譚海 卷之四 下野日光山參詣道幷大谷・ゆづる・岩船等の事 附日光山萬の行者の事
○下野日光山へ行んには、宇都宮よりは少しまはり也。日光よりうつの宮へ出るまでは朝日を右に見て出るゆゑ、北にむかひていづると覺えたれば、少し奧のかたへよりたる道としらる。佐野をへて大谷(おほや)[やぶちゃん注:これは底本のルビ。]の觀音ゆづる(山)[やぶちゃん注:これは底本編者武内利美氏の補注と思われる。]岩ぶねなどに詣て、おほや越をして行が順よろし。宇都宮より行よりは二三里もちかし。然れども此三四が所順禮の心なくば、大谷ごえは山蹊の際道けはし、且暴雨には山川出水はやし。又中禪寺參詣は十月迄也、十月以後は雪ふりて禪定なりがたし。うら見の瀧は瀧のうらを見る事ゆゑ名付たれども、瀧のうら道苔なめらかに水つねにかわかず、岩かどすべりて甚だあやうし、中々瀧の裏見る事にあらずとぞ。又中禪寺より奧の院へ行際、谷より谷へ大松一本はひかゝりてあるを道とせり。萬の行者往來の所にして、此松の枝を踏でかよふ事也。外に窮谷にて道なしとぞ。
[やぶちゃん注:「萬の行者」不詳。国立国会図書館デジタルコレクションの別刊本・写本ともに「萬」である「よろづのぎやうじや」と読んでおくが、実は私はこれは修験道の開祖である「役(えん)の行者」の音を「まん」に違えたものではないかと疑っている。日光山輪王寺の行者堂には「役小角(えんのおづぬ)」が祀られているからであり、修験道では、彼は今も生きていると考えるものと信ずるからである。
「大谷」「大谷觀音」大谷石で知られる栃木県宇都宮市大谷町にある、天台宗の岩窟寺院である天開山千手院大谷寺(おおやじ:グーグル・マップ・データ。以下同じ)。本尊は千手観音。大谷石凝灰岩層の洞穴内に堂宇を配する日本屈指の洞窟寺院で、凝灰岩の岩壁に彫られた丈六(約四・五メートル)の千手観音は、「大谷観音」の名で知られる。当該ウィキによれば、『当寺周辺には縄文時代の人の生活の痕跡が認められること(大谷岩陰遺跡)、また弘仁元年』(八一〇)年)『に空海が千手観音を刻んでこの寺を開いたとの伝承が残ることなどから、定かではない』ものの、『千手観音が造立された平安時代中期には』、『周辺住民等の信仰の地となっていたものと推定されて』おり、『平安末期には現代に残される主要な磨崖仏の造立がほぼ完了し、鎌倉時代初期には鎌倉幕府によって坂東三十三箇所の一に定められたものと推定されている』。『江戸時代に入って、奥平忠昌が宇都宮城第』二十九『代城主に再封された後の元和年間』(一六一五年~一六二四年)に、『慈眼大師天海の弟子であった伝海が藩主忠昌の援助を得て堂宇を再建した。天海僧正は天文年間に宇都宮城下の粉河寺で修行した経歴を有しており、徳川幕府が擁立された後、徳川家康と代々の将軍家の援助により上野寛永寺を建立したほか、日光山貫主として堂宇再建を行っている』とあり、日光参詣には親和性のある寺なのである。
「ゆづる」「いづる」栃木県栃木市出流町(いづるまち)にある真言宗出流山(いずるさん)満願寺(出流観音)のこと。天平神護元(七六五)年、勝道上人創建と伝える。弘仁一一(八二〇)年には、空海が勝道上人の徳を慕って参詣し、その折りに当山の銘木で千手観世音菩薩を造立したとされる。
「中禪寺」現在の日光山輪王寺。
「うら見の瀧」ここ。
「奧の院」現在の日光東照宮奥社拝殿のこと。奥社自体には歴代将軍以外には立ち入ることは出来なかった。]