第一書房版「萩原朔太郞詩集」(初収録詩篇二十一篇分その他)正規表現版 「靑猫(以後)」 大井町
大 井 町
おれは泥靴を曳きずりながら
ネギや ハキダメのごたごたする
運命の露路をよろけあるいた。
ああ 奧さん! 長屋の上品な嚊(かかあ)ども
そこのきたない煉瓦の窓から
乞食のうす黑いしやつぽの上に
鼠の尻尾でも投げつけてやれ。
それから構内の石炭がらを運んできて
部屋中いつぱい やけに煤煙でくすぼらせろ。
そろそろ夕景が薄(せま)つてきて
あつちこつちの屋根の上に
亭主のしやべるが光り出した。
へんに紙屑がぺらぺらして
かなしい日光の射してるところへ
餓兒共のヒネびた聲がするではないか。
おれは空腹になりきつちやつて
そいつがバカに悲しくきこえ
大井町織物工場の暗い軒から
わあッと言つて飛び出しちやつた。
[やぶちゃん注:太字は底本では傍点「ヽ」。「薄(せま)つてきて」で躓いた方は「薄暮」の意を想起されたい。或いは「肉薄」でもよい。「薄」には「迫る・近づく」の意がある。「餓兒共」は「がきども」と読む(初出参照)が、これは私は躓かない。しかし、筑摩版全集は、はなっから「餓鬼共」に消毒している。ではその後はどうか? 後発詩集では萩原朔太郎自身が決定版とする「定本 靑猫」などでも、そのまま『餓兒共』のままである。ところが、その後の晩年の「宿命」などでは『餓鬼(がき)共』とお召し換えなさっている。私はこういう老害の書き換えに鼻白むのである。
初出は大正一四(一九二五)年九月号『婦人之友』で、標題は「大井町から」。以下に示す。総ルビであるが、一部に留めた。「曳きづりながら」の「づ」、「へやぢう」はママ(正確な歴史的仮名遣では「へやぢゆう」であるが、近代まで「ぢう」と表記する方どちらかというと多かった。
*
大井町
おれは泥靴(どろぐつ)を曳きづりながら
ネギやハキダメのごたごたする
運命の路次(ろじ)をよろけあるいた。
ああ 奧さん! 長屋の上品な嚊(かかあ)ども
そこのきたない煉瓦(れんが)の窓から
乞食(こじき)のうす黑(ぐろ)いしやつぽの上に
鼠の尻尾でも投げつけてやれ。
それから構内の石炭がらを運んできて
部屋中(へやぢう)いつぱい やけに煤煙(ばいえん)でくすぼらせろ。
そろそろ夕景が迫(せま)つてきて
あつちこつちの屋根の上に
亭主のしやべるが光り出した。
へんに紙屑がぺらぺらして
かなしい日光の射してるところへ
餓兒共のヒネびた聲がするではないか。
おれは空腹になりきつちやつて
そいつがバカに悲しくきこえ
大井町織物工場の暗い軒から
わあッと言つて飛び出しちやつた。
*
なお、朔太郎は、大正一四(一九二五)年二月中旬に妻稲子と娘葉子(満四歳)と明子(あきらこ:満二歳)の二人を伴って上京し、東京府荏原郡大井町六一七〇番地(現在の品川区西大井五丁目。グーグル・マップ・データ)の借家に住んだ。但し、僅か二ヶ月足らずの四月上旬には田端(文士村)に転居し、以後、ぐだぐだの私生活が展開することとなる(その辺りはウィキの「萩原朔太郎」を読まれたい)。なお、筑摩版全集年譜によれば、『當時の生活について朔太郞は「大井町へ移住して來た時、ひどい貧乏を經驗した。田舍の父から、月々六十圓宛もらふ外、私自身に職業がなく、他に一錢の收入もなかつた」(「ゴム長靴」)』(『蠟人形』昭和九(一九三四)年六月号初出)『と書いている。當時の六十圓は、一家四人の生活に必ずしも少ない額ではないが、朔太郞としてこれが最初の「貧乏」体驗で、散文詩「大井町」その他で生活の沒落感を訴えている』とある。まず、誰もが呆れる。「まあ、しょうがないね、萩原朔太郎じゃ。」と呟くしかない。私は萩原朔太郎には病跡学的にも興味がある。ここはその場でないから、語らぬが、彼の日常的ルーティン行動の中には、高機能障害をも想起させるような奇体な普通ではない行動様式が散見されるのである。但し、それが先天的或いは器質的・性格的なものであったのか、後天的な神経症的疾患に基づくものだったのかは、よく判らない。ともかくも、外面的な社会的生活者としては、彼は見事に破綻していたと言っていいと私は思う。「それこそが真の芸術家ならでは、だ。」などという見解は、どんな優れた芸術家にも、私は、持っていない。]
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