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2022/01/23

萩原朔太郎詩集「宿命」「散文詩」パート(「自註」附) 父と子供

 

   父 と 子 供

 

 あはれな子供が、夢の中ですすり泣いて居た。

「皆が私を苛めるの。白痴(ばか)だつて言ふの。」

 子供は實際に痴呆であり、その上にも母が無かつた。

「泣くな。お前は少しも白痴(ばか)ぢやない。ただ運の惡い、不幸な氣の毒の子供なのだ。」

「不幸つて何? お父さん。」

「過失のことを言ふのだ。」

「過失つて何?」

「人間が、考へなしにしたすべてのこと。例へばそら、生れたこと、生きてること、食つてること、結婚したこと、生殖したこと。何もかも、皆過失なのだ。」

「考へてしたら好かつたの?」

「考へてしたつて、やつぱり同じ過失なのさ。」

「ぢやあどうするの?」

「おれには解らん。エス樣に聞いてごらん。」

 子供は日曜學校へ行き、讚美歌をおぼえてよく歌つてゐた。

「あら? 車が通るの。お父さん!」

 地平線の遠い向うへ、浪のやうな山脈が續いて居た。馬子に曳かれた一つの車が、遠く悲しく、峠を越えて行くのであつた。子供はそれを追ひ馳けて行つた。そして荷車の後にすがつて、遠く地平線の盡きる向ふへ、山脈を越えて行くのであつた。

「待て! 何處(どこ)へ行く。何處(どこ)へ行く。おおい。」

 私は聲の限りに呼び叫んだ。だが子供は、私の方を見向きもせずに、見知らぬ馬子と話をしながら、遠く、遠く、漂泊の旅に行く巡禮みたいに、峠を越えて行つてしまつた。

 

「齒が痛い。痛いよう!」

 私が夢から目醒めた時に、側(そば)の小さなベツトの中で、子供がうつつのやうに泣き續けて居た。

「齒が痛い。痛いよう! 痛いよう! 罪人(つみびと)と人に呼ばれ、十字架にかかり給へる、救ひ主イエス・キリスト……齒が痛い。痛いよう!」

 

 

 父と子供  詩集「氷島」の中で歌つた私の數數の抒情詩は、「見よ! 人生は過失なり」といふ詩語に盡きる。此所にはそれを散文で書いた。――主はその一人兒を愛するほどに、罪びと我れをも救ひ給へ![やぶちゃん注:巻末の「散文詩自註」の当該部をここに配した。]

 

[やぶちゃん注:「地平線の遠い向うへ、」で始まる段落の最後の一文中の「向ふ」はママ。因みに、本篇初出年では、長女萩原葉子は満十四、次女明子(あきらこ)は満十二であったから、彼らの孰れかがモデルとなら、過去の記憶(と夢)ということでろう。なお、末尾の「救ひ主イエス・キリスト」には筑摩版全集校訂本文では「主(ぬし)」のルビがある。校異を見ても何も書かれていないので、初版にはあり、本底本(再版本)では抜かれた(落ちた)ものらしい。因みに、後で注するように初出には「ぬし」のルビがある。また、「讚美歌」の字は拡大して見るに、少なくともここまで電子化してきた底本の中では、ここのみ、「讃」でなく、「讚」の活字が用いられてある。

『詩集「氷島」の中で歌つた私の數數の抒情詩は、「見よ! 人生は過失なり」といふ詩語に盡きる』詩集「氷島」(昭和九(一九三四)年第一書房刊)は正規表現版電子化注をカテゴリ「萩原朔太郎」で完遂している。「見よ! 人生は過失なり」のフレーズは句点附きで、同詩集の一篇「新年」の後ろから三行目に出現する。

 初出は昭和九(一九三四)年十一月号『行動』。異同は

・「例へばそら、」の読点が句点。

・「地平線の遠い向うへ、」が「地平線の遠い向へ、」となっている。

・第二連の「側(そば)の小さなベツトの中で、」の「そば」のルビがない。

・「罪人(つみびと)」が「罪びと」(「罪」にルビはない)となっている。

・末尾の「救ひ主イエス・キリスト」は「主(ぬし)」とルビがある。

以外は異同はない。「絕望の逃走」版は本篇とほぼ相同(「主(ぬし)」のルビはある)。]

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