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2022/01/12

狗張子卷之一 富士垢離

 

   ○富士垢離(ふじごり)

 

Hujigori

 

[やぶちゃん注:底本の画像をトリミング補正し、見開き二幅を合成、幅の上下左右の枠も外した。第一話「三保の仙境」の挿絵と強い親和性を持ち、あたかも対幅の感さえあって、本篇で語られる流行りの「富士垢離」以上に市井の読者を誘わんとする不思議な迫力があるので、それを示したかったからであるが、細部で原画の一部を確信犯で清拭したが、多少、原画を損なったため、早稲田大学図書館「古典総合データベース」の原本当該挿絵部分をリンクさせておく。右上が鳥岡が残夢に助けられるシーン、左が残夢の庵で、最後の別れのシーンが、そこから右下へ繋がれた、反時計回りの挿絵となっていて、なかなか面白い。

 

 近き比(ころ)より、京も田舍も、「富士垢離」といふ事のはやりて、

「日每に河水(かみづ)にひたり、垢離(ごり)をとり、淺間(せんげん)大ぼさつを念じ奉り、よくおこなへば、奇特(きどく)あり。いか成(なる)やまひをも、いやし、身のまづしきを、德、つきて、ゆるやかになる。」

とかや。

「大ぼさつの、れいげん、あらたにまします。」

とて、世に、もてはやし奉る。

[やぶちゃん注:「富士垢離」本来は、修験者が富士山の山開きを待って、富士に登る(古くより霊山へ信仰のために登って修行することは「禪定(ぜんぢやう(ぜんじょう))」と呼んだ)る前日に身を清めることを指した。富士山の山開きは陰暦六月一日と決まっていたので(現在は七月一日)、五月の晦日以前がそれに当たった(正式には七日間の水垢離をせねばならなかったが、後世には参詣以前に自身の在地で行ってもよいようになったらしい。後掲する「静岡・浜松・伊豆情報局」のリンク先の記事を参照されたい)。後、実際に富士山に詣でることがなくても、この時期、水垢離をとって行(ぎょう)の真似事を行う場合をも「富士垢離」と呼ぶようになった。また、狭義にその原義の「富士垢離」の信仰を修験道の一つとして、宗教的正規仕儀として確立した集団である「村山修験」(むらやましゅげん)或いは「富士修験」の当該仕儀(後、本篇の如く、実際の富士禅定をせずに、在地の水辺で「富士垢離」として修することも含まれる)を指す。同修験は現在の静岡県富士宮市村山(グーグル・マップ・データ)を根拠地とした富士山の修験道である。当該ウィキによれば、『村山修験は修験道本山派に属し』、中世後期には『聖護院門跡の直』接の末端に属した習合した正規の宗教集団で、『富士山信仰において修験道を中心とするという点で特徴的であり、これは御師』(おし:平安末期以降に発生した、社寺に関係した特定の仲介・案内業者。信者と師檀の関係を結んで、それらの人々のために、巻数(かんじゅ:僧侶が願主の依頼で読誦した経文・陀羅尼などの題目・巻数・度数などを記した文書或いは目録。古くは梅や榊の枝などに書いた)・守札等を配付するなどしたり、自らも祈禱をし、その代償に、米銭の寄進を得た下級の神官や社僧が元であった。中世の石清水八幡宮・熊野社・賀茂社等のものが知られ、次第に、遠隔地からの信者のための宿泊施設を兼業とし、各地に先達(せんだつ)を実務派遣しながら、地方の信者を組織的に吸収し、神社信仰の普及を促した。近世では、伊勢大神宮の信仰が広く盛んであったが、伊勢の場合は他と区別して「おんし」と呼んだ)『などを中心とする吉田や河口、須走などと大きく異なる』。平安時代に成立した「地蔵菩薩霊験記」に、既に『末代上人トゾ云ケル。彼の仙駿河富士ノ御岳ヲ拜シ玉フニ』(中略)『ソノ身ハ猶モ彼ノ岳ニ執心シテ、麓ノ里村山ト白(まう)ス所ニ地ヲシメ』云々と『あり、古来から富士信仰の中心地であった』。応永五(一三九八)年の『「伊豆走湯山密厳院領関東知行地注文案」(醍醐寺文書)には』、『一 駿州 富士村山寺』と『あり、当初村山修験は伊豆走湯山密厳院の末寺として存在していた』。『村山浅間神社』(ここ)『の境内には村山修験における祭事などで利用された水垢離場や護摩壇などが残る』(サイト「静岡・浜松・伊豆情報局」の「修験時代の遺構も現存! 村山浅間神社」現在のその現地の水垢離場跡が写真で見られる)。『水垢離場では道者』『によって禊が行われた。「竜頭ヶ池」という場所から水を引き、それを聖水として滝に打たれて身を清めた後、不動明王に安全を祈願したとある』。享保一八(一七三三)年の「富嶽之記」では『村山をこのように表現している』。『淺間の社あり。坊支配にて智西坊・大鏡坊・辻の坊三人ハ阿闍梨なり、山伏十一人あり』。『このように浅間神社を中心として構成され(富士山興法寺)、村山三坊が支配し』、『山伏など修験道の形態を有していた』。『村山修験は対外的には富士垢離という信仰形態を確立させている』。「諸国図絵年中行事大成」に『よると、富士行者が水辺にて水垢離を行うことにより、富士参詣と同様の意味を持つ行であるという』。『この富士垢離を取り仕切る集団に「富士垢離行家」というものがあり、大鏡坊が聖護院に取り付け』、『村山修験先導の下で行われていた』。『村山の地は登山道を中心として成り立つ。富士山修験道の開祖とされる末代上人が富士山頂に大日寺を建て』、『富士山修験道の基礎を築いた。その後、末代の流れを汲む頼尊が村山に富士山興法寺を開き、村山が富士山修験道の拠点となり、「村山修験」が確立された』。十三『世紀前半に富士山南麓における登山が拡大したと』され、十四『世紀初めには修験者による組織的登山が広まった』。正長二・永享元(一四二九)年には『村山に発心門が建立され』ている。文明一四(一四八二)年、『村山修験は聖護院本山派に属することになったとされ』、『聖護院と関わりが深い』。道興准后の巡歴集「廻国雑記」(文明一八(一四八六)年成立)によると、文明一八(一四八六)年に『聖護院門跡の道興が村山を訪れている。またこれが村山修験と聖護院の関係を示す最初の史料で』もある。『村山修験は今川氏の庇護を受けて』おり、『今川氏は富士山興法寺を管理する村山三坊に掟を定める文書を繰り返し発布し、富士参詣の道者の取締などを行なった。今川氏による浅間神社や富士信仰への権力的な介入は顕著であったといわれ、村山修験に対しても同様である。これは同じく富士山麓地域を支配・管理する立場であった武田氏や小山田氏と比べても特徴的であり』、『特に今川義元の代から顕著になったといわれる』。『例えば』天文二二(一五五三)年五月二十五日の『義元から村山三坊大鏡坊への文書の七ヶ条』の一つに、『一 於村山室中不可魚類商買幷汚穢不淨者不可出入事』と『あり、村山を俗界と区別される聖地と定めていることなどは特徴的である。これらと同種の文書が今川氏により』天文二十四年・弘治二(一五五六)年)・永禄三(一五六〇)年・永禄一〇(一五六六)年に『それぞれ発給されている』。『聖護院本山派の法親王は、慣例として』、『度々』、『村山に参拝を行っている』(江戸時代の確認されている法親王の参拝は略す)。『江戸時代後期に入ると』、『村山修験は衰退していき』、明治の「神仏分離令」が『決定的となって事実上』、『廃されることとなった』。「駿河国新風土記」(駿河府中の富商で国学者でもあった新庄道雄の著。文化一三 (一八一六) 年着手、天保五(一八三四)年完成)に『よると、江戸時代初期の段階では』六百『戸あまりが村山に存在していたが』、十八『世紀半ば』には七十『戸まで減少していたという』とあった。長々と引いた理由は、廃仏毀釈という国家神道政策による文化破壊がいかに本来の日本の伝統を致命的に破壊したかということの確認が私には是非とも必要であることと、後で出るように、本篇に設定時勢は戦国後期であればこそ、この「富士垢離」の設定が時制的にも何らおかしくないことを示すためであった。]

 攝津(つの)國ゆするぎとかやいふ里に島岡(とりをか)彌二郞といふもの、おもき病をして、くすしのちからにも、あまりて、すべきやうなく、淺間(せんげん)の行人(ぎやうにん)を賴みて、願(ぐわん)だてして、いのりければ、

ほどなく、ほんぶくして、このよろこびに、「ふじまうで」を思ひたち、先達(せんだち)をもつて、山にのぼる。

[やぶちゃん注:「攝津(つの)國」二字に対する読みである。底本及び原本画像(六行目)を見ても、二字に対して「つの」のルビが振られてあることが判る。古く「攝津國」は事実、略して「つのくに」と呼び、「攝津國」となっていても、それでかく読んだのである。

「ゆするぎ」不詳。漢字としては「萬木」「万木」が考えられるが、現在の大阪の地名では見当たらない。

「鳥岡彌二郞」不詳。

「先達」ここは山伏や一般の信者が修行のために山に入る際の指導者を指す。]

 まことに、三國ぶさうの名山なり。

[やぶちゃん注:「三國ぶさう」「三國」はインド・中国・日本。「ぶさう」は「無雙」「無双」。]

 峯は半天(なかぞら)にさゝげ、遙かに雲に入《いり》て、夏の夜なれども、雪霜(ゆきしも)、降りつみ、ふもとの山々は、春めきわたりて、みどりの色、こまやかなり。

 つゑにすがり、路をつたふに、千尋(ちひろ)の壁に、のぼるがごとし。雲霧(くもきり)は、足のしたに、たなびき、遠山(とほやま)は、猶、かすかにへだたり、おぼろにして影のごとし。よぢて上るべき藤蔓(ふぢかづら)もなし。砂(いさご)にむねをつき、はふはふ、峯にいたり、嶽(だけ)におよぶ。

[やぶちゃん注:「千尋」一尋(ひとひろ)は成人男子が両手を左右へ広げた際のその指先から指先までの長さであるが、慣習的に用いられた民間単位で、長さは一定しない。曲尺(かねじゃく)で概ね四尺五寸(約一・三六メートル)乃至六尺(約一・八メートル)ほどであるから、千三百六十メートルから千八百メートル相当。

「はふはふ」「這ふ這ふ」。]

 むかし、常陸房海尊(ひたちぼうかいぞん)とかや、源の九郞義經、奧州衣川(ころもがは)高館(たかだち)の役(えき)に、一族從類、みな、ほろびけるに、海尊一人は、軍勢の中をのがれて、ふじ山にのぼりて、身をかくし、食(じき)にうゑて、せんかたのなかりしに、淺間大ぼさつに歸依して、守りを、いのりしに、岩の洞(ほら)より、飴のごとくなる物、わき出《いで》たるを、なめて心むるに、味はひ、甘露のごとし。是れをとりて、食するに、飢(うゑ)をいやし、おのづから、身も、すくやかに心よくなり、朝(あした)には日の精を吸ふて、霞(かすみ)にこもり、つひに、仙人となり、折ふしは、ふもとにくだり、里人の逢ふては、そのちからを、たすけ、人のたすかる事、今におよびて、世にかくれてあり、といふ。

[やぶちゃん注:「常陸房海尊」通常は「かいそん」と清音(但し、了意の参考にした後掲する書では確かに濁音である)。海尊を「快賢」「荒尊」とするものもある。源義経の家臣とされ、「源平盛衰記」巻四十二や、延慶本「平家物語」第六末に、その名が見え、前者では、元は叡山の僧であったとするが、多分に想像上の人物で義経伝説のトリック・スター的存在として描かれる。「義経記」では、元園城寺の僧であったとし、義経の都落ちに同道して、弁慶とともに大物(だいもつ)の浦で活躍、衣川での義経の最期の際には、朝から物詣でに出かけていて、居合わさず、帰ることなく、失踪したとされる。同書では、誰よりも先に逃げようとする海尊が,ほかのシークエンスで二、三ヶ所ほど描かれてあり、その背後に「逃げ上手・生き上手」としての海尊像が、この室町期には既にキャラクター規定されていたことが知られる。東北地方を中心にその後の生存説が多く、ここでも語られるように、潜み隠れて道術を修し、仙人となったとか、人魚の肉などを食し、不老長寿となって、源平合戦や義経の物語を語り伝えたという八百比丘尼系の伝承もあるようである。私は秋元松代の戯曲が、まあ、好きだ。この海尊の富士での伝承は、例の江本裕氏の論文「『狗張子』注釈(一)」(『大妻女子大学紀要』一九九九年三月発行・「大妻女子大学学術情報リポジトリ」のこちらから同題論文の総て((一)~(五))がダウン・ロード可能)に、「本朝故事因縁集」(作者未詳。刊記に元禄二(一六八九)年とある。説法談義に供される諸国奇談や因果話を収めた説話集)の『一―十五「常陸坊海尊成仙人」』に拠ったものとあった。「国文学研究資料館」のオープン・データのこちらから次の丁で原本当該部を視認出来たので、以下に視認して示す。頭の太字数字は底本では囲み字。読みは一部に留め、不全な漢文脈なので上付にし、読みの部分を( )で囲った。句読点を附した。約物(「ヿ」(こと)・「乄」(して))はそのままで活字化した。〔 〕は私が推定で不全を補った。次の丁の「評」の部は底本では全体が一字下げであるが、引き上げた。漢字表記は厳密にその時に従った。「ウユル」「ツイニ」「ヂヨフク」「終(ツイ)ニ」は総てママである。

   *

十五 常陸坊海尊(ヒタチバウカイゾン)(ナ)ル仙人

文治五年伊予守判官義經、奥州髙舘城(タカダチノシロ)ニシテ減亡ノ時、常陸坊、遁去(ノガレサリ)、入(イ)ル冨士山。無食叓(シヨクジ)。石上ㇾ飴(アメ)ノ物、多。取ㇾ之、食(シヨク)ス。自ㇾ是、不ㇾ食ドモ、無ㇾ飢(ウ)ユルヿ。終(ツイ)ニㇾ死(シ)セ三百年、木葉(コノハ)ヲ爲〔ナ〕シテㇾ衣(コロモ)ト(ス)メリ。無寒暑、近代〔チカキヨ〕、信濃國ノ深山(シン〔ザン〕)ニ有岩窟。遊(アソ)ンテㇾ之、年、未ダㇾ老(ヲ)ヒ云云。

 評曰、冨士山熊野山ヲ唐朝ヨリ蓬莱山ト聞(キイ)テ、秦始皇帝、蓬萊〔ノ〕不死ノ仙藥ヲ求メン爲(タメ)ニ徐福(ヂヨフク)ト云〔フ〕者ヲ渡ス。徐福、求ムルコト、得ガタウシテ、此山ニ住(ヂウ)シ終(ツイ)ニ民(タミ)トナル。其末裔、秦氏(ハタノウヂ)、是也。常陸坊ガ食(シヨク)スル物ハ仙藥ナランカ。

   *

富士の仙人は仙人の起原たる中国から来た徐福であれば、彼や常陸坊が口にした不老不死のそれは「かくや姫」が翁と嫗に残した月世界の不老不死の薬の名残りであり、岩から滲(にじ)み出るのは、富士の木花之佐久夜毘売とともに天孫の邇邇芸命(ににぎのみこと)に嫁いだ姉の石長比売(いわながひめ:不器量として不当に追い返させられた。彼女は変わらぬ岩で不死だった。彼女を追い払ったことが人が不死でないことの起原説話となっているのだ)との親和性を思わせ、さればこそ、それは日本神話の不老不死の幻しの薬草たる不老不死の理想郷たる常世(とこよ)の国で求め歩いたという「非時香菓(ときじくのかぐのこのみ)」の原型ではなかったか?――などと夢想する私がいる。]

 然るに、彌二郞、遠き旅路につかれて、心、たゆみ、足をあやまち、峯ちかき所にて、風に吹きたふされ、ころびおつる事、玉をはしらかすが如し。

 かゝる所に、年の程、六十あまりの法師、にはかにあらはれて、彌二郞をとらへとゞめ、あやふき命を、たすけたり。

 彌二郞、ひきたてられ、かの老僧にむかひ、手を合せて、おがみつゝ、

「いかなる沙門(しやもん)にて、おはしますぞや。御庵(いほり)は、いづかたぞ。御名をば、何と申すやらん。」

と、問ければ、

「我は、此ふもとにすむ法師なり。世をのがれたる身の、名のるまでには、及ばず。下向(げかう)[やぶちゃん注:下山。禅定なれば、かく言ったもの。]の道には、たよりもよろしければ、立よりて、やすみ給へ。」

と、やくそくして、山よりくだるかと、みえしが、すがたは、ゆくかたなく、うせにけり。

 彌二郞、かくて、げかうの道に、ふもとのあたりを尋ねしに、かたはらに、ちひさき門(もん)あり。

 蔦かづら、まとはり、草のみ、ふかく、さだかならぬを、わけ入《いり》ければ、さきの法師、出《いで》むかひ、一町[やぶちゃん注:百九メートル。]ばかり行《ゆき》ければ、よしある庵のうち、佛壇をかまへ、本尊は大日如來。ひかり、あたりに、かゝやけり。

 山より、おろす、あらしには、おのづから、梵音(ぼんおん)をとなふるかと、聞《きこ》え、海より、こゆる、波には、また、錫杖(しやくぢやう)を誦(じゆ)するか、とおぼゆ。

 妄想(まうざう)の雲、はれて、無明の睡りを、さますとかや。

 勸行(くわんぎやう)の功力(くりき)に感じて、庭には時ならぬ花さきつゝ、煙、きえ、霧、はれて、うき世のほかの、すみかなり。

 歸らんことをわすれて、しばらく物がたりせし所に、法師かたりけるやう、

「我は、もと、東國のものなり。久しく奧州衣川のあたりにありて、心の外なるわざはひのありしを、わづかにのがれて、此所《ここ》にかくれ、身をおこなひ、たましひを練(ねり)て、年の過《すぐ》る事を、おぼえず。獨り、たのしみをえて、をりふしは、むかしを思ひ出《いで》て、奧州にも行き通ふこと、あり。もとより、わびてすむ故に、まゐらすべき物も、なし。旅のつかれに、これなりとも、めせ。」

とて、わり子(ご)の内より、枸杞(くこ)の葉の飯(いひ)をぞ、すゝめける。

[やぶちゃん注:「わり子」「破子」「破籠」とも書く。今言う弁当箱の一種で、檜などの薄く削いだ白木(しらき)を、折り箱のように諸形に作り成し、中に仕切りを設け、飯と総菜を盛って、ほぼ同じ形の蓋をして、携行したもの。古くは携帯食には餉(かれいい:乾燥させた飯)を用い、その容器を「餉器 (かれいけ)」と称したが、後には「破子(わりご)」と呼ぶようになった。私はサイト及びブログで寺島良安の「和漢三才図会」の内、十九巻分の詳細電子化注を完遂しており、別に、近年、ブログに「和漢三才図会抄」というカテゴリを作ってある。ここのためにそこで、先ほど、同書の巻第三十一「庖厨具」の部の十四折にある「樏子(わりご)」を電子化(原文白文・訓読・注附)しておいたので見られたい。

「枸杞(くこ)の葉の飯(いひ)」クコ(ナス目ナス科クコ属クコ Lycium chinense )の葉或いは春の新芽を飯に混ぜたもの。当該ウィキによれば、『葉には、ベタイン、ベータ・シトステロールグルコシド、ルチンなどが含まれ、毛細血管を丈夫にする作用があるといわれ』、『赤く熟した果実には、ベタイン、ゼアキサンチン、フィサリンなどが含まれ』、『強壮作用があり、酒に漬けこんでクコ酒にするほか』、『生食やドライフルーツでも利用される』。『薬膳として粥の具や杏仁豆腐のトッピングにもされる。また、柔らかい若葉も食用にされ、軽く茹でて、お浸し、和え物、汁の実に調理されたり』、『サラダや料理のトッピングに利用される』とある。「和漢三才図会」の巻第八十四の「灌木類」の「枸杞」の項で、李時珍の「本草綱目」から引いて(訓読して示す。〔 〕は私の推定読み)、

   *

其の葉、石榴〔ざくろ〕のごとく、軟薄〔なんぱく〕にして食ふに堪へたり。

   *

とあり、また、後半の良安の評部分に「地仙丹」として、以下の一節を掲げる。

   *

地仙丹〔ぢせんたん〕 春、枸杞の葉を采り【「天精草」と名づく。】、夏、花を采る【「長生草」と名づく。】。秋、子〔み〕を采り【「枸杞子」と名づく。】、冬、根を采る【「地骨皮(ぢこつひ)」と名づく。】。

   *

とあって、古くから全草が薬用・食用とされていたことが判る。]

 彌二郞、ふかく、情(なさけ)をかんじ、

「さるにても、御名ゆかしくこそ。名のりてきかさせ給へ。」

といふ。

 法師は、眉をひそめて、

「名のるにつけては、あやしかるべし。まことはわが名は『殘夢(ざんむ)』といふ。人に交はらねば、時うつり、世のかはるをも、しらず。今の世の中は、いかに。」

といふ。

[やぶちゃん注:「殘夢」前に掲げた江本裕氏の論文「『狗張子』注釈(一)」に、『『本朝神社考』六「都良香」の条に「奥州に残夢と云う者有。自ら字』(あざな)『して呼白と曰く、又自ら秋風道人と称」し、元暦・文治』(一一八四年~一一九〇年)『の事を語り「彼れ蓋し常陸房ならんや」とある。好んで拘杞飯を食し長生きであったという。また『会津風土記』仏寺「実相寺」の条に「残夢者当時第二十二世桃林契悟禅師是也」とある。』とある。「都良香」は人名。都良香( みやこのよしか 承和元(八三四)年~元慶三(八七九)年)は平安前期の官吏で漢詩人。都貞継の子。貞観一五(八七三)年に大内記、同十七年には文章博士となった。「日本文徳天皇実録」の中心的編者で、詩文で名高く、秀句を巡る逸話が説話集に載る。江本氏の指示する「本朝神社考」のそれはここからで、次のページの頭の人物梗概の終りに、『心』は『神仙を慕ふ。一旦簪纓(さんえい)』(「しんえい」の誤り。「簪」は「かんざし」、「纓」は「冠の紐」で、転じて「高位高官」の意)『を棄て山に入つて修鍊して終る所を知らず。後百余歲、或人良香を大峰山の窟中に見る。其の顏色衰へずと』とある新鮮伝中の人物なのである。以下林羅山道春の本邦の仙人譚が続くが、その中の一節に(ここ。十行目の段落から)、

   *

近頃、人ありて云ふ、奥州に殘夢と云ふ者あり。自ら字して呼白(こはく)と曰ひ、又自ら秋風道人と稱す。僧ならず俗ならず。風癲狂の漢なり。自ら曰く、須』(すべからく)『一休と友とし善し。其禪要を得たりと。又時々人と語るに元曆文治の事を以てす。而して曰ふ。其の時義經何事をなし、辨慶其事をなし、誰某は此の事をなし、平氏と與に某に戰ふと。其話殆ど親見の者の如し。人怪しみて之を詰』(なじ)『るときは則ち曰く、我れ之を忘れたりと。浮屠』(僧侶)『の天海及び松震といふ者殘夢に遇ふ、殘夢枸杞飯を好んで食ふ。海亦之を喫す、人と語つて曰く、殘夢の長生、事を速かせずして枸杞を服する故なりと。人怪しみて曰く、彼れ蓋し常陸房(ひたちばう)ならんやと。』とある(但し、最後に羅山は残夢も詐術者に過ぎないとは言っている)。]

 彌二郞、語りけるは、

「そのかみ、尊氏公、世をおさめて、十三代に及べり。諸國の勇士、そばだちおこりて、たがひに怨(あだ)をむすび、境(さかひ)をあらそひ、國を合(あは)せ、功をつのり、駿河には北條の氏康、甲斐に武田の晴信、ゑちごに長尾の景虎、ひたちに佐竹、會津に蘆名、越前に朝倉、周防に陶の晴賢、安藝に毛利、出雲に尼子(あまこ)、豐後に大友、ひぜんに龍造寺、伊勢の國師、近江に淺井(あざゐ)、佐ゝ木、畿内・南海のあひだには、三好が一族、おなじく家人(けにん)松永、その外、諸國群鄕(ぐんがう)のうちに、武勇(ぶよう)ある輩(ともがら)、其數(かず)をしらず。小身(せうしん)なるは、大家(たいげ)の旗下(はたした)となり、弱きは、つよきに、おしたふされ、臣として、君を策(はか)り、父子、怨(あだ)を結び、兄弟、敵(てき)となり、利欲をもつぱらとして、佞奸(ねいかん)をかまへ、忠孝をわすれて、狼心(らうしん)をさしはさみ、運にのるときは、庸夫(ようふ)も國のあるじとなり、勢を失なへば、貴族も卑賤にくだり、榮枯、地(ところ)を替へ、盛衰(せいすい)日をあらため、諸國、一同に亂れて、軍(いくさ)、更に止む時なく、そのあひだの殘害(ざんがい)、いく千萬とも知《しり》がたし。しかる所に、織田信長公、尾州よりおこりて、猛威をふるひ給ふ。まづ、暫らく、たがひに變を見あはせて、四海の波、しづかなるに似たり。此後《こののち》、また、世の中、いかになりゆくべしとも、知(しり)がたし。」

とぞ、かたりける。

[やぶちゃん注:私が誰か判らぬ者のみに注する。多くは散々「伽婢子」で注してきた。

「ひたちの佐竹」佐竹常陸介義重(天文一六(一五四七)年~慶長一七(一六一二)年)であろう。常陸太田城主。義昭の子。宇都宮氏と結び、上杉謙信の支援下に小田氏治を圧して常陸西南部に進出、北条氏に頼る土岐氏・岡見氏らと戦う一方、宇都宮氏・結城氏らと反北条氏連合を形成し、北条氏の北進に抵抗した。南奥では、白河結城氏を攻略、次男義広を養子に入れ、伊達氏と対峙し、蘆名氏の家督争いにも介入して同義広を養子に送り込むが、伊達氏との決戦に敗北し、後退した。一族の東・北・南三家との共同統治体制によって、佐竹氏の最盛期を築く一方、政局を見据え、早くから織田信長・豊臣秀吉と交わり、天下人の威信を背景に、北条・伊達両氏の攻勢にも対処した。天正一七(一五八九)年に隠居し、翌年には秀吉の人質として上洛、嫡子義宣の水戸移転後も常陸太田城に住した。慶長七(一六〇二)年の義宣の秋田移封に伴って出羽六郷に移住したが、鷹狩での落馬が原因で死去している(「朝日日本歴史人物事典」に拠る)。

「伊勢の國師」伊勢国司であった北畠具教(とものり 享禄元(一五二八)年~天正四(一五七六)年)。伊勢国司北畠晴具の長男で、母は細川高国の娘。天文六(一五三七)年の叙爵以降、朝位朝官を歴任し、弘治三(一五五七)年には正三位に叙された。北畠氏は具教の時期に極盛期を迎えるが、永禄一二(一五六九)年八月、信長の総攻撃を受けた。一族の精鋭は大河内(現在の三重県松阪市)に籠城して持ちこたえ、信長の次男茶筅丸(信雄)を具教の長男具房の養子とすることで和議が成立したが、天正四年、具教は織田方に籠絡された旧臣に三瀬御所(三重県大台町)で暗殺され、北畠氏はここに滅んだ(同前)。

「佐ゝ木」宇多源氏佐々木氏流六角氏の六角義賢(よしかた 大永元(一五二一)年~慶長三(一五九八)年)であろう。近江国守護で南近江の戦国大名。

「三好が一族」畿内及び阿波国の戦国大名で室町幕府の摂津国守護代・相伴衆であった三好長慶(大永二(一五二二)年~永禄七(一五六四)年)と臣下の実弟三好実休(大永七(一五二七)年?~永禄五(一五六二)年)であろう。

「松永」松永久秀。

「佞奸」口先巧みに従順を装いながら、心の中は悪賢くねじけている様子を言う。

「殘害」傷つけ、殺害すること。

「織田信長公、尾州よりおこりて、猛威をふるひ給ふ。まづ、暫らく、たがひに變を見あはせて、四海の波、しづかなるに似たり」ここにきて、時制が限定される。江本裕氏の論文「『狗張子』注釈(一)」によれば、『『伽婢子』五-二「幽霊評諸将」に「近頃尾州織田信長、すでに草創大業の志ありて近国をしたがへ、漸々大軍に及べり。弘治丙辰の年駿河の今川義元、さしも猛将のほまれありて、しかも大軍なりしを一朝に亡ぼしたり。」とある。これは永禄三(一五六〇)の桶狭間の合戦を指し、本作の作品現在はこれから後の天正八(一五八〇)前後と考えられる。』とある。指示されたそれは、「伽婢子卷之五 幽靈評諸將」。]

 殘夢法師、つくづくと聞て、

「安否は運による事にて、天理(てんり)、神明(しんめい)にまかすべし。智惠・勇力(ようりよく)・才覺にては、叶はず。たゞ、慈悲正直をもつて本(もと)とす。日も、はや、かたぶきて、落(おち)くる風の音《おと》も、すさまじ。此所は、夜《よ》に入《いり》ぬれば、おそろしき事あり。人の心をおどろかすに、はやく旅屋(たびや)にかへり給へ。」

とて、おくり出して、又、庵(いほ)の内に歸るか、と、みえしが、空のけしき、くらみかゝりて、物すさまじ。

 彌二郞、足ばやにゆくゆくかへり見れば、庵(いほ)は、なく成《なり》て、人のさけぶこゑ、烟(けふり)にまじはりて、空に、聞ゆ。

 先達(せんだち)いふやう、

「こゝは、ふじのふもと、地ごく・修羅のありさま、くもる夜《よ》は、あらはれ、みゆ。すみやかに歸り給へ。」

とて、彌二郞をつれて、我宿にぞ、歸りける。

[やぶちゃん注:挿絵では示されているが、本文では、ここで初めて、残夢との邂逅から、その草庵を訪れたところまで、実は先達がともに居たことが判る。彼が口を挟むと、ちゃちゃが入るばかりで、鳥岡と残夢(実は仙化(せんげ)した常陸坊海尊)の対話が滞るために、スポイルさせたのであろう。或いは、残夢に助けられたところから、庵を出るまでが総て、鳥岡の異空間での体験とするものと了意は設定したものかも知れぬが、本文を読む限りでは、そうしたシチュエーションには見えない(そうなると、それを語る部分が必要になって面倒だったのかも知れない)。ただ、正直言うと、本篇は「伽婢子卷之二 十津川の仙境」などが類話として先行しており、ちょっと新味に欠ける感じは否めない。]

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