萩原朔太郎詩集「定本 靑猫」正規表現版 その手は菓子である
その手は菓子である
そのじつにかわゆらしい むつくりとした工合はどうだ
そのまるまるとして菓子のやうにふくらんだ工合はどうだ
指なんかはまことにほつそりとしてしながよく
まるでちひさな靑い魚類のやうで
やさしくそよそよとうごいてゐる樣子はたまらない。
ああ その手の上に接吻(きす)がしたい。
そつくりと口にあてて喰べてしまひたい
なんといふすつきりとした指先のまるみだらう
指と指との間に咲く このふしぎなる花の風情はどうだ
その匂ひは麝香のやうで 薄く汗ばんだ桃の花のやうにみえる。
かくばかりも麗はしくみがきあげた女性の指
すつぽりとしたまつ白のほそながい指
ぴあのの鍵盤をたたく指
針をもて絹をぬふ仕事の指
愛をもとめる肩によりそひながら
わけても感じやすい皮膚のうへに
かるく爪先をふれ
かるく爪でひつかき
かるくしつかりと、押へつけるやうにする指のはたらき
そのぶるぶると身ぶるひをする愛のよろこび はげしく狡猾にくすぐる指
おすましで意地惡のひとさし指
卑怯で快活な小ゆびのいたづら
親指の肌え太つたうつくしさと その暴虐なる野蠻性
ああ そのすべすべと磨きあげたいつぽんの指をおしいただき
すつぽりと口にふくんでしやぶつてゐたい。いつまでたつてもしやぶつてゐたい。
その手の甲はわつぷるのふくらみで
その手の指は氷砂糖のつめたい食慾
ああ この食慾
子供のやうに意地のきたない無恥の食慾。
[やぶちゃん注:「かわゆらしい」はママ。「親指の肌え太つたうつくしさと」はママで、「親指の肥え太つたうつくしさと」の痛い誤植。最初に単行詩集として「靑猫」に載ったものは、
で、初出も掲げてある。次に再録した、
で電子化してある。また、実は本篇初出の続編である(前者の私の注を参照)、
では、そちらの初出や草稿なども読めるようにしてあって、結果して、本篇分初出・「靑猫」版・再録「蝶を夢む」版・本「定本 靑猫」版の四つのヴァージョンに加えて、姉妹篇である「その襟足は魚である」の三ヴァージョン――計七篇を味わえるようになっている。どうぞ、じっくりと、比較されたい。因みに、私は最前者の注で、『私はフェティシズムの極地としてのそれなら、断然、初出を支持する。特に多くの「指」を「ゆび」と平仮名書きしたところに視覚的な舐めるようなそれが実に効果的に現出している。因みに、「定本靑猫」でもやや手を加えて再録しているが、「接吻」に「きす」とルビを振ってみたり、句読点を加えたりという小手先の仕儀がいらいらとして目立ち、五十歳の詩人のフェティシュは、最早、老耄して萎えてしまっていると言わざるを得ない(六十四歳の川端康成が書いた「片腕」の方が遙かに生々として凄いと思う)。何? 「定本靑猫」版を示さないで、どうして批判するかって? いやいや、この〈批判行為〉は正当である。何故なら、冒頭注で述べた通り、朔太郎自身が「定本靑猫」で『此等の詩篇によつて、私を批判しようとする人々や、他の選集に拔粹しようとする人々は、今後すべて必ずこの「定本」によつてもらひたい』と言っているのだから』(中略)。『面倒だから示さぬのではない。改悪によって枯れびしゃってしまって――示すにあまりに哀れ――だから、である。』とぶちかましている。その罵詈雑言を変更謝罪するつもりは全くない。私の憤懣の根っこが、比較されることで、自ずと判って戴けるものと、私は信ずるものである。
なおまた、
「萩原朔太郎詩集 遺珠 小學館刊 遺稿詩篇 手の感傷 / 筑摩版全集の「手の感觸」と同一原稿と推定(但し、順列に有意な異同が認められる)」
を電子化した際、その草稿として筑摩版全集の「未發表詩篇」の「女の手の感觸」を注で電子化したが、同全集は後の差し込みで、それが「その手は菓子である」の草稿と同一であることから、校訂本文も原型総て削除する、と指示があった。折角、電子化して整序版もオリジナルに作って示したので、そちらに載せてあるから、是非、見られたい。それが本篇の草稿である。 ]
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