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2022/01/04

小酒井不木「犯罪文學研究」(単行本・正字正仮名版準拠・オリジナル注附) 「マクベス」の硏究 /「七」~「十一」 / 「マクベス」の硏究~了

 

        

 かくてマクベスは、非道な方法によつてスコツトランド王となつた。然し彼はいふ迄もなく、自分の身が安全であるとは思はなかつた。バンコーはマクベスが不正な手段によつて王位を得たであらうと想像し、マクベスに對して一種の恐怖を感じた。從つて二人の仲が妙にちぐはぐして、わざとらしいものとなつた。一方に於てマクベスは、三人の妖婆の豫言が耳に殘つて居て、バンコーの子孫に王位を奪はれやしないかと氣が氣でなかつた。バンコーには子があるのに彼には子がなかつた。それが一層彼の恐怖心を强めた。

『果して然うだとすると、予は、バンコーの子孫の爲に、この手を血で汚したのだ。奴等の爲に慈悲深いダンカンを殺したのだ。心の平和の盃へ[やぶちゃん注:底本は「さへ」。国書刊行会本で訂した。]苦いものを注ぎ込んだのだ。ただ彼奴等の爲に。さうして予の此不死の靈寶を惡魔の有に歸せしめてしまつたのだ。彼奴等《きやつら》を王にするために、バンコーめの子孫を王にするために! そんな事をする位なら、さア運命め、自分でやつて來い、汝か、己《おれ》か、必死の勝負をしてくれよう!』[やぶちゃん注:最後は底本では「くれう!」。国書刊行会本で訂した。以上は第三幕第一場のマクベスのモノローグの台詞。]

 まさにこれ大犯罪者の所謂自己耽溺の始まつた證據である。卽ちマクベスは妖婆の豫言を自分の力で氣に入らぬ部分だけ訂正しようと決心したのである。バンコーをその子と共に亡きものにすれば、それで氣に入らぬ部分は除かれる譯である。

 こんどはマクベスは單獨でこれを計畫した。彼はバンコーに向つて、是非卽位の祝宴に列席するよう賴んだ。それから、この目的のため、雇ひ入れた二人の刺客に向つて、言巧《ことばたく》みに敎唆した。さうして、二人に、バンコーとその一子フリヤンスを殺害することを納得させた。

 マクベス夫人は、良人が王冠の幸福を少しも享樂しないで却つて深い暗い物思ひに沈んで居ることを知つた。マクベスは夫人に對して、自分の苦惱を少しもかくさなかつたから、夫人もまたバンコー父子が生きて居てはならぬと考へた。『ですけれど、いつまでも死なゝい父子でもありますまい。』と夫人はいふ。マクベスは、自分のこの陰謀だけはなるべく夫人に知らせともなかつた[やぶちゃん注:ママ。国書刊行会本も同じ。「とうもなかった」の脱字であろう。]。けれどもそれは成功しなかつた。はじめ夫人に向つて、『就中バンコーに氣をつけて、目でも言葉でも、特に彼を優待するやうにして下さい。』といひ乍ら、つひには、『蝙蝠が寂しく飛出し、甲蟲《かぶとむし》が凄い魔女神に呼出されて眠さうな羽音を立てゝ、夜の欠伸を促し顏に鳴渡る前に容易ならん怖しいことが爲遂《なしと》げられる筈だ。』といひ、更に『目を掩ふ夜の闇よ、さア早く、慈悲心を起させ易い晝の優しい目を包んでしまつてくれ。さうして汝の殘酷な、目に見えん手で、予を蒼醒《あをざめ》させる彼の大縛り繩を取除けてくれ、寸々《ずたずた》に裂《き》つてくれ……だんだん暗くなる、鴉が塒《ねぐら》へ急ぐ。白日を主《あるじ》とする善良なものが、悉《ことごとく》皆首を垂れて眠りかけると、夜を專らにする邪《よこしま》な者共がその餌食を得ようとて競ひ起《た》つ。』といつて居る。實際、殺人者が、かやうな殘酷な感情をもつて兇行に向ふことは珍らしいことで、この點から考へて見ても彼は一種の精神病者である。

 夫人はマクベスの心の中を察しながらも『え、と仰《おつし》やるのは?』ときく。マクベスは薄氣味惡く笑つて、『ま、知らないでいらつしやい。ね、事が果てゝから賞めて下さい。』と答へる。嘗て夫人が彼に向つて言ひ惜しみをしたやうに、彼は今夫人に向つて言ひ惜しんだのである。彼は卽ち、夫人がこの新らしい兇行に倫理的の責任を分つてはならぬという妄想を持つて居たのである。

 

        

 暴君は他人を信用しない、マクベスもさうであつた。彼は二人の刺客だけにその仕事を任せたくなかつたので、第三の剌客を派遣した。さうして、かうすれば萬事思ひ通りに運ばれるであらうと思つたが、事實はかへつて、これが成功を妨げた。バンコーだけが城外で殺されて、息子のフリヤンスが逃れたのは決して偶然でなかつた。卽ちシェクスピアは、息子の逃走を偶然として取り扱ふを欲しなかつたのである。妖婆の豫言の實現を、マクベスの性格及び行爲の必然的結果たらしめようとしたのである。緊張して居た二人の刺客の精神は、第三の刺客の出現によつて亂されてしまつた。指揮者が自分たちに不信任の心を抱いて居ると知つた彼等は、もはや愼重の態度を失はざるを得なかつた。かくて二人で成功すべき事が却つて三人で不成功に終つたのである。息子のフリヤンスが侍者と共に逃げたとき、三人はそれぞれ强い不滿の心を抱き、追跡しようといふ考へさへ起さなかつた。さうしてバンコーを殺したことだけで滿足したのである。而もこのことは、マクベスの性格から來る不安、不信の產み出した必然的の結果である。こゝに沙翁の偉大なる心づかひを明かに窺ふことが出來るのである。

 かくして後、この戲曲に於ける最頂點卽ち酒宴の場が始まるのである。さうして、こゝにマクベスの計畫が如何に支離滅裂なものであるかゞ完全にさらけ出されるのである。マクベスはバンコーに是非酒宴に列席してくれといひ、又、お客樣たちの前で、バンコーの缺席を非常に殘念がりながら、バンコーの座席を設けることを忘れた。さうして、バンコーの來ないのを見て、何か兇變があつたのではないかといふやうな言はでものことを口外する。彼の愼重な計畫に對して何といふ矛盾であらう。王妃はその時、客と共に座席を占めて居た。で、たつた一つ彼のために殘された座席に愈々つかうとしたとき、彼は思ひがけなくも、その座席がバンコーの幽靈によつて占領されて居ることを認めたのである。[やぶちゃん注:第三幕第四場。]

 これこそはこれまでマクベスのかゝつた幻覺のうちの最も强烈なものといはねばならない。卽ち彼は、うす暗い沼地や梟鳴く夜とちがつて、城内にあかるい大廣間で、貴族たちの居ならぶ場所で見たのである。先の幻覺は王位を得た夜に起つたが、今や、王位を確立せねばならぬ大切の時に當つて再び彼ははげしい幻覺を起した。彼の王位に對して最も危險な敵の運命はどうなつたであらうかと全身の神經が緊張して居たとき、最初の刺客はバンコーが死んで息子の逃げたことを告げた。それをきいて彼の全神經は怖ろしく激動した。然し、バンコーの確實な死を思ひ、『逃げた子蛇は、早晚蝮にやなるだらうが、さしあたり牙に毒を有つちやいない。』と思ふと、驚きながらも樂觀せざるを得なかつた。

 ところが、バンコーの幽靈は彼のこの樂觀にとつて、恐ろしい打擊であつた。唯一の空席が幽靈のために占領されて居ることを見たマクベスは、始めて、バンコーのために席を設けて置かなかつたことに氣附いて少なからず狼狽し、愈々彼の心は亂されたのである。マクベスは幽靈の存在を信じて居た。彼の迷信は彼獨特のものではなくスコツトランドの人民に共通したものであつた。この迷信は今日に至るもなお根强くわだかまつて居るのであつて、妖婆を見たマクベスが幽靈を見ることは當然のことゝいはねばならない。

 マクベスは宴會の席で二度バンコーの幽靈を見た。その間の時間は少しであるが、二度目の時は、

最初の時よりもはげしく彼の心を搖り動かした。既に最初の時にすら、幽靈を指して、『誰がこんなことをしたんだ?』とたづねて居る。さうして貴族達が、何も見えないので、あきれて居ると、マクベスは幽靈に向つて『よもや予が爲《し》たとは言へまい。そんなに血みどろの頭髮を棹《ふ》り立てるな。』といふ。そこで、ロツスが立つて、『諸君、お起ちなさい。陛下は御不例のやうです。』といふと、夫人が立ち上つて人々を制した。

『いいえ、お掛けなさい。皆さん。折々斯ういふことはあるのです、幼い時分からです。何卒席に着いて下さい。發作は一時の事です。すぐ囘復《なほ》りましせう。あんまり皆さんが目をお附けですと、尙と機嫌がわるくなつて、惱亂が長引きます。見ない振をして物を召食《めしあが》つて下さい[やぶちゃん注:底本は最後は「食つて下さい。」だが、国書刊行会本で訂し、その読みを添えた。]。』

 かういつて客をしづめてから、彼女はマクベスに『あなたは男ぢやないの?』といふ。マクベスが勿體ぶつて答へると、彼女は彼の幻覺をさますために、『おや、ま、お立派だことね!』と嘲笑する。さうして、『そりや貴郞の臆病心が見せる畫姿ですよ、(中略)ねえ、そんなものに慄えるのは、怖《こはが》るにも事を缺いて、贋物です、(中略)何故そんな韻をなさるんです? つまる所、ただ椅子を睨んでいらつしやるんぢやありませんの?』と嘲つた。

 然し彼女は、彼の幻覺をよく知つていても、彼がその時、どんなものを見たかを知らなかつた。だから、彼女は彼を嘲つて見たのであるが、彼の幻覺はなほも去らなかつた。さうして、だんだん幻覺が衰へて行つたとき、彼は始めて我に還つて、『こゝに予が立つてゐるのが確かなら、確かに見た。』といふ。そこで夫人は『ま、馬鹿なことを!』と叫ぶが、彼はまだそれだけで安心することが出來なかつた。『……だが、昔は、腦漿が地に塗《まみ》るれば、人間は死んで、それで事が終るのであつたが、今は頭に二十ケ所の致命傷を受けながら、又起上つて來て、人を椅子から排除《おしの》けようとする。……』と、彼はなほも言ひつゞける。そこで夫人は嘲笑が效を奏しないことを見て取つて、『あなた』とやさしく聲をかけると、はじめて彼はすつかりもとにもどり、客に向つて、『どうか諸君氣に掛けて下さるな。わたしには妙な持病があるのです、知つてゐる人達には何でもないのだが。』といつて先の夫人の言葉を裏書きし、バンコーのために慶賀の盃を擧げるのである。

 ところがバンコーのことを口にするや否や、彼の全身の神經は再び激動を受けて、バンコーの幽靈を見るのである。乾盃をしたゝめ、アルコホルの作用によつて、幻覺は一層はげしいものとなつた。マクベスは全く亂心してしまひ、幽靈を驅逐するために、全精神力を緊張させた。さうして幽靈に向つて虛勢を張らうとする。『人の敢てすることなら、何でもする。すさまじいロシア熊の姿で來い、角の生えた犀なり、ヒルカニアの虎なりの姿で來い。その姿さへ止《よ》してくれゝば、此堅固した筋肉が假にも慄へるやうなことはないのだ。でなくば生返つて來て、荒地で眞劒勝負を挑め。其時若し慄へて引籠つて居るやうだつたら、予を小娘の人形だと惡口しろ。退《さが》れ! 退れ怖しい影め! 空《しら》な僞物《ぎぶつ》め、退れ!………』[やぶちゃん注:「ヒルカニア」Hyrkania はカスピ海南東沿岸の古代地方名。主都はザドラカルタ(現在のイランのゴルガーン(グーグル・マップ・データ))。メディア・アケメネス朝ペルシア・セレウコス朝シリア・パルティアが、相次いで支配した。ペルシア時代にはバルカナ(Varkana)と呼ばれた(「ブリタニカ国際大百科事典 」に拠る)。ウィキの「トラ」の分布図を見て戴くと、当該地に現在もトラが棲息していることが判る。]

 こゝに於て彼の發作はその最高點に達するのである。マクベスはもはや直立することが出來ない。

マクベスは一時氣絕する。バンコーの幽靈は消失する。彼は立ち上つて客に止まるやう願ふ。が、幻覺の後作用は依然として去らず、『實にわたしは自分で自分を異《あや》しむ程に駭《おどろ》かざるを得ない、君たちが彼物《あれ》を見ながら、どうして平氣で……わたしは怖しさに眞蒼《まつさを》になつて居るのに……頰の赤みを失はんでをられるかと思ふと。』[やぶちゃん注:「異しむ」は底本では「異む」であるが、国書刊行会本と逍遙訳に拠って訂した。なお、国書刊行会本では最後が『思う』で終わっているが、逍遙を確認したところ、「思ふと」が正しい。]といつて居る。彼は自分で幽靈なるものが畢竟影に過ぎぬことを心で認めながら視神經だけが異常に興奮して居るのに氣づかない。これがこの程度の幻覺の特色であつて、この點は醫學的に見ても正しいのである。

 さて、夫人は、もうかうなつては事態收拾すべからずと認めて、立ち上つて客に散會を乞ひ、客は、王の健康の恢復を希望したが、マクベスはそれに對して返答することが出來なかつた。さうして人々が去ると、『血を流したがつて居るのだ。血を流した者は血を流したがるといふ言ひ傳へだ。石が動き木が物を言つた例もある。……』と、なほも迷信的な心情に虜にされてしまつて居るのである。

 

        

 こゝで私はマクベスのこの病的發作に就て一言を費して置かねばならない。沙翁はこのマクベスの持病が何であるかを明言しなかつたけれどもマクベスが癲癇患者であることは否み得ない。饗宴の場に於ける夢のやうな氣持と一時的の人事不省とは、所謂癲癇性朦朧狀態に特有なものといつて差支ない。

 シーザーや、ナポレオンのやうな癲癇患者と同じく、マクベスも、その理性の力に障害が認められなかつた。その代り癲癇患者の特徵として、强い精神的の興奮と、感情の刺戟性とを多分に持つて居た。ことに彼は不安と恐怖とに惱まされ易かつた。さうして彼は憤怒と狂暴に陷り易く、それがアルコホルのために一層刺戟されるのであつた。彼の見た錯覺はやがては一種の强迫觀念卽ちバンコーに追跡されて居るといふ精神的狀態に陷らしめるところであつた。

 かくの如く、マクベスを癲癇患者と認めるときは、マクベスの性格を一層よく理解することが出來るのである。癲癇患者に於ては、自我が精神の表面にあらはれ易く、自我意識はやがて宗敎的乃至迷信的性情を培ひ、段々進んで行くと、遂には他人の苦痛に對して全く無感覺となるのである。マクベスの異常なる功名心もシーザーやナポレオンのそれと同じく癲癇がその根本となつて居るのである。さうして癲癇患者は良心の呵責に對して甚だ鋭敏なものであるが、それは自分の敵によつて、自分の安全が脅かされて居るときに限つて居る。ダンカン王を殺す前に起つた彼の恐怖は卽ちこの性情に基居たものである。なお又癲癇患者は血とか焰とか、惡魔の幻視を起し易いものであつて、彼が勇將である一面に幻覺を起して極めて臆病な人物であるやうに見えるのはこれによつて說明することが出來る。

 癲癇の發作又は朦朧狀態以外の時に於ける患者が、極めて强い意志を有して居ることは醫學上證明されて居るところである。彼等は又、道德的感情をも失ふものではないのである。然し長い月日の間に精神障害が起り、屢々所謂性格の變動を起すことがある。さうして變質が起り、理性の活動が鈍り、道德的感情が減退し又は消失する。なほ又自我狂的性情と興奮性の昂進は犯罪性を釀すもので、マクベスが先から先へ犯罪を重ねて行くのはこれによつて說明し得るのである。

 マクベスの癲癇が先天性のものか後天性のものかはもとより知る由がない。先天性と云へば、親の變質、癲癇、アルコホル中毒などが原因となり、後天性といえば、本人の頭部の外傷や生れつきの變質などがその原因となつて居る。沙翁はかかる醫學的說明を加へなかつたけれども、沙翁が癲癇患者の性質をよく知つていて、マクベスを癲癇患者として取り扱つたことは明かである。沙翁が好んで病的狀態を犯罪の動機としたことは、他の戯曲例へば『リア王』『オセロ』等にも見られて居るのである。

 癲癇患者が一つの犯罪から他の犯罪に移つて行くところを、沙翁はかの饗宴の後、マクベスが貴族の一人マクダフを殺さうとする計畫をたてるところに巧みにあらはして居る。彼はマクダフが饗宴に列席するのを斷つたのに腹を立て、『予は明日早期に、例の巫女の許へ往つて、もつと詳しく將來を言はせることにしよう、斯うなつた以上、どんな惡い手段を行つてでも、どんな惡い事までも知りたいと思ふから。自分の利益の爲に何もかも犧牲にするのだ。血の河の中へ、斯う深く踏込んでしまつて見れば、涉《わた》り果《おほ》せるより外にしようがない、……』と、所謂『毒喰はば皿』の心になつて明かに殺意をほのめかして居る。これが所謂犯罪の陶醉狀態といふべきものである。[やぶちゃん注:本段落の以上の台詞は第三幕第四場の最後のマクベス夫人との対話の一節。]

 沙翁が今日の醫學によつて明かにされた癲癇の臨床的徵候を知らなかつたのはたしかであるが、彼は少なくとも彼の時代の醫學には精通して居た。これは後に說く如く、マクベス夫人の疾病の取り扱い方からも察することが出來るし、バツクニールの著わした、『沙翁の醫學的知識』という書によつても明かである。その時分スコツトランドには癲癇の迷信的療法などが盛んに行はれて居たのであつて、沙翁は巧みに疾病を按排《あんばい》して劇的效果を多くしようとして居るのである。第四幕に、マクダフがイングランドの王城をたづねて、マクベスに反旗を飜すべく助けを乞うた時、醫師がイングランド王の疾病治癒力を述べて居るのも、やはり深い理由がある。その昔英國では、『王の病』 King's Evil (主として瘰癧を意味する)と稱して、この病にかゝつたものは、王が手を觸れさへすれば治癒するといはれ、いはゆる Royal Touch と稱して國王は治癒に從事したものである。後には手を觸れる代りに、王の像を刻んだ貨幣を與へたのであるが、沙翁は特にこのことを醫師に物語らせて居る。多くの沙翁硏究者は、この部分が直接劇の進行と關係のない所から、多分時の國王ジエームス一世に敬意を表したのであらうと解釋して居るが、さう解釋する代りに、イングランドの王はこれ程の偉大なる力をもつて居るのに、スコツトランド王マクベスは神に見放されて居るといふ對照に應用したと解釋するときは、一層この劇全體が引き立つて來るのである。

[やぶちゃん注:「バツクニールの著わした、『沙翁の醫學的知識』」イギリスの精神科医ジョン・チャールズ・バックニル(John Charles Bucknill 一八一七年~一八九七年)が一八六〇年に刊行した「The Medical Knowledge of Shakespeare 」。彼は他にも多くのシェイクスピア関連の精神医学的アプローチをした著作をものしている(英文の彼のウィキを参照)。

「瘰癧」(るいれき)は結核性頸部リンパ節(腺)炎の俗称。咽頭や扁桃などの初期感染巣からリンパ行性を経て、或いは、肺初期感染巣から血行性を経ることで感染する。頸部リンパ腺は、多数の腫脹を呈し、数珠状・腫瘤状・瘤状に連なる。慢性へと経過するが、初期の活動性の時期には、発熱やリンパ節の圧痛などが著しく、状況によっては次第に悪化し、膿を持ち、終には破れて膿汁を分泌する場合もある。]

 

        

 さて、戲曲的構成はいよいよ大團圓に近づいて來た。マクベスは再び妖婆の幻覺に遭遇するのである。しかも今囘は前囘の如く偶然に遭遇するのでなくて自から求めて幻覺にかゝるのである。彼の精神的變質は段々强くなり、迷信的性情は愈々高まつた。マクベスに從つて洞窟の入口に待つて居た貴族レノツクスは妖婆たちの通るのを見ることが出來なかつた。マクベスのいやまさつて行く心の不安は、彼をして遂にこの洞窟に走らしめたのであつて、この洞窟の中で彼は怖ろしい幻像を見た。さうしてその第一の幻像は『マクダフに警戒しな。フアイフの領主に警戒しな。』と叫ぶ。マクベスは、ぎくりとして、『何者だか知らんが好《よい》忠告をしてくれた、有難う。汝は予の内々怖れてることを言い中《あ》てた。が、もう少し聞きたいことがある……』といふ。すると、その時マクベスの殺意をそのまゝ反映したと見るべき、血まみれの小兒の幻像があらはれ、『思ひ切り酷《ひど》く、大膽に、勇敢にやんな。人間の力なんか關《かま》ひなさんな、女に生落《うみおと》された者で、マクベスを害し得るものはないんだ』といふ。卽ちここに癲癇患者の自我狂的陶醉が始まるのである。犯罪に臆病だつた彼もはやその正反對になつてしまつた。さうして癲癇患者の特性として、その誇大妄想狂ははるかに人力以外の點まで及ぶ。卽ち第三の幻像は『獅子の心になつて傲然としていな。だれが怒らうとむづからうと、謀叛を企もうと、關ふな、マクベスは、あの大きなバーナムの森がダンシネーンの高い丘の上へ、攻寄せて來ないうちは戰に負けるといふことはないから。』と叫ぶ。こゝに於てマクベスは有頂天にならざるを得なかつた。何となれば、バーナムの森が移動するといふことは、絕對に不可能なことであるからである。たゞしかし、氣にかゝるのは王位の問題であつた。彼は果してバンコーの子孫がこの國に君臨するものかゞ聞きたかつた。然し、幻像はそれに答へなかつた。その代りに、王の服裝をした八人のものが徐《しづ》かに列をなしてあらはれ、最後の一人が手に鏡を携へ、その後にバンコーの幽靈があらはれた。『中には玉を二つ、笏を三本持つて居るのが見える。あゝ怖しい現象だ!……ぢや、いよいよさうだな、血みどろのバンコーが此方《こちら》を向いて、にやにや笑つて己の子孫だといふらしく指ざしをして居る。……』卽ち、彼の心配が、そのまゝ幻覺となつてあらはれたのであつた。丁度、そこへ、洞窟の外に居たレノツクスがはいつて來て幻覺は忽然として消え、レノツクスはマクダフがイングランドに逃亡したことを知らせるのである。

 これをきいたマクベスは大に怒り、マクダフの居城を襲つて、罪のない妻子を殺さうと決心した。

かくて、遂にマクベスは殺人鬼になり終り、癲癇患者特有の血を見るための犯罪が決意されたのである。さうして遂に戰慄すべき虐殺が行はれた。而もそれは暴君の常套手段である暗殺によつて遂げられたのである。

 いよいよマクダフは叛旗を飜へしてマクベスを攻めに來りこゝに天下分け目の戰が始まつた。その時マクベスは、再び、劇の最初に見られたやうな大將軍となつてあらはれるのである。ことに自分が人力によつては傷つけられぬといふ信念が、强く彼を支配した。然し、それと同時に、多くの英雄に見られるごとく、彼が自分の生涯を振りかへつて見ると、寂しさはひしひしと迫つた。『予は最《も》う末路だ。予の生《うまれ》の春は、最早《もうはや》黃葉《くわうえふ》となつて凋落する秋に入つた。しかも老年に伴ふ筈の名譽も、愛敬も、柔順も、信友の群も、予には到底得られる望はなくつて、其代りに、聲は低いが根深い呪咀や口先だけの尊敬や追從《ついしよう》が附𢌞つて居る。』

 が、然し、彼は飽くまでその勇敢な氣象を失はなかつた。『此肉が骨から削り取られてしまふまでは戰ふぞ。甲冑をよこせ。』と叫ぶ。其處へ醫師が來て、マクベス夫人の病氣の容態について報《しら》せる。マクベス夫人の病氣についてよく知つて居た。その病氣は彼の惱んだものと同じであつた。たゞマクベスは夫人より身體が丈夫であつたゝめに抵抗することが出來たのである。醫師が、夫人について、『御病氣よりも神經作用で御覽遊ばされまする幻影の爲にお惱みで、お休み遊ばしません。』といふと、彼は、『それを治してやつてくれ。汝は病んで居る心を介抱して、其記憶から根深い愁を拔去り、腦髓に記錄してある苦痛を擦消《すりけ》し、何か快い忘れ藥で以て、心が、一ぱいに壓へ附けられて、今にも破裂しそうになつて居るのを、晴々と透いてしまふやうにしてやることは出來んか?』といふ。いづれにしても彼は夫人の病氣が可なりに氣になつた。さうして敵の攻擊を待ち受けて居る時に、夫人が死んだことを報ぜられると、その驚きははげしかつた。『やがて死なねばならなかつたのだ。いつかは一度然ういふ知らせを聞くべきであつた。』と喟然《きぜん》として[やぶちゃん注:「溜め息をついて」の意。]歎息する。夫人は突然不自然な死に方をするのであるが、それに對して彼はもうとくに覺悟して居た。さうして、夫人が彼を今のやうな運命に導いたことに不平をいふことなく、『やがて死なねばならなかつた。』といふ愛情のこもつた言葉を發したのである。同時に彼は、人間の榮華の束の間なるを思つて、『人生は步いてゐる影たるに過ぎん、只一時舞臺の上で、ざつくりばつたりをやつて、やがて最早噂もされなくなる慘《みじめ》な俳優だ、白痴《ばか》が話す話だ、騷ぎも意氣込みも甚《えら》いが、たわいもないものだ……』と呟くのであつた。

 そこへさして、使者は、バーナムの森がこちらへ動き出して來たと告げる。それは實はマルコム卽ちダンカンの王子が兵士たちに、森の木の枝を折つて、それをかざして進ませたためであつた。然しマクベスははじめて妖婆の豫言が二重の意義を持つて居たことに氣附居た。そこで彼はもはやこれ迄と、死に物狂いひに戰ひ、ぱつたりとマクダフに出會つた。マクベスは彼を避けようとしたがマクダフは直らに劍を拔いて切りかゝる。二人の戰は始まる。マクベスは女に生み落された男の手では自分は死なんと豪語する。すると意外にもマクダフは、自分が、『母の腹を裂いて生れる前に取り出された人間』である旨を告げる。マクベスは愕然とする。さうして今迄の自負心をすつかりなくして、マクダフのために斬り殺され、この一大悲劇は終るのである。

 

        十一

 以上の如く觀察して來ると、マクベスの性格の發展に、從來認められたやうな矛盾は少しも認めることが出來ぬのである。換言すれば彼を癲癇患者と見倣すとき、戰場に於ける勇ましい行動と、幻覺になやむ臆病な點を、少しの撞着もなく受け容れることが出來るのである。だからマクベスに扮裝する俳優は沙翁の書き下したその儘を忠實に演ずればそれでよいのである。手心を加へると其處に却つて多くのスキが發生し、折角の完璧を滅茶々々に傷けることになる。

 さて次に、マクベス夫人の性格に就て考へて見るに、なほ二三の特種な點が發見せられるのである。彼女は王妃としての役割を、マクベスよりも多くの威嚴をもつて演ずることが出來た。ことに饗宴の席に於ては、夫人の光彩は一段高かつた。さうしてその場では、彼女のみが主權者を代表した。

 こゝに於て、當然、マクベスとマクベス夫人の性的生活に就て考察する必要が起つて來る。何となれば彼女のさうした性質は、彼女の中に存する男性的分子の然らしめたところであると考へねばならぬからである。そもそも、すべての生物はその原始狀態に於ては所謂『兩性』である。人間の胎兒もその始めは兩性である。だから、すべての人間には男女の兩性が必ず備はつて居るのであつて、從つて男らしき女があり女らしき男のあることがはつきり理解されるのである。マクベス夫人は卽ち男性的女性的分子を多分に持ち合せて居た。彼女の勇氣、彼女の秩序ある行動、彼女の決斷、及び彼女の進取的氣象は、むしろ男性的性質といつてよいものであつた。だからマクベスは、夫人に向つて、その不敵な精神では男の子しか生めまいと言つて居る。

 夫人は、良人に對する愛情からのみ行動したと言はれて居るが、不思議なことに饗宴の場に至るまでは、マクベスに向つての會話の中に愛情の表現が見つからない。マクベスが幾度か愛情を表現したに拘はらず、彼女はたゞ彼の偉大なことのみを說いた。愛情そのものに就て語つたことはあるけれど自分の彼に對する愛情は言ひ表はすことをしなかつた。饗宴の席でマクベスが取り亂したとき、はじめは大に嘲弄したが嘲弄の效を奏せぬことを知つて、遂にやさしい言葉を用ふるに至つたのである。この邊がいかにも男性的分子の表はれであるといへるであらう。

 これに反して、マクベスには女性的分子が多分に存在して居る。彼の心のやさしさと被暗示性の强いことなどその例である。英雄で女性的性格を有つたものは古來決して少なくはなかつた。さうしてマクベスのこの性質は彼と夫人との戀をよく理解せしめるものである。何となれば女性的分子を持つた男子は、男性的分子をもつた女性を求めようとするからである。

 夫人の各種の行動は、夫人のこの生理的根據の然らしめたところであると同時に、また夫人の病理的根據の然らしめたことを見逃がしてはならない。卽ち夫人の行動を病理學的に觀察するとき、夫人は明かにヒステリー患者であつた。『マクベス』劇の一場面に、夫人が夢遊狀態を起すところがあるがそれもあきらかなヒステリーのあらはれである。[やぶちゃん注:第五幕第一場の最初のシークエンスを指す。]

 ヒステリーに特有な發作は、彼女には見られなかつた。然し、夫人がかのダンカン王殺害の翌日、

衆人の前で卒倒したことは、强ち純然たる虛構の動作と見られない。ヒステリー患者が半ば本當に半ば僞つて人事不省に陷ることは醫學的に認められて居るところであつて、沙翁があの場合男まさりな勝氣の夫人を卒倒せしめたことは、夫人が後に至つて段々弱い人間になつて行く徑路を理解させるに極めて有效であつたと謂はねばならない。

 すべてヒステリー患者の行動は、いわゆる精神分析學的に考へて見ると、壓迫された性的希望の代償と見倣すことが出來る。夫人の女としての性的生活は、彼女の中に存する男性的要素のために壓迫され侵害されてしまつた。夫人は自分の男性的な性質をよく自覺して居たから、悲劇の重要な時期にその性質を、無理やりに表面へ引つ張り出して、マクベスの弱々しさを補はうとしたのである。『さアさ怖しい企事《たくみごと》の介添をする精靈共よ、早く來て予《わし》を女でなくしてくれ。』といふ彼女の獨白は明かにその心持ちを語つて居る。さうして彼女にそのやうな行動をさせたものは、押しのけられて居た性的要求から發生した一種のエネルギーに外ならなかつた。

 從つて夫人はあの困難な犯罪を、良人のために喜んで遂行することが出來た。自分の本來の能力以上のことを行おうとする現象はヒステリー患者に屢々見られるところである。彼女は眠つて居るダンカンの姿がわが父に似て居たため、殺すことが出來なかつた。又、兇行の翌日は前に述べたやうに人事不省に陷つた。さうして最後に、ダンカン殺しが良人を幸福にし得ないのみか却つて不幸にしたといふことを知つたとき、遂に精神病にかゝつてしまつたのである。さうして彼女の夢遊狀態が起つたのである。夫人の夢遊中の言葉は、主としてダンカン殺しに於て良人と共に經驗したところのものであつた。然し、それよりもなほ特に目立つことは夫人の覺醒狀態には見られなかつた現象が夢遊中に見られたことである。『こゝにまだ血の臭ひがする。アラビア國中の香料を使つたつて、此小さい手の厭な臭ひは消されさうにない。おう、おう、おう!』と叫ぶ、弱いやさしい感情がこれである。このやさしい本來の感情がヒステリー發作によつて、兇行の夜には外見上極めて冷淡な感情に轉換されて居たのである。然し、それは、彼女の精神的能力以上のことであつた。そうして時がたつに連れ、遂に維持し切れなくなつたのである。同時に、本當の女でありたいといふ性的欲求が、非常な勢で頭をもたげて來たのである。いはゞこの二種の鬪爭の結果が彼女の病氣としてあらはれたのである。だから夫人を冷酷な毒婦と見るのが誤りであると同時に、良人のためには何ごとも犧牲にしようとするやさしい女性と見倣すのもまた誤りである。彼女はその中間に位するのであつて、この兩極端を沙翁は極めて人間的な方法をもつて結びつけたのである。

 沙翁はもとよりヒステリーの最新の學說を知つて居た譯ではない。ヒステリーが女子の性的生活と關係があるといふ昔からの學說ぐらゐはもちろん知つて居たであらうが、ヒステリーの新學說によつて、はじめて夫人の行動が理解し得ることから察すると、沙翁は實に驚嘆すべきメンシエン・ケンネルであつた。夫人が女らしさを呪ひながら、なほ且つ子を產まねばならぬと思つて居たといふ所謂性的鬪爭を、沙翁は遺憾なく描寫することが出來た。

[やぶちゃん注:「メンシエン・ケンネル」本書電子化第一回の小酒井の「はしがき」で注したが、再掲すると、「Menschen kennr」(メンシェン・ケンナァ)で、「人間鑑定家・精神鑑定人」の意であろう。]

 夫人のこの性的鬪爭は夫人の自殺によつて終結を告げた。自殺はヒステリー患者の精神的平衡障害の際に起るものである。第五幕第五場に於て、マクベスと士官のシートン等が軍旗を持つて出て來ると、奧で女らのけたゝましく叫ぶ聲がする。若し夫人が自然的な死に方をしたのならば、そんな大きな泣き聲を發しなかつたであらう。夫人が何で死んだかは一言も述べられてなく、マクベスもまたそれを尋ねなかつたが、彼はもうとくにさうなることを覺悟して居たのである。

 なほ最後に注意すべきことはマクベスと夫人との性的關係である。マクベスは良人であるといふよりも、夫人の情夫と見るべきが至當であつて、夫婦仲は至つてよく子供の生れることを非常に待ち焦れて居た。マクベスは、凡ての癲癇患者に共通であるごとく、その性欲は熾烈であつた。しかも二人の性的親密が、犯罪を重ねるに從つて一層濃厚になつて行つたといふことは頗る興味ある現象である。犯罪と性的生活との關係が、この戯曲に於て極めて明白に描かれてあるのである。

 以上述べ來つたところによつて、私たちはマクベスに、善惡の中間に位する一個の人格を認めることが出來る。中等度の道德線にある人間でも、ほんの一寸したことから犯罪の軌道に入り得るものであるといふことがしみじみと理解される。さうしてこの戯曲に於て犯罪者にもその一面に物やさしい愛情のあり得ることが立派に說明されて居るのである。

[やぶちゃん注:私は大学時代以降、好きな「マクベス」につき、幾つかの評論を読んできたが、恐らく本篇以上に興味深く、しかも、面白く読めたものは一つもなかった。優れたマクベスとマクベス夫人の病跡学と言える。なお、公開当時の認識の限界ではあるが、精神医学者としての小酒井の以上記載の内には、癲癇疾患を呈する患者に対して、やや差別的なニュアンスや、現在は誤った認識が示されている点は批判的に読む必要がある。これは、通り一遍のありがちな差別表現注記なんぞではない。私の小学校時代の親友で、終始一貫して、私を悪餓鬼連中から守って呉れた、癲癇症状を持っていたために、周囲から避けられていた忘れられぬ故芥川忍君を思い出すからである。私の「忘れ得ぬ人々 8 A君」を読まれたい。

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