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2022/01/09

浅井了意「狗張子」電子化注始動 / 序(二種)・卷之一 三保の仙境

 

[やぶちゃん注:「伽婢子」の全電子化注完遂に続いて、同じ真宗僧浅井了意の手になる「伽婢子」の続編「狗張子」の全電子化注に入る。「伽婢子」を独立単発カテゴリとしたので、同じく新たに『浅井了意「狗張子」』のブログ・カテゴリを作って始めることとする。

 「狗張子(いぬはりこ)」は、上記寛文六(一六六六)年に板行された仮名草子怪奇談集「伽婢子」の続編として、自序(クレジットは元禄三(一六九〇)年二月二十三日)を含め。第七巻第六話まで本文四十五篇を書き上げていたものの、元禄四(一六九一)年の元日(一六九一年一月二十九日)に病没した(享年は八十前後。なお、了意はもっと書き続ける予定であったというから、本書は未完である)。本書は、その遺稿を、京の書肆の主人であった文会堂林九兵衛が翌元禄五年一月に刊行したものである。第一の「序」を記している署名「義端(ぎたん)」なる人物は、実は九兵衛の号で、林(?~正徳元(一七一一)年)は町人であったが、儒学者・浮世草子作家として知られ、儒学は伊藤仁斎の門下として著名であり、怪異小説集「玉櫛笥」・「玉箒木」の著者としてもとみに知られる。さて、本「狗張子」は前作「伽婢子」と全く同様に、中国の伝奇・志怪小説を素材としており、特に「剪燈新話」や「剪燈餘話」を主な種本としているものの、「伽婢子」との重複は努めて避けるようにしている模様である。但し、私は「伽婢子」での電子化注と同じく、種本への言及は、基本、しない。

 底本は「伽婢子」と同じく、所持する昭和二(一九二七)年刊の日本名著全集刊行會編になる同全集の第一期の「江戶文藝之部」の第十巻である「怪談名作集」(正字正仮名)に拠ったが、不審な箇所は早稲田大学図書館「古典総合データベース」の同初版原本、及び、国立国会図書館デジタルコレクションの「近代日本文学大系 第十三卷」(昭和四(一九二九)年国民図書刊)所収のものと校合した。但し、読みは、より多く附されてある早稲田大学図書館「古典総合データベース」を参考に附した。それらの孰れかの読みは通常の( )で示し、その孰れにもないか、あっても、歴史的仮名遣が誤っている場合は、私が推定で《 》で附した。一部は読みを送り仮名に出して、読みを附さなくてもよいようにしてある(そこは五月蠅くなるだけなので、一々、断りは入れない)。但し、必要と認めない読みは省略している。更に、読み易さを考えて、段落を成形し、句読点や記号も追加・変更を加えてある。踊り字「〱」「〲」は正字化した(これも「伽婢子」と全く同じである)。また、所持する一九八〇年現代思潮社刊の「古典文庫」の「狗張子」(神郡周校注。但し、気持ちの悪い現代仮名遣変更版)も参考にした。なお、「伽婢子」と同様に、加工データとして上智大学木越研究室作成になる電子データを使用させて貰った(こちらは「伽婢子」と異なり、かなり不全ではあるが、一部、正字化がされてある。しかし、失礼乍ら、二、三篇をざっと見ても、既に幾つもの、どう考えてみても誤判読・誤植としか思えない致命的な箇所が複数ある)。]

 

 

   狗波利子

 

[やぶちゃん注:底本の当該パート最初の影印標題ページの表記である。以下の早稲田大学図書館「古典総合データベース」版にはない。そちらの例えば、題箋は「いぬはりこ」で平仮名表記である。但し、本文内巻標題は一貫して、この「狗波利子」である。

 以下、以上に述べた巻頭の義端の筆になる「序」。底本では影印画像が大きく載り、その上欄外に小さく活字化されてある。最初なので、早稲田大学図書館「古典総合データベース」版の第一巻(全・PDF)をリンクさせておく。底本では二種の序本文はベタで続いている。]

 

「狗張子」序

 洛陽本性寺(ほんしやうじ)の了意大德(たいとく)は、きはめて博識强記にして特(こと)に文思(ぶんし)の才(ざえ)に冨(とめ)り。生平(せいへい)の著述、はなはだ多し。

 晚年に及んで、筆力、ますます、老健(らうけん)なり。去年(きよねん)庚午(かうご)の春、往(さき)に編集せる「伽婢子(おとぎはうこ)」の遺(おと)せるを拾ひ、漏(もれ)たるを搜(さぐ)りて、「狗張子」若干卷(そこばくまき)を作り、その續集に擬(なずらへ)んとす。

 其の年の冬に至り、既に七卷を撰び輯(あつ)む。

 翌年辛未(しんび)の元旦、意(はか)らざるに、遽然(きよぜん)として寂を示す。

 都鄙(とひ)、驚歎して、深く、その才(ざえ)を惜しむ。

 顧(おもふ)に、凡そ、人の常情(じやうじやう)、その德義を哀慕すといへども、幽明、途(みち)、殊(こと)にして、復た、みるべからざれば、かならず、その生平の文字(もんじ)・筆墨を尋ねて、面晤(めんご)に換ふるのみ。

 それ、此の書は、了意大德、晚年、思ひを究め、精を硏(みか)きて、筆作(ひつさく)せる眞跡にして、是れ、實(まこと)に、大德、遺訓(いきん)の形見(かたみ)なるをや。

 是の故に、今、その眞跡、一字(いちじ)もあらためず、梓(あづさ)にちりばめ、世に行なふ。

 凡、此書の作、みな、本朝の奇事、近代の異聞、その文詞(ぶんし)の冨華(ふけ)に、旨趣(ししゆ)の深奧(しんおう)なる、讀むもの、細かに翫(もてあそ)ばゝ、唯(ただ)、其の見聞を廣《ひろう》し、談話を資(たすく)るのみにあらず、兼て、勸善懲惡の益(ゑき)あらん、といふ。

  元祿四年辛未十一月日 義端謹序

          (落款)(落款)

[やぶちゃん注:「本性寺」は「本照寺」が正しく、しかもこの寺は、彼の生まれた大坂三島江(現在の大阪府高槻市)にあった父が住職を務めていた真宗寺の名であり、さらに都合の悪いことに、叔父が出奔事件を起こし、父も連座で宗門追放され、この寺を追い出され、父ともども、浪々の身となったのであった。了意は江戸にいたこともあるようだが、概ね、大坂・京都に住み、延宝(一六七三年~一六八一年)の初年頃には、京都二条菊本町正願寺の二世住職となっているので、これは彼が名乗りとしていた一つの「本性寺昭儀坊了意」の略に「洛陽」=「京の都の」という頭を附したに過ぎない通称であって、「京都にある本性寺という寺の僧了意」の意ではないので、注意が必要であろう。にしても、――父が追放された寺を通称に冠して名乗っていた辺りには、彼は同じ真宗僧となったのであるから怨みとは言わぬまでも――忘れ難い強いトラウマのような思いが込められてあるように私には思われる。同日午後一時追記】てなことを、今朝は判ったように書いたのだが、その後、ネットで入手した江本裕氏の論文「『狗張子』注釈(一)」(『大妻女子大学紀要』一九九九年三月発行・「大妻女子大学学術情報リポジトリ」のこちらから同題論文の総て((一)~(五))がダウン・ロード可能)に、『○本性寺 了意が住持していた、洛陽白山通菊本町【現左京区大菊町】にあった真宗東派正願寺内に「紙寺号」として許された寺号。了意が息子の了山に正願寺を譲ったあと』で『用いた号で、了意が筆号によく用いた(野間光辰氏「了意追跡」「近世作家伝攷」所収)。』とあったので、訂正する。この「紙寺号」というのは、江戸中期の真宗教団内に於いて、寺の認可を幕府から受けていないものの、既に木仏や絵像が完備した道場や、取り敢えず寺号をいち早く懇望する道場に対して、同教団内のみに通用するものとして寺号のみを折紙で下付する場合が多くなり、これを「紙寺号」と呼んだと、「福井県史 通史編三」「近世一」の「第五章 宗教と文化 第二節 越前の真宗」の「三 真宗諸末寺の動向」にある「道場の寺院化と新寺建立の禁止」にあった。とんだ思い違いだったので、自戒のために削除線を附して誤りは残しておくこととする。

「去年庚午」元禄三(一六九〇)年。

「遽然」俄かに。突然。

「面晤」直に面会すること。

 最後の二つの落款はPDF4コマ目右丁にある。「林九成印」の陰刻と、「文會堂」の陽刻。

 以下、「目錄」が続く(PDFで4左丁から7コマ目)が、これは総ての電子化が終わった後に附す。

 以下、了意自身の自序。]

 

 

「狗波利子」序

 あめつち、ひらけ始まりしより、このかた、人、その中(なか)に生まれて、時、うつり、年、あらたまり、後(のち)に生まれし人は、わが見ぬ世の事を「昔」といふならし。

 「昔」も、その時は、「今」ぞかし。「今」をすぎて生まれし人は、「今」をもまた、「昔」といふべし。

 「むかし」と「今」と、さらに、かはる所、なし。

 月日星(《つきひ》ほし)のめぐり、雨露(《あめ》つゆ)のうるほひ、山は、たかく、海は、ふかし。松の葉のほそく、蓮(はす)の菜のまろき、鳥・けだもの・昆蟲(はふむし)、色も聲も、水も火(ひ)も、只(ただ)いにしへに、たがふこと、なし。

 久しきをつたふるには、かすかにして、こまやかならず。

 ちかきをつたふるには、正しくして、つまびらかなり。

 をろかなるは、聞(きい)て、まどひ、見ぬを、うたがふ。

 かしこきは、心に、をさめ、本(もと)を、あきらめ、鳥(とり)の跡(あと)にのこして、敎(をしへ)をたれ、いましめとす。

 千代(ちよ)よろず、世にわたりて、絕ゆること、なし。

 されど、ひろきあめがしたに、かたり、うしなひ、しるしのこせる種々(くさぐさ)、かぎり、しられず。

 今、わづかに聞きおぼえし事もあるに、心にのみ、こめて思ふ事、いはぬも、むね、ふくるゝ心ちして、手なれし「狗はりこ」にむかひ、ともし火と、影と、かたりなぐさむも、友とするに、すくなからずや。

 

  元祿三年かのえ午(むま)むつきの十五日

    洛本性寺昭儀坊沙門了意 (落款)(落款)

[やぶちゃん注:「昆蟲(はふむし)」「這ふ蟲」という当て訓。

「鳥の跡にのこして」中国では漢字の起原伝承として、伝説時代の黄帝に仕えていた史官蒼頡(そうけつ)が鳥や獣の足跡の形によって元の動物を推測できるように、文字によって概念を表現できることに気づいたことに由来するという説があり、ここはそれを嗅がせた記載となっている。

「狗張子」江戸時代に成立した郷土玩具。犬は一度に複数頭の子供を生み、出産も、他の動物に比べて軽いことなどから、安産や子供の健康を祈願する御守として用いられた。私は中学二年(富山県高岡市立伏木中学)の鳥羽・鈴鹿・関西の修学旅行の時、土鈴の張子犬を母に買った。ALSで十年前に亡くなった母はずっとそれを大事にして呉れていたのを思い出す。

 最後の落款二種はPDFの9コマ目右丁。「了意」の陰刻と、彼の別号「松雲之印」(陽刻)。]

 

 

狗波利子卷之一

 

   ○三保の仙境

 

Hagoromo

 

 駿河國宇度の郡三保の松原は、地景(ちけい)めでたき名所なり。

 北のかたは、富士のたかね、雲を凌ぎ、空にそびえて、幾千丈とも、知がたし。頂には小々(さゝ)竹、生(おひ)たり。蒸(むし)のぼる煙(けぶり)は、その色、靑く、山の腰より下つかたには、小松のおひて、つねに、綠なり。鹿子まだらに降つむ雪は、春夏ともに、きゆる時、なし。淺間(せんげん)大ぼさつのすみ給ふところ。もろこしよりは、此山を「ほう萊山」と名づくとかや。「萬葉集」山部赤人の歌に、

 ふじのねにふりつむ雪はみなづきの

     もちにけぬればその夜降(ふり)けり

 みなみのかたは、あら海なり。西は、宇度の山、千手觀音の靈地なり。田子の入海(いりうみ)・蘆高(あしたか)山・淸見が關も遠からず。

 釣する海郞(あま)の、夜もすがら、浪をこがせるいさり火の影、岩ねにかかるしら波、尾上(をのへ)にわたるゆふ嵐、汀(みぎは)にあそぶ鴨鳥(かもどり)、水にむれゐるありさま、草むらにすむ蟲の音(ね)までも、とりどりに、あはれなり。

 「新古今集」越前が歌に、

 沖つかぜ夜寒になれや田子の浦

     海士(あま)のもしほ火たきまさるらん

 三保の松原は、西よりひがしへ、海中にさし出たる事、四十餘町なり。

 古しへ、天女のあまくだりて、羽衣を松の枝にかけてさらしけるを、漁父(すなどり)、これをひろひて、返さゞりければ、天女、ちからなく、すなどりの妻となり、年へてのちに、羽衣を返しければ、天女、よろこびて、いふやう、

「妻となり、夫となるも、さきの世に、少(すこし)の緣(えん)あるゆゑなり。今は、是までなり。我は、天上に歸るべし。」

とて、仙人の道を、こまごまと、をしへて、天女は、雲ぢに、のぼりけり。

 すなどりは、名ごりをしみながら、道をつとめ、おこなひ得て、つひに、仙人となり、富士・足柄のあひだに、行かよひ、猶、今の世までも、折々は、人に、まみゆ。

 よはひも、かたぶかず、かぎりしられぬ命をたもちけると也。

 能因法師が歌に、

 宇度濱にあまの羽衣昔きて

     ふりけん袖やけふのはふり子

と、よみしは、此事なり。

[やぶちゃん注:巻頭話は奇怪な異は殆んど語らず、天女の伝承を通わせて、道行文作りにし(これは私には後代の名編上田秋成の「雨月物語」巻頭の名怪談「白峯」の冒頭のそれに遠く淵源しているようにさえ見える)、最後に仙人譚を添えて、多くを語らず、挿絵で奇譚の口上代りとした、全体に言祝ぎの形をとっている。また、最後に「足柄」を出して、次の第二話「足柄山」に直としてジョイントし、そちらでは「仙人」が語られ、「興津」や「富士」も立て続きに応じ、中程には重要なシークエンスで三保の松原にロケーションして漁師舟体(てい)のものが出てくる。また、「富士」は第三話「富士垢離(ごり)」にダイレクトに繋がれてあって、挿絵で目立つ同じい富士が、読者に対して強い親和性を持たせるようにも考えられてある。短篇乍ら、実はなかなかにしっかりした幻想世界への導入伏線の役割をも複数隠し持っていることも、以下で理解されるであろう。挿絵は底本のものをトリミングし、左右を近接合成して補正した。

「現在の静岡県富士宮市にある駿河国一宮富士山本宮浅間(せんげん)大社のこと。富士山を神体山として祀り、奥宮は富士山山頂にある。本宮本殿は徳川家康による造営で、「浅間造」という独特の神社建築様式である。祭神は富士の女神である木花之佐久夜毘売命(このはなさくやひめのみこと)で、古えより、登山修行(「禅定」と呼ぶ)を行う修験者からの崇敬も厚かった。

「ふじのねにふりつむ雪はみなづきのもちにけぬればその夜降(ふり)けり」巻第三の「不盡山(ふじのやま)を詠める歌一首幷短謌」の短歌(反歌)である(三二〇番)が、第二句は「ふり置(お)く」が正しい。「みなづき」は陰暦六月。「もち」は「十五日」。富士の霊性を、よく視覚的イメージとして捉えている。因みに、この長歌の前に同じ赤人の「不盡山を望める歌一首幷短謌」の短歌(反歌)が(三一八番)が、知られた、

 田子の浦ゆうち出でてみれば眞白にそ

    富士の高嶺に雪は降りける

である。

「宇度の山」現在の静岡県静岡市駿河区と清水区の境界にある有度山(うどやま)のこと(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。標高三百七メートルでその頂きの平坦地が日本平。【追記】但し、後の注の下線部を参照。

「千手觀音の靈地」有度山の北西にある平澤寺は行基菩薩所縁の千手観音を祀る。

「蘆高(あしたか)山」静岡県の東部にある、富士山の南隣りに位置する愛鷹山(あしたかやま)。最高峰は標高千五百四・二メートルの越前岳。

「淸見が關」駿河国庵原郡(現在の静岡県静岡市清水区興津)にあった関所の名称。当該ウィキによれば、『跡碑のある清見寺』(清見興国禅寺。ここ)『の寺伝によると、天武天皇在任中』(六七三年~六八六年)『に設置されたとある。その地は清見潟へ山が突き出た所とあり、海岸に山が迫っているため、東国の敵から駿河の国や京都方面を守る上で』、『格好の場所であったと考えられる。清見寺の創立は、その関舎を守るため』、『近くに小堂宇を建て』、『仏像を安置したのが始まりといわれている』。寛仁四(一〇二〇)年、『上総国から京への旅の途中』、『この地を通った菅原孝標女が』、『後に記した』「更級日記」に『は、「関屋どもあまたありて、海までくぎぬきしたり(番屋が多数あって、海にも柵が設けてあった)」と書かれ、当時は海中にも』、『柵を設置した堅固な関所だったことが伺える』。『その後、清見関に関する記述は』「吾妻鏡」や「平家物語」の『中に散見し、当地付近で合戦もおきたが、鎌倉時代になると、律令制が崩壊し』、『経済基盤を失ったことや、東国の統治が進み軍事目的としての意味が低下したため、関所としての機能は廃れていった』とある。ここでは既に時間も経っており、寧ろ、三保の松原の北方、清水港の北部の清見潟附近をその地として意識していると考えてよかろう。

「越前」嘉陽門院越前(かようもんいんのえちぜん 生没年未詳(建長元(一二四九)年には生存)鎌倉初期に活躍した歌人。伊勢神官大中臣公親の娘。後鳥羽院の母七条院殖子・後鳥羽院皇女嘉陽門院礼子に仕えた。歌人としては長期に活動したことが判っており、宝治元(一二四七)年に行われた「仙洞十首歌合」では、後嵯峨院の命により二十六人の歌人が十題十首を詠進し、評が付けられたものであるが、この歌合に於いて彼女は、御子左家総帥藤原為家に対して、勝九持(じ)一という異例の圧勝を収めている(「持」は判定し難いドローの意。以上は概ね当該ウィキに拠った)。

「沖つかぜ夜寒になれや田子の浦海士(あま)のもしほ火たきまさるらん」「新古今和歌集」巻第十七「雜歌中」の越前の一首(一六一〇番)、

   *

   百首歌たてまつりし時、海邊

 沖つ風夜寒(よさむ)になれや田子の浦

    海士(あま)の藻鹽火(もしほび)たきまさるらん

   *

旅愁をイメージの映像としてよく映像化しいると私は感じる。

「すなどりは、名ごりをしみながら、道をつとめ、おこなひ得て、つひに、仙人となり、富士・足柄のあひだに、行かよひ、猶、今の世までも、折々は、人に、まみゆ」【同日午後二時追記】羽衣伝承で漁師が仙人になったという話は寡聞にして知らなかったが、スルーしていた。しかし、先の江本氏の論文「『狗張子』注釈(一)」に、この『男の登仙』の『直接の典拠は『本朝神社考』と考えられる。『丙辰紀行』にも関連記事がある』とあったので、国立国会図書館デジタルコレクションで林羅山(道春 天正一一(一五八三)年~明暦三(一六五七)年)の書いた「本朝神社考」(昭和一七(一九四二)年改造社刊:同書は諸国史に徴して、諸国の神社の源流を考証し、併せて霊異・方術にも触れたもの。神儒合一の理を説き、神仏習合を非難した。近世初期の学問的神社研究として神道家・国学者の神祇研究に大きな影響を与え、国学や復古神道の先駆的作品となった)当該部を閲覧、確かにそこには天女が昇天した後、『其の漁人亦登仙すと云ふ』とあった。なお、そこに続いて、「久能山」の条があるのだが、そこに『久能(くのう)山は駿河國有度郡にあり。故に一に有度山と名づく』とあった。了意の漁師の登仙根拠が同書であるなら、ここを見た了意は久能山を有度山と言った可能性は非常に高いように思った。

「能因」(永延二(九八八)年~永承五(一〇五〇)年)又は康平元(一〇五八)年)。藤原長能 (ながよし) に師事して和歌を習い、万寿二(一〇二五) 年には東北地方を旅している。

「宇度濱にあまの羽衣昔きてふりけん袖やけふのはふり子」「能因法師集」の巻下に所収する一首、

   *

   東遊(あづまあそび)を見て

 有度濱に天(あま)の羽衣むかしきて

    ふりけむ袖や今日の祝子(はふりこ)

   *

で、「東遊」は日本伝統歌舞の一つ。「東国地方の歌」の意で、大和地方の「大和歌」に対するもの。宇多天皇の寛平元 (八八九) 年の賀茂臨時祭に於いて、この歌を奉ったのを初めとして、現在でも神武天皇祭、春秋の皇霊祭や諸神社(石清水・加茂・氷川など)の祭りに於いて、宮内庁楽部の楽師や神社所属の楽人によって奏される。曲は「一歌(いちうた)」・「二歌」・「駿河歌」・「求子歌(もとめごうた)」・「大比礼歌(おおびれうた)」の五曲で、それぞれの曲の間に「阿波礼(あわれ)」や「於振(おぶり)」などという短い声楽曲である「歌出」と称する前奏的器楽曲が奏される。句頭(くとう:独唱者)と、付歌(つけうた:斉唱者は二名)によって、次々に歌われ、それを和琴(わごん)・高麗笛(こまぶえ)・篳篥(ひちりき)の楽器(各々一名)が伴奏する。なお、曲の中心を成す「駿河歌」と「求子歌」では、六名の舞人によって舞いが舞われる(以上は「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。また、「後拾遺和歌集」の「卷第二十 雜六」には(一一七二番。「伊與」はママ)、

   *

   式部大輔資業、伊與守にて侍りける時、
   かの國の三島の明神に東遊してたてまつ
   りけるに、よめる、

 有度濱にあまの羽衣むかし來て

     ふりけん袖やけふの祝子

   *

とある。「式部大輔資業」は公卿藤原資業(すけなり 永延二(九八八)年~延久二(一〇七〇)年)。「三島の明神」現在の愛媛県越智郡大三島町宮浦にある大山祇(おおやまづき)神社のこと。「祝子(はふりこ)」は神社の巫女(みこ)のこと。ここはその神楽となった「東遊」を舞っているさまを天女の舞いに重ねたものでやはり視覚的に美しい。了意の序の「今昔論」との親和性も甚だ強く、計算された確信犯の和歌選びであることが判る。]

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