第一書房版「萩原朔太郞詩集」(初収録詩篇二十一篇分その他)正規表現版 「靑猫(以後)」 大砲を擊つ
大砲を擊つ
わたしはびらびらした外套をきて
草むらの中から大砲をひきだしてゐる。
なにを擊たうといふでもない
わたしのはらわたのなかに火藥をつめ
ひきがへるのやうにむつくりとふくれてゐよう。
さうしてほら貝みたいな瞳(め)だまをひらき
まつ靑な顏をして
かうばうたる海や陸地をながめてゐるのさ。
この邊のやつらにつきあひもなく
どうせろくでもない貝肉の化物ぐらゐに見えるだらうよ。
のらくら息子のわたしの部屋には
春さきののどかな光もささず
陰鬱な寢床のなかにごろごろとねころんでゐる。
わたしをののしりわらふ世間のこゑごゑ
だれひとりきてなぐさめてくれるものもなく
やさしい婦人のうたごゑもきこえはしない。
それゆゑわたしの瞳(め)だまはますますひらいて
へんにとうめいなる硝子玉になつてしまつた。
なにを喰べようといふでもない
妄想のはらわたに火藥をつめこみ
さびしい野原に古ぼけた大砲をひきずりだして
どおぼん どおぼんとうつてゐようよ。
[やぶちゃん注:「かうばうたる」これには不審がある。筑摩版全集本文はこれをそのまま「かうばうたる」として例の絶対強制消毒を施していない。私は一読、見渡す限り、「ただ広々としているさま」を言う、現代仮名遣「こうぼう」、則ち、「廣茫」「曠茫」以外を想起出来なかったが、この歴史的仮名遣は「くわうばう」だからである。別な熟語でしっくりくるとすれば、「荒れ果てるさま」を言う「荒亡」「荒茫」だろうが、これも如何せん、同じく「くわうばう」である。試みに歴史的仮名遣で「かうばう」なる熟語を知べて見たが、「好望」ぐらいなものか。しかしこれは見て通りの文字面から判る通り、「将来によい見込みがあること」の意であって、候補たり得ない。しかし、これは実は同全集が掲げる、完全しない不全な「凡例」の逃げなのである。そこには『次のような場合、原文のままとした。』とし、その第二項で、『2 音象的表現』とし、『例 ひようひよう、かうばう、はうはうぼうぼう、等』とある奴だ。しかし、これはそんなオノマトペイア的な朔太郎独自の擬音表現なんぞでは、ない! 歴史的仮名遣の誤りとして敢然と例の特殊班によって、「くわうばうたる」と消毒されるべきだったと断ずるものだ。筑摩版全集校訂本文のやり方は、結局、徹底は不可能なのだ。オール・オア・ナッシング! 同全集では、萩原朔太郎の「詩人の榮光」は、同時に必ずや、「詩人の内なる致命的憂鬱」でもあるのである。
「喰べよう」この「たべよう」にかく漢字を当てたことには、巻末(本詩集部分電子化注の最後に電子化する)の「校正について」でその正当性(確信犯)に関して言及されてある。
初出は大正一二(一九二三)年六月号『新潮』。歴史的仮名遣の誤り(五行目「ゐやう」・十行目「ぐらい」・最後から四行目「喰べやう」・同二行目「ひきづり」・最終行行末「ゐやうよ」)と、最終行の最初の「どおぼん」の後に読点を挿入している以外には異同がないが、今まで総て示しているので、以下に示す。
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大砲を擊つ
わたしはびらびらした外套をきて
草むらの中から大砲をひきだしてゐる。
なにを擊たうといふでもない
わたしのはらわたのなかに火藥をつめ
ひきがへるのやうにむつくりとふくれてゐやう。
さうしてほら貝みたいな瞳(め)だまをひらき
まつ靑な顏をして
かうばうたる海や陸地をながめてゐるのさ。
この邊のやつらにつきあひもなく
どうせろくでもない貝肉の化物ぐらいに見えるだらうよ。
のらくら息子のわたしの部屋には
春さきののどかな光もささず
陰鬱な寢床のなかにごろごろとねころんでゐる。
わたしをののしりわらふ世間のこゑごゑ
だれひとりきてなぐさめてくれるものもなく
やさしい婦人をんなのうたごゑもきこえはしない。
それゆゑわたしの瞳(め)だまはますますひらいて
へんにとうめいなる硝子玉になつてしまつた。
なにを喰べやうといふでもない
妄想のはらわたに火藥をつめこみ
さびしい野原に古ぼけた大砲をひきづりだして
どおぼん、どおぼんとうつてゐやうよ。
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