萩原朔太郎詩集「純情小曲集」正規表現版 蟻地獄
蟻地獄
ありぢごくは蟻をとらへんとて
おとし穴の底にひそみかくれぬ
ありぢごくの貪婪(たんらん)の瞳(ひとみ)に
かげろふはちらりちらりと燃えてあさましや。
ほろほろと砂のくづれ落つるひびきに
ありぢごくはおどろきて隱れ家をはしりいづれば
なにかしらねどうす紅く長きものが走りて居たりき。
ありぢごくの黑い手脚に
かんかんと日の照りつける夏の日のまつぴるま
あるかなきかの蟲けらの落す淚は
草の葉のうへに光りて消えゆけり。
あとかたもなく消えゆけり。
[やぶちゃん注:「蟻地獄」昆虫綱内翅上目アミメカゲロウ目ウスバカゲロウ上科ウスバカゲロウ科 Myrmeleontidae に属する一部の種の幼生であるアリジゴクのこと。なお、ウスバカゲロウ類の総てがアリジゴク幼生を経る訳ではないので注意されたい。また、四行目の「かげろふ」は「陽炎」であるが、朔太郎はアリジゴクがカゲロウの幼虫だと誤認してここに「かげろふ」のシーンを洒落たものと思われる。旧翅下綱 Ephemeropteroidea 上目蜉蝣(カゲロウ)目 Ephemeroptera のカゲロウ類の幼虫は水棲である。詳しく知りたい方は「生物學講話 丘淺次郎 第十九章 個體の死(4) 三 壽 命」の私の『「かげろふ」の幼蟲は二年もかかつて水中で生長する』の注を参照されたい。私の蜉蝣類解説の決定版である(かなり長いのでご覚悟あれ)。
「うす紅く長きもの」一般的に考えるなら、穴に潜ろうとするミミズであろうが、例えば、アリジゴクを捕食する可能性のある動物として考えるならば、ミミズは外れ、扁形動物門有棒状体綱三岐腸目結合三岐腸亜目チジョウセイウズムシ上科リクウズムシ科コウガイビル亜科 Bipaliinae のコウガイビル(笄蛭)の一種が、俄然、候補に挙がってくると私は思う。山でオレンジや薄い赤色を呈した種をよく見かけた。
初出は大正二(一九一三)年八月号『創作』。標題は「ありじごく」とひらがな書き。以下に示す。「かげらふ」はママ。
*
ありじごく
ありぢごくは蟻をとらへんとて、
おとし穴の底にひそみかくれぬ。
ありぢごくの貪慾の瞳に
かげらふはちらりちらりと燃えてあさましや
ほろほろと砂のくづれ落つるひゞきに
ありぢごくはおどろきて隱れ家をはしり出づれば、何かしらねどうす紅く長きものが走りて
居たりき
ありぢごくの黑い手脚に
かんかんと日の照りつける夏の日のまつぴるま
あるかなきかの虫けらの落す淚は
草の葉のうへに光りて消え行けり………
あとかたもなく消えゆけり。
*
「ありぢごくはおどろきて隱れ家をはしり出づれば、何かしらねどうす紅く長きものが走りて/居たりき」の部分は何か分節がおかしい。誤植の可能性が疑われる。
また、筑摩版全集の草稿ノート「習作集第八卷(愛憐詩篇ノート)」に草稿がある。以下に示す。「かげらふ」「消へ」はママ。
*
ありじごく
ありぢごくは蟻をとらへんとて
おとし穴の底にひそみかくれぬ
ありぢごくの貪慾の瞳に
かげらふはちらりちらりともえてあさましや
ほろほろと砂のくづれ落つるひゞきに
ありぢごくは驚きて隱れ家をはしり出づれば
なにかしらねどうす紅く長きものが馳りて居たりき
ありぢごくの黑い手足に
かんかんと日の照りつける夏の日のまつぴるま
あるかなきかの蟲けらのおとす淚は
草の葉のうへに光りて消へ行けり……
あとかたもなく消えゆけり、
*]
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