ですら、既に生れ落ちた日の肉體の中に、先祖の業(カルマ)した樣々の病因をもち、性格と氣質の決定した素因を持つてるのだ。そして此等の素因が、避けがたく既に彼等の將來を決定してゐる。どんなにしても、人はその「豫定の運命」から脫がれ得ない。すべての人々は、生れ落ちた赤兒の時から、恐ろしい夢魔に惱まされてる。その赤兒たちの夢の中には、いつも先祖の幽靈が現はれて、彼等のやがて成長し、やがて經驗するであらうところの、未知の魑魅魍魎について語るのである。――人間の意志の力ではなく、自然の氣まぐれな氣流ばかりが、鯉幟りの魚を泳がすやうに、我々の子供等もまた、運命を占筮されてゐるのである。[やぶちゃん注:巻末にある「自註」の本篇のものをここに配した。ここで注しておくが、本篇の太字「あへて」は底本では傍点「◎」で、「自註」の太字下線は傍点「ヽ」である。]

 

[やぶちゃん注:本篇中の「彼の」は三人称代名詞の「かれの」ではなく、指示代名詞「かの」と読まないとおかしくなるので注意されたい。

「占筮」は「せんぜい」と読み、狭義には筮竹(ぜいちく)で卦(け)を立てて、「易経」等に従って吉凶を判断すること。ここは既にして失望的でダルな運命を既にして占い終わられているという捩じれた謂いである。

 初出は大正一五(一九二六)年六月号『日本詩人』。太字は傍点「●」。筑摩版全集で以下に示す。本篇と大きく異なるのは、全構成が初出が五段落であるのに対して、本篇は四段落であることで、実は最初に単行本として収録されたアフォリズム集「虛妄の正義」(昭和四(一九二九)年十月十五日発行第一書房刊)では、初出と同じく五段落構成である。個人的には、この「宿命」版四段構成よりも、初出や「虛妄の正義」の方がメリハリが良く立ってよいと断ずるものである。太字は同前。「妨ぎたい」はママ。

   *

 

 鯉幟を見て

 

 靑空に高く、五月の幟(のぼり)が吹き流れてゐる。家々の屋根の上に、海や陸や畑を越えて、初夏の日光に輝きながら、朱金の勇ましい魚が泳いでゐる。

 見よ! そこに子供の未來が祝福されてる。空高く登る榮達と、名譽と、勇氣と、健康と、天才と。とりわけ權力へのエゴイズムの野心が象徵されてる。ふしぎな、欲望にみちた五月の魚よ!

 しかしながら意志が、風のない深夜の屋根で失喪してゐる。だらしなく尾をたらして、グロテスクの魚が死にかかつてゐる。丁度、あはれな子供等の寢床の上で、彼の氣味の惡い未來がぶらさがり、重苦しく沈默してゐる。

 どうして親たちが、早く子供の夢魔を醒してやらないのか? たよりない小さい心が、恐ろしい夢の豫感におびえてゐる。やがて近づくであらう所の、彼の殘酷な敎育から、妨ぎたい疾病から、性の痛々しい苦悶から。とりわけ社會の缺陷による、さまざまの不幸な環境から。

 けれども朝の日がさし、新しい風の吹いてくる時、ふたたび魚はその意志を囘復する。彼等は勇ましくなるであらう。ただ人間の非力でなく、自然の氣まぐれな氣流ばかりが、我我の自由意志に反對しつつ、あへて子供等の運命を占筮する。

 

   *

「虛妄の正義」版は段落構成異同の他には、第二段落の「エゴイズム」を「ヱゴイズム」としている程度である。]

萩原朔太郎詩集「宿命」「散文詩」パート(「自註」附) 球轉がし

 

   球 轉 が し

 

 曇つた、陰鬱の午後であつた。どんよりとした太陽が、雲の厚みからして、鈍い光を街路の砂に照らしてゐる。人々の氣分は重苦しく、うなだれながら、馬のやうに風景の中を彷徨してゐる。

 いま、何物の力も私の中に生れてゐない。意氣は消沈し、情熱は涸れ、汗のやうな惡寒がきびわるく皮膚の上に流れてゐる。私は壓しつぶされ、稀薄になり、地下の底に滅入つてしまふのを感じてゐた。

 ふと、ある賑やかな市街の裏通り、露店や飮食店のごてごてと並んでゐる、日影のまづしい橫町で、私は古風な球轉がしの屋臺を見つけた。

「よし! 私の力を試してみよう。」

 つまらない賭けごとが、病氣のやうにからまつてきて、執拗に自分の心を苛らだたせた。幾度も幾度も、赤と白との球が轉り、そして意地惡く穴の周圍をめぐつて逃げた。あらゆる機因(チヤンス)がからかひながら、私の意志の屆かぬ彼岸で、熱望のそれた標的に轉がり込んだ。

「何物もない! 何物もない!」

 私は齒を食ひしばつて絕叫した。いかなればかくも我々は無力であるか。見よ! 意志は完全に否定されてる。それが感じられるほど、人生を勇氣する理由がどこにあるか?

 たちまち、若々しく明るい聲が耳に聽えた。蓮葉な、はしやいだ、連れ立つた若い女たちが來たのである。笑ひながら戲れながら、無造作に彼女の一人が球を投げた。

「當り!」

 一時に騷がしく、若い、にぎやかな凱歌と笑聲が入り亂れた。何たる名譽ぞ! チヤンピオンぞ! 見事に、彼女は我我の絕望に打ち勝つた。笑ひながら、戲れながら、嬉々として運命を征服し、すべての鬱陶しい氣分を開放した。

 もはや私は、ふたたび考へこむことをしないであらう。

 

 

 球轉がし  人生のことは、すべて「機因(チヤンス)」が決定する。ところで機因(チヤンス)は、宇宙の因果律が構成するところの、復雜微妙極みなきプロバビリチイの數學から割り出される。機因(チヤンス)は「宿命」である。それは人間の意志の力で、どうすることもできない業(カルマ)なのだ。だがそれにもかかはらず、人々は尙「意志」を信じてゐる。意志の力と自由によつて、宇宙が自分に都合よく、プロバビリチイの骸子(さいころ)の目が、思ひ通りに出ることを信じてゐる。

「よし、私の力を試してみよう」と、壓しつけられた曇天の日に、悲觀の沈みきつたどん底からさへも、人々は尙健氣(けなげ)に立ち上る。だが意志の無力が實證され、救ひなき絕望に陷入つた時、人々はそこに「奇蹟」を見る。そしてハムレツトのやうに、哲人ホレーシオの言葉を思ひ出すのである。――この世の中には、人智の及びがたい樣々の不思議がある![やぶちゃん注:巻末の「散文詩自註」にあるそれをここに配した。「復雜」はママ。「さいころ」の「さ」は底本では活字が欠落している。筑摩版全集で確認し、補った。但し、同全集では「骸子」を「骰子」に消毒している(しかし、実際に「骸子」とも書くし、私は専ら「骸子」である)。]

 

[やぶちゃん注:太字は底本では傍点「◎」。「雲の厚みからして」はママ。以下の初出参照。しかし、「して」でであっても、格助詞として「動作の行われる時空間を表わす」意があるから、意味として不具合はなく、「さして」の誤植とは言い難い。但し、以下に掲げる初出は「さして」ではある。しかし、それが、本詩集「宿命」に所収される前に、最初に単行本として収録されたアフォリズム集「虛妄の正義」(昭和四(一九二九)年十月十五日発行第一書房刊)でも、「雲の厚みからして」のままであるからには、「さして」に直してある筑摩版全集校訂本文は不当な消毒以外の何者でもないと言ってよい。「つまらない賭けごとが……」の段落の「轉り」はママ。特に躓かない。また、「つまらない賭けごとが……」の段落中の、「そして意地惡く穴の周圍をめぐつて逃げた。」の部分の「て」の箇所は活字がスレを生じていて、下方にのみ印字痕があるだけで判読不能である(拡大して見て「て」と言われれば、前後からそう読めないことないが、物理的には「て」らしきと物とまでしか言えない)ので、初出及び筑摩版全集所収の「虛妄の正義」に従って「て」とした。因みに、ここまで拘って注したので、今までもあったが、後ろから二つ目の段落中の「我我」は底本では行末で分断されているため「々」が用いられていないのである、と特に言っておく。

「球轉がし」これは、キューが語られないものの、「赤と白の球」「穴」から、簡易な台を据えたビリヤード(四つ球(だま))である。小学館「日本大百科全書」によれば、『日本への渡来は、江戸中期に幕府に献上されたといわれているが、一般には』嘉永・安政年間の一八五〇年代に『オランダ人によって長崎の出島に持ち込まれたのが最初とされている。その後、横浜を経て、東京には』明治四(一八七一)年に『最初のビリヤード場ができた。当時は華族や陸・海軍の将官、外務省の高官などの貴顕紳士だけの社交的な競技であった』。『大衆のビリヤードとして流行しだしたのは』、大正二~三(一九一三~一九一四)年頃からで、山田浩二ら、『有名選手が輩出した。技術的にも揺籃』『期の四つ球競技、三つ球競技からボークライン競技へと移り、選手らの渡米による国際交流も盛んになり』、大正一四(一九二五)年『春に有名選手を中心とした』「日本撞球協会」『が設立された』(本篇の初出は大正十五年六月である)。『昭和に入ってからは』、『外国選手の来日などによってますます盛んになり』、昭和一二~一三(一九三七~一九三八)年の『最盛期には全国のビリヤード場軒数』二『万軒、台数』六『万台に上った』。昭和一二(一九三七)年に松山金嶺が『アメリカから帰国、スリークッションの技術を公開し』、翌年には「第一回全日本スリークッション選手権大会」が『開催されて以来、日本の選手権の主流となった。しかし第二次世界大戦による空白はビリヤードの発展を大きく停滞させ、昭和二〇(一九四五)年の『終戦時には東京、大阪などではわずか数軒という状態だったが、徐々に復活し』、再びその勢いを盛り返した、とある。

 さて、本篇の痛烈な焦燥は、最後のシーンで、「若い女」「の一人」が、掟破りで、「笑ひながら戲れながら、無造作に」手で握って「球を投げた」ところが、それが他の玉にヒットしたというところにある。全体は、幾分、やらせ染みたシークエンスで、「そうきたかい。」と呟きたるくなる展開ではある。モノクロームの映像で撮って、最後のシーンは赤の球だけ着色するとよかろう。「自註」で「奇蹟」などと言っているが、寧ろ、本篇最後の内心の高揚は空騒ぎに過ぎず、主人公の「もはやふたたび考へこむことをしない」絶対の憂鬱は――ここに――完成するのである。

「プロバビリチイ」(「自註」。以下同じ)probability。確率論・蓋然性。

「ハムレツトのやうに、哲人ホレーシオの言葉を思ひ出すのである。――この世の中には、人智の及びがたい樣樣の不思議がある!」シェイクスピアの「ハムレット」のハムレットが父の亡霊と対話するシークエンス(第一幕第五場)友人ホレーショに語る台詞の一節。但し、「ハムレツトのやうに、哲人ホレーシオの言葉を思ひ出す」というのは朔太郎の記憶違い。ホレイショ―に、ハムレットが、怪奇を前にして、しみじみと語る彼を終盤に死に導く超哲学の感懐である。

   *

 There are more things in heaven and earth, Horatio. Than are dreamt of in your philosophy.

   *

「dreamt」は「dream」の過去形。福田恒存は意訳して、『ホレイショー、この天地のあいだには、人智の思いも及ばぬことが幾らもあるものだ。」(昭和四二(一九六七)年新潮文庫刊より)と訳しているが、「かの哲学というものさえ夢にも思い得ぬことが」の意である。

 初出は大正一五(一九二六)年六月号『日本詩人』。太字は傍点「●」。筑摩版全集で以下に示す。第一段落「雪」(誤植であろう)、最初の台詞の「みやう」、「そして意地惡く周圍をめぐつて逃げた。」、は総てママ。

   *

 

 球轉がし

 

 曇つた、陰鬱の午後であつた。どんよりとした太陽が、雪の厚みからさして、鈍い光を街路の砂に照らしてゐる。人々の氣分は重苦しく、うなだれながら、馬のやうに風景の中を彷徨してゐる。

 いま、何物の力も私の中に生れてゐない。意氣は消沈し、情熱は涸れ、汗のやうな惡感(をかん)がきびわるく皮膚の上に流れてゐる。私は押しつぶされ、稀薄になり、地下の底に滅入つてしまふのを感じてゐた。

 ふと、ある賑やかな市街の裏通り、露店や飮食店のごてごてと並んでゐる、日影のまづしい橫町で、私は古風な球轉がしの屋臺を見つけた。

「よし! 私の力を試してみやう。」

 つまらない賭けごとが、病氣のやうにからまつてきて、執拗に自分の心を苛らだたせた。幾度も幾度も、赤と白との球が轉がり、そして意地惡く周圍をめぐつて逃げた。あらゆる機因(チヤンス)がからかひながら、私の意志の屆かぬ彼岸で、熱望のそれた標的(まと)に轉がり込んだ。

「何物もない! 何物もない!」

 私は齒を食ひしばつて絕叫した。いかなればかくも我々は無力であるか。見よ! 意志は完全に否定されてる。それが感じられるほど、人生を勇氣する理由がどこにあるか?

 たちまち、若々しく明るい聲が耳に聽えた。蓮葉な、はしやいだ、連れ立つた若い女たちが來たのである。笑ひながら、戲れながら、無造作に彼女の一人が球を投げた。

「當り!」

 一時に騷がしく、若い、にぎやかな凱歌と笑聲が入り亂れた。何たる名譽ぞ! チヤンピオンぞ! 見事に、彼女は我々の絕望に打ち勝つた。笑ひながら、戲れながら、嬉々として運命を征服し、すべての鬱陶しい氣分を開放した。

 もはや私は、ふたたび考へこむことをしないであらう。

 

   *

「虛妄の正義」版は確認したが、大きな異同はない。敢えて言えば、朗読で異同する、「標的」に「まと」のルビがあることであろう。]

2022/01/16

萩原朔太郎詩集「宿命」「散文詩」パート(「自註」附) 田舍の時計

 

   田 舍 の 時 計

 

 田舍に於ては、すべての人々が先祖と共に生活してゐる。老人も、若者も、家婦も、子供も、すべての家族が同じ藁屋根の下に居て、祖先の煤黑い位牌を飾つた、古びた佛壇の前で臥起してゐる。

 さうした農家の裏山には、小高い冬枯れの墓丘があつて、彼等の家族の長い歷史が、あまたの白骨と共に眠つてゐる。やがて生きてゐる家族たちも、またその同じ墓地に葬られ、昔の曾祖母や祖父と共に、しづかな單調な夢を見るであらう。

 田舍に於ては、鄕黨のすべてが緣者であり、系圖の由緖ある血をひいてゐる。道に逢ふ人も、田畑に見る人も、隣家に住む老人夫妻も、遠きまたは近き血統で、互にすべての村人が緣邊する親戚であり、昔からつながる叔父や伯母の一族である。そこではだれもが家族であつて、歷史の古き、傳統する、因襲のつながる「家」の中で、鄕黨のあらゆる男女が、祖先の幽靈と共に生活してゐる。

 田舍に於ては、すべての家々の時計が動いてゐない。そこでは古びた柱時計が、遠い過去の曆の中で、先祖の幽靈が生きてゐた時の、同じ昔の指盤を指してゐる。見よ! そこには昔のままの村社があり、昔のままの白壁があり、昔のままの自然がある。そして遠い曾祖母の過去に於て、かれらの先祖が緣組をした如く、今も同じやうな緣組があり、のどかな村落の籬(まがき)の中では、昔のやうに、牛や鷄の聲がしてゐる。

 げに田舍に於ては、自然と共に悠々として實在してゐる、ただ一の永遠な「時間」がある。そこには過去もなく、現在もなく、未來もない。あらゆるすべての生命が、同じ家族の血すじであつて、冬のさびしい墓地の丘で、かれらの不滅の先祖と共に、一つの靈魂と共に生活してゐる。晝も、夜も、昔も、今も、その同じ農夫の生活が、無限に單調につづいてゐる。そこの環境には變化がない。すべての先祖のあつたやうに、先祖の持つた農具をもち、先祖の耕した仕方でもつて、不變に同じく、同じ時間を續けて行く。變化することは破滅であり、田舍の生活の沒落である。なぜならば時間が斷絕して、永遠に生きる實在から、それの鎻が切れてしまふ。彼等は先祖のそばに居り、必死に土地を離れることを欲しない。なぜならば土地を離れて、家鄕とすべき住家はないから。そこには擴がりもなく、觸りもなく、無限に實在してゐる空間がある。

 荒寥とした自然の中で、田舍の人生は孤立してゐる。婚姻も、出產も、葬式も、すべてが部落の壁の中で、仕切られた時空の中で行はれてゐる。村落は悲しげに寄り合ひ、蕭條たる山の麓で、人間の孤獨にふるへてゐる。そして眞暗な夜の空で、もろこしの葉がざわざわと風に鳴る時、農家の薄暗い背戶の厩に、かすかに蠟燭の光がもれてゐる。馬もまた、そこの暗闇にうづくまつて、先祖と共に眠つてゐるのだ。永遠に、永遠に、過去の遠い昔から居た如くに。

 

 

 田舍の時計  田舍の憂鬱は、無限の單調といふことである。或る露西亞の作家は、農夫の生活を蟻に譬へた。單に勤勉だといふ意味ではない。數千年、もしくは數萬年もの長い間、彼等の先祖が暮したやうに、その子孫もその子孫も、そのまた孫の子孫たちも、永遠に同じ生活を反覆してるといふことなのである。――田舍に於ては、すべての家々の時計が動いて居ない。[やぶちゃん注:巻末の「散文詩自註」にあるそれをここに配した。]

 

[やぶちゃん注:太字は底本では傍点「◎」。「血すじ」はママ。「鎻」は「鎖」の異体字。

「臥起してゐる」初出により「ふしおき」と訓ずる。

「觸りもなく、」個人的には、この第五段落末尾の意味が、今一つ、よく判らない。物理的に或いは自由な感情や或いは肉感的・性的欲求としての実体感・実在感としての交わり(「接触」=「觸り」)というものが存在しないということか。私は時々、萩原朔太郎には語を安易に弄んで、ありもしない付加価値を添えて事大主義的に悲愴な面(つら)をしたがる悪い癖があるように感じている。これはそうした厭な特異点の一箇所である。

「或る露西亞の作家は、農夫の生活を蟻に譬へた」誰の何か、不詳。識者の御教授を乞う。

初出は大正二(一九二七)年九月号『大調和』。以下に筑摩版全集を用いて示す。太字は傍点「」。第一段落「佛壇」(誤字か誤植)、第二段落「申所」(致命的誤植)と「親籍」、同じく第五段落「血すじ」と「かられ」(誤植錯字)、同段落目中央附近の「先祖の耗した仕方で」の「耗」(誤字或いは誤植)、最終段落の「ふるえてゐる」は総てママ。

   *

 

 田舍の時計

 

 田舍に於ては、すべての人々が先祖と共に生活してゐる。老人も、若者も、家婦も、子供も、すべての家族が同じ藁屋根の下に居て、祖先の煤黑い位牌を飾つた、古びた佛壇の前で臥起きしてゐる。

 さうした農家の裏山には、小高い冬枯れの墓丘があつて、彼等の家族の長い歷史が、あまたの白骨と共に眠つてゐる。やがて生きてゐる家族たちも、またその同じ墓地に葬られ、昔の曾祖母や祖父と共に、しづかな單調な夢を見るであらう。

 田舍に於ては、鄕黨のすべてが緣者であり、系圖の申所ある血をひいてゐる。道に逢ふ人も、田畑に見る人も、隣家に住む老人夫妻も、遠きまたは近き血統で、互にすべての村人が緣邊する親籍であり、昔からつながる叔父や伯母の一族である。そこではだれもが家族であつて、歷史の古き、傳統する、因襲のつながる「家」の中で、鄕黨のあらゆる男女が、祖先の幽靈と共に生活してゐる。

 田舍に於ては、すべての家々の時計が動いてゐない。そこでは古びた柱時計が、遠い過去の曆の中で、先祖の幽靈が生きてゐた時の、同じ昔の指盤を指してゐる。見よ! そこには昔のまゝの村社があり、昔のまゝの白壁があり、昔のまゝの自然がある。そして遠い曾祖母の過去に於て、かれらの先祖が緣組をした如く、今も同じやうな緣組があり、のどかな村落の籬の中では、昔のやうな牛や鷄の聲がしてゐる。

 げに田舍に於ては、自然と共に悠々として實在してゐる、たゞ一の永遠な「時間」がある。そこには過去もなく、現在もなく、未來もない。あらゆるすべての生命が、同じ家族の血すじであつて、冬のさびしい墓地の丘で、かられの不滅の先祖と共に、一つの靈魂と共に生活してゐる。晝も、夜も、昔も、今も、その同じ農夫の生活が、無限に單調につゞいてゐる。そこの環境には變化がない。すべての先祖のあつたやうに、先祖の持つた農具をもち、先祖の耗した仕方でもつて、不變に同じく、同じ時間を續けて行く。變化することは破滅であり、田舍の生活の沒落である。なぜならば時間が斷絕して、永遠に生きる實在から、それの鎻が切れてしまふ。彼等は先祖のそばに居り、必死に土地を離れることを欲しない。なぜならば土地を離れて、家鄕とすべき住家はないから。そこには擴がりもなく、觸りもなく、無限に實在してゐる空間がある。

 荒寥とした自然の中で、田舍の人生は孤立してゐる。婚姻も出產も、葬式も、すべてが部落の壁の中で、仕切られた時空の中で行はれてる。村落は悲しげにより合ひ、蕭條たる山の麓で人間の孤獨にふるえてゐる。そして眞暗な夜の空で、もろこしの葉がざわざわと風に鳴る時、農家の薄暗い背戶の厩に、かすかに蠟燭の光がもれてゐる。馬もまた、そこの暗闇にうづくまつて、先祖と共に眠つてゐるのだ。永遠に、永遠に、過去の遠い昔から居た如く。

 

   *]

毛利梅園「梅園介譜」 水蟲類 蝦(テナガエビ) / テナガエビ


[やぶちゃん注:一年弱放置していたカテゴリ『毛利梅園「梅園介譜」』を再開し、全種・全文の電子化注を目指すこととする。最近、ちょっと大物の電子化注をしても、何をしても、今一つ、嘗てのような達成感を感じない。但し、今現在の主な作業の大きな一つである萩原朔太郎の全詩集のメランコリックな詩篇の全電子化注をものそうとしているせいでは――ない。それはどうも――偏愛する海産無脊椎動物と、永らく、ご無沙汰しているためのような気が強くしてきた。当初は、ホヤやナマコのパブリック・ドメインの著作を電子化しようと思ったが、ちょっと探したが、なかなか合点出来るものが見当たらない。さればこそ、この毛利梅園の「介譜」を冒頭から順にテツテ的にやっつけるに若くはないと考えた。しかし、目録は二百二十六を数え、未だ済んだのは二十二ほどだから、まあ、毎日、少しずつやっても、半年はかかりそうだな(なお、途中、既電子化の箇所に至るとともに、再点検を行い、修正する)。

 底本は今まで、実は私は、国立国会図書館デジタルコレクションの「梅園介譜」と、同じ国立国会図書館デジタルコレクションの毛利梅園の「介譜」の二つをごっちゃにして使用してきたのであったが(別本としての意識は、無論、あった)、今回、調べたところ、後者が梅園の自筆であることが確認出来た(国立国会図書館デジタルコレクションの私の敬愛する磯野直秀先生の論文「『梅園画譜』とその周辺」参照されたい。なお、お恥ずかしいことに国立国会図書館デジタルコレクションの当該書誌情報にも『自筆』とあるのであった)ので、後者を用いることとする(前掲写本も図をよく写してはいるのだが、如何せん、発色が後者の方が遙かによい)。凡例は今までの、一行字数合致だと、読み難い箇所が生ずるので、繋がる文は繋げた。既に公開したものも、漸次、そのように作り替える。

 

[やぶちゃん注:ここが底本全図(以下の説明はリンク先を別ウィンドウで開いて見られんことをお薦めする)。「水蟲類」は、巻頭のパート標題だが、ここで電子化した。因みに、トリミングした図の下方にちょっと覗いて見えるのは、既電子化注した『毛利梅園「梅園介譜」 海鼠』(厳密には既に述べた通り、毛利梅園の自筆「介譜」)の尾部であり、左の画面外から伸びている鉗脚二本と六本の鬚(第一・第二触角の分岐した先端)は、左上にある「※」【一種。モクチ。】(「※」=「虫」+「殳」。「蝦」の異体略字)とあるエビの一種のそれ。また、本種の左の長い第二歩脚の先に書かれてある「癸巳林鐘四日眞寫」(「林鐘」は陰暦六月の異名)は、その左上に描かれている異名「モクチ」の絵の臨書写の日付であるから、無関係である。]

Tenagaebi

        水蟲類

 

蝦〔てながゑび〕〔◦筑州方言、「杖つきゑび」と云ふ。◦「草蝦」〔てながゑび。〕。「八閩通志」に出づ。〕

 

乙未(きのとひつじ)六月三伏(さんぷく)廿七日、葛飾領に於いて、釣りを埀れ、之れを得、眞寫す。

 

[やぶちゃん注:本種はその特異な第二歩脚の長さ、分布域と見事に描かれたその形状から、名にし負う、

節足動物門軟甲綱ホンエビ上目十脚目テナガエビ科テナガエビ亜科テナガエビ属テナガエビ Macrobrachium nipponense

に同定して間違いない。梅園は丁寧で、小さな左第一歩脚もちゃんと描き込んである。ウィキの「テナガエビ」(広義)の本種の解説によれば、『体長』十センチメートル『ほど。朝鮮半島南部、中国北岸、台湾、本州、四国、九州に分布するが、九州ではヒラテテナガエビ』(Macrobrachium japonicum )『やミナミテナガエビ』(Macrobrachium formosense :同ウィキでは『九州や沖縄で「テナガエビ」といえば』、『この種類を指すことが多い』とある)『の方が多い』。鉗脚が『非常に細長く、オスでは体長の』一・八『倍に達する。地方によっては淡水でも成長できる河川残留型(陸封型)となり、湖やダムで繁殖する個体群もいる』とあるので、本個体は♂個体である可能性が高い。「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」の同種のページでは、食用としての『移植が盛んで、滋賀県琵琶湖には大正』六(一九一七)年から八『年頃、茨城県霞ヶ浦から』百五十六『匹が放流されて定着。福井県三方湖にも移植されて定着している』とあり、『スジエビ』(テナガエビ科スジエビ属スジエビ Palaemon paucidens )『とともに一般には「川エビ」などといわれ』、『流通しているもの。本種をスルメなどを餌に釣る光景は都会化が進んだ現在でも見られる。汚染には強いようだ』。『市場には茨城県や青森県、北海道から入荷する。特に霞ヶ浦からくるものは』、『元気に生きていて値段も高い。霞ヶ浦といえば』、『古くから「えびたる漁」というのが盛んであったという。これは『霞ヶ浦風土記』(佐賀純一著 常陽新聞社)にあるが、テナガエビ漁だけで暮らしていけるほど』、『漁獲量が多かった時代は遥かに遠い』とあり、『利用法はスジエビと同じで飲食店などで唐揚げなどになる』とある。但し、調べて見ると、これは漁法ではなく、保存・移送法のようである。「霞ヶ浦への招待 ファイル20 §19 霞ケ浦の漁業」(PDF)によれば、明治一八(一八八五) 年に『書かれた「霞ヶ浦魚漁通信」(茨城県勧業報告第』三十三『号)には「霞ヶ浦の漁はワカサギ、エビを第一とする。近年は桜エビと称するものを製造するようになって子持ちのエビを獲るので収穫は激減した。土用』三十『日を禁漁にすれば』、『エビの収穫は増すだろう。桜エビは乾燥したものを樽(たる)に詰め』、『空気をふさぐと』、『色が変らず』、『味が良くなる。販路は東京または海外輸出」(意訳)と書かれており、桜蝦は』、翌明治十九年に『上野公園で開かれた「大日本水産共進会」(県下で』百三十『品を出品)北浦の笹浸し漁』で五『等銅賞(乾公魚は褒状)、明治』二十一『年の「宮城県主催水産共進会」で』四等・五等(乾公魚は五等)に『入賞しています』とあったからである。この「桜蝦」こそが、霞ヶ浦の幻の豊漁のテナガエビだったのであろう。

「筑州」筑紫。しかしこれは面白い異名としてただ挙げただけである。毛利梅園は旗本である(文政五(一八二二)年十二月二十四日に書院番諏訪備前守組に加わっている)。

「草蝦」テナガエビの成体個体の色は全身が緑褐色から灰褐色を呈する。

「八閩通志」(はちびんつうし)明の黄仲昭の編になる福建省(「閩」(びん)は同省の略古称)の地誌。福建省は宋代に福州・建州・泉州・漳州・汀州・南剣州の六州と邵武・興化の二郡に分かれていたことから、かくも称される。一四九〇年跋。全八十七巻。巻之二十五に『蝦其類不一。草蝦、頭大身促、前兩足大而長、生池譯中。』とある。

「乙未」天保六(一八三五)年。

「六月三伏(さんぷく)廿七日」「三伏」は「夏の最も暑い時期」を指す長期期間の呼称。具体的には夏至の後の第三庚(かのえ)までを「初伏」、以下、第四の庚までを「中伏」、立秋後の初めての庚までを「末伏」と称し、その初・中・末の伏の総称であるが、ここで同年の夏至を調べて見ると、陰暦五月二十七日(グレゴリオ暦六月二十二日)で、「中伏」が陰暦七月二日に当たる(グレゴリオ暦七月二十七日)であるから、この陰暦六月二十七日(グレゴリオ暦七月二十二日)は初伏の終り近くにあたる。

「葛飾領」この謂いがよく判らぬが、ウィキの「葛飾郡」によれば、『江戸幕府の支配の下で、当郡内のうち』、『江戸城に近い本所や深川は江戸市街地の一部を構成し、町人地区は町奉行の支配下に置かれた』。『一方、利根川に面する軍事・交通上の要衝である古河や関宿には譜代大名が配置された』(古河藩〔☜〕・関宿藩)。『初期には山崎』(現在の野田市)や栗原(現在の船橋市)、藤心(「ふじごころ」或いは相馬郡舟戸。ともに現在の柏市)に『規模の小さな藩が置かれていたこともある(下総山崎藩、栗原藩、舟戸藩)。しかし、これらの藩の領地はいずれも当郡の一部を占めるのみであり、郡内の多くの村は関東郡代支配下の幕府直轄領(天領)または旗本支配地とされた』とあるから、葛飾の天領ということか。まあ、旗本だから、問題はない。ただ、現在、事績が乏しい梅園であるが、当該ウィキによれば、享和三(一八〇三)年、『木挽町築地の拝領屋敷』五百坪が『旗本寄合席有馬熊五郎へ譲られ』たため、梅園は『白山鶏声ヶ窪』(けいせいがくぼ)にあった〔☞〕『古河藩土井家屋敷内』の八百五十二坪の『地に転居した』とあるのがちょっとだけ気になった。この中央附近(グーグル・マップ・データ)に土居家屋敷はあった。ここに当時いたかどうかは判らぬが、東北に六・五キロメートルほどで、旧葛飾郡(ただ古河は遙か北ではある)荒川を隔てて近い。アシナガエビは淡水産であるから、ここで獲れても何ら問題はない。

「釣りを埀れ、之れを得、眞寫す」先の磯野先生の『梅園画譜』とその周辺」によれば、毛利梅園は、「梅園魚譜」(私の『毛利梅園「梅園魚譜」』ももっと進んでいません。悪しからず)の(コンマを読点に代えた)『注記によると自分で釣った魚が少なくない。釣の場所は尾久川、綾瀬川、戸田川、王子川、不忍池、飛鳥山下、大森辺の海辺など。出入りの魚屋に日本橋の魚河岸を探索させるなど、魚商を通じて入手した例もかなりある』とある。]

萩原朔太郎詩集「宿命」「散文詩」パート(「自註」附) 船室から / 原本画像添付

 

Senisiukara

 

   船 室 か ら

 

 嵐、 嵐、 浪、 浪、 大浪、 大浪、 大浪。 傾むく地平線、 上昇する地平線、落ちくる地平線。 がちやがちや、 がちやがちや。 上甲板へ、 上甲板へ。 (チエン)を卷け、 (チエン)を卷け。 突進する、 突進する水夫ら。 船室の窓、 窓、 窓、 窓。 傾むく地平線、 上昇する地平線。 (チエン)、 (チエン)、 (チエン)。 風、 風、 風。 水、 水、 水。 船窓(ハツチ)を閉めろ。 船窓(ハツチ)を閉めろ。 右舷へ、 左舷へ。 浪、 浪、 浪。 ほひゆーる。 ほひゆーる。 ほひゆーる。

 

[やぶちゃん注:「」は「鎖」の異体字。本篇では底本の句読点の後の有意な空き(単なる活版の組み方或いは句読点の活字の性質によるものに過ぎない)が、明らかにヴィジュアルに与える感じが異なるので、かく句読点の後を空けた。所謂、乗船中の主に外洋でのローリングやピッチングの強烈なうねりが視覚的に表現されているように原本では見える(偶然なのだが)ように感ずるからである。リンクだけでは気が済まない。底本の国立国会図書館デジタルコレクションの画像をトリミング補正(汚損も可能な限り除去した)して添えておく。以下の初出(本文自体にも異同が有意にある)と比べて、明らかに印象が異なる。

初出は「新しき欲情」の「第五放射線」パートの「作品番號」「258」。以下に示す。「上昇する地平線」の後は改行で句読点がないが、躓くので、一字空けを施しいておいた。

   *

     258

船室から  嵐、嵐、浪、浪、大浪、大浪、大浪。傾むく地平線、上昇する地平線 落ちくる地平線。がちやがちや、がちやがちや。上甲板へ、上甲板へ。鎻(ちえん)を卷け、鎻(ちえん)を卷け。突進する、突進する水夫ら。船室の窓、窓、窓、窓、傾むく地平線、上昇する地平線。大洪水、大洪水。風、風、風。扉(どあ)を閉めろ、扉(どあ)を閉めろ。ほひゆーる、ほひゆーる、ほひゆーる、る、る、る‥‥‥‥(暴風雨の幻想として)

 

   *]

萩原朔太郎詩集「宿命」「散文詩」パート(「自註」附) 寂寥の川邊

 

   寂 寥 の 川 邊

 

 古驛の、柳のある川の岸で、かれは何を釣らうとするのか。やがて生活の薄暮がくるまで、そんなにも長い間、針のない釣竿で……。「否」とその支那人が答へた。「魚の美しく走るを眺めよ、水の靜かに行くを眺めよ。いかに君はこの靜謐を好まないか。この風景の聰明な情趣を。むしろ私は、終日釣り得ないことを希望してゐる。されば日當り好い寂寥の岸邊に坐して、私のどんな環境をも亂すなかれ。」

 

寂寥の川邊  支那の太公望の故事による。[やぶちゃん注:巻末の「散文詩自註」のそれを後に配した。]

 

[やぶちゃん注:「その支那人」「太公望」(「自註」)周の文王の軍師にして、後に斉の始祖となった呂尚(斉王在位期間:紀元前一〇二一年頃?~紀元前一〇〇〇年頃)の知られた逸話で、「史記」の巻三十二「斉太公世家第二」にある。「中國哲學書電子化計劃」のこちらの影印本がよい。但し、この本篇で朔太郎が言っているところの道家のパラドキシャルな形而上的哲学は、後代の注釈者によって後附けされたもののように私には思え(そもそも道家思想は中国の「仕官の文学」に鋭く対峙するものであって、軍師や王なんぞとは無縁なものである)、寧ろ、これは、朔太郎の言う、太公望呂尚ではなく、後の、私の偏愛する「荘子」(私が、唯一、漢籍の思想で精読した書)の「秋水篇」の一節こそが真正にマッチする。

 初出は「新しき欲情」の「第五放射線」パートの「作品番號」「221」。以下に示す。太字下線は底本では傍点「●」。鍵括弧の開始がないのはママ。リーダは十六点であるが、圧縮されて実際には三字分である。「日向り好い」はママ。

   *

     221

寂寥の川邊  古驛の、柳のある川の岸で、かれは何を釣らうとするのか。やがて生活の薄暮がくるまで、そんなにも長い間、針のない釣竿で‥‥‥‥‥‥‥‥。「否」その支那人が答へた。魚の美しく走るを眺めよ、いかに君はこの靜謐を好まないか。この風景の中に於ての寂寥の情感を。恐らくはむしろ私にまで、釣り得ないことの强い希望がここにある。されば日向り好い情景の岸邊に座して、どんな環境をも亂すなかれ。」

 

   *

不全箇所があるものの、荘子の無為自然の思想をよく伝えているのは、初出である。本篇はぐだぐだと下らぬ「物化」としての人間の意識の過程を、無駄に語り過ぎている。]

萩原朔太郎詩集「宿命」「散文詩」パート(「自註」附) 運命への忍辱

 

   運命への忍辱

 

 とはいへ環境の闇を突破すべき、どんな力がそこにあるか。齒がみてこらへよ。こらへよ。こらへよ。

 

[やぶちゃん注:初出は「新しき欲情」の「第五放射線」パートの「作品番號」「219」。標題は「斷橋!」である。以下に示す。異同はない。

   *

      219

運命への忍辱  とはいへ環境の闇を突破すべき、どんな力がそこにあるか。齒がみてこらへよ。こらへよ。こらへよ。

 

   *]

萩原朔太郎詩集「宿命」「散文詩」パート(「自註」附) 斷橋

 

   斷 橋

 

 夜道を走る汽車まで、一つの赤い燈火を示せよ。今そこに危險がある。斷橋! 斷橋! ああ悲鳴は風をつんざく。だれがそれを知るか。精神は闇の曠野をひた走る。急行し、急行し、急行し、彼の悲劇の終驛へと。

 

[やぶちゃん注:初出は「新しき欲情」の「第五放射線」パートの「作品番號」「218」。標題は「斷橋!」である。以下に示す。

   *

    218

斷橋!  夜道を走る汽車まで、一つの赤い燈火を示せよ。今そこに危險がある。斷橋! 斷橋! ああ悲鳴は風をつんざく。だれがそれを知るか。精神は闇の曠野をひた走る。急行し、急行し、急行し、彼の悲劇の終驛へと。

 

   *]

萩原朔太郎詩集「宿命」「散文詩」パート(「自註」附) 正規表現版 極光地方から

 

   極光地方から

 

 海豹(あざらし)のやうに、極光の見える氷の上で、ぼんやりと「自分を忘れて」座つてゐたい。そこに時劫がすぎ去つて行く。晝夜のない極光地方の、いつも暮れ方のやうな光線が、鈍く悲しげに幽滅するところ。ああその遠い北極圈の氷の上で、ぼんやりと海豹のやうに座つて居たい。永遠に、永遠に、自分を忘れて、思惟のほの暗い海に浮ぶ、一つの佗しい幻象を眺めて居たいのです。

 

[やぶちゃん注:初出は「新しき欲情」の「第五放射線」パートの「作品番號」「209」。以下に示す。

   *

     209

極光地方から  海豹(あざらし)のやうに、極光の見える氷の上で、ぼんやりと「自分を忘れて」座つてゐたい。そこに時劫がすぎ去つて行く。晝夜のない極光地方の、いつも暮れ方のやうな光線が、鈍く悲しげに幽滅するところ。ああその遠い北極圈の氷の上でぼんやりと海豹のやうに坐つて居たい。永遠に、永遠に、自分を忘れて、思惟のほの暗い海に浮ぶ、一つの佗しい幻象を眺めて居たいのです。

 

   *

「ああその遠い北極圈の氷の上で」の後の読点がないが、これは底本では本篇内でサイン行目末で、版組み上、除去された可能性が高い。されば、異同はないことになる。]

萩原朔太郎詩集「宿命」「散文詩」パート(「自註」附) 正規表現版 木偶芝居

 

   木 偶 芝 居

 

 あの怪人物が手にもつ一つの巨大な棒を見よ。それが高くふりあげられ、力を込めてまつすぐに打ちおろす時、あれらの家屋は破壞され、めちやくちやになり、警官の如きもの、隊長の如きもの、ビア樽の如きもの、橫倒しにされ、その遠心力でもつて舞臺の圈外へ吹つとばされる。そこで靑白い音樂のリズムが起り、すばらしい巨きな月が舞臺の空へ昇つてくる。ぐんぐんぐんぐんと上の方へ、とめどもなく高く昇る。おおその時、その時、その破壞された家の下から、どんな一つの物悲しい言葉が聽えてくるか――一つの怪奇な木偶(にんぎやう)の靈魂は、かれの細長い舌を以てすら「幽冥に於ける思想」を語るであらう。喇叭を吹くやうなバスの調子で。

 

[やぶちゃん注:太字は底本では傍点「・」、太字下線は傍点「◎」である。なお、ここに語られた文楽の演目が何であるか、私の乏しい鑑賞記憶では指定出来ない。識者の御教授を切に乞うものである。

 初出は「新しき欲情」の「第五放射線」パートの「作品番號」「200。以下に示す。太字下線は底本では傍点「﹅」、太字斜体は傍点「●」である。

   *

     200

木偶(にんぎやう)芝居  あの怪人物が手にもつ一つの巨大な棒を見よ。それが高くふりあげられ、力を込めてまつすぐに打ちおろす時、あれらの家屋は破壞され、めちやくちやになり、官警の如きもの、隊長の如きもの、ビア樽の如きもの、橫倒しにされ、その遠心力でもつて舞臺の圈外へ吹つとばされる。そこで靑白い音樂のリズムが起り、すばらしい巨きな月が舞臺の空へ昇つてくる。ぐんぐんぐんぐんと上の方へ、とめどもなく高く昇る。おおその時、その時、その破壞された家の下から、どんな一つの物悲しい言葉が聽えてくるか――一つの怪奇な木偶(にんぎやう)の靈魂は、かれの細長い舌を以てすら「幽冥に於ける思想」を語るであらう。喇叭を吹くやうなバスの調子で。

 

   *]

萩原朔太郎詩集「宿命」「散文詩」パート(「自註」附) 正規表現版 AULD LANG SYNE !

 

   AULD LANG SYNE !

 

 波止場に於て、今や出帆しようとする船の上から、彼の合圖をする人に注意せよ。きけ、どんな悅ばしい告別が、どんな氣の利いた挨拶(あいさつ)が、彼の見送りの人々にまで語られるか。今や一つの精神は、海を越えて軟風の沖へ出帆する。されば健在であれ、親しき、懷かしき、また敵意ある、敵意なき、正に私から忘られようとしてゐる知己の人々よ。私は遠く行き、もはや君らと何の煩はしい交涉もないであらう。そして君らはまた、正に君らの陸地から立去らうとする帆影にまで、あのほつとした氣輕さの平和――すべての見送人が感じ得るところの、あの氣の輕々とした幸福――を感ずるであらう。もはやそこには、何の鬱陶しい天氣もなく、來るべき航海日和の、いかに晴々として麗らかに知覺さらることぞ。おお今、碇をあげよ水夫ども。おーるぼーと。……聽け! あの音樂は起る。見送る人、見送られる人の感情にまで、さばかり淚ぐましい「忘却の悅び」を感じさせるところの、あの古風なるスコツトランドの旋律は! Should auld acquaintance be forgot, and never brought to mind! Should auld acquaintance be forgot, and days of auld lang syne!

 

 

 AULD LANG SYNE! 人は新しく生きるために、絕えず告別せねばならない。すべての古き親しき知己から、環境から、思想から、習慣から。

 告別することの悅びは、過去を忘却することの悅びである。「永久に忘れないで」と、波止場に見送る人々は言ふ。「永久に忘れはしない」と、甲板(デツキ)に見送られる人々が言ふ。だが兩方とも、意識の潛在する心の影では、忘却されることの悅びを知つてゐるのだ。それ故にこそ、あの Auld lang syne (螢の光)の旋律が、古き事物や舊知に對する告別の悲しみを奏しないで、逆にその麗らかな船出に於ける、忘却の悅びを奏するのである。[やぶちゃん注:巻末にある本編の「散文詩自註」のそれをここに配した。]

 

[やぶちゃん注:太字は底本では傍点「◎」。「知覺さらることぞ。」はママ。以下に示す初出から「知覺せらるることぞ。」の誤植かと思われる。なお、老婆心乍ら、二箇所の「彼の」は「かれ」ではなく、「か」で、三人称ではなく、指示語「かの」である。

AULD LANG SYNE !」は言わずもがなであるが、「蛍の光」の原曲として知られる、スコットランドの民謡にして非公式な準国歌。私も好きなスコットランドの国民的詩人ロバート・バーンズ(Robert Burns 一七五九年~一七九六年)の作詞である。古英語の音韻を残すスコットランド語表記であるが、通常「!」は附さない。音写は「オールド・ラング・サイン」。現代英語では逐語訳で「old long since」、意訳では「times gone by」、本邦では古くは「久しき昔」などと訳された。朔太郎が最後に引いているのは、冒頭の一連であるが、引用原詩にある二つの「!」は、当該邦文ウィキの原詩全篇(音楽(作曲者不詳)に合わせてバーンズ自身が一から書き直したとある)を見ると(邦訳附き)、二つとも「?」であり、同英文ウィキの「Lyrics」の項に掲げられた、原詩と、二つのヴァージョンでも、孰れも原詩は二箇所とも「?」であるので、そちらが正しい。

 初出は「新しき欲情」の「第四放射線」パートの「作品番號」「166」。以下に示す。太字は底本では傍点「●」である。標題邦文タイトルは有意にポイントが大きく、黒々としているゴシックである。「錠」はママ。誤字或いは誤植。英文(初出は斜体ではない)の二箇所「aud」「bronght」も恐らくは誤植。「おーるぼー。」は私は違和感なし。

   *

     166

AULD LANG SYNE !  波止場に於て、今や出帆しようとする船の上から、彼の合圖をする人に注意せよ。きけ、どんな悅ばしい告別が、どんな氣の利いた挨拶(あいさつ)が、彼の見送りの人々にまで語られるか。今や一つの精神は、海を越えて軟風の沖へ出帆する。されば健在であれ、親しき、懷かしき、また敵意ある、敵意なき、正に私から忘られようとしてゐる知己の人々よ。私は遠く行き、もはや君らと何の煩はしい交涉もないであらう。そして君らはまた、正に君らの陸地から立去らうとする帆影にまで、あのほつとした氣輕さの平和――すべての見送人が感じ得るところの、あの氣の輕々とした幸福――を感ずるであらう。もはやそこには、何の鬱陶しい天氣もなく、來るべき航海日和の、いかに晴々として麗らかに知覺さらることぞ。おお今、錠をあげよ水夫ども。おーるぼー。……聽け! あの音樂は起る。見送る人、見送られる人の感情にまで、さばかり淚ぐましい「忘却の悅び」を感じさせるところの、あの古風なるスコツトランドの旋律は! Should auld acquaintance be forgot, aud never bronght to mind! Should auld acquaintance be forgot, and days of auld lang syne!

 

   *]

萩原朔太郎詩集「宿命」「散文詩」パート(「自註」附) 正規表現版 春のくる時

 

   春 の く る 時

 

 扇もつ若い娘ら、春の屛風の前に居て、君のしなやかな肩をすべらせ、艶めかしい曲線は足にからむ。扇もつ若い娘ら、君の笑顏に情をふくめよ、春は來らんとす。

 

[やぶちゃん注:初出は「新しき欲情」の「第五放射線」パートの「作品番號」「208」。以下に示す。

   *

      208

春のくる時  扇もつ若い娘ら、春の屛風の前に於て、君のしなやかな肩をすべらせ、艶めかしい曲線は足にからむ。扇もつ若い娘ら、君の笑顏に情をふくめよ、春は來らんとす。

 

   *]

萩原朔太郎詩集「宿命」「散文詩」パート(「自註」附) 正規表現版 喘ぐ馬を驅る

 

   喘ぐ馬を驅る

 

 日曜の朝、毛並の艶々とした二頭の駿馬を驅つて、輕洒な馬車を郊外の並木路に走らせる。といつたのとは、全然反對の風景がそこにありはしないか。曇天の重い空の下で、行き惱んだ運搬車。馭者はしきりにあせるけれども、駄馬が少しも動かないといつたやうな、さういふ息苦しい景色がありはしないか。いかに思想家よ。すつかりと荷造りされたる思想の前に、言葉が逡巡して進まないといふやうな、我等の鬱陶しき日和の多いことよ。

 

[やぶちゃん注:「驅る」「驅つて」は「かける」「かけつて」と訓じておく。

 初出は「新しき欲情」の「第四放射線」パートの「作品番號」「160」。以下に示す。

   *

     160

喘ぐ馬を驅る  日曜の朝、毛並の艶々とした二頭の駿馬を驅つて、輕洒な馬車を郊外の並木路に走らせる。といつたのとは、全然反對の風景がそこにありはしないか。曇天の重い空の下で行き惱んだ運搬車。馭者はしきりにあせるけれども、駄馬が少しも動かないといつたやうな、さういふ息苦しい景色がありはしないか。いかに思想家よ。すつかりと荷造りされたる思想の前に、言葉が逡巡して進まないといふやうな、我等の鬱陶しき日和の多いことよ。 

   *]

2022/01/15

狗張子卷之一 北條甚五郞出家 / 狗張子卷之一~了

 

   ○北條甚五郞出家

 

Jingoruosytuke

 

[やぶちゃん注:挿絵は底本のものをトリミング補正し、かなり念入りに清拭した。右幅は地獄の書記官司録と司命を左右に控えさせた閻魔大王。その閻魔の左には定番アイテムの生前の善悪の行為が総て再現映像される浄玻璃の鏡。その後ろには私の大好きな人頭杖(にんとうじょう)。若い女の首が生前に悪事を、男の首が善行を語るという。閻魔の前に、甚五郎と、亡者として鬼卒に引っ立てられてきた哀れな母がいる。二幅の中央上部に地獄の業火が燃え、そこから二羽の鳥が飛び来っている。左幅の右中央に甚五郎へ遺恨激しい赤斑(あかまだ)らの犬。その下方にある奇妙なものが、どうも地獄と現世を通底する穴であるようだ。中央下方に、この世に帰還した甚五郎、その前に地獄へ赴かんとする武具に身を包んだ「忍(おし)の長七」の亡霊が描かれてある。挿絵としての面白さが満載だ。]

 

 長尾謙信の家老北條丹後守は、越後の國橡生(とちふ)の城代として、大剛(《たい》かう)の名あり。

 其弟甚五郞は、年、いまだ二十あまりなり。兄におとらぬ勇士なり。

 天正元年[やぶちゃん注:一五七三年。]の春二月、心地わづらひ、俄かに死(しに)けり。平生、佛(ぶつ)とも、法《ほふ》とも、しらず、死するや、直(すぐ)に、琰魔王界(えんまわうかい)におもむく。

 大王、出《いで》て、の給はく、

「汝、世にありし時、いづれの功德(くどく)をいたせしや。罪科(つみとが)は山のごとしといへども、壽(いのち)の算(さん)、いまだ、あり。ゆるして、二たび、人間(にんげん)にかへすべし。去《さり》ながら、汝が母、すでに、地ごくにあり、よびよせて、對面せさすべし。よみがへりなば、よく、跡をとぶらふべきなり。」

とて、司錄に仰せてめしけるに、まことにやせつかれたるありさま、みしにもあらぬを[やぶちゃん注:未だ嘗て見たこともないほどのありさまであるのに。]、手かせ・首かせをいれて、庭のおもてに引すゑたり。

 母は、甚五郞を見て、淚を流し、

「我、世にありし時は、人の色よき小袖をうらやみ、馬物の具・鎧・太刀までも、よくしてあたへ、『和殿(わとの)を、世にたて、いかめしく見ばや。』とのみ思ひくらし、佛法の事は、外《ほか》の事に聞《きき》なし、むなしくなりて、賴(たのむ)べき功德も善根もあらばこそ、死しては直(すぐ)に地ごくにおもむき、つるぎの山をこえ、あかがねの湯につき入《いれ》られ、しばしのあひだも、くるしみのやすらかなる事、なし。汝は、『二たび、人間に歸る。』と、きく。わが跡、よくよく、とぶらへや。」

と、いひもはてぬに、おそろしき獄卒、その母を引たてつれて、ゆくゆく、泣さけぶ聲、はるかに聞えしかば、甚五郞、悲しさ、身にあまりて、淚のおつる事、雨の如し。

 琰王(ゑんわう)、仰《おほせ》られけるやう、

「汝、よく見て歸り、その跡とふ事を、わするべからず。とくとく、歸れ。」

と仰ける所に、もろもろの鳥・けだもの、きたりあつまりて、甚五郞を目がけて、懸りけるを、琰王、のたまはく、

「娑婆に歸らば、汝等がために、功德をいとなみ、皆、人間に生《しやう》をうくべし。はやくゆるして、歸せや。」

と、あり。

 もろもろの鳥・けだものは、みな、しりぞくに、あかく斑(まだら)なる狗(いぬ)、ひとつ殘りて、甚五郞が衣をくひとめて、放たず。

「いかに。」

と問ひ給ふに[やぶちゃん注:主語は閻魔大王。]、こたへて申すやう、

「我(わが)業因(ごふいん)、つたなくして、狗と生まれ、此家に、とらへられたり。甚五郞は、軍(いくさ)のいとまには、鵜(う)・鷹(たか)のあそびに日をおくり、鷹のために、我をくゝくりて、さらば、ころしもやらず、股(もも)の皮を剝(はぎ)かけて、用ひるにしたがひて、切り鎩(そ)ぎて、鷹の餌(ゑ)に、せらる。その痛(いた)み、くるしむ事、心も、こと葉も、絕《たえ》て、誰(たれ)に訴ふべきたよりもなく、悲しき中に死(しに)けるは、いつの世に、わするべき。そのうらみを、はうぜん[やぶちゃん注:「報ぜん」。]ためなり。」

といふ。

 琰王、さまざま、なだめて、司命に仰(おほせ)て歸し給ふ。

 路(みち)にして、「忍(をし)の長七」とて、この程、敵(てき)にうたれし傍輩(はうばい)に逢《あひ》たり。

 長七、すでに甚五郞が袖をひかへて、

「我は、只今、地ごくにおもむくなり。我が父母に、『「跡とぶらひて給はれ」と言傅(ことづて)せし』と、屆けてたべ。」

といふ。

「いかに屆け侍べるとも、しるしなくては、まことしからずや。」

と云ひければ、腰より、ひとつの「かうがい」を取出《とりいだ》し、

「これを、しるしに。」

とて、なくなく、わかれけり。

 送りける司命の、をしへけるやう、

「たとひ、とぶらひのため、經をうつし、佛(ほとけ)をつくりても、非道に得たる金銀にていたしては、さらに亡者の功德に成《なり》がたし。その亡者の祕藏に思ひし物こそ、たしかには、とゞけ。」

とぞ、かたりける。

 甚五郞、道にすゝみ、大《おほき》なる穴に行《ゆき》かゝり、此中《このなか》に落つると、おぼえて、よみがえり、忍(をし)が、ことづてたりし「かうがい」は、手に、あり。

 その家に、つかはしければ、

「長七うたれし、そのかばねをはうぶりし時に、棺に入て、送りし物なり。何のうたがひ、なし。」

とて、父母、なくなく、とぶらひ、「くやう」をいたしけり。

 甚五郞は、

「今は。出家の身とならばや。」

と、つらつら打案《いつあん》ずる中《うち》に、弓矢とる身の習ひ、かかる世の亂れをうしろになし、獨りのがるゝは、君《くん》のためには、不忠となり、親のためには、家をうしなふの不孝の子なり。天神地祇(てんしんぢぎ)も、さこそは、にくみ給ひ、世上の人にも、笑はれ、恥かしめを、死後までも名をさらすなるべしや。さりながら、『恩をすてゝ無爲に入(いる)をば、まことの「はうおん」[やぶちゃん注:「報恩」。]なり。』と、佛(ほとけ)もとき給へば、世の望みを忘れ、慾をはなれ、抖藪行脚(とさうあんぎや)の身とならば、人も、思ひゆるし、君も、捨え給う習ひ也(なり)。させる所帶もなく、妻子もなき我なり。髻(もとゞり)に何の心をか殘すべき。後世(ごせ)こそ大事なれ。とかくの事は、用、なし。」

とて、さまを替へて、家を出つゝ、諸國をめぐる修行者とぞ成にける。

 

 狗波利子卷一終

 

[やぶちゃん注:「謙信の家老北條丹後守」早稲田大学図書館「古典総合データベース」の原本では題名の「北條」に普通に「ほうてふ」(=ほうでふ(但し、「ほうでう」が歴史的仮名遣としては正しい)と読みを添えているが、この姓は「きたじょう」が正しい。戦国から織豊時代の武将で越後刈羽郡北条(きたじょう:現在の新潟県柏崎市北条(きたじょう:グーグル・マップ・データ。以下同じ))の領主北条高広(きたじょうたかひろ 生没年未詳)である。上杉謙信配下の上野厩橋(うまやばし)城主(永禄六(一五六三)年任命)として、十八年の長きに亙って謙信の関東経略に関与した。但し、彼は実は過去とこの後に、二度も謙信を裏切っており、最初は天文二三(一五五四)年に長尾氏に敵対する甲斐国の武田信玄と通じ、当時の居城であった北条城で、主君長尾景虎(後の上杉謙信)に対し、反乱を起こしたものの、翌年、長尾軍の反攻を受けて降伏、景虎に再び仕えて奉行として活躍した。二度目は永禄一〇(一五六七)年で、今度は北条氏康に通じて謙信に背いたが、翌年に上杉氏と後北条氏との間で越相同盟が結ばれて両勢力は和解してしまい、宙に浮いた立場となった高広は北条氏政の仲介を受けて、性懲りもなく、再び上杉家に帰参し、以後は上杉氏の家臣として仕えたというトンデモ経緯がある。謙信の死後は、厩橋領に土着し、武田勝頼・滝川一益(かずます)・北条氏直(ほうじょううじなお)と主家を変えている。天正一五(一五八七)年までは生存したことが確認されている。なお、本姓は毛利であった。但し、例の江本裕氏の論文「『狗張子』注釈(一)」(『大妻女子大学紀要』一九九九年三月発行・「大妻女子大学学術情報リポジトリ」のこちらから同題論文の総て((一)~(五))がダウン・ロード可能)では、彼或いは彼の子である北条景広(?~天正七(一五七九)年)とする。

「越後の國橡生(とちふ)の城代」。同じく江本氏の論文注で、『越後国古志郡(現新潟県栃尾市)栃尾城か』とされ(ここ)、『高広は永禄六年(一五六三)から上野国厩橋城の城代に抜擢される』が、後の『天正六年(一五七八)に御館の乱』(おたてのらん:同年三月十三日の謙信急死後、上杉家の家督の後継をめぐって、ともに謙信の養子であった上杉景勝(長尾政景の実子)と上杉景虎(北条氏康の実子)との間で起こった越後のお家騒動。景勝が勝利し、謙信の後継者として上杉家の当主となり、後に米沢藩初代藩主となった。景虎及び彼に加担した山内上杉家元当主上杉憲政らは敗死した)『が勃発すると、御館救援の準備のため景広は本拠地北条城へ移った。『北越軍談』二十六には、「北条丹後守長国(注…高広の誤り)厩橋の城代に補せられ、二千貫文の分限と成れり。…長国が父安芸守長朝は越後刈羽郡北条の所士にして、長尾家譜代の郎従たり。輝虎公古志の山家に放逐せられ玉し時、長朝殊に看養を加へまいらせ、打続て忠勤更々怠なきに依て、古志郡栃尾の城代に補せられ、其後関東の総軍人として那波城を守り、謙忠が介副を勤む。され共衰老軍事に倦が故、骸骨を乞て、先年栃尾へ帰り、職事を丹後守に与奪す」とある。』とある。「骸骨を乞ふ」というのは。「仕官中に主君に捧げた自身の身の残骸を乞い受ける」の意から、「 官を退くこと」「致仕を乞う」ことを言う。

「其弟甚五郞」江本氏の注に、『『北越軍談」二十六に『丹後守未だ弥五郎と号し、若武者たりし時』とあるが、そこからとるか。』とされる。ウィキの「北条高広」を見ると、別名に弥五郎と見える。

「琰魔王界」「琰魔」は「閻魔」「焔魔」に同じ。閻魔庁。閻魔大王の裁判を執行する宮殿。

「司錄」「司命」地獄の裁判に於いては「司命(しみょう)」と「司録(しろく)」という書記官が必要な実務処理を担当する。現世での堕獄した者の行いを漏れなく記し、閻魔王を始めとする十王の各冥官の判決文を録する。

「手かせ・首かせ」手枷・首枷。

「むなしくなりて」いざ、死んでみたら。

「もろもろの鳥・けだもの、きたりあつまりて、甚五郞を目がけて、懸りける」江本氏は注で「往生要集」の衆合地獄との類似性を指摘されているが、私は寧ろ、殺生何するものぞの荒武者の勇士となれば、以下を読まずとも、鳥打ち・鷹狩・猪鹿(しし)狩などを好んだに相違なく、それら、甚五郎が殺した鳥獣の亡魂が、彼を責めんと押し寄せてきたと読んだ方が自然である。

「あかく斑(まだら)なる狗(いぬ)」江本氏の注に、『「往生嬰集」(絵入り、寛文三年刊)挿絵には斑の犬が描かれている。』とある。

「鵜(う)・鷹(たか)のあそび」甚五郎は鵜飼漁もやっていたのである。

「鷹のために、我をくゝくりて、さらば、ころしもやらず、股(もも)の皮を剝(はぎ)かけて、用ひるにしたがひて、切り鎩(そ)ぎて、鷹の餌(ゑ)に、せらる」生餌を与えるための残酷極まりない仕儀である。これを知ると、甚五郎が人間界へ帰還するのは私は許せない。

「忍(をし)の長七」江本氏の注に、「忍」は『武蔵国埼玉郡忍(現埼王県行田市)。延徳三年(一四九一)成田親泰築城の忍城がある。』とあり(ここ)、「長七」については、『忍城城主成田長泰からとるか。』とある。成田長泰(明応四(一四九五)年?~天正元(一五七四)年)は当初は関東管領上杉憲政に属したが、後に北条氏康に従った。永禄四(一五六一)年の長尾景虎(謙信)の関東出兵に際し、景虎について、氏康が拠る小田原城を責めた。その後も長尾・北条両氏の間で向背を繰り返したが、最後は謙信についた。同八年、子の氏長と不和になり、翌年、隠居した(以上の解説は講談社「日本人名大辞典」に従ったが、生没年は当該ウィキのそれを引いた)。

「かうがい」「笄」。読みは「髪掻(かみかき)」の変化したもの。本来は、髪を掻き上げるのに用いる細長い道具で、男女ともに用いた。箸に似て、根もとが平たく、先端は細く、通常は象牙や銀で作った。また、ここでは或いは、同名で、刀の鞘の付属品の一つで、金属で作り、刀の差表(さしおもて:刀を差した際に外側を向く)に鍔を通して挿しておき、髪を撫でつけたり、手裏剣代りに用いた(但し、中世以降のものは殆どが実用性を持たず、装飾品として添えられていたともいう)それを指しているものかものかも知れない。

「抖藪(とさう)」は衣食住に対する欲望を払いのけて身心を清浄にすることを言う。]

萩原朔太郎詩集「宿命」「散文詩」パート(「自註」附) 正規表現版 パノラマ館にて

 

   パノラマ館にて

 

 あふげば高い蒼空があり、遠く地平に穹窿は連なつてゐる。見渡す限りの平野のかなた、仄かに遠い山脈の雪が光つて、地平に低く夢のやうな雲が浮んでゐる。ああこの自然をながれゆく靜かな情緖をかんず。遠く眺望の消えて盡きるところは雲か山か。私の幻想は淚ぐましく、遙かな遙かな風景の涯を追ふて夢にさまよふ。

 聽け、あの悲しげなオルゴルはどこに起るか。忘れた世紀の夢をよび起す、あの古めかしい音樂の音色はどこに。さびしく、かなしく、物あはれに。ああマルセーユ、マルセーユ、マルセーユ……。どこにまた遠く、遠方からの喇叭のやうに、錆ある朗らかのベースは鳴りわたる。げにかの物倦げなベースは夢を語る。

「ああ、ああ、歷史は忘れゆく夢のごとし。時は西曆千八百十五年。所はワータルローの平原。あちらに遠く見える一葦の水はマース河。こなた一圓の人家は佛蘭西の村落にございます。史をひもとけば六月十八日。佛蘭西の皇帝ナポレオン一世は、この所にて英普聯合軍と最後の決戰をいたされました。こなた一帶は佛蘭西軍の砲兵陣地、あれなる小高き丘に立てる馬上の人は、これぞ即ち蓋世の英雄ナポレオン・ボナパルト。その側に立てるはネー將軍、ナポレオン麾下の名將にして、鬼と呼ばれた人でございます。あれなる平野の大軍は英將ウエリントンの一隊。こちらの麥畑に累々と倒れて居ますのは、皆之れ佛蘭西兵の死骸でございます。無慘やあまたの砲車は敵彈に擊ち碎かれ、鮮血あたりの草を染めるありさま。ああ悲風蕭々たるかなワータルロー。さすが千古の英雄ナポレオン一世も、この戰ひの敗軍によりまして、遠くセントヘレナの孤島に幽囚の身となりました。こちらをご覽んなさい。三角帽に白十字の襷をかけ、あれなる間道を突擊する一隊はナポレオンの近衞兵。その側面を射擊せるはイギリスの遊擊隊でございます。あなたに遙か遠く山脈の連なるところ。煙の如く砂塵を蹴立てて來る軍馬の一隊は、これぞ即ち普魯西の援軍にして、ブリツヘル將軍の率ゐるものでございます。時は西曆一八一五年、所は佛蘭西の國境ワータルロー。――ああ、ああ、歷史は忘れゆく夢のごとし」

 明るい日光の野景の涯を、わびしい砲煙の白くただよふ。靜かな白日の夢の中で、幻聽の砲聲は空に轟ろく。いづこぞ、いづこぞ、かなしいオルゴルの音の地下にきこゆる。あはれこの古びたパノラマ舘! 幼ない日の遠き追憶のパノラマ舘! かしこに時劫の昔はただよひゐる。ああかの暗い隧路の向ふに、天幕(てんと)の靑い幕の影に、いつもさびしい光線のただよひゐる。

 

 

パノラマ館にて  幼年時代の追懷詩である。明治何年頃か覺えないが、私のごく幼ない頃、上野にパノラマ館があつた。今の科學博物館がある近所で、その高い屋根の上には、赤地に白く PANORAMA と書いた旗が、葉櫻の陰に翩翻(へんぽん)としてゐた。私は此所で、南北戰爭とワーテルローのパノラマを見た。狹く暗く、トンネルのやうになつてる梯子段を登つて行くと、急に明るい廣濶とした望樓に出た。不思議なことには、そのパノラマ館の家の中に、戶外で見ると同じやうな靑空が、無限の穹窿となつて廣がつてるのだ。私は子供の驚異から、確かに魔法の國へ來たと思つた。

 見渡す限り、現實の眞の自然がそこにあつた。野もあれば、畑もあるし、森もあれば、農家もあつた。そして穹窿の盡きる涯には、一抹漠糊たる地平線が浮び、その遠い靑空には、夢のやうな雲が白く日に輝いてゐた。すべて此等の物は、實には油繪に描かれた景色であつた。しかしその館の構造が、光學によつて巧みに光線を利用してるので、見る人の錯覺から、不思議に實景としか思はれないのである。その上に繪は、特殊のパノラマ的手法によつて、透視畫法を極度に效果的に利用して描かれてゐた。ただ望樓のすぐ近い下、觀者の眼にごく間近な部分だけは、實物の家屋や樹木を使用してゐた。だがその實物と繪とのつなぎが、いかにしても判別できないように、光學によつて巧みに工風されてゐた。後にその構造を聞いてから、私は子供の熱心な好奇心で、實物と繪との境界を、どうにかして發見しようとして熱中した。そして遂に、口惜しく絕望するばかりであつた。

 館全體の構造は、今の國技館などのやうに圓形になつて居るので、中心の望樓に立つて眺望すれば、四方の全景が一望の下に入るわけである。そこには一人の說明者が居て、畫面のあちこちを指さしながら、絕えず抑揚のある聲で語つてゐた。その說明の聲に混つて、不斷にまたオルゴールの音が聽えてゐた。それはおそらく、館の何所かで鳴らしてゐるのであらう。少しも騷がしくなく、靜かな夢みるやうな音の響で、絕えず子守唄のやうに流れてゐた。(その頃は、まだ蓄音機が渡來してなかつた。それでかうした音樂の場合、たいてい自鳴機のオルゴールを用ゐた)。

 パノラマ館の印象は、奇妙に物靜かなものであつた。それはおそらく畫面に描かれた風景が、その動體のままの位地で、永久に靜止してゐることから、心象的に感じられるヴイジヨンであらう。馬上に戰況を見てゐる將軍も、銃をそろへて突擊してゐる兵士たちも、その活動の姿勢のままで、岩に刻まれた人のやうに、永久に靜止してゐるのである。それは環境の印象が、さながら現實を生寫しにして、あだかも實の世界に居るやうな錯覺をあたへることから、不思議に矛盾した奇異の思ひを感じさせ、宇宙に太陽が出來ない以前の、却初の靜寂を思はせるのである。特に大砲や火藥の煙が、永久に消え去ることなく、その同じ形のままで、遠い空に夢の如く浮んでゐるのは、寂しくもまた悲しい限りの思ひであつた。その上にもまた、特殊な館の構造から、入口の梯子を昇隆する人の足音が、周圍の壁に反響して、遠雷を鳴くやうに出來てるので、あたかも畫面の中の大砲が、遠くで鳴つてるやうに聽えるのである。

 だがパノラマ館に入つた人が、何人も決して忘られないのは、油繪具で描いた空の靑色である。それが現實の世界に穹窿してゐる、現實の靑空であることを、初めに人々が錯覺することから、その油繪具のワニスの匂ひと、非現實的に美しい靑色とが、この世の外の海市のやうに、阿片の夢に見る空のやうに、妖しい夢魔の幻覺を呼び起すのである。[やぶちゃん注:巻末「散文詩自註」より。太字は底本では傍点「ヽ」。「ワーテルロー」はママ。「漠糊たる」は「模糊」の誤字或いは誤植。「いかにしても判別できないように」の「ように」はママ。「工風」はママで無論、「工夫」が正しい。「却初」は「劫初」誤字或いは誤植。「昇隆」は「昇降」の誤植であろう。「遠雷を鳴聽くやうに出來てるので、」も「遠雷を聽くやうに出來てるので、」の誤植と思われる。]

 

[やぶちゃん注:底本はここから。標題「パノラマ館」と本文内の「パノラマ舘」の漢字表記の違いはママである。ここで初めて萩原朔太郎の巻末にある「散文詩自註」が対応するので、冒頭注で述べた通り、本篇の後に当該のそれを添えた。なお、この「自註」は「自註」パートの最初に配されてあるが、その後には、本篇に先行する詩篇へのそれがあり、本文内の詩篇順序とは異なっている。但し、これは萩原朔太郎の不注意ではなく、この強烈な幼年期億への拘り(それ故に非常に長いものとなっている)がさせた確信犯と言えると私は考えている。

 なお、「ワーテルローの戦い」(フランス語:Bataille de Waterloo)の人物・地名その他については、当該ウィキ及びそのリンク先を読まれたい。ここではいちいち注するつもりはない。但し、少しだけ地理を注しておくと、ワーテルローは現在のベルギーのここ(グーグル・マップ・データ。以下同じ)で、「マース河」はベルギー国境に近いフランスのここ。フランス北東部を水源とし、ベルギーを貫流し、オランダで北海へ注ぐ川で、オランダ語では「Maas」で、フランス語では「Meuse」(ムーズ)である。

「隧路」(すいろ)は地下通路のこと。

「今の科學博物館」(「自註」)とあるが、一応、現在の、上野の現在位置にある「国立科学博物館」を指している。現在の国立科学博物館の前身は明治四(一八七二)年、湯島聖堂内に博物館を設立したことに起源を持ち、現在の同館沿革史では創立を明治一〇(一八七七)年の教育博物館設置としている。この「教育博物館」は、同じ上野山内の西四軒寺跡(現在の東京芸術大学の位置)にあった。それが大正に入って科学博物館設立の機運が高まったことを受け、昭和五(一九三〇)年に上野公園内に新館(現在、「日本館」と呼ばれている建物)が建てられ、その翌昭和六(一九三一)には「東京科学博物館」と改称され、東京市の施設となった(以上はウィキの「国立科学博物館」に拠った)。]

 本散文詩の初出は「新しき欲情」の「第三放射線」パートの「作品番號」「127」であるが、そちらの標題は「靑色のさびしい光線」である。以下に示す。中黒点「・」は実際には有意に大きめ。

   *

 

      127

 

靑色のさびしい光線  あふげば高い蒼空があり、遠く地平に穹窿は連なつてゐる。見渡す限りの平野のかなた、仄かに遠い山脈の雪が光つて、地平に低く夢のやうな雲が浮んでゐる。ああこの自然をながれゆく靜かな情緖をかんず。遠く眺望の消えて盡きるところは雲か山か。私の幻想は淚ぐましく、遙かな遙かな風景の涯を追うて夢にさまよふ。

 聽け、あの悲しげなオルゴルはどこに起るか。忘れた世紀の夢をよび起す、あの古めかしい音樂の音色はどこに。さびしく、かなしく、物あはれに‥‥‥‥。どこにまた遠く、遠方からの喇叭のやうに、錆ある朗らかのベースは鳴りわたる。げにかの物倦げなベースは夢を語る。

『ああ、ああ、歷史は忘れゆく夢のごとし。時は西曆千八百十五年。所はワータルローの平原。あちらに遠く見える一葦の水はマース河。こなた一圓の人家は佛蘭西の村落にございます。史をひもとけば六月十八日。佛蘭西の皇帝ナポレオン一世は、この所にて英獨聯合軍と最後の決戰をいたされました。こなた一帶は佛蘭西軍の砲兵陣地、あれなる小高き丘に立てる馬上の人は、これぞ即ち蓋世の英雄ナポレオン・ボナパルト。その側に立てるはネー將軍、ナポレオン麾下の名將にして、鬼と呼ばれた人でございます。あれなる平野の大軍は英將ウエリントンの一隊。こちらの麥畑に累々と倒れて居ますのは、皆之れ佛蘭西兵の死骸でございます。無慘やあまたの砲車は敵彈に擊ち碎かれ、鮮血あたりの草を染めるありさま。ああ悲風蕭々たるかなワータルロー。さすが千古の英雄ナポレオン一世も、この戰ひの敗軍によりまして、遠くセントヘレナの孤島に幽囚の身となりました。こちらをご覽んなさい。こちらの間道に劍かざして突擊する一隊はナポレオンの近衞兵。その側面を射擊せるはイブリユーヘル將軍の遊擊隊でございます。あなたに遙か遠く山脈の連なるところ、雲のやうに見えます一隊の軍馬は、これぞ即ち普魯西の援軍にして、今や戰場を指して急ぎ來るところ。‥‥ああ、ああ、歷史は忘れゆく夢のごとし‥‥』

 明るい日光の野景の涯を、わびしい砲煙の白くただよふ。靜かな白日の夢の中で、幻聽の砲聲は空に轟ろく。いづこぞ、いづこぞ、かなしいオルゴルの音の地下にきこゆる。あはれこの古びたパノラマ館! 幼ない日の遠き追憶のパノラマ館! かしこに時劫の昔はただよひゐる。ああかの暗い隧路の向ふに、天幕(てんと)の靑い幕の影に、いつもさびしい光線のただよひゐる。

 

   *]

萩原朔太郎詩集「宿命」「散文詩」パート(「自註」附) 正規表現版 荒寥たる地方での會話

 

   荒寥たる地方での會話

 

「くづれた廢墟の廊柱と、そして一望の禿山の外、ここには何も見るべきものがない。この荒寥たる地方の景趣には耐へがたい。」「さらば早くここを立ち去らう。この寒空は健康に良ろしくない。」「まて! 沒風流の男よ。君はこの情趣を解さないか、この廢墟を吹きわたる蕭條たる風の音を。舊き景物はすべて頽れ、新しき市街は未だ興されない。いつさいの信仰は廢つて、瘴煙は地に低く立ち迷つてゐる。ああここでの情景は、すべて私の心を傷ましめる。

そしてそれ故に、げに私はこの情景を立ち去るにしのびない。」

 

 

 荒寥たる地方での會話  現代の日本は、正に「荒寥たる地方」である。古き傳統の文化は廢つて、新しき事物はまだ興らない。我等の時代の日本人は、見る物もなく、聞く物もなく、色もなく匂ひもなく、趣味もなく風情もないところの、滿目蕭條たる文化の廢跡に坐してゐるのである。だがしかし、我等の時代のインテリゼンスは、その蕭條たる廢跡の中に、過渡期のユニイクな文化を眺め、津々として盡きない興味をおぼえるのである。洋服を着て疊に坐り、アパートに住んで味噌汁を啜る僕等の姿は、明治初年の畫家が描いた文明開化の圖と同じく、後世の人々に永くエキゾチツクの奇觀をあたへ、情趣深く珍重されるにちがひないのだ。[やぶちゃん注:巻末の「散文詩自註」にあるこれを、ここに配した。]

 

[やぶちゃん注:底本のここ。リンク先を見られると、前に言った鍵括弧の横画寸詰まりがよく判る。なお、巻末にある萩原朔太郎自身の「散文詩自註」に本篇へのそれがあるので、本電子化注の冒頭に述べた通り、本篇の後ろにそれを配した。但し、同「自註」は本篇については、本篇内の詩篇順列に従っておらず、「パノラマ館にて」「AULD LANG SYNE !」の後に配されてある。但し、これは順序を間違えたのではなく、「パノラマ館にて」にての幼少時記憶の話を是が非でも最初に配したかったからと私は推測するものである。他にも先の「地球を跳躍して」のそれが五番目にあるなど、注意が必要である(私もうっかりして後から添えたりした)。

「寒空」私は「さむぞら」と朗読する。

「頽れ」「くづほれ」「くづをれ」「くづれ」と読むことが可能である。個人的には「くづをれ(くずをれ)」を採る。

「廢つて」「すたつて(すたって)」。

「瘴煙」(しやうえん(しょうえん))は瘴気(悪気・毒気・悪性の病原を含んだ邪悪な気)を含んだ靄(もや)を指す。

 初出は「新しき欲情」の「第三放射線」パートの「作品番號」「116」。以下に示す。太字下線は底本では傍点「●」。

   *

 

      116

 

荒寥たる地方での會話  「くづれた廢墟の廊柱と、そして一望の禿山の外、ここには何も見るべきものがない。この荒寥たる地方の景趣には耐へがたい。」「さらば早くここを立ち去らう。この寒空は健康に良ろしくない。」「まて! 沒風流の男よ。君はこの情趣を解さないか、この廢墟を吹きわたる蕭條たる風の音を。舊き景物はすべて頽れ、新しき市街は未だ起されない。いつさいの信仰は廢つて瘴煙は地に低く立ち迷つてゐる。ああここでの情景はすべて私の心を傷ましめる。そしてそれ故に、げに私はこの情景を立ち去るにしのびない。」

 

   *]

萩原朔太郎詩集「宿命」「散文詩」パート(「自註」附) 正規表現版 夜汽車の窓で

 

   夜汽車の窓で

 

 夜汽車の中で、電燈は暗く、沈鬱した空氣の中で、人々は深い眠りに落ちてゐる。一人起きて窓をひらけば、夜風はつめたく肌にふれ、闇夜の暗黑な野原を飛ぶ、しきりに飛ぶ火蟲をみる。ああこの眞つ暗な恐ろしい景色を貫通する! 深夜の轟々といふ響の中で、いづこへ、いづこへ、私の夜汽車は行かうとするのか。

 

[やぶちゃん注:初出は「新しき欲情」の「第五放射線」パートの「作品番號」「194」。以下に示す。「虫」はママ。

   *

 

     194

 

夜汽車の窓で  夜汽車の中で、電燈は暗く、沈鬱した空氣の中で、人々は深い眠りに落ちてゐる。一人起きて窓をひらけば、夜風はつめたく肌にふれ、闇夜の暗黑な野原を飛ぶ、しきりに飛ぶ火虫をみる。ああこの眞つ暗な恐ろしい景色を貫通する! 深夜の轟々といふ響の中で、いづこへ、いづこへ、私の夜汽車は行かうとするのか。

 

   *]

萩原朔太郎詩集「宿命」「散文詩」パート(「自註」附) 正規表現版 宿醉の朝に

 

   宿 醉 の 朝 に

 

 泥醉の翌朝に於けるしらじらしい悔恨は、病んで舌をたれた犬のやうで、魂の最も痛々しいところに嚙みついてくる。夜に於ての恥かしいこと、醜態を極めたこと、みさげはてたること、野卑と愚劣との外の何物でもないやうな記憶の再現は、砒毒のやうな激烈さで骨の髓まで紫色に變色する。げに宿醉の朝に於ては、どんな酒にも嘔吐を催すばかりである。ふたたびもはや、我等は酒場を訪はないであらう。我等の生涯に於て、あれらの忌々しい悔恨を繰返さないやうに、斷じて私自身を警戒するであらう。と彼等は腹立たしく決心する。けれどもその日の夕刻がきて、薄暮のわびしい光線がちらばふ頃には、ある故しらぬ孤獨の寂しさが、彼等を場末の巷に徘徊させ、また新しい別の酒場の中に、醉つた幸福を眺めさせる。思へそこでの電燈がどんなに明るく、そこでの世界がどんなに輝やいて見えることぞ。そこでこそ彼は眞に生甲斐のある、ただそればかりが眞理であるところの、唯一の新しい生活を知つたと感ずるであらう。しかもまたその翌朝に於ての悔恨が、いかに苦々しく腹立たしいものであるかを忘れて。 げにかくの如きは、あの幸福な飮んだくれの生活ではない。それこそは我等「詩人」の不幸な生活である。ああ泥醉と悔恨と、悔恨と泥醉と。いかに惱ましき人生の雨景を蹌踉することよ。

 

[やぶちゃん注:太字は底本では傍点「◎」。「思へそこでの電燈がどんなに明るく、」はママ。以下に見る通り、初出も同じ。筑摩版全集校訂本文は強制的に読点を打って「思へ、そこでの電燈がどんなに明るく、」とする。読みに躓かないという点では、穏当な措置ではある。終りの方の「いかに苦々しく腹立たしいものであるかを忘れて。 」の有意な字空けはママで、これは以下に示した初出でも同じであるから、確信犯のブレイク仕儀と読むべきである。

「宿醉」は「しゆくすい」と音で読んでいるか、「ふつかよひ」と訓じているかは、判断がつかない。「泥醉」とのバランスと本篇全体の事大主義的書き振りからは、私が朗読するなら、迷わず、「しゅくすい」と読む。「ふつかよひ」は如何にも間延びしていしまい、リズムが